一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート   776

鑑賞レポート    776

 

 

 

フランク・シナトラ

 

その自然な立ち姿と存在感に圧倒されるばかり。こういう人をステージで生きる人間というのだろう。存在感というものは、つくり方があって出てくるものではない。ひとりの人間の内側にあるものが顔つきに、言葉に、行動にあらわれて初めて、まわりの人間が感じるものだと思う。そしてその存在感の裏付けなるものは自信なのだと思う。自分のやってきたことに対する自信、自分への信頼がなければステージに立ち続けること、ましてや人に何かを与えることなどできやしない。シナトラが観客に与えているものは、生きている時間。感動とは生きていることを実感することだと思う。歌をとおして今、生きている喜びを共に味わえる、そんな時間をつくり出している。

 

シナトラだけではなく外国人のオンステージをみて思うことは、話していたと思ったらいつの間にか歌に入っているということ。歌の中で笑い、悲しみ、怒りあらうる感情表現が自由自在にできる。彼が、映画の中でいろいろな役をやることによって人間の持つ、あらゆる感情を表現できるようになったと言っていたが、歌はひとつの役を演じることを考えれば役者と共通しているといえる。

バーブラプレスリーイヴ・モンタンエディット・ピアフも映画の中で多くのことを学んだのだと思う。感情というものをいろんな言葉で形容するけれど本当は言葉などで言いあらわせるものではないと思う。そんな単純でないものをどれだけ深く強く感じたかが歌の中に生きてくるのだろう。

 

シナトラの歌を聴いてもわかるが、どんな歌もしみったれていない。全ての感情を解放して声にのせてゆくから歌がスケールの大きいものになる。声と歌の大きさは明らかに比例していることがわかる。シナトラのように80才になってもアメリカの帝王と言われ歌い続けていることは驚異かもしれないが、そのぐらい長い年月ひとつのことを磨いていこうと思うなら、10年ぐらい基本のことに費やしても何ともないだろう。自分というひとりの人間の成長を第一と考えなければできないことだろうが。ステージは独立したものではなく、客席も含めひとつの空間にならなければ成り立たないと思う。楽しもうと思って足を運んでくる客の期待以上のものを歌い手は与えなければならない。それは突飛なことをするということではなく、全力を尽くすということ。歌い手が自分のやりたいステージをやり、それに魅かれて客が集まってくるのだから、客受けするようなことをやる必要はない。世界中の人間に好かれようとすることは無意味なこと。歌い手は歌で人を魅きつけるわけだが、それ以外のことが歌うことに大きく関わってくる。シナトラのようにトークで聴衆を引き込み自分が一番良い状態で歌えるように持っていくには多くの経験が必要だと思う。真剣勝負を何度もこなしてゆく中で、身につけるしかないと思う。

 

聞いていると思いついたことを次々と言っている気もするが、緊張感を保ちながら笑いをおこすということは、とても難しいことだ。ひとつでも間の抜けたようなことを言えば、その場の空気が一変してしまうだろう。何時間もの間、観客の心を魅きつけておくということがどんなに大変なことか自分のステージを振り返ればよくわかる。表情にしても彼は笑っていない。かといってしかめっ面をしているわけでもない。ステージの上では笑顔もコミュニケーションのひとつとして必要かもしれないが、これ又空気が変わってしまう。心にも姿勢にも一本の芯を通し続けていないと観客に全て伝わってしまうだろう。顔がこわばればその緊張が伝わり緩めば緊迫感がなくなりと、全てステージの上の人間の状態が伝わってしまう。

 

姿勢は本当に大切なこと。その人間の姿勢に心があらわれるというくらい身体はひとりの人間の心を正直に写し出す。そしてこれは今日、明日でできるものではない。強制してやるものではなく日々の意識の持ち方が姿勢に現れてくるといった方がよいかもしれない。みせかけだけではどうにもならないこと。エンターティナーといわれる彼のステージはどこまでもしぜんで隙がなかった。完璧さにこだわれば、きりがないが、そのことにどこまでこだわれるかがステージの質を決めるのだと思う。(黒坂)

 

表現するために常に頭の先から、足の指先まで、神経を張り巡らせていなければいけないんだ。もちろん、内面的なことについても。心が動く音楽を聞いたり、絵などを見たりする。毎日の積み重ね、普段からの習慣にできるように、一歩一歩やっていくことの大切さを教えられた。それから、いろいろなものや言葉に対して、自分のイメージをいろいろな角度から持つことの大切さ。主観的になりすぎない。そして、ひとつひとつ“チャレンジ”イメージを膨らますトレーニングになるということ。“表現”という道を選んだ人は、並大抵なことでないという自覚が身にしみてきた。(これを書いていて)何か、とてつもない大きな世界へ向かおうとしている自分の心の鼓動が大きくドキドキするのを感じている。(無記名)

 

「観客を裏切らない、そういう気根」凄い人だ。生き方が。まずその始まり。自分で自分の人生を切り開いていこうと決心している。なおかつ、その思いを持ち続けている。決心。持続。与えられた人生にグチをこぼさない。そのときできることをやる。やり続ける。歌うことが苦痛になったこともある、という。でも将来を信じた。暴力のただ中にあっても。「何よりも夢があった」という。暴力の中にあって、身の危険にさらされながら、そんな中でも夢を見れる。なぜだろう。自分を信じてる。信じられる自分がある。毎日をできうる限り生きている、といことか。

 

よい仕事をしてきた、と言い切ってる。力の限りの仕事をしてきた、ということだろう。ギリギリ。「声で自己表現することを知った。声でできることは全てやる」。表現手段がたまたま声。初めに表現したいことありき、それを声を使って表現する。「パフォーマー、次にシンガー」。全て自分で決めて、初めて自分の思い通りのことができた、という。思い通りの歌が歌えた、と言わない。なぜ信頼出いるマネージャーに出会えたのだろう。出会えるだけの積み重ねをしたのだろう。

 

デビッド・ボウイ達との共演に関して「…遊んだって感じ」という。そう、子供が遊ぶみたいに純粋に音だけに歌だけに向き合ってるように見える。枠をとってる。自由。彼女自身になってる。自分がよく見えるアングルを知ってる、という。髪・メイク自分でやる、という。全て自分でやる。こうありたいものがある。どうありたいか問うている。そして、ありたいもののための努力を惜しまない。思い、と行動。思いに終わらせない実践。歌うのではなく演じる。自分を注入する、

 

アクター。与えられた才能を認識し、それに甘んじるのではなく、誇りに思いそれに磨きをかける。磨く。育てる。あぐらをかかない。とどまらない。自分を知って、そこからできることを考えて実践する。頭デッカチじゃない。「自分と関係のあることを聞きたがっている」という。そうだろうか。自分の中の何かに置き換えて聴いている。それが関係のあることを聞きたがっている、ということになるか。『行動をおこしたら最後まで自分を信じること』

 

 

 

【アバ】

 

ほとんど聴いたことのある曲で、自然に体が乗っていた。17年ぐらいたっていても古くささを感じさせない作品だった。それは、声、歌い方、リズム、メロディ、アレンジにあくの強さがないからかもしれない。世界でヒットしたということは、世界で認められる普遍的なものを作品に表しているからだと思う。永遠に残るポップスの代表として、これからも愛し続けてゆくであろうし、研究してゆきたい。美しい二人の女性から発せられる宇筑紫声が曲と上手くはまっていた、というより上手くはめている努力があるのだと感じた。

 

楽屋での発声を一声聞くだけですごいと感じたのは、ものすごい基本が身についているからだろう。それと、「ギミー・ギミー・ギミーなどの速い曲では歌声が途切れないようにブレスを非常に速くとって息を流していると感じた。「ダンシング・クイーン」ではライブでも、声が一定してきれいに流れていて、体と息のコントロールのすごさを発見した。声に統一感がある歌は、安定している歌になるため、安心して聴き手は歌(曲)に入っていけるということがわかった。

 

 

 

バルバラ

 

見たことのないピアノの弾き語りのステージが繰り広げられていて、のっけから、その個性に釘付けになった。すごい集中力でもって歌に入っていた、世界に引き寄せられた。ハスキーと一言では絶対に語れない不快いろいろな感情の詰め込まれた魅力のある声。低音がシビれた。フレーズの息での表現が凄く感動させられた。言葉の多い曲ばかりでも、単調にならず、そのもつリズムや、音の置き方、響かせ方でいろいろなことを一曲の中でやっていた。

 

改めて、フレーズに動きと流れがある歌は耳に気持ちよく入ってくることを感じた。一旦引き込んだら決して逃さないというくらいのすごいパワーと集中力のあるステージで、これでもかこれでもかと自分の歌の世界を表現していたようだった。真剣勝負をしている空気感でもあった。シンプルでセンスのよい大人のステージでとても満足感を与えてくれる凄いステージだと感じた。MCの全然ないステージがとても魅力的だった。

 

 

 

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【日本柔道物語】

 

僕は中学、高校と剣道部に入っていたので同じ武道として柔道の厳しさもよくわかる。ビデオの中で山下選手や斉藤選手が「必死に稽古した。」とか「120%稽古して120%試合で出し切る。」といった話をサラリと言っていたが、それがどれ程つらいものか想像するだけでゾッとする。又、彼らは日本のトップに立つレベルの人たちで、僕らからみれば怪物のような存在なんだけれど、オリンピックの試合の前はプレッシャーで震えて眠れなかったという話をしていた。でもそれですごいのはそんなプレッシャーや怪我などを背負って試合に出て勝ってしまうところ。「試合では何も作戦を考えず、今までやったことを必死でぶつければ一瞬チャンスが生まれるはず。そのチャンスを逃さない。」という言葉はそのままヴォーカルにもあてはまる。よくヴォーカルも芸事ということを聞くが、ヴォーカルのトレーニングも武道の稽古と似ていると思う。わずか三分そこらのために毎日必死になって稽古を積み重ねる柔道から学ぶことは多いと感じた。

 

多くの人間が一つのことに関わり守ってきたものがある。自分を磨き鍛えることが全体の向上へとつながってゆく。ひとりひとりの柔道を愛する心があったからこそ守られてきたのだと思う。表舞台に出た人間も裏舞台にいた人間も関係ない。それぞれが自分のできうる最高の仕事をしてきた結果だ。よいものを伝えていこう、さらに向上してゆこうという心の素晴らしさがある。人の命がつながっているように人の仕事も皆、過去から未来へとつながってゆく。そこに心がありさえすれば途絶えることはない。守らなくてはいけないもの、伝えなくてはいけないものは心。ラシュワンが日本で修業し「本当の柔道を伝えてゆこうと思っている」といっていたが何て大きい人間なのかと思った。自分の、自国の柔道ではなく、ただ本物を伝えたいという思いで生きている。そこには自我などなく全体を考えようとする心がある。強くなくてはそんな人間にはなれない。こういう人間のいる場は決してなくならない。よいものを沢山受け継いできたからこそ与えられる。人に与えるほどの人間になるには並の修業では無理だろう。心身共に磨き抜かれた者でなくては。前に出てゆく人間は強いから前にいるのではないと思う。前に出続けることで強くなってゆくのだ。ものすごいプレッシャーや重圧の中で逃げなかったからこそ同じ場にいられるのだと思う。

 

自分にとって形勢不利でもプラスに転じてゆこうとする考え方も必要だ。体調万全ならば実力を発揮できるなんてことはない。実力ある者は、どんな状況だろうと自分の力を出せる気がする。プレッシャーなんて本当嫌なものだし、どんな人間も一度くらい(何度もかもしれない)逃げたいと思うことがあるだろう。でも逃げても同じことなのだ。そして一度逃げたら次からは、2倍恐ろしくなると思う。プレッシャーに打ち勝たなければその先にある喜びには到達できないだろう。

 

山下選手も斉藤選手も自分の目の前にあることに全力でぶつかってきただけだ。自分の思いに迷いがあれば先のことばかり気になるだろう。彼らだって柔道をやり始めた頃には自分たちが日本の柔道界を背負って世界の舞台に出るとは思わなかっただろう。日々の思いの積み重ねが結果でしかないのだと思う。

彼らをみていて成長していける人間とはどういう人間かと考える。目の前の問題から逃げない、自分自身の弱さを否定せず受け入れ、そこからも逃げない。どんな状況でも自分のプラスになることをつかんでゆく。最高の情熱を持って最大の努力をし続ける。それと常に高い目標を設定しながら足元を固めてゆく。そういうことができる人間だと思う。求めるものによって人間の器は限定されてゆく。思っていることがそのままそっくりその人の世界となる。常に自分の枠を決めず大きくなってゆきたい。