レッスン感想 777
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レッスン感想
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レッスン感想
姿勢、口先で言葉を作らないことなど、気をつけて発声をやった。完全ではないけれど、前よりましな発声でやってみると、以前自分が癖をつけてやっていたことがよくわかる。気づかなかったときは、意識が間違っていたので、気づけなかった。気づくには意識を変えないとダメだ。いくら人から癖がついていると言われても私は力まないと、ただ軽いだけの声になってしまうので、今はこれしかしようがない、という意識をなかなか変えられなかった。人の出し方を聴いて、歌として、言葉として、表現として不自然だな、と感じたら自分も同じようなことをやっていた。と気づいた面があるし、人から指摘されて、やっと癖をとろうとすると、声を出すことへの意識の集中が高まり、体は体でも使うべきところはより使われ、使わなくてもよいところ(じゃまになるところ)は使わない、ということになり、ただ軽くなってしまうのではないことがわかった。
とにかく、しっかりした強く大きい声を出そうという段階もあったが、ある程度しっかりした声が出るようになったら、もっと別の意識のところでより集中しないと、その声を表現として使用できるようコントロールすることができないということ。だから、レッスンで自分より声が大きく出ている人がいても、それをそのまま手本にすることは危険だ。大きくても、コントロールできず、癖がついてしまっている人もいる。その癖を、知らず知らずのうちにもらってしまうことがあるような気がする。その人よりベースのないところで癖だけもらったら、どうしようもない。全体的に皆、押さえつけるような声の出し方や、引きずるような歌い方になってしまうのは、そいうことも関係しているかもしれない。
人のを聴いていると、音楽にならない理由がよくわかる。①発声に精一杯で、歌としての流れ、リズムが全て無くなってしまうタイプ。(1音1音すべて体から出そうと力んでしまい硬直状態)②全体的に“気”の抜けている人。ことばも、音の流れも全て雑でつながっていかず、ただやっただけ、という感じの人。ことば、音、表現、何も込めようとしていないので間が抜けてしまう。きっと聴いているときも感じとれず漠然と聴いているんだろう。(ことば、音程の表面だけを聴いている)だいたい、このタイプにわかれるような気がする。自分は両方、少しずつあるような気がする。
「先に進んでいく感覚」というのは「音楽」の基本的な要素だと思うが、なぜかおろそかにしてしまっていた。ピアノでも弾いているところより先に先に意識をもっていかないと、遅れてしまうテンポとは常に進んでいて止められない。間違えても止まるより先に進んだ方がマシであることをピアノのときはよくわかっているのに、歌になると平気で流れを止めてしまうのはおかしいと気づいた。「先に進んでいく感覚」があって、はじめて、そのテンポ感の中でどう動かすかが決まってくる。
書道で手本をなぞろうとしても筆の勢いがなければ字は死んでしまうし、一度とぎれた線を無理につなげようとしてもダメなのとすこし似ていると思った。字を作品にするのは、はじめのひと筆から全ての字の構成が把握できていて、その字の特徴を生かしながら、自分なりの筆づかいで、のびのびと勢いを殺さずに書くこと。呼吸を整え、集中を高めて書きはじめる。あとは集中を切らさず、一気に書くのみ。気が散ってはいけない。手本を見ているようではいけない。
歌で言葉や音程の細部を気にしているようでは一曲を作品としての歌にすることはできない。ただ勢いだけあるだけでなく、そこに力強さとか、のびやかさとか、やわらかさ、とか厳格さとか、楽しさとか、いろいろ表現しなくてはいけないが、それは字の構成、筆づかい(タッチ)に表れてくるものであって、決して完全に筆を止めてしまって何か込められるものではない。何を書くかより、どう書くかで勝負するという点も参考になる、と思った。
上のクラスの方々のを聴いて感じたこと。つまり歌・表現に魂・心が入っていないものは、聴き手に伝わらないということ。入っている人は、ヴィヴィッドである。近親的である。伝えようという熱も感じる。
計算したフレーズをやってみたら、すかさず先生に注意されてしまった。私は相変わらずわかっていなかった。計算してやってみたらフレーズは自分としては、練習の場だから、こういうふうに変えてみよう、という意図を持ってやったことではあった。実際やってみると、自分の呼吸に逆らう心地悪いものであった。Jazzでフェイクするのは、ただ変えりゃあよいというものでも、かっこよさそうならよいというものではなく、必然性があるからするのだ…と、わかっているつもりで、わかっていなかった学べない自分。
自分が立っている場所を、プロとしての舞台にできるかということ。ステージを自分のものにしなくてはいけない。自分の領域に相手(客)を引きずり込む。何を伝え、与えるかということ。その曲を自分だったらどう変えるか、自分をどう出せるか考えて選曲する。自分のステージ、客のできないことをやる。そうしないと人の歌で終わってしまう。ただ歌った、なぞっただけ。何も新しくつけ足したものが無くてはつまらない。歌う意味がない。
今の自分は、その歌が好きというだけで選んでしまっている気がする。その歌に感じたもの、自分なりに受け取ったものをねりこんでOut Putしていかなくてはいけない。その過程の中でこう表現したいけれども声がないとかパワーがないとかが出てくるのだと思う。もっと自分を自分の武器を知らなくてはいけない。
自分の得意分野で勝負する。カール・ルイスが重量上げはやらないだろう。
声で情感を表すこと、イメージは大きくもたなくてはいけない。2倍出そうと思ったら、5倍のイメージ、自分のイメージはまだまだ貧弱。2倍だそうとして2倍のイメージすら描けていないと思う。その人間にどう訴えていたか。何に心を動かされたのかを考える。その本質を取り出して、歌として出していく。それで客を動かす。伝える。与える。言いたいことをどう音で表現するか。音が動き出す線、自分が気持ちよいものを取り出す。音の線、流れは、インストや歌なら自分の知らない言語のほうが感じやすいと思う。
「丸っこい声を出すイメージ」という言葉が胸に残った。声が散漫にちらばっていた。ちからなくばらまいてしまってた。息吐きをしっかりやろう。スケールが小さい。へんにまとめようとしてないか。
4小節ごとに各方向性を打ち出すということ、言われるまで全くわからなかったが解説されるとすごくよくわかる。まあわかりやすい曲を用意してくれたのだと思うが、すごくわかりやすくアダモがやっているのにいざ自分でやってみるとやかりできない。特に次のステップへ移るのに変えたいんだけど、前のフレーズを引きずってヅルヅルいってしまう言葉が①さ②よ③な④らとあったら、①さ②よは前のをひきづって③な④らと次の方向性へと向かおうとする。これが狙ってこうなればよいんだけど、そういう形になってしまう他の人も同じようになっていた人が何人かいたと思う。つまりは、頭で自分のイメージ通りに出せないか、それについていくスピード感覚がない。このスピード、これは今まで息吐きをスタッカートでやってればだんだん鋭くなって追いつくんじゃないかと思ってたが、全く違うような気がする。よくわからない。
他の人のフレーズをきいていると表現しようとしている人の声は前に飛び出てくる。それは声の大小に関係なく。どんな言葉だろうとそこに何かを込めなければだた出しているにすぎない。自分に火を焚つけるのは他人ではなく自分でなくてはだめだ。
フレージングをラララでとるとどうも流れがち。(単語での細かなタメが作れないから。)
日本語詩の場合日本語が「音」で聴こえてくればよい。「言葉」で聴こえてくるより強く「音」で伝わること。まだ、うわっつらでしか受け止められないが、実践の中で言葉以上の実感を得られるよう意識していこう。
線は言葉の基本。しっかり、言葉で、声で表現をする。声での表現をきちんとつければ、そこに感情は表れる。なにもわざとらしい表現をしなくても…。まだまだ不充分ですが、言葉の線、声での表現というものの糸口がみえてきた気がします。これからもっともっと音楽を聞いて深めていこうと思います。また、その見えてきたものを自分の声として発するには、今のままでは自由に動かすことが難しく、はみでてしまいます。そこを今度は、まとめていくときこそ開かず自分の体に戻していくのだということを先生がみせて下さった「出てゆく船を送る私」で感じました。「出てゆく」の「出」で踏み込んでいって、「船を」は「出」より高音なので、ついつい開いてしまいますが、そうではなく、高音だからこそ体を使い、自分の体に戻すことで、深さを感じます。また、イメージを大きく出しておいてそれに体をつけていく。呼吸を大きくとる。とらなきゃいけないことろの音をとる。正しいことを、ひとつひとつきちっと深めてゆくこと。そして、本物の声を聞いて、体の中で何が起きているのか、起きていることを感覚することが必要だ。
先生が“受験勉強の方が、トレーニングよりも楽だ”と言われていた。トレーニングは正しい答え(模範解答)もないし、正しいレールもしかれていないということだと思う。依頼心を捨て、主体的に前進しなければ。
声を出すとあさくなっている。同じ感覚で出せるよう厳しくチェックしていくこと。「このあい(愛)」こーのあい、このーあい、このあーい、このあい。伸ばすところを変えフレーズとしていってみる。はじめの音で深く入れないと途中から深くはいることは難しい。トレーニングのときには「ハイ」と息はきで深くとってから言葉をいってみる方が「このあい」と最後まできちっと言えなければフレーズにしたとき、ヴォリュームダウンしていまう。一音めで息を使いすぎてまとめることができない。
どこにヴォリュームをつけるのか計算をしなくてはならない。ヴォリュームをつけた後、腰回りに力を入れたままなので息も声も続かなくなる。つかむ、離すということはなんとなくわかるがイメージ出からだがバラバラである。50音をむらなく発音できることは大切だが、これを口先ではなくしかもこもらないように前に出してゆくには深く強い息が必要なのだ。とにかく一音をしっかりとお腹からの息で出せること。そこから全てがつながってゆく。深く、強く、長い息。
「姿勢」→「息・呼吸」→「発声」と整えていった。するとさっきまで胸から上だけで響いていた声が今度は身体全体で響いているのを実感することができた!!すごいおどろきだった。感動した。(できて当然なのだろうが)快感だった。「身体が楽器」というのはこういうことか!!
「姿勢を整える」:腰で支える。上半身はリラックス(でも緊張は保つ)身体を開く(イメージ)→「息を吐く」:はじめはゆっくり、じきに一拍ずつ。息の流れ、腹まわりの筋肉の動きを感じる。しっかり吐く。空気が出た途を戻ってくるイメージ。→「声をのせる」:息の流れをしっかりイメージしたまま声をのせてみる。腹まわりの筋肉の緊張を保ちつつ息をコントロールする。着実に身につけたい。ともあれ、常に最低限のどをはずすことは注意をはらうが、声質うんぬんより先に「気持ち」が前へ出るかを問うていきたい。
音程、長さ、音量、ポジション全てに対し丁寧に接していくこと。偶然ではなくやろうとしたことができるようになっていくこと。出だしの音を出す時は、もう最後までのイメージが体の中でできていてつかまえていなければいけない。できなくていいから、正しいことを積み重ねていくこと。声の出だしで、のどの奥がえぐるようなクセがある。のどを使ってしまってもよいので、思いきり出して修正したり、強くなったりするようにしていく。自分の気持ちや情熱の根っことつながる。声に近付いていくこと。
まだ目が、体の奥とつながらないので虚ろだったり、まっすぐ見ることができなかったりしてる。体は燃えていながら、辺りは静かで、もう一人の自分が現れるには、もっともっとつながっていかなきゃ。肩の力を抜いて、飾らず、声をやや下方に向けて、お腹で切れるように支えて、押さえつけるのではなく、バランス感覚で出す。押すよりも支えるのが先。
すべては「感覚」なのだと思った。線を動かすのは、ここはこうしたい、こうなるのだという感覚だし、リズムを感じるのは、流れの中でやっているという感覚。体を使うのも、お腹で支えようとかのどをはずそうとか、息がお腹から出ているなど多くの感覚。それから、伝えようとすること。それは、まずそこに入る。そして本質を変えずに魅力を出していく。「感覚」を伝えるのだ…。
私は、音が全然体の中で回ってなくて、入ってなくてベタベターっとしてしまいます。先生が言われていた「遅れ」です。それから、線を動かしきれずにはみだしてしまう。声もこもりがちで前にとばない。他にもたくさんある問題を克服するのが課題ですが、聞いて感覚し、自分でやってみて感覚し、繰り返すしかありません。
音楽に合わせて、ただ体を動かすだけではなく、いろいろな音を感じて、その掛け合いや、こすれ合いの気持ちよさを感じていくこと。また、「体が動くものは、そういう動きをもっている」という感覚。音に入って、どっぷり浸かったうえで聴けるとよい。底に流れるリズムを自分で感じながら歌ってみるといかに音に入れていないかがわかる。
スティービーの曲はまさにそうだった。本当に音に入れている人は、体を動かすだけであってもその動きがかっこよいと思う。
ふとラジオなどから流れる音楽をどのくらいまで聴きとっているだろう。「プロの耳を持つ」ということは「情感」「リズム」「スピード感」「ふみこみ」などを「感じとれる感覚」を常に研ぎ澄ますということだ。「息」=「声」身体についた声をしっかりと踏まえてフレージング。
先生が、「こういうのは不快に思わなければならない」と、よく悪い見本を見せるとき、おっしゃいます。「こういった歌い方をプロの人がしているから」と口先だけでマネしてしまうこと、心から歌っていないことに対して、私はもっともっと敏感にならなければ、と思います。
(場を)“支配する”(歌の世界にはいる)“主役になる”この2つは実は微妙に違う。同時におこるし、常に相互を生むのだろう。究極的には音楽の精霊がその人間がいけたときに少しおりてきて一緒に踊ってくれるようなイメージが後者だ。(あくまでも例えだが)“自分とそのこと”だけになってしまってはいけないのだが、そこへ行きたいことで精一杯になってしまうと、他は聴き手のことを含めて雑に忘れ去られてしまう。そういうことの下でコントロールできない。一致できない。
音楽はエネルギーで鼓動で呼吸だ。“できない”ことは苦しいことだし、その中で自ら歩くことは大変なことだが、なにか得体のしれない世界の存在を感じながら、ネガティブな苦しみは感じない。ここがまだわかっていないことの証拠なのだが、視覚できない、手でつかめない、その世界に赤い靴をはかされたように向かってゆきたがっている。それに甘えているのだ。それだけで行けるわけがない。覚悟が甘いのだ。大きいとてつもないものだと思えば思えるほど、膨大な夏休みの宿題を前に、ぎりぎりになって昔の日記か何かを読み返しはじめるように逃げに近く甘い。がんばっているようなつもりになっている。他との相対力、今までの自分との比較でそんなつもりにどこかなってやしないか。自分がやらなくてはいけないことの中でどれだけやれているかを毎日もっとストンと見えなくてはいけない。冷静に、残酷に。自分の生きている姿も。冷静な技術とこころ。書いていて死んでしまいたいほどやれてない自分にもっとまずやらせろ。、
つかむところを決めてゆく。いちいちまとめない、おとさない。スピードが遅い。行く。50代のアダモに負けている。集中力/体力→集中の中でゆるめてやらなくてはいけない世界。4つで1つにしてゆく構成。(4で1)×2の構成ができず8つになっていくと聴き手は離れてゆく。→動きをとめず、とまっても集中して、全体を大きなまとまりでとらえ構成してゆく。間のところは特に集中しなくてはならず厳しい。戻ってきたところ、中音部が(上の方はよくても)かえって気が抜けない。上の方は出しやすい。集中しやすい。かえってさせるのに力が必要なのは、声を保ちにくいのは中音部。練習のとき→素振り→打ってみることが必要←本番/フレーズ/表現。そして、あるものをどう使うか、何が足りないのかという判断。なるべく無駄に使わずぎりぎりのところでやる→伝わる。
音色とフレーズ→音色を刻む。スピード、テンション、メリハリの付け方→行きの流れにのっていること。縄跳びの持久練習や自転車こぎのように体力を使って曲自体の持つコイルに無理矢理体をつけてゆこうとすることで終わってしまう。はあはあしてしまう。入れていく中でのみえなさなのか、自分の中に備わっていない、自分にとって不しぜんなものなのか。入れてゆけば不しぜんでなくなるのか。実感としては、声が腹の中からわいてこない。体の中の壁面が硬直している感じがする。息があがる。自分呼吸と折り合いをつけて落ち着こうとすると、一小節ごとに息を戻してやるような感じになる。その調整部分が、私が持っていない“生きた間”の部分への穴埋めになっている。、
一曲込める思いや執念で深めていくということ。深めてゆく過程でその前よりも=αをオンしてゆかなければ進めない。全体のベクトル自体は本質・真理・才能(その人のオリジナル)の方向。問いかけは外に対して→自分の中での次の段階を最終目標にしてはいけない。頭でわかったような気になってもわかっていないと取り出せない。煮詰める。体につける。考えなければできることも考えるとできない。バランスが崩れてしまう。トレーニング過程においても最終イメージをとってゆくこと。その人独自の感覚でつらぬかれた音の世界→煮詰めることの過程で残ってゆく。音の世界→楽器→歌う→声も楽器→定めてゆく(基本を)選んでゆくこと→曲一つ/出だしひとつ。オリジナル曲をとらえ、入れ、余分なところをのぞいた深いところ/本質をみる。感覚のところで深いところに届く。“べき”という言葉で表されるものではない←これをやってしまうと自分も歌も大変になってしまう。やりたいことでやってゆく→解放されること。一生懸命なのはよいが、それが形になってしまい身がなくなってはいけない。取り出すのではなくて作り出す。“曲と歌い手”←作品を組み立ててやるだけの太い脈絡を作る。感覚をみつめ、自分のことをフィードバックする作業が足りない。まわりに問うことによって正されてゆく←“よがり”の部分を正す。共通のポイントをとらえた上で何でつないでゆくか→練習前にこのベースを自分の中に据える。歌えるはずはないのだから、歌えてしまう(と思う)ということ自体ウソがある。煮詰める←勝負/創造的な想い/一行目からとらえてゆく。出す瞬間←今、ないものはない→足りないところでぎりぎり出してゆく。全部満ちるのを待っていたら一生できない→今の条件でやれるはず。歌のバランスはその人の今の呼吸で決まる→体が変わってゆくと変わってゆく部分的完成度を高める。音→言葉を音をあらわすとき言葉の向こうのものが聞こえてくるかどうか。“間”は呼吸を生かしながら。発声ではなく息でコントロールする。“その人”だけに許された呼吸の寸法がある。実際に強弱がついてきこえる時→相当な強弱をつけているということ。柔らかさを持つ←力抜けないと力んで力出てしまう。思いこみの激しさ(全体に及ぶ)→この場で勝負することにかける。その他のものを捨てる勇気。邪魔なことはカットしてゆくことが構成力とセンスでおこなわれる。どう力を使うか→自分を知ること。伝えたいことをまとめ、伝えているという感覚を得る。(後からわかる)“伝えた”という感覚を。、
言葉の詰まっていない、ぐーんとのびるフレーズの中に、言葉にできない想いや味わいをどれだけ込めていけるか、にじみ出せるか。声の深み、幅、ビブラートなどを使うことで音声を拡げていく。作りすぎてはダメ。言葉の少ないフレーズは確かに気持ちを込めやすい。できるだけストレートに、胸の底から出そうとした。だれかの歌を聴くときも、知らずうちにそういう部分に注意を向けていることに気づく。
歌の声(→縦の声)ではなくて生の声(→横に広がる声)になっている。体からちゃんと放出しているのか、勢いの声だけで出しているのか違いを認識すること。言葉と声の関連性を考える。息が出てない、消えてしまいそう。魂が抜けてる。突然歌うことになっても充分にテンションをあげる訓練が必要。集中力。今日出席したメンバーに共通していることは、大きな声が出てしまうので、息・体が充分に使えているのだと意識のどこかで勘違いしてしまっていることだと思う。
くやしさを忘れないこと。同じことを何度も書くな。
閉鎖することにより開放を理解する。停止することにより動きを理解する。歌の中で音の落差をつくり、音楽を発生させる。視聴者参加型音楽番組(イカ天。)に、ヒカシューの巻上公一さんがゲスト審査員として出ていたことがありました。踊りをメインにした参加バンドに、彼が「あんまり踊りすぎたらダメですよ」とコメントしていました。「停止しているダンサーが指先を動かすと、大地震が起きたようなイメージがあるでしょ。」といいつつ例の奇妙な仕草で笑いを取っていましたが、私はずいぶん感心させられました。動き続けているものがさらに大きく動くより、停止しているものがちょっぴり動く方が印象が大きい。どうも歌うときに「声ださなきゃイカン!」などと考えて、最初からでかい声をだしたりしがちです。福島先生がおっしゃっていた「音の落差」を考えて、メリハリつけないと。とはいえ、小さく歌うことで、テンション医事するのは難しいし、そのうえもともと聴かせどころでガーンとだせるほど声量があるわけじゃないから落差といってもたかがしれているしなあ。課題山積みであります。
丁寧に歌っていく。声もフレーズもリズムも雑に取らないこと。歌の中で声のことを考えて「深く取らねば」などと考えない。フレーズについて考えながら歌うべき。発声練習のときも「声が声が」と考えず、音楽をやっているんだという気持ちで取り組みたい。「ハイ」のトレーニングも無造作に数をこなすのではなく、「愉快なハイ」や「哀しいハイ」を考えてやるべきではないのか。私はなまけものなので「ハイでもやるかな」と考えてから実行に移すまでに結構時間がかかります。それで、ハイを始めると今度はだらだら数だけこなしてみたりする。ハイを単なる音ではなく音楽の一部としてとらえて、丁寧に練習すべきですね。って、そんなのあたりまえか。
基準を正しく持つ。歌の終盤まで聴かせる力が大切。作為的な動作ではなく、表現の欲求から自動的に発生する動作が音楽を生み出す。「基準」というのがいつもながら困りものだ。明文化できるものではないし。要するにかっこいいかっこ悪いだけなのだが、自分で自信をもってかっこいいといいきれるかどうかが難しいのだ。福島先生がいつもおっしゃるとおり、いやっていうほどインプットして自分でかっこいいかどうかを取捨選択していくしかない。結局、歌に対する準備は、全て自分の基準(かっこいい)に近づくための作業だということですね。生きていくことも暮らしていくことも、みんなそうか。
歌が前に進んでいく力を考える。声と体が不一致である限り歌はもたつく。力で押すように考えてはいけない。歌そのものが前進していく力を与える。トレーニングの意味を考え直す。漫然とやっても意味がない。何かを表現するために歌があり、歌を自在に歌うためにトレーニングがある。
音楽は架空の世界の構築。言葉から情緒(メロディやフレーズ)、情緒からイマジネーションを紡ぎ出す作業。言葉の形にとらわれすぎない。すべてをきちんと語ろうとせず、切り捨てていくことも必要。特に語尾についてこだわりすぎるとしくじるもとになる。フレーズの末尾はうまくまとめてきちんときること。言葉の在り方にとらわれず自在にフレーズを作り出すことによって、聴き手の情緒に訴えかける。福島先生がよく「時間を操作する」という言葉を使うが、リズムに乗ったまま音楽に感覚的な遅延(あるいは加速)を発生させるということか。音楽が一瞬ためらったりつっこんだりするように感じると確かに心地よい。
聴いていておもしろい歌い手というのは多かれ少なかれこの作業を自然に行なっているのだろう。もともと音楽は時間の経過抜きには考えられない。文章や絵画は創作の結果を表現として提示する。音楽は創作の過程そのものが結果であり表現である。歌い終わってから歌を修正することはできない。現在の音楽は録音という仲介役によって演奏後の調整が一般的に行なわれているが、そおれは「歌う」ということのほんしつからややずれているようにも思える。
「シンプルということについて」いろいろな声をきいているうちにくせのある声は不しぜんだし、不快と思うようになった。単純さに魅かれるのは多くの人に共通したものなのか、私の感覚かはわからない。その単純さというのはデッサンでいえば、何百枚も描いたうえでの一本の線であったりする。習字でも同じことがいえる。繰り返していく中で研ぎ澄まされてゆく心が表にあらわれるのかもしれない。音楽に関してはもっとそぎおとせるだけのものを積み上げていかなければならない。ただそこに立っているだけで輝くようなものになれるだろうか。これは私の大きな大きな夢だ。
テンションも上がって、硬さも取れてきていい感じの空気になっていました。このフレーズまわしの練習はほんの数秒で全てが決まるので、一瞬の集中力を養うよい場だと思います。ここで何も出なければ歌を何曲歌っても何も出てこないことがよくわかります。一曲歌ってしまうとなんとなくやり過ごしてしまうことでもワンフレーズだけならかなり細かいところまでチェックできるので人のフレーズをよく聴いて今のはよかったとか棒読みっぽいとかいろんなことに気づいて、それを自分に当てはめてみることが大事だと思います。そうして自分だけのワンフレーズを全身を使って作り上げていくとき、たかがワンフレーズだけでも伝えるということがどれほど大変なことなのか、そしてそのワンフレーズの連続である歌を一曲歌いきるということの難しさを身をもって知ることができると思います。そして少しでも多くのことに気づいていくことが上達の近道になると思います。
こういう世界ではどこまでいっても基本なんだと思った。浪人時代に私は予備校に通っていた。そこにいた先生が偏差値118くらいのものを出したことがあって、あるとき、誰かがどうやったらそんなにだせるのかと聞いたとき、その先生は、偏差値80までは基本だけで出せるみたいなことを言って私はショックを受けた覚えがある。確か偏差値は70くらい出たらすごいと言われていたような感じで、75くらいあれば一流と言われるところに入れるみたいなふうに言われていたと思う。まあ実際にはそんな数字で表せらせない部分が重要ではあったけれど、それまで70くらいを目指していた自分には、60くらいまでが基本でそこから上は、応用みたいな感覚だったがそれがまちがっていたというか、できている人やわかっている人にはどこまで、基本でしかないということ思い知らされた思い出がある。
歌も他の芸事もわかっている人には限りなく基本でしかなく、それができて最低限のことであって別段すごいことであったり、それができるからすごいというものではないのだ。リズム、音感、声、言葉を一つに一致させ、フレーズ、音色として出すということは応用だと思っていたけど、どこまでも基本、あくまで基本それができてスタートラインなんだと思った。歌は偏差値と違って他人との比較で数がでるわけではないから、直接的な比較はでいないけれど、自分の中で80以上のもの、基本の上に出るものを出していかないと。それが100にも1000にも1万にもなっていくかもしれないから楽しい。
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課題曲レッスン感想
「ル・ネオン」アダモ グレードの高い人も一緒で場の空気が張っていてフレージングを回したときの「声」を聴けたことがよい経験になった。スピード、テンション、メリハリそして集中力、体力これをいかにキープ、コントロールしてステージを創り上げるか。構成力。確かにこの歌を歌っているステージを思い浮かべてみたらアダモは直立不動で歌っているはずがない。このテンションで僕がしっかりフレージングできっとしたらもっともっと身体の内側から動けているはずなんだ。間の集中。集中力で「間」をつなぐ。集中している中で弛緩する。フレーズを放つ瞬間、受ける瞬間のスナップの感覚と呼吸。先生が息がみえる(息づかいを感じられる)と言っていることか。
ジョルジュ・ムスタキは、「歌に隙間を感じない」と思ったことがあった。
昔の忌野清志郎、エレファントカシマシ、セリーヌ・ディオンなど、くりかえし数回フレージングすると考えすぎていく、集中力が減ることで次第に濁っていくのがわかる。
Calling Youのこぶしを入れてみたらリズムも手離してしまった。I am Calling Youのところは言われたとおり深みが足りないし、泳いでしまった。ジョンレノンの声は深み、太さ、幅に欠けると思うが、すごく通る。ツコーン!!と当たってくる。
「Woman」のサビはかなり軽く(力を抜いて)歌っていると思うのだけど、すごく細かい部分まで伝わる。そして本当に愛情が伝わってくる。「I Love You」のフレーズにはものすごく個人差が出ると思った。パヴァロッティが歌ったらもうこってりと包まれてしまうだろうし。ただ、この「I Love You」を歌うときに、事務的に歌うことはありえないということ。そのフレーズは心から、心の奥底から発せられてるか。
最初に先生が上のクラスを流したのを、特に“ルネオン・ルネオン”のを聞いたときなんでこんなにチンタラやってるのを俺らに聞かせるのかと思ったが、いざ自分でやってみたときに、この考えは一変した。全くできない日本人と、いわゆる欧米人とのあいだにできる隙間を感じた。まさにスピードとテンション、そして集中力、圧倒的な差だ。
フレージング大塚博堂「ダスティンホフマンになれなかったよ」で
「テレビの名画劇場でジョンとメリーを観たよ-」のフレーズ
身体もかたいが心もかたく、即座に柔軟に歌に入れない。
「想い」から発せられたフレージングか。
棒読みになっていないか。テレビの均等にしない→(例)テレビの↑
骨格の点をとらえた線を描けているか。
自分のフレーズになっているか。以前からも先生に何度も注意されている点だ。それから
一曲全体の流れの中の一フレーズになっているか。
次の展開への予感のあるフレーズになっているか。
アダモは自分の武器を知りつくしている。絞り込む前に放しておいてやる。くせだらけでも放せているならよい。伝わる、線を動かして、密度が濃くなっていくこと。線にしてゆくこと。均等のスピードでなく、濃い⇔薄い、速い⇔遅い、呼吸によって止まる、などの動きの有機化。体の中で動かすこと。間の動きも息の継続で出す。体をきちんとやってゆけば動いてくる。
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ステージ実習感想
テンション高めるためのサビのフレーズ練習というのはよくわかる気がした。ひきつけるより放り投げる。昼にまだ課題を覚え切れていない自分にショックを受けてソワソワしだして一瞬逃げて帰りたくなった。先生の前振りの話を聞いているうちに気持ちを持ち直して“ステージだぞ”って気になれた。午前中のフレーズの時もみんなテンションだんだん↑だったし沢山声や歌を聞いて最後の講評のときとか場も“気”が入ってたんじゃないかと思うし本当に一つのことしか言ってないなと実感した。私にはまだ言葉が必要なのか軽井沢の時より濃かった勉強になった気がする。家に帰ってきたときテンション高かったのは夏だけど。あそこにずぼっとはまる器なかったし。疑いながらみたいのもあった。こういう場を与えられないと凡人は自分でなかなかできないし、動機も持てないと本当に感じる。私は特に。そういう場に感謝してもいいんじゃないかな(齢がいくと少し感謝することを覚えますよね)。
講座の帰り途、音や言葉も光もいらない、死にたくも生きたくも、浮遊してなくても、漂ってなくてもいいトボトボ歩いてていいって気になった。確認するための用具としての言葉は言い聞かせたときからうそになる様な気がした。そのうちおなかがすいてきたり、眠くなってきて、それから、それから…。気分のムラが激しい私は先生のようにいつも、いつも入り込んでいる人を見て訴求度か自分の甘さ加減を感じた。朝起きて普段の生活があるのでびっくりした。帰りの電車で答えのように感じたことは答えなのか、一瞬なのか、やっぱり酔ってたのか(カッコワル)、きのう声の芯でゆうのなら深くふみこんでたのが、今日常でポジションが少し上がっている。先生の話にはカタルシスを感じるけど、救いなんか求めねえぞ、洗脳なんかされないもんって思った。でも一つことを収めた“人”から学ぶのが、それしかない・言えば言うほどウソになってくるのでやめよう…しらじらしく。なかから戻れねえよ・おばはんになってからの方がたちが悪い。きらい。死ね。たまらん。
今までの中で一番全力を出し切れなかったステージ実習だった。力が残っていた。他の人の歌を聴きながら、「もう一度歌いたい」と思っていた。「チャンスが欲しい」と思った。一度発してしまった歌はやり直せないしとりもどせない。歌う前に気持ちを高めることが充分でなかった。急にステージに上がってしまった感じだ。歌いはじめた時に「アレッ」と思った。何かが違った。
前回のステージ実習の時の感覚と違うのか、それとも普段の自分の練習における感覚と違うのかはわからない。わかったことは歌いながら視線をこれまでになく感じた、ということである。冷たい空気にビビッてしまった。「ここで予定通り歌ったところで通用するのか、今の心の高まりでは単に大声を張り上げているだけにならないだろうか。このままでは声を聞かせるだけになってしまうのではないか。」今思えばそんな感じだろう。とにかく「相手」を感じてビビッてしまった。歌う前に気持ちを高め切ることができなかったからかもしれないし、本当に場の空気が厳しかったのかもしれない。
ステージ実習の前日の夜、ステージ実習で自分が歌っている夢を見た。ステージ実習の場は騒がしく、普通のアマチュアのライブのように客が盛り上げていた。私は自分が歌う前に文句を言った。たぶん「ステージ実習はそんな場ではない。もっと厳しいんだ」というような内容だったと思う。そこまでいって静かにさせた後、私は歌い出した。オーシャンゼリゼのサビにきたが、練習の半分も声が出ない。私は焦った。もう一度サビを歌った。またダメだ。しょうがないので自由曲に入る。歌い出しからこだわってきた歌だ。しかしワンフレーズ歌うと場内が大笑いに包まれる。次のこだわってきた部分でも笑われる。一層騒がしくなったのがサビの部分だ。なぜかと思ったら、次の人が歌いはじめているではないか。しかも福島先生がそうしろと指示を出している。「場の空気を変える」どころか、歌を最後まで聴いてすらもらえない。くやしい気持ちでいるところで目が覚めた。ステージ実習の前にこんな夢をみたのは初めてである。これまでになくいろんなものを歌に詰め込んだつもりだったのでプレッシャーが大きかったのだろうか。プレッシャーをパワーに変えることができなかったのが現実のステージ実習が終わってからの反省である。
他の人に関する感想であるが、②で歌った女の人は良かった。目に力があった。本当によっているようであった。一番が終わった時点でもっと聴きたいと思った。何人かの人によって感じたことであるが、ルックス(姿勢や服)も大事だと思った。自分の歌との関係を考えるべきだ。ギャップでいくのか、歌にルックスを合わせるのか、とにかく考えるべきだろう。
私はいわゆる“日本人の心”というもの自体、否定はしないが表現するのが苦手だったので、いざこの曲を課題として与えられたときにカラオケで歌うのとは違った難しさを感じた。私の性格のせいかもしれない。だが、歌で表現するときには、そういう自分を殺すというより、新しい自分を引き出すことが必要とされることもある。練習では上手くいくときと、いかないときの差が激しく、本番ではとりあえずやるしかない、という感じだった。この曲を通じて私はヴォーカリストでいるということはどういうことか、日本人であるということはどういうことかなどといった課題に取り組んだといえる。演歌が純日本的なものとは思わない。日本における演歌はイタリアのトマトのようなものであると思う。それに文化や芸術なんてそんなものだ。だけどなぜ演歌が日本人の心を表しているといわれ、現実として多くの人の心をとらえるのだろうか。私は洋楽に心をとらえられることの方が多いので、日本人としていろいろ考えてしまった。日本的だとか、そうでないとか、勝手な決めつけみたいなものだって気もする。実際歌ってみて、「曲の雰囲気に合っている」とある人にいわれ驚いた。心に体がついていかず、細かい部分がメチャクチャだった。ただ、サビの部分を意識してAメロに入ることだけを考えていたくらい。私の体のついていけなさ具合は、非道いものがある。外人の前でこの曲を歌うつもりでいたのになぁ…。
なぜステージ実習・ライブ実習が面白くないのか。私は自分のことで精一杯だし、あまり考えたくないが、考えざるを得ないときもある。私は人をどうこうしようとは思わないし、できるとは思わない。だが、この不思議な現象をいつまでも黙ってみている訳にはいかないのである。
一言でいえば、(私自身にもいっているのだが)何も捨てない人が、捨てないことを半ばよしとしてそれを毎月繰り返していることが一番問題なのである。私は、最近拍手もしない。したくないときにするのは嫌だ。単純な話、手放しで感動し、拍手できる歌がほとんどないからだ。いっそのこと拍手なんてその歌に真に感動した人だけがすればよいのではないか。ただし、拍手をする、しないに自分で責任を持たなくてはいけない。きっと戦争なんかよりももっと厳しくて、ステージ実習前夜に自殺したくなるような時間が流れるだろうなぁ…。自分のことを棚に上げていってみました。、
言葉のキレは大事だなと思った。歌を大きくしすぎて限界ギリギリの歌だと聴く側が気を使ってしまう。ライブでは少し余裕を持った方がよいのでは…。力を込めすぎると流れを保つのが難しくなるんだと思う。確かに必ずしも大声で叫んだところが心に残るわけではない。多少つっかえても、詩を間違えても、心のこもった歌は届いてくる。歌にはまって窮屈なひとがいた。歌に引きずられている人もいた。
内輪的なMCは絶対避けるべきだ。幸いなことに、この場に自分をよく知るものはいない。歌から離れたMCは気を散らせるようだ。長いとだれる。歌に近いイメージ、風景が聴く側に浮かべられるのが理想。できるだけ少ない言葉で、広がりのある提案をする(答えは聴く側が出す)。
落語の間に学ぶところが多い。さわりから本題に入る瞬間を全く感じさせない名人がいる。突拍子もないかけ声などで鋭く風景を移している。偶然の連続だった。他の人のステージを観てるうちに、ふとよく見る学生時代の夢を思い出した。「宿題を忘れていく夢」と「体育がプールの日に水着を忘れて見学する夢」。多くの人に共通の感覚にうったえる。偶然歌の主人公の年代に重なった。「せつないです」という言葉は瞬間に選んだが、歌の中の、割とよい部分の「せつなく」につながることができた。期待はしていなかった笑いがおこり、ピアノでの音確認も聴き手のイメージを膨らませるよい間になったと思う。
肝心の歌には、張りつめたものがなかった。少し自分の中で空回りしていた。歌ってる最中に客観的な自分が強くあった。「歌と一体化して感じている」状態ではなかった。一番と二番の心境の違いなど伝わっていないだろう。体力的には使い切れたと思った。後に自分のVTRを観た。表情がない(せめて自然な程度に欲しい)。身体が硬い。動いていない。身体から発するものがない。線が細い。頼りない。存在感というか、安定感がない。MCの言葉遣いももう少し明瞭にする。止めるべきところではキチッと止める。そこに間が生まれる。動くならばしっかり動く。そこで意志が伝わる。
先生の言葉「やりたいことが見える、というのも大事」とはこういうことか…。リズムは二番からズレてきた。テンションの持続、切り替えが甘い。気持ちと身体のフットワークを良くする。この場に立つことはすごく迷った。が、結果的に自分への自信を取り戻す手がかりになった。凄く大きな経験になった。自分が創ろうとしている世界に大きな方向違いは無さそうだな、と確信した。
歌い初めで、加藤登紀子と堀内孝雄を例に出され、すごく悔しかった。真似したつもりはなかったけど、少しソフトにしたいと思ったらああなってしまった。どちらかといえば、村上進さんの影響だと思う。堀内孝雄さんを出されて、とってもイヤだったので、次回は自分のエネルギーを絶対制限しないよう、ダイナミックに歌ってやる。
Jazzを歌った方の体の動きがとても柔らかくて、力んでいないところがよかった。
全身で訴えかけようとするのは、凄いと思った。私は、あそこまで伝えたい気持ちがあったろうか…。伝えたい相手が見えるような彼女の表現だったと思う。私も多分にそうなのだけれど、歌詞を間違う一番の理由は、自分のものになっていないからだと思う。自分のものになっていれば、例え間違えても、とっさに修正できる。意味として伝えられると思う。歌詞が出てこなくて停止してしまうことが全体的に多かったのでは…。言葉の訓練(日本語)。一つの曲が作られた意図についてもっと深く考察する。量的にこなすこと!これが一番!
先生の目・耳・感覚というのは、全く見事に私たちの本質の部分まで見抜いてしまうものだと思いました。聞いているときは、「そうかなぁ…」と、全面的に納得できなくても、あとでじっくりと自分に照らし合わせてみて、自分の言葉でそれを置き換えてみると、ちゃんと自分に一致している…。修業の足りない自分をつくづく感じます。
福島先生のコメントより、・感情表現が単に音量の増減に留まっていないか。・リズムがとらえられているか、リズムをもているか。・メロディは変われども根底にある音楽・想い・リズムは深く脈々と流れるはずだ。・歌を純化させる。・個性、その人の持つ奥行き(深み・厚み・熱)を放っているか。感じさせられたか。・詞が伝わっているか(歌うことで、かえってにごらせていないか)。・身体が動かない。表情も動かない。
男の子でよいことを言っていた人がいた。もう会えないかもしれない人もいるかもしれない。これが最後なんだという気持ちで歌を歌うことの大切さ。その気持ちを私は忘れていた。いつも最後の闘いと思わなければ人は喰われてしまうよな。ほんと、歌って、少しの気持ちがあってこそ歌なんだよなぁ。新鮮なピュアな精神を、彼は思い出させてくれた。
先生が個別にアドバイスをくださるということだったから、後でそのアドバイスを聞いて私も何かものにできるようにと、他の人のステージの投げかけに対して、今日初めて返してみることができたように思う。“なぜこの人はここでこんなふうに歌うんだろう”“この人くらいの声があれば、私はこんなふうに歌うのに”“きっと次はこの人はこう歌うだろう”などと考えながら見ていたら、なかなか参考になることも多いし、楽しめた。
今の自分の体と、それで表現できる範囲を考えたとき、きれいにまとまることはありえない。“ステージなのだから、あれも気をつけて、これもやってみて…”と多くのことを欲張り、中途半端な完成度でのぞみ、結果として残るものがない。もっとステージ実習を実験的なものにしていった方が今の自分にはよいのではないかと思えてきた。
一つひとつのフレーズを大切にみていき研究していく。全体としての構成を考えながらもまたフレーズを練っていく。歌全体をまとめるのではなく、そうした練り合わせの結果まとまってくるという形をとってみた方がよいのかな。と思っている。先生の指摘が、言葉の一つひとつに及んでいたりするのを聞いて、ここまで見えるものなのかと驚いた。
私はまだ全体でしかとらえられなくて、言葉の置き方などは聞けていない。ということは当然自分の歌に対してもチェックが届いていないというわけで、もっともっといくらでもつめる余地があるじゃないかと気づかされ、反省した。今回のレッスンはすごくよい機会を与えてもらえたと思う。
自分のあの場での役割を終えただけの人、やろうとしたが満たされなかった人、いつものレベルの中で無意識にまとめた人、正直なところ爆発は見られなかったと思う。、それが私の中に映像と音声として残っているだけだ。誰も死ねなかった。
伝えようとする意志、出そうとすること、自信、聴くものに対する姿勢。挑み方。わずかではあっても違っていたと私には見えた。
パワーが出る状態というのがあると思う。ある程度のところまでは叫ぶ詩人の会のような、又、山海塾のような息苦しくなるような、がむしゃらさもよいかもしれない。型通りのテンション。だが、高いテンションに貫かれながらも、それを自然に受け止め心身をしなやか出よく動く状態に保ち、放出されるもの、投げ出されるもの、響いてゆくものには、勝てない気がする。和太鼓(大きいもの)の乱れ打ちのようなものを想像する。
超一流のスポーツ選手の動き、気孔や武道の達人の動き。自然界の生き物の鳴き声。そこへの自分のはめ方とそうできるだけの体を持った人が一流のプロなのだ。金のとれる結果を常に出せる人なのだ。
客が思ってもみなかったようなものを与えてもらうことも、一つのプロの技だろう。圧倒するのも同じ。
だが、音楽の価値はもっと高次のところにあると私には思える。表現するということから微妙にずれているだろうか。私にとってはその本質を具体的に出してみせるということでは同じライン上のことだ。
よく英詞に“血管の中を巡る”という表現があるが、心身のあらゆるところを巡り、曲がった、停滞した生体の襟首をひょいとつかんで少々巡りをよくしてくれるようなものとでも言おうか…。
知っていることをもう一度言われても何もならない。辛かったり、息苦しかったりは、自分一人でもいくらでもなれる。中途半端な音楽の気持ちよさは、素人でも自分で経験できる。わざわざあなたにきかせてもらわなくても、プロの創唱者の方がよいならしょうがない。用はない。
苦しみや悲しみは喜びとか、愛情とかに起因するから美しく、喜びや愛は苦しさや別離という影と表裏なので哀しくいとおしい。その空間を音で表現する。音の本質の力を借りる。ステージでそれを表現し、そのステージに存在させる。良かった悪かったと気軽に私たちが評するプロのステージでは、何と高度なことが行なわれていることか。、
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京都特別集中講座感想
僕は先生の話を聞くのがとても好きです。三日間貴重な時間を京都にあててくれ、そして、僕に貴重な体験をできるチャンスをくれて本当にありがとうございます。
妥協を許さず、何度も何度も同じことを繰り返す徹底した姿勢に。
曲全体のイメージとしてオリジナルよりも激しい感じを出したかった。
すました社会の裏側で人間は壮絶に生きているということを伝えたかった。
空間を操るということを見せてもらいました。自分も操られているのかも知れないです。
歌の中でスピード感及び風を感じた。
声がいいとか、うまいとかいうものでなく、全身で自分を表現しようというのが伝わった。
普段から言われている表現の大切さをこの3日間でほんとうに知ることができました。
1フレーズがこれほど大きく、大切であり、表現するためにどれほどの練習量がいるかを痛感しました。
日頃のレッスンの全てのメニュに対しての態度や見方や聴き方から大きく変えていかなければならない。例えば、息吐きにしても、発声にしても決して体からはなして考えず、体との一体感を意識していく。フレーズの練習では、例えば「愛」とか「夢」とか一言一言に全神経を集中して表現する。CDやVTRやコンサートの見方や聞き方も量はもちろんのこと全神経を1フレーズいや一言に注意して、実際に声となっていない部分のテンションや表現を感じとれるようにならなければいけない。
表現の大切さが痛いほどわかった。息吐きや発声練習はもちろん大切であるが、まず多くの一流を見たり、聴き本当の表現を知ることがポップスの世界では大切である。そして、自分自身も1フレーズ表現してみる。その中で、自分がこういう風に表現したいと思い出してみるが、できないことがほとんどである。だからそれが現状の自分の実力であり、それによって課題が生まれる。
それらの一流の表現を自分で出せるようにするのに、日頃からの毎日の息吐きや発声、体力トレーニング、ストレッチなどの基礎トレーニングが必要になる。このように本当に何のためにこんなトレーニングを日々行なうのかがわかってやってないと意味も半減するし、身につかない。
この3日間によって、例えば一流のスポーツ選手のコメントなどを読んだとき、本当にそこに書かれていることの意味がわかったし、ヴォーカリストの世界にも共通している考えやトレーニングがあるということもわかった。
合宿、今回の京都集中とノートを見ると同じことを言われている気がします。
声の前に歌があり、歌の前に伝えることがあると。伝えることがなければ声の技術なんて身につきはしない。こんなことを繰り返し言われてしまうなんて…。努力します!
一番大切な「動き」みたいなものがあまり感じられませんでした。これは単に体を動かしているという意味ではなく、プロのステージなら必ずある、何か地面が揺れているような感覚、躍動感みたいなもののことで、これも声が出る出ないや、体の使い方どうこう以前の問題でステージに立つ前や、立ったときのイメージの乏しさに原因があるのではないかと思います。テンションが高いのはよいのですが、やはりその空間を揺らすような気迫とイメージがないと、「テンションの高い人が遠くで歌っている」というような感じを見ている側に与えてしまいます。
本来そのステージで生まれた熱や空気が伝わってくるいわゆる「働きかけ」みたいなものも遠すぎて届かないという感じになってしまいます。聴いている人との距離をつめていかないことにはその心に訴えかけることはできないと思います。自分も含めこの「動き」があまりなかったように思います。その他自分の反省としてリズムや音程にとらわれすぎていたように思います。
リズムは「とる」ものではなく「出る」ものだと感じました。自然に出てくるまで入れないとダメだと思います。音程もなんとなく決まっていた音程になんとかたどり着こうとしていたのが自分でもわかった。全体の線に関してもリハーサルの時の方が出ていたように感じました。
本当によいステージを観た瞬間、歌を聴いた瞬間に「うまい」とは思わない。「うまい」とか「へた」とか考えさせないのだ。「なんだかいいなぁ」とか「すげえ」とか思わせる歌でありたい。
出てくる人はみんなそれぞれ違う存在感があり、個性的で見ていて飽きることがありませんでした。そしてなにより本人がステージを楽しんでいるなぁという印象を受けました。これは音楽や歌うんぬんの問題ではなくステージに立つ一人の人間として非常に大切なことだと感じました。もちろん音楽的にも素晴らしい人もいて、こういう人の歌を聞いていると、歌うときに何かを出しているという感じではなく自然に湧き出てきているという感じがしました。
なぜこんな風に見えるのか考えてみたところやはり答えは単純に「湧き出てしまうほど入っている」というところにたどりついてしまいます。こう考えると自分はまだまだ何も入っていないと痛感します。リズムや音程というものはある時期仕方ありませんが、最終的には「とる」ものではなく「出る」ものであると感じました。無心で歌って出てきたものだけが「実力」であると感じさせられました。
京都集中が終わった後、アバンティ(デパート)の前の階段の踊り場のところで、(ステージみたいな感じだったので)みんな一人ずつアカペラで歌うことをやっていました。そのときは楽しかったし、みんな気持ちよかったとか、ここで自主ステージ実習をしようとか言っていましたが、後になって考えると、なんて意味のないことをしていたんだろうと思います。確かに最初の一人ぐらいは緊張していたかもしれないし、よかったのかもしれないけれども。だんだんだらけてきたし、ただ歌えば拍手がきたし…。これではただのカラオケと何も変わらないと思いました。ついさっきまで張りつめた空気の中で発表会をやっていたのに、そこで100%の力を出せずにこういうところで歌ってスッキリしてしまう無神経さ。こういうところが福島先生に「京都でステージ実習やっても続かないでしょう」と言わせてしまうのではないだろうか。
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