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いつかレッスンで「後から考えると、間違ったトレーニングの時期が1~2年ぐらいあった。」(これらしきこと)という言葉を思い出した。一からやっていこう。
そこに自分は在るか。
夏から冬にかけ、秋田、津軽、江差の民謡に触れる機会があり、三味線、太鼓、尺八の音に間近で触れました。祖父が民謡をやってたとはいえ、特に好んで生活の中に取り入れ、夢中になった記憶はありませんが、何かそれらの音には私の体のある感覚を呼び起こす力があります。こういうのを血というのでしょう。自分の表現を築いていく中で、こういう感覚の気付きを重ねていくことが本当に大切だと思います。
『良い木は悪い実を結ばず、悪い木は良い実を結ばない。木はそれぞれ、その実によってわかる。~善い人は良い物を入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪い物を入れた心の倉から悪い物を出す。口は心にあふれるものを語るものである。―ルカ福音書6・44~45―』
三茶でハードコアの企画に呼ばれて一人でヴォイスインプロビゼーションやった。ここに入って明らかに成長してるけど、また新しい壁ができた。暗い気分だ。今まで一番よいライブだったと一人言ってたけど自分では納得いかない、なぜか暗い。
「待つ能力が人間の成熟度のバロメーターである」といった人がいる。人間の出会いもチャンスも自分の声も、幸せも全て本当に価値あるものは、努力しつつも待たなければいけないときがあるのだと思う。決して焦らず、あきらめず、自分の中のときが満ちるまでこの葛藤を続けていくつもりだ。
やればできる(たぶん)きっとできる(はずだ)
できないくやしさをかみしめろ
最近、プロできちんとしている声優さんたちについて思うこと。皆さん、それぞれ信じるものがある。龍神だったり、その土地の水脈の相性とか、占い師とか、心の底から信じているらしい。心のよりどころとするものを必要としているのだろう。信じることで不安定な生活(状況)を乗り切っているのだろう。日々が闘いなのだなと思った。
「一曲絶命」言うは易く…。くそくらえ評論家。どう見られるかが最初にあるのではなく、どうしたいか。飛行機の中で彼女が泣いている。「ロック万歳だ!」か。どういう意味か!車の中で衣装を出して泣く彼女。なぜ!ヨレヨレでコンサート会場に現れ、歌い終わって事切れる。
歌い手とは何なのか!神への捧げもの。人身御供。歌い手は知ってるのではないだろうか。それでも歌う人間とは何なのか。歌なんか!歌い手なんか!馬鹿みたいだ!人間(ひと)はなぜ歌うのだろう!生きることがそうだ!人間はなぜ生きるのだろう!それでも生きる。それだから生きる。何かが生まれることに涙して感謝する心がある。何かが失くなることに涙して悲しむ心がある。喜びと悲しみ。歌い手とは何なのか。
どの時代にもどの場所にも人間が生きている限り喜びと悲しみがある。人間(自分)の喜びを歌にして具現する人。共に喜ぶ自分(人間)の悲しみを歌にして具現する人、共に悲しむ。自分が理解された、と思えるとき、人間(ひと)の生きる力となる。生きていく力を与える人。例えばだ。生きていく力を与えることができたら、どんなに幸せに感じるだろう。このうえない喜びを感じるだろう。共に喜びを感じ合えた、共に悲しみを感じあえたと思えたら、どんなに幸せに思えるだろう!それだけが欲しい。
「そんなにそんな。」「しぬまで彼女の歌は忘れない」「感動、力に満ちている」。そんなに凄いか…。好みは別としてそうか。私にはわからない。もっと凄い歌い手の歌たくさん聞いた気がする。なぜこう違うのだろう。好みの問題ではなく。みんなの前に姿を見せるだけで、出てくるだけでこんなに喜びを与えるのか。それは何だろう。
今までの一つひとつの積み重ねだろうが、今まで見た、聞いたコンサートと違う。神をみるようじゃないか!神が与えるであろうようなものを歌を通して与えているのか。若い頃、毎週映画を観ていた、という。
バーバラの以前観たビデオの中で、起承転結が歌の中にある、と語っていたのを思い出す。
「スター誕生のテーマ」最後のフィーのあの中のもたせ方、一言の表情の豊かさ。こんなに皆に感謝されるほど、他の歌い手よりそんなに凄いか。わからない。映画を観てみて歌も聞いてみて、判断はそれからだ。しかし人々は力を欲している。感動を欲している。
音の本質を聴くこと。本当に音楽を聴き分けること。漆黒の闇の中に浮かぶ霧の粒を可視するようにして、たったひとつの分子から宇宙の真理を垣間見るようにして、天文学的な質と量の理屈を踏み越えた意識せざる意識が、迷わずすっと選び出すものもしくはそれにいやおうなしに自分が選ばれてしまうもの後天的な感情を排して聴く。自分のベースだと思い込んでいるものも疑ってかかって聴く。くだらないレベルの自分の品性を凝視し、わずかも、耳を曇らせないように神と呼ばれる、真理が与えてくれたものでのみ聴く。感情と手を組んだ好き嫌いは不純物も成分で、そうでなくては語れない。好き嫌いは確実なオリジナルだ。だが本質を感知していることと、それとを、自分で見極めろ。自分が人に対してくだした評価。そこには、とげとげしい言葉知ったかぶりの批判偏った(自分ではその時偏って思えない/ストイックなつもりだった)見解そしてそれらを氷山の一角とする
自己顕示欲と自己正当化欲が言葉の海面下に誰にも気取られぬようにと細心の注意をはらっておびただしくおびただしく連なる。そんなもので攻撃してどうしようというのだ。自分が音の世界を感知し、表現できないことが問題だろう。目に映っているものを心に映さず心に浮かぶ過去を認識せず、ただただ、音を聴く。まどろみから突然目覚めた時の無防備で計算のきかない脳幹で。けれども真新しい剃刀の刃のように覚醒して。…その瞬間から音との楽しいだけの“一人蜜月”は終わり、関係の本編がはじまりやがて永遠にたどり着けない逢瀬になる。、
自分が求めていたヴォイス・トレーニングに巡り会うことができ本当に嬉しく思っています。先生の本との出会い、そして感動、感動が人間を変えていく、本当にそう思います。今月よりレッスンを受けて、息を吐くとき、吸うときに体の動きを意識することと、声のポジションを探る、ということを学びました。先生のおっしゃる言葉の中には厳しさもありますが、でも、それが私にはやる気を起こさせるのです。
趣味で民謡を習い始めて4年、民謡を通していろいろなことを学び、そしていろいろな人との出逢いがあります。でも、今のこのままではなく人の心に残るような歌い方ができたら…趣味であってもその上をいきたい、そのためには基礎からやり直そうとヴォイスへ入門、今、その機会が与えて下さったことに感謝し、希望に受けて心を切り替え頑張ります。そしていくつになっても向上心を持ち続け、民謡を通していろいろなことで感動できるような人生を送りたいです。
『およそ芸術家であることは、計量したり数えたりしないということです。その樹液の流れを無理に追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧をいだくことのない樹木のように成熟すること。(中略)私はこれを日毎に学んでいます。苦痛のもとに学んでいます。そしてそれに感謝しています。忍耐こそすべてです。』リルケ「若い詩人への手紙」
『すべて、あわただしくなされることは、自己愛を含んでいる。時間はすべてを清める』R.G.ニコル
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おすすめ
ナンシー・ウィルソン
青山ブルーノート、彼女のあありのうまさに、本当にびっくりした。以前、この場所でナタリー・コールを観たことがあるのですが、その1000倍くらいうまかった。まず、発声がすばらしい。彼女はほとんど裏声にならない。全てを胸声でカバーしている。すごい体だなーと感動。しかも、彼女の声の一つひとつに感情がある。ときには喜び、悲しみが本当に伝わってくる。特に、彼女のアーティストとしての気持ちが、歌詞に込められた歌があった。“私が死んだときに、私の歌を思い出して…”Lodies of Songsみたいな歌だったのですが、本当に素晴らしくて、せつなくて、感動した。彼女は、彼女自身そして亡くなっていた偉大な女性ヴォーカリストを思い、歌っていたのだと思う。こういう歌を歌っていける彼女を尊敬したし、羨ましいと思った。
ピアノの音一つひとつに緊張感が漂っている。
新曲を聴いた。彼女のバラードはなにかパターンが似てる。やはり誰でも好みのパターンに寄っていってしまうものなのか。それにしてもあの泣けといわんばかりのシャウト、素直に泣かされてしまうのだ、これが。
強弱のコントロールが自在。ここぞという時の声の強さが圧倒的。強烈な情感は彼女ならでは。独特の母音がある(あぁ~め(むぅぇ)のく(うぉぅ)こ(うぉぅ)~)「小林旭」…人気だけでない、実力とオリジナリティがあると思う。
「昭和枯れすすき」
さくらと一郎、アジアにしかない音色。声のからみがおもしろいと感じた。
他の名人のものと比べて現在の、今生きている感覚「ドキュメント」に近い。噺(シナリオ)だとか技術だとかを感じさせない。たった今、この空気を変えてしまう凄さというのか、うまく言えないけど。その噺の状況に居合わせてしまったような感覚。寄席に行けば落後家はたくさんいる。でも他の人たちと違うのは何なのだろう、と考えるとやはり上の4項目がズバ抜けているからだと思う。一フレーズごとに煮詰めていったその積み重ねの中から彼独自のニュアンス、オーラみたいなものがにじみでているんだろうと思う。
落語や漫才のフレーズにも「情感」「リズム」「スピード感」「ふみこみ」があり、いや、それがなければ何者でもないことに気づく。
「オリータ・アダムス」
“Moving On”アルバム。「カーリー・サイモン」のNew Album“Film Noir”…彼女の低くて深くてやわらかくて、少しハスキーな声が最高!1曲の中にすごいドラマがあると思う。「アトランティックR&B・Vol.6」に入ってるキング・カーチスの“Memphis Soul Stew”。音楽をシチュー(Stew)に例えて、そのレシピを教えてくれる。“Memphis Soul”という最高の「シチュー」がいかにしてできあがっていくのか、よくわかってとてもおもしろいし、楽しい曲だ。
13年ぶりのLiveを収録したCDを聴いた。「Let it Be 」を聴いたとき、なーんだか胸にぐさっときた。感動なんて言葉があるけれど言葉でいいあらわせるものじゃない。全てを賭けた人しか人の心を動かす歌は歌えない。歌は誰でも歌えるし、ステージはあらゆるところにあり、客もいる。生きることが自由なように歌うことも自由だ。自由にやった結果が歌でありステージであり自分の客であり、仲間であると思う。全て自分の責任で決断してゆくこと。私はビートルズをリアルタイムでは知らない。それでも彼の熱い思いは伝わってくる。
ストレートに声が飛び込んできます。
王者復活は僕にとって今年一番のニュースだった。よくやった。本当によくやった。計り知れないくやしさを打ちのめして、誰にも文句を言わせないチャンピオンになった。歴史に残るボクサーになった。
声、最近聴いた歌は僕は好きではなかった。何気なく聴いた昭和の流行歌の中に「ヨイトマケの歌」があった。すごかった。ありきたりな説明しかできないが、とにかくショックだった。何度聴いてもあきないと思える。表現力。3分とは思えないいろいろな想いが詰まっている。一番よいと思えるフレーズをつないだらこうなるんじゃないかということが具体的に示されている。もちろん僕はこうは歌わない。(歌えない)が、先生の「3分間歌いきる」とはこういうことだと思った。
ドゥルス・ポンテス
ポルトガルの大衆歌謡「ファド」の歌い手。ファドのイメージを持って聴くと、驚くほど新鮮。だがその後ろにはアマリア・ロドリゲスの影が優しく微笑んでいるのが見てとれる。伝統を踏まえた上で、新しい道を切り開く、まさに理想的なアーティスト。アンドレア・ボチェッリ:パヴァロッティ&フレンズにも出演し、『マッティナータ』などを歌った盲目のテノール歌手。声自体はパヴァロ始め3大テノールなんかに比べると弱々しく聴こえるが、ポップスとクラシックの中間にいて、両方のよいところを利用している。
TVの対談で言っていたこと。(言葉通りでなく、こういう意味のこと)「一番僕が間違いやすいのが自分がよい作品に出会って、一生懸命やりながら入り込み、気持ちよくなってしまうこと。自分としては、心底入り込めているといういけた感覚、充足感、本質に入り込んでいることで満足して、全身で感じてしまっているのだが、はっと気が着くとお客さんは気持ちよくない。さめてしまっているということがある。自分が入り込めたから、それがお客さんにも伝わるものだとは限らない。きちんと入り込んだ自分とお客さんの関係を上からみて、プロデュースしてやる自分も持たなくてはいけない。、
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J・ウォーカーショットガン
声とリズムを刻むのがぴったり一緒。言葉の中に既にリズムがあるのか…わからない。コモドアーズ:始まってすぐに手拍子が始まるほどはずむマリのようなリズムのある声、前へ前へズンズンどんどん進む。
ジョン・マシータ
スピード、リズム素晴らしい。意味じゃなくもっと根元的な原始的な生身の人間が感じとれる物が音楽の中にはあるんだヨ、と言われてる感じがする。ゴチャゴチャ考えるのやめれば。と。T.G.ショッパー:深い語る声、だらだらのばさない。
ホセ・フェリシティアーノ
切る、切ろうと思ってじゃなく、言葉がそうだから(と感じさせる凄さなんだろうか、わからない)。
アダム・アント:歌詞の内容が息づかいの中に表れている。なぜ表れる。どうすれば表れる。なぜそう感じる。この人の中で何かが本当になってる。何かを本当にしてる。だからか。「Special For You
歌の原点の一つではないだろうか。大事なこと忘れてた気がする。
体がバネ、そこから生まれる歌もバネ。始まってすぐのせられるリズム、狂喜。体がうたっている。歌は体が歌うのか。体がうたう…。体の中に超えもリズムもある…。体の中にある感情を(心の中にある感情を、という感じと少し違う)メロディにのせて絞り出している。パンチがある。ムチのようにしなっている。どうしてだろう。何が何だからそうなるのか…。
「ビリー・ジーン」これでもか。踊りは感情。本能のところをピタッと、自分の表現したいところにピタッと一致させている、ということ。表現したいものを表現できる技術。
ビリー・ディー・ウィリアムス
歌詞の意味、言葉が音楽の歌の表情の中に詰め込まれている。浮いていない。一体になっている。歌詞・メロディ・声がバラバラにあるんじゃなく一つになって体の中から絞り出される。体の中心にリズムがある。口先じゃなく。声を張り上げることなく、そこに密度がある。感情のほとばしりなのか。
ミシェル・ペトルチアーニを手始めにCDを何枚か聴き、そしてジェーンズ・アディクションの「ケトル・ホウィッスル」も開封して聴く。
ジェーンズ再生の一発目のタイトル曲は、いかにもドラッギーなジェーンズ=ペリー・ファレル・ワールドに時折聴こえて来るフリーのベースのチョッパー音がスリリングである。と、このアルバムは再生とは言いながらも新曲は2曲だけで、残りは未発表のデモ・ヴァージョンやライヴ・ヴァージョンなどで構成されているのだけれども、それにしても全盛時のライヴで繰り広げられる凄まじいばかりの緊張と混沌の音世界はどうだ!
先月リリースされたレッド・ツェッペリンの全盛時のライヴもすごかったけれども、ジェーンズの例えば「ストップ」に代表される疾走ナンバーで聴かれる瞬間風速的な音の破壊力は、ツェッペリンを凌駕さえしている(もちろんツェッペリンとジェーンズとどちらが偉大かと問われればどちらも偉大だと答えるけれどもね)。
黄金期のJBを熱く燃えさせたメイシオ・パーカーのサックスと互角にタメを張っている「マイ・キャッツ・ネーム・イズ・メイシオ」で聴かれるファンクネスも捨てがたいものがある。最終曲の「シティ」でのペリーのギター弾き語りにもシビレてしまうジェーンズ・アディクションであった。
ブラック・グレープのセカンド・アルバム「ステューピッド、ステューピッド、ステューピッド」
前作のファースト・アルバム「イッツ・グレート・ホエン・ ユーアー・ストレート…YEAH」もゴキゲンでよく聴いていたけれども、今作もまた、それこそマンチェスターメイトのストーン・ローゼズからデジタルロックのケミカル・ブラザースあたりまで飲み込んだブリティッシュ・クラブ・ミュージックの密着ぶりと、それこそ70年代ファンクから90年代ラップ/ヒップホップあたりまで噛み砕いたアメリカン・ブラック・ミュージックの愛着ぶりとが、どこまでもポジティヴにグルーヴしていて、最高にゴキゲンである。
ミック・ジャガーもストーンズのニュー・アルバムのプロデュースに数曲ながら抜擢したダニー・セイバーは今作でも冴えているし、そしてショーン・ライダー(実はこのショーン・ライダーは何を隠そう、そのヨレヨレのオヤジルックスぶりから、個人的に身近な目標となっているロック・スターのひとりだったりする)!歌ってて楽しいだろうなあ。という訳で、やっぱりファンク/ロックは楽しくてそして馬鹿っぽくないと! ね‥‥。
「保存版:ハード・ロック多角特集『伝説と様式を超えて』」
と題してのクイーンとレッド・ツェッペリンとそしてブラック・サバスの3巨頭の特集は巻頭にあるし、現在アメリカ・ツアー中のザ・ローリング・ストーンズや同じくアメリカ・ツアー中のジェーンズ・アディクションの記事もあるし、更にはオリジナル・アルバム15作品レビュー付きのAC/DCの特集(まもなくリリースされる5枚組ボックス・セット「ボンファイアー~ボン・スコットに捧~」の5枚目が「バック・イン・ブラック」になっているのは、全然“意味不明”ではなく、この「バック・イン・ブラック」という名作は、AC/DCそしてアンガス・ヤングがボン・スコットという炎のシンガーの交通事故死という悲劇に直面しながらも決して立ち止まることなくトリビュートし切ったどこまでも悲しいそして激しいアルバムであったから、更に更には付録のポスターは表がプロディジーで裏がキッスで、すっかり元気になってしまった。
キング・クリムゾンの73年頃のライヴ・アルバム「ザ・ナイト・ウォッチ~夜を支配する人々」
BGMにして。うん、やっぱりギターのロバート・フリップとベースのジョン・ウェットンとヴァイオリンのデヴィッド・クロスとドラムのビル・ブラッフォードによるインプロヴィゼーションだけはただただ壮絶と言うしかないな。
グレッグ・レイクがヴォーカルの「宮殿」クリムゾンとジョン・ウェットンがヴォーカルの「赤」クリムゾンも、ピーター・ゲイブリエルがヴォーカルの「フォックストロット(は訳しようがないなあ)」ジェネシスとフィル・コリンズがヴォーカルの「デューク(も訳しようがないなあ)」ジェネシスも、両者とも同名異バンドである、と言ってしまってもまあいいでしょう。
「宮殿」クリムゾンで幕を開けそして「赤」クリムゾンで一旦幕を閉じた第1期プログレ黄金期、その裏で独自のプログレシッヴな音世界を築き上げていたのがジャーマン・ロックのカンであるという。カンがアヴァンギャルド過ぎるという人にはエイジアを、エイジアがコマーシャル過ぎるという人にはカンを、それぞれお勧めしておきましょう。
いずれにしても「赤」クリムゾン以降、プログレッシヴ・ロックは良くも悪くも“ポップ”なサウンドに変化して行った訳である。で、プログレッシヴ・ロックについて更に言ってしまうと“ロックとクラシックの融合”を試みたジャンル(ただしクリムゾンなんかはフリー・ジャズも入ってる)っていうことになるのだろうけれども、この“ロックとクラシックの融合”という野心的な試みは実は僕的にも興味深かったりして、僕も密かに(クラシックとの融合までは考えていないけれども)純邦楽との融合=たとえば和太鼓や尺八や三味線や琴や能や歌舞伎や祭ばやしなどといった純邦楽の音色や旋律をプログレばりの10分前後の大作ナンバーに大胆かつ細心にそしてキワモノに陥ることなく融合してみるという野心的な試みは、ものすごく考えていたりするのである(ものすごく漠然とではあるけれども、ね)。そういった僕的かつ野心的な試みのヒントが今回挙げたプログレッシヴ・ロックの中にあるようなないような、みたいな感じかな(ちなみにカンの「テレビ・スポット」という曲、これは思いっきりキワモノだな)。もちろん僕的かつ野心的な試みだけ目指していたらただの変態扱い止まりであろうから基本はやっぱりロックである。
クイーンやジェーンズやツェッペリンのような。でも彼らは彼らでやっぱり単なるロックではない。ツェッペリンがCIAコネクション(※Cはケルト音楽、Iはインド音楽、Aはアラブ音楽)と言ってロック外音楽を意識していたように、僕もJBBコネクション(※Jは純邦楽、Bはブラジル音楽、Bはバリ島音楽)あたり意識してみようかな。
クイーンはオペラとの融合ぶりが特に絶妙だったなあ。その一方でサイケやファンクを融合したジェーンズや、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやエクストリームのような、いわゆるファンク・メタルを追求してみたい(今日クリムゾンと一緒に購入した「ベスト・オブ・エクストリーム」を聴いて余計にそう思った)しなあ。ん。 知らない間に話が宇宙の果てまで飛んで行ったみたいだな。まあとりあえず僕的には、最高にファンキーでエキセントリックでそしてプログレッシヴなライヴは、一日も早く楽しみたいかなあ‥‥。
・イエス「危機」
・ジェネシス「フォックストロット」
・ピンク・フロイド「狂気」
・ジェネシス「デューク」
・エイジア「詠時感~時へのロマン~」
・ラッシュ「パワー・ウィンドウズ」
・カン「カニバリズム1&2」
“純邦楽とクラシックの融合”と言えばこの人でしょう。
「ミュージック・ライフ」1月号は実は今だに読み応えがあったりする。
「保存版:ハード・ロック多角特集『伝説と様式を超えて』」
ツェッペリンはブリティッシュもケルトも含めてのヨーロッパ的音楽性や精神性でブルースをハード・ロックあるいはそれ以上のものに高めていったバンドであったし、サバス=オジー・オズボーンはヘヴィ・ミュージックのゴッドファーザーとしてその影響力は今もって計り知れないものがあるし、そしてクイーンはブライアン・メイ&ロジャー・テイラーのハード・ロック・サイドとフレディ・マーキュリー&ジョン・ディーコンのポップ(時にはソウルも)サイドをバンドとしてのこだわりで完璧に表現しそしてパワー・ポップの究極形を完成させたバンドであったと、それぞれの偉大さを再認識できた。
ジーン・シモンズが彼の音楽性と彼のバンド(=もちろんキッス)について語っているのを読んでやはりタダモノではないことも再認識した。
「我々はみんな人間であり、人間というのは複雑な生き物だ。ハッピーな気分のこともあれば、誰かを殺したいような衝動にかられることもある。全く異なった感情だが、どちらをも持ち得るのが自分という人間なんだ。人間はその時のムードや、誰と一緒にいるかによっても感情を左右されるものだ。スモウ・レスリングを観に行く時は興奮して心臓が高鳴るだろうが、コメディを観に行く時はリラックスした軽い気持ちで楽しもうとするだろう。それが同じ人間であろうとね。野球観戦する時、パーティに出席する時、誰かが亡くなって葬儀に参列する時、心臓はそれぞれ異なったビートを刻むはずだ。曲作りというのもそれと同じで、様々な感情が反映されてしかるべきものだ。どんなものが流行っていようと、その時の自分の感情に従って書くべきなんだ。そこにルールというものは存在しないし、私は元来、そうした規則めいたものは嫌いだ。ルールというのはロボットのためにあるものだ。感情を持たないもののためにね。我々人間の作るものが、機械によって作られたものよりも優れたものであることを願わずにはいられない。個々の人間による判断、選択というのは、ルールに基づいた機械によるそれよりは、ずっと興味深いものであるはずだからね。我々は幾つものルールを破ってきた。最初にメイクをした時が、そもそもの始まりだったといえる。そしてメイクを落とし、また再びそれで素顔を隠した。コンセプト・アルバムも作ったし、聖歌隊と一緒にスタジオに入ったりもした。ディスコ・ソングにさえも手を出した。そうやって、ロック・バンドの掟とされてきたようなことを常に破り続けてきたからこそ、我々は今日でも生き残っているんだ。樹木は嵐に打たれ、しなるからこそ年輪を重ねていく。しなることがなければポキッと折れてしまうのさ」
(ちなみにキッスのディスコ・ソングと言えば「ラヴィン・ユー・ベイビー」、これはもう文句なしの名曲でしょ)。
・ブラック・サバス「パラノイド」
・ディープ・パープル「ライヴ・イン・ジャパン」
・クイーン「クイーン・」
・キッス「アライヴ~地獄の狂獣」
・エアロスミス「ライヴ・ブートレッグ」
・AC/DC「流血ライヴ/ギター殺人事件」
・ジューダス・プリースト「背徳の掟」
「アペタイト・フォー・ディストラクション」
・メタリカ「METALLICA」
・レッド・ツェッペリン「BBCライヴ」
マライア・キャリーの「ミュージック・ボックス」
この季節これは定番だよなあの「メリー・クリスマス」を聴く。定番だけあって「メリー・クリスマス」は日本でもよく売れたみたいだけれども、まあどの曲もすごくいい上にあのマライアの歌が乗っかる訳だから売れない方がおかしいか。うん、これは山下達郎さんの「シーズンズ・グリーティングス」と並ぶ名クリスマス・アルバムであると言ってしまいましょうか(これで今年のクリスマスは一人でも寂しくないぞ)。
しっとり系のナンバーが多い「ミュージック・ボックス」も悪くない。ハイライト・ナンバーはやはりニルソン(と言えば映画「真夜中のカーボーイ」の主題歌「噂の男」はほんと最高だ、とだけ脱線しておく)の「ウィズアウト・ユー」のカヴァーかな。とりあえずマライアは、90年代の奇跡って言いたくなる人の気持ちも分かるぐらい、歌が上手いわ。
“本物”だわ。音楽ジャンルがポップスだろうがプログレだろうがメタルだろうが、マライアもマイケル(ジャクソン)もJBもピーター・ウルフもカエターノ・ヴェローゾもオジー・オズボーンもアンガス・ヤング(AC/DC)もロバート・フリップ(キング・クリムゾン)もオーネット・コールマンもビョークもそしてもちろんフレディ・マーキュリーも、“本物”はみんないい。
音楽界ニュース
1)プロディジー、ケミカル・ブラザーズらデジタル・ロックやドラムン・ベースなどテクノ系音楽が一般的人気を得る
2)フェラ・クティとヌスラット・ファテ・アリー・ハーンという2人のワールド・ミュージックの巨星が相次いで死去
3)日本最大規模のロック・フェスティヴァル、フジ・ロック・フェスティヴァル97、台風の為1日目強行も2日目中止
4)ダイアナ元妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド」が世界的なヒットを記録する
5)カエターノ・ヴェローゾ、レニーニらの来日公演及び新作リリースでブラジル音楽の絶好調ぶりが注目される
英米ロック・アルバム・ベスト10
・デヴィッド・ボウイ「アースリング」
・U2「ポップ」
・エアロスミス「ナイン・ライヴズ」
・ケミカル・ブラザーズ「ディグ・ユア・オウン・ホール」
・プロディジー「ザ・ファット・オブ・ザ・ランド」
・ジョン・フォガティ「ブルー・ムーン・スワンプ」
・マライア・キャリー「バタフライ」
・ビョーク「ホモジェニック」
「ブリッジズ・トゥ・バビロン」
・ボブ・ディラン「タイム・アウト・オブ・マインド」
1)70年代グルーヴ・ソウル/ファンク編
・ジェームス・ブラウン「ファンク・パワー」(1996年)
・スライ&ザ・ファミリー・ストーン「スタンド!」(1969年)
・カーティス・メイフィールド「カーティス」(1970年)
・マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」(1971年)
・ギル・スコット・ヘロン「ピーセス・オブ・ア・マン」(1971年)
・ダニー・ハサウェイ「ライヴ」(1971年)
・スティーヴィー・ワンダー「トーキング・ブック」(1972年)
・アイズレー・ブラザース「3+3」(1973年)
・アース・ウィンド&ファイアー「灼熱の狂宴」(1975年)
・パーラメント「ライヴ!! Pファンク・アース・ツアー」(1977年)
2)プログレッシヴ・ロック編
・キング・クリムゾン「クリムゾン・キングの宮殿」(1969年)
・エマーソン・レイク&パーマー「展覧会の絵」(1971年)
・イエス「危機」(1972年)
・ジェネシス「フォックストロット」(1972年)
・ピンク・フロイド「狂気」(1973年)
・ジェネシス「デューク」(1980年)
・エイジア「詠時感~時へのロマン~」(1982年)
・ラッシュ「パワー・ウィンドウズ」(1985年)
・カン「カニバリズム1&2」(1997年)
・ブラック・サバス「パラノイド」(1970年)
・ディープ・パープル「ライヴ・イン・ジャパン」(1972年)
・クイーン「クイーン・」(1974年)
・キッス「アライヴ~地獄の狂獣」(1975年)
・エアロスミス「ライヴ・ブートレッグ」(1978年)
・AC/DC「流血ライヴ/ギター殺人事件」(1978年)
・ジューダス・プリースト「背徳の掟」(1984年)
・ガンズ・アンド・ローゼズ「アペタイト・フォー・ディストラクション」(1987年)
・メタリカ「METALLICA」(1991年)
・レッド・ツェッペリン「BBCライヴ」(1997年)
4)ブラジリアン・ミュージック編
・オリジナル・サウンドトラック「黒いオルフェ」(1959/66年)
・スタン・ゲッツ/ジョアン・ジルベルト「ゲッツ/ジルベルト」(1963年)
・セルジオ・メンデスとブラジル’66「マシュ・ケ・ナダ」(1966年)
・エリス・レジーナ「エリス・レジーナ・イン・ロンドン」(1969年)
・アントニオ・カルロス・ジョビン「ストーン・フラワー」(1970年)
・ウェイン・ショーター~ミルトン・ナシメント「ネイティヴ・ダンサー」(1975年)
・ジョルジ・ベン「ア・バンダ・ド・ゼー・プレチーニョ」(1978年)
・カエターノ・ヴェローゾ&ジルベルト・ジル「トロピカリア2(ドイス)」(1993年)
・カルリーニョス・ブラウン「バイーアの空のもとで」(1996年)
・レニーニ
「未知との遭遇の日」(1997年)
5)ジャズ/ジャズ・ヴォーカル編
・デューク・エリントン「ハイ・ファイ・アップタウン」(1952年)
・マイルス・デイヴィス「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」(1956年)
・ソニー・ロリンズ「サキソフォン・コロッサス」(1956年)
・オーネット・コールマン「ジャズ来るべきもの」(1959年)
・アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ「チュニジアの夜」(1960年)
・クインシー・ジョーンズ「ソウル・ボサノヴァ」(1963年)
・ジョン・コルトレーン「至上の愛」(1964年)
・ジョー・ジャクソン「ジャンピン・ジャイヴ」(1981年)
・トニー・ベネット「MTVアンプラグド」(1994年)
・フランク・シナトラ「シナトラ・80thアニバーサリー」(1995年)
6)カエターノ・ヴェローゾ編
・カエターノ・ヴェローゾ「カエターノ・ヴェローゾ」(1968年)
・カエターノ・ヴェローゾ「アラサー・アズール」(1972年)
・カエターノ・ヴェローゾ「ムイトス・カルナヴァイス」(1977年)
・カエターノ・ヴェローゾ「シネマ・トランセンデンタル」(1979年)
・カエターノ・ヴェローゾ「コーリス・ノーミス」(1982年)
・カエターノ・ヴェローゾ「カエターノ」(1987年)
・カエターノ・ヴェローゾ「エストランジェイロ」(1989年)
・カエターノ・ヴェローゾ「シルクラドー」(1991年)
・カエターノ・ヴェローゾ「粋な男」(1994年)
・カエターノ・ヴェローゾ「チエタ」(1996年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「ビッグ・ヒッツ」(1966年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「ベガーズ・バンケット」(1968年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「スルー・ザ・パスト・ダークリー」(1969年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「スティッキー・フィンガーズ」(1971年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「メイン・ストリートのならず者」(1972年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「女たち」(1978年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「刺青の男」(1981年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「アンダーカヴァー」(1983年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「スティール・ホイールズ」(1989年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「ヴードゥー・ラウンジ」(1994年)
8)97年英米ロック・アルバム編
・デヴィッド・ボウイ「アースリング」(1997年)
・U2「ポップ」(1997年)
・エアロスミス「ナイン・ライヴズ」(1997年)
・ケミカル・ブラザーズ「ディグ・ユア・オウン・ホール」(1997年)
・プロディジー「ザ・ファット・オブ・ザ・ランド」(1997年)
・ジョン・フォガティ「ブルー・ムーン・スワンプ」(1997年)
・マライア・キャリー「バタフライ」(1997年)
・ビョーク「ホモジェニック」(1997年)
・ザ・ローリング・ストーンズ「ブリッジズ・トゥ・バビロン」(1997年)
・ボブ・ディラン「タイム・アウト・オブ・マインド」(1997年)
9)J.ガイルズ・バンド/ピーター・ウルフ編
・J.ガイルズ・バンド「デビュー!」(1971年)
・J.ガイルズ・バンド「モーニング・アフター」(1971年)
・J.ガイルズ・バンド「“ライヴ”フルハウス」(1972年)
・J.ガイルズ・バンド「狼から一撃!」(1976年)
・J.ガイルズ・バンド「フリーズ・フレイム」(1981年)
・J.ガイルズ・バンド「ショウタイム!」(1982年)
・ピーター・ウルフ「ライツ・アウト」(1984年)
・ピーター・ウルフ「カム・アズ・ユー・アー」(1987年)
・ピーター・ウルフ「アップ・トゥ・ノー・グッド」(1990年)
・ピーター・ウルフ「ロング・ライン」(1996年)
0)クイーン/フレディ・マーキュリー編
クイーン/フレディ・マーキュリーのオリジナル・アルバムはすべて必聴です。
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