一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート 10748 786

鑑賞レポート    786

 

 

 

【アマリア・ロドリゲス】

 

 

「ファド」とはポルトガル語で宿命。こういうことを歌うようになる理由があるんだナ。きっと。背景が、歴史が。独特の声と節回し。節回しか。

面白い形のギターだ。おでぶちゃんのギター、くびれがない、ハハ。ギターでベースをやるのか。とても難しく感じる。ウッドベースがある、ヴィオラがある、エレキベースがある。でも同じ音色でだ。でM考えてみれば三味線だって低い音色を出すデカイのみたことがない。その中で、そういうものとして音楽を作っていってる。ただそれだけのことか。でも、そこにひっかかる、ということか。でも、やはり太い音色を出す楽器は本当に心地よい。音としてもその刻み方としても。どうしてこういう構成にしたのだろう。

 

胸元をあまり出さない衣装だ。細かいレカット。似合っているだろうか。歌とあっているだろうか。歌をそこなわず彼女を生かすこれじゃない衣装が必ずあるような気がする。見るものにあのVカットの角度は鋭すぎる。彼女はもっと素晴らしい。人を刺すのではなく包む。チグハグだ。あごもとがっている。善い悪いではなく、そこから始めるという意味で、もっと別なニュアンスを伝えるものを胸元にもってきたい。胸元はとても大事。見せるも隠すも多くを語る場所。

 

「難船」あんなにあごをあげてもあれだけの声が出るのか。しわがれて哀しい音色の声、でも優しい、拒絶しない、包み込む。何も言わないで次へ。よくスッと入れる。スッと入ってるように見えても、入ろう入ろうとした積み重ねがある、ということか。いろいろな積み重ね。

「私の花束」こういう歌詞の歌はどういう歌なんだろう。

「かもめ」ときめく、と言っているのに、それすら哀しい。なぜここまでも哀しいか。生きていくことの哀しみ。喜びも必ずあるのに、それは前に出てこない。苦しみ哀しみがあるのにそれが前面に出てこない、それと同じか。根っこで生きることをどう捉えているか、ということか。伝えたいことが哀しみ。「宿命」ときたら喜びとはならないか。そうとは限らない。何かわけがある。

マルキーニョス」2フレーズ一息だ。どうもありがとう。どうもありがとう。彼女にはリズムがある。もう歌になってる。自分が普段使っているのは流れる、最後が詰まってしまう。普段がこれだけ違う。アクセントがない。彼女のは最後投げ捨ててる。体に触れてこない。彼女のは体に触れてくる。明らかにこちらに向かってくる。人と話すときに必ず目を見て心を開いて、伝えたいことがあって、伝えようと思って日々送っているということか。そうしていかないと生きるのが難しい世界に生きている、ということか。

 

「懐かしのリスボン」意志を感じさせる口元。

「叫び」静けさで叫びを作る。『光りが足りない。空に忘れられた、死ねば泣けないのだから、孤独、それさえも完全なものではない、さそりになりたい、自分の頭をさしてしまいたい、かつての自分を求めて、いつまで続く気か生命よ、孤独は私の狂気をかりたてる』

最初なぜこんな詩が生まれるのかと思った。私にはないと。そうだろうか。惑わされては駄目だ。「かつての自分を求めて」か。これは後ろ向きの歌か。イヤ。闘っているときの歌だ。思わず出る叫び、思わず天を仰ぐ。スティービーワンダーの豊かな言葉を思い出す。『最高の歌は未来にある。』生きることと同じか。「リスボンよフランスのものになるな」目元は泣いている。こういう歌があるのか。“許さないこともある”なぜこういう歌が生まれたのか。

リスボンの香り」初めての笑顔だ。体が動いている。新鮮だ。心が動く。ホッとする。このときがなければ息がつまる。感動するけれど息がつまる。ミルバは笑顔を思い出せないが息はつまらない。なぜか。存在の迫力の違いか。ロドリゲスの方がより圧倒的に歌うのでなく語ってくるということか。根っこに歌う必然を抱えてドンドンこちらに向かってくるのか。重いのだ。ぶつけてくるものが。

 

「ドン・ソリトン」素敵な衣装。胸元が透けて見えて美しい。それだけでなく細かくキラキラして。顔が前の衣装と違って見える。和らいで。こちらまで気持ちが和らぐ。何の歌だろう。なぜあの歌詞でこう哀しいのだろう。

「アイ・モールリア」ナイチンゲール。何の唄。

「ゴンブレム」密売者たち。何の。恋人も私の敵。なぜ。

ポルトガルの家」なぜこういう歌をわざわざ作るのだろう。わざわざ歌をわけがある。

コインブラ」手本は一曲の歌か。こういう歌だったのか。

「暗いはしけ」“アー”が泣いている。悲しい“アー”。

「ヴィアナに行こう」流浪の民よ、罪は20年。

「涙」作詞彼女。涙の流れる愛の歌。『あなたが好きだ』と言って悲しいメロディ。愛の中にも死が入ってくる。物事の見え方が私と全く違う。『嬉しく死んでいくだろう』と言いながら哀しい。でもこれは死ぬのだからそりゃ哀しいのかもしれない。生きていくこと自体が。嗚呼。目をそむけていないか。にらむことはないが見えないようにしていないか。喜怒哀楽だ。厳然と立ちふさがるものへの垂れる頭か。哀しい。哀しいから生きる。喜ばしいから生きる。ただ生きる。正しいから生きるのでなく間違っているから生きないのでなく、与えられた生命だから生きる。「ここまでだよ」と言われるまで。生きているから生きる。

 

「真夜中のギター」生きていくべき人生。

「洗濯」はイントロのギターから素敵だ。暗がりの中に彼女の顔だけが浮かぶ。この演出、アングルよい。「歌うことが苦しみを忘れさせる」か。切実だ。あの頃より凍えているのか、なぜ。彼女は“生きる”ために歌っているのではないだろうか。“生きたい”から歌っているのではないだろうか。抜きがたい背景はある。でも、そういう個有のものの底流に“生きたい”があるのではないだろうか。今を凍えていると感じる心。それを表現までもってくる腕力。不幸を懐かしみ、何もないから抱くことのできた望みを懐かしく思える本当の豊かさ。今をだましながら歩いていくこととする客観性。この歌は叫びに近い。彼女が歌う、彼女を歌わせる動機が私と決定的に違うのか。質が。量が。違うのだろうか。質的には同じ部分があるのではないだろうか。なぜ語れば目をそむけ歌うと聞いてくれるのだろう、と思う。歌とはいったい何なのだろう。

ポルトガル民謡「アルガ・山口・ジーニャ力」強い声。一緒にやってみるとよくわかる。パンチではなく踏みしめるような、フラメンコのステップのような。

「私は海へ」ほとんどの国が他の国と地形的につながっている。そのことの喜びと哀しみ。交わることの喜びと哀しみ。

 

 

 

 

【ミルバ】

 

クラリネットの柔らかい音色、美しい。ミルバ、無駄な動きをしない。足していかない、ひいていく。自分の表現したいもの、自分をプラスに見えるものだけ、最後に残ったものだけか。厳選。厳しく選ぶ、か。やってみたいからやってみるのは本番以外。もし本番でやることに決めたものが練習の時のものだとしても、それは一度ふるったもの。これが自分にできていないこと。何も残らなかったらどうするのだろう…死にはしないけど。どう歌うのだろう。こういうのをとらぬタヌキの皮算用の反対という。ミルバの集中度150%だ。なぜ感じるのだろう。神経が行き届ききっている。戦場みたい。どこから矢が飛んでくるかわからない。一瞬たりとも気を抜くことができない。会場に入ったときから。会場に入るときにそうなるためには、そこまでに、高揚しつつ肝が下に降りていなくてはならない。

 

 

 

 

 

ベッド・ミドラー

 

ジャニス・ジョップリン役のベッド・ミドラーが盛り上がっている会場に出る前に酒を飲み、鏡に写る自分に自らテンションをどんどんあげていくシーンを想い出す。そこにいくまでのやり方はいろいろ。でも、ここから始まっている。ここからしか始まらない。次の曲に滑るように入っていく。そういう構成。前の曲を切り捨てる。瞬間的に入っていくのか。どうやってああできるのだろう。とにかく一瞬だ。そして一瞬にして世界に引き込む、世界を繰り広げる。一声から。その最初の一声にたくさんのものが含まれている。もう既に表現していて、こちらをつかみに前に出てくる。

なぜそんなに一声に入れられるのか。歌を理解し、血となり肉となったからか。

歌詞を読む。こういうものかな。と考える。メロディを想ってみる。こういうものかな。と考える。でもそうかなと想ってみてる。何回。自分はじゃあ、その考え方、想いに関してどう思うか、ピッタリか。どうずれるか。自分の思いの中にないものは歌えない。バランス。一曲に全てを出し尽くしているように見える。本当はステージの始まりから終わりまでを考えてやっているのだろうに、同時に一曲に全てを出し尽くす。ものすごい気力。体力。集中力。一曲気力を維持することすら難しいのに。でもこれはなぜ歌いたいのか、何を歌いたいのかで自ずと決まってくるものもある。

デカイロ。あんなに開かない。舌が下あごにピッタリくっついている。私は舌が盛り上がっていく流れをみている。口の中がデカい空洞。通路を歩くときもバンドの裏を歩くときも全てステージ。ずーっと入ったまんま歌い始める前に入るんじゃない。出したいものを一度中に入れ込んで密度を濃くして出してくる感じだろうか。身を捧げている。なぜそう感じるのだろう。何がそう感じさせるのだろう。どうやって息を吸っているのだろう。

 

 

 

 

【クラウディオ・ビルラ】

 

フレージングについて、あまりにも自分の頭の中で、ぐちゃぐちゃになってしまっていた今日、この頃、ビルラのフレージングをじっくり聞こう…と思って観はじめた。彼のカンツォーネは、私が日頃聞いているカンツォーネとは少し違って、正統派という感じがした。声がとてもクリアーだし、声楽に近い。“アク”とか“クセ”とか“毒”みたいなものが、何も感じられない。ポピュラーの域を完全にはみ出していて、一時代前の、古きよきヴォーカリスト健在…という感じだ。ミーナの男性版かな。

彼の歌を聞いていて、全体的に感じたことは、ことばがメロディの中でとても気持ちよく流れていること。メロディの中で、ことばが気持ちよく踏み込まれている…ということで、とにかく聞いていて気持ちよい。聞き手が無意識のうちに求めているフレーズの流れに期待通りに答えてくれているから、とても自然で違和感がなくて気持ちがよいのかと思った。音を声に一つひとつしっかり置いている。一つひとつがたっぷりしているから、全体としてのスケールが大きくなる。日本のこぶしのようでもあり、コーランを唱えるときの声のゆらしのような感じで、地方の曲を歌うのが、とても印象的だった。また、表情、身振り、手振りと歌の雰囲気がよく合っていて、これまた自然な感じ。とにかく完璧。参った。声のコントロールが凄いのはもちろんだが、感情の高まりを声で表現しているのが特に凄い。その表現が、その曲のメロディ全体的な雰囲気にピタッと合っている。“総合力”を強く感じた。「きちりできた歌」、彼が相当の努力の末に造ってきた培ってきた世界だった。

 

 

 

 

ジョン・レノン

 

「スーパースティション」声のパンチ力が今まで聞いたのと違う、弱い。口が先に出たとき=口で歌っているように見えたときだ、弱い、と感じたときは。体から出たように感じられたときは、同じ歌の中でもそう感じない。もしこの感覚がそう遠くないものだとしたらスティービーワンダーぐらいの人でも歌が体から離れる瞬間がるのだろうか。勘違いか。体がはねてる、体の中に音楽がある、音楽の中に浸って楽しんでそれを見せている。これがなかなかできない。親しむ回数が足りない、身体が堅い、身体で会いにいってない、集中力が足りない。こころがかたい。心を開いて会いに行っていない。自分でもうある程度色づけして会いに行ってる。真っ白で会いに行く、か。大きな音で包まれたい。が、でいない。身体を任せることが助けてくれる。女の人、ことばで、ことばだけでのせている、あるのは簡単なリズム(ヴォリューム小さい)にほんの少しのメロディだけなのに、英語の言葉の中にリズムがあるからだ。……ダダダダダダ○(間)~話の間がブレス。やっぱり歌ってない、語ってる。1オクターブが同じだ。歌はしゃべること。流れてない。私は流れる。流してないつもりでも聞いてみるとしっかり流れちまってる。この歌の構成は歌って語って歌って語って、それが全部つながっている。歌っているところは語っていくうちにメロディがついてしまった、という感じ。音の高低は感情の高低。歌を特別なものにしてしまっている。もっと、もっと語るに戻るように。伝えたいことを語る。そこには様々な感情があるはずであり自然と緩急、強弱、速遅、区切る、ことばに自ずとあるはずで。そしてメロディが伝えたいこと。からませてみる。身体を使って。

 

ジョン・レノン。言いたいことがあるから言ってる、それにメロディがついている。体で言いたいことは体の中にあるのだからそれを伝えるだけ。それが、こういうメロディ、リズムなら伝わりやすい。自然だし、わかりやすい。伝えるだけ。人が違うのだから言い方は違ってあたりまえ。同じ「うれしい」を言っても。同じになるはずがない、同じになったら嘘だ、ということだ。でも、違ってもそれが自分のそれかどうかがわからない。流れちまうか流れないかが判断の基準になるだろうか。早めに気づく目安はないだろうか。やればやるほど見えなくなることが多い。うつ伏せで大きな音で自分のテープを聞くか。盛り上げようと思って盛り上がるんじゃない、体の中が盛り上がるから歌が盛り上がる。とても自然なこと、単純なこと。マイクを通しても通りにくいオノ・ヨーコの声。それはなぜか。もし彼女が日本人でなかったら。伝えたいことは充分にあるように見えるのだが。あれだけ体を使っているように見えるのに。ポジションが高い。浅い声。それに比べてジョン・レノンは張り上げなくても、ビタッとうちつけてくる声だ。「ア~~~~」とのばすところ、最悪、でも体制に影響なし。伝えること、伝わることに影響なし。叫んでる。動物に戻って。歌ってるときにああ自分も動物だったんだなぁ、と思えたことなし。それはなぜか。伝えたいことはこのこと。はっきりはっきりしている。これが最大。それを伝える方法は様々。彼はこういうことを伝えたい、ということ。オノ・ヨーコのあいの手がなんとキンキンしていることか、浮く。叫ぼう、として叫ぶんじゃなくて、言いたいことがこういうこと。叫びたいから叫ぶ。スティービー・ワンダーの体が歌っている。歌いたいことは体の中にある。

 

 

 

マリア・カラス

 

生活(人生)か芸術家、という議論は昔からある。芸術家であれば生活者としての能力は落ち、生活者に徹すれば芸術を生めなくなる。私は芸術至上主義的な考え方も嫌だし、生活者に甘んじるのもつまらないと思う。平凡な見解かもしれないが、ある意味で真実だと思う。偉大な芸術家ほど、人生と芸術のあいだを行き来しているように感じられる。これは人生と芸術、どちらか一方にかまけるよりも苦しいことである。だがその苦しみはスリリングな喜びに変わる。

彼らはそうすることによって、自己の芸術的世界と人間としての生き方を磨き上げていく。マリア・カラスは芸術家として、又ひとりの人間として限りなく成長する。私は彼女の舞台をみるまで、オペラに対して固定観念があったようだ。とにかく声の力を前面に出すこと、それが私にとってのオペラだった。

だが、カラスは女として、人間としての感情や思考、その全存在を演技にぶつけた。彼女の声は強く大きいが、それは役になりきった彼女の感情のうねりと共にあふれ出してくる。

トスカの第二幕の彼女の声は血と肉を持った女のヒステリックな呪わしい叫びであり、それ以上のものはない。そしてそれは彼女は人生(生活)と芸術との反復的な相乗効果から生まれた代物だと考えるのは、不自然なことではないと思うし、彼女のスキャンダラスな人生から彼女の芸術を知ろうとするミーハーじみた空想でもないと思う。彼女は芸術なしには人生を送れなかったし、生きることなしには芸術を生み出し得なかったと思うのだ。実際、彼女が生んだものは生活でも芸術でもなかったというところにマリア・カラスの偉大さを私は見るのだ。

 

 

 

美空ひばり

 

日本の曲自体好きじゃなくて聞こうとも思ったことがない。美空ひばりは人気があり、子供の頃から歌っているくらいの知識で、自分が何かを感じ取ることができるのだろうかと不安でした。でも、ちゃんと感じることができました。同時に今の自分の歌にまたもがっくりきてしまったのでした。“何て1フレーズを大事に歌う人だろう”というのが第一印象で、一言もおざなりにしないし、ちゃんと詩に入っていて、情感がたっぷりで、MCで話すときにもとても艶っぽいというか、心地よく、小さい音、大きい音、他にもいろいろな音色、響きを細かく使い分けていて、凄い表現力でした。

私は表現して気持ちを込めて歌ったつもりでも、録音したものを聞くと一本調子なので、こんなに自由に表現を使い分けられるなんて。観客にもちゃんと伝わっていて、“歌はわが命”というテーマ通り、よいステージだったと思います。トレーニングして、今より成長したときにもう一度聞いてみようと思いました。

 

 

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【驚異の小宇宙-人体】

 

私の体の中でこの活動が行われているのかと思うと、むずがゆく恐ろしいくらいの世界だった。人体は多機能搭載の航空母艦のようなもので地球という宇宙を遊泳し、危険を回避し、栄養素を吸収し、生命の素となる片割れを探し、出会い、又新しい命を生み落とし、死んでいくのだと思う。「人生」を考えたとき、子供を生まない選択も可能だが、母体となれる体を持って生まれた以上、その企てに参画しないのでは、本当のところ「生きる」ことがわかりそうもないと感じた。この体から世にも美しい歌が紡ぎ出されるというのは奇跡に近い作用だと思う。さまざまな内外の刺激から発動された興奮が、神経に伝わり、その興奮のバイブレーションが、内蔵器官や全身に張り巡らされた筋肉を微細なコントロール力を持って動かし、空気を震わせ、声帯で声に変換され、外へ飛び出し、伝播していく。この体を自分の意志やイメージ通りの歌が出てこれるまでに制御していく道は緻密だ。それぞれの機能が連動し、なめらかに動き出す合理的な体とする道。全身全霊の歌へ。歌を想うとき、(生命)だけでは足りない。歌うのは心臓のポンプではない。歌には「いのち」と、さらには「魂」が必要だ。今日のは、肉体が死ねば止まってしまう生命だ。歌のいのちは死なない。自分の生命を守り、育てるとともに、私は人として、自分として、かけがえのないものとして、いのちと魂を育て続けねばならないと感じた。

 

 

【ベラスケスの小さな美術館】

 

画面の色。セピア色の地色に黒が、白い肌が、白い髪が動く。肉体が動く、筋肉が動く。緊張が解けない。動きが止まっても、こちらの息はゆるめられない。底流に流れるものは何だろう?不安だろうか。場面の展開も期待に満ちたときではない、でも足をとめない。前に進む。

フラメンコのギターとも違う。でも哀感のある、でもそれだけではない不確かな感じのギターとダララッというようなリズムがずーっと刻まれていく。足どりの音か。鼓動の音か。あれだけ動きまわっていたものがとまり、立ち去り、椅子に座り一人際だった赤を身につけ向こうの小さな遠近法で見たような部屋を横顔で見て終わる。いわゆる美術らしいものは何一つない。立ち去り方もイチベツをくれる程度だ。この赤い服の人は途中横たわって眠っているか、後ろ姿か、男性と向かい合い、でも結局なにかのアクションを起こすでもなく、という描かれ方だ。

喜怒哀楽がない。他の人々と対比させてみて。それが際立つ。ほとんど動きのない、でも赤い服を着た、なおかつロングドレスを着た女性をわざわざ登場させている。この人はなんなのだろう。踊りの動きに気になるところがいきつかあった。顔にまとわりつくような手の動き。余り多くてイライラする。でもいろいろなところに出てくる。もう少し具体的に口をぬぐうような動きはなんともないのだが。何だろう、自分がそうされているような感覚を覚えるのだろうか。

観る者、聞く者の感覚というのはこういうものなのだろうか。演者に入り込んで疑似体験するのか。二人で踊るとき、男女、男性、女性、どの中にも闘いのような動作がある。ハリ手、ぶんなぐる、突きとばす、カンフーのような全身を使った楽しさ。形を整えるのでなく、とにかくスピードをもって動く。とまる。投げる、受け止める。顔を思いきり下に向ける濡れた髪とともに仰ぎ見る。緩急がそれぞれのリズムの中に最後までとまらずに繰り広げられる。

おもしろいのは女性が男を抱き抱えて踊るシーンだろう。思わず楽しくて笑う。実に楽しい。なぜ。ああありたいのだろうか。構図が変わるとき。「あなたが思っている横は本当に横。実は縦だよ。」と聞こえる。水の中に背中をこちらに向けて横たわる人。「空気中と思っているは本当は水の中だよ。」と聞こえる。目に見えるもの、目に見えないもの。そこにあるのに映らないもの。映らなくてもそこにあればある、と言えるのか。自分が感覚したものだけをある、と言うのか。

目に見えないけど感じるもの。感じるもの。確かなもの、不確かなもの。自分が確かだと感じるもの。わからなくなる。でもまとめない。バラしておく。バラしておきたい、と体が言っている。私は一体何者か。女性3人で白い肌に黒の下着をつけて踊るシーン、素晴らしい。何がか。筋肉が踊ってるようにみえた。遊んでいるようにみえた。引く、寄せる、つきとばす、手をつなぐ、手を離す。舞台の片方に3人共寄る。そこからまた弾ける。真ん中に白い髪の毛、両側に黒の髪の毛。立っている、ひじてつくらって倒れ込む。あの場面全体の中にあるリズム。色調は。3人ならんで手をつないだ、動きだすとまる美術品だ。

浅い水の中で2人踊るシーン。あの水は必要だろうか。あの水の量か、あの枠が額縁か。姿を有る程度見せないと肉体が伝わらない。肉体が発することば。体の動きがことば。動くから言葉を発する訳ではない。動かないでおしゃべりな体。動きまくって何も言わない、語らないからだ。踊り手の表情に目がいく。男性と絡んだ女性2人が踊るシーンで白い髪の人は自分の表情にも神経がいっているように思えた。よりそちらの方に魅かれる。

 

表情。表情とは何だろう。表わす。情とは何だろう。顔が既に表現している。止まると方で息をしている。でも踊り出せばまた始まる。始められる。止まったときの方が恐い。何が。勢いで続けられる。でも、もし、これが全く途中止まらなかったら、観客としてまずどうだろう。おもしろくないかもしれない。とまるから、次は何だろうと思う。演じ手としてはどうだろう。極端な言い方をすれば考えられないから、自分が見えない、自分が見えないからどこにいってしまうかわからない。

そうか。止まることは重要。歌一曲にあてはまるだろうか。あの長時間あの動きを支える体。肉体は筋肉だ。凄い肉体。画面から去って本当は息たえだえだとしても観ているこちらにはまだエンエンと踊れそうに見える。そう思わせるパワー全編のなかにある。そして集中力。本能に聞く。こう動きたいからこう動く。こう踊りたいからこう踊る。

一人のとき。二人のとき。互いの関係がこうあってこうしたいからこう動く。三人、四人、五人、六人。それを支える鍛え抜かれた肉体。こう声を出したい。本能に聞く。言いたいのはこのこと。この歌いたい。こう動きたいと体が言っている。動きたい、踊りたい、をあの表現まで一生懸命。遊びながらもっていた。歌いたい、を一曲の表現までもっていく。もっていって初めて表れる。表さなきゃわからない。

彼らは熱く伝えてくれた。全身で。全身で熱く伝える。一曲の歌。鏡に向き合う。写し出される自分。向かい合う場面が始まりと終わりに出てくる。服は着ている。だが中に入れば服は着ていない。踊る体があるだけだ。豪華な衣装に身を包んでいるかのようだが作りものだ。セットごと上に引き上げられて、やはりそこに肉体がある。そしてやはり踊る。今は鏡に写った目に見えるものしか見えないかもしれないけど、入ってごらん、この美術館の中にあなたがいるから。映し出される、照らし出されるあなたがいるから。彼女は入った。傍観者じゃない。

 

全く隙のない作品だと思う。また、そうでなければ成り立たないと言える。統一されたものをつくるには、どれだけ細部にこだわるかにかかっている。音楽にしてもビジュアルにしても自分たちが最も表現したいことをひきたたせるために重要な役割をしている。ストーリー的なものはほとんど削って肉体表現のみに徹している。磨き抜かれた肉体、研ぎ澄まされた動きはなぜこんなにも美しいのか。そういうものとの間には言葉はいらない。それだけで価値があり、人を納得させるものがある。

基本の型が身についていなければ、あれだけの動きに体が対応できないと思う。人間の体は反復して覚え込ませれば、必ず反射的に動くようになる。彼らの肉体は本当に長い年月をかけて作られてきたものなのだと思う。バレエのビデオや本をみても肉体を鍛錬してゆくこと、音楽的名者をいれてゆくこと、表現力を養うこと全てにおいて、ここまで厳しくやらなければだめなのかと思うくらいの厳しさだ。完成や完璧さを求めていけばそうなるのは当たり前のことだ。

基本と向き合い深めてゆくことでしか表現の可能性は広がってゆかない。彼らがどんなに多くのアイデアをもっていたとしても基盤がしっかりとしていなければ形にはなってゆかないだろう。姿勢一つ、立ち方、歩き方、ステップ、回転、ジャンプ、手の動き、それらを支える筋力、精神力、集中力、体力…とかき出したらきりがない程あると思う。どんな状態になっても崩れない型は絶対に必要なのだ。あれだけの動きをしてバランスを崩さず(崩しながら変化しているともいえる)呼吸乱れず(乱れてもすぐ回復できるのかもしれない)表に出ているものではなく、みえないところの完璧さに驚かされる。真似しようとしても何ひとつできないだろう。