一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

投稿・おすすめアーカイブ  14500字  788

投稿



出どころがどうであれ宿命というのであれば国を超えて既にそこにいる人間共通のもの。しかし、生まれるべくして生まれるものが宿命か。なぜこうなるのだろう。地球上に多くの国があり、そこに生身の人間が生きている。戦いが繰り返される国、そうでない国。イヤ、やっぱり表面に見えるものだけじゃない。戦争で体が不自由になったあの少年は見舞う人に「あなたに神の祝福がありますように」と語った。一体どんな気持ちで。生きていくとは、こういうふうに繰り広げていくしかないのか。与えられた生命以外の生命を生きることはできない。戦いがおさまってやっと帰った自宅の大好きなぬいぐるみを抱いた途端、そこに爆弾がしかけられて体中弾が細かく入り込み、とりのぞく手術をして体中がガタガタになり心は凍りつき果てても、もしそれが私だとしても、その生命をやはり生きるか。長さで測ろうとしているからより過酷にうつるのか。イヤ、永遠のものは自ら取りにいく一瞬なのかもしれない。あの少年があのことばを獲得するまでの長い道のり、今も闘いつつ出したことばかもしれない。でも少年は与えられた生命の中で自分を捜し、とりにいってそのことばをつかもうとした。そういう生きる姿勢。そういう生き方を結果的に選んでいる。出てきたことばもそうだがギリギリの生命でなおかつ闘い続け内に入っていってしまわず、他者に向かい、なおかつ他者に向かって輝くものを差し出す。そういう心のあり方が心を揺さぶってくるのだろうか。何かあるから差し出すのではなく何もなくてもつめてつめていったところのものをそっと外に向かって差し出す。中にしまい込まない。差し出されたものの見た目の大小よりも、結局取り組む密度、動機、嘘だけはつかないが、輝きを決定する。子供は素直だ。取り戻せるか。手だては。

 

出てきておじぎをしてすぐ始める。要は歌。苦しいかもしれないが、こういうステージが好きだ。できないかもしれないが好きだ。美輪明宏のステージより好きだ。歌でステージを作っていく。もの凄く難しいだろう。曲順そして歌だけで飽きさせないものを持っていなくちゃならないのだから。コミュニケーションはやはり歌でしている。コミュニケーションを歌で取りたがっているのが伝わってくる。楽しんでいるかな、と気にかけているのが伝わってくる。

路上で「歌いたい!聞いて!」と歌い始めたとする。少しポツリポツリと聞いてくれているように見える人が出てきた。人々は楽しみたいのだ。耳をそばだててくれただけでうれしい。もっと歌で楽しんでもらわなきゃと歌を出す。少しずつ人が増えた。嬉しい。また歌を出す。凄く嬉しい。はっきりと具体的に一緒に歌で楽しみたくなる。一緒に口ずさんでみませんかと言ってみるか一緒に手拍子しましょう、と言ってみるか。とにかく具体的に一緒に歌を歌いたくなる。お客さんとのあいだがグッと近くなった気がする。うまくいったときというのはお客さんの方も歌い手に近くなったと思うのだろう。そしてもっと、こんなに親しく感じるようになったのだからもっと楽しんで笑顔に泣き顔になってもらいたくなる。出していく、ウン。出していく、ヘー、(聞いてくれるのか)、出していく、そうかもね、出していく、そうだね、出していく、ウンウン。夢だ。どこでもこれだけが欲しいもの。

 

オリコン』で、感性一番人間というページがあるのですが、そこで、小池社長が、福島先生と全く同じことをおっしゃっていました。歌は、「オリジナル性が大切で、元の歌手と同じように歌っても仕方がない」と。「一度、歌が下手になって、自分のものを創り出せ。」

 

ロイ・ガヴナンのインタビューを読んだ。“メシアが再び”と“ギタリスト”であることしか知らず、“ロイブ・キャナン”だとずっと思っていた人だった。自分には資格がない、どうしようもない、もうだめかもしれないと思うような、かけらも余裕のないとき…普段だったら絶対見ないようなインタビュー記事を読み始めた。こういうとき、神や何か高次元の存在の手の上なのではないかと思ってしまう。以下長いですが、抜き書き。

「つまり、すべてはプレイにおいて緊張感をつくりだせるかどうかということなんだ。ヴォリュームを変えたり、スケールを駆け降りたり、登ったり、その前にどうやるかちょっと考えてみたりする。最初はシンプルなことでリスナーの注意をひきつけ、展開させてゆく。常にちょっと前のリックを超えたものを、音楽的なクライマックスに持ってゆくために練り上げなければならない。人々の気持ちを引きつける。それが大切だ。観客を、そして自分自身をそのピークに持ってゆく。みんなの顔を見ていればうまくいったかどうかわかる。」「時にはたった一つの音に、すべての真実が込められていることがある。いくつの音の羅列よりもたった1音が大きな影響力を持って響く場合もあるんだ。説明するのは難しいんだが、私はすべてのノートが一つの音に集約されているように思うことがあるんだ。感情を込めて引いた音が多くの人を感動させる。そのノートはいくつもの他の音も含んだ上で存在していると思う。たった1音だけで他を圧倒してしまう音を私は何度か聞いたことがある」「あるミュージシャンがこんなことを教えてくれた。“もうこれ以上何も学べる気がしないときや、僕はもう限界なのかもしれない。きっと今以上には自分にはなれないと思うとき、そういう風に感じているっていうことは、今、実は君自身が新たに学び始めつつあるということなんだ”うまくいかないとか、もう何もできないとか感じたらそれは次に進むためにまだまだ学び続けろという合図だと思うことにしてるんだよ。」。、

 

この頃「あの人、一年前はあんなに熱心だったのに」と思う事例をチラホラ見かけるようになりました。突破口を見つけるために頭を使えばよいのに、できない理由を数え上げるために頭を使ってしまう。勝敗は時の運と言いますが、戦う前に自滅してしまう。外界で戦う前に内面で負けてしまう。この手の話を聞かされても、クールに対応しているつもりですが、内心は正直なところ恐い。戦う前に自滅していく彼(彼女)の姿は、明日の自分の姿かもしれないからです。

 

この頃、エゲツない物言いが増えて大変恐縮ですが、声や歌を磨いても今の日本で商品価値を持たないことは、気づいていました。日本の音楽業界に合わせれば、世界や芸術の本質から遠ざかり、歌の本質を追求すれば日本の音楽業界から遠ざかってしまう。

「このまま続けても、先に道はないよ」と言う彼らの意見は、実は全く正しい。こんなとき、才能よりも生き方が問われるだけに、とやかく言いたくない。できるだけクール(冷淡。)に応対しているつもりです。八方ふさがりに見えるときこそ、なんとか踏みとどまり、今の自分にできることをやるしかない。可能性があるときに勝つよりも、可能性が見えないときに負けないことの方が、生き残るためには大切だと思います。音楽に関してだけでも、日本にはいろいろ問題があります。(沖縄をのぞいて)音楽的な土壌がない。(そうした中でも優れた才能が現れることはあるが、)才能に磨きをかける場がない。才能に磨きをかけても、その実力を正当に評価して世に送り出す仕組みがない。

 

ここは私にとって基準である。私は、ある感覚を自分のものとしたいと思ったとき、一つところに留まらず、臭覚の命ずるままに彷徨い、その匂いのする場、人に交わりながら体験していくのが好きである。もしここがなくとも、そんな旅をしていたと思うが、そんな自分を見つめるもう一つの目を持てることは(しかも世界レベルの)、より広く・深く・正しく身につけるために、あるとないでは大違いだ!私は何よりも、ずれないために、この目を曇らせないために、ここにいるのだと思う。でもいつか、この体験を体に結集させて一つのところに投入していけることが、目標だと思う。

 

誰もが持っている時間を輝かせられるのは、自分の心次第。

 

先週一週間、会社で長期休暇を取った。そのときは、朝、目覚めてから、じっくり体を起こしていく作業に取り組めたが、今はやはり慌ただしく動く体になりきれない。一度、体の中を入れ換えたときの清々しさと反応のよい肉体を知ってしまうと、そうでない場合、何をしていても歯がゆい。時間の作り方を考えねば。生きている気がしない。

 

今までやってきたペースを保つということは今まで以上にやるということ。ときたま私はこのくそまじめな自分をおかしく思うときがある。しかしそういう自分が好きでもある。Fight Oh!!

 

オリンピック真っ最中。スピードスケートを見ていた。その滑る姿があまりに美しくて競技であることを忘れさせるくらい。TVで見ているからよくわからないが相当の速度なのだろうな。無駄な動きが少しもない。あったらあれだけ速くはならないだろうし。本当にその姿は絵になる。でもその裏は多分想像つかないくらい過酷であのレースに対応できる体を持っているわけだ。人を感動させるということは並大抵なことではできないのだ。

 

調子いいときに見えるものをしっかりと心に刻もう。

 

歌をやっていくということは、一人でやっていくこと。どんな状況であれ、歌った瞬間にそこに自分が舞台を作り出していくこと。あの場に命を吹き込むということ。大変なことなのだ。

 

もっとよい歌を歌いたいからここへ来てるんだろ。

 

集中力。自分をみつめる。

 

音楽的にも声に関してもマイナスだけど、やはり好きなことをやらなければ生きている意味がない。

尊敬すべき人は継続は力なりを実行している人。

 

チリの楽器を買った(楽器といえるのかわからないけど)。1mぐらいのサボテンの幹で外側からサボテンのトゲを沢山うちこみ中に木ノ実や小石をいれてある。逆さにすると「ザザザザー」と波のような音がしてその後に「カランコロンコロン」となんともいえない音がする。この音を聞いていると本当に幸せな気分になる。

 

3年半がたち、やっと「ここは自分の稽古場なんだ」という実感が訪れた。これからここに自分の匂いや汗をしみつけていきたい(えっ、嫌ですか。)もがいて間違えられるだけ間違っておきたい。

 

歌に対しての意識が変わったのはここに来てからです。自分の歌を聞くのが嫌になり、どうすべきか悩み迷った末に決めたので、新しい風を吹き込む一つの窓として、新鮮な“何か”を得られる、そしてつかめるのではないかと大きな期待をもって入った私ですが、まだ3~4回の授業だというのに、期待以上の“なるほど”や“そうか!”に嬉しく思っています。実際にこの発見が歌に生かせるようになるにはまだまだ長い時間が掛かりそうです。まず、CDなどは好きなアーティストの曲を聞くことしかせず、ヴォーカルを目指す聞き方ではなかったように思います。

 

最近、ごく最近、やっと「歌ってしまう」ことと「表現する」の違いがわかってきた気がする。特に高音になるとそれは現れやすく、やはり始めは必ず、私は「歌ってしまう」(音程と響きなどの音声のみに意識がいくこと)ことから始まって、心の中で“いやいや、ただ歌ってるだけだよ。これじゃ”と思い、やっと言葉に意識を置いて練習をやり直す。というのはきっと、その音域が出るかどうか確認をして、ポジションがキープできるなら言葉に中心を置きましょうという考えでやっているからだ。要するに、ポジションをキープできる高音の信頼性がないからだ。

 

『音楽』著小澤征爾武満徹

「音楽を素晴らしいと感じるのは、その愛し方だよね。音のいつくしみ方のちがいだよ」

 

音楽文化研究家の長田暁二氏が紹介していく。

美空ひばりの天性の歌唱力をさらに高めたのは本人の努力もさることながら、作詞・作曲家の全力投球もあった。ひばりならどんな難曲でも作者の想像をはるかに超え、自然に歌い込むと、作家たちが燃えたから、いい唄が生まれた。

ひばりの作品を百曲以上も書いた船村徹は、「歌に対する本能的解釈力は他の歌手とは別次元にあって、私には歌うためにやってきた異星人に思えた」と述べる。昭和37年の「ひばりの佐渡情話」は、彼がひばりを少しいじめてやろうと浪曲調のたたみ節あり、ジャズ風のリズムのゆさぶりありで、凝りに凝って作曲した。これもひばりに難なく歌い込まれたとき、「ブラックホールに吸い込まれてしまうような恐怖感すら抱いた」と言う。

昭和53年、渡哲也の「みちづれ」を牧村三枝子が再び歌うことになった。原調のキイを一音下げて歌いやすい音域にして欲しいという牧村の希望に遠藤実が一喝した。「地声を一杯一杯に張ったところが切々と訴えるのだ。君の申し出では主人公の切なさ、愛の力が表現できない。楽に歌える音域でばかり歌っていると、生きた歌は歌えない。楽をして何となく歌をまとめようとするとは、もってのほか。この唄をヒットさせて故郷・北海道から両親を呼び、一緒に住める家を建てたいという決心がないなら、さっさと歌をやめなさい!」牧村は涙をポロポロこぼしながら「先生、やります」。約束通り百万枚を超すヒットになるまで彼女はスタッフともども頑張り、念願の家を建てたのである。

 

なぜみたくないものをみなくてはならないのか。なぜ汚いものをみなくてはならないのか。少しずつわかりはじめた。オプティミストとめをそむけること(人)は別だということにも気づいた。

 

もっと感じよう、眼をこらして、耳を澄まして

 

CM音楽の巨匠・小林亜星さん

直言を挙げておく「ある程度日本のCMは世界に認められていたが、ここ数年で後退してしまった。CMの映像も音楽も、若い後継者達が挑戦することをやめてしまったように感じる。日本の中でしか通じないギャグを作り、単純に昔のジャズのスタンダードを用いれば、大人の世界が表現できるなんていう感じではない。オーソドックスなものを大事にして、右脳に残るものを作っていかないと日本のCMは滅んでしまいますよ」。

 

「ノムダス2 弱者が勝者になるために」(野村克也著)

「練習とは不可能を可能にすること」本当に練習は大事だと思う。「すべてこの世は『縁』なりき」『縁』も『情』も大事だと思う。

「『進歩』の原動力は何か」1、競争意識 2、模倣 3、ヤル気の継続 「進歩はなぜの積み重ね」まず、鋭い感受性があること。くだいていえば、他人より多く感じることができるかどうか。僕は自分では感受性は鈍くない方だと思っているけれども(じゃあ、後は意志と能力そして自己実現欲求か)、

「人を他より気高くするのは、どれだけ他の人より感じるかである」ということだけは間違いない。

「なぜチャレンジには限りがないか」というより、限界のない挑戦をし続けないといけない、ということかな。「尊い知識ほど単純である」僕はまだ単純化できてないところがあると思う。

「言い訳は進歩の敵」言い訳って僕も思わずしてしまうけれども、最低「すいません」をひとこと言って後に続きそうな言い訳を自動的に断ち切らないと。

 

「『懸命に聞く』は運命を左右する」とまで野村監督は言っている「最低、一生懸命に聞いているフリをする、これだけでも大きな違いが出るはずだ」と。「和して同ぜず、同じて和せず」和しているだけでは一流であるとは言えないけれども、和せずにいるだけでは健康であるとは言えない、これは難しい。

 

「“三上(さんじょう)”で思う大切」三上=トイレの中だけで聖書を丸四年かけて完璧に読み上げた75歳の弁護士倉田卓次さんの域まで行かなくとも、本を読むとか、多くの人と会って学ぶとか、自分のアンテナを磨いて人より多く感じ取るとか、といった作業は軽んじてはいけないであろう。

 

「ねたみや僻みをエネルギーに転化する」強い自己実現欲求の裏がえしにねたみや僻みがあるのだからこれは回避しようがない、エネルギーに転化するしかない。

 

「希望とは目覚めて見る夢なり」アリストテレスはいいことを言っている。

 

川島守セ・リーグ会長は「幸運の女神というものは、笑顔と謙虚さのある人間にしか微笑まないよ」と、野村監督に言ったという。笑顔と謙虚さのある人間にしか微笑まないよ、か。

 

人前でなにかを表現する人間は解放されてなければならないというが解放するとはどういうことだろうか。本当に表現することだけに集中できたとき、人の心は解放されるのだと思う。観客とステージの上の表現者とでは全く精神状態が違うと思う。エネルギーが自分の中で凝縮されて弾けている状態だと私は感じる。日常を普通というのなら全く普通ではない。そういう状態を常につかんでいける人間がプロなのだと思う。解放するには不安が心の中にあってはいけない。内に秘めたものを全て外へ出さなければならないときに自分の中に不安があったら出てゆけない。彼らから伝わってくるのは人間の強力な“気”みたいなものだ。そういうものに触れたとき、自分が硬直状態になっていることに気付く。目をそむけられないし、動けないしまるで蛇ににらまれた蛙のよう。揺れて流れる空間ではなく、時間が止まってしまうような錯覚に陥る空間。そういう空間を自分もつくりたいと思うが、それにはものすごい集中力と精神力がいる。そして維持させるためには表現を支える技術がなくてはだめだろう。

 

表現において人を魅きつけるものとは何かと思う。人は見慣れたものなぞ求めていない。見たことないもの、新しいものは常に求められていると思う。今の世の中でも新しいものを生み出そうと挑戦しているけどそれだけではだめなのだ。見る目のある人間ならばその意外性の裏にあるものが信頼できるものなのか感じとると思う。本物と認められるものかどうか。変わっていて理解できないが無視できないものがある。それは表現されたものが決して思いつきではなく、何か信念に支えられたものだからだと思う。

私は、人は自分の中に強い芯をもてばもつほどまわりに対してひらかれてゆくと思っている。自分の中に何もなければ自分を守らなければならない、その結ますます閉じてゆく。ひらかれてこそ初めて人に何かを与えられるのだと思う。








ーー

 

おすすめ



アストル・ピアソラとミルバ

”スキが全くない、音の強弱に関係なく表現がゆるんでいない。全ての音に彼の伝えたいものがつまっていて、張りつめた空気が最初から最後まで保たれている。ミルバの歌も動きも表情も同じこと。表現の世界とはそれがあたりまえなのだと思う。ゆるんだが最後全て崩れていくのだろう。音ひとつに密度があるということ。それは声に関しても全く同じこと。重ささえ感じるほどに凝縮されている。表現することだけに集中している。音と音とのつながりもゆるんでいない。集中して解放してということをやっているのではなく、全神経を集中している中で解放されているのだと思う。

 

リアン・ライムス

全米の注目をあつめる驚異の天才少女というからいくつかと思えばなんと15才。写真で見ても15才にはどうしても見えないが、歌の方も言葉にならないくらいすごい。アカペラのアメイジング・グレイスなんて声が生き物のように宙を舞っている。同じ人間なんだよな。

 

尾崎豊

NHKで特集を見たんだけど、やっぱりあの説得力は凄いと思う。命をかけるとか愛することとかものすごく“クサイ”言葉を真剣に投げる。ストレートに出すからストレートに伝わる。決して同じことはしたくないしできないけど、あのスピリットは見習いたい。

 

彼の歌う姿を久々に見て、自分の心には果たして彼ほどの「叫び」があるだろうかと自問した。私にもいつか“最後の歌”を歌う日が、その瞬間がやって来るのだというリアルな恐怖、焦燥感、寂寥感が襲ってきた。「死」は他人事ではなく、確実にやってくる。明日、いや今日かもしれない。“無限の命があるのなら、心はこれほど歌わない”という詞があったが、私にはまだまだ歌で伝えたい心、叫びたい叫びが山ほどあるのだ。歌うたびに、「これが最後」というぎりぎりの覚悟で、『見るも良し、ひと見ざるも良し、我は咲くなり』を座右の銘として歌っていこうと思う。

 

特集をやっていた。伝えるということにかけてはすごいと思った。生きざまがすべて歌にでてる。歌うということは裸になるのと同じ(以上)にはずかしいことだということがわかる気がした。自分をすべて(生きざま)さらけ出すのはやはりはずかしかったりするけど、それを人々は求めている。歌うことは潔さ、覚悟が必要だ。



マライア・キャリー

コンサートを観た、聞いた。そこでかんじたことは大半の人は音楽を聞いているけれどかんじていないということ。立ったり、座ったり、拍手したりを気にしながら聞く音楽って何なのだろう。何かの本でエマーソン・レイク・パーマーが日本でやる音楽会は大嫌いだ、本当の音楽ができないから。スピーカーのワット数をあげて、何万人の聴衆を相手に演奏したって僕たちのロックは本当にわかんないといっていた。日本に来る外国の歌手は金稼ぎのためだけに来るのだろうか。そのうち日本は音楽において全く相手にされなくなって実力あるものだけが世界と関わってゆくようになる気がする。日本という枠を超え一人飛び出してゆけるものだけが。

 

アンジェリック・キジョ

“Summer Time”がかかっていた。出だしがハミングだけなのだが、それだけですごく引き寄せられる力を感じた。

 

久保田一竹美術館

行って来ました。建物や庭園を含めて、彼のおそろしいほどの美への執念を感じました。妥協の転がる余地がない。痛いくらいの厳しさが伝わってくる。着物は裏まで見て倍心打たれてきました。

 

Red Warriorsの「Fire Drops

再結成後、初のアルバムで以前よりユカイ君の声が深く太くなっている気がする。男っぽくかっこよい(リズム隊も後ノリになってハードロック色が強くなっている)。あと、「快楽のダンス」という曲の歌詞で「北京原人みだいに軽薄に腰を振れ」というフレーズがあったけど、想像力をかきたてられる。北京原人みたいにとはどういう意味でしょう。行き詰まりを感じたときは自分が歌うきっかけになった映画「ローズ」を見るようにしています。歌うことの辛さや楽しさやその他諸々。初心忘れるべからずですね。

 

ルイ・アームストロング

彼のインタビュー。「みんな俺達の演奏をマネようとしたよ。でも、できないんだなぁガハハ(笑)音に対する集中力が足りないんだ。」また、他のミュージシャンへのインタビューで「彼(サッチモ)が言った。『なんか好きなフレーズを吹いてみろよ。俺は一音でそれに値するものを表現してみせるぜ』…どうやら彼は「プワ~~~~」という一吹きで何かを示してみせたらしい。

 

ブラジルのバンド「スカンク」

CDを聞かせてもらった。スカとレゲエの間みたいなので、ブラジルということでアメリカとかイギリスとは全く感性・リズムが違っておもしろかった。

 

モータウンサウンドの魅力

紹介している番組が夜11:00代で放送していた。自分が見始めたときはちょうどバブルガム・ブラザースが、なんだかわからんけど黒人のリズムファンクっぽいのを歌っていたが、普段聞いたことのない彼らの声の太さと呼気の多さにちょっとおどろいた。ブラザーKORNの方は英語が下手だった。TOMは歌も英語もOK。その後に歌った、ティナ・ターナーもどきのおばさんはまるでダメ。口先だけ。もっとそのドラム缶ボディを生かせばよかったのに。

 

ナンシー・ウィルソン

見に行った。あまりのうまさにびっくりした。プロのヴォーカリストは、ここまで素晴らしいものだと実感し、当然とはいえ自分とのへだたりの大きさに気が遠くなった。最後にお客が帰るとき、皆本当に満足して嬉しそうにほほえんで帰るのが、印象的だった。彼女のことを知らずに来た人もいたようだが、本物は人を感動させ、ハッピーにさせるのだとわかった。

 

“カフェ・ルーゾのアマリア・ロドリゲス

”以前、ポルトガルに行ったとき、ファドをライブで観たことがある(アマリアのではなかったが)。ファドにしても、スペインのフラメンコなど、いわゆる民俗音楽と呼ばれるものは、魂が宿っている。心の底からふるえてしまう(言葉ではうまく言い表せない)。哀愁を漂わせたアマリアの歌声は、人生の悲哀やホロ苦さなど、さまざまな想いを一本の太い筋が入ったような力強さでどんどん、私の胸に迫ってくる。ピンと張りつめた緊張感あふれる彼女の声。見事です。

 

キューバのアカペラのグループ“ヴォーカル・サンプリング”

なかなかです!ただのアカペラでなく、楽器の音を声や息でやりつつ、ヴォーカルも入っていて、やたらとハッピーな音楽です。ちょっと真似するだけで、腹筋が痛くなります。CDでしか聞いていなかったのですが、先日TVでライブを見ました。本当に“熱い”面々で拍手!拍手!です。

 

エリカ・バドゥ

昨日クアトロで観た。空間を創造するとは何て自由でダイナミックな事件なのだろう。衣装・光・姿勢・表情・動き、自分がどんな風に見えているのか、知り尽くしていた。計算尽くされた上で、瞬間ごとに破壊に向けて高められていた。一つひとつのことばをしっかりと描いて、意味を知らなくても何を言いたいのか体に入ってきた。強い内向性と脆さをはらんでいるところがステキだった。体が強く開かれているがゆえに、その陰影が見事に映ることがよくわかった。エリカの「あ」は世界共通だった。踊り、叫ばずにはいられなかった。

 

ジョン・コルトレーン

その中で彼の晩年の映像が結構流れていたのだが、凄くショックだった。彼の魂の勢いは音楽となって表れてきた。その勢いというのがものすごくてもう私ぐらいの人間ではとても追いつけないすさまじいものだった。それは彼が死期を知っていたから。否。「音楽」という霊にとりつかれたようなその姿。「せずにはいられない」という気持ちを自分の中で改めて考えている。ビデオに録ったので一日一回観ないと落ち着かないこの頃。「観ずにはいられない」

 

Cocco

今日のテーマ、「生きている表現」ということで、をお薦めする。先月ライブに行ってきた。歌が生理的な感じで大好きというわけではないのだが、本当に歌っている。泣いているのかと思うような、声と感情が一致している歌だった。CDよりライブがお薦め。

 

ボキャブラ天国

数分間の凝縮された笑い(芸)がみられる。ステージ実習のよう。演技の入り込み方、リズム、ノリ、華(はな)など研究すること多し。

 

タンザニアのフクウェ・ザウォセ

「平和を夢見て」このイリンバ(親指ピアノ)とそして声だけで彩られる音世界には確かに心も洗われそうだ(時折、モンゴルのホーミーのようなというか日本の浪曲のような声色を使っているのも興味深い)。

 

インドのシタールの巨匠ラヴィ・シャンカールアリ・アクバル・カーン

「イン・コンサート1972」

 

ロバート・ワイアット

「シュリープ」を聞く。ものすごく難解な音楽を演っていても全然難解に聞こえない、逆に暖かささえ感じさせるあたりが才人と言われる由縁なのであろう。

ラキムのニュー&ベスト・アルバムの2CD「ジ・エイティーンス・レター」&「ザ・ブック・オブ・ライフ」。

 

ゴールディーの「サターンズ・リターン」

2枚組しかも約140分にも渡る音の洪水ぶりからして凄まじいアルバムである。まずは1枚目の1曲目の「マザー」(約60分!)に圧倒されてしまう。本当にどこまでも圧倒的な、ドラムン・ベースという範疇を超えた一大問題作である。なるほど言われてるようにピンク・フロイド的でもあるけれども、ゴールディーという人は基本的にはメロディアスな音を作る人なのであろう、だからフュージョン的でもあるし、90年代のマイルスとかコルトレーンとか言う人の気持ちも分からなくもない。

前作「タイ レス」以上にロック色を強く感じさせるあたりも捨てがたくて、イギリスを代表するロック・スター、オアシスのノエル・ギャラガーの参加した「テンパー・テンパー」や、ブラジルを代表した(急死した)ロック・スター、シコ・サイエンスの参加した「チコ…デス・オブ・ア・ロックスター」などは象徴的だし、デヴィッド・ボウイの参加した「トゥルース」も70年代後半ブライアン・イーノと創作していたあのベルリン時代を彷彿させるデカダンス・ヴォイスで、やはりボウイ・ワールドである。ドラムン・ベースの帝王ゴールディーがヒップホップの帝王KRSワンと激突する「デジタル」も当然ながらマストであろう。

「ドラゴンフライ」はフュージョン・テイストなフルートが本当にもう恍惚である。帝王ゴールディーのニュー・アルバムが必聴であることに変わりはない。

ちなみに「サターンズ・リターン」というのは、ゴールディーによると占星術の用語だそうで、惑星が自分の生まれた日とまったく同じ並びになるときのことであるという。それは誰でも29~31歳ぐらいのときにやってきて、そのとき、人はデジャ・ヴを経験し自分を見つめ直すという。

 

80年代のBGMだったプリンスとU2

チリ・ペッパーズとフィッシュボーンは90年代最強のロック・バンドです。フィッシュボーンの「サンレス・サタデイ」は本当に燃えてしまいます。

“ May your dream come true !  ”♪今、やっと‥‥ 俺たちが自由に振る舞える時代が訪れたんだ 空を明るく照らして 雲を燃やし尽くそうぜ 太陽が顔を出さない土曜日は大嫌いなんだ(サンレス・サタデイ/フィッシュボーン)。

 

ワールド・ミュージックと呼ばれているジャンルのミュージシャンにハマっている。本当に最高である! 彼らの声を聞いていると「ああ、声って楽器なんだなあ」って痛感してしまう。

もうひとつ痛感したこと、やっぱり音楽に国境はない!正に“衝撃の声”であるヌスラット・ファテ・アリー・ハーンもフェラ・クティもあるいはカエターノ・ヴェローゾも英語で歌っている訳ではない(ボブ・マーリィは英語で歌っている)、でもホンモノである。

だから日本語も、ホンモノであるならば、きっと世界に通用するはずだ。

フェラ・クティ(ナイジェリア) 「ザ・69・ロサンジェルス・セッションズ」

ユッスー・ンドゥールセネガル)「ベスト」

サリフ・ケイタマリ共和国) 「SORO」

・フクウェ・ザウォーセ(タンザニア) 「平和を夢見て」

ラヴィ・シャンカールアリ・アクバル・カーン(インド)「イン・コンサート1972」

・ヌスラット・ファテ・アリー・ハーン(パキスタン)「カッワーリの王者」

ボブ・マーリィ(ジャマイカ) 「レジェンド」

・ハッサン・ハクムーン(モロッコ) 「トランス」

カエターノ・ヴェローゾ(ブラジル) 「リーヴロ」

ピーター・ゲイブリエル(リアル・ワールド) 「パッション 最後の誘惑」  

 

魅惑のジャズダンス

ダンスは歌に似ている。理由はいろいろあるが、ひとつに“芸”ということが上げられる。実習の場面では、生徒たちの中からダンスのうまい人を選んでいるのだろうが、講師のそれとは少し(いやかなり)異なる。こういう見方はおかしいかもしれないが、生徒たちのほとんどがどこか“我”に脚をとられているのに比べ、講師の動きは無駄がなく動かせ、そのものに徹している。己を己以上に見せようとはしない。だからこそ産み落とせるものがある。それが美しい(その瞬間こそ最も個人が際立っているようにみえるからだ)。ダンサーがステージで踊っているのを見ているうちに、そのダンサーの姿は消えて、生命そのものが踊っていた、とある人が表現していたのを聞いたことがある。ダンスでダンスを伝えない。歌で歌わない。踊らなくても踊っている人。歌わなくても歌っているということ。私にとっては遠い世界の出来事。だけどいつでも行くことができる。扉はいつも開かれているのだから。

 

“Romeo&Juliet”

和泉元彌さん(Romeo役)の動きが素晴らしいと思った。彼は平素は和泉流狂言を演じている役者だからだろうか、動き・キレが舞台俳優のそれと違うように見えた。肉体が躍動しているようだった。まるで踊り(ダンス)を観ているかのようだった。ただ、いわゆる俳優としての訓練をしていないせいからか、(マイクを使っているにもかかわらず)声が通らない。また心が伴っていないセリフ回しのせいでそのセリフを発しても、意味する緊迫感が僕には伝わってこなかった。とても難しい部分なのだろうと思う。ぼくも今『歌』というものに取り組んでいるが、その世界に入り込み、浸り切り、抜け出し、突き放し、その歌の感覚・フィーリングを表現するのだが、そんな簡単なことではないと自覚している。俳優もことばを伝えるということにおいて、根は同じなのではとかんじた。このためには普段の生活から心と体を一致させる工夫、心を純化させ、素直に生きるような心がけが大切だと思った。簡単なことではない。難しいことだ。とても。しかし、難しいからこそやりがいがあるのだと信じてやり抜きたい。作品自体は、僕はあまり楽しめなかった。述べたように和泉さんを筆頭に俳優陣の心の伴わないセリフが、僕にかんじさせることができなかったのと、もう一つの大きな点は“Shakespear”にあるのではと思った。要するに戯曲自体が時代を越え、国境を越える程に素晴らしいものであるがゆえに、どのように脚色・演出しても(これは芝居に限らず映画・ミュージカルなどとしても、という意味も含む)作品として成り立ってしまい、しかし、そこが落とし穴で、その戯曲自体の風潮や脚本家の意図によって脚色・演出が変えられるのだろうが、その戯曲自体の偉大さを越えることが難しいのではないだろうか。これはBVで練習曲として扱っているカンツォーネなどの曲にしても同じことが言える気がする。曲自体が時代を越え、国境を越え歌い継がれている。それを今の僕が歌う。その光栄さと、重い課題の両方をかんじる。その曲を自分以外の人に伝えることの意味と重要性を今一度問うてみたい。

 

『原初生命体としての人間』

野口三千三(同時代ライブラリー)表面的な柔軟性よりも内側がどれだけ柔軟かということの方が大事だと思う。「生きている人間のからだ、それは皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内蔵も浮かんでいるのだ。」「筋肉に限らず脳細胞にいたるまであらゆる器官、組織、細胞のすべてにおいて、解放されている部分が多ければ多いほど、そこにそれだけ新しい可能性を多く持つことができる。次の瞬間新しく仕事をすることのできる筋肉は、今休んでいる筋肉だけである。」これらの言葉は野口体操の創始者野口三千三氏の著書の中にあるものだが、自分のからだをみつめなおすのにとてもおもしろい本なので是非読んでみたらどうか、そして実践してみたらもっとよいと思う。

 

男子スケート清水選手

レースを見て感動して泣けてきた。別に今まで応援し続けてきたわけでもなく、たまたまTVで見たという感じだったのにあの一瞬の50mの中に今までの私たちにはみえていない努力や気持ちが出ていたと思う。歌も同じだと思った。一瞬でことばで説明するとかではなく伝わってくるもの。それには見えない部分をどれだけ意志を持って高めていけるかだと思う。また、レースの前にスケート場で大の字になって寝ている場面が映っていた。多分、全てを体で感じていたんだと思う。体で感覚するということで私も練習のときとか体中を感じるということで使っている。

 

関根勤は天才なのだ」

本を読んだ。関根自身や欽ちゃん(大将)の芸に対する考え方、ノウハウ、覚悟がわかり、ためになった。気も引き締まった。

ーー