ーー
レクチャー
さて、15、16曲で一つの舞台をやるというのは大変ですが、ポップスは何とでもできるからよいのです。声があろうがなかろうが、共演者としてバンドもいますし、それからおしゃべり(MC)でもちます。いざとなればキィを下げることもできます。
クラシックは1曲目失敗しても、同じ型のなかで2曲目歌わないといけない。メニュー通りに、最後の曲までどんな状態であれ、歌わないといけないという厳しい世界です。見習いましょう。
10代の後半までというのは、練習をするにも、体が落ちつかない年代です。だから声がでるときもあれば、きちんとやっているのに声がでなくなったりすることがよくおきるのです。
特に日本人みたいにトレーニングでようやくきちんとしたところで声をだすことをはじめると、ベースがないわけです。
これらの曲に、共通に一つのベースの声というのがあります。それはなくならないわけです。声が悪いから表現に差し支えあるかというと、本当にその人のオリジナルなものになっていたら失われないのです。声でなくなるということもないでしょう。ただ、インパクトは弱まります。
自分の声を固く感じて気持ちよくないということはあります。違和感のあるときは、いつもよりも体の力を使うより、体を柔軟にすること。こういう状態のときは、入念な準備体操が必要になります。
私はスポーツをやっていたので、こういう部分のプロセスを体が知っているのでしょう。
いきなり歌に入って体力がない、筋力もない、反射神経、運動神経もないという場合、柔軟や体力づくりを、10代のうちにクリアすることです。このへんのノウハウというのは、大きなものだと思います。
声楽の本を読んで、何でこんなに体のことが必要なのだろう、こんなことやらないくてよいのにと思ってよみとばしたことを、みんなをみると、ここが第一の問題なのがわかります。
なるほど音大生というのは運動や体力づくりということをベースにいれていないから、そこが一番の問題になるのだとわかります。集中力も同じです。
たとえば水泳の基本トレーニングは、肩の筋肉が動きやすくなるわけです。肩が凝っていたら泳げません。よく考えてみたら、そういうふうに動く体になってしまっていることが必要なのです。
私が体の注意をあまり受けたことがなかったのは、スポーツで得たときの一つの中心の感覚があったからでしょう。
次に演奏をみて、よいか悪いかという評価も間違ってなかったような気がします。違和感があるものも、これは認めないといけないと思うものと、うさんくさいなと思うものがあります。
体操一つでもこうやってどうなるのかというのを、誰に適応させるかということは、指導の場合は違ってきます。
今日のメニューはオリジナルの声です。これは年に1回ぐらいやりますが、いつもはオリジナルのフレーズ中心です。
何でオリジナルのフレーズとオリジナルの声とフレーズになるかというと、歌い手としてどちらかとるのならフレーズだからです。たとえその人の声が磨かれていない声であっても、ことばにごまかされない直感が磨かれてきたのです。
音楽が宿っていて気持ちよく聞けた方がよいのです。今の日本のヴォーカリストをみてもわかります。外国人でも必ずしもみんながみんなオリジナルの声を取り出しているとは思えない場合もあります。音楽としてやっていけないから、フレーズをやるために、基本となるオリジナルの声が重視されるわけです。
声楽の場合はオリジナルの声でないと、あとでいろんな問題がおきてきます。伸び悩みます。高音域の問題とか、ひびきの問題とか、胸式とか腹式とか、そんなことも含めて、すべてにおいてです。
オリジナルの声というのがあるわけではないのですが、私が定義しているオリジナルの声というのは、その人独自の声というよりも、その人が一番、恵まれた環境(音楽的な環境)におかれていたら、でていたであろう声のことです。☆
それとともに体の原理にあっている声であり、決して失われることのないものです。風邪をひいてくるってしまうとか、少し疲れるとでなくなるという声は、まだその人の本来のものではないのです。本来のものなら失われないでしょう。
現実は、歌っている人のほとんどが風邪で声がでなくなる、高いところとれなくなるわけです。しかし、考え方として私はそう考えるべきだと思っています。それから、こういう映像は、みている人はみんなみている。それをみたからわかるとか、それをみなかったらわからないということではない。声はもっと本質的にその人の中にあるのです。
声楽のやり方というのも、いろんな材料はあってもよいのですが、それを自分の中に取り入れるときに自分で組立てかえないといけないということです。これが非常に難しいです。
情報が3つぐらいしかないと、その3つが本当だと思ってその3つのことしかやらないのですが、それは、やっている人の数だけあるわけです。教える人の数ではない。それを全部取り入れるというのは不可能ということことがわかります。映像をみるのは何もないよりもプラスでしょうが、これをみたからみていない人に対して得したとか損したということではないのです。自分のものとして活かせてはじめて、意味があるのです。それは、今日明日で問われるようなことではない。
オリジナルの声といったときにむこうの人たちが声、呼吸でコントロールするようには、危険で教えられない。高音発声とかハイトーンの音色とかは、やれないわけです。体使えよ、息使えよと、声でコントロールできないところでハイトーンやったらこわれます。
体を使って声を出すということは、今まで体を使わないで声をだしているのを、体の力で押すわけです。そのコントロールの力が中間音とか低音のところできちんとしていなければ、こわれるわけです。
低音や中間音でさえコントロールできない、1フレーズ目でさえコントロールできないのに、同じ質で2オクターブのことをやるというのは自殺行為です。だから、やってはいけないわけです。体で声を出せといても、そうやってはいけない。
この場でレッスンが成り立つには、それだけの時期が必要です。
よく声楽の公開レッスンみたいなのをみると、ああいうふうに教えてくれたらよいのにと思う人がたくさんいますが、それには前提があって、受講者があそこまでやっているからやらせられるということなのです。
あの演奏をあの女性があれだけ歌えるということは、これは10年15年というキャリアがあって、その作品を自分なりに完成させていて、その上で注意を受けているわけです。結局、自分の作品というのをきちんとつくっていて、その上で評価を受けていかないと何にもなりません。そうでないと評価にならないというよりも学べないと思うのです。
いろんなやり方があるとか、いろんなノウハウがあると思うとキリがないのです。発声も、声だしてよいとか悪いとかいうのも自分で決めればよいのです。そんなことに振り回されていたら何もできなくなってしまいます。
声楽の場合は時間をみないといけない部分もあります。というのは勝負するところの土俵が、そういうふうに伝統的に組まれてきたところの土壌にあります。
それは大相撲の場でいきなり空手やってもだめなのと同じです。それは勝負する場所でのルールです。ポップスというのは、ルールも含めて自分で考えていってよい場です。というよりも、それを何よりも考え、決めていかなければいけないのです。自分の流派をつくるものです。
レクチャーでも、ジャンル別の発声法とか歌い方を教えて欲しいといわれる。そこから入ってしまうからだめなのです。ジャンルとは誰が決めたのでしょう。ロックヴォーカリストとかヘビメタとかジャズとかわけているのは、聴く人の都合です。
いや、マスメディアや評論家、CDの制作会社や販売店の都合でしょう。
一人ひとりのヴォーカリストからみたときには、一人ひとりが全く違うということです。歌い方も違うし、声の使い方も違う(ヴォーカリストの立場からみることです)。ロックと他のものの歌い方が違うといっても意味はありません。音楽のスタイルとかリズムとかというものは違っても、ジャンルなどないのです。発声を獲得していくとか声を獲得していくというところで、ジャンルとか発声法があると考えること自体が間違ったことと思います。
特に日本人の場合は、外側からの何か安心できる区分やレッテルが欲しいのです。ステップが欲しい、ジャンルもあった方がよいわけです。権威筋のおすみつきも欲しい。
このジャンルはこういう発声法でこうやっていたら伸びると言ってもらいたいのです。
結局、そうやって、まねていくとどの世界もそうですが、その分野の第一人者には絶対かなわないです。真のアーティストは、一人ひとりの歌い手がその歌い手の歌に対する第一人者で大家です。全く違うものをそこにつくりださないと意味がないわけです。一人ひとりの体も違うのです。
ただ、基準はあります、誰も納得できないものでは仕方がない。他人に理解はできなくとも、納得をうながせるだけのものであることです。私はクラシックに接しおかげで、音大とか声楽家という名にごまかされなくなった。そういう外から内に入り、さらに外に出てアウトローとしてみていると、どこが本質的なことで、どこは手を抜いているのか、よくみえます。
もちろん、ステージの1時間の中で全部を本質的にだしている人はいないわけです。その中で何ヶ所かきちんと取り出せればよいわけです。ステージは、客の期待のレベルで超えればよい。いや、超えていると思わせたらよい。そのために照明も音響も何でもありです。
歌も同じです。それが1ヶ所もないとだめなわけです。声も同じだと思います。どこかがオリジナルにつながっていたらよい。別にオリジナルの声で全部歌えということではないのです。体というのは動きやすくなってくるでしょう。いざ何か起きたときに自分の体なり心の方が助けてくれるだろう。そういう面でやっておけばよいのです。
自分で確かめていくプロセスを怠らないようにしてください。要は他の人に対して正しいか、間違いかということも、それが自分にとって正しいのか誤りなのかということをきちんと判断していくために、意味があることなのです。
自分の心が何に対して動くかというのをきちんと見極めるということです。それが、日本人は苦手なのです。「音楽が好きですか」「好きです」そんなふうに単純に答えられるものではないのです。
日本でなければ、「音楽好きですか」といったら、「どういう音楽ですか」「その質問は何を意味している」と、その意図から聞き返されます。
中には音楽は全部嫌いといいきる人もいます。日本人はそういうことはないです。なるだけ求められるままに自分で判断しないようにという世界の中に住んでいます。
すべてをよいようにとっていこうというのはよいことですが、それを自分に対してあてはめるためにも、他の作品に対して厳しい基準をもたないといけないのです。他の人のを聞いて、だめとか、へただとかいわなくてもよいのですが、自分の中では厳しく判断していないと、みんな頑張っているからよいというところに、すぐに基準がいくのです。
人を判断することは、いりません。しかし、作品は評価をつけていくことです。一見、すばらしそうなものができてきているようでも、あるいは残るような価値のあるものになっているとは限らないのです。そこを、でた声、あるいはできてきた作品の中で、きちんと判断するプロセスを踏めるように組み立てていくのです。だからオリジナルの声を磨くために唯一の方法というのは、結局そういう声が宿る環境にいることです。そして、自分の中でのイマジネーションの問題です。
歌も音楽も同じで、それが上達する方法というのは、歌とか音楽がある環境に身をおくことです。場所ということではないのが場です。精神的な問題なのです。そうでないとたまたま練習するときだけ、その気分になってそれっぽいことをやっているだけになりかねないのです。
自分を客観化してみるということ。これが難しいのです。グレードというのはうまいとかへたではないのです。単にうまいへたでいうと、いつでもうまい人はいます。入ったばかりでも舞台なれしている人もいる。逆に上の方になっても全然、うまく聞かせられない人もいます。しかし、問題意識をもって、自分をきちんと表現のところに結びつけるということをしているかということです。そうでないと、単に器用でおわってしまいます。
本当は、劇団とかステージで得た経験があれば、狂わないはずなのです。ところが、日本のステージは、そういう場になっていない。自分のバンドでやって自分たち流に歌っていると、そのことに無頓着になってしまう。うまいのは、単にへたではないとしか言いようがなく、そこに大きな違いがあるのです。それが作品としてでてくるまで、励むことです。
当初は勘違いしている人がまだ多い。最大の勘違いというのは、他の人が正そうとしても仕方がないということです。
レッスンがやりにくいのは、声はあるのですが、音感、リズムみたいな音楽的なものが宿っていない人と、逆にそういうものあって、みせることも“舞台的”にできるのですが、本質的な声やヴォリューム感がない人です。混在しています。
歌っていたら直るということではなく、歌ったときに何が足らないのかと、そうしたらそのために何をしないといけないのかということです。歌は感性を体を武器にして使って出していくだけのものです。
オリジナルの声のトレーニングというのは、そんな先のことまでやらないで一つの声を自分で理解しながら、そういう基準の声をみつけるためにやっていきます。
多人数でやるのは、それをわかるようにすることが狙いです。本当に難しいことは何もやらないのです。1時間の中でやってもやれるところまでしかやれないのです。その人ができるところまでしかできないからです。
それならもう少し先行きのことを与えておいて気づかせようとしつつ、その現時点のことでやるということです。本当はそれではだめだから、そこからその声をもう少し活かしなさい、ということです。
教科書でいうのであれば、ベターな声です。これは歌に使おうといっても使えないし、おしゃべりに使おうといっても使えないのです。だから使えるようにしないといけない。
そのために息をもっと吐かないといけないし、体を鍛えないといけない。ベストの声しか歌に結びつかない。それだけ重いものなのです。
トレーニングが成り立つためにオリジナルのフレーズをきちんと使う。オリジナルのフレーズというのはきちんとフォームどおりにバットを振って当たっただけで、ジャストミートでホームランというようなことです。これはまだ、音楽と違うわけです。
とにかくまっすぐな球にまっすぐ基本どおりにあてていって、基本どおり一番力を抜いた状態で一番遠くに最小限の力で飛ばす。だから100本やっても疲れないわけです。
勝負とは違います。勝負は生きた球がきます。それに対してオリジナルな声というのはもっとベースの部分です。ボールにあてるか、あてないかということであれば、ボールをバットにのせるというところがあります。のせてこれを受けとめてきちんと返すことです。
このことができれば正しく話せるし、簡単な歌の4フレーズぐらいできるのです。ほとんどの人はのせない、あるいは横っちょにのせてはずします。オリジナルの声というのは体や息を使って、当然飛ばしていきますからそれなりに重いのです。
体の状態がよくないときは、しんどいです。しんどいというのは、きっちりと、のっているからです。この手ごたえに本質的なものを感じないと、その先に人に伝わるものもありません。
なぜオリジナルの声をきちんと使えというと、声をだすために体を鍛えていく。体を鍛えるために声を使うという段階がでてきます。息を吐くというのも息を吐く力をやっているのではなくて、息を吐くことで体を鍛えるのです。その鍛えられた体でその息をさらに厳密にコントロールできるようにするために何回もやっているわけです。
日本人でなければ長年、歌っていたり、しぜんとやっていたら身につくことを短期に身につけるためにやります。声楽家は特殊な要素、声をすごく出すのに体がぶれない。それをきちんと落ちついた状態でやるために、声を扱う器官を強くしていくわけです。それは呼吸でしかできないわけです。やれることは呼吸だけでどのぐらいポジションを正しくキープできるかというようなことです。
それでは少しずつやっていきましょう。他の人の声を聞ける状態にしてください。皆の中で覚えていった方がわかりやすいと思うので、全員がみえるようにしてください。
最初は基本的な課題です。単に「ハイ」をいいやすい高さでやりましょう。聞いている人はその人の顔や体をよみこんでみてください。個性とくせを区別しましょう。
くせというのは部分的に働いてしまうために横にそれていってしまうもの、個性というのは基本的にきちんと中心を捉えていてそこからでてくるものです。人それぞれ顔の形、口の中の形も違いますから同じ音はでません。同じ音はでないのですが、ひびいていても、かすれていても、その人の体の中心でコントロールされていることが大切です。
もっと単純にいうと100回続けてみたときにきちんと同じようにいえるかどうかです。100回続けてみて狂わないかどうかは、1回やれば、わかります。1回やったときに体の強さもでます。体は強ければよいというものではないのですが、声に対してどういうふうに「ハイ」とコントロールできているかということが大切です。しっかりと、コントロールしないと正しく声にはならないのです。
すると、いろんなくせがでてきます。口をあけて「ハイ」とやっていると、そのうち口の中が疲れてきます。それから感覚自体が「ハイ」と出すことしか、頭になく、言い切れる場合は、口先だけになってしまいます。のどが少しずつ疲れてくるのは、余計なところに力が働いているからです。のどを開けて声をだすというのは難しいことです。
声楽家とか、ポピュラーの歌い手できちんと歌えている人たちはできています。音をつけてみたり、音を伸ばしたり、ことばをつけたり、きちんと発声しようと思ってしまうからのどがしまってしまうのです。今の声と体でも全部が全部できていないわけではなくて、もっとよいところが出せるはずです。
「ハイ」が苦手な人もいるので、「ハイ、あおい」の2つにしましょう。
基本というのは試合では絶対にその通りにはならなくても周りからみて、基本ができているということはきれいにみえるということです。キメがあるのです。体の世界はビジュアルにみえるので、わかりやすいものです。
たとえば踊りで2ヶ月ぐらいの人が振り付けができたといっても、へたなのはみえてしまうでしょう。3年たったらそれなりにみえる。ところが10年やっていた人がそばにきたらよくないところがみえてきます。それが形であらわれます。
歌の場合というのも形である程度わかります。しかし、形といっても本当はその音の中で判断していくしかないわけです。音の世界でなければ、そのまま音楽にもっていっても無理がでてきます。
だから「ハイ」や「あおい」ということばを言うことさえ無理があると、それを引きずってしまうわけです。基本の基本で押さえておかないと、その基本が応用になったときにばらばらになります。それを絶対におこさないように歌っているのが、偉大なる名歌手たちです。何で偉大なのかというと基本どおりにして歌えているから偉大なわけです。
体でたった一つの声をきちんとつかんで前にだすというようなことができればよいのです。一瞬だから逆に難しいのですが、一瞬をもってこれなければ何回やってみてもそれはだめなのです。結局、ここをよみこんでいく作業をしていくしかないのです。考えるほど、いろんな声がでます。
正しいイメージで捉えていくしかないのですが、それを形にして捉えるようなことが得意な人もいれば、直接耳で聞いて捉えるたり、全身の感覚で捉える方がわかりやすい人もいると思います。自分のはわかりにくいので、人の声に対してまずきちんと判断していくことでしょう。
まず、体の解放の前に気持ちの問題もあります。「ハイ、あおい」に、気持ちがででてしまうわけです。音声で表現することのある意味での厳しさを知らないと難しいです。最初に求めていることは、声を気持ちよく聞かせようということよりも、まず一つにぎゅっとつかんで心を込めて客席に思いっきりなげつけることです。
子供であれば「おかーさん」と思いっきりいって周りを振り向かせることです。その次にのどのロスとか、気持ちが入ることを邪魔するものをなくすことです。
それを、音の感覚の中でもたないと、発声を間違うまえに、感覚のところでの表現、あるいは人に与えるということに行きつかないわけです。単に長く伸ばすとかきれいにだそうと考えてもそのようになってしまいます。それを単純にしていかないといけない。耳から聞いたもの、あるいは自分の体の中でイメージしたものを基本では全部、同じに基本の投げにすることです。
背負い投げでも一本背負いでもともえ投げでも、同じにすることです。音の世界だからできることで、最初からの音の感覚に入るのです。
「あおいとおい」にしてみましょう。「あおいとおい」というのを自分の中できちんと息の抵抗を感じて、それを「あおいとおい」とする。これでは外にでていかないです。そのバランスを調節します。「ハイハイ」といった感じで、その中で「あおいとおい」といえるようにすることです。条件は何も変えないのです。ボールを1つ投げるくらいです。
聞いている方からいうと、その人の体が聞こえてくることです。
やる前までは、そこで体を使おうと考えておくのはよいし、イメージが大切なのですが、やるときに考えては、体が遅れます。飛び込みと同じで、1・2・3と数えて、ハイと飛び込むわけではないのです。体に覚え込ませて瞬間的に飛ぶのです。
リズムなども考えたときには遅れタイミングもあわなくなります。感覚の問題です。それが一つにきちんとまとまっていて外にでることです。声も一つにとれていて、それが歌で自由に変ずるだけです。ところが、そのときにいろいろと考えるから違うことが体の中でおきてしまいます。だから単純に捉えるわけです。
この状態で難しいのは体をつけようとすると、どうしても体の方に力が入ってしまうことです。そして、力を入れたところで部分的にひびいてしまいます。そのときにはその力を抜くというよりも、表現というのはもっと鋭いと思えばよいわけです。相手を突き刺すぐらいのインパクトとパワーをもつのです。
「はい」というのと同じように「あおいとおい」とします。クラシックは、きれいに歌っているようですが、その一部分を聞いたら、鋭くキレ味よくとがっているわけです。それをやわらかくもっていけるのです。その部分をきちんとだすことです。これも感覚的な問題です。声を楽器的に使うという感じです。
楽器の音でもうまい人ほどやわらかい音はださないです。原音をひびかせて距離をとります。遠くで聞くときれいにやわらかく聞こえるのです。
最初、ある程度の力が入るのはやむを得ないのですが、力だけでおさないようにすることです。それからなるだけもってまわさないということです。すぱっと切っていく感じです。それを切るために体が必要なのです。
ここまでのことは本当は、1、2年間みっちりとやらないといけない課題です。何のためにメニュをつくったり、ことばをみつけるのかというと、この課題に耐えられるように、ことばができていないからです。すべてのことばは発されても伝えられていないのです。息や体で支えられていないから、心を伴っていない。
「あおいとおい」でもできている人で1回ぐらいでしょう。できていない人は、最初何で悪いのかということもわからない。しかし、自分のでわからなくとも、他の人からみたらわかるのです。映像でとってみるのもよいでしょう。自分の振り付けや踊りをみたりすると実際は、ばたばたとやっているというようなギャップがあります。
スケートなどでも自分ではすいすい滑っているようでいるのですが、映像でみたら、不格好なわけです。それと同じことを音の世界というのは目でみえないですから、読み込んで気づいていかないといけない。ほとんどの人にある音声のイメージというのは、日本語の環境では、正しい感覚のところにないのです。だからどうしても無理がでてきます。
その感覚というのはこういう声だからこうだしなさいといって、みせた声をみんなが真似ようといってもできません。それは真似られないから、自分の中で感じていくしかないのです。そこが難しいから、なかなかオリジナルのヴォイスというのが成り立たないのです。
体がついてくると、日本語も深まっていくのです。そこから、勝負になってきます。バッティングでいうと腕から先だけで打つことをやめるようなものです。これができないのはイメージの時点で全身で捉えていないからです。そうしたら全身が動くわけないのです。しかし、イメージだけトレーニングしてもだめでしょう。頭で計算して、受けとめて、やっているだけでは、そうなってしまいます。
体がついている人でもそのひびかせ方とか声にするところで、自分でコントロールしようという意志を狂わず通していなければ、いろんなことがこの中で起こります。動かしてはいけないのです。動きをつかんで外にださないといけないのですが、最初のプロセスの中ではできないわけです。イメージの中ではできるようになってきます。それが、感覚を磨くということです。
できない場合は、もう一度元に戻ってみて、「ハイ」で確認してみることです。自分の一番深く声がとれるところはどこなのか。自分が楽器として一番共鳴して使えるところを知ることです。マイクに頼ったり、頭部のところからきれいにだしたりすることを考えないで、まず一つの体があると思うことです。
それを楽器にする。
この体の中で「あおいとおい」あるいは「ハイハイ」といったときにどこが一番ひびくか、感じてみましょう。
背中から全身がひびいているときの条件というのは体にきちんと空気が入っていて、横隔膜が理想的に使われて、呼吸がコントロールできているときです。息がなくなっていて抜けているような状態でやろうとしたら、コントロールはできないわけです。その準備ができ、のどがあいて、その音のイメージがぴたっとあって、はじめてコントロールできるわけです。
ゆっくりめにきちんと声をだしていくような発声をやったら、一つの音をおくのにどのぐらい体と神経を使わないといけないのか、どのぐらいそれを一番先までもっていないといけないのかということがわかると思うのです。
口の先ではコントロールできないのです。もう一度「ハイ」に戻ってやってみてください。そういう基準で自分のはわからなくてもよいから、他の人のも聞いてみてください。
他の人のどこがひびいているか、意識がどうなっているか、体がどうなっているか。その声が体に宿っていて、同時に外にでているような感覚になっているのがよいのです。
2回ずついきましょう。
オリジナルな音色がつくのはよいのです。その人の声にいろんな質があります。それを「ハイハイ」と部分的なくせの音がついてしまうのはよくありません。それは本質的なところを握り損ねて周りの力が邪魔しているわけです。そこで歌っていてしまうと声はきちんと伸びなくなるからです。声楽でもポップスでも同じことです。
もう一度「ハイララ」でやってみましょう。
結局、自分の呼吸を知ることです。これが難しいことは説明できないのです。できないまま、のど声で「ハイララ」「ハイララ」とやっていても、のどを痛めるだけです。
基本の練習は、単に100回振ればよいということではなく、その1回1回に対してベストのことをどこまでやれるかです。1回振ってみてどこが悪かった、次はこうやってみようということをやるとともに、そんなことを考えないで量をやらないといけないときもあるのです。頭で考えることを切ることです。
スポーツでも力が入るほど悪くなってしまうのです。悪い感覚になってきたと思ったら、どこかで力抜き、気分も変えないといけないのです。それは本能的にしか感じられないのです。「ハイララ」「ハイララ」とやっているとどんどん息が浅くなってきます。
そうすると今できるテンポでの呼吸としたら、「ハイ...ララ」「ハイ....ララ」このぐらいで限度だと思います。
プロの早さでできることはありません。だからその早さでやってはだめということではなく、目的が違うのです。正しく早くやろうというときと、それから体の動きとかそういったものを総合してもっと働かそうというときというのは別のトレーニングです。感覚と体とで分けられます。
フォームはめちゃめちゃでもよいからとにかく泳いでいって、のっている感覚を勉強するということと、それから一つひとつきちんと手先まで意識して後ろまでフォームを確かめながらやっていこうというときとは、目的が違うから、一概にこれがだめとかよいとか、こういう感覚でやりなさいというのはいえないのです。でも、トレーニングは両方やってみるでしょう。
もし「ハイララ」というのを自分でコントロールして正しい方向にもっていこうとしたら、皆さんの呼吸は早すぎます。皆さんの呼吸のスピードでは、体がきちんと戻っていません。それだけ早く吸えないのです。吸えないのと、それ以上に息を吐けない。吐いた息を全部声にできていません。そういう感覚はやっていくうちにわかってきます。徐々にその人なりのものがわかりやすくなっていくと思います。
こういうのをやっているときには、のどに負担をかけては、痛めてはいけないのですが、でも、ポップスを歌ってきた人たちも声楽家をみても、のども強く太くなってきます。
私も10代の頃はのどは細かったのです。今は結構、太くなっていますが、無駄なこともやって耐久力もついてくるので、一概にどれがよいとはいえないのです。ただ、体の原理からはずさないことです。それはよそに正解があるのではなくて自分の中にあります。それをきちんとコントロールすることです。
どこでその声をつかんでいるのか、どこではなしているのかというのは、これは内部の感覚です。そういうことに敏感な人もたまにいるのですが、それを自分の中で起こしていかないといけません。それとともに取り出さないといけないのです。
あるときにできても、次のときにできなくては使えません。そういうときは、できたときの感覚を思い出すしかないのです。体を動かすこともみんなそうですから、一日もさぼれないのです。
頭でどんなにメニュの組立を前と同じにしてみようといっても無理なのです。前にできたことができなくなることもあるわけです。いろんな感覚や音のだし方がありすぎると迷うだけです。自分の中にきちんと入っているところの音をきちんととるということに戻す。
体の中でばかり確認すると、外にでていきにくくなります。それが外にどうでているかをみる。そのベースをつかんでいくのです。
「ハイ」と「ララ」
「ハイララ」は、ここの基本トレーニングの一つです。
いくつかの目的があります。「ハイ」というのに対して「ララ」というのを同じにやるというのと、「イ」というのは日本人がほとんどひっかかっていく音なので、ここに「ハ」をつけることで解決をはかる。「ハイ」とやると2つにわかれて、ここでポジションが変わってしまうのですが、このポジションを同じにする。ひびきが違ってくるだけです。
たとえば「ハイララ」が、いつも同じポジションでとれないから間違いということではなくて、そのポジションは体の中でも一定しているわけではないわけです。そのときにとれる一番バランスのよいポジションキープするのです。だから高いところだから高く、低いところだから低いということではないのです。むしろ発声から決めていくことです。
次に、意識としてはそれをつかんでいる、はなせるということでコントロールできるように一定の感覚をもつことでしょう。同じところでやれば一瞬のことです。
「ハ~イ」とはならないわけです。「ハイ!」もよくありません。全部のどが働くわけです。単に「ハイハイハイ」と、そうしたらこの「イ」というのは頭側にひびいていようが、胸で殺していようが、歌の中ではそんなに間違わないのです。これで音楽がもっていけます。
最初はこの「ハイ」にたいして「ララ」というのは、どちらかというとひびきの練習です。日本語の「ラリルレロ」は全部、口の中でつくっているのです。だからみんなが間違ったり、うまくできないのがあたりまえです。中途半端なトレーニングをした人ほど、いい加減なやり方をしています。
日本で生きていて日本語を使っている以上、LでもRでもなく「ラ」にする。「ハイ」と同じところの「ハ」で「ア」です。この「ア」をとって「ラ」です。だから「ラ」はうまくいえなくてもよいです。まずは、同じ感覚でとることです。「ハイ」「ララ」をどこかで、そのポイントで捉えていないと「ラーラー」になってしまいます。そうすると口の上をひびかせているだけのトレーニングなります。そうではなく、全身と結びつけていきます。
これができてきたらこの動きを自分で意識することです。たとえば「あおい」ということばでも、体の中に入っていたら「あ、お、い」とはならないのです。「AOI」となります。
自分で意識して決めつけてしまっている表現では、動きがでてこないです。全部とまってしまいます。それに対し、のどがしまらなければ次の動きにいくのです。「あおい」の次に何かがくるという感じになります。音楽の世界は終わってもそれは流れているわけです。いつも音をイメージに流しておくようにというのはこういうことです。
ことばは切れてもよいわけです。「ハイララあおい」。
彼らの感覚というのは、ことば自体は「アイラブユー」も、音自体はちゃんと流れているわけです。「わ、た、し、は」と切れないわけです。音が流れているわけですから、その感覚はきれてはいけないのです。ポジションも同じでも、息のとおる道みたいなものもきれてしまうとよくありません。ブレスするのも音がきれるのはかまわないのですが、ことばでも「ハイ」に対して「ハイララー」と音楽をつくっていくことです。
ピアノでいうと、ここを正しく1音聞いて1音出す。そこから次の音にきちんとつなぐということです。1拍目のダウンビートのところで音がきちんとつかめないのと、2拍目のアフタービートの方にもっていく音をひっぱれないのです。「ハイ」で踏み込み、「ラー」でひっぱるのです。音楽というのはここのもちあげ方とか、ここのフレーズをどういうふうにつくるかというのが勝負です。音としてそこにヴォリュームをだせないと、ひっぱれないわけです。
日本人の歌い手の場合、ヴォリューム感がないのは、このアフタービートの感覚とリズムのせいです。クレッシェンドさせたりデクレッシェンドさせたりするのも表面のひびきだけでやっています。そうではないのです。息で送っていってその感覚をキープしておかないといけない。すべて、息でのかけひきなのです。それを全部を体ができていないと、頭の中で考えて口の中でやるしかないわけです。それを最初にやってはだめだということです。本当は、体で考え息でやるのです。
ことばを読んだら、そのことばがつながるはずです。「ハイラオラララ」も同じです。その感覚を「ターターター」と自分の呼吸とそのアタックのところをきちんと練り込んで、そこで「ハイラオラララ」と単純にしておくことです。要は体の仕事で、のどは使わないで、お腹だけで頑張る。それをお腹に押して「ハイ」などとやらないことです。これをやってしまうと、のどを押します。
基本のことでいうと、今のを100回ぐらいやってみたら1回ぐらい理想的な声がでるという課題です。レッスンでこればかりをやっていくわけにもいかないのですが、トレーニングというのは絶対やらないといけない課題があって、ただその課題をその課題の中だけでは解決できないから先のことをやることもあるのです。
何でこのことが歌に必要なのか、これと発声とどう関わっていくのか、そういうことがわからないときには、やろうとしても体がそうは動いてきません。そのためにいろんなものを聞いたり試みたりするわけです。
このことが100%できてないと、体を使った声を伸ばしたり、中間音から高音にうつったり、低い音を安定させたりということは難しいのです。今みんながやろうとしているところが100点満点で20点とすると、このことが70点になったときには中間音の問題は解決してくるでしょう。
ことばがはっきりしないということも解決してくるでしょう。
人間の体としてそこを使った方が発声しやすいようになっているわけです。磨いていくと、10年たったら完全に変わります。声楽家でもやるほどに声がひどくなっていく人はいないわけです。
ロックの場合は、間違って喉を壊してしまう人もいます。そうしたらそういう原理のあることを知ることです。それをたまたま日本語の中でのどをしめたり、あまり声を大きくひびかせないように自己制御している中でやってきているからうまくいかなくなっているのです。
体で声をだすことにして、きちんと自分で接点をつけていかないといけないわけです。体が強くなったら声がでるのかというと、日本人の場合はことばをつくるところを操作していますから、難しいのです。
たとえば「イ」や「ウ」という音は日本語の場合はとても浅いものです。そういう「ウ」は、歌の中では使えないわけです。日常の中でも使う必要はないのです。外国人のアナウンサーや俳優は、ほとんど体で話しているだけでしょう。口を動かさないと何をいっているかわからないといっても、外国語の発音というのは舌をかんだり、唇をかんだりしないといけないのですが、そういうところ以外は、ほとんど、ぼそっといっているだけで、音が線としてつながっています。
特に英語とかで歌っていく人はその感覚がベースに、絶対、必要なわけです。それとともに自分でわかっていくことです。
決してそれですべてではないのです。くせがついた声が逃げたりいろんなことがおきてきます。これを指摘されることよりも、まず今できるところまでのことを、きちんととりだすことです。今できることを最高にできるところまで完成させる練習をきちんと積んでいくしかないわけです。
ところが大体の練習というのはできないところを、勘違いしてカバーしていくような形でやっているから、先にいって上達しているように思ってしまうのです。そして、ベースに戻ってこないわけです。
だから「ハイ」とか「ララ」とかこういったことも、あまりにことばで簡単すぎるから練習にならないわけです。こういうことを、何年もやっている人であれば、このことだけで声の調整がすべてできるようになってきます。調整のトレーニングと強化のトレーニングは違いますが、こういうことだけをしっかりとやっていた方がよほど声になりやすいのです。
基本にきちんと戻すことです。息だけ流すのでなく、自分の中でどの程度の「ハイ」「ララ」みたいなことができているのかを、表現から問うのです。「ハイラオラララ」も一つの歌まではいかなくても、ことばとしての表現の一つとなります。ことばが聞きづらいとか、おかしいとか、不しぜんだとか、へんなくせがついていると思ったら、それはすでに間違いなのです。
難しいのは自分の声はそういうものだと思い込んだり、それでもよいと思ってしまうことです。どうしても外国人の声や、オペラを聞いてもらった方がよいでしょう。それは、彼らの声はきちんとオリジナルなものでありながらも、さらに磨いて個性を発揮しているからです。あれだけのパワーを出すには、絶対に人間の原理に正しくないと、のどを痛めるからです。
声の感覚からことばを音楽で使うということにも、こういう感覚が必要だという本質的なところで捉えるわけです。ところが日本の歌だけしか聞いていないと、この浅くて鼻にかかったような声がよいと言い訳がでてしまうのです。
それはそれで完成させられたらよいのですが、多くの場合、ちょっとよくなって終わってしまうのです。器用に使いまわして、音楽らしくしておわりです。
ヴォリュームがでたり音域がとれたりしていかないのは、、日本語の延長上にそうしていくからです。日本人の歌い手がどうしても演歌みたいに上にひびかせまとめて、高いところをやったり、裏声に逃げたりするのは、そのベースの部分をきちんともたないからなのです。
これは誰でも知っているのに、なぜ直さないのかといったら、声楽家以外には声の必要性を本当の意味では感じていないのと、体に覚え込ませることが時間がかかるからです。
だから、とにかく1オクターブ半ぐらい歌えたら、そこで歌うことしかやらなくなってしまうわけです。そしたら段々、声もひいていってしまいます。そういうことがもともとできていることではなくて、たまたまそのトレーニング期間中、そうなっただけのことが多いのです。それもその人の選択だと思いますので、もったいないとは思っても言いません。
ただ、声を1オクターブ、歌の中で本当に使いこなせるようにしようと思ったら、それでは弱い腕で重いバットを振り回すみたいなものです。それに即した体ができてこないと無理です。その重いバットを放り出しても、やはり軽い方でいいというのが日本人です。でもそこでは他の人に差をつけられません。重いのを振ったときに練習がものになるからです。もちろん、歌のつくり方とか、音楽によって求められることが違ってくることもあります。
ことばでやったら表現力があるし、あるいは「ハイララ」ぐらいだと体が読みとれる。それが歌になったら瞬間的にそういうものが消えてしまうというのは、これはどう考えても嘘なのです。それは全然調整できていないということです。その瞬間にそのことをだせない、どこにもだせない。
そうしたら、カラオケと歌っているのと変わらなくなってしまうのです。
それなら思い切って、今の体で精一杯前に出て、カラオケっぽく歌っていた方が、好感がもてる歌い方になります。体を苦しめているような歌い方は、トレーニングの中ではともかく、プロセスとして許されても、人前に立つときは考えないといけない。だからといって、どこも声がしっかりとはまらないのでは、その切り替えができなくなってしまいます。歌っていくと歌っている線(フレーズ)の方にとられてしまいます。これはあたりまえのことで、1回のどになってしまうと全部がのどになってしまう。
それと同じに、全部をひびきにもっていったら全部ひびきになってしまう。ましてや高いところを歌ってきたら、今度は低くで体に声がおちてこなくなってしまう。それだけのものが宿っているところまでトレーニングしていないから当然そうなるわけです。そういうところでつくっただけの声というのは、何かのときにはすぐこわれます。何十曲も練習したら悪くなっていきます。そうならないためにもっと根本的なことをきちんとやっておくことです。
単純なフレーズで音にしてみます。「あなたの愛が」
半音でとっておいて「あな」「たの」「あいが」きちんとこれをとっていきましょう。
逃げないことです。「あなたの愛が」というのをことばできちんということです。
「ハイハイハイ」「ハイハイララー」と同じです。それが体で宿っていればよいということです。歌らしくしない方がよいです。歌わず、聞こえてこないのは、読みのところでできたことを、間違ってしまうからです。体を使わず、イメージだけで出していくからです。
メロディをつけることで難易度が上がっているのですから、ついていくには、体や息を、より使わないと、出せないのはあたりまえです。ところがほとんどの人が、そこでの集中力が足らないのです。そういうものをキープするのに、どのぐらい集中力が必要なのかということが入っていないのです。うまく歌おうとしてひいてしまうくせがついてしまいます。そこでひいてしまったら、そこからレッスンになっていないのです。もっとわかりやすくいうと、こういうのを段階的に難しくして、そこで集中力が抜けたらやめることです。気づかないとよくありません。
「ハイ」というときに体を使ったのに、「あなたの愛が」では、抜けたみたいになってしまってはどうにもなりません。自分にとって何ができていて何ができていないのか、それがわからないまま、時間がたってしまうということで、だから、その先のところにいかないのです。
意識だけで、歌を大きくつくっても、基本のところに声が宿ってないと、いつまでたってもヴォリューム感もでてこないのです。それを自分でごまかして許してしまってはなりません。
基礎が必要です。ロックバンドでも才能のある人たちのステージというのは、厳しいステージです。音が一つ違う、声が一つ定まらないから、何十回もやり直してきているから、あれだけの作品になるわけです。そのことを自分で引き受けない限りそこから先にはいけないし、先のメニュをやっているようでいても多くはメニュになっていません。
トレーニングになるということは、本当にそのことの繰り返しなのです。その一つの音にどれだけ体を惜しまないで使うかということです。プロが惜しまないで全力だして使っているものを、みんなが楽々できたらおかしいでしょう。そうしたらそこで3倍かけて追いつける可能性を出していくということです。声のことに関しては自分で変えていくしかありません。その場で変えるのは無理です。その感覚を覚えることを丁寧にやっていきます。
たとえば体を曲げて息を吐いてみると、そこで声をだす方がひびいたとします。レッスンの中でそういうものに気づくのですが、それを続けないと忘れてしまうのです。それであいまいな基準になってしまう。だからまた初心でやらないといけない。レッスンはそれでよいのです。それを忘れるからまたやってみて、前と同じ感覚になった。そういうことで知っていかないといけない。そこまでの基準でないと作品にならないということをわかっていればよいのです。
あるときにできても、それを定着できなければ使えないのです。定着させるだけの力が必要です。そうでなくても歌えると思ってしまうから、うまくいかないのです。歌えても、伸びていかないわけです。1回正しくできたというのは、何かのときにこれなのではないかと思っても、そのあとそれがでなくなったら幻なのです。それを追求するのが本当はトレーニングなのです。そのことを定着させないといけないわけなのですが、そういうのを追求している人はあまりいないのです。そうしたら質的にもよくならないです。バットを振っていればよいということではなくて、1度あたった結果を求めてきちんとやっていかないといけないのです。
体を曲げてみて、音を取り戻してください。それで「ハイ」ともう一度自分の体が動いているところの状態を確認しましょう。
「ハイ」だけやってみてください。
それが一致しているというのは、きちんと「ハイハイハイ」のところにとれます。力が抜けないとよくありません。最初はどうしても「ハイ」と力が入ります。のどを直接しめていなければ、それでやむをえないといえます。体に入れろといわれ力が入ることもあるのです。声がとれたら今度は力をはなしていくのです。のどで邪魔しなければひびくわけです。それ以外にややこしくしないことです。
そういう感覚を一つもって、すべての音楽を聞いていくと、すべてそういう中に音がのっているはずです。日本人の場合は上にもってきたり、ポジションを変えますが、むこうのものは、高音でも中間音でも全部つながっているのです。体の強さというのもありますが、それだけの問題ではないです。たった1音とか2音をとるところまでの、息と集中力の問題です。
体がきちんと起きていて、動いているかどうかというようなことが問われます。
「あなたの愛が」も、「ハイハイハイ」の上にのっているわけで、ここに「ハイー」となったらのらなくなるわけです。その中で基準をもっていかないといけないのです。「ハイ」そのものがとれない人は、息とか体をもっと鍛えて、その上でつくらないことです。ひびきでは簡単にできてしまうのです。
しかし、そのひびきは統一されていなくて、いい加減なものです。
できてしまうのですが、それ以上どうにももっていきようがないのです。中間音とか高音に移れなくなってしまうというのは、ここで妨げてしまうのです。そうしたら、いきようがないわけです。動く線がなくなってしまいます。こういう覚え方をしても、この先どうするのでしょうか。
自分できちんとキープするということ、それからその音をことばで動かすということ、それが呼吸のコントロールです。
呼吸でしかコントロールできないのです。その呼吸が浅くてバラバラにいってはだめでしょう。「ふっ」という浅い呼吸では全然できない。
「ハー」という深い息が必要です。それにはドッグブレスで「ハッハッハッハッ」といったことで積み重ねでしかないわけです。やっていることは、まだ音楽的な才能など問うていないわけです。基本的に体の中の声をきちんと取り出して外にでていくことです。ただ、それだけの条件が確実にできるためには必要です。コンサートにでて15、16曲、全部ぶっ続けて歌うためには必要です。
トレーニングの中で一つでもできる、あるいはその中でその感覚を得られるところからスタートすればよいわけです。何回も何回もフレーズやっている中で、それを自分の中でもってこれたらよいのです。何回もやってみて1回ぐらい当たればよいでしょう。それと音を動かしていくということができるのが、やはりオリジナルのヴォイスです。こういうのは基本的にはことばから入ればよいわけです。
「アモーレアモーレアモーレアモーレミオ」
これで半オクターブあるわけです。こういう感覚になればそんなに難しくないわけです。「アモレミオ」これは日本人的なとり方です。「Amore mio」だけです。ことばでやればよいわけです。
「アモーレミオ」のところで、深い「ア」です。そこで「ミーオ」ではなくて「ミオ」です。ことばでいってからでも、ことばだけでも、音つけてもよいでしょう。イメージ的に「アモレミオ」か「アモーレミオ」「アモレミオー」か、自分の中でそれを動かすということをやっていくことです。できないうちに、どんどん課題を大きくしてしまうからだめなのです。やっていることは同じです。
「アモレミーオー」ではなくて、「ハーイハイ」こうとか「ハイララー」これだけです。それを呼吸を大きく使わないといけません。作品をつくるのではなく、そこで体の使い方とか、息の使い方を覚えるのです。それを「ラララララー」と表面的にとってしまったら、ばらばらになってしまうだけです。
「アモレミオ」と自分で体一つでいってみることです。練習にならなくなっているのは、タイム感が欠けているからです。タイム感というのは時間の感覚です。「アモレミオ」をいうときに「アモレミオ」と、そのままとってしまっては動きません。その流れを、声を小さくしてやっていったら、当然表現力なくなってしまいます。分散していきます。
「ハイ」で使えているとしたら、その「ハイ」と同じだけの声量を10個のことばに使ったらだめでしょう。10個のことばがあったら、「ハイ」の10倍の体でなくては使えないでしょう。10倍の息を使っていてはじめて一つに捉えられるわけです。そうでないから、ばらばらになってしまうのです。曲になったら、表現にならないとそれが捉えられない。できないのはよいのです。それにトライしないといけないということです。ところがその感覚がないとトライするということさえわからないと進めません。