一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー3 とりくみ他  22223字  792

レクチャー3

 

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とりくみ

とりくみ2

学び方

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とりくみ

 

 

○トレーニングと実践

 

 のどと体の問題の解決については、すべて、ベースは、呼吸に負うということになります。

これは永遠の課題です。死ぬまで基礎となるトレーニングです。

声をたくさん大きく出すのでなく、基本的には声と息と体との結びつきを強固にしていくという考え方をとります。体づくりからやっていきます。体づくりは、すべてを統合して一つに表現するときにパワーとして支えるものです。

伝えるためにトレーニングがあるということを、忘れないようにしましょう。

 

 歌うために、声を活かすためにやっているトレーニングが、その目的から、ずれてくるのはよくありません。最初から、トレーニングは別のものと捉え、トレーニングをやれば何かがでてくると考えてはいけません。

声楽の基礎からも学んだ方がよいのは、音大に入学するレベルの音の感覚も得られない、音もつかめないで終わってしまう人も多いためです。

それよりは、目でみえるやり方でやる方が確かです。

本来であれば、17、18才で獲得できるようなことは、本気で練習したら1年どころか2、3ヵ月で体に入るわけです。ただ、それだけ耳が開かれていないことと、体がそのことに対応できていないからできないのです。

 

 結局、ステージで歌うということが前提のようでありながら、その前提をもっていない人が多いです。目的がトレーニングそのものになってしまうのです。

レッスンに出るだけでは、トレーニングの効果などは現われないわけです。

目的がトレーニングでは、トレーニングの難点ばかり出てくるわけです。

大きな声を出したり、体を動かしたりする。これは、部分的なトレーニングを正しくしようと、あまり細かいことを気にかけていても、それをひっぱっていける本人の力と意欲がないと、結びつかないからです。まずは、歌を歌うということについて、徹底して考えていくことです。

 

 

 本を読むのは、自分がやっていることをまとめたり話して伝えるときの足しになります。声や歌について書かれている本は、読んでください。

話すときに、ことばが足らなくて伝わらなくなったら困りますね。

声を出したり、歌うということも人様に何かを与えて、また来てもらうためにするのでしょう。そのために準備もするし、コンディションも整えるし、歌も歌うわけです。

 

レーニングというのは、あくまでそのときに結果が出せるために、よりよい結果を出せるためにやるわけです。ステージに出ても、対応できるためにトレーニングをやります。

それは、現実にライブの場をもっているかどうかではありません。

 

基本的にはトレーニングでも、場をもっていたら表現が外に出てくるものです。それを実際のライブというのは、外に応用しているだけなのです。

日頃から、そういう意識が大切だということです。

 

 

 私もこの場をもって、それを外に応用しているのです。プロダクションのレッスンをみたり、ラジオや雑誌とかの対談に出たりすることもあります。

相手の人は、専門家なので、その緊張を楽しむし、ときには厳しい場のときもあります。

 

自分でやっていることの方がよほどレベルが高いし(私だけが厳しいのですが)、場として自分が動かしていることでは、プロのレベルで、できているわけです。

 

これは、あたりまえのことで、ボクサーでも、練習のときの方が一番よいものが出るのです。

試合になったときに、それより悪いものしか出な負けます。それをよりよくその場をライブの感覚で盛り上げる。でも、当日、練習までにそのものがきちんとできていないと結びつかないのです。

 

 

 でも多くの人は、部分的なことを欲しがるものです。

質問も私は全部、見ているのですが、そういうものばかりです。

 

これは何度、言ってもきりがないのですが、トレーニングというのは複雑にするためにやるのではなくて、単純なことをくり返すのです。体というのはその使い方は単純にしなくては働かないのだから、その単純な機能をきちんと使うためのトレーニングが必要なのです。

 

どんな複雑なこともしぜんにこなせるためにトレーニングをやるのです。トレーニングそのものは部分的なもので、うまくできないほど、複雑なものです。

強化トレーニングなどには、必ず無理が入るわけです。だから、複雑なトレーニングがこなせるために、シンプルなアウトプットに目が向いていなくてはいけません。

そこで感覚として多様に深くとり入れていくということです。

 

 

 

○できていないことを知る

 

 たとえば、大きな声を出すのは、今、大きな声に対応できる体と調整できる機能がなければ無理です。無理だから普通はやりません。

でも、トレーニングでは、そのことによって筋肉も働いていないし、声もできていないし、のども対応できていないということをわかるためにやるのです。

 

できることなど期待していない。

ところが、本当はわからないといけない人ほど、わかっていないのです。

どうしてできないかとばかり悩んでいるのです。

 

当然、トレーニングの成果で筋肉がついて鍛えられてくると、アンバランスになります。うまくコントロールできません。力をつけるのと、それを使えるまでには、時間が必要なのです。

 

 

 私たちが日頃、普通で生きていてしぜんな状態というのは、案外と強い力が働きます。

ものを動かすにも腰が中心になって、その中心のところから周辺の筋肉がきちんと結びついて一体になっている感覚があります。

 

それがトレーニングになったり、いろんなことを考えたりするほど、バラバラになっていく。一時はそれでもよいのですが、それを統合するという感覚がなければ、いくらいろんなところを強化しても仕方がないのです。ここで言っていることも、最終的に統一しなさい、コントロールしなさいということです。

 

 たとえば、皆さんがしぜんにリラックスしていて、それで手をどこかにぶつけたとき、ものすごく痛いわけです。それは、腰が中心になって一体になっていて、しぜんに動いているからです。

自分で無理にぶつけようとするときよりも、痛いはずです。ものすごい力がそこに働いているわけです。

 

 

そういうものでの人間の本来の力をうまく取り出したものが空手や柔道なの武術です。うまく取り出すコツをつかんだり、それをするために必要な器官を鍛えるのが、トレーニングです。同じところに呼吸法も歌もあるわけです。

 

 人間がピーク時であれば出せるものを意図的に出せるようにしていくのです。たまにできるというのではよくありません。舞台というのは、その時間にその場においてやらないといけないから、少し調子が悪いとかやる気がないと思っても、それを切り替えてパッと出せて、そのことを実践できる力が必要です。だから、それを補うためにトレーニングをするのです。

 

 普通の人にとってみたら、舞台というのは高いところにあって、そこに上がっていかないといけないような感じですが、舞台は低いところにあって、いつもやっていることのピークをもってくるためにやるのが、プロのトレーニングです。

 

 

レーニングは、舞台で求められるレベルを上回っていなければいけません。舞台でやることには、もっと他のことがたくさん入ってきます。

歌でも、ステージになれば応用力が問われます。そんなところで、音程とかリズムとか体のことなんて意識できないわけです。

 

だから、トレーニングのときにやるのです。そのトレーニングのときに体だけ意識したり、声だけ意識していてよいかというと、最初はそこから入りますが、やがて無意識のうちにできるようにしていきます。

 

スポーツの場合は、まだ部分的に負荷をかけてやっていたら筋肉が強化されて、しぜんとその運動そのものが結びついていきます。その機能をどんどん高めていったら、バランスが一時的にくずれても、その延長上に正しいものがきます。正しいプレーも、明確にイメージできます。

 

 

しかし、歌というのは、筋肉のどこかを強くして使うわけではないわけです。イメージも音の世界のなかで描くのは大変です。だから、体づくりのうちに、早くその意識と統一感をもたないと、10年やっても結びつかないということです。

 

メニューとかノウハウにとらわれていると、だめなのです。

早く音の世界、イメージがみえるようにならないと発展しません。

 

 厳しいトレーニングによって鍛えられた直感と磨かれた感覚と、それから精神的なものが必要です。技術も、技術ばかりつけるために教わった技術でどんなにきれいな声できれいに歌えても、ポップスの世界にはそんなよい声を聞きたいとか、歌い上げるのを聞きたいとは思う人はいません。

 

 

 

○本質を捉えること

 

 最初にやらないといけないことは、精神的なものです。それがわかってきたら、本質的なものがみえてきます。そうすると、ヴォイストレーニングは間違わないのです。

 

皆さんが小さな子にピアノや歌でも教えたらわかるはずです。どうしてそんなことをやるのかということしか彼らはできない。しかし、その中にも10人に一人ぐらい要領のよい子がいて、この子はコツがわかっているとか、この子は頭がよいと思うでしょう。それは、今の自分にとって、どういうことなのかから入ることです。

 

 今のプロダクション育ちの人も、その練習態度、練習をきちんとやるということ自体の意味をつかむところへ意識がいっていないわけです。言われた通りにやって、テレビに出るということに全部、向いているわけです。

声明を唱えるお坊さんたちの方が、よほど日々の修業の中で声を宿してきているわけです。

そういう日常の感覚がなければよくありません。

 

 

 のどが痛くても少々なら仕方ないです。ヴォイストレーニングからいうと、痛いというのは、正しい練習になっていないわけです。

状態としては悪いけれど、悪いからといってやるなといったら、何もできないわけだから、それはやっていくしかない。それを懐疑しても仕方ないです。

 

のどの開け方を変えてみるとかいうようなことをやってみても、その時点での回避です。そのときは、正しい練習のやり方そのものを自分の感覚の中でつかんでいかないといけないのです。

 「ハイ ハイ ハイ」「ラララララ」こういうのを毎日1時間、これを5年10年もやっていても、皆、その人が歌えるとは思わないでしょう。

 

本人もそう思い込んでいるのでは、困ります。

表現や歌に結びつけない限り、基本のトレーニングに出口がありません。そのうち、それが歌に聞こえる人とそうでない人がでてきます。

 

 

初心者へのアドバイスは、何かが出てくるまではたくさんのものを入れて待つしかないということです。本人が気づかないと、どんどん複雑になってきます。

この声はだめだと言われてもわかりやすいようでいて、何もなりません。

正しく声が出てきたら指摘するしかないのです。

 

声そのものが正しいというよりは、正しく声が出てきたらわかりますし、正しく声が出てくるようなトレーニングができていたら、正しいわけで、それを判断するのがトレーナーなのです。

 

 結局、意欲がノウハウを超えてしまうのです。なのに、自分で自分を規制し制限していくから、行き詰まるのです。それは、ことばを使うからです。ことばが基準をつくるのですが、同時に一つのものを区切ってバラバラにしていく。だからこそ、感覚を一つにしていかなくてはいけないのです。

 

 

声そのものが正しいというよりは、正しく声が出てきたらわかりますし、正しく声が出てくるようなトレーニングができていたら、正しいわけで、それを判断するのがトレーナーなのです。

 

 ヴォーカリストというのは特別な人なのです。その特別なことをやるために、特別な状況というのが必要とされています。それをここでつくろうとしています。

つくろうとしているのが私ばかりで、実際にやっていくべき、あるいは伸びたいといっている当の人たちに、そういう意識が24時間流れていないとできません。

 

逆に言うと、それが流れている人間だけが、結局、残ってやっていく世界です。これはあたりまえなのです。全員が全員、そうなるわけないのです。

ただ、もしそうなりたいということであれば、少なくともなりたいと言ってやり始めたのならば、自分の中で精一杯までもっていくことでしょう。

 

 

 私は次の日の午前中に講演があったり、人との打ち合わせがあったりするからといって前の日に早く帰ろうとは考えないです。皆さんの世代で自分を限定してどうなるのでしょうか。あまりにいろんなものがありすぎるから、困るのでしょう。

ここも、メニュがたくさんありすぎるから、一つのことから学ぶことをゆっくりとやっていられない。たとえば、特別講座を23時すぎぐらいまでやる。終電がない人は帰っていけばよいわけです。帰ったらだめだということではなく、2時間の後はサービスです。受けようが受けまいが当人が考えたらよいのです。

 

終電がないから早く終わって欲しいというのはおかしい。次の日にいったい何があるのか。会社があるとしても、徹夜してそのへんで寝て、それで行けばよいでしょう。それだけの話です。次の日に学校がある。あなたの中で学校よりここは優先されないのかということです。

 

あなた方は歌をそのくらいに考えているだけでしょう。

だって私は、そうやって声を得てきました。そういうところでないと他の人以上のものは得られないでしょう。

 

 

結局、人前にみえているところとか、皆さんが同じように受けているところでは誰でも得ているところで、そんなことで人より先にいけない。ここにいるということが、すごいことでも何でもないわけですから。そうしたら、その中で、どうすごくあるかということを問わないとだめでしょう。

そこで他の人と同じように考え、あいつが帰ったから帰ろうといっていたら、何のために来ているのかでしょうか。そうではなかった人たちが、伸びるだけです。

 

まずは、絶対的にかけた時間の差が力の差のベースになります。でも、伸びたいと言っている人には、ここまで言わないといけないのでしょうか。

 これは、それぞれに出てくる問題です。でも、自分で感じないと仕方ないのです。発声練習と同じで、やっている人たちに対して何をアドバイスするかということはとても難しいのです。

「アエイオウ」「ラララララ」は、トレーニングで、その目的を狭い視野でみていると、それだけでしかない。

 

 誰かが言わないと気づかないということは、それまでなのです。誰かが言ったから気づいたというのは、その当人がそのことを3年も5年もやっていたら、おのずと精選されてくるはずのものであるわけです。そこで一言いわれると違うのだとわかるという人もいますが、そうではなくて、違うのだと言われてわかることというのはわかっていないのです。ことばでわかっただけです。だから、教えられたいという他人依存の意識自体が問題なのです。

 

 

 こういう世界は、本当に職人芸の世界です。教えられていると思って、「しっかり教えていただいてありがとうございました」と思っても、それはわかっていないのです。

教えられたことばらしいものを受け取って、何かそういうことなのだと、見当をつけただけなのです。

 

こんな歌もあるとか、この人はすごいなというのと同じで、はっきり言うと、それは、自分とが結びついていないし、結びついていないのです。だから、現実に表現としてとり出せません。

それは、知識としての歌にすぎません。大切なことは、自分と結びつけたところでのみ、表現は出せるということです。それをいつも考えている人は、100人に1人か2人いるかどうかでしょう。

 

 その当人にとって、どういう歌の世界なのか、どんな声の世界なのか、どんな音の世界なのかを何も考えていないわけです。そうしたら、一所懸命トレーニングやってみて、何になるのかという感じがします。

 

 

何でこんなにトレーニングを一所懸命やるのだろうと考えてください。トレーニングは、一所懸命やらないといけないのです。でも、トレーニングが目的ではないのです。トレーニングしていることが気持ちがよいとか、何か充実感があるというのは、何かのためにあるトレーニングそのものが目的になっているのです。それを目的にしている人も多いわけです。

 

そうすると、抜けられない。そういうのは、トレーニングへの逃げです。そうでないトレーニングは、もっとせき立てられているようなものがそこにあります。限りある時間のなかで、自分の可能性を伸ばそうとする闘争であるはずですから。そういう人は輝いているので、すぐわかります。

 

レーニングをしても、ちゃんと歌えるようになるわけではないのです。ここで歌えない限り、難しいでしょう。半年たったら、もう少し歌えるようになるとか、もう少し声が大きくなるだろうと思ってやると、技術は身についてくるかもしれません。でも、その使い道を本当にしっかりとみていなければ、歌は身についてこないし、いつまでも歌にはならないのです。声と音楽自分の身に宿さなくてはいけません。☆

 

 

 最初に音楽鑑賞から入るのは、アーティストの生き方とかテンションの高さとか精神性とか時間の感覚とか、そういうものを学ばない限り、どんなに技術的に同じ声をまねして出そうとしても、同じ声さえ出ないということだからです。

 

だから、声楽家から勉強するのであれば、彼らが25曲ぐらい歌ったときのステージを見て、それに自分が同化して、あれ以上のことをやるために何が必要かと考えないといけないのです。

 

彼が出している「アー」というのに合わせて練習をやっても、それを支えているものがわかっていなければ、何でもありません。サッカーはボールを蹴ることだと思ってボールだけ蹴っているのと同じで、それでは、いつまでも試合はできないわけです。

 

 

 私が例として、このようにことばで出しているのは、主に見える世界です。だから、まだわかりやすいのです。見える世界でないと、多くの人には伝わらないからです。

 

音の世界は、黒板に書いて説明できるようなものではないのです。音の世界だから耳の中でデッサンする。これは、ことばにできないのです。音の中で徹底して本質的な線を描く。そういう耳で聞かないといけないのです。ですから、ときに線を描いて示します。

 

 とにかく、大きい音をかけ、その中で皆さんの体が開かれて統合され、心のなかに何かが生じるのを感じ、そこから動き出すことです。それが大切です。技術でも4、5年ぐらいまでいけますが、その先はいけないのです。

 

 

ここでやっていくような人たちは、5年で勝負できなければ10年で勝負して勝てばよいのです。

声楽家は、デビューしても、勝負するところは10年先です。10年先からあとに、どう自分の世界をつくりあげるかで、これから10年間はそれを元に磨くわけです。そういうことを考えて、基本に戻らないといけないのです。

 

 トレーニングという部分の中だけでの正解というのは、ないのです。全部、間違いといったら間違いになってしまいます。だから、わかりやすく教えられているというのは本当に危ないことです。わかりやすい歌になって、わかりやすい表現になって、どこかで聞いた歌、習ってきたような歌で終わりです。

 

でも、本当の表現を求めていない人には、何が危ないかわからないでしょう。安全に人並みのことをめざしているなら、危ないことも生じません。それでは、カラオケを自己流に楽しんで歌っているような人たちの勢いにもかなわないでしょう。

 

 

 ここでやっている表現というのは、表現のレッスンだから簡単な初心者用のをやりましょうと言っているのではないです。

これは、他の分野でも、どこでもそうです。柔道とかダンスとかも、プロが毎日、基本練習でやることは、初心者が最初にやることと同じです。

ただ、それがていねいに長くなってしまうことはあります。

 

毎日の基本のレッスンでさえ、プロの人たちが初心者のやることを抜かして、次の段階からやっているのではありません。必ず、基本からやります。舞台ばかりやっているように思われていても、そこをやる。

 

そういうことでいうと、基本の部分では基本は基本の作品なわけです。1・2・3で相手を投げる練習も、キャッチボールも基本です。

ただ、プロの場合はもっとやらなといけないゲームの時間とか、フォーメーションプレーとか、そちら方に時間が奪われるから、基本の時間が短くなるだけです。

その短い時間で、初心者が2時間も3時間もやっていること以上のことをやっているわけです。このように応用できる状態にするのが基本です。

 

 

 考えて欲しいことは、習いごととしてのプロセス、段階があるわけではなくて、レッスンも難しいも簡単もなくて、そこで対応できるかできないかだけです。それが結果で現われます。

そこで問えないといけないのです。

 

歌というのは、自信がないと歌えません。結構、簡単に楽に歌っていたのに、話を聞いてみたら難しいものだとわかった。それでトレーニングをやっていたらどんどん難しくなってきて、それで歌えなくなるのです。これは、おかしなことです。やり始めたときより、うまくなるのがあたりまえでしょう。

 

だめになるとしたら、それは自分の意識が次のレベルで統合される方向へもっていけていないからです。安易にすでにできているところへ戻って安心しているからです。

ただし、基本の条件は、やっている以上、よくなるはずです。少なくとも、意識面も体の面もよくなります。

 

 

一時的にアンバランスが生まれます。身長が伸びているときというのは、骨がもろいというのと似ています。身長を伸ばしたあと、身がつくまで、そこで待たなくてはいけないのです。

 息がもっと吐けるようになった。そうしたら、その最大に吐ける息で歌おうとしたら、当然のことながら統一できていませんから、のどを痛めたり、痛みが出てしまう。

 

でも、目的としては、その息で歌うのではなくて、よい歌を歌うことなのです。そこから考えて、よい歌を本当に歌おうと思ったときに、息を出し惜しんだり、体を惜しむ方がおかしいわけです。

そうなったときに、そこで体が使えないとか、息が足らないというので、さらに深いレベルでのトレーニングがあるわけです。

 

 トレーニングがそれぞれ全部、独立しているわけではありません。

だからこそ、トレーニングの中で作品にならないといけない。

プロであれば、「ラララ」と出したら、その「ラララ」が作品になっていないと、その先の作品もないわけです。

その作品は、先に何かが出てくる予感のようなものです。今はできないと言っているのではなく、できないのではなくて、できるところでやってみるのです。できるところでやらないといけない。できないと思ったらできません。だからといって、ポイントがずれても仕方ないのです。

 

 

 単に息だけで出してみましょう。同じ条件がなければまねできないということは、私が皆さんのまねをするには、体をさぼらせればよいわけです。そして、力を入れると似てきます。

 

それを直すということは、皆さんの方に入って、皆さんのレベルのところで直しますから、その直したものなどというのは本当に通用しないわけです。

 

だから、先生は先生のことをきちんとやっていた方が、皆さんにとっては得なのです。皆に合わせることで、それだけレベルが下げるからです。自分が上がっていって教えを求めなくてはいけません。

 「ハイ」とこうやったらだめです、こうやりなさいといっても、それは正しくないでしょう。

「ハイ」これは、口ばかり動いています。そうしたら、イメージを直しなさい。

それでこうやりなさいと言っても、これもその人の直せる範囲にないのです。

 

 

 本物になりたければ、プロの中でも一流をみて、その一流のところから体の感覚で獲得したもので自分で矯正するしかないのです。それがわかってきた人には、そこからやらせましょう。

 

隣で朝野球で活躍しているおじさんを見本にしては、どこまでいくかというと、そのおじさんのレベルで止まってしまいます。ただ、あまりに全然わからなければ、そのおじさんをみて直した方がよい場合もあります。

 

声の場合とか、ポップスの場合というのは、自分の正解がわかりませんから、正しく教えることは口を出さないことであり、とても難しいのです。

 

 

 

 あなたの今の声で、ずっと歌わないといけないということであれば、いかにも歌らしくつくっていくと早いのです。1年後ぐらいをめどにするのであれば、です。

ただ、それは、同時にあなたがきちんと本当に磨かれてきたら、伸びていたはずの可能性も同時につむわけです。

 

日本の音楽教育でやられているのは、ほとんどそういうレベルでのことです。本人の自発的な意志と喜びのもとで伸ばしていこうというものではありません。ピアノも技術はすぐれており、指だって動く。

でも、そこで皆、同じタッチから抜けられない。人と違う表現が出ないことが、最終的に最大の問題です。技術があったら表現が出るわけではなくて、表現があって技術が身につくわけです。だから、それと同じようなことをやっていても仕方がないのです。

 

 どうしてもできない人に、声楽のやり方からも取り入れています。たとえばコールユ・ブンゲンとかコンコーネを使うと、それで比較ができます。ただ、それは100とか1000あるうちの一つの手段にすぎなくて、それだけで何かが出てくるといったら、大きな間違いなのです。

 

 

はっきり言うと、コンコーネとコールユ・ブンゲンといったら、音大に入る人だったら、入るまえにマスターしています。そのマスターのレベルがあまりに低いから、作品にならないだけです。

 

彼らは、18、19才でここの生徒がやる以上のことをします。4年間、毎日やります。そうしたら、それと同じことを4年やってみてもたいしたことはできないと、最初にみないといけない。

 

やらないよりやった方がよい。何でも入れておけばよい。声に関しては、発声だけを目的にしていても仕方がないということです。そこは皆さんが変わらないと難しいのです。字をいくらきれいに書けても、作家になれないのはあたりまえですね。

 

 

 それで、耳と体のことを徹底して鍛えるようにといっているのです。本当はレッスンより、そういうことがやる方が大切なのです。どこで学んだのかをきちんと判断しましょう。

ここの研究所で学ぶというより、研究所に、学んだことで全然できていないということを知るために通うのです。

 

 人から学べないとは言いません。私もすべては人から学んだ。しかし、ここにいて、ここで学んだというのなら、その学んだ人が平均レベルのところしかいかないのでしたら、全然たいしたことではないわけです。

 

たいしたことはなくとも、初めての人よりは少し先をいっていると、学ぶことがあるということがわかってきます。

特にポップスですから、自分のことを知らないといけない。自分の体のこと、自分の声のこと全部をしっかりと知っていくのが勉強です。

 

 

 ちゃんとしたものというのは、どれを聞いてもある意味では似ています。人間の体はそんなに難しいものではなく、シンプルで合理的なものです。赤ちゃんみたいになれば、皆さんも柔らかくなっているのです。赤ん坊のお腹から出した声は、あなた方より、よほどひびくわけです。

 

何も新しいものをどんどん手に入れなければできないことではなくて、まずあるものをきちんと使うことです。それがきちんと自分で統合されていないところに、何のテクニックをつけたり技術をつけたり、いくらいろんなことを教わってもそれは使えないでしょう。複雑になっていくだけです。

 

だから、トレーニングをしてもバラバラになって、歌えなくなって声も出せなくなって終わってしまいます。だから、一番大切なのは、それを生で自分の中で聞いて、まとめることです。

 

 

 皆さんがやっていることよりも、よほど単純です。単純でないと人に伝わらない。だから、私が一人ひとりに教えられないのも、結局、まだ各人が今ある力を出しきっていないところで、その準備ができていないためです。

 

たとえば、役者の舞台とかであれば、たった一言ひとことが勝負です。それで、すべてです。一生が、芝居では1時間ぐらいしかないわけですから、その中で数倍、全神経、研ぎ澄まされて、一つのシミュレーション、シチュエーションをレッスンするわけです。それが、このテンションのところでなければだめなのです。

 

 だから、皆さんが自分の表現を今のテンションと今の体でキープすることです。今の体というのは、鍛えられていないから、どうこういうことではないのです。表現に対してのめりこんでいないのが問題です。そのところでいくら声を「アー」としても、全部、間違いなのです。いや、それ以前に通じない、働きかけないのです。

 

 

基礎のないところで工夫しても、シンプルでなく、複雑になっていくだけです。本当のことでいうと使えないのです。

 

たとえば、高音を出したいという人に、では、あなたの高音は何ですかといっても、頭の中にイメージすら何も入っていないのです。いろんな歌は聞いている。でも、それは、人のものにしかすぎなくて、こういうものを全部、自分にしみこませていて、その中で、自分自身の明確なイメージが出ていなければならないのです。

 

 それを出せるだけの、ハイレベルのテンションと体の動きが伴っていないから出るわけがないです。今、すぐに切り替えるというのは難しいものです。

ただ、最初からイメージくらいは、そうしていかないと、半年、1年たってくると、だらけてきて、限界になってしまいます。

 

 

 大切なことというのは、その世界をそのまま単純に自分にうつしとってくることです。自分で単純にやることです。それをどうみせるかというのは、また次の段階の話です。

レーニングは、迷うためにやるわけではなくて、迷っていても仕方がないから、トレーニングをやるわけです。

 

音程を直されて音程が身についたといって、ここを出る人もいます。

人間の表現可能性というのは、そんなものではないと思っています。

ただ、私が何を言おうが、まわりでどうみていようが、当人たちが自分で自分の可能性を制限してしまうから、そこまでしか伸びないのです。

 

2時間のレッスンが4時間になったら、普通は喜びます。それが1時間で早く終わった方が遊べるからうれしいとなる。それと同じことなのです。

それなら、遊んでいればよい。最初からここに来なければよいわけです。

何でこういう人たちが歌を歌うのかわからない。何を歌えるのかと思います。

 

 

 ヴォーカリストにとったら歌は喜びなのです。私も、レッスンを終わってくたくたになっていても、口ずさんでいます。そうでないと、生きられないからです。身にしみついている。

そういう人でないと歌ってはいけないとは言いませんが、そこまで身近かに引き寄せないと、いつまでたっても歌自体も声自体も、外のものとして存在するしかないわけです。

 

 全員にわかってくれとは言いませんが、その状態を避けることです。ヴォイストレーニングも声を出すことが練習ではないのです。ましてや、のどを痛めることが練習ではない。そうではない状態をつくることでしょう。

 

人間が本気で全力でやっていたら、スポーツでも怪我しないわけです。もちろん、危険な割に、ということですが。それだけの神経を全身にめぐらせていると、怪我もほとんどが気の緩みからの怪我です。

 

 

日々、いろんなことが起きてきます。お腹が痛くなるとか、めまいがするとか、気分が悪くなるとか、それも、自分の中の体で起こる状態だから受け入れてやっていくしかないのです。

そうではないことをめざすには、体を知ることです。それを自分の身にで受けます。

それから耳を敏感にすることです。

 

私が悪い見本として見せたようなものを、何で同じようにやるのだろうと思うわけです。

同じように他の人をみているなら、そこというのは注意されて直すよりも、自分で直せるようになるはずです。もっと敏感になれば、それが直らないということは、なくなるでしょう。

歌を聞いていないということと、それから当人が歌おうと本当の意味では思っていなくて、せいぜい音がはずれないぐらいの歌になればよいぐらいで思っているからです。

 

そうしたら、ここで教えているような基本以上のことも基本も、本当の意味で使える腹式呼吸とか声としては身につかないです。歌に対して必要なのであって、そうでなければ単に歌を壊してしまうだけです。

 

 

のどを痛めている時期があっても、見向きもせずに走っていったらたどりついたという人もいます。だからといって、のどを痛めることが練習ではない。

それは、すごい遠回りだし、無駄かもしれない。でも、無駄が10倍ぐらいやってみて、人の2倍ぐらい身につけばよいのでしょう。

 

 今の人たちは、誤りなく効率よくやっていこうとするのですが、そんな道はないのです。自分以上のことをやろうとして誤るわけです。

これで合わせて本当に歌ってみようとしたら、そのときに感性が働いていなければ、その練習ばかりやってしまうわけです。それは練習に全然なっていないわけです。自分と体の状態も違ってきて、何で出ているかを、イメージもできないうちは歌に合わせてみて、いくら歌ってみたって、自分におりてこない。

 

そうしたら、まずそこでどこができるかと問います。だから、ここでいっているのはそのたった一つの部分でもよいから、「ハイ」だけでもよいから、まず同じレベルでやることです。

 

 

 

 その「ハイ」が歌になって、トレーニングの「ハイ」ではないわけです。トレーニングの「ハイ」をいくら練習しても、悪くなってしまいます。それを矯正するのは、自分の中でやらないといけない。歌で矯正するのは何ヵ月かたってくれば、まわりをみていたらわかるはずです。だから、まわりが材料です。自分のことがわからなくても、まわりに対して厳しくみるということです。

 

 どこが悪いのかということも、もしかしたら、そこの悪さというのは、自分も同じことを犯しているのかもしれないと思うことです。その上で先生をみる。

だから、先生のレッスンの質を下げないで欲しい。生徒に受けがよくなくとも、自分の基準をもっていて、そこから下りないからです。

 

そんなところでぐたぐた皆さんとたわむれて楽しむぐらいだったら、この教室はやめてしまうおうというのでやっているからです。だから、教えるだけの先生というのは、気をつけないとよくありません。皆さんが学べていないのだけれど、そこで何でもうまく成り立っているように思ってしまう錯覚がおきる。先生のファンは育っても、人が育たない。

 

何人かはうまくなるけど、10点ぐらいの人が20点ぐらいにはなると。ただ、本当のことをやれば、10点の人だって100点になったかもしれないわけです。まず、基本と応用です。その90点分をつけるのは自分だということを忘れているからだめなのです。

 

 劇団で1ヵ月後の公演に向けてトレーニングしている人たちより、モティベートが落ちるぐらいだと通じません。こっちの方が、私はよほど難しいことを高いレベルでやっていると思っています。

 

劇団は、他の部分でもちます。そういうと劇団の人に失礼ですが、トータルで出せる勢いがあります。たとえば、一人の人間が歌うということに対して、10人の人間がワーッと出てきて歌えば、少々下手であっても、インパクトを与えるわけです。

それはどちらが上とか下ではなくて、表現形態が違います。一人でやるものは一人で責任をとっていかないといけないということです。

 

 

 

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とりくみ2

 

 

日本人の歌を聞いて、最初からわかっていたことは、歌われた歌だということです。

私が関心あったのは、音楽の中の歌でした。楽器と同じレベルのものを求めたいのです。その地にしか通用しない歌よりも、時空をも楽々と超える音楽というものを見つめたかったのです。

 

大切なことは、それがみえているということです。育った環境でも差があります。

小さな頃から歌舞伎の世界にいて子役をやってきた人と、20才を過ぎてから私のレクチャーにきて、おもしろそうと思った人では、次元の違うほど、感覚や心構えの差があります。

 

それが、何年かたってどのくらいの差になるかということでは、歌を聞かなくても提出してあるものをみればわかります。イメージ、つまり、書いているものが先行するのです。

その人のものの見方、評価眼が高いところにあれば、やがて声も含めて身体能力が追いつくものです。

 

 

時間が必要なのです。時間がないと、身体は変わりません。勉強したことは、実現するには時間が必要です。ところが、勉強できていないことは、自分の体に身についてきませんので、いくらトレーニングをやっていても身につかないのです。

 

2年で伸びた人というのは、2年に10年分のことが入っています。そうでないと、発声のなかで迷っていき、出口がなくなります。その出口を探すことが勉強です。

 

たとえば、50年ほど前の歌を皆さんが聞き、このレベルのことをやりたいと思うのだったら、このヴォイストレーニングは難しくなります。なぜかというと、こういう人たちは、あの当時の耳のよい人たちのなかで何万人の中から選ばれた人です。美空ひばりさんなどがいる時代のオーディションに受かった人たちです。

 

 

今は今で厳しいかもしれませんが、歌や音などの音声の表現力にかけて、このレベルにいる人は、日本にはあまりいません。皆さんはたいしたことないと思うかもしれませんし、すごい声だと思うかもしれません。しかし、これらは努力なしにできることではありません。

 

考えなくてはいけないことは、多くは歌われた歌、こなされた詩にすぎないのです。これ以上のことを音楽の中でやりたいと思ったときに、体の原理を踏まえたトレーニングが効いてくるのです。

何も知らなくてよいのかというと、それなりのことを知らなければいけません。

 

たとえば、今のような歌も、最初に聞いたときは「古いな」、「よくわからないな」、「全部同じだな」と聞こえることが、体を伴ってきて、体で聴くことができたら、いかに多彩な表現を散りばめているのかがわかります。

 

勉強していくのであれば、特に1年目に関しては、体の面で息を深いところにもっていってください。最初は必要な筋肉も、あまり強くはないと思います。こういう部分を楽器として通用できるように磨いていって欲しいと思います。

 

 

入った人は、とにかく日本人の中で誰よりも息を吐いたくらいのトレーニングをして、対応して欲しいものです。こういう部分は、あるところまで早くできます。早くできる反面、スポーツと同じで限界がきます。伸び悩みです。

 

最初100メートルを泳ぐのに5分もかかっていても、2分くらいになります。しかし、1分に近づいてきてから当然のことながら、伸びなくなります。優秀な選手との壁がくるのです。しかし、そこからが勝負なのです。

それも、すぐにこのようにうまくいくということではなく、何も知らないときから比べたら、こういくはずだということです。進歩は止まってきますが、このあたりから、本当の練習が問われてくるのでしょう。

 

少しでも、最初のところから、感覚というものをみてください。

使う曲も、2年後、3年後、何回も使えるような曲です。なるべく新曲を入れながらやっていますが、同じことに気づいてもらえばよいです。

 

曲も、一回でわかることはなくとも、くり返し聞いてください。気づく能力というのは、多くの人にあります。自分の体を自分でわかってくるくらい難しいことですが、その中から磨いていくのです。

 

いままで、ビジュアル的に見てきた人たちは、その音の世界があることを感じてください。目をつぶって歩いて、そういう世界におりないと、音の世界はなかなみえてきません。

 

 

 

まずは、音の感覚の勉強をしましょう。

スーザン・オズボーンという、ヒーラーのヴォーカリストです。

ひとフレーズ、プロローグ、これだけの世界です。それは、音の世界であり、声の世界であって、それを学ぶのに四苦八苦するのです。

 

合宿あたりで3日間、練り込んで、いろいろなことをのたうちまわってやって、3日目になり、最後の発表会が終わったあとに、こういうものができる状態になるのです。なるというよりは、最初はこちらが無理やりその瞬間をつくり出せるように与えていくわけです。

 

ちょうど、ライブの打ち上げのような気分になったときにできてくるのです。一つのことを煮つめて、試合が終わったというときの感覚の声というのは、自由度が高いのです。ある程度、導けば、普通の人から出ます。

 

 

この時間内にやるとしたら、皆さんがプロでない限り、まず無理です。プロは一瞬で体も感覚も切りかえられます。最初はほとんど、やれるということはありません。

 

しかし、時間をかければでてくるということは、その人のその能力は、もともとあるということです。

 

こんなに完全にはできなくても、それに近いことはできます。近いことをやるのさえ、1年間で1回もできない、2年間で1回もできないということが多いので、合宿などで、そういう精神状態をつくるのです。それができてきたら、ようやくスタートラインです。

 

 

こういうヴォイストレーニングというものは、100回の内の1回、一番よいものを自分で覚えて、そのことを次の日に100回やる。そのなかでさらに一番よいものをやる。そうしたら、1週間や10日ですごい歌手になれるのです。

 

ところが、その100回のうち一番よいものがわかるということと、それを次の日にそれだけが100回出せるということが、どれだけ難しいことかが最初はわからないのです。

それができれば、へたにはなりません。

 

それには、体だけではなく、体と感覚、さらに精神状態が結びついていますので、強靭なコントロール力が必要になってきます。ですから、どうしても体力、集中力が問われてきます。

 

 

歌のことより声のことをいくつかやっていきましょう。

最近、私も日本のことを見直しているところです。

日本でも、よいヴォーカリストは、たくさんいるのです。

 

しかし、これらを聞いて、歌であってもまだ音楽ではないというところからスタートしないと、そういう人たち並みの声もできません。

 

その人たちが、そこまでできているということは、それよりも上を見ているわけです。そのあたりを間違えてはいけません。

 

 

声と音の表現に入ってみます。

「セレーナ」です。

最初に聞いたとき、優れたものほど、よくわけがわからないまま終わってしまうものなのです。

誰かが決めつけるものではないのですが、今の歌と音楽の違いのようなものを、このレベルで、できれば音で捉えておけばよいと思います。

 

まず立体的に浮き出てくるもの、前に迫ってくるものでなければよくありません。立体的というのは、3次元的です。2次元で歌っている人が多いのです。

楽譜は、2次元です。この面を整えるのではなく、奥行きがあって、そのうしろにあるものをもってこなければ、表現として生きてきません。

 

それから、動きがそこに出ていなければなりません。音の世界ですから、それを動かしていること、あるいはすでに動かされている、動きになっているという形でありながら、ある意味では、ピタッと定まっているのです。

当然、スキやたるみがありません。よいものを聞けば聞くほど、普通に聞いていたものの悪いもの、荒雑、センスのなさ、一人よがりのところが見えてきます。

ですから、よいものを聞くことです。

 

 

もう一つは、オリジナリティです。最終的にオリジナルの声というものもあります。本当は、それを磨かなければいけないのです。

同時に、オリジナルのフレーズがあります。これは自分の息と合っていなければいけません。

 

ライザ・ミネリダイアナ・ロスパヴァロッティと共演して、一歩もひけをとりません。声量、声域の問題ではありません。曲の問題ではありません。

要は、自分の音楽、呼吸になっているか、なっていないかです。

 

ポピュラーとパヴァロッティの捉えている音楽というものとは、違います。それが何だというところを示すのがオリジナリティです。難しい曲も、やってみて初めて難しいことがわかります。聞いているだけではわかりません。そういうことがわかってくると、だんだんみえてきます。

 

 

わけがわからなくてもよいですから、しっかりと聞いてみて、それを自分に置き換えてやっていくのです。レッスンは、それに近いことを行なっています。

日本のヴォーカルは、アルバムで1曲くらいしか完全に歌えているものがないのです。

向こうの人たちでも、すべてがすべて、よいわけではありませんが、それに挑んでいます。

 

ミルバは、完璧を意図しています。さらに、どこがよりミルバなのであり、どこがピアフと違うのか、ミーナがでているのは、どれのどこなのかというレベルで判断していくとよいでしょう。

 

自分が同じレベルでできなくとも、耳で基準というものは明確にできてくるのです。その基準に対して、何を獲得していくかということをやっていけば、トレーニングのメニュで飽きることがありませんし、足らなくなることもありません。しかし、そういう感覚が入っていないと、声だけ出して終わってしまいます。

 

 

歌い手が一つの歌をどこで捉えているかということです。結果として一つに捉えている、一つの言いたいことを伝えているのです。

 

ところが、ほとんどの人の場合は、一つではなく100個ことばがあったら、ことばの100の羅列しかならないのです。一つを伝えるために、100のことばがあるのです。そこに、たった一つの無駄も絶対にないことです。1000個、10000個の中から選んだ100個でなくてはいけません。

 

最初は、音楽として一つに捉えるために、どのくらいの体、音やリズムの感覚がいるのかを少しずつわかっていけばよいと思います。自分の体が楽器になっているということは、体が楽器としての形になっているだけではよくありません。

 

 

それが調律できて、どういう音色を出して、どう使えばよいのかをわかっていなければいけません。何から学んでもよいのですが、要は、そこに自分が出て、自分の呼吸に置き換えられて、それが歌になっていればよいのです。

 

ピアフは電話帳を読んでも歌になるといわれたそうですが、自分を加えたら音楽になればよいのです。

それには、声だけでは、どうしようもありません。

もっと大切なものがあります。ただ、それを1オクターブ、3分にわたって声で、24時間どころか一生の世界、大宇宙の世界のようなものをそのなかに閉じ込めようとしているのです。

だから芸であり、芸術になるのです。

 

普通の人の体でできるのであれば、普通の人がやっています。それは、できません。こうして聞いていくと、基準が保てると思います。

 

 

 

ここで与えていることは、日本人にとっては特殊な環境なことだと思いますが、外国の養成所であれば、身の回りにそれに近い人がたくさんいて、すでにそういう場が成立しています。そのなかで才能も出てきます。

 

ここは、そのレベルからいうと、そこに入る前のところです。というのは、そのような環境のなかで生活をしていて、こういうものをずっと聞いて生きていることは、日本以外ではそれほど特別な人ではないからです。

歌い手になろうと思っていたり、こういう世界で生きていこうという人たちは、そういうところからスタートしているわけです。ここに入って初めて、こんな音楽があるのか、こんなものはよくわからないというものに出会うのではなく、それが10年、20年、下地に入っているのです。

 

皆さんにとって、ここが特殊な環境ではなく、あたりまえの環境になるまで、ここを使いこなしてください。そうしないと自分の体もそうなっていきません。

 

 

 

 

 

 

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学び方

 

先日、ここのオープンのライブ実習がありました。あまり調子よくなかったのですが、今日はライブのオーディションの審査の発表があります。オーディションの審査というのは、歌唱についての評価です。音楽の基準で見たときに判断が狂うことはありません。

 

そういうことでいうと、上達するためにはどうすればよいか、というのは、わかりやすいですね。基準を持てばよいのです。何か特別な方法があるのではなく、自分の練習を制することができ、判断をつけてきて、あるレベルでできるようになったらうまくなるのです。

 

自分が今、どこにいて、どこにいくのかということを見ていかなければいけない。トレーニングというのはたくさんやればよいというのではなく、気づきながらしていかなければいけない。そこで気づく機会を多くとっていくことです。

 

 

自分が練習しているときに、よい見本を見たり、歌を聞いたりして、判断力を働かせるわけです。それと同時に、つくる努力をしていきましょう。

とことん自分のために役立てていって欲しいのです。

 

本当によいものであれば、基準はつけようがありません。

歌うときに相手のまな板に乗ってしまったら負けです。

歌い始めたときに、聞く人の基準が変わってこなければいけない。

 

基準のつけようがないという歌を歌っていかないとポップスの場合はダメです。

人との違いを見つめていって、自分の違いを深くしていくのです。

基準自体をぶっ飛ばすことです。

 

 

でも、基準で取り違えると遠回りになってしまいます。

今まで、どれだけの曲を、どれだけ深く読み込んできたか、ということが大きく左右します。特に1年くらいの人は、何よりも音楽を知ることを努力して欲しいです。

 

2年で、ほとんどのジャンルは触れられると思います。それが最低限の条件です。この世界に年齢なんて関係ありません。

 

プロをやって、ここに来ている人もいるわけです。そういう人たちの前で歌うとき、それ以上のものを出せば通じる。ここではたかだか一曲か二曲歌いますが、その一曲や二曲が入っていなくてはダメです。

 

 

それから、ステージや歌のことを知ることです。昨日も3人にチャンスを与えました。そういうときに状況を把握して、よいものを出せるとよいのですが、悪いものを出してしまう人がいる。それがわかっていない人というのは、どんなに練習していようが出られないわけです。

お客が何を期待していて、それを叶えてやる必要はなくとも、求められている共通の線は踏まなくてはいけないのです。

 

そこで、そっぽを向いたり、わざわざ自分を貶めるようなことをしてしまったら、当然、裏切ることになります。よい意味で裏切るのはよいです。そういうものを全部含めてのコミュニケーションであり、ステージです。本当のことでいうと、全部チャレンジして欲しいと思うのです。

 

明日があるとか思っていてはダメです。今できることは、今やっていかなければダメですね。

オーディションなど、自分たちの出られる資格があるものは全て活かしてください。

通るとか通らないということは、考えなくてよいのです。たかだかそれくらいのものをしのげるパワーがないのでは困ります。

 

 

ステージで歌い終えた後で、もう何曲か歌ってくださいと言われて、一曲もー歌えないような人が、5年、10年経って、何かができるとは思えません。2年で何かやろうとしている人は、常にその場で用意をしているわけです。ここで何年もいる人たちは、ただいるだけではなくて、何らかの蓄積はあります。そうでない人は、ここを去り、この世界からも去っていきます。

 

人それぞれペースはありますが、自分で判断するところに他のことを入れていかないことです。違いを出していかなければいけないところで他のところを気にしないことです。よいのか悪いのか、自分で決めればよいのです。迷ったときには出るしかない世界です。そこで引っ込むくらいなら、私は最初からやらない方がよいと思う。

 

間違って欲しくないのは、2年経っても、3年経ってもそんなに声が良くなったり、歌がうまくなるわけではないです。たかだかそんなことでダメになったり、お客さんがつまらないと思ったりするわけではありません。

人を動かす力は、違うところにあります。より動かしたいと思ったときに、声もあった方がよいし、歌もうまい方がよいということです。

タレントがうまくやっているのはコミュニケーションの力があり、どれをどうみせればよいかというところで頭が働くわけです。

 

 

自分が主人公の意識で物事を見て、毎日を送るのです。

単なる歌うたい、声だしマシーンみたいになってしまったら、いつまでたっても、よいステージにはならないです。

トレーナーたちに今回の審査をお願いしたのですが、だいたい同じ評価です。人によってでなく、作品によって評価しています。

 

皆にお願いしたいのは、声が出るようになるのも、歌がうまくなるのも時間がかかる、ただ基準、音楽の基本で得ていかなければいけないことに関しては、やったぶんだけ身につけます。何年くらい経って、ここにいる人の歌を評価でいるようになればよいと思います。

 

意見がわかれることもあるのですが、わかれた場合、私は基本的にOKという考え方をしています。誰かが、ものすごくよいといい、また誰かがものすごく悪いというときは印象に残っているのです。

だから、何か変わる可能性があるからです。

 

 

なんとなく終わってしまった、というのが一番困るのですね。

やるべきことはいろいろありますので、いろいろ考えてやってみてください。

 

こうなりたいけどなれないというときには、自分の中にあるものをきちんと出し切ることです。出し切った中で99%は捨てなくてはいけない。残り1パーセントくらいのところにヒントがあります。それをきちんと煮詰めていかなくてはならない。

 

つくり出していかなければいけない世界なのです。つくり出すときは、最低の材料で最大のものをつくり出せばよいのです。たくさん聞いて、その中で歌ってしまうというのでは意味がないのです。

自分でつくるときには、時代も国も違う曲を聴いてみて、その1に99をどうつけていくか、そのプロセスを自分で問うていくわけです。材料はなんでもよいのです。

 

 

作れないというのは勉強していないということです。

勉強中ですから、できる、できないではなく、最後まで聞かせてしまう魅力があるとはどういうことか、そういう部分に気づいていくことが大切です。

 

歌の世界では、一番、効果をあげられるところでやり、それ以上やらないということが大切です。それが一曲(3分程度)なのです。それで最小で最大の効果を出すということです。

長さは関係ありません。歌った中で何を起こせたのか、ということが大切になります。

 

フレーズの実習でもわかると思いますが、わからない人ほどダラダラと長くやるわけです。

感度が鈍くなるような練習をしないということです。