一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート 13710字  796

鑑賞レポート   796

 

 

ケイト・ブッシュ

 

『なぜこんなに彼女らしくあるのか』アニメで始まる、初めてだ。イメージの世界が前面に出てきている。こんな声を出すのか。踊っている。表現したいことは体の中、体の動き(指、手、腰全て)声、全てを使って全ての力を借りて表現する、伝える。体を、手を、足を動かしてみる。思わぬ自分に出会う。

 

長い唄だ。お話しにメロディがついた。踊ってる、座ってる、まず体が動いている。あれだけのフレーズ言うのにあんなに表情が変わるのか、豊かだなあ。表現の仕方は探る、か。イメージが先生なのではないだろうか。立ったまま唄ったら。その都度表現の仕方を考える。結果全部同じになっても。まるでレオタードだ。ステージ衣装か。踊り手。おもしろい。よく動く目。よく動く表情、よく動くからだ。踊っているときのなんとも幸せそうな顔。

踊ることが唄うこと。手から始まる曲、はかまのような、前の結び方が違う。もたつく衣装だ。あの動きには。横並びで弓を引くポーズ。誰に弓をひく。目がカメラ。おもしろい。閉じるたびにカシャ。どうしてああいう動作をするのだろう。忘れてはいけない、忘れはしないぞ、という意志。

 

自分はそういうときにやるがどうだろう。体の動きに応じて声が出る。簡単に自然に出てきているように見えるが選りすぐったものだ。これだけ表現したい、豊かなイメージがある。ということ。なぜそんなに豊かなのだろう。どういう人なのだろう。どうしてきた人なのだろう。イメージがたくさん欲しい。好奇心と眼のやわらかさと考えてみるベクトルと。日々のなにげない瞬間の中に気がつかないだけで本当はさんざめいている。コントラバス。なぜベールをかぶるのか。よいスタイル。この楽器一つにこれだけのイメージ。空に水を放つ、おもしろい。空の何を消す。SKYに対するイメージ。宇宙で終わるか。

 

 

 

【ビリー・ホリディ】

 

『自分の魂の声聞いたことあるだろうか。』才能がむき出しだった、と。それをありのままにぶつけただけだ、と。そういう人が世の中にはやっぱりいるんだ。才能があっても埋もれていたり、理由はわからないけれどもありのままにぶつけられなかったり。それが普通。その違いは何か。歌うことに関してエエカッコシイではないことだけは確かだ。ハートがあって、ソウルがあって、人を泣かせる何かがあって、これ以上何がいる。か。凄い人だ。しかし、人を泣かせる何か、とは何だろう、どういうことだろう。

 

仕事は、「食う」ことから始まった、と。食うために歌う。美空ひばりと一緒だ。少女歌手。人を唄で踊らせている。できない。客を置き去りにする。しかしなぜ食べるだけで終わってしまわなかったんだろう。歌うことに追われる毎日の中でどうしてすり切れないでよりよくなって生きたんだろう。テープなんてなかっただろうし、ルイ・アームストロングのようにヒップな歌い方をする初めての歌い手。今まで彼女のように歌う人、一人もいなかった、と。

 

「私が正直であれば。扱う素材がおよそ小節を主題にしている」と。どういう意味だろう。ブルースの人は延々と繰り返し、トーチ・シンガーは切々と感情に訴える、と。そして彼女はトーチ・シンガーだった、と。なぜ「切々と」になったのだろう。耳が素晴らしかった、と、発想が素晴らしかった、と。なぜ。小さいときずっと音楽が身近にあったから。耳はそうだとしても発想は。いろいろ聞いてれば発想もよくなるのか。仕事が終わってからの自然発生的研究会。

演奏のスタイル、アプローチの仕方、解釈。アプローチの仕方とは歌ではどういうことだろう。触発,励まし合い。楽しいときだろう。ビリー・ホリデーのフレーズが素晴らしいから待って合いの手のようにパラパラと入った、という楽器演奏者。

こういうのはどういうことだろう。そこまで周りに認めさせる人だった、ということか。認めてそう行動する音楽に対する愛情がある、ということか。さぞビリー・ホリデイは歌いやすかっただろう。凄い人だからリハーサルはいらない、と。プロセスよくない、結果がよい、と。プロセスがよくない。でも結果がよい。こんな凄い人がプロセスよくないのか。やっててよくないときもあんまり気にするナ、ということか。少し違うような気もするが、半分はそうかもしれない。別の視点も必要だ、と思う。

 

タイムが正確、タイムがないとベイシー楽団は務まらない、と。タイムってリズム感のことだろうか。思わず踊らせる、できない。あれだけ楽しくさせるリズム。何でも歌えた。わがままじゃなかったんだろう。仕事だ。仕事が彼女をもんだ。1年に250日歌った、と。だいたい週休2日で月曜から金曜歌ってる、でも移動日もあるわけだし1年365日全て歌うことだけ、ということだ。元々耳があり、才能のある人間が全てを歌うことに捧げている。

 

「カフェ・ソサエティに出たことが節目になった」と。浸み入ってくる声だ、と。わかって歌ってる、と感じさせる。人生そのものに聞こえる、と。「奇妙な果実」それまでの歌手が単なる歌手だったのに対し音楽に別の側面をもたらした、と。創り出した。美声で聞こえたんじゃなく、彼女の解釈・運び方・感性が唄を一つの音楽表現にならしめた、ということ。コンボを伴奏に絶妙に語りかける一人の歌い手になっていた、と。ボーカリストが一番心がけることは歌詞で、彼女の解釈は直接的だ、と。直接的解釈ってどういう意味だろう。唄の中にスッポリ入ってしまう、と。客をぞくぞくさせ、浮き浮きさせる、と。本当に人と心が通じた、と。通わせたい、と願いながら歌っていたのではないだろうか。人の暖かみをお客との触れ合いで得ていた。そういう力のある人。また聞きたくなるだろう。

 

彼女が幸せになるのは仕事をしているとき、聴衆の反応があれば幸せ。そのことを彼女がどう思っていたかはわからない。確かなことはその瞬間一体となって幸せなときが存在した、ということ。しかし毎日最高のものを毎日提供する。

「一日で人の100人分を生きる」と。ボロボロだ。捧げもの。何が彼女を支えていたのだろう。他者に身を捧げている。この覚悟があるのか。毎日だ。逃げ出しそうだ。彼女の目の輝きが好きだ、と。表現の優美さ、普遍性、たくさんのヒット曲、彼女の素晴らしさ。瞬間、瞬間に反応した、その瞬間を変えるのは聴衆。やっぱり唄を媒体にしてコミュニケーションしている、唄を媒体に人を幸せにしている。音楽とそれを演奏している人が彼女は好きだった、と。それこそミュージシャンの生き方だと。人生のあらゆることを教えてもらった生き方、人間のこと、音楽のこと、人生の先生だ、と。結局そうだから歌えるのだろう。どんな唄も一級品にしてしまう魂。

 

「レディ・イン・サテン」声はない。でも涙が出る。胸が張り裂けそうになる、と。人生そのものの声。魂があるもの、か。なぜ魂を提示できるのか。魂を提示したい。全ての人に魂がある。提示できるような魂だろうか。自分の魂の声を聞いたことがありますか。シンプルに考えたい。しかし本当に胸が張り裂けそうになる声だ、涙が絞られる声だ。身を切り刻んで提示してくれている。神様みたい。

 

TV番組の冒頭で流れている曲しか知らなかったが、あの数フレーズだけ聞いてもなぜか引き込まれる感じがあった。声が変。細かくて、高くて、喉を締め付けてウラ声を出しているような声。でも歌の中では、太く・強く・正確なところも感じられた。その独特の音色から感じる怪しさ、妖艶さ乙女っぽさ、ファンタジーが曲とぴったりはまっていて楽しかった。逆にこういう声だと、こういう新しくもあり、無機質なものでの表現に向いているからこのような曲作りになっているのかもしれない。さらに映像がよくできていたと思う。わけがわからないんだけども見てしまうような、イマジネーションを膨らませる要素がたくさんあった。アーティスティックであった。14曲中、前述した曲以外では、8曲目の政治的メッセージが強いような曲が印象的だった。彼女の声がこの曲では、また違う感じ(悲しさ、哀れさ、切なさ)がとてもうまく表現されていたからだ。声の特徴を作品に生かすということを考えさせてくれた。

 

 

ビル・エヴァンス

 

こと芸事においては、そのプロセスをどうするか、どう考え、過ごすか行なうかによって、成果が変わってくる。もちろん、人間としての生き方やアートと捉えるか、エンタテイメントとして追求するかによっても異なる。しかし誰もが、この道を通り、何かしら試行しなければならないポイントがある。

ビル・エバンスは、無駄な時間と労力を積み重ねないようにアドバイスを与えてくれる必見ものだ。演奏を聞かせてくれると思いきや、先生の授業に出ているような錯覚に陥っている自分。同じことを言っているせいもあるだろう。理知的に、わかりやすく、説得力を持って解説してくれる。ピアニストはもちろん必見もの。ビル・エバンスのいわんとすることは、芸事に携わるものにとって、うなずくばかりである。

 

 

ホセ・カレーラス

 

「私は勝つ」。ホセ。カレーラスのモットーが強く印象に残った。決して大柄ではなく、話し方も穏やかだ。だが、その奥にはすごく強いものがある。それは彼の話や雰囲気からも伝わってきた。クラシックの世界というと、おとなしくて優雅なイメージがあったが、それは全く違っていた。

 

声を使うプロの中でもトップレベルに位置する声楽家は、ハードなトレーニングはもちろんだが、声のために睡眠時間や空気の湿度も常に考えている。あそこまで声を響かせ、コントロールするには相当の訓練が必要で、そのためには相当の精神力が必要なはずだ。

ホセ・カレーラスはその中でもトップクラスの声楽家なのだ。彼のレベルの声楽家はウソっぽい声ではなく地声に近い声で歌っている。

 

誰かが言っていたがカレーラスの声は、とても叙情的に聞こえる。彼が体いっぱい使って歌うアリアを聞くと何を言っているのかことばはわからなくても「グッ」ときてしまう。これが声の力というものかと改めて、その力の大きさを感じた。

 

 

【ザ・ジャイアンツ・オブ・ロックンロール】

 

どの人もすごい迫力とカリスマ性があって、圧倒的な魅力を客に見せつけていた。現役のアーチスト以上に現役っぽかった(実際現役だけど)。何歳になっても人前でやり、やって人を沸かせられることの素晴らしさを教えてくれた。そのための努力は凄くしているのだろう。まず体。やせ細った人など一人もいない。全身から生気が溢れていた。パワーのある声も、自然なシャウトもあの体あって、そして使いこなせてのものであると確信した。それからテンションの高さ。高めて高めて勢いを持ってステージで演奏しているから、歌にあれだけののりやスピードを出せるのだろう。テンションが高くないと客との掛け合いができないどころか、場を盛り上げられないと非常に感じた。自分はなんて体を使ってないんだ、なんてテンションが低いんだ。1/100も出せていないと思う。そこにある差は一体何。そして、忘れてはいけないことは、彼らはそれらの要素を全て自分らしさでひっくるめて音楽と一体化させているから、自然に演奏し、歌うことができるのであろう、ということ。

 

 

 

【スイング・タイム】

 

ナットキングコール

気になったのが、舌がペタッと下の歯の内側に納まっていて喉を開けるときの舌ってああなるのかなと思った。彼の歌は無理なく聞こえ、体全体が楽器のように響いている感じだった。そして歌声と周りの楽器が調和していて気持ちよく聞けた。

「Always You」という曲の中のフレーズでの粘り方が何か独特ですごかった。あと、歌のリズムの取り方はどうやっているのか。周りの楽器のリズムに合わせてついてあんな入り方ができるのか。自分独自のリズムがしっかりとあるのか。リズムというより呼吸で歌っているのか。

サラボーン

歌は自由自在という感じである。声は呼吸と同じように自然に出てきてそこに感情の起伏を乗せてできあがり。改めて歌の単純さを教わった。ハーブジェフリーズ:ポジションが深い分、抵抗が大きく力を入れれば声量が出る感じがわかった。

 

 

 

シャルル・トレネ

 

彼は歌手である前に詩人であった。自分を解放し、大地への愛、生きている喜びを詩にし、それをメロディにのせて人に伝えた。パンクロックが社会に対する反発か叫び、歌ったように歌の原点がそこにあった。要は内容じゃない。いかに自分をさらけ出すか。自分の中から自然に出てくる感情をポッと出せるか。それを人に伝えたければメロディのせて歌えばよい。いや感情がことばがことばとして出てきたときにすでにメロディをもついているのではないか。

 

トレネは歌っているときも当然幸せそうだった。湧き出てくるものを押さえずに自然に出してみたら、それが喜びであり愛だった。本来歌とはそんな複雑なものじゃなく単純でストレートなものではないか。それを勝手に複雑にしているのが自分である。複雑な時代に生きているというのもあるが、かなり頭でっかちになっているというのは否めない。単純な思いを単純に伝えることを普段から心がけたい。

 

 

 

【レオ・フェレ】

 

私が目指す一種のスタイルを(と言ってよいのかどうか、とても放漫な感じだが)ものすごいグレードの高さで魅せてくれた。こういう人でまだまだ知らない音楽が世界にはたくさんあるんだろう。もっともっと知りたいと思った。フェレにとって、一番伝えたいことはことばの中に存在するのだろうが、声としても一流だ。

詞の内容の理解に心が傾くが、それを自然にそうさせてくれる音楽,声のベースがものすごいものだと私はまず感じた。これができていないと素直にことばに耳を傾けることができないだろう。(すごい表現力、といったところか!。)声、音楽のベースがいまいちでも作品が良いものを造れば、という逃げ&甘えがとっぱらわれてしまう感じだった。そしてことば,ことばは、とにかくすごい。正直、もう自分の狭い世界での理解の外に行ってしまっていることがほとんどだったが、心に来ることばがたくさんあって、思わず何個か書き写した。同様、言われたことばも。

 

語録、それについて、思ったこと。

・足が臭う詩人、詩人は足を洗わない。

・武器とことばは一緒に殺す。

・心のピアノ,魂のバイオリン。

・羽の抜けた両腕で羽のあったところを思い出す。

・芸術には罵倒しかない。人を説得しようとし、何かを得る。

・私は扇動家だ。知的に扇動することが私の仕事。臨みながら機会のない人に挑発する。

・客は神も主人もいない。正義と言われる森,拷問に狩りたてる。

・君は一人で生まれ一人で死ぬ。自分でできることは全て自分でやること。

 重要なのは青、君の仲間の目のうしろに見える、見える青。

・アナーキ=愛、孤独。人は理解するならアナーキーになる。

・人間には2種類いる。服従しない人とそうでない人。

友人のコメントで「私に語りかけてくるようだ」と言っていた人がいたが、フェレの歌、ことばは1対1の真剣勝負のようだ。聞いたら最後、逃げられない。それはフェレが決して逃げない、媚びないからだろう。

 

いろいろなことばが次々と歌の中で出てくるが、決してことばだけが目立つステージではない。ことば以上に伝わるものがあるステージとはこういうものもあるのかと正直いって驚いた。声・アクセント・テンポの心地よさがとても抜きんでていて、暗い曲であるのに全然嫌味がなく飽きさせず歌っていた。自然な立ち姿勢からリアリティーのあることばと目線と少しのジェスチャーで充分迫力と重みがある。素朴のようでその中にすごい深さや凝縮されたものがあるように思う。音楽的であり知的であり、精神的であることに高い芸術性を感じた。何よりも、ステージを見るものに、見ているあいだ、旅をさせ、見終わったあとの景色を美しくさせたとまで許されるぐらい深い感銘を与えたことはすごいことだ。通して感じたことは、決して客に媚びることなく話しかけてくる姿勢が、まず客に信頼感を与えていた。そして、ことばと音をすっかり支配して歌い、曲の中で聞く人のイメージさせたものを泳がせたりもしていて、つまり、その場の全てを支配し、コントロールしていたようだった。

 

 

 

パヴァロッティ&フレンズ】

 

『どうしてこんなに友達がいるんだろう』

「Holy Mother」エリック・クラプトン。くせになる声だ。だんだんなじんでくる。なぜだろう。どこがだろう。パヴァロッティは体をうごかしていないけれど微動だにしないで、体で歌っている・しかし、パヴァロッティの音楽美意識は高い。シンプルだ。いいものはいい。うだうだ言わない。信じられない光景だ。エリック・クラプトンと同じステージで同じ歌を歌っている。楽しい。素晴らしい。違うものが混じる、出会うことは素晴らしい。パヴァロッティが笑っている。信念を感じる。

 

赤いシャツの人、しゃべりにメロディがついている。柔らかく流れるように歌っているけど芯から出ている。黒いシースルーの女性、カッコイイ、ギター弾いて、押さえた控えたカッコよさだろうか。私にない。こうしたいのだろうか。こうなりたいのだろうか、わからない。サビの歌い方カッコイイ。こぶしきかしてしぼるところ。エグイ。クラプトンのギターが泣いている、エグイ。手を合わせて入ってきた人、目のきれいな人だ。舌があごにピッタリくっついている。舌が声の流れをじゃましてない。素敵な笑顔だ。あるとなしじゃ大違い。しかし、口角の上がってる人だ。高い音の時とき、口角が上がりきっている。パワーのある高音、シャウトだ、芯から出ている。曲の間にああいう風に笑うやり方もあるのか。よく戻れるな。

 

ライザ・ミネリ、この曲をこうして聞けるなんて、誰が想像しただろう。でもやればできる、やってる。実に楽しい。枠をけとばす楽しさ。音楽を何10倍にも楽しくする男、パヴァロッティ

 

Ares Spire白いドレスの少女。捉えどころのない不思議な魅力のある声。このグループは不思議な声の人が多い。なぜだろう。どこの国の人か、どういう考えの人か、どうだとああ言う声になるのか。単パンで出てきたグループが舞台を歩きながら歌っている。まだやったことない。試してみたい。パントマイムのようだ。しかしデカイ口だ。黄緑のドレスの女性はひょっとしてシースルーの人か。彼女はクラシックの歌を。白いセーターの女性、不思議な声、声が2本あるような、鼻にかかるような、張りがある、声が伸びていく。

 

「アベ・マリア」みんなで歌ってもかなわない。何がかなわないのだろう。存在感、迫力。声が太く強く大きい。こういうことか。ギターの3人組、ギターの腹でリズムとってる小気味よい。ギターの音はこんなに美しかったのか。ジプシーキングスほど哀しくなく。歌の中でポン!とギターが入るので際立つのか。楽しそうだ。今ここでは3人で遊んでいる。一所懸命遊んでいる。ライザ・ミネリ満面の笑み。こうなりたい。笑顔で歌っている。素敵。できるようになりたい。マイクといった、ためて踏み込んだ。でも笑顔だ。立派な体。見渡してる。黒のレース、素敵だ。発音が音楽になっている。美しい、あの入り込んだ振り、こんなに楽しい歌うたえたらいいナ、おもしろい。楽しい歌を歌いたいのだろうか。

 

『力のある国イタリア』テンションも集中力も最高。口のまわりが柔らかそうで、いくらでも伸びそう。大きな鼻の穴、とてつもなく厚い胸板、途方もなく大きな体。美しいバイオリンの音、何かを表現したトレモロだろう。あの高い音、あの程度の口の開け方でよいのか。指一本くらい。集中力が続いている。神憑り。

 

ムーン・リバー」幸せな気分にさせるムーン・リバー、実に楽しい。こういう会場でエレキの音が響きわたる楽しさ。歌で会話するデュエット、こういうものもデュエットか。今まで見た、聞いた中で一番楽しい。なぜか。あれこそ二人が歌う甲斐がある。なぜそう感じさせるものを二人は創り出したのか。どんな思いでデュエットしたのだろう。

 

ナンシーの表情は実に豊かだ。目が。自分に伝えたいものがあってそれが自然にそういう表情になる。頬の筋肉がずっと上がりっぱなし。私はあんなに上げ続けられないし、途中で痛くなってしまう。話しかけてくれているように感じ、うれしく感じる。

 

自分に歌ってくれているように思う、と。人間は話しかけられたいのだろうか。何かでコミュニケーションをとりたいのだろうか。

仲介役は様々。大きな口を開けて舌はまっ平。でも、のどチンコは見えない。美しい服、キラキラして星空みたい。背中も開いていて素敵。

ジョルジア。こんなに表情豊かに歌うのか。のどチンコ見る、舌まっ平、柔らかそうな口まわり。姿勢が凄くよい。終わり方か歌、無駄に伸ばさない。

パヴァロッティの視線が右から中央へ少しずれていく。ジョルジア、無駄に決して伸ばさない。

 

AndreasVollenweiderのハープを弾くときの表情も豊かだ。ハープでこんな楽しいこと、こんな楽しいリズムでできるのか、初めてだ。なおかつ、こういう会場で。ハープでのりのよい曲か。メロディアスなイメージだけを勝手に固めていた。爪が長い。でもそれは右手だけだ。左右で出る響きは違う。顔が歌っている。あのバカ長い楽器は何だ。よくわからない音だ。でも、普段の生活の中にありそうな音だ。ハープのあの終わりの音は何だ。ほとんど響きを消したような。おもしろい。

 

イタリアという国が懐が深いのだろうか、それともパヴァロッティが深いのか。ナンシーはお芝居をしている。悪い意味ではなく。わかりやすい。感情の動き、起伏にメロディがついている。演じている。そう、ミルバもそうだった。女優のようだった。パヴァロッティは与える人だ。デュエットの相手にまで何かを与えている。二人で歌う、ということはこういうことか。しかし屋外では、どんな音で聞こえるのだろう。

 

Please Forgive Me、むせび鳴くようなエレキで始まる。サビのところブライアン・アダムスの歌にしびれる。必死で歌っている姿にしびれる。そんなに伝えたいことがあるのか。そう、抱きしめたくなる。なぜだろう。切なくなる。なぜだろう。表情豊かだ。サビのところのドラム、ためて踏み込んでいる。

「WhoWants to Live Forever」伸ばした音の表情豊かなこと。胸を高く保ち本当によい姿勢。決して無駄に伸ばさない。Andreas Becalliの歌。口のまわりに全然、力が入ってない。不思議な遠くで刻む軽いリズム。やかんがシュンシュンいい始めるときのような。素晴らしい彼の笑顔。

 

「RASALKA」ハープを弾く美しい女性。不思議な終わり方をする歌。

「O'SOLE MIO」素敵!なぜ、おもしろい、音楽だけがある。音を楽しむことだけがある。私はこういう歌い方、こういう解釈。ただそれだけ。単純になっている。握手してる。楽しい。こういうことが成り立つ。ジャンルがあるのではなく、音の優劣があるのではなく、みんなで楽しめる音が存在しているだけ。そこまでこぎつかせる。

 

パヴァロッティの他の歌手たちの腕力。パヴァロッティは自ら体現している。三大テノールのコンサートのとき語っていたことを確かに実現させている。豊かだ。また、惜しみなく拍手を送る聞き手だ。どんなジャンルの音もここでならある意味で成り立ちうる。音楽の原点がここにある。屋外で。

 

「All For Love」ジョルジア、キチッと歌う人を見て歌っている。リズム、体でとっている。腰入れて歌っている。基本を大事にする人だなぁ。みんなで歌うこの歌、素晴らしい。外見はいろいろだがともに今を生きている、という感覚。外側から色づけされるとジャンルは別々だが、音楽を通して人々とコミュニケーションとる、という点では同じ。ジャンルがあって唄うのではなく、伝えたいことがあるから唄う。

 

ここが基本。ここが難しい。「ポップスを勉強してます」と聞いたときの相手の少しガッカリした表情。「あれは勉強なんかするのか。必要なのか。」という表情。何度見たことだろう。でもこんなに奥深く先は遥かかなたとは全く考えたこともなかった。そういう点では他人(ひと)のことはいえない。企画の勝利だろうか。違いを認め合える、違いを楽しめる度量がある。

豊かな風だ、イタリアは。でも頭でただそう思うだけでなく、一つの形として、こういうコンサートの形をとって創り出してる。こういう印象が残るコンサートは初めてだ。表現になっている。

 

 

 

アレサ・フランクリン

 

『自然の素晴らしさ』実に自然。全ての人にアイコンタクトをとっている(遠くの人、2階。の人、ステージのすぐ近くにいる人)。出てくるときから入ってる。「今夜はパーティよ」か。何かで楽しみたいとお客さんは思っている。楽しいリズムで、美しいハーモニーで、魂を揺さぶるような歌で、別世界を見せてくれる歌で、楽しみはいろいろ。自分が何で楽しみたい、と思っているお客さんを楽しませることができるか。自分が楽しい、と思える歌はどういうものか。そしてそれは伝わるか。少し自分の楽しみとはズレるけれども、そっちの方がよく伝わるらしいとか。手におえる範囲の楽しい歌、単純に楽しい歌を歌いたがっている。自分に聞いてみて調節していかなくてはならない。どうしても調節したくないものも出てくるだろう。そのとき考える。

 

かわいい人だ。変に飾らない。この人がこの人らしくあるとお客が喜ぶ。素晴らしい。こういうのがいい。だからこそお金を出してわざわざ歌い手に会いに行くわけだろうが。彼女が無理してないように見えるのがとても楽しい。なぜそう思うのだろう。他のいろんな人のステージにそうじゃないものを感じたのだろうか。そうかもしれない。それが悪いのではなく、とても自然に彼女らしくある姿を見てものすごく楽しくなる自分がいる、ということ。自分が一つには自然なことを凄く求めているということだろう。彼女はそれを体現してくれている。でも彼女は本当にそうなのだろうか。コンピューターのように頭と心を働かせて、体も働かせてあれだけのステージなのだろうが、核心をなすところが自然なので、大事なところが柔らかく、リラックスしている。彼女が200%彼女でありえている。自ずとこちらもリラックスしてくる。自然である、ということはそういうものか。すばらしい。けど、難しそうだ。でも、そうだろうか。何か一つ、大事な何か一つ。本当は難しいことではなく平凡なことのような気がする。気がつくかつかないか。誰かの真似をしている。「I Like」ということばを忘れずに。楽しい。

 

カッコイイ。長い腕でしゃべっている。高い音が揺れるけど一向に構わない。オペラとは違う。全ての音が美しい声で出ることを求めてポップスを聞きには行かない。じゃあ何を求めて。その人がそこに確かに、歌の中にいることか。会えれば、濃密にステージ繰り広げられる中で出会えればよしなのかもしれない。彼女がとても楽しそうで見ていてうれしくなってくる。唇突き出して歌うのも彼女らしい。無駄な力が抜けていて入るべきところだけには入っている。「ウェーイ」1オクターブくらい。スムースにあがっていく。腰入れないままで。凄い体。入り方つかえた、でも笑ってやり過ごした。咄嗟の判断か。自然。高い音を出すときかわいらしい子供みたい。知っているのだろうか、自分がどう見えるのかを。低い音口をマイクにピッタリつけてる。よくマイクに入っている。入り過ぎちゃいない。しかしカッコつけなくて実にカッコイイ。女はこうでなくちゃ。コーラスの人が旋律を歌っている。精一杯ギリギリの感じがこちらに来てしまう。

 

アレサ・フランクリンには余裕がある。その余裕まで含めて彼女の歌なのかもしれない。しかし声量自体はそんなにいないんじゃないだろうか。マイクを通してよく通る声。そこに全てがある。笑顔がいい。彼女の笑顔はホント売りだ。商品でいえばお金を出して買いたくなる。「私のために照明色っぽくしてよネ」か。楽しい。2階席に。手を振ってる。1階席の人も手を振ってる。「ア、ア、アーッ」のところいい。彼女がとても彼女らしいところだ。終わり方の楽しい曲だ。声の使い方をお客さんが喜んでいる、フレーズの処理の仕方を喜んでいる。楽器のソロと同じだ。高い音のとき笑顔になるんだ、この人は。やっぱり舌じゃましていない。語りから歌に入る、いい、すごくいい。泣かせる、そこだけで。なぜ。そこに彼女がまぎれもなくいるから。彼女の心が語りかけてくる。カッコイイ!うなってる、カッコイイ!彼女がうなるとカッコイイ、私がうなると、みんなが逃げる。うなりとは何だろう。これだけの曲数歌うんだ。持たせる。今まで何度となくステージというものを見てきて、なぜ今回つくづくそう思ったのだろう。ことばをどう言い切るか、そこに出てくるか、その人らしさが。「ウォアーウォアー」の素敵な人。ことばにならなくてもそこに音楽のある人。1時間歌い続けあせびっしょり。肉体労働者だ。

 

 

 

【ハードロック革命】

 

『揺さぶりたいことがある』革命。今まではどこがどうだったのだろう。前がわからないからどこをどうしたのかがわからない。

「No No No」Deep Perple。エレキギターが気持ちいい。あのベースメロディが気持ちいい。そしてトリル。ヴォーカル腹からイヤ腰から絞り出している。全部がロックしている。

「GAVEVVJAH」きれいじゃない良さ。一方で美しいハーモニーがあって、そこにメインの語りたい、言いたいヴォーカルが入る。

BLACK SABBATH」胃の腑あたりから出てくる音、ごまかさない音、だからこっちもひっつかまってしまう。なぜこんな音を作ったんだろう。歌わずにおれないものは何だろう。ドラムぶったたいている、ああ、もどかしいと。燃える街か。戦いの歌か。開き直ったか。ヴォーカルの人完全に入ってる。動物に戻れてる。本能のところでやれてる。

「BLUESUEDE SHOES」しかし見事に整えない。整えない一つの形はこれか。

「Mr.BIGI」入ってる、本能を聞いてる。本能を歌ってる、本能を弾いてる。ギターいい、あのイメージはそうだ、という感じだが、水色出ているだろうか。哀しみの水色か。FREEか。それくらい入りたいもんだ、放出だけだ、そうか。

「NATURAL BOONE BOGGIE」いもちいい。本能のままいいよ、と言われてるみたいで。「DON'T LOOK AROUND」歌うんじゃなくて言いたいことを言う。凄いドラム、ああいうのがいい。あれのどういうとこか。嘘じゃないとこ。

「SHOT GUN」こういう激しさとああいう美しいハーモニーが両立するのか!おもしろい。みんな身を委ねている。何に。自分に。

「EASY RYDER」ああいうのびない声の人も外人にいるのか。一人いた、ということは結構わんさかいるのかもしれない。すごく新鮮!思い込んでいたんだ、みんなのびやかだと。落ち着いて考えればわかることが、自分で目に膜を作っていく。永遠に、この繰り返し。今回は芯瀬院な驚きを持てた。今回はそれでいい。

「MMER TIME BLUES」しかし髪の毛が顔に覆いかぶさって目がどこにあるのか。目の所在がはっきりしない、というのは見ていて不安だ。焦点をもてない。目に合わすべき焦点を考えているんだナ。アイコンタクトの大事さはお客さんへ安心感を与えるともいえる。意図してアイコンタクトをとらないときは別として。

「WALK AWAY」流さない歌い方はこうもいいか。本当にそう思うか。ではなぜ。飽きないいっこうに飽きない。いい悪いじゃなく、人前で何かやるときの必須科目かもしれない。

 

誰か歯でギター弾いていなかったか。いろんな人がいる。見終わったあとの心のつかまれ方はジャンルでつかまれるんじゃない。ハードロックという文字だけで紙一枚分隔絶してしまう何かがあるが(しっくりしないという意)胸ぐらをしっかりつかんで、揺さぶってくれた。ジャンルが揺さぶるのではなく、その人が私を揺さぶってくれた。そこにおこる心の動きだ。枠づけ、ネーミングはあとから。

 

 

 

平山郁夫サラエボの光」】

 

人間は、一つの川を境にして攻防を繰り広げもするが、川の周りに文明を築きもする。自然はただ、淡々としているが、人間は創造と破壊を繰り返す。愚かといえばそうかもしれないが、絶望を経験するから希望が沸き、深い哀しみを経験するから喜びを味わえるのかもしれない。

人間社会は相対性の世界であり、希望だけを信じ切ることができないから絶望を味わうのではないか。不安を振り払うことができないのである。

芸術とは自分を全てさらけ出すことの上に成り立つとしたら当然そういった人間の必然的な思いがついて回るものである。だから、芸術家は全てを受け止める覚悟が必要である。それでも希望を抱けるかと挑んでくるものを受け止めなくてはならない。

平山さんは自分が生き残ったために、自分だけが逃げたという思いがついてまわると言う。しかし広島の絶望を受け止めるに値する人であったからこそ生かされているのではないかとさえ思う。

 一番印象に残ったのは子供の笑顔だ。どんな希望を描いた芸術もかなわない。そこに何があるのか。いや何もないからこそではないか。どんなことばもいらない。その瞳に希望が写っている。どんな大人も最初は子供だった。原点に返ろうとすることが芸術をつきつめようとする衝動なのか。まず自分の現状と本音をしっかり見つめ、どうして今に至ったかを見つめるのがまず行なうべきことだと思う。