一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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投稿    798

 

忘れるな。ガード下のテンション。動け。

 

生きているものは皆死ぬと思うからこそこの命を何とか使い切りたいと思うのかもしれない。今生きているということを実感できるこの瞬間が全てなのだと思う。

 

オリンピックの選手たち見ていると、その精神など、とても刺激される。スピードスケートの選手の太ももは人間と思えないほど発達していて、まさにスケートをするための体になっている。一流のヴォーカリストたちも歌をうたうための体になっているのだろう。

 

妹が永眠しました。昨年結婚したばかりで、これからたくさん幸せをつかむべき人でした。子供のときからずっと見てきた人なので死というものを強烈に意識しました。自分の一生をどう過ごすか、一時一時の大切さが身に凍みる毎日です。

 

息という字は自(分)の心と書きますよね。つまり、息を吐くことは自分の心を伝えること(表現すること)なんだということ。深い息を吐ければ吐けるほど自分の心も深く表現できる。そして、今まで自分は全く表現できてなかったんだということを思い知った。また、胸のポジションが心臓の近くにあるのかななんて思ったりもして。というのも深い声を出そうとするとみぞおちの上の辺りが痛くなるからです。とすると、よくハートが伝わってくるなんて表現がありますけど、本にも胸に口があると思えって書いてありましたよね。胸の口でハートを伝える。何となく関係がありそうでおもしろい。この答えが早く出せるようにトレーニングに励みたいと思います。

 

実家は宮古市。海の注ぐ河辺で、レッスンを思い出しながら、「ハイ!」などやっています。大学は秋田市。近くの山に登って、レッスンを思い出しながら「ハイ!」などやろうと思っています。大体月1回の参加になりますが、それでも、ブレスヴォイスに行って実際にレッスンを受けると、練習によりついた筋肉に、一気に神経の支配が行き渡る気がして非常な価値を感じています。

 

ボクサーの辰吉丈一郎がTVのインタビューで言っていた。「ボクサー(チャンピオン)になりたい。誰々のようになりたいと言っているあいだは、なれないんだ。そいつを超えることはできない。自分は絶対になる、という自信過剰なくらいに思っていないと本当につかむことはできない。そういう世界なんです。」どの世界においても、第一線にいる人のことばには何かしら感じるものがある。

 

正しい努力と間違った努力とは何だろうか。目の前のことを一所懸命やることはもちろん大切なのだが、それがどういうことにつながっていて自分が求めているものなのか、常に自分自身を見つめることが必要だと思う。

 

傷だらけの天使」のショーケンと水谷豊、「スケアクロウ」のダスティン・ホフマンと男。これだからよい、生きるということは。もちろん喧嘩もする、憎しみもする、いろんなときを重ねる、でもともにいる、ともに生きる、地球がそう、今このとき同じときを生きている。生きとし生けるもの全てが。ケンカすることで支えていることがある、憎しみを持つことで自分を支えていることがある、闘うことで支え合う関係がある、いろいろな関係、でも全て自分以外の人がこの世に存在してくれているからこそ。一人で生きることを決めた人でもそれを決めさせてくれたのはまわりの人間の存在。他者を神は与えている。

どう生きるのかを選ぶにせよこの世にたった一人で存在させなかったのは、ともに生きよ、ということ。どう生きよ、と言っているかは自然の中にたっぷりと答えを用意してくれている。愛されている。こんな私を愛してくれている。大きな手が暖かい手が私の頭を撫でる。「大事に生きるんだよ」「自分らしく生きるんだよ」「思い切り失敗してごらん」涙が出そうだ。もったいない。でも感じる。ガッツポーズ、上着を脱ぐ。この映像を歌った歌なのか。子供たちの笑い声が遠くで聞こえる。得体の知れない黒服の奴ら。やってみるか!イエッー!ぶっ放したい!!!悩むな、イヤ、行動せよ!イエーイ!おもしろい。

 

自分のスタイル。たとえ嫌われても動かしようがない自分のスタイルを見つける。今まで聞いた誰とも違う自分のスタイル。これはもう、なるべく多くの「表現」を見聞きすることに尽きるのだろう。そこに照らし出される自分。あれやってみたい。こう形を変えてやってみたい、あれだけは絶対ヤダ、自分の動かせない土壌の上に積み重ねていく作業。きっと見つかる。みんなが教えてくれる。

 

 

『終わりのない世界』

いつも見てた夢

君と僕の終わりのない世界

間違えたことも

走り出していく流れの中で見つける

君は僕のことを「希望」って呼ぶけど、

それは絶望の一歩手前。

僕は君のことを「勇気」って呼ぶけど、

それは臆病さの裏返し。

ささやく、歩き出す音がする

いくら回っても墓標を目指すとき

世界の声

蒼い封印の空、血を飲む感じだ。

僕は君を見つけたときから走り出していた。

両足が麻痺しても、走り続けられるか。

青い鳥を探した。

すぐ側に居るのに、でも何かに追い求められる様、

走ってしまうんだ。

君を探している。

何と言う音を発せば、あなたに届く。

壊れやすい世界

追いかけているのは君ではなく、きっと私なんでしょう。

だから、追いつかない

「―抱いて。」

それだけでいいのに、

こんな小さな望みもきっときっと叶わない。

君じゃないのなら

あなたじゃないのなら

他は誰だっていい。

代わりはいくらでもいるし、どれを選らんだって同じ。

君じゃないなら

あなたじゃないなら

こんな世界、どうだっていい。

だから、誰でもいいいから私を、僕を、めちゃくちゃにして。

壊れてしまうまで―心が、

君を、あなたを思い出さなくて済むように。

君の口唇に触れる日を

生まれる前から夢見ていた。

「それは崩れる音に、似てるね。」

―そうかなぁ。―そうだね。

「でも、いいよ。私も夢見ていた。この世界を終わらせてしまう日を。」

終わる日はくるの。

終わる日はくるの。

終わる日はくるの。

そこからまた、始まってしまうのではないの。

止められない。あなたと私のキスでさえ。

もうつらいのか、苦しいのか、楽しいのか、

つまんないのか、好きなのか、きらいなのかさえ、

じぶんじゃわからない。

私は、何を、したいの。

自分でも愛せない自分を誰かに愛してもらうなんてできるの。

それでも愛を語るのなら、

それは、終わりのない世界。

「君を愛せるわけないよ」僕は言う。

夢を見る深海魚の瞳で、僕は君を見つめてるのに、

なんで、そんなこと言ってしまうんだろう。

「お前なんかいらない。殺してやる。」

君しか入らない、だから、首に手をかけてみるのか。

殺したい、でも君が居なくなったら、僕も死ぬ。

心の糸が切れる音、をその時聞いた。

今度出逢う時は、誰よりも遠い他人かい。

「これは夢ではなく現実なのだ。」と。

ここは、終わりのない世界だ、助けてくれ。

目が覚めたら、全てが嘘だったとわかるよ。

そして私の存在を忘れてしまうのね、君は。

「夢から覚めなければ、ずっと一緒にいられるよ。

ずっと一緒に、三十六度の体温を感じていられるよ」

お願い、気づかないで

私が私を愛せないことを。

僕はもうわかってしまったから、ここには居られない。

終わらない、終わらせるもんか。

僕たちは永遠を誓い合ったんだ。

「でも、ダメ。」君は言うんだろ。

終わらないんだから、大丈夫だ!

またすぐ目覚めれば君は横にいるんだろ。

居るよね。居るんだ!

「夢を見てるのね。」

夢なんかじゃない。

ねえ―いつも見てた夢が、ここにある。

なんてことだ。

またもや僕は君を赦してしまっているよ。

僕が聖母と呼ばれるのは、君が存在しているからなんだね。

どんなに傷ついても、それを上回る心を

僕はいつも手に入れられる。

君がこの世に生まれて来たことで、

全てのことが赦せるよ。

君が居るから僕は救いの手を造る、

希望と勇気が持てるんだ。

君が僕をMARIAとコードするなら

君はMESSIAHだ。僕はコードした。

時の流れる方向が、一定しているこの世界で、それでも二人は出逢えたんだ。

終わりがあってももう、いい。

それは正確ではなく、

やはり終わりのない世界、なのだから。

永遠の望みは、君を包み込む、強さだ。

 

 

『表・現・論』結論は単純なことだった。それは「音色」だったのだ。ごくあたりまえのことのように感じられるが、このことを再認識したとき、なるほどと感心してしまった。例えば電話で話をしているとき、僕たちは相手の声から「眠そうだな」とか「疲れている」、「妙にうれしそうだな」とすぐにわかることができる。それがわかるのは相手の声色で感情を察知することができるからだ。従って歌声の中での音色からも喜びや哀しみを感じ取り、一方で音色で自分の感情を伝えることができるのだ。音色はヴォーカルにおける表現の媒体なのである。しかもその音色は個人の声そのものや体験してきたことによって違ってくる。同じ「喜び」を表わす音色でも個人の喜びは千差万別に変わるのだ。だからこそ声にオリジナリティーが出てくる。しかしもっと深く考えていくとこの音色は表現するための方法・手段の一つにすぎない。フレージングも、また歌詞も表現の一形態なのだ。ことばもフレーズにおける置き方やアクセント、イントネーション(抑揚)によって表現することができる。しかしこの表現形態(方法)から音の世界へ入る方法とことばから音の世界へ入る方法があるのである。

 

「ヴォーカルトレーニングメニュー100」に書いてある「ことばと声がせめぎ合うところに表現が生まれる」ということばは本当に的を得た言い方だということがわかる。音色が声の表現の媒体だとわかったとき、「自分の声を知る」ということの意味も少し違うことに気づいた。

今までは声の響きが胸や体の深い部分でとれているか、頭の方に響きが逃げていないか、ということしか考えていなかった。しかし本当に「自分の声を知る」ということは、「自分の感情がどのような状態のときに自分の声がどのような音色を出しているかを知る」ということだと思うようになった。自分の声の音色をたくさん知っていればいるほど、フレーズに対してどのような感情を入れればよいかがわかり、表現力も豊かになる。音色を知っていても心を込めなければ意味がない。感情がこもっていないフレーズは不自然に感じられるし、第一心がこもっていない表現なんて無味乾燥した機械的な印象しか与えないだろう。そしてこの表現をできるだけストレートに聞き手(観衆)に伝えるためにこのヴォイストレーニングで音質が安定した本当の声を身につけるのである。

 

声の音色だけが表現になるのではない。声の大小,テンポ感やリズム感、フレーズの作り方(展開)やことばの置き方,間の取り方などこれら全てが表現につながるのである。それでは冒頭で述べたフィギュアの表現とはどのようにして伝わるのだろうか。これも結論を出すのに時間がかかったが、結局体の筋肉の微妙な動きが選手の感情と一致したときに伝わるのだと思う。

これはバレエやフラメンコ,ダンスでも同じだろう。心の微妙な変化が体の筋肉に伝わり、スピンのときのスピードの緩急などで表現が伝わっていくのではないだろうか。料理では甘さや辛さなどの味の微妙な違いとその組み合わせ、書道では墨の濃淡や筆跡のライン、文章では文体や展開の仕方、弦楽器では弦への微妙なタッチによる音色の変化、こうしたものが表現につながっていくのである。

 

音楽以外の分野のものまで学ばされるのは、表現というものがどのように伝わっていき、どのように感じられるのかをわからせるためなのだろう。自分の出した表現が相手に伝わっているかどうかだけではなく、どのように伝わっているかということについて考え、知ることも大切である。

 

映画「もののけ姫」で有名になった米良美一のことば

「最終的に芸術家の勝つ要因というのは、その人のオリジナルがあるかないか!個性だと思う」

 

 

『TERRORIST』

殺したい衝動に壊れていく、、

それが、自分の存在意義。

逃避できない苦しみ、永遠の理性とばし、

それは、現実。

「目的は偽り、達成は失望、その一瞬の快楽は堕落。」

崩れてゆく自我。

血で血を洗い、最上の微笑みを浮かべる。

平和と正義の名の元に、

大量の血を浴びる道徳。

 

 

『ランチボックス』

すぐ忘れてしまうんだよ。

僕達はこの感動を。

時間という魔物に追われて。

誰だって、誰にもわかってもらえないいらだちを抱え、

ランチボックスに詰め込んで、丘の上を目指す。

僕は、この気持ちにすがりつきたいんだ。

僕の生まれた理由(わけ)をランチボックスに詰め込んで来たつもりさ。

君と、あの海の見える、懐かしい風の吹く丘で、もう一度出会う。

その時は、僕のランチボックスの中身を半分分けてあげる。

だから、君のランチボックスも開けて欲しいんだ。

たとえ、何も残ってなくても・・・構わないから。

 

「うける」についてのおもしろい話しを思い出す。「うける」とは単に笑わせたいところで笑いをとれたときだけではなく、泣かせるとか、こちらが伝えたいことがビシッとツボに入ることをいう、と。泣かす筋書きの芝居には泣かしてくれることを期待してお金払って観るんだ、と。

お客は笑いたがっているし泣きたがっているし感動したがっている。

何物かを期待している。ハートがある。ソウルもある。その上に人を泣かせる何かまで持っている。凄い。子供の頃、雑事のかたわら口ずさんでいた、と。

 

 

 

 

 

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おすすめ

 

布施明

役者のような内面表現、若さや激しさ、穏やかさを、ためらいなく発散させるカンツォーネに対して、

 

ジョルジュ・ムスタキ

年輪を重ね、達観したあとの心情を語ってくれるような表現。どちらも素晴らしく、どちらも、その年代それぞれの魅力に満ち溢れている。一人の人間が何年も表現しつづけていろいろな、そのときの表現を見せられたら、私服であろう。

 

バーブラ・ストライザンド

登場したが、こちらにブッとんでしまった。確かにミュージカル女優を目指したことも一瞬あった私としては、知らない人ではないが、若過ぎて、わかってなかったのだ。とんでもない大物だった。何なのこの人。すごい才能と努力と精力。はじけるオーラ、パワー。どれだけ努力し、またそれによって自信をつけてきたか、そして創造する人でもある。何せ、演じる、伝えるということのパワーは強烈に迫る顔の表情からも弾けている。メイキング(レコードの)を観ていると、自分で歌いながらも客観性を持って自分を見つめているのがわかる。自分に溺れすぎず、女優として表現し、役を勤め、伝達することに徹底している。ベテランであるということがよくわかる。子供の頃から鍛えているアメリカのショービジネスの世界。引き出しを多く持っていることへの羨望は、大人になってからこの道に入った人は誰しも持っていることだろう。それも運命という名の才能。とにもかくにも、このあと、バーブラ・ストライザンドという人を追っかけてみようと思う。

 

ためしてガッテン英会話

すごくわかりやすくて、おもしろくて楽しかった。なぜ日本人の英語は、通じないのか。という問題をまず、認識する。どのくらい通じないものなのか、本当に通じないのかを体感する。そして、その上で分析する。これは科学的にわかりやすい。そしてその分析をもとに自分を改善してゆく。一人の大学生が実験台になって2週間の特訓を受ける。英語にはアクセント(強弱)、リズム、イントネーションが大切になってくる。彼は先生の指導のもとまず音楽に乗って(リズムに乗って)英語を体に入れやすくしてから発音に入っていた。見ていてその大学生の想いが見えた。最初の英語には表情もないし、抑揚がない。日本語の特徴がそのまま出てしまったとはいえ、彼の心を表してるように思えた。自信のない感じがやはり出ているし、伝えようっていう意志が見えない、ただ読んでいる感じだった。2週間のあいだに、確かなものをつかんでいる感じがとてもよく伝わってきた。それは、自信でもあり、リズム感でもあったし、とても楽しそうだった。自分の中に確かなことが残るってのがやっぱ気持ちよいものだ。彼はわくわくしただろう。それを感じずにはいられなかった。こっちまでわくわくして胸が熱くなってこみ上がってくるものがあった。何かを作ることの喜びはこんな風だ。本当に身につけるには日々それに触れること、日々想いを熱くすること。そして繰り返すこと。必死にそれにしがみつくこと。これは恥じゃない。

 

 

「幻想の地球学」

和栗由起夫+好善社

 

「放下Ⅱ」

岩下徹、石井満隆吉増剛造,佐藤通弘ら

 

「書生節の世界」

明治、大正に街角に立つ書生により歌われ、日本中で流行した歌を集めたCD。全体からパワーを感じるが、私は特にホイホイ節が好き。

 

玉松一郎ミス・ワカナ

大正時代の漫才コンビの作品集。ミス・ワカナが、各地の方言を見事に使いこなす。また、当時の時代の先端をネタに取り込んだり、今ならカットだろうと思われるようなネタがあり、興味深い。(そういうものをカットしなかった時代、おもしろかった時代かも。

 

 

松崎しげる

愛のメモリー」はものすごかった。ことばでは表わせないくらいすごかった。かっこよかった。この人がステージ実習に来たら部屋がビリビリふるえるんじゃないか。思いが滝のようにふき出してた。

 

加藤登紀子

19のころ彼女の歌を聞いて号泣したことがあった。詞の内容ではない。メロディもよかったが、今思うと「声」なんだ。あぁ〜と、のびのびと張った中に込められた何かを感じて、わけもわからず泣いていた。おおたか静流さねよしいさ子のLIVEでもオイオイ泣いた。

 

ミュージカル「Ma Ma I Want To Sing」は鳥肌さえ立った。僕も誰かを泣かせてみたいもんだ。

 

斉藤徹

コントラバス、とにかくすごいと思います。踊っています。歌っているのは、360度の空間であり点であります。ある意味、私の目指している世界です。・Patti Smith何年も呼ばれていながら、何か手を伸ばすことができずにいたが、ついに聞いた。ロバート・メイプルソープがジャケットをてがけている。「Horses」内蔵的な歌い方だった。期待は、裏切られた部分とそれ以上だったところと両方ある。いずれにしても、もう少し深く関わりあいたい相手であることは確かだった。

 

「昔の後進国日本」

読んで、おもしろかったので、お勧めしようかと思っていたら、福島特別の説明で参考図書となっていたのでビックリ。さすがにお目が高い。もうご存じだと思いますが、コールユーブンゲン平均律でやってはいけないそうで、これはおそらくコンコーネにも当てはまることだと思いますが、厳密な解決策となると。難しい。

 

「ゼロビートの再発見(平島達司著)」

買って読んでいたので、平均律のせいで、転調しても調整の色彩感の変化がなくなった、ということを知識として知ってはいました。20世紀の音楽は、その欠点をリズムによって補ってきたようですが、近年ゆき詰まっています。クラシック、ジャズ、ロックに代わる先進的なジャンルはまだ生まれていません。

 

「リズムはゆらぐ」(藤原義章著、白水社

お勧めしておきます。音律にとっての平均律に当たる問題が、リズムにもあることがよくわかります。