鑑賞レポート 806
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【ミルバ】
ミルバの集中力はものすごいと思う。出てきたときに上がっている集中力を最後まで保っていると見えた。ステージに完全に入り込んでいてステージ上での自分の役を完全にこなしていた。歌、ステージのイメージとミルバの物腰がピッタリと一致していて完璧主義者なところが伝わってきた。一声聞いてなんて強い声なんだろうと思った。これだけ強い声を使えても歌いやすく声を使っているプロはいると思うけど、ミルバは全身でふりしぼるって感じがした。その分、体から声を出すということがミルバみたいな歌だと理解するのに有利なんじゃないか?と感じた。どんな歌を歌ってもミルバと感じさせるものはいったいなんなんだろ?どうしてなんだろうか?その理由をミルバは知っているのだろうか?自分を知り尽くして作り上げているのか?感覚みたいなものにまかせて歌っているだけなのだろうか?ミルバと同じ位置に立って自分にできることなんてないのだろうか?たぶんないだろうと思う。音楽的なことでは本当は一生むりなのかもしれない。でも、集中力とかなら自分しだいで近づいていけるはずだと思う。そこから見えるものをどうするかが、自分にとって最も必要なことだと思う。
【サラ・ヴォーン】
『私の幸せは?』50年の歴史。とても楽しい人であり悲しい人生である、と。そ、幸せな表情をしていない、というよりいい顔をしていない。それはなぜか。歌っている時は?わからない。でも脳裏?に焼きついている顔はそうだ。近所のおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんの中によほどいい顔した人が大勢いる。そして自分はそのことにもの凄く励まされる。いろんなことがあったろう。今もあるだろう。でもそういう表情を自ら獲得していった。ある人にはそこに強烈な意志があっただろう。そういう人生の先輩でいていくれることに頭が下がる。その人の実体はわからない。それはその人の問題だ。私はそいう人々が指し示してくれるその生き方に一つの自分の生き方の標準を合わせることが出来る。なぜ不安だったのだろう?自分の力をよく知っていた、という。なぜ手っ取り早くお金を稼ぐ連中と自分を比較したのだろう?クラブ中が彼女の手の中にあることを感じ知っていながら、そう、聴衆をつかんだ表情をしている。何のために歌うか?何を手にすれば自分は満足するのか。変わっていいから。今の時点で。本人しかわからない。自分に聞いてみないとわからない。
トーン・ピッチ、誰とも違う。自分の音色。あの、オルガンを習う、弾く。でもこれが結局あとで役立つ。ナイトクラブに少女の時こっそり行く。体が求めている。音楽を。アポロ劇場の素人コンテストで見る人に何とも言えず不思議な魅力,感動を与えている。18才でだ。もともとのもの、蓄積されたもので既にそこにあった、ということ。歌手兼ピアニストから出発。あんなにホント、ピアノ弾く人だったんだなぁ。全く知らなかった。レコード聞いた人が受ける新鮮さ。一つの音をひきのばして音をターンさせる。揺らせる。これが彼女の声の使い方の一つ。全編にこの揺らし方が出てくる。ホーンのまねをして歌う。彼女の体は楽器だと当時の人々が語り、そして自分も全くそれと同じように感じた。そういえば他の歌い手にまだこういう感覚を持ったことはない。なぜ彼女の体は楽器になったか。ホーンまねをしたから?体をホーンにしたいと思いながら歌っているうち本当に楽器になっちゃったということだろうか。
サラは考えるより思いつくままに歌う、という。耳を便りに全てアドリブだと。頼るだけの耳がある。考えないでも思いつくままに歌えるだけのものが入っている。こういうのを天才肌というのだろうか。感覚的。職人とは程遠い。でも、やはりなぜ思いつくままに歌えるだけのものをどこでいつどうやって仕入れたのだろう。必ず仕入れ期間があるはずだ。
この話の中では、教会、ゴスペル,ナイトクラブ位だ。こういう経過を経ても多くの人は同じ感覚はつかめない。やっぱり感覚が天才なんだろうか。どんな時もあわてなかった。ステキに歌う秘訣?は仲間に溶け込むこと?他の歌手がすることをしなかった、と。歌う前にフルコースは食べるし。要は彼女は全て自ら決めた、ということだ。たとえそれが間違っていても。女にツアーはきつい。女でいちゃいけない。よくわからない。みんなに好かれる強い人間でないとダメ、か。好感を持たれる強い人間。好感を持つときとは、好感を持つこととは、どんなことだろう。歌うだけでは足りない。強い人間でないとやっていけないか。歌っていくということは何と大変なことだろう。でも、やっぱり歌だけが特別なわけじゃないだろう。商売。仕事。お金をいただいてサービスを提供する。その全てのものがそうだ。考えすぎないことだ。歌っていくことだけが大変だなんて思い違いしないことだ。サラとうまくいかない人はすぐやめていった。はっきりしている。はっきりさせていかないと続かない。歌うために全てはまわるか。余程自分の歌をどう考えるかを見つめて離さないでいないと足をすくわれる。ツアーの間みんなと仲良くした、と。どういう意図からだろう。スタンダードまっとうな歌い方しない、と。
全て自分の歌にした、という意味だろう。勘がいい。勘がよくないなら磨けばいい。素晴らしい才能があったのに不安だった。その不安は歌に出る。必ず出る。出ることは仕方ない。歌から逆算した人生だけがあるわけではない。知っておく。そして自分がどんな歌を歌いたいか。そこまで。娘が語る。「あんなに強い女はいない。」どんな気持ちで語る?どんな関係を築いていたのだろう。
生まれてからずーっと母サラ・ヴォーンと共に旅の空。どんな思いでインタビューに答えていたのだろう。何かを手にすることは同時に何かを失うこと。それはいい。良くないけど。それ以前にある意識。自分はどうしたいのか。そこに知恵が、工夫が生まれる。譲れないものをはっきりさせる。はっきりさせたがために泣くこともあるのだろうナ。でもやってる人はやってる。
ダイアナ・ロスは工夫している。はっきりさせて打ち出している。一つのお手本だ。生涯旅。嫌だ。選ばない。同じ回数、同じ時間でも、こういう言葉になる人生は選ばない。歌はいつだって非のうちどころがない。もの凄い人だ。そういうことだけに価値がある、という意味でなく、そうあることが凄い。サラが亡くなって「彼女が恋しい」と言わせている。
「サラの声が聞こえるようだ」と言わせている。較べて娘の何と対照的なことか?どういうことなのだろう?サラは自分の幸せを何においていたのだろう?人間は幸せにならなければならない。私の幸せは?なぜ彼女の闘う姿を見れないのだろう?私の目がくもっているのか?彼女がそれ程強い人だ、ということか。
【レオ・フェレ】
『自分は何を与えたい?』なぜ目が離せないのだろう?メロディはないけど歌だ。リズムがあり、テンションがあり間があり、悲しさがあり、表現だ。5才で空想のオーケストラを路上で指揮する。凄い想像力。これは何だろう。体をついて表現したいものがある。しかし、オーケストラだ。そして路上。解放的だ。部屋じゃない、限られた空間じゃない。全編に出てくる歌うシーンで暗闇の中にピンスポ?で浮かび上がる彼がとても印象的だ。それらは全て限られた空間でのことなのだが、一切を、枠をたち切った、どこでもでありうるし、どこでもないような、宇宙の果てから語りかけてくるような。特に場を限定しないような特定しないような柔らかな存在の仕方。不思議な存在感。それはなぜだろう?彼自身の意識のあり方か。「語られる過去は手段でいつも未来を見つめている」という。「いつも孤独だった、でも不幸せではなかった。」この逆は“いつも孤独ではなかった、でも不幸だった”。あるだろう。確かなことは孤独と言うことと幸・不幸は単純な図式でいくのではなく、その人その人の中で結論づけられる、ということ。幸せでありたい。幸せになりたい。幸せをつかみたい。私の幸せ。人間(ひと)は幸せであれ!なぜ?祝福されて生まれてきたのだから。生きているということが祝福されていることなのだから。各々の幸せ。ぶつかる。
作曲から入り詩を書くようになった、と。売れなかった。当時ナイトクラブがはやりだったが一部には受けなかった。でも片方で熱狂的なファンを持っていた。ここで大事なのは熱狂的(彼の場合は)ということ。中途半端じゃない。誰か一人でも心を、魂をギュッとつかんで離さない。ということだ。全ては土台無理だし何か変。でもつかもうと思ってつかんだわけではあるまい。その時彼はどうしたか?彼は純粋で譲歩を知らなかった、と。デビューから世界を持っていた、と。「世界」、「譲歩を知らない」。譲歩する、しないは本人が決めること。世界は自ら作り上げるもの。世界はどうやって作られる?多くのものに身をゆだねる、考える、答えの出るものと出ないものと。出ないものはおいておく。「生きる」ときに世界がつくれる。正しく生きるのではなく「自分で生きる」。苦しくてもこの方法しかない。
しかし孤独な目だ。生きることの喜びよりはむしろ哀しみがそこにある。でも聞こえてくる歌の音色の何と力強く弾力がありのびやかか、そして何より自由。自由を感じさせる声がある。声もかが身だ。何にでも興味を示す、という。とにかく賑やかだと、楽しんでいる時、大声をあげ「怒ってるみたいだった?」と聞く。答えて「そう見えたが本気ではないしもっとやれ!」と。立派なコメディアンだと。こうしたときが彼には瞑想の時間でまさに生きている、と。いろんな瞑想がある。=運命に翻弄されても「愛してる」と言ってみる。=星占いなど気にせず、LLの気持ちで生きてみる。==心倒しかない。芸術家として出来ることは。=ノンを言い続けていると肯定とも否定ともわからなくなる。=彼は日常を人間を人間愛をうたう、という。そういう歌は、人間を知らなくては歌えない。人間を愛していなければ歌えない。永遠に残るだろう、か。2曲,3曲と聞くうちに遠くへ、人生をずっと遠くへ旅した感じになる。
終わって外に出ると全てのものが美しく見えた、輝いていた、か。人生がまた美しくなった、か。彼が表現して与えてくれたから、か。人生に対する希望を与えた、か。それは幸福。彼の与えるもの。聞く人が喜ぶもの。彼が与えるものに決めたもの。私はどうする?何を与えたい?出来る?なぜ「私に語りかけてくれる」と感じるのだろう。
レオ・フェレがそうイメージしているからか。自分はどうか。語りかけたいたった一人の人がいる時。聞いてもらいたい何人かの人がいる時。自分に語りたい時(まだやったことはない)。実際のところどうなるかは別にしてイメージをもっていないとボヤける。自分の声で何を与えたいか?まねた声,まねた出し方じゃなく、自分の息のサイズにあった声。その声をどう使っていくか。
【福島泰樹】
『自らの豊かな日本語を取り戻したい、と思わせる』短歌絶叫か、なぜ絶叫するのだろう?肉声の回復か!即座にうなずくものがある。のどがひっこんでいる。のどがちぢこまっている。まだ不快さと共にその状態だ。いぜんにも時折自覚があった。生きにくさはのどに現れる。解き放たれたとき、のども解放されるだろう。心が解き放たれたとき、のども解き放たれるだろう。ここは密につながっている。叫ぶべきときに叫ぶことを忘れてしまっている。のみこんでいるうちにくせになりどうやって叫べばいいのかまで忘れてしまっている。子供は違う。思う存分叫んでいる。ギャァーーーと。うらやましい。野生であり得ている。
扉が開かれるのを叫びたい心が待っている。思い出せ!!しかし昔の人は結構叫んでいたのではないだろうか。傷を我が身にしっかりと引き受けて己で生きていたんじゃないだろうか。なぜそう思う。絵に描かれた姿を見てだ。ライトのないところで声が聞こえる。しばらくしてからスポットライト?上からのライト?いい!カッコイイ!!高い音がのどつまってる。気になる。何て言っているのかわからなかった。中間音がハギレよくリズミカルでパワーがあるのでなおさら目立ってしまう。表現より気になってしまう。これだけの表現があってですら気になるか。高い音は難しい。解決策はある。練習。しかしここのピアノの入り方ピッタリだ。こういう形,朗読があって音楽がある。こういう形いいなあ、この形のある部分のボルテージをあげていくと歌になっていく。うねるようにテンションが自然に上がっていく。このスピードが自分の中にある。歌一曲のスピードと何かが違う。叫ばないところでもこの人は叫んでいる。「ふるえている」のせりふでふるえながら語っている。体が叫んでいる。このひきつける力は何だろう。やっぱり福島泰樹という人間がそこにいる。だから目を離せない。
【久保田一竹】
多くの問いを投げかけられた気分である。君はそこまで出来るかと、一作品仕上げるのに一年かかるという。その技法はミリ単位の作業でそれを繰り返し、絞り糸を抜いた穴さえも作品の味にしてしまうという。まさに一分のスキもない。しかし布が物語るような作品つまり布に命を宿そうとする一竹にとってそれをすることは当然のことなのだろう。私達の体(命)が想像を絶する細かさまで精巧に出来ているように、そこまでいくと神がかりのようで自分も興味はとてもあるが近づけない世界のように感じてしまう。しかし歌に魂を込め、人を感動させるということはそいうことであるというのは真実であると思う。これからはそんな言葉を簡単に口に出来ないと思った。シベリアの夕日を染めるまで死ねないと思った一竹のように歌いたいというテンションが今の自分にはない。しかし無理にでもそれに自分を持っていかないと結果は見えてしまう。