一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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“僕らの意識は痛みから逃げるようにプログラムされているんです。体の痛みも心の痛みも、社会や他人の性にして、自分を正当化して逃げようとする。でも逆にそれを感じてみる。意識の痛みも逃さない。痛みのあるときにしか癒せないから。その時こそ、痛みを感じながら、それを声にしてみるんです。歌でもいいし、ため息でもいい。そういう声にのせて、痛みを出すんです。痛みは体のメッセージですからね。痛みは幸せへの扉なんです。感じるものから逃げちゃダメ。ほら、たとえば、熱いお風呂にはいるとき、頭では熱いと拒否していても、その熱さを感じ尽くして、全てを受け入れた瞬間、熱さという痛みがハァー極楽、極楽っていう声に変わって体がほぐされますよね。それが自分の五感と声を使った自然治癒力です。エネルギーが外に抜ける絶望のため息ではなく、頭にのぼっているエネルギーを丹口におろすため息。人間は、この自然治癒力の声を、歌を忘れてしまっているんですね。”

 

誰かに似せるのでなく、新たに造るのではなく、出会おうと出掛けていって出会う。

ステージ実習ジルベール・ベコーの後だったのでなおさら。気づく材料としてのたくさんの歌い手。まねて作っていくのではなくて。大事なもの、声、音楽は自分の中にある。

 

錦織氏のフレディ・マーキュリーがなぜつまらないかを考えたこと。簡単に言えばそこに錦織氏が存在していない。全く間違えてないかもしれないし音程もしっかりしているし、振りもあるし、でも存在していないからつまらない。彼なりに歌に託したことだってあったろうに。体と心と息が合っていないのかよく聞くことばだけれども。どうしたらつかめるのか。歌に寄り添って待つのか。体を使って迎えにいく。答えたくなければその時からだが答える。自分の息づかい。自分だけの息づかい。「そう、あれがの表現」全ての人に嫌がられてもたどりつきたいのはまずそこ。どうでもいいものはどうでもいい。かりものじゃなく。

 

バンドネオンは時々、聞いていたので比べられた。クイーンの歌もすごく好きな曲だったので比べて聞けた。楽器でも違う感覚で使っているのか?と思った。洋楽みたいにやりたかったら研究しなければならない事だと思った。それか日本の音楽としてとられてしまうしかないと思う。でも、世界共通なものを求めるとしたらどう考えるべきなのか?音の感覚というか音楽が日本と他の国とは違っていると思えた。やっぱり、しゃみせんとギターなどの楽器は違っている。しゃみせんは全部の音が適当置かれているように聞こえた。バンドネオンピアソラとかとは違って聞こえる。ピアソラの方がフレーズのように聞こえている。前ノリと後ノリのリズム感の違いなのだろうか?

クイーンの歌を歌った人は、1曲目は結構いいなと思ったけど、クイーンの歌は気持ち悪かった。1曲でヤメればよかったのに。

 

『息と声を結びつけていく』伝えたいものの熱さと共に残る。この不思議な感覚は何なのだろうと考えています。いつも考えています。

 

人間には知恵がある。愛情もある。いつも問われる、いつも試される。技術もとても大事。でも一番問われるのは心かもしれない。それはなぜか。心があると次へつながる、ひらけていく。心がないと、それが100でも1000でも10億でも広がらない。心があると1でも広がっていく。万能じゃない。でも基本。心の一つは想像力。あるか?あるものもあるし全くないものもある。あるものも薄っぺら。わかっていないことがわかる。わかりたい。薄っぺらは嫌いだ。でも、きっとまたいつか愕然とするのだろう。わかることは直接ベクトルで幸せにつながるように思えない。では、なぜまたわかりたいと思うのだろう。細胞が思う。頭をこえて。この細胞とは何だろう?遺伝子か?私に至るまでに脈々とつながってきた途方もない命の輝きが私にそうさせるのか?私であって私でないようでまぎれもなく唯一無二の私。そして私を支えてくれる人々、私を愛してくれている人々。限りない支えてくれる力の上に浮かび上がってくる自分。私は誰を支えているだろう?支えてもらっている以上に支えているだろうか。

 

見たくない自分が、勘違いしてた自分が、勘違いしてた自分が顔をのぞかせる。「苦しみを抱えていない人はいない」か。苦しみがないことを考えてみる。クソおもしろくない。でも苦しみをくぐり抜けて微笑んでいる福島英という人が確かにいる。その存在。苦しみをくぐり抜けて輝くように微笑んでいる勝田光俊という人がいる。その存在。支えてきたものは何だろう?そう生きることを選ぶだけの人に盾として出会ってきた、ということか。なぜ出会えたのか?出会いを求めていた?なぜあろう?どう生きたい、と思うか。大きくなりたい。

 

音楽が違く聞こえる瞬間うらやましいです。ふと、僕は英語が解る瞬間というものを思い出しました。もうダメですけど。半分遊び気分で行ったホームステイに僕は地獄を見ていました。毎日毎日、英語づけ、というより伝える手段がそれなんですから。周りに日本人はいません。毎日、頭を悩ませ落ち込み、立ち向かっては落ち込みどうしても解らない!!短い3カ月でしたが、その3カ月目、解ったんです。僕の場合は瞬間というよりも、だんだんていうか、気づいたら解っていたという感じで、何かリズムが読めたんです。ある一定のレベル(先生、Family等のEnglish)でしたがそれが継続すればNews等も解ったのでしょう。多分、そんな感じなのではないでしょうか。もしそうであるならば、あれほどの苦しみなのかという感じで、毎日、俺だけが解らない。周りが笑ってるのに、俺だけが笑えない、皆楽しそうだ、俺は解らない、しだいに涙がたまってくる。そんな苦しみの中で見出したものでした。その喜びは言うまでもないです。もう生活が楽しくて仕方なくなりました。もし、これに近いならあれほどの状況にどう自分をおけるのかと思う。あのときは、ああいう環境にもっていき、しかも運がいいことに日本語というものが周りに存在しなかったためになし得たものだ。1日、何時間音楽というものに触れられるか。死にものぐるいになれるのか。今のペースでいって何年かかるか。あんなものをまた、この状況でつかもうとしてるのか。でも、なぜか嬉しい、ワクワクしている。頼む、続けてくれ、継続の力を。また、ふと冷めるときが来るのか。また、そんな同じことを繰り返すのか何もつかめずに。そんな不安もよぎる。

 

ひとつのことを続けてゆくことは大変だと思うが、それより続けていく環境を自分でつくってゆくことの方がずっと難しいことと思う。いや続けてゆく人は他人から「そんなことまでしてもやるのか?」と言われてもやるだろう。そんなことまでしもてやりたいことだから。

 

ニュースステーションで、吉岡さんという新しい自転車のサスペンションを開発した人がこんなことを言っていました。「今までにない新しいものを作り出して世の中に出してもなかなか理解されない。まわりが見るとものすごくしんどそうに、苦しそうに見えるかもしれないが、本人は非常に楽しんでいるんです。」

 

 

スターであるかぎり、幸せであるわけがない。(美空ひばり

 

俺のようにチビで鼻曲がりでユダヤとニグロの混血には、これ以下ということがない。だから俺は、いつだって昇り坂だ。(サミー・デービス・ジュニア)

 

女の背中はただの背中だが、女形の背中は女の背中だ。(喜多村緑郎

 

明日からまた人気がなくなるかもしれないと思うと、犬も飼えない。(森進一)

 

自分が興奮して、メンバーも興奮するのは三流、自分は冷静で、メンバーが興奮するのは二流、自分もメンバーも冷静で、客が興奮すれば一流の指揮者。(カラヤン

 

芸人は常に怖ろしい敵に囲まれている。その敵は、彼の才能を譛めちぎる連中だ。(シャリアピン

 

私は危険な職業が好きだ。歌手になったのも危険だからだ(ジルベール・ベコー

 

生活がかかっているといっても、いまの芸人は住宅ローンや車のこと。むかしは喰うだけのことだった。(林屋彦六)

 

むかし、新内を聴いて、悲しくなって自殺した遊女がいた。わたしも自分の唄で、一人くらいは殺したい。(岡本文弥

 

僕はシャンソンはどうも苦手である。っていうか、基本的に自国の文化や言語に対しては保守的で、他国の文化や言語に対してはちょっと排他的なところさえある(だから音楽放送の40%を法律で強制的にフランス語の歌に割り当てていたりもするのであろう)フランスという国がどうも苦手である。とは言うものの、フランスという国の文化や音楽=シャンソンが、歌詞=言葉へのこだわりを強く持ってることに変わりないし、またそのあたりがものすごい勉強になるのであろうから、まあ苦手なんて言わないでシャンソンも聴いてみることにする。

 

今世紀最大の道化=コメディアンと言えばチャールズ・チャップリンであると思うけれども、チャップリン、素晴し過ぎるぐらい素晴しいです。フランスにはマルセル・マルソーという道化=パントマイマーがいたけれども、マルソー、素敵です。素晴しいです。あるいは右利きのギターの弦を左利きに張り替えてしかもそれを歯で弾いてみせたりステージ上で燃やしてしまったりという道化ギタリストにジミ・ヘンドリックスという人がいました。さらし者もしくは恥さらしって言うと誰かなあ? そうだ、やはり今世紀最大のロック・バンドを脱退して次は何を歌うのかと思いきや、自分はマザコンファザコンで精神的トラウマを背負っているんだということを赤裸々に歌ってみたり、かつての大親友を中傷する歌を歌ってみたり、そのポールを中傷する一方で“世界平和を想像できるかい?”って言っていることが違わないか?とも思えるメッセージ・ソングを歌ってみたりと、文字通りすべてをさらけ出して表現し尽くしたジョン・レノンという恥さらしや、ドーナッツの食べ過ぎで暑苦しく太ろうがそれでも歌うことを(たとえその舞台が成金趣味的なラスベガスであろうとも)止めなかったエルヴィス・プレスリーという恥さらしや、あるいは50歳なんてとうの昔に越えているのにそれでも老体にムチ打って東京ドームあたりで(カタコトの日本語を交えながら)ロックンロールし続けているミック・ジャガーという恥さらしと、よく見るとロック界は恥さらしな人たちばかりです。もっと言うと、ダイアナ元妃以上にパパラッチのえじきとなっているマイケル・ジャクソンなんて悲しいぐらいにピエロです(これは笑えない)。でも素晴しいじゃないですか、恥さらしって。アーティストだったら喜んでさらし者になるべきです(もちろんそれなりの実力と覚悟はいるだろうけれども)。それにアーティストはある程度はさらされないと大きくなれないと思います。

 

芸人・役者・芸術家は早く死んでください。修行で命を縮めてください。(六代目菊五郎

永六輔さんの「芸人」という本は面白い。「芸」ではやはり「芸とは恥をかくことです」あるいは「基礎が大切です。基礎さえしっかりしていれば、遊びも、悪ふざけも、暴れるのも‥‥、筋が通ります」、「テレビ」では「テレビ観ていると、番組も出演者もゴミというのが多いですよ。テレビはゴミ捨て場です。ゴミ捨て場ですから、もったいないものも捨ててあります」、そして「スポーツ」では「スポーツ選手がよくテレビカメラに向かって『応援してください』っていうでしょう。あァいうのは、芸人仲間だったら、『甘ったれるな』でおしまいですね」っていうのが、それぞれ印象的な語録だったかな(他にも印象的なのは沢山あるけれどもね)。「光と影」での芸能概論や「歌」での歌謡概論も分かりやすくて面白い。そして「芸人」での三波春夫さんと永さんとの対談も、すんげえ面白かった。三波さんという人は、その分かりやすい笑顔とは裏腹に、とてもミステリアスな人である(正に芸人というしかない)。更に意外なことに歴史や憲法などにも精通している学者肌な人であるということにも驚かされた。三波春夫さん、いいですねえ(僕は基本的に演歌は好きではないのだけれども、でもこの三波春夫さんと北島三郎さんは本当に“男前”だな)。という訳で、永六輔さんの「芸人」お勧めです。

 

長野オリンピック、スピードスケート男子500メートル清水宏保選手、見事金メダル! あの得意とする弾丸スタートも完璧だったし、カーブでも膨らむことなく綺麗に滑れていたし、最高のスケーティングでの金メダルだった。さすがに感動してしまった。ほんの0.01秒で勝負の決まるスピードスケートという種目で、しかもオリンピックという大舞台で、文句なしの金メダルに輝いたのだから、本当に大したものである。しかも(ってまた「しかも」だけれども)「ナンバー」のインタビューでも「オリンピックは狙って勝つからこそ意義があると思うんです。幸い、いい状態で国内のオリンピックという最高の舞台が与えられた。狙って勝ちたいですし、狙わなければいけないレースだと思いますよ」と断言していたように、清水選手は金メダルを狙って取ったというのだから、本当に大したものである(男子500メートルの世界記録保持者であったとは言え、ね)。身長161cmという小さな巨人清水選手に、心からおめでとうと言いたい。それにしても0.01秒の世界って本当にシビアな世界である。と言うより、アーティストにしたってこれぐらいシビアな世界であるべき、なのかな?

 

「我が魂にマイブームは突如吹き荒れるものだ」byみうらじゅん

 

ジャコ・パストリアスを発火点にフュージョン(もしくは今風に言ったらジャズ・ビヨンドかな)がマイブームとして吹き荒れている。この一週間に購入したCDもフュージョン系のCDが多かったという。あ、でもフュージョンというよりかはジャコ・パストリアスパット・メセニーにマイブームは集中しているかな? ジャコは「ワード・オブ・マウス」を購入した。参加ミュージシャンが、ウェイン・ショーターピーター・アースキンというウェザー・リポート時代のパートナーはもちろんのことハービー・ハンコックマイケル・ブレッカージャック・ディジョネットにドン・アライアスに更にはトゥーツ・シールマンスと、本当に超豪華である。これほどまでに超豪華なメンツをベース一本でまとめ上げてしまったジャコの天才ぶりには心から驚嘆してしまうし、そんな天才ぶりを突き抜けて狂気さえも爆発させてしまったかのようなアルバム1曲目「クライシス」のフリー・ジャズぶりからして最高である。まさしく“エレクトリック・ベースの革命児”ジャコである。

 

パット・メセニーは、前に組んでいたバンドのメンツが揃いも揃ってメセニー・ファンだったので、その影響で一応愛聴してはいたけれども、今また僕の中でメセニーを欲しているみたいな。もしかしたら前にも書いたかもしれないけれども、このメセニー、ウェス・モンゴメリ-やジム・ホールといったジャズ・ギタリストはもちろんのことオーネット・コールマンマイルス・デイヴィスやスティヴィー・ワンダーや更にはミルトン・ナシメントアントニオ・カルロス・ジョビンらをフェイヴァリットに挙げているのである、それだけでも充分に素晴しいミュージシャンであると言ってしまって良いのではなかろうか。

メセニーはまず2枚組の大作「80/81」。チャーリー・ヘイデンデューイ・レッドマンという“オーネット組”(60年代後半に共演していたジョック・ディジョネットもオーネット組と言ってもいいかな)との共演が、メセニーのギター・サウンドをよりオーネットばりのハーモロディックサウンドに向かわせているのであろう、何とも快感である。そう、メセニーの魅力ってズバリ“快感”である、と僕は思う。メセニーは「シークレット・ストーリー」も購入した。このアルバムも快感である。と同時にものすごく“密度の濃い”サウンドである。

カンボジア民謡をコーラスする子供たちから矢野顕子さんや更にはロンドン・フィルハーモニック・オーケストラまで参加してたら、そりゃ濃くなるわ)。

 

「シークレット・ストーリー」が発表された年と同じ92年に発表されたデヴィッド・サンボーンの「アップフロント」も購入した。このアルバムもグルーヴィな1曲目の「スネイクス」からして何ともイカす。最高である。サンボーンのアルト・サックスはもちろんホットであるけれども、それ以上に天才プロデューサー兼ベーシストのマーカス・ミラーのファンキーなビートは(基本的にマーカスってクールなイメージの方が僕は強いのだけれども、やっぱりサンボーンと組むと熱くなるのかな)ホットである。本当にどの曲もファンキーで最高だけれども、特にラテン系ファンキーな「バン・バン」はゴキゲンである。本当に他人に勧めたくないぐらい最高なデヴィッド・サンボーンの傑作アルバム「アップフロント」である。と、マイブーム中間報告はこれぐらいにしておくかな。それにしてもジャコ・パストリアス、享年35歳っていうのは余りにも早過ぎるし、勿体なさ過ぎるよなあ。

 

ジャコ・パストリアスの「ヘヴィ・アンド・ジャズ」。オーネット・コールマンの「ブロードウェイ・ブルース」やディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」やジミ・ヘンドリックスの「紫のけむり」あるいはウェザー・リポートおよびジャコ自身の代表曲「十代の町」といった収録曲に思わず食指が動き購入する。文字通りジャズ・ビヨンドな音楽性がジャコの魅力であると言っていいと思う。

それにしてもジャコ・パストリアス、享年35歳っていうのは余りにも早過ぎたし、勿体なさ過ぎた。アルコールと麻薬に溺れさえしなければ‥‥。結局、このアルコールと麻薬のために、一瞬で栄光の座から転げ落ちてしまい、愛用のベースも売らなければならないぐらいに財政も苦しくなり、仕方なしに場末のクラブで不毛な演奏活動を行なうも、そこで得たわずかの金はあっという間にアルコールと麻薬へ消えてしまい、更には入院も投獄も繰り返す毎日で、とうとうニューヨークのすべてのクラブからの閉め出しを食らい、失意の中でフロリダへと帰郷し、この「ヘヴィ・アンド・ジャズ」のようにイタリアへ演奏しに行くようなこともあった(86年)ものの、結局は87年9月21日、酔っ払いとの喧嘩で殴り殺されて、本当に不幸な、早過ぎる人生の幕切れを迎えてしまったのである。何故、ここで僕がジャコの不幸な晩年をくどくどと書き綴っていったのか? それはアルコールと麻薬に溺れてしまったらもうすぐそこには不幸が待っている、ということを警告しておきたかったからである。異端でも天才でもないのにアウトローを気取って麻薬をキメている十代の若者たちよ、本当に一度考えてみて欲しい。山下達郎さんのシングル「ヘロン」、ちゃんと歌いたくなってきたのでCDを購入する。うん、ものすごくいい曲だと思う。ものすごくね‥‥。

 

カエターノ・ヴェローゾ86年に発表の弾き語りアルバム「カエターノ・ヴェローゾ」を見つけてしまったので即ゲット。最新作が本当に素晴しいカエターノ、この(ほんの少しだけパーカッションも入っているけれども)弾き語りも聴き惚れてしまう。マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」のカヴァーもすっかりカエターノ流にアレンジされていて絶妙である(カエターノとマイケルとの共通点いうのは“繊細な躍動感”ではないかと僕は思ってるけれども、どうでしょう?)。

 

そんな中でも僕が一番最高だと思ったのは、原曲はメロウかつメランコリックなディスコ・ナンバーの「オダーラ」である。これで僕が持っているカエターノのCDはいつの間にか20枚の大台に乗ってしまった(ちなみに他に20枚の大台に乗っているアーティストと言ったら、ストーンズにディランにそしてクイーンぐらいなもので、マイルスもオーネットもプリンスも20枚に届いていない(それでも17枚)ので、もしかして僕ってものすごいカエターノ好きかもしれない)。ドラムスにデニス・チェンバース、ベースにブライアン・ブロンバーグ、そしてピアノにキューバ人のゴンサル・ルバルカバというピアノ・トリオのスタンダード集「ザ・トリオ」も購入する。これだけのメンツである、どれだけテクニカルかつアクロバティックなことになっているのかと思いきや、ハービー・ハンコックの「処女航海」から御存じ(でしょ?)「黒いオルフェ」まで、ものすごく引き締まったそれでいてホットな演奏で、なかなか最高である(デューク・エリントンの「キャラバン」も最高である)。

もちろん、どこまでもホットな、テクニカルかつアクロバティックな演奏も、ディジー・ガレスピーの「ウッディン・ユー」で聴くことができて、ここでのソロ廻し特にデニス・チェンバースのドラミングはスリリングである。久しぶりに最高なスタンダード・ジャズの演奏を聴けたかな。

 

クロスビート」3月号

表紙はレディオヘッドのトム・e・ヨーク、リーダーズ・ポール(読者投票)では最優秀グループ(レディオヘッド)最優秀男性ヴォーカリスト(トム)そして最優秀アルバム(「OKコンピューター」)などと独占していて、これは「クロスビート」だけではなく、英米の音楽誌でもほとんど同じような結果である上、しかもグラミー賞のノミネートである(そんなにいいのか? レディオヘッド「OKコンピューター」)。

「ところで俺の本当のフェイヴァリットが何かわかるかい? ディランだよ。実際、彼の最高傑作だと思うんだけどね。どう思う?」

プリテンダーズのクリッシー・ハインドも絶賛しているディランの最新作は、僕も素晴しいと思うけれども、しかしここでのコステロによるディラン評には興味深いことも述べられている「声を録音するってのは極めて重要な作業なんだ。ディランのフレージングは、まったく信じられないほど素晴しいよ。みんながディランを聴くのは、彼の甘い歌声を聴くためじゃなくて、彼が歌っているものへのフィーリングを共有したいからなんだ」。

そして「話は変わるけど、ニースで休暇中にスプリングスティーンのライヴを観たんだ」という「10年前、15年前、20年前と、以前の曲をプレイしてたよ。それらが新曲とともに、切れ目なく物語のように進行していくんだ。あるときはパワフルに、そしてあるときはとてもデリケイトに、次は‥‥という感じで、本当に印象深いライヴだったよ。俺にも勉強になったね」と、勉強熱心なコステロであった。コステロ以上に多様な音楽性(何とレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンからサー・ゲオルグショルティ指揮によるリヒャルト・シュトラウス「バラの騎士」まで!)をフォローしているのは、ジャズ・サックス奏者のブランフォード・マルサリスである「僕は音楽を愛している。音楽の分類には興味がない。いい音楽は良くて、クズはクズなんだ」。

 

エルトン・ジョンは「最近はエレクトロニック・ミュージックをよく聴くんだ」という「素晴しいよね。音楽を新しい方向へ導いている。そういう事のできる人は本当に尊敬しているんだ。アンダーワールドプロディジーケミカル・ブラザーズ‥‥その辺が、今一番面白い音楽だと思うよ」エルトンもデヴィッド・ボウイばりにデジタル・ロックモードで曲を作ってみては? 

 

ニューヨークのノイズ・ギター的暴発とブラジルのボサノヴァ的抑制との両極をアヴァンギャルドに揺れ動く奇才アート・リンゼイの特集にも目を向ける。何と! 思わず失禁してしまいそうな企画が持ち上がっている。「今ブラジルで映画『黒いオルフェ』をリメイクするという話が持ち上がっていて、その音楽をカエターノ・ヴェローゾが手掛け、プロデュースを僕(アート)がやることになるかもしれない」という。

 

「ザ・ディグ」は読んで「ミュージック・マガジン」3月号、特集「ガレージ・ブルースの波 ノイズでつながるブルースとロック」実は僕が持っているブルースのアルバムってロバート・ジョンソンぐらいなので、これを機会に「エレクトリック・マッドなブルース/ロック・アルバム・ガイド」で紹介されているアルバム(ジミ・ヘンドリックスファンカデリックは持っているな)は何枚かチェックしたいところである(これぞ邪道系ブルースの先駆的迷盤というマディ・ウォーターズの「エレクトリック・マッド」(日本盤を是非!)を筆頭にライトニン・ホプキンスとかR・L・バーンサイドとかポール・バターフィールド・ブルース・バンドとかそれとやっぱりスティーヴィー・レイ・ヴォーンとかを、ね)。

「マイ・ミュージック・トレジャーズ」というページで、Monday満ちるさんが挙げているチック・コリアリターン・トゥ・フォーエヴァーの「ライト・アズ・ア・フェザー」とスティーヴィー・ワンダーの「シークレット・ライフ」とチャカ・カーンの「恋のハプニング」という3枚のアルバムは、なかなかセンスのいいチョイスなので、これもチェックしておきたいところである。

 

 

 

 

 

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おすすめ

 

 

 

U2

スペシャル・シングルCD「プリーズ~ライヴ・フロム・ロッテルダム」(サイバーモードになろうともやっぱりその素晴しさに変わりない彼らのアルバム「ポップ」から、特にボノの静かな熱唱が胸を打つ出色のタイトル曲もさることながら、その他の名曲、その中でももちろん「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」には、本当に高揚させられる。

 

J.ガイルズ・バンド

「フリーズ・フレイム」、このアルバムのこの1曲と言えば「堕ちた天使」である!が実はもう1曲「悲しみのエンジェル」! この曲は泣けます。ピーター・ウルフって文句なしのロックンローラーである、と同時にバラードも、何て言うんだろうなあ、上手くは言えないけれどもまあ切ないまでにロマンティックで、思わずグッときてしまう。

 

プリンス

「パープル・レイン」、タイトル曲は殿下一世一代のバラードで、間違いなく名曲であると思うけれども、アルバム自体も間違いなく名作である(もちろん一世一代の、ね)と思う。

 

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」、ベースとドラムとギターとそして歌の4つの音が、時にぶつかり合いまた時に寄り添い合う様は激しくかつ生々しくて、本当に圧倒的である(そんな中でひときわ美しいのが名バラード「アンダー・ザ・ブリッジ」なんだよなあ)。

 

ジェフ・バックリー

3・4年前LIVEをみに行ったことがある。アコースティックな感じで彼の声が心地よかった。確か2回目のアンコールが終わり、スタッフが片づけに入りだしても客席の拍手はやまず私も手をたたいていた。そこにギターを持ちタバコをくわえながら現れたジェフ・バックリーがそのままで1曲歌ってくれた。若いのにメチャシブ。スタッフが“いいの?”(たぶん)と言ってるのに“OK・OK”(たぶん)といいながら、くわえたばこでうたってくれた。そのかっこいいことと言ったら。その彼がつい先日、川でおぼれ、亡くなったNewsを見た。信じられなかった。クラブでうたってるのかなーなどとたまに思っていたが、まさかあの若さで死んでしまったとは。彼のうたをもう一度クラブで聞きたい。

 

津軽三味線高橋竹山

死去したという(享年87歳)。これはもうCDを購入するしかない「津軽三味線高橋竹山決定盤」というCDを購入する。映像から受けるイメージでは、その撥(ばち)さばきの激しさにどこまでも圧倒されてしまうみたいな感じだったんだけれども、音だけ聴くともっと研ぎ澄まされた感じというか。いずれにしても、たった三本の糸だけで創り出される音世界は、セロニアス・モンクのソロ・ピアノのように独創的で、ラヴィ・シャンカールシタールのように神秘的で、魅力的である。竹山さんの冥福を祈りたい。

 

川上音二郎一座

「甦るオッペケペー1900年 パリ万博の川上一座」というCDである。何と!今から100年近く前の日本人の唄声。川上音二郎貞奴の唄声こそ録音されていないものの、これは文字通り貴重な録音である。100年近く前のパリのしかも日本人の唄声というのは、まさに時空を越えてこの僕にせまってくるもので、思わず聴き入ってしまった。

 

パープル

「ライヴ・イン・ジャパン」ではあるけれども、その「ライヴ・イン・ジャパン」には収録されていない「スピード・キング」(完全版では収録)や「ネヴァー・ビフォア」などは貴重だし、あるいは「ルシール」なんてイアン・ギランも本家リトル・リチャードばりにシャウトがワイルドで大満足である。

 

ジャコ・パストリアス

衝撃のデビュー作「ジャコ・パストリアスの肖像」これはなるほど名盤である。とりあえずはジャズもロックもすべてのベーシスト必聴のアルバムであろう(影響されるされない抜きにしてね)。

この天才的なベース・ラインはヴォーカリストにとっても必聴であろう。

レプラゼントfeat.ロニ・サイズの「シェア・ザ・フォール」同じドラムン・ベースのゴールディーと比較してみると、個人的にはよりロック的なゴールディーの方がいいかな?って思ってしまうのだけれども、でもロニ・サイズのポップセンスをもっと言うと“ねじれポップ”センスもなかなか捨てがたい。

 

ジルベール・ベコー

「~そして今は~ベスト・オブ・ジルベール・ベコー」、最初は取っつきにくかったけれども、何回か聴いてくうちに悪くなくなってきた。確かにいい声ではあるからね。ところで何故、初めてのシャンソン体験がイブ・モンタンでもシャルル・アズナブールでもあるいはエディット・ピアフでもなく、ベコーであったのか? 実は永六輔さんの書いた「芸人」という本にあった、永さんの選ぶ芸人語録ベストテン中のベコーの言葉が最高であったからである。という訳で、最後にそんな永さんの選ぶ芸人語録ベストテンだけ書き留めておきたい(どれも最高であるから、ね)。

 

 

クローズ

少年チャンピオンコミックス秋田書店全26巻)がついに完結しました。是非、みんなに読んでほしい漫画だ。この漫画はただのヤンキー漫画ではない!いまの中学校で教科書として使用してほしい位だ。人として絶対にはずせないことがいっぱいつまっている。最終巻での一つのセリフ“たかが最強程度で最高に勝てるわけねーだろうが!”には本当に共感だよ。(もちろん他にもいい所、見所はたくさんつまってます。)終わり方もとても良い。それぞれが自分の道をみつけていく、仲間とだらだらいつまでも群れているのではなく。本物の友情や生き方って、こうなんじゃないかと思う。めちゃくちゃ熱くなれる漫画です本当、教科書にしてほしいわ、道徳の。そしてたくさんの登場人物がいるので、誰か一人、自分を重ねて見れるキャラがいるのも魅力だと思います。すごく学ばせて頂きました。(いや、本当に)おすすめです。私まで感化され、熱い文章を書いてますが。「単純なことの大切さ」自分も見落としがちです。

 

ミヤコ蝶々田代まさし

対談でミヤコ蝶々が今も落語を毎日きいていると言っていた。でもそれは間をきいているのだと。大切なのは何でも「間」だという。またお客さんの笑い声をきくのではなくてお客さまの波、うごきをみるという。本当にいいと客席が波のようにゆれるといっていた。

 

オリンピック、フィギュア・スケート(ショートプログラム

トップクラスのペアは、ものすごい表現力を持っている。見ていて、うっとりと魅きこまれてしまう。本当に、指先までピンとはっていて、ペアとの生きをピッタリという感じだった。ジャンプの跳んでいる間までピッタリで、あそこまであわせるには、どれだけの練習したのだろう。何千,何万回と練習し、調整本番をむかえる。それでも、本番ではうまく乗れなかったり、集中力が途切れたりして、ジャンプでころんでしまう。スポーツというのは誰の目から見てもはっきりと結果がわかってしまうため、ものすごく恐い部分がある。点数を見なくても、観客は誰が一番よかったかわかるし、花束の数でそれはわかる。でも、音楽でもいっしょだ。周りのかざり立てるものをすべてとってしまえば、見てる人からは、誰がもう一度見たくて、誰がすごいかわかってしまう。本番で集中力を持続させて、失敗しないためには、普段の練習から、本番以上に集中して取り組まねばならないだろう。それにしてもフリーの演技が楽しみだ。