一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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レクチャー   812

 

レクチャーの目的というのはなるだけ、一日でたくさんのことというより、大切なことをわかってもらおうということです。

ヴォイストレーニングに関しては、個々に来られる方の目的が違うので、一般的なことをお話ししても、ご自分にとって、そのことが、役立つ、役立たない、ということがのが一番大切なことだと思います。

とりあえず皆さんの質問、今日来られた理由のようなものを聞いて、それにお答えしていくことを話の中心にしていこうと思います。

 

全体に対してどうこうということより、その人個人のことにお答えしなければいけないので、本をお渡しします。この本の中で読めばわかるようなことを聞かれる方も多く、全部、読んで自分で勉強していらっしゃる方もいるので、そのレベルを揃えなくてはいけないためです。

ヴォーカルだけでなく声を使っている方に対処しているのがこの研究所なので、歌い手になりたい以外のことでも、全然かまいません。音声に関することをならお答えします。

 

学び方については、世界中から集まってくるので、たくさんあるのですが、本というのは一般の人々に読めるように書かなくてはいけないのですね。

会報の方が中身が濃いのですが、それを皆さんに渡してみてもわからないでしょう。

本で見てもわからないとお思いになることが、ほとんどだと思うのです。

 

 

今日の話というのは、基本的にはどうやって学んでいくかです。

どこかの学校に行かれている方、ご自分で学んでいらっしゃる方に対して、この研究所を例にしてお話しします。この研究所に来ている人に対してどういう対応をしているかということは、参考になるだろうと思います。

 

会報も、先生のいったことだけではなく、そこに通われている方がどう学び、気づいているかというプロセスが入っているわけです。

 

ここには体験レッスンも見学もありません。

この時間で理解してもらうために、

なるだけ、ここで何を学んでいるか、ということをシミュレーションしていきます。

 

 

なぜ、ここではレクチャーや、曲を聞かされて、感想を書かされたりするのだろうとかいうことも

全部含めて、体験してください。

毎日やっていることだからです。

 

ここの2年間のことがどういうことなのかが、およそわかると思います。

それから、自分でもどうやって学んでいけばよいのか。具体的にわかるのではないかと思います。

 

本に書いてあることを実習していきます。

実際耳で聞いたり、感じないとわからないことを体験していってください。

では、曲は、時間がないので1コーラスずつくらいです。

 

 

 

イヴァ・ザニッキの曲で「心遥かに」

聞き慣れない人はうるさいかもしれませんが、

これも理由があって大きい音で聞くことです。

2曲目は、カンツォーネの王様、クラウディオ・ビルラの曲、

「愛の別れ」日本語での歌唱です。

 

(質問)

・ヴォーカリストの体をつくることについて。

・自分の声を変えたい。

・ピアノを弾きながら声を出す、弾くことと歌うことを同時にやるのは難しいです。

・発声のため、声がかすれてしまうのですが、効率のよいトレーニングの方法はあるのか。

・バンドの練習でスタジオに入るのですが、無理をしてしまい、上達が遅くなっているのではないか。

・ビブラートについて、人によって意味するところが違うので、アーティストから判断するのですが、こういう好きなアーティストの声のように思ってよいのでしょうか。

・歌う仕事をしているのですが、毎日歌って、4日目くらいから、精神的にトランス状態に入ってない限り、声がかすれたり、ファルセットが出てこなくなる。レコーディングでも同じ。

・声が細い。

絶対音感について。

・高音域でのどがしめつけられる。

・歌の種類や歌い方を変えたい。

・歌と呼べるほどの歌が歌えない。

・声量を大きくすること。

 

 

キャリアというのもどこをもって歌を始めたかということですね。多くの人はデビューの時点をもって歌を始めたとはいいがたいですね。

 

様々な人が来ていますが、アナウンサー、声優、役者の方など、一般の方よりはヴォーカルの方が多いので、最初に歌の話を例にすすめます。

 

まず一つに、本で練習していることについてです。

私も世界の教材をほぼすべて集めているのですが、実際使うにしては難しいですね。

通信教育も、本に関しても、たかだか、それだけにすぎないものです。

 

 

「理論はなぜ必要か」

本当は理屈など必要ないのです。つまらないトレーニングでも続けるには、それをやったらよくなるだろう、というまじないをかけ続けなければならない、そのために理屈が必要だということです。

人に説明するときにももっともらしい背景があった方がよいだろうということです。

宗教と同じで、信じるか信じないかの世界ですから、信じた方が得なら、そうするというくらいのものです。

 

一般的にわかりやすく書いたのが、NONブックスで、サブタイトル「あなたが知らないヴォイスパワーの秘密」で、科学的なことを入れています。

ここの研究所のやり方に理屈を付けています。それは、研究という場だからです。

 

研究所というのは基本的に、ここでなければできないことをやります。

そのためにあります。

学校と違い、こういう話をして、それでも来たい人に入ってもらうようにしています。

そういう人でしかこういうところでは伸びないからです。

「ここに入ったら何とかなるだろう」というのでは、伸びません。

仮にそう思っているのなら、他の学校へ行った方が、多分、懇切丁寧に教えてもらえます。

 

 

ここでは教えるということを極力、いたしません。

何もいわなくても、いてくれたらよい、ということです。

 

そういうことでいうと、このV塾は、役者の養成所に近いかもしれません。

レーニングをするのが、研究所です。

レーニングによって伸びるのですから、トレーニングをしないと伸びないのです。

これが今の日本の音楽状況と大いにずれているのです。

 

特にスポーツや武道などを一所懸命やったらよいといっています。

声や音楽については、難しいところがあります。すぐに結果がわからないからです。

ボクシングや空手は、簡単です。弱かったり、乱れたら負ける。

そういうものから勉強していった方が早いと思います。

 

 

ここは、基本の基本をやるところ、といっています。

でも最近は、5年以上、いる人も出てきました。

手伝ってくれる人も出てきました。

 

プロになりたいということについては、タレントや声優などをアイドルのレベルで志願している人にはあまり向いていないでしょう。そういう力でやっていけるのであれば、プロダクションとかタレント事務所を利用した方がよいでしょう。

ここは、すでにプロとして、相当のレベルになっている人も、初心者も、部外者なども受け入れられる器があるということです。

 

これまでも邦楽の人や能狂言、歌舞伎、浪曲義太夫の人、噺家や演歌の人、営業マンから外交官など、声をプロとして使わなければいけないという人がきています。

ヴォーカルだけではない、いろいろな人たちの、いろいろな声がある。

そういうことを勉強したり指導してきたトレーナーがいます。

 

 

声をどう使うか、それで人の心をどう動かせるか、ということが最終的なことです。

私が教えているわけでもない。

私自身に、20年くらい前にこういう場があればよかったというところを設置しました。

 

基本的にここにあるものは、場です。

場が大切だから、それを置いているし、守る努力をしているのです。

しかし場そのものからは、何も生まれません。

人が必要です。

 

何かが生まれるためのテンションや雰囲気は用意しています。

人を呼ぼうというのではなく、本屋では必ずしも私の本はありませんから、探し回ったあげく、

何年もたってここに来たという人のためにPRはしています。

 

 

人をたくさん入れようという気はないし、現実にも、無理だからです。

伸びる人を入れないといけないし、入ったら伸びてもらわないと困るわけです。

伸びるためにするのが、トレーニングです。

 

レーニングの効果とか、伸びるためには何年やればよいのか、

という質問を受けますが、そんなことが簡単にいえる分野ではないです。芸事ですから。

だから保証もしていないです。2年たったら、プロになれるということではないのです。

これから音楽を始めようという人であればなおさらですね。

それをごまかさないでやっています。

 

ここのトレーニングということに関しては、私は自信を持っています。

「トレーニングをしても伸びない分野があるのか」ということです。

伸びないというのは、トレーニングにさえなっていない場合です。

レーニングだと思ってやっていることが、トレーニングではないのが、

ヴォイストレーニングの場合、多いのです。

一人でやるのは、本当にわかっているのならよいのですが、そうでないと間違えます。

場がないと、それを問うこともできないから、一人よがりになりやすいのです。

 

 

ここは優秀な人しか入れないということではありません。

レーニングする人に利用してもらう場です。

だから、これまで音楽が入っていない人もキャリアを積んでいる人も一緒に授業を受けて、

ほとんど問題がないのです。

 

レーニングが成り立たないとしたら、今の自分がどこにいて、どこにいかなければいけないか、というのがわかっていないからです。

レーニングが成り立つというのは、自分の今の力が把握できていて、次にどこに行くかがわかっていることです。

そこにギャップがあり、それに対し、与えられている材料をメニュ(ノウハウ)にまで当人が組み立てられるかということです。

 

ここでできることは場としての材料をなるべく与えていくことです。いろいろなことをここでやり、いろいろな人間を見せ、いろいろな音声に触れさせます。

レーニングイコール材料からどう組み立てるかなのです。

その人間が、こういうものを聞いたときに、どう感覚するか、から始まります。

 

 

一番の掛け違えは、この歌手のようになりたい、歌いたいといって、盲目的にそれをめざすことです。

最初のきっかけとしてはよいのです。

しかし、そうはなれない、ということを知ることです。

それから、なっても仕方がないということです。

 

それに代わる何かにならなくてはいけないのです。

それが早くわかるとよいですね。

レーニングはそこでしか成り立たないわけです。

でもほとんどの人たちがすでにあった道を行こうとするわけです。

 

「歌がうまいとはどういうことか」とか「プロの絶対条件とは?」といった質問がありました。

役者、タレント、アイドルなどは、歌はステージの音響技術や演出力の支えでやっているということです。

これを間違えないでください。

自分の力をつけることは、それでは勉強できないのです。

 

 

今、ドームでスピーカーを5千台も使ってやってます。

それに対し、歌い手が何ができるかというと、カラオケ歌唱と振り付けダンスです。

プロデューサーの時代になっていくのもわかります。

 

あるいは、現場の音を加工するディレクター、

そういう人たちはまわりに優秀なスタッフがいます。

それからプロデューサーや、宣伝してくれるレコード会社がいる。

だから歌がうまいことと、こうしたプロになれることは全然違います。

 

ここでめざすのは、歌い手であれば、全世界のどこでも、いつの時代でも、

人前で歌い出したら、プロと認められる、声と歌で感動させられる歌い手です。

マイクも照明もなくても、です。

 

 

○日本のアーティストの功罪

 

私はここで日本のアーティストをけなしているわけではありません。

レーニングですから、これからのことにしか関与しません。

ですから、プロセスを踏んでいるか、どうかが大切なわけです。

 

彼ら自身はよいわけです。なんであれ、プロセスを踏んだから、プロになれている。

ここでは、トレーニングとして取り出せるプロセスなのか、

なにより他の人が得られるのか、得たら使えるのか、

そのメリットとデメリットはどうなのかをみているのです。☆

 

また、エンターテイメントの世界では100人より、1万人集める方が偉いからです。

声、歌は、そのツールの一つに過ぎません。

ただ、ここに来る人はそうではない、ということです。

コネを使ってやらないとやれないようなものであれば、成り立たないわけです。

誰かがよいと思って、もっと長く聞きたいと思わなければ歌い手ではないわけです。

 

 

日本のヴォーカルというのは、徐々に歌や声の部分で人を感動させることができなくなって、

その分ステージングの方に力を入れています。歌においても歌唱より作詞作曲アレンジ優位です。

 

プロで活動できている人、名前が通っている人は、どこかがプロです。

しかし、声や音楽性がプロであるとは限らないのです。

 

ここの研究所でめざすことは、基本的なことです。マイクもピアノもつかない。でもここに立って、一声発したら、プロだということがわかる、ということにおいています。

これは、本来、あたりまえのことで、今の日本の方が特殊になっています。

 

 

レーニングは地道な道です。ここには、素振りをやりにくるようなものです。

私はやれている人を認めますが、ここを主催する立場となったときに、そういう日本のタレントヴォーカリストを別にしないと、ここの活動は成り立たなくなるのです。

 

レーニングはプロセスを経てやっていくわけですから、理想のヴォーカルでというよりもヴォーカルの定義というものが必要になってくるのです。

本当は定義などいらないわけです。ヴォーカルなんて歌えていたら誰でもよいのです。

でもそれを認めてしまったら本当に誰でもよいわけです。

 

でもそこには優れているものと、優れていないものがある。

それを認めないなら自分勝手にやっていればよいわけです。

優れているものを知り、そして自分のなかのそれを見つけてやっていくというのがトレーニングのやり方です。

 

 

プロの人には、ここに入ったら白紙でやらないと意味がないといっています。

自分のやりたい音楽、聞きたい音楽がある。それはそれでよいでしょう。

でも、ここに来るというのは何かの理由があるわけです。何か変わりたい、変えたい、何かをもっと確実にしたいわけです。そうしたら、やってきたことを全部放り出して、全ての音楽をもう一度聞いてみる。全てのものに対して白紙になって取り組んでみないと、そのことをわからないし、できないのです。

 

ここでは材料として一流のヴォーカルのものを使っています。

皆、自分なりに勉強したところで止まっているわけです。それは自分で制限したということでもあるわけです。研究所は、そういうものを壊すために使うのです。

 

2年たってどこまで伸びるかという伸び率が重要です。それから、2年かかっても伸ばし方がわかってきたら、その後にもっと努力して伸びればよいわけです。伸びなくなってしまうところが問題なのです。それは勉強できてない、ということで、自分で自分を制限しているからです。

 

 

ここではオーディションをとっていなかったのですが、違う意味でオーディションをやっていると思うのです。優れている、優れてないということは、気にしていません。パッと見て、スジがよいとかいう人はいますが、今の日本の音楽界ではダメになる例が多いです。

 

そんなことより、努力できる人や、本質的なものを離さない人を見ています。そうでないと、少々、よくとも5年もたたないうちにいなくなる、ということがわかってきました。他の人と比べて、とか、ここの研究生がどうこういうより、自分に対して伸びていけるかどうかです。そのことだけを気をつけることです。最初から、プロややれている人とは、レベルが違います。でも、声に関しては、必ずしもそうではありません。

 

今述べたことはヴォイストレーニングに全て関わってくることです。

芸事をやるとき、あたりまえのことがヴォーカルをやるというときに、なぜこんなにいい加減になってしまうのかと思われることが多いと思うのです。ヴォーカルというのは、そんなに難しい分野ではありません。ただ、深めると無限に問題が出てくるのです。

 

 

希望を読むと、世界に通用するヴォーカルになりたいとか、世界に発信していきたい、というのもよくありますが、世界のレベルを考えてみればよいと思います。海外にいけばわかります。

 

これまで習ったことを捨てましょう。捨てても、残るものがベースです。

ここで問われる世界というのは、曲を聞いて自分のものとして、きちんと出せるかどうかです。

 

ヴォイストレーニングというのは、声を出すことです。

ここに来たら声が出て歌が歌えるようになると思う人もいますが、声が出ることと、歌えることは違います。声がいくら出ても、歌えません。そこがトレーニングの最大の難題です。

 

 

ここの場というのは、イベント、ライブ、合宿をはじめ、いろいろなことをやっています。自主参加です。レッスンは原則、一回での完結性です。それは、ライブのようなものです。

ここでは、音声で表現する舞台の力をつけます。

それとともに、先をめざすことも、大切です。出口を定めてこそ、やっていけるのです。

 

音声とは人間の場合は声です。表現というのは、人の心を動かすことです。

歌がどんなにうまくても、声がどんなに出ていようが、表現されていないものは認められません。

舞台は生です。やり直しがききません。こういう基準で判断しています。

 

ステージになると、ビジュアルなものも含め、いろいろなものが問われます。全体的なイメージもあります。しかし、まず耳をふさいでそこから聞こえてくるもの、それがどれくらい働きかけられるかということから始めることです。

 

 

 

○グループと個人

 

なぜグループレッスンにしているかというと、自分で気づくためです。他の人のいろいろな声を聞いてみて、判断力を磨きます。

一つの課題に対し、いろいろな取り組みがある。そういうもので自分の耳を鍛えていきます。

 

ヴォイストレーニングは簡単です。

たとえば「簡単です」ということばに「ド」という音をつけてみて、いってみる。それを吹き込んで聞いてみて、おかしいな、と思ったら、基本ができていないわけです。

 

すぐれたプロのヴォーカルの感覚を声から読み取ってみることです。☆

歌詞とか歌い方とかに好き嫌いというのは、いろいろとあるわけです。

でも認めなければいけないことは、その声、歌で感動する人がいることです。

彼らがここにきて、マイクやバンドをはずしたときに素人とは思わないでしょう。

それが一つの基準です。

 

 

ヴォーカルが難しいのは、基準の付け方を勉強していかなければいけないことです。

そこは、好き嫌いと関係なし、です。

 

今の人たちのステージというのは、あくまでステージとして作られているわけです。

特に現代のものはいろいろ音を入れたり、加工したりして複雑です。

そういうものは、学びにくいものなのです。

まねはしやすいが、基本が身につきにくいのです。☆

 

勉強していくなら学びやすいものを見本にとっていった方が基準がはっきりとします。

1960年頃のものの方が、生に直で録音されています。

ヴォーカルの息遣いや、体の感覚が読みとりやすいのです。

最初は、大きくして聞く方がいい理由もそのためです。

 

 

今の時代、シャンソンカンツォーネをやりたいという人はいないわけです。

当然、今、ここの課題曲のような歌をやりたいとは思っていない。

今、流行している歌の方がやりたいでしょう。

だからこそ、技術や実力がわかるのです。☆

 

ヴォーカルの世界はシンプルです。

よいものを聞いた。そこで自分を出せるなら、音楽を知っているということです。

 

最初はマイルス・デイヴィスを聞いてみても、どこで拍手したらよいのかわからない。☆

なら、ジャズを歌うには、準備不足です。

でも、わかってきます。

わからない場合は、ジャズをたくさん聞いて入れるしかないのです。

 

 

歌を聞いてみて「なぜここのフレーズをこうやるのか、

自分ならこうやるのに」という考えられる人は、創り出すという世界に入ってきているわけです。

それがなければ、そのヴォーカリストのファンになっていればよいわけです。

 

皆が音楽が好きなのはわかりますが、そんな人は、いくらでもいるわけです。

好きでも嫌いでもよい。やるかやらないか、ということです。

そこで創る、という要素が、必要になってきます。

 

あとは創ったもののチェックです。

誰でも創れるのですが、どのくらいのものなのかを問うのです。

その基準もまた学んでいくことができます。☆

 

 

ヴォーカルは体が楽器で、調律、それから演奏、この3つが必要とされます。

ヴォイストレーニングは、調律にあたりますが、基礎から行うなら、楽器づくりに何年もかかります。

 

時間をかければ、それだけ有利になってきます。

曲を聞いたとき、「ここがよい」とか、「ここは気にくわないから、こう変えよう」とか、再構成する。その瞬間に自分の体から声からでもよいのですが、感覚で声として出なくてはいけない。

パッと入って、パッと作る。これが全てです。

 

はっきりいうと、本も楽典やリズム、音程の講座も読解力も語学もいらない。

耳があって、それに対応できる体があれば、ヴォーカルの場合の条件は満たされます。

それがないから、いろいろなものを勉強していくのです。

 

 

たとえ、絶対音感で音がとれても、何の意味もありません。ポピュラーからいうと、かえって邪魔です。ポップスの場合は、そのフレーズを自分でどうつくっていくかということの方が大切です。

単純にいうと、そこが一番勉強して力がつくように学べるところです。

ここは作詞も作曲も講座はおいていません。でも、できるようになります。

 

私はことばをなんとか使う方ですが、音楽や歌をことばにするのは、本当は無理なことです。

プロの作詞家や作曲家が入れたものを2年で理解するというのは無理です。

それまでに、そういう勉強をしていたら別ですけど、ことばは必要悪に過ぎません。

そういう面からいうと、体というのは、最初は大きく変わるわけです。

 

今までそれだけのことをやってきていないのだから、確実に変わっていきます。

ここに入って、半年から一年半は待って、心を柔らかく、体もそれに対応して動くようにしていきましょう。

音楽に対して楽器のプレーヤーであれば、右手でベース、左手でギターを感じて、足でドラムというように全部入っていくのです。

 

 

ヴォーカルにはそこまで音楽的レベルで入れる人がほとんどいないです。

音楽のことがわかっていないのに歌っている人が多い。

それでもよいならかまわないのです。

 

ヴォーカルは、総合力だからです。

キャラに歌やおしゃべりの力なども要求されます。

ステージとしては、いろんな見せ方があるでしょう。

 

だからといって歌えなくては困ります。

ここでいっているヴォーカルというのは、

音声をどう動かしていくかで表現して舞台をつとめられるという条件があるということです。

 

 

声楽や他のものとどう違うのかというと、何も特殊なことをやっているわけではないのです。

メニューがあって、それをやっていたら、どんどんよくなっていくということではありません。

ただ他のスクールで1ヶ月もかけずに飛び越えていくことに対し、ここでは2年以上もかけてやっています。

 

何オクターブも出ればよいということではないのです。2オクターブ出ても、ドレミの2、3音で何か表現できないとダメだということです。

人の心に伝わるものを何も出せないのなら、1音からつくる、動かすということです。

 

こういう世界は、見てわかる、聞いてわかるものです。

こういう分野では隠せません。すぐわかります。それを身につけるのが大変なのです。

 

 

ヴォーカルに関していうのであれば、感覚というものです。

感覚がきちんと合っていると、その感覚に対応できる体が使える。これが技術ということです。この二つを変えるしかないのです。

だから声がどんなに大きく出たって、音がとれるようになってもそれだけでは何にもなりません。そのことができたら、何か出てくるということはありません。

 

レーニングに大切なものは、場です。場というのはテンション、気合いです。

なにかが吸収できたり、気づけたりすることです。

その厳しさの中で出すということが、どれだけ大変かということをつきつけられる場です。

 

 

それが日本のライブハウスやステージにはあまりないのは、お客さんがそういうことを期待もしないのでしょう。歌が合間に入ってほとんどMCで進行していく感じです。

ライブというのは応用です。

 

今、私が話している声は一番よい声を使っているわけではありません。

伝えるためには、変わっても、よいのです。

一流のバッターは毎日、試合をしていたら磨かれているでしょうか。

いや、毎日素振りをするわけです。それをしないと基本にもどっていかないのです。

 

ここで勉強していくことは、オリジナルな声と、オリジナルなフレーズです。

基本的にその感覚に対応できる感覚づくりです。

 

 

オリジナルな声ということについて説明します。

よく声を変えたいとかいう人がいますが、変えても仕方がないのです。

他の人の声にあこがれてそれに近づけるというのは全く間違った道です。

 

誰にでも自分の体の原理をきちんと使える声があります。

日本人が録音してみて、自分の声はほとんど嫌だと思うわけです。外国人は、あまりそうは思いません。彼らの声がよいというのではなく、彼らは自分の声を知って出しているということです。☆

 

日本人の場合、声を知らないのです。そのことを意識しないのが、大きな問題です。

オリジナルな声というのは、自分の体から理想的に出る声です。

 

 

たとえば私より力の弱い女性でも何年か空手をやっていたら、板も割れるようになります。でもそれは力が強くなったわけではないのです。力をある一点に対して最大に働かせるということを覚えたわけです。

なぜ、何年もやるかというと、もし彼女が1日体験入学みたいなものでやってきて、瓦くらいは割れるかもしれない。でもそれを支える条件が違うわけです。すると、二度ととり出せません。

 

「自分にはいろいろな声があるのですが、どれが一番よいでしょうか」とか、

「正しくやれているか、やれていないかわかりません」とかそういうことこそ、学べていないということです。

 

自分でわからなければダメです。

自分で出してみて、この声でよいのか、と疑う声は全部ダメです。

オリジナルのものは自分の体から理想的に出しているので迷いません。

 

 

「この人のこの声を一番よいものにしよう」と他の人と相談してよい声というのを決めているのではありません。「そういうふうにして出すようにしましょう」というのは、作為的なものです。

適当な作品を作るのならそれでよいです。「今はこれが売れるから」とかいうことで、作っている人はたくさんいます。

でも体の中のことは、基本を壊してしまうようなことをしてはいけないです。

 

これは心や動きと一致します。だから聞く立場の人(トレーナー)と、それをやる立場の人(レッスン生)がきちんと一致していないとおかしいのです。そうでないと、すぐれている、すぐれていないという基準が成り立たないのです。

 

歌い方やフレーズの取り方によっては嫌いなものがあるかもしれない。でも、プロとしての本質的なもの、体をきちんと使っているところの要素を出している点は変わりません。出している上に、その人の世界の独自性をつけるから、よくわからなくなるわけです。

 

 

 

日本人のやり方というのは、体の芯から出る声がないからあやをつけ、それでもたせようとします。日本人自体がそれを受け入れる感覚をしています。

それをできない人たちが、勉強しようとしたときには基本に戻ればよいわけです。

それがオリジナルの声です。

 

これに関しては、自信を持っています。

声が小さい人が大きく出せるようになる。これはあたりまえです。

今まで体を使っていないわけですから、使った分、伸びます。

 

本に述べてある腹式呼吸のやり方とか、姿勢は、後からついてきます。結果としてできている人を見たら、そうなっているということです。

それを表向き、覚えてもなにもなりません。

 

だから最初は自分の感覚でとるのです。皆、声だけでの問題だと思っている人が多いのですが、生で見たとき、歌っているときの動き、体の動きの展開、顔の表情の展開など、そこにいろいろなものが必要であることがわかるでしょう。

のど自慢なんて、全然、変わらない顔のまま終わりますね。

それは体に宿ってないということです。楽譜が聞こえてくるようではダメなのです。

 

日本人の感覚というのは、基本的にバラバラです。

この辺は、理屈で堅苦しいところですが、いろいろなことを理解するために聞いておいてください。

ことば、キーボード、楽譜も、バラバラ、点の世界です。

 

でも音楽というのはこれが線の世界なのです。

日本人の声というのは、外国人と比べてあまりよくないし、使いにくいのです。

それは日本語にも表れていますし、日本の風土からもきています。

 

 

たとえば、皆さんが2年、外国に行って外国語で生活するだけで声を出すのが楽に、大きく出せるようになるでしょう。それだけのことが求められるからです。

そしてそれをメリハリのあることばが助けています。

外国人というのは1オクターブくらいで喋っています。欧米だけでなく、アジアも含めて全世界がそのようです。

 

日頃たくさん喋り、強く、大きく喋るということを毎日やっているわけです。それを20才までやってきた民族と、20才まであまり喋らないし、喋ることがあまり好まれないでやってきた民族とは基本の条件からして大きく違うわけです。

 

ここのヴォイスのトレーニングというのは、そこの部分を元に戻って、感覚や体を変えていくことに対して、そういう環境をおくという考えです。

仮りに、あなた方がモータウンの歌手やクラシック歌手の子供であれば声が違ったでしょう。音楽的なこともかなり入っています。そういう環境を持つことで伸びるのです。

 

 

どこまで変わるかということを追求するのです。

音楽として、嫌いなものもあるかもしれないけど、一流といわれたものを浴び続けていたら、または皆のまわりの人が僕のような喋り方をしていたら、もっと喋りやすくなってくると思います。

変わるものは感覚と体しかありません。これを変えるために何をしなければいけないかというと、入ってないものは出てこないのです。

 

音楽が入っていなければ歌い手になれるわけではない。

基本の技術がないということではなく、音楽に感動した経験から声に心をどう宿すか、ということについて考えていなくてはいけないのです。

そして歌をまた、たった一つの音を正しく出す技術です。

それ以前に意志の問題もありますが、まずは、オリジナルの声というのが大きな問題でこれを正していきます。

 

音楽というのはつなげるということです。2音あれば音楽が始まります。このとき、音楽をどうすればよいかわからない、どんなに聞いても身につきません。

プロはたった音が2つ、3つのところで1時間勉強できるのです。それがどう心に働きかけるか、ということを知っています。

自分も楽しいし、それが人にどう伝わるかも楽しい。そんなものにこだわってまでやりたくない、というのはプロではないのです。

もっと単純にいえば、日本というのは声に関しては人類の中で特殊なところにいっている。特殊なところに限定される。それをもとの人間の基本に戻してやる、ということから始めようというのが、ここのトレーニングです。

 

 

皆の体や息は間違っていないのですが、歌や舞台で使うときには全く足りないのです。

今、私が皆に喋っているのはパブリックスピーキングです。

こんな声で友だちと喋っていたら友達はいなくなります。でも外国人の喋りというのはそういうものです。プライベートな部分に、パブリックな基本が全部通っています。

 

パブリックな基本というのはパッと入り、相手をひきつけパッと切って最大の効果をあげること。日本ではこんなスピードや量で喋るということは特殊ですね。

私の体を見て、日本人に対する(が、持っていない)ベースの部分が何かということを知る。それから、日本語を音楽にすぐに入れるものにする。

 

たとえば今、私が喋っていることばを小さく小さくしていっても、一番遠くまで聞こえると思うのです。☆

でもこれくらいで遠くまで伝えるためには体をものすごく使っています。共鳴してマイクに入りやすいということです。それだけ楽に出しています。

 

 

たとえば「い・う」という音。サンプル曲を歌っていた声の「い・う」というのは日本語より深いところです。日本のヴォーカルは、口のあたりにかぶせています。それにエコーをかけているのでよけいわかりにくくなるのです。そういうことをしないのが基本の条件です。

 

早口や稽舌のことばの練習をしても、声そのものには、さほど意味はありません。

たとえば、「ハイ」ということばがあります。これを100回繰り返そうが変わらないということが条件です。

 

そんなことをしても歌と関係ないといわれるかもしれませんが、今のレベルでやれている人に同じことを課したときに確実に仕上げられると思うのです。

 

 

100回は、そのうちできます。来日するアーティストに息を吐いてもらい、自分のいっていることの例外がないかどうかを探しています。2オクターブを完全にコントロールして使わなければいけないことが職業になっている人たちが、「ハイ」をきちんといえないとしたら、歌に入れるはずがないのです。

 

人によって「ハイ」なんて簡単だと思う人もいますから、わからないかもしれません。そういうことをメニュにおとしてきているのが、ここでやっているレッスンです。

そのことは、音楽や歌に直接関係ないように思えるかもしれません。

 

でも歌えている人、一流の芝居を演じられている人がそのことをやったときにできているのです。研究所を出た人ではなくとも、そうなった人が全部持っている感覚、声のコントロール力、こういったものをもっとわかりやすくして学んでいくのです。☆

 

 

歌一曲になったらわからないでしょう。マライア・キャリーの曲を聞いて、コピーできても、どのくらい差があるかみえないですね。その間を埋めていくことがわからないのです。

 

最初の5、6秒で全然違うということになる。

最初の5秒のところで同じにしない限り、一曲が同じレベルになったり、それ以上のレベルでできることはあり得ないのです。音楽の場合は、勝敗やタイムなどで計れないので、曖昧になるのです。

 

ヴォイストレーニングというのは、調律の部分です。簡単にいうと声をコントロールすることです。自分の声を、自分のイメージに合わせて、確実にコントロールします。

この辺から、外国人と日本人の違いがわかります。

 

 

体やお腹から声を出すといいますが、「体をあえて使って声を出す」ことではないのです。トレーニングと実践は違います。腕立てをしてすぐバッターボックスに入る人はいません。トレーニングはあくまで不自然なものです。今日の結果より明日のためにやるものです。それに対しステージというのは、今日の精一杯のものをさらにパワーアップして出さなければいけません。

 

歌っているとき、お腹の動きを意識していたらダメです。お腹が膨らんでいようがへこんでいようが、そのとき全部キープできていないと舞台などつとまらないのです。その辺を間違えたらダメです。全部自然に使えていないといけません。

 

でもトレーニングは自然に使うために、より強い体で、よりするどい感覚でやるためにするものです。トレーニングの声がそのまま使えるわけではありません。歌の場合は伝えることがメインです。声が出なかろうと、かすれようと、伝わっていたらよいのです。声が朗々と出ていても、リズムや音程が正しくても伝わらなければなりません。

 

 

まずことばをコントロールすることです。

私は、声に出しているものを深い息で切っています。

私がこれからやるのは、外国人が持っている感覚だと思ってください。その世界を知らない人にとっては、難しいことです。

日本人も、音楽的センスや耳があり、努力もしています。そういう人たちが歌い手になったら、どうしてあんなふうに歌ってしまうのかということです。自分に聞こえていない、入っていないものは出てきません。それを聞いて、入れることがスタートです。

 

何が聞こえていないかというと、たとえば、外国人が「Yes」といったら、子供はそのまま真似をします。でも日本人で賢い人はそれを聞いて、「イエス」といってしまうのです。

意志を伝えることより、言葉尻に耳がいくからです。自分の頭の中に入っている日本語にそれが置き換えられて出てきます。外国語の要素は落ちて、日本語の要素に置き換えられているから、カタカナ英語になるのです。

 

英語を勉強してもカタカナになっている場合が多いのは、浅いところで発声しているからです。外国人は深いところで発声して、それを響かせている。それができていないのに、英語を使うと、日本語よりも体から声が出なくなります。

 

 

日本人は、日本語の問題を考えることも必要です。そうなると日本語としてある程度まっとうについている詞でないとよくないので、英語は英語で歌えてしまうので、あまりよい日本語の詞がないのです。カンツォーネシャンソンを使います。☆

 

クラウディオ・ビルラが日本語で歌いました。その日本語のポジションは、深いところです。でも、響きは上で鳴り響いています。彼らは、「音楽的な日本語」にしているわけです。☆イタリア語の感覚をそのまま置き換えています。

 

ここのヴォイストレーニングが声楽と近いところは、一回、日本人の感覚を切るということです。日本人の耳の感覚、ことばの感覚を切ることで、根本的に人間として、声を出すことに関して、あまり苦労していない国の人たちの声の感覚を得ていきます。声楽も留学して、向こうの感覚で暮らします。

 

 

日本人がいかに音声に対して耳を閉ざしてきたかということが最大のギャップですです。

外国人は生まれたときに何回も聞いて覚えます。彼らは読み方や書き方より、よい声で聞いたままに繰り返す、ということを、学校でも家庭でも徹底して行われているのです。

日本語がどこで切っても伝わるのに対して、向こうは息で持っていかないと伝わらないのです。体を使わなくてはいけないことばだからです。

日本語は体を使わなくてすみます。唇や舌などを使わなくてもできるのです。

 

それから向こうは強弱アクセントです。強弱というのは踏み込んで放していきます。ことばの中に音楽的な基本のフレーズがあるわけです。英語だから4ビートが生まれたのです。

日本語の場合は高低アクセントで意味が変わります。高低アクセントというのは、音程アクセントです。感覚自体が日本で日本語をやったために、ほとんど対応できていない。

日本語は声帯を痛めます。4ビートや8ビートを勉強するよりも、そこの部分から直さないと、そういうものが入ってきません。

 

今の日本の曲は、速すぎます。歌えるところの感覚とは全く違うものです。

外国人はことばの中でアクセントをはっきりつけていきます。これはそのまま、シンコペーションの練習になっています。リズムの部分を合わせていく。

日本語では「ふるいけや」で5つ。「かわずとびこむみずのおと」と7、5で全部で17個。1音に1秒かけると17秒かかります。均等になっていくのです。

 

 

向こうの曲に日本語をつけても、向こうの歌詞の半分もつかない。外国は一つの拍に一つの単語がきます。彼らにとっての等時性というのは、リズムの等時性です。

「I Love You」だったら、3拍。もう2回ついて9拍になったらそれを9回繰り返すのではない。一つのフレーズは(ハーッ)というこれだけですから、3拍の中に9コ入れる。これを3つ、3つ、3つの3拍で重ねてしまうのです。「ダー、ラー、ラー」という風になります。

こういう感覚はポップスの基本で、音楽をやる上で必要です。

 

ことばのトレーニングでは「ハイ」「あおい」「とおく」「ひたすら歩いた」というのを1拍でまとめていきます。体を使って声を出すとき、シンプルでないとバラバラになって使えません。これを全部一つにまとめていく。一つに握った上で放していく。

それが私のいう声の芯ということです。☆☆

 

そうしたら、全部同じになります。ことばを揃えるとはそういうことです。「ハイ」「ラオ」「ラララ」が「アー」「アー」「アー」と聞こえるようになればよいのです。

いっている人間の感覚がそうなっているということです。そうすると体が使え、それだけシンプルになっていきます。

 

 

ここでの1年目は役者さんか外国人のような感覚になって、そういう声になればよいといっています。

「なぜ太くパワフルな声にならないのか」とか、「歌っていると声が細くなる」というのが、日本のヴォーカルと外国人のヴォーカルの一番違うところです。

 

たとえば1オクターブ半、上のドまでを私は同じ感覚でとっています。日本ではここまでに頭声にひびかせています。中には中声というのを入れて、3つに分ける人もいます。

裏声を入れて4つになる。ヴォーカルを聞いてみても、私は、基本的に一声区という考え方です。

 

ハイCまでの声楽の世界(多くはテノール)とポップスとの一番違うところは、声楽は全部響かせなくてはいけないのです。マイクを使わずに遠くまで響かせなくてはいけないからです。それに対してポップスというのはマイクがあるから息で伝えられるわけです。

 

 

それから、響かせる語は母音です。日本語は世界でも特殊で母音中心で成立している言語です。子音の後に必ず母音がついて、母音で終わります。

外国語は、ほとんど子音で終わります。一拍の中で前後に3つ4つつき、それを1つの拍の中でいえるのです。

 

それから耳の感覚が全然違います。外国人は皆さんが思っているほど、伸ばしていないし、歌い上げていません。

声楽は人間の一番よい声をとことん取り出していくものですから、息や、ノイズが入ってはいけない。

そうなると、ルイ・アームストロングジャニス・ジョップリントム・ウェイツなどの歌い方はどうなのでしょう。

 

ヴォーカルの場合、オリジナルな声と、オリジナルなフレーズのどちらを優先させるかということになると、オリジナルなフレーズです。オリジナルのフレーズを完全に作るために、オリジナルな声の方が使いやすい、ということです。そうでないと、くせのついた声になってしまうからです。

 

 

日本人のヴォーカルを聞いて、勉強するのはよいのですが、勉強するところを間違うとダメです。B‘zやサザンの桑田さんにソックリな歌い方をする人を私は50人以上見てきました。

口先だけの雰囲気的なもので出すわけです。

似ているからうまいよ、というのはオリジナルなものからは程遠いのです。

 

オリジナルなものというのは、相当に完成度が高まっていないと、理解されないものです。

そういうものをつくり出してきたのが、欧米のポピュラーのヴォーカリストの歴史なのです。

 

声楽家が歌謡曲の分野に入って、歌い上げていくようなやり方を日本はとり、お客さんもそれが歌だと思い込んでしまいました。違うところで、歌がまわっているようです。

 

 

純粋に音声として、どこまでの芸術性が出せるかということを考えたら、体に戻らざるを得ないのです。自分の深いところでの感覚を音声で取り出すということをしなくてはいけません。

役者であれ、ナレーターであれ、一流の人はそういうことを考えていますが、ヴォーカルだけは考えていません。ヴォーカルはいろいろと飾ればもつからです。

 

半オクターブきちんと出せれば1オクターブ半は歌えます。1オクターブあれば2オクターブ歌えるといっています。歌の方がごまかしというか、より表現するための技術が使えるのです。

オリジナルな声というのは正直なものです。その条件を満たさなければ使えないわけです。だから判断ができるのです。

歌になったら、その人がそう歌っているのなら、それでよいのです。

でも、ピンとこないことが多いです。それを一致させるというのは、大変なことです。

 

 

「ドミソミド」という声を聞いて何か感じますか。発声練習だ、という感じが出ています。それは、もう、その時点で嘘なのです。そこから凄い歌が生まれることはあり得ません。

 

私の声は皆さんにとったら低く感じていると思うのですが、太いのです。音色の違いです。

これも日本人の耳での取り方です。太い方が高いところまで出るのです。

でも日本人は、高音が少しでも出にくくなったら、表現力を捨ててもすぐに上の響きに移っていきます。

 

外国人とヴォイストレーニングをすると、彼らは声が深いのでつっかかります。しかし、実際の歌になると、彼らは完全に響かせる方向に体をもっていけるので聞き取りにくいと思います。体を使った分だけ声になるのです。

 

 

レーニングのプロセスからいうと、彼らが小さい頃から20才まで習得してきたことです。(ハイ)という息に対して「ハイ」と出していく、それが響く。そこから音楽に入っていく。

響かなくてもよいのですが。ヘビメタなどになると、相当強い体をしています。

シャウトで違うわけです。

 

日本人のシャウトは皆のどをつぶしているので、マイクを近づけないとわからないのです。外国人はマイクを離していても歌えます。そしてすぐバラードに移ったり、深い響きに移れます。息と体を使って、「ハイ」を100回やると、日本人なら目眩がするようなところで、キープできるわけです。

気力、体を使っているので嘘にはなりません。

 

一言でいうなら、音の高さに関わらず同じ音色で揃えなければいけないということです。ヴォイストレーニングというのは、音に当てはめるだけではなく、声や歌が出た後に何かが飛んでいくところまでやらないといけません。それは当人がイメージして、伝えようとする意志に伴う内容です。

 

 

巷のヴォイストレーニングで私が一番嫌なのはテンションを下げているところでやるので、どんどんと鈍くなっていくことです。せっかく音楽をやりたいと思って入ってきた人が、何か違うと思いながらやって、そのうち違いもわからなくなって、表現も歌も崩していきます。

 

感覚を鋭くしていかないと、意味がありません。下手な練習をやるくらいならやめた方がよいです。

レーニングとは強化することを先のことに対してやることです。

舞台は今の力で精一杯、ノッてやるしかないです。

 

中間音までのことを話しましたが、本を読んだり人から聞いたりすると、もう、それができていると思いがちです。そんな簡単にできることではないのです。ほとんど、できている人はいません。基準の取り方が違うということです。

 

 

 

それから、「メロディ処理」についてです。

「つめたい」ということばに対し、音を「レミファミ」と与えられていたとするとどのようにとりますか。「つーめーたーいー」というふうになりませんか。でもこれではおかしいと思うでしょう。

 

普段「つめたい!」というときに、伝わるものが、「つーめーたーいー」といったときに伝わらなくなります。日本人が思っている歌というのは聞いたときに、メロディ、音程でとるのです。わざわざ、音を分けてとってしまうのです。

 

外国人は、「た」や「め」に強アクセントを入れ、その時点に一つにしているわけです。これが音楽的日本語です。これは声があるからできるのですが、まずは、感覚の問題です。

「つめたい」といいたいのに「つーめーたーいー」といってしまうのは、技術よりも発想や発声の感覚の問題です。先に感覚があって、それを強化する耳があって、それを鍛えていくのがトレーニングです。

 

 

表現したいものがあって、それに体が伴わない、ことばが伴わないのは、歌というよりはまだセリフの世界です。ことばで1オクターブいってみろというのはそういうことです。そのままもっていくのです

私がやったことは、外国人の普通の人が持っているレベルのことです。

 

日本人は体や声を使えるように持っていないのですが、それは直せます。

そのことしか考えなければそうなっていきます。そこを解決しないと、何オクターブあろうが意味がないのです。

 

役者の場合だと、「つめたい、ことば、きいても」というのを「ター・ラー・ラー」というふうにとります。もっと単純にいうと、そこに呼吸があると間ができます。

 

 

間があくというのは、最大のメリハリです。その方が「つーめーたーいーこーとーばー」と歌うよりよい。歌がうまい、へたというのは、その感覚があるかないかということなのです。そういうふうに歌おうと思っている人はそう歌ってしまいます。

 

プロのヴォーカリストは、音感がよいだけではなく、厳しく音をとって、それに反射できる体があるのです。ここまでの時点で基本的な問題は全部入っています。

要は声をコントロールするということです。そのためには感覚、体が必要である。その2つを磨いていくのがトレーニングです。

 

フレージングというのはいくら本を読んでもわからないところでしょう。ここから本格的にヴォーカルの問題に入っていきます。フレーズというのは一つの呼吸の中、1フレーズの中でやることです。

 

 

たとえば「つめたい」ということば、これを「つめたい」と一つに捉える、これに音がつく、これで音楽ですね。ヴォーカルというのはこれを、「つーめーたーいー」とやるのではなく、これを「つめたい!」と伝えたいわけですから、「つーめたい」とか「つめーたい」とか、「つめたーい」とかいうふうに、フレーズとして動かしていくことです。

 

これがで切るためには、メロディ処理、高さ、ことばを揃えなければいけません。でも、表現ということでいうと、別に難しいことではありません。伝えようと思ったら、人間はそうなっていきます。

人を振り向かせるには、そのインパクトがあるからです。それが一番ベースのところです。

 

でも、それをも3分間で100回やったらできなくなります。しかし、それに劣る表現や歌をやっても仕方ないのです。歌やことば、音声表現が日常の生活から、そんなにかけ離れたところにないのです。

そういうことが書かれたテキストを見て、その通りにやることが何かになる、ということを考えるのが間違いなのです。これはあくまでこういうことがうまくできないときに補強するためのテキストです。歌を聞いたとき、自分で反応、感知して、声にできればそれでよいのです。

 

 

このフレーズは、イヴァ・ザ・ニッキの出だしのところです。このフレーズを彼女はどのように出しているのでしょうか。少なくとも、彼女はこれをいおうとするとき、「ノーン・ソー・マーイー」といおうとはしなかったはずです。

 

でも、私たちはそのようにやってしまいます。感覚に入っていないものを出せないというのはそういうことです。こういうのを聞いたとき、自分の感覚として、どう捉えるのか、それができた後に声と日本語に置き換えていきます。

 

日本語でやる方が難しいのでしょう。今まで使っていたクセ、ことばの浅さというのが出るからです。声を扱う感覚そのものを変えていかないといけません。私は体で喋っています。それは理想ではなく、表現に耐える声を扱うための最低限の条件です。しかし日本人であるための限定というのが入っているので、それをはずしていくのです。

 

 

研究生にカンツォーネを歌ってもらいました。これは、音楽性というよりも感覚があって、体があるだけのところで、しっかりと取り出しています。これが基本です。

これ以上飾ってしまうと、音楽的な世界に入って、わかりにくくなるので、これはトレーニングでできるところはどこまでなのかということを示してみました。

 

歌い方のよいとか悪いとかいうことではありません。上のラの音まで使っています。

試しに聞いてみてください。イタリア語をしゃべれるわけではないので、細かいミスがあるかもしれません。しかし、ここでは耳で聞いて伝わればよいという考え方です。音の感覚に入っていれば音はとれます。

 

少し大きめに聞いてください。特に息を聞いてください。全部一つで捉えています。

そのとき、この身体の条件が入っていないといけません。

しかも自分がやりたいと思っているのが出るようにします。人によって歌は、違います。

 

2オクターブ近い歌での、1声区という意味がわかると思います。ポップスの場合は、必ずしも声を統一していません。統一していないヴォーカルの方がおかしいのです。

日本はなぜか、変ないい回し、歌い回しをつけてます。声がないぶん、舞台でメリハリをもたせるためにやっています。飾り付けです。

本当の音楽や歌ということでいうと、私は邪道だと思っています。しかし、舞台に立つ場合は、そうしないともたないのです。

 

 

歌がうまいということより、凄いということが大切です。何らかのことで「こいつは素人ではない」とわかるところのものが凄いわけです。研究所ですぐれている人にはすごい理由があります。

それは誰よりもそこまでやったということです。その人が、そのことが好きで何年もかけてやることが力になります。それが歌のおもしろいところです。

 

ロックや、ポップスの歌手で誰がうまいかというのは、その人の判断でよいと思います。やれている人はそれでよいのです。活動をできているというのは、ちゃんとファンがいるわけです。

この世界ではうまいへたではなく、ちゃんと聞く人がいて、自分で満足してやれたらよいわけです。

歌い手というのは自分がこうなりたい、と思うレベルまででよいわけで、それ以上はやる必要はないのです。

 

うまいことはプロの絶対条件ではありません。最近のヒットチャートに入っている人を見ればわかるように、それでもプロです。

ここでいえるのは、オリジナルなものというのは人の心を打ちます。その人しかないものです。

でもそれを人にわからせるためには相当の努力が必要です。

それには他の、すでに受けているものを真似した方が早いです。早いけど、それはすたれていきます。

 

 

ここは2年間その人を見ているわけではなく、その後どうなるかを見ています。

どんなに努力しても超えられない壁というのを、どう超えていくかですね。たとえば100ホンの声量を200ホンにしたいと思っても人間が超えられない壁といのはあります。

7オクターブ出したいとかいうのは、何のためにやるのか、ということです。

 

体をつくることというのは、感覚と同時に養っていくものです.しかし、何もしないよりやった方がよいということです。体を作っても、声は、呼吸でしかコントロールできないものです。

私は全部呼吸でコントロールしています。体や感覚でコントロールしているといっても実質つかわれているのは息だけです。息と感覚だけです。

 

「立って練習するか、座って練習するか」などは自分で考えさせます。

自分で声が出やすいところですればよいわけで正解はありません。

その人ができるものが正解です。だからメニューをこちらから決めてしまうのではなく、自分でつくれるようにさせています。

 

 

私の個人レッスンは、原則として、ピアノをずっとたたいて、声を出させるだけです。

ヴォイストレーニングというのは個人の修正の仕方を見ていて、それがおかしくなければ正されるのを待つのです。芸事というのはそういうものです。

教えられなければわからないようなレベルでやっているトレーニングなら、やっても仕方がないのです。

 

いろいろな声があります。でも、素直に聞いてみてると、部分的にどこか力が入っている声というのは嫌な感じがします。その感覚に鋭くなればよいのです。何かおかしいと思うときは、おかしいのです。

できていると思ったら、できています。人間の体はそんなふうにできています。

そのことを自分でわかっていかないといけません。要は、その基準が甘いからプロになれないだけなのです。

 

ここでは、自分たちのステージをビデオで見せます。

自分のを自分で見て、直すことでしか変わらないわけです。

だから自分一人でやっていたら変わらないのです。

 

 

自分一人でやると、一人のところまでは伸びられますが、他の人に対して、そのことがどう働きかけられるかがわかりません。他の人に対する働きかけの活動をキャリアとして重ねていかなければいけないのです。

 

「胸に響く」声というのは、私が出しているような声ですが、胸に響けばよいということではありません。それは、材料でしかありません。

 

何を伝えたいか、という方から考えないといけません。

「あいうえお」をいうのに、発声の教科書に書いてあるような口の形は、必要ないです。

1ヶ月後にステージが迫っている人には、その方がきれいに響くという教え方をします。

しかし他の人には声があるので待たせます。