一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習XmasLIVEコメント、感想 16243字  814

ステージ実習コメント&感想   

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【X'masライブ前座 感想】

 

上の人のステージを見ていると、出てきた瞬間が違って、余裕や大きさがあって、こういうものを学んでおかなければと思いました。

 

ステージ実習やライブ実習などで、いつも緊張するのですが、今回も凄く緊張しました。また一部と二部では、一部の方がよかったなぁと思いました。

 

ここで他の人の歌を聞くというのが初めてだったのですが、みなさんとてもうまくて、もっともっとトレーニングしなければいけないなと思いました。

 

もっとリラックスしてやりたかったです。来年は今年よりよい年にしたいです。

 

最近、悪い意味でステージ実習に慣れていて、緊張もしなくなって、このように違う人たちの前で歌うとよい緊張感が出て、自分としては失敗もありましたがそれはそれでよかったと思います。

 

歌う前にお客さんとコミュニケーションがとれなかった。自分が歌うのに一所懸命で、全然観れなかった。自分の練習からして間違っているのではないかと思いました。

 

自分に関しては全然ダメでした。サビをもう一回リピートしたかったです。でも今日は見たことが勉強になりました。

 

①や入門科の方の新しいエネルギーはよかったです。

 

始まる前にめかしこんできても、何か起こさないとダメだというお話を聞いて、マズイと思ったのですが、今日、自分としては自分と見てくれる人のあいだに壁があって、壊そうとしては冷めたりしていました。もうちょっとやれたのかなという気もあります。

 

今日は初めて舞台で見た人が多かったのでおもしろかったです。MCをする方もいて、すごいな、と思ったのですが、MCの後の方が印象が弱くなっている人もいたので、歌で出さないといけないな、と思いました。自分に関しては前に出そうとしているのですが、どこかで引いているという感じがしました。

 

今まで漠然と歌ってきたのだな、ということを感じています。今日歌を歌ったり、皆の歌を聞くことはいろいろな意味があったのですが、それは家に帰ってから考えたいです。理屈を越えて、来るものは来るというのを実感できたのは確かです。

 

楽しかったです。自分が歌ったことや練習中見たことのない人の歌を聞けたことが勉強になりました。

 

今日は歌わずに聞いているだけでした。やはり、聞いているだけだと、気分的に楽で、一人ひとりいろいろな感想をもつことができました。聞いているうちに自分も歌いたくなりました。それが一番嬉しいです。

 

思いきりさらけだしたかったのですが、まだ場慣れしていないというか、歌えなかったです。もっと出ればよかった。

 

歌っているときは全て忘れてしまっていました。MCですがやはり最後は笑いをとった方がよいですね。楽しかったです。

 

最近は、声のことばかりに目がいってしまうのですが、今日のようなライブ形式でMCが自由にできるのは初めて出たのですが、声がよくても、それだけではだめで、本当に歌うというのは、声だけではダメなのだということを感じました。何人か突出していた人と、自分との違いをもっと考えて、声や音楽のことだけではなく、もっと広く追っていかなければならないのではないか、と思いました。

 

皆さんの前で歌うのは今日が初めてでした。今までは歌うことが恐くて、こういう場に出られなかったのですが、今年最後なので思い切って出てみました。やっているときも何も覚えていないし、やろうと思っていたことが何もできなかったという感じです。歌のことがもっと好きになれたのではないかと思いました。

 

やる前は、よし、やるぞ、というような気力とか気迫とか持っていたつもりなのですが、いざ、ああいうところに出ると、自分の思いや気迫を100%出せないんだということを強く感じました。

 

大きい声を出せば出すほど、自分の中身を汚しているような気がします。どうやって、取り外していくかということを考えています。

 

今日初めて観客の顔のエネルギーみたいなものを感じてハイになって楽しかったです。でもフェイクのところになるとどこを言っているのかわからなくなってしまって、負けないくらいのエネルギーを前に出していかないとダメだなあと思いました。

 

今日は心の準備ができていなくて、まわりに自分がダメにされて、自分がまわりに影響を与えられなかったことが悔しかったです。その悔しさのせいで自分のステージが終わっても、他の人の歌が聞けなかった、というのが一番悔しかったです。でもそういう気持ちを忘れさせる人が何人かいたので、歌の本当の力を感じた日でもありました。前座ははっきりいって楽しくなかったです。自分のせいでもあるのですが、うまいだけじゃなくて、何かが足りないからそうなってしまうのではないかと思いました。

 

今日はオーディションを受けて、受かる人と落ちる人の力の差というのは、はっきりあるのだと感じました。今日は結構楽しめました。いろいろな人の個性を秘めた歌も聞こえてきたし、もっともっとそういうところを出して欲しいと感じました。

 

相変わらず緊張してしまったということがあります。もっと一杯出したかったのに、と思います。歌はあっという間に終わってしまった、という感じでもっと一つひとつのことばや、フレーズを歌に入っていって感じながら伝えながら歌えば、あっという間には終わらないのではないか、と歌い終わっていろいろ感じました。他の人のステージを見るのはとても楽しかったです。

 

自分でやっているあいだは真っ白になってしまいます。

CDを何度聞いても何がどうなっているのかわからない、という感じですが、生で聞けば、わかりやすいのではないかという気がしました。こういうのにチャンスがあれば少しでも多く出たいと思いました。

 

自分のことを考えていたのですが、見るに耐えないという感じなのではないでしょうか。カラオケのような感じで、これで自分は表現者なのだろうかと思いました。自分を壊し切れていないという感じです。

 

 

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ステージ実習コメント

 

この後、一部・二部があります。去年と違って出来が悪く、プロの場として出せないので、ブレスヴォイス座というより、クリスマスライブにしました。

ところが、暗い歌が多いので、トレーナーにも入ってもらい、三部を入れました。

 

曲での差が激しかったです。こちらから曲指定というのはあまりしないのですが、今回はオーディション2曲のうちどちらか一方が悪いという場合が多かったので、こちらから指示しました。

だから、オーディションの曲でエントリーされているわけです。

 

だから、一番皆に聞いて欲しいのは、プロというのはどういうレベルでやっているのかということです。プロの世界では、ヒヨッ子でも、少なくとも一般のお客さんの前で歌って、それなりの活動をきちんと続けているのと全然違うのです。出だしから違って当然ですが、一つひとつの声に対する集中度とか、神経の置き方が違います。

 

 

今日に関していえば、条件は、前座も、一部も二部も大して変わりがないはずです。ただピアノがついたり、照明が少しよくなるくらいです。他に何か出てくるかもしれません。

 

ある意味でいうと、前座もおもしろかったです。でも、いつも考えないといけないのは、プロレベルの人が最初に歌ったらどうなるのかということを考えないといけません。

最後に盛り上がるようにするのは簡単ですが、アカペラのときはアカペラでやるなりに力をつけておかないと、自分で自分のことがつかめなくなる。ということは、そこで大抵出なくなってしまうのです。

 

私も、人を10年で見れるようになりました。他人がどういう変遷できたか、というのも見ています。多くの人は1年から1年半のところでピークが出ています。なかには6年間、ここにいて、5年目に一曲、6年目に一曲よいものが出た人もいました。そこのところでよいものを出せるというのは珍しいのですね。

 

 

普通、1年目か1年半で出たら、2年目か3年目で出なくなってしまう。それは技術や歌や発声ということではないのですね。1年、2年でつくものではない。もっというならテンションと、その気持ちが一致したとき、それが出せるかどうかです。技術が付いてから半年くらいでそういうものが出ます。

 

たとえば“クラシックっぽい発声”になってくるのがよいことか悪いことかは、その先を見なければわからない。でもその先を続けようという人は、自分があるから、両方が消化されていくのです。だから、クラシックをやっていようがポップスをやっていようがそんなに変わらなくなります。

 

ポップスの世界は、紙を一枚一枚積み重ねていく。というより、一回どこかで束を投げてみて、その後にそれを一枚ずつ拾っていくような作業です。だから投げるところまでは出てくる。

 

 

私が一番気をつけているのは、日本という社会です。これがよってたかってつぶしにかかってくる。というより、握手しにくるわけです。それは払いのけていかないと私なんかより優秀な人間はたくさんいたし、今もいるのですが伸びません。デビュー作がたいていNo.1の作品になっています。あとは作詞や作曲で伸びている人がいます。そういうものはきちんと分けて見ていかなければいけない。

 

逆にいうと、それが全部我々の中に流れている。日本人だと思っていけばよいんです。協調を求め、コミュニケーションをとりたくなる。居心地のよいところを求めていく。そうしたら表現なんてできなくなってきます。最初に自分と表現ありきです。

 

私は研究所の中ではだいぶ妥協しています。自分の本当の走り方で走っていたら、多分ひとりも残っていないでしょう。だから、皆一人でやるわけです。誰ともできない。たまに一人で走ってる奴が隣に来たらたまに組むことがある。こういう考え方で徹底しています。

 

 

研究所でいくら顔が広くなったって、そのことがやれることではない。ところが日本にはそういう世界ばかりです。残念ながら、声楽の世界も、ポップスの世界も同じです。日本ほどおかしなところはない。

声楽の世界もポップスの世界も、漫才の世界でも、審査員が生徒を教えている。

 

先生につくというのは悪いことではないのです。でもそれがどういうことであるのかということです。自分で使いこなしていかないとダメです。真実の瞬間をつかまえて一回でも二回でもそれを出してみる。これは、こkでの1年半なり2年くらいで出ているのです。

 

出ているけど、それが自分で自覚できない。それから、そのことを固定できない。そのことは難しいからです。みていると、あそこまでいっていた人がなぜ、3年目、4年目にこんなテンションでやるのか、と思います。

できるほど目標を高くして客を10人、100人、1、000人というより質の高い人に想定しなくてはいけません。それは違う意味で歳をとっていくわけです。いろいろなことがわかってくれば、わかってくるほどやりにくくなります。

 

 

声でもそうです。声が出てくるようになったら、今度はそれをコントロールするのはもっと難しいわけです。こういうものは自分の出したものに全てを入れていかないといけない。

 

1年目くらいの人は、それなりに緊張感と新鮮味でもつのです。ただ、MCとか顔つきをみていると、とてもじゃないけどもって一曲の半分、という感じがします。

 

こういうライブでごまかされてはダメです。本当によいものは次の日も見に行きたいと思わせなければいけない。そこで本当に心から拍手したいと手を動かさなくてはいけない。そこで止まってしまうものというのは、しょせん、そこまでのものでしかないわけです。だから成り立たない。まず観客としてきちんとした目を作っていくということ、それは一人でやっていくしかないです。

 

 

今、合宿のことを会報にしていますが、だいたい皆、同じ人が印象に残っているようでおもしろいと思います。ステージに関しては、歌そのものより、存在感のようなものが決め手だと思います。

プロの世界でも同じだと思います。その人が去ったとき、何が残るか、それが本質的なものをついていたら、また、その人を見たいと思うでしょう。

それは研究所でも同じだと思います。

 

それをきちんと提示できることは難しいと思う。できる人とできない人がいるのではなく、できる瞬間を取り出す努力をしているということが大切です。そういう人は自分で何かやっていく人間だと思うのです。これが一つの条件です。

 

自分で主体的に判断していって、むしろ他の人がやるようにやっていくと、他の人なりにしかできないことを知って、何かやる人間です。量やればよいとか、こういうトレーニングをすればよいとかそういうことではありません。

 

 

歌や音楽が難しいのは、MCでさえ表現できないことを、わざわざ3分間を使ってやるからです。音楽や音の中で、その瞬間を出そうとするときに、飛んでしまう。この中には、そういう経験さえ少ないという人がいます。あるいは、ピアノやトランペットを聞いた時、心が動いたようなこととの関連、これは、教養などがいるということではなく、本質的な部分のものが必要です。

 

それから目を背けるといい加減になってくる。よいものを聞きなさい、というのはそういうことです。それから、そういうものが残ってきたのは誰か一人の心を数百倍、数千倍捉えたからであって、全員の中で、評判がよいとか、悪いとか、ということはどうでもよいのです。

 

合宿についても、参加した一人の人について印象に残ったことを一枚くらい書いてくる人もいるわけです。その人が表現して、そこで三日過ごしたことで、そこまで入ったわけです。

だから、その辺は歌だけの世界ではない。

 

 

彼女は、ロスから一回来ると、十人、友だちになってしまう。終わった後に、皆帰れないわけです。それで彼女のまわりを取り巻いている。それはスター性とか、タレント性というより、歌で何をしようかということが本人のなかで磨かれていたら、そうなってきます。

 

日本でも技術や歌声だけある人がたくさんいます。でも、それだけでは何も伝わらない。一回そういうものを捨ててみなければいけないということがあります。

ポップスの場合は、特にそういう力が必要です。

 

結局、皆の中でやって、先生とかトレーナーとか肩書きは関係なしに誰が誰の心をわしづかみするかということです。

 

 

自分の好きなジャンルの曲がかかれば嬉しいし、興味を引くけど、それは本当の意味でつかんでいるわけではありません。背後に本物がいて、それをつかんでいるものが移し変えているというだけのことでは、その人個人のものではない。だから、変わりに誰でもやれてしまうし、また忘れ去られてしまう。本物を聞いた方がよいわけですから。

 

だから自分の表現として取り出すというのは、すごく難しいと思います。三分間で自分を訳すということを、音や、歌でやる。音声という意味ではことばでやってもよいと思います。そのときに、自分を超える瞬間というのはやはりあるのです。伝わったときにそうなります。

 

そういうことが味わえた気分になる、というのが一番危ないです。気分というのは、自分がそこに出てきたのでなくて、他の人でも同じ気分が味わえるということです。うちの場合、送り出すために拍手させていますが、もっと自然にしたいものですが、盛り上がらせることをメインとする今のライブハウスは、元気と気分だけです。

 

 

私は厳しい世界で鍛えられてきましたから、他人にほめられると、たいてい疑います。まず、自分で納得できないことに人が納得するわけないと思うのです。それが逆になったら黙っていてもやっていけます。自分が納得しているのに、誰も認めてくれないという時期が一番キツイですね。

それは、その人なりにはよいのだけれど、もう一歩深まっていないということなのです。オリジナルなものほど、理解させるのに時間がかかります。

 

だから、いつまでもわからないことをやってくれたらよい、ということです。わからないというのは可能性です。90%だめになっても、10%は残るわけです。それを守るためには自分の力がつくまで安易にメジャーになることさえ拒まなくてはいけないこともあるのです。

 

私の評価というのは、日本の評価と違って、コンスタントに60点出せる人はダメだということになります。プロの世界は90点以上出せないとダメです。1年半のあいだに、技術も声もダメで、でも95点出せたら、その後ずっと10点とか0点であっても、私はその人の方を買います。可能性があるからです。

その95点を何年後にその人がコンスタントに取り出せばよいのです。

60点でやっている人は70点出すのが精一杯です。

 

 

上のグレードの人は、2年くらいのあいだに一度は90点近く、出せた人たちです。その後、吹っ切れないで、テンションが落ちたままな人もいます。それは、それだけ甘くなっているのです。慣れるということは本当に恐れなきゃダメです。

思ったようにいっている部分と、いかない部分があります。全員10点アップさせる、というカラオケの世界ではない以上、こちらが根本的に一番正しいというものはおいて、後は揺らしていくしかないですね。

 

いろいろな考え方があります。運営をみていると、うちもダメだし、他の学校もダメですね。一流の演出家や作曲家、作詞家は、一流のヴォーカルと同じようにたった一つのことに対していろいろな感覚を持って、いろいろと気づいているものと思います。

 

中谷彰宏さんのことば「相手が出ていくとき、ドアのカギをすぐしめない。相手が去ってから閉める」そうです。やれることやれないことは当然ありますが、そういう感覚がなくなったときに、もうダメになってしまうのでしょうね。隠れた気配りこそ、生き方です。

 

 

だから、ものの考え方と対処というのはものすごく大切です。それは研究所でやることではないのですが。スポーツと同じで、歌とか、声とかを本当にやっていくなかで身に付く場合も少なくありません。

バスケットの一流選手なんて、神々しい顔をしています。どの分野でも同じです。基本的にその世界でそれができていたらそれがよい世界です。その人間が勝負するところでそこに時間とお金を払ったお客さんを満足させることができればよい。それをしないのはよくないというだけです。それを全部、皆に受け入れられるようにしようとすると、無理が出ます。

 

私も見切っています。一つのために99を失うのは仕方がないと思っています。皆を見ていると、最初の1年~1年半でよくわかります。ことばというのは一つでその生き方を伝えるとともに、翻弄されてしまいますね。自分の目で見て判断できない人が多い。

自分の学べる人がいたら、その人から一つのことをきちんととっていくことが基本です。教えられるものではなく、盗んでいくしかありません。

 

いろいろな人たちがいます。表現というのは100人に媚びても仕方ないのです。100人よりもその一人をとるという考えでやっていくしかないのです。一緒になくとも、その人間の一番深いところを感覚として学んでいくイマジネーションがあるかないかです。

 

最初は見えないと思います。5年くらい、いないと見えないものです。もちろんそれでその人をわかろうなんていうのは、無茶な話です。その作品をわかればよいのです。

 

 

皆、アテンダンスをうまく書けるようになってきているのですが、逆にいうと、そのことばの中で終わりかねない。それが一番恐いですね。

作品のある世界では、何かが高まっていたり、内面的に宿っていたり、ことばに出るものでしょう。書きことばはそこで終わらないことです。

 

日本人が日本人らしくやっていたら、あまり歌がうまくならないということです。歌に限らず、表現ということです。特に音声で表現するもの、あるいは舞踏とかそういったものです。文化が違うというのも当然ありますね。

 

よくもらう手紙に「今の自分がよい」とかいうのがありますが、「自分を知りなさい」ということです。私はスポーツもやって体を強くした。でも、きっと並のサラリーマンよりも弱いところもある。そのことを自分で知っているから、どう出せばよいかわかる。どういうふうに他の仕事をつなげていけばよいか、ということは体が覚えている。

 

 

頭の中ではできないですね。自分の中の弱点をきちんと認めた上で、自分自身であってよいということであって、逃げて、それでよいというのはそこからどこにもいかないのですね。

だから、ああいうことばを真に受けてはダメですよ。

 

どん底で死にたいと思ったときに原点に戻るのはよいのだけど、原点にいるということは、原点でしかないわけです。現実の問題というのは、現実に破っていかない以上、解決しないわけです。声の問題は声で破るしかない。トレーニングの場合はトレーニングで乗り越えるしかない。どこかにお参りしたらよい、とかいうことではない。

 

それが効くのは一流になった人がスランプになったり、前に確実に取り出せるようになったことが何かのきっかけで見つからないときです。自分の考え方の枠とか、トレーニングそのものの中で完全に回ってしまって、外に見えなくなったときに、一回全部切る。それを本能的にやっていたら、トレーニングを一ヶ月休んでしまうとか、歌なんか一回離れてしまえ、というのもトレーニングで大切な意味をもつ。それをだらだら声を出していることで何かなっていくと思っていると、感覚の方が鈍ります。

 

 

私は1年半から伸びなくなる人がいるのは、体を少し意識して使って、結構声も出るようになり、歌ということも、いろいろなことを聞いて、その印象が入っている。それがわけがわからないなりに出てくる。そのときは勘があるのです。やりたかったこと、ブレスヴォイスでやっていること、世界でやっていること、なにかそれが一致するというような時期があります。その後、その勘を保つということに甘くなるからです。

 

歌が崩れているときというのは、何をやってもダメですね。ボーリングやってもダメ。バッティングセンターに行っても空振り。歌が乱れているのではなくて、心と体がバラバラなのです。のどなんか、特にやればやるほど悪い状態になります。練習やらないと恐いから、練習やるわけですけど、もっと悪くなる。先生が全部止めろ、というけど、そこで止まったら、恐いんですね。でもそれを止めてもよい、という判断ができるようになるのは、かなりたってからです。

 

最初は迷ったら、やればよい、という体育会系的な考えでよい。それは考えるとものすごい無駄で、体を使うことでやった気になっている、あるいは、アテンダンスシートのように、自分で日記を書き付けたり、反省することだけでやった気になる、それを客観的にコントロールして自分に結びつけていくというのが大切です。皆にとってみたら、ここではまだお客さんで、招待されて歌ったというのにすぎないかもしれないですが、日常のドラマと同時進行で、一挙一動にそういうものが流れている。そういう意味ではとても厳しいですね。

 

 

私がいつも思うのは、自分が歌っている歌の世界まで自分が大きくなっていないとイメージも大きくなっていかない。もう一度、自分が歌った歌が本当に何を伝えたくて、歌われているのか、というその歌の意味、それからことば、それをきちんとつかむことです。せっかく一回やったことですからね。そうしたら、一つひとつの中に留まっていって、何かをつかんで出していくという作業をやることです。

 

全部組み立てられています。音でも同じです。ことばや、歌というのはそれを音でやらなければいけない。音でもそうです。音楽や歌というのはそれを音でやらなければいけない。ことばでもよいです。詩を読んで、ことばもわかる。

 

本当に自分のものとして歌うのであれば、自分にしかできない解釈をし、他の歌い手がそれを歌ったときのそんなものが吹っ飛んでしまうくらいの何かを、その歌に与えてこないと、代わりに歌うよ、といわれかねない。作者の作ったものに新しい命を吹き込まなければいけない。歌自体に古いも新しいもないわけです。歌っている人間の感覚のところにそれを生かせる力があるかどうかです。

 

 

教えられてはいけないというのは、その大きな力を受け取って繰り返すのが目的になっている場合が多いからです。昔の歌を昔それを聞いた人にそんなことをしていたって、なにも拓けないですね。

材料として使う場合は、人類の残ったものを全部やっていけばよいのです。

 

研究所も客を作るために、敵も作らなければいけないし、いろいろなものがないとダメなのですよ。この研究所が嫌で、福島がいっていることが不快でもそれでよいのですよ。それを歌でやる。私がいっていることが全部理にかなっていて、本当に大好き、ということになれば何もいらないですね。

 

いつでも研究所をけ飛ばして出てもらってよいと思う。その人間が声や歌のことを本当にやれていれば、5年、10年経ったって、接点はすぐとれます。お互いにやっている作品でとればよいわけです。その世界にいなくなること、これもダメではないです。

でもせっかくのぞきに来たのなら、そこのところをきちんと掘ることです。のぞこうと思ったのなら一度腰を据える。そこに足をつけて掘らない限り、他のところを掘ってみたって、ダメですね。

別に研究所のドアの中や外ということではないのです。むしろ自分の足元を掘っているところで、研究所の利用方法もあるということです。

 

 

最近、心配しているのはわかったつもりになってやめてしまう人です。

わからなくてもやめられるのは私たちもよいのです。でもわかったつもりになられてしまうと、困るのです。こんなもんだから、一人でできます、とかね。

 

それは本を読んでわかったレベルのわかっている、ということです。

人間のことを知っていたら、あんなもので何かが伝わるとは思わないですね。

もちろんその一言か、二言で、底のところまで見える人はいると思いますが、わからないことはたくさんあるはずです。できていないのですから。

 

だから本質的なものを見るということをきちんとやっていくことがものすごく大切です。普通の仕事と同じです。こういう世界は速く、安く、たくさんできたら、ある程度成り立ちますね。だからこそその後にきつくやっていかなければいけない。自分が経験をし、いろいろなところで見てきたかどうかということですね。

 

 

あの程度しか研究所ではできていない。まさにそうです。そういうのを自分がスタッフの立場だったらどうするか考えてみましょう、ということを時間をかけてではなく、同じ感覚の中でやらなくてはいけない。トレーナーやスタッフは、合宿で与えられた曲を一時間くらいで覚えて歌う。

 

彼は別のリハーサルが入っているにも関わらず、今日ヒョイと来て、歌う。それで違うわけです。

皆の場合は、準備もできる。前もって与えられている。自分で出すことも変えられる。でもプロの世界では、それでもしできませんということであればもう出られませんね。

 

このあいだ、“ディレクTV”というテレビの方にいってきました。そこにパッとおかれたときに、自分に要請されていることは何か、それをどう与えなければいけないかということを瞬時につかんでそこを踏まえ期待以上に返す、だからプロなのです。

 

 

そういうものは日頃のものの考え方とか、見方ということからしか出てきません。

うち自体、そういう力はないのですが、あれをたたき台に、自分がみてきたものというのは本当で、感動したものにはこういう要素があった。では、あそこに欠けているのは何なんだ。ここは誰が動かしているかが見えてよいですね。大きなステージやミュージカルなんかはたくさんの人が関わり、お金が凄くかかっていて、誰が動かしているのかが素人には見えないわけです。

 

ジャズなんかを銀座や新宿で見て、私もお金がなかったですけど。なけなしの身銭を切っていくそういうときに一番勉強になったのは、ときどきマイクをはずして歌うときがあるのですね。生の声を聞いて、その一瞬にああ、こういう感じにコントロールしているのだ、といういろいろなことがわかるわけです。そういう意味でで、そのときの環境をおいておきたい、というのが研究所の根本的な考え方です。今は失われてきていて、皆がなかなか接することのできない環境です。

 

自分ができて、マイクがきて、ピアニストがきて、それでバンドが入って、それで好きなところに行く。そのプロセスを味わう時間を充分にとることです。さっさと認められて、オーディションを通ってしまって、実質、あなたをマイナスワンでピアニストやバンドの演奏で成り立ってしまった、といったら、それこそ悲劇です。

 

 

一人でいる時間を大切にしてください。仲間とつるんでぐちを言っては無駄です。全員が同じ環境です。同じ時間の使い方が全てを決めていきます。決して長くはないです。10年というのはあっというまです。じっくり歩めているうちにいろいろなものを吸収して下さい。そういう機会として研究所も使って、自分たちの活動もやってください。

 

こういう契機に何をやるかということです。本当にやりたければ、パーティなど行く必要もないのです。人前に対して何を働きかけられるか、そこで、どういう働きかけが行われているか、ということを学ばないとダメです。それが伝えることだし、与えることです。技術というのは後でついてきてよいのです。

これには時間がかかる。だからこそ考え方がものすごく大切だと思います。

もちろん私がいっている考え方というのは、会報や出版物にあるものも、一般の人に必ずしも通用する考え方ではない。人前に立ってやっていく立場の考え方で、そうではない考え方も世の中にいろいろあります。それを比べても仕方ない。それは自分が自分でやっていけばよい。

 

元気のないときは人前に出るとよいと思います。

自分一人でやっていると、やはり落ち込みます。

だからいろいろなところへ出掛けるのです。イベントや映画を見たりして、こんなに頑張っている奴がいるんだということで刺激を受けましょう。

 

 

 

 

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【一、二部感想】

 

とても楽しくできました。最初は緊張したのですがよかったと思います。もっと、お客さんと出ている人が絡むようにする方が、せっかくのライブだからよかったと思います。もう少しなごんだらせっかくのライブがライブらしくなるのではないか、と思いました。

 

今年初めてここのステージに立って歌うことが嬉しいと思いました。去年も出させていただきましたが、出させていただける幸せをものすごく感じました。来年また出られるように、この後の一年が自分にとってあるか、ということを考えました。

 

私も客として見ていたのでわかるのですが、一番前の人とか恐いですね。乗り出してメモをとっている人とかいます。自分がステージに立ったときとか、想像して、もっと歌う側の気持ちになって勉強する方がよいと思いました。

 

音響は確かにリハのときと本番のときとでは違いました。本番のときは、エコーが自分の前にきているような気がしました。クラシックのコンサートでは、客席に幕なんかをかぶせて疑似客のようなものをつくってやっています。

 

お客さんは優しかったですね。最後でお客さんは温まっていましたから、何を言っても笑ってくれるのでいつまでも喋り続けたくなりました。もっと厳しく見てくれてもよいのではないかと思いました。でも、おかしかったということはなかったのでよいのではないか、と思います。あとは自分の練習をやるしかないと思います。来年はもっとよくなるようにしたいです。

 

マイクを持ったとき、リボンがついていてどうしようかな、と思いました。皆を見ていて思ったのは、振りというか、その人その人の個性が出ていて、楽しく見ていました。

 

進行などはよく考えられていると思いましたが、そこに乗っかってしまっただけ、という感じになり、申し訳なく思いました。贅沢を言えば、少し声を出せる空間が直前に欲しかったです。

 

音響は、リハのときは気にかけていなかったのですが、本番のときは今まで何回かやった中で一番よかったです。、隅の方でふんぞりかえっている人がいて、一曲目でその人をピンとさせてやると思ったのですが、笑いをとろうとしても変わりませんでした。

 

自分が思っていないよりスピーカーから声が出ていないせいだと思うのですが、モニターのかえりが凄くて、モニタとピアノがハウっている音がサビのところで厳しいところがありました。他は何も考えずにやれたので、きっとうまくやっていただいたのではないかと思います。

 

案の定、計画していたことはダメになりましたが、お客さんの顔や呼吸を見ながら歌えるような雰囲気に皆さんがしてくださったので、経験したことのない空間で歌うことができてよかったと思います。皆さんのステージは、お世辞でも何でもなく、待っているあいだ「ヤバイ」と思いました。人それぞれのテンションの出し方があって、それもおもしろかったです。

 

暴れたかったのですが、空間が狭かったです。それから、私はピアニストの方とバンドを組んでいるつもりでやっているのですが、バンドとの練習時間が少なかったと思います。

 

音響に関しては、本番の方がかえりがよかったので、後は余計なことを気にせずに歌えたので有り難うございました。空気を変えようと思ったら逆に緊張してしまい、今日はテンションが高かったのに、1コーラス目に入り込めず、やっと入ったら終わってしまった、という感じでした。その辺の自分の気持ちのもっていき方を反省しました。

 

自分に関しては、どういうときに嘘をやってしまうかというのがよくわかりました。すごく勉強になりました。幻かもしれないのですが、ピアノを弾いていたとき、ラジカセのような音がずっと鳴っていたのですが…。音響に関してはリハのときはリハなりに、本番のときは本番なりにいろいろな状況があります。自分ではいつもその状況を受け入れてそれなりのところでやれたらよいな、と思うのです。

 

何も事故がなかったし、何も問題がなかったです。他の人のはすごく楽しみました。最初の人はリハのときもみていたのですが、一番元気に弾けていたし、皆さんそれぞれ本番に向けて山を持ってきたんだということが勉強になりました。

 

 

 

 

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ステージ実習コメント

 

今日は前座に35人、出て、その反省会をしました。今日の客のほとんど、前座のメンバーです。マイクをつけて、ピアノなしでやった人たちのなかで、いくつかいつものように作品が出る。

残りはステージ実習やライブ実習と同じくらいです。

それなりに用意した人もいた。それからみると、客は甘かったです。最初から場ができているのです。そこにからんでみても、仕方ないわけです。この場合、からむ、というのはウソをやればよいわけですから。ここではどっちをやればよいかという話です。

 

研究所というのは外向けのライブではありません。一般受けしません。そこでもう一回踏み込まなければいけないのです。それができないとダメです。月一回出すというのは大切なことです。

どこにスタンスを置くかです。今日はクリスマスライブに落としました。

ただ、客とからむということを求められると、この場ではスペースも狭くて、限定されている。自分の歌の中のある部分の真実味を掘る、ということには向いているかもしれないのですが、それ以外の全ての条件がからむ、ということには向いていない。

 

直前で、3人のライブでそれをノリやすい形にして、みせました。ここでやりやすくするには、客の協力が必要になる。その協力をお願いするのか、ぶつけるのか、作品や人で問うのか、というのは、難しいことです。

 

 

歌や声というのは失敗することがありますが、人間の場合は失敗しない。人間そのものは問えないから、その見せ方をどう問うかということになったとき、私も今日は甘くしたし、客も甘かった。

でも歌ということと、和やかであることは全く関係ないです。

それを他の人に聞かせてみても、何も伝わらなくなる。

 

なごやかさというのは気分ですから、ライブ全体として、盛り上げるための構成はとっても、与えられた空間の中で、のど自慢や打ちあげのカラオケになってはいけない。

自分がライブで5~10曲やるときの一番核心の部分をためすことまでしかできない。

あそこで拍手がものすごく多かったとか、空気をガラッと変えられたからということは、歌や声の力とは厳密には違うんです。何もできないよりはよいのですが…。

 

歌い手にとって有利な選曲、不利な選曲、また音響によっても、有利になった人、不利になった人というのが実際の力の差よりも大きかったような気がします。

期待通りというか、今日来た人は、それなりに楽しんだと思います。でもそれは内輪のもので、一般の人はもっと厳しいです。全体のライブではそこで動きが止まるようなものがあれば不利になってきますね。それは運営側の問題でもあると思います。どの線で、どのスタンスでライブを定義づけてみせるかということまではやっていないのです。

 

 

ピアニストやバンドも、練り込むことは必要であっても、その場の感覚でやるしかない。それも曲によります。そこまで考えるのであれば、そうならない曲を選ぶしかない。ピアニストに左右されない曲を。でもピアニストとやっていくことになったり、ギタリストがいないと私の歌が成り立ちませんということになると、研究所のライブは成り立たなくなります。

 

私はいつもこのギタリストとやっているから、このギタリストと感性を出して勝負しているんだ、ということになると、この研究所にそのギタリストをいつも連れてこなくてはいけなくなる。それを皆がやり出してくると収拾がつかなくなります。

 

ある意味でライブとはすごく限定されている場で、全てのことはできないから、その中で自分の中で何を今回目的にして、何をつかんだのか、ということです。私たちが出演順とか、何をやってもらうかということを考えるときも、大変です。ウソをやった方が受けるからです。

客もわくし、楽しんで発散してもらえる。本質的なことをつきつけたり、新しい物やその人の本物を歌ったら、黙り込ませたり、圧迫を加えたりすることにもなるかもしれない。

本当のことでいうと、それをやった上で解放がそこまでつきつけられたか、という問題です。その中で明るい曲やにこやかな曲があると、全体が黙っててものまれる。

 

 

このような実験的なライブでは、その日、その時、客にどんな人がいるかということによってもわかってくるものです。ライブハウスの感覚をここに持ってくることは難しいです。あの限定の中でやるしかない。それでも伝わればよいといっても、音だけはまわってくるから、それはそれで考えてください。

ただそういう人がいることや、リハの時間などもっとあった方がよい、というのはこちらの方でも考えます。

 

ロックをやっている人は自分のところのギタリストを連れて来たいという要望が強いのですね。

しかし、人数や進行上、ピアニストに代わってもらうわけにはいかないし、それは申しわけないのですが、ある部分の限定の中で、違うものをつかみに来てもらうしかない。

結局、自分のライブというのは、自分で組み立てないといけないんです。

それに対して、ここをどう置くかということです。ここで完全なライブをするというのは難しいでしょう。このあいだの三人でやってみても、最初から限定がかかる。そのなかでどこまでやれるかを問うのです。

 

見せ方の部分と本当の部分がありますが、研究所では、本当の部分である程度使ってもらって、見せ方のところは他のところで応用してもらった方がよいと思います。

客が甘いのはよくない、声なんて声を大きく出したら受けるのです。何も聞いていない。

マヒしているわけです。自分たちの仕事が終わって楽しみに来ているのですから、それはそれでよいとも思います。

しかし、ここの皆の場合、もっと客観的に聞いていた人もいたと思います。それも度を過ぎると問題ですが。