一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント  15586字  814

ステージ実習コメント

 

【ステージ実習②③】

 

 

①や入門科の人たちは、いろいろなことをいえたら、もつのです。

実際日常で生活していて、いいたいことをまとめていうのと表現とはそんなに遠く離れたことではないんです。

難しいのは日本語は文章で書くスタイルと、音声でやるものが一致しない。日本語にパブリックスピーキングがないわけです。私が原稿をきちんと書いても、それを読んだが最後で、文章を書いたところでの表現力はなくなってくるのです。

 

私のスタイルとしては、メモはするけれども、項目として忘れないようにするくらいで、あとは何も見ないでやるわけです。そうしないと働きかけない。これが日本語です。

 

日本で我々が暮らしていて、そういうことに不慣れなのはあたりまえです。となると問題がやはり、取り組みのことになってしまうわけです。要は高校生のときに友達をつくるときにやるような音声コミュニケーションレベルのことをやっていたら、ずっと変わらないということです。この中でもそうです。最初はいろいろな決意を秘めてやるのですが、そこでエネルギーを消耗してしまうのか、案外半年もたない人が多いのです。

 

 

ステージが場違いのように思う人も多くて、楽しんでくれる人たちの中で歌いたいという人もいるのです。それはそれでやればよいのですが、ステージはシビアです。僕らがやっていても、力がある人がやってもシーンとしている。ステージは自分で熱を加えないと返ってこないわけで、最初から反応が返ってくるのはTV番組くらいのものです。そこを間違えている人は、どこの世界でも通用しません。外の世界も厳しいものです。一番厳しいのは外国ですが、さっきのようなことが繰り返されていたら、途中でほとんどの人がいなくなります。

 

できていることと、できていないことを今は見分けてもらえばよいのです。すごいことができたらよいのですが、急いでも仕方ないですからね。

最初に大切なのは、モノトークであれ、歌であれ、人前で何かをするということが前提にあるわけです。そのときに、カラオケや友だちの前では歌えるのに、ここではダメだ、というのではいけないのです。

ここも人前、ということでは同じです。人前で何かするための条件というのはたくさんあるわけです。日本人にとっては、人前で何かをするということが少ないので、そこから勉強していかなければいけないのかもしれません。その辺は舞台関係の人にお手伝いしていただこうと思っています。

 

その次に声とか、音を使う。このとき、音楽を使うのが歌い手であり、ミュージシャンである、ということです。2ステップある。歌い手は体が楽器ですから、あがってしまったら楽器の調子も悪くなってしまうかもしれません。それではいけません。舞台を知るためにこういう場を利用してください。

月一回では少ないのです。自分のイマジネーションで常にそこにいるという状態を作ることです。練習に関しても同じです。皆の中にいても一人です。10人で練習していても、そのうち9人はいなくなってしまう人たちです。だから、同じレベルのことを同じ意識でやっていても仕方ないです。

 

 

そのくらい厳しくやってください。人前に立つときには準備することです。プロもアマチュアもないのです。プロは準備する時間もないわけです。いろいろな事情が入り込んでくるから本当にないのです。それでも徹夜してでも、3カ月後のことを準備する。それはどうしてかというと、自分を待っている人がいるわけです。それを裏切ったらいけないでしょう。

 

ここの研究所に、2、3カ月は好きで来ているわけですけれど、半年くらいして、したいことがやれなくなってくると、たいてい嫌いになってきます。

それは自分が決めることです。将来に対し、自分の表現ができていくことでその場が好きになっていくものです。まずそれを出せることをやらないとダメです。

 

初心表明でいったことをきちんと守りきれる人が少ない。自分のいったことを自分で裏切っていくわけですから、他人は助けようがないのです。ほとんどそうですよ。学べるか、学べないか、ということですね。

 

今日のモノトークでも、やらされている感です。

皆がお金を払っているので、見ますけれど、次は見ないですよ。

 

それが消えるようにするためには、力がなかったら、力がある人よりやってこなくてはダメです。力がある人はいつももっとやっています。普通の世界ではあたりまえのことが、ヴォーカルや音楽になるといい加減になるようです。ステージでうまくしゃべれなくても、ヴォーカルだから歌えばよいのではないか、といいますが、それなら歌ってみればよいということです。

 

客というのは一瞬は好意的に見てくれます。でも、次の瞬間、敵か味方かに分かれますね。当然のことながら、ステージをやるときは、全部味方にしていかなければないけないのです。しかし、それは好感を持ってもらって、たくさんの拍手をもらえばよいということではないです。自分の表現を突きつけたときに、きちんと集中してもらえることです。そこまでのことを出力していかないと、味方にも敵にもならないうちに終わってしまう。

 

 

私たちがいつもいっているのは、本当にあなたはこんなのでいいの?ということです。それを思わせてしまうとダメですね。力がないからではなく、全力を出さずこんなものなのか、と思わせてしまうからです。それは、手抜きです。あらゆる可能性を考えてみて、全力でやってきて、それで精一杯やったものに関しては素人の芸だってうけるのですよ。

 

プロが難しいのは、それを一時間も二時間もやって、また客を呼ばなければいけないからです。どんな人間だって、20歳以上生きてきたんだったら、死ぬ気でやったら、それくらいできます。それをどこかの地点に皆置いてしまうんです。2年後にできればよいだろうと。

 

でも、今できないことは、2年後にできないのですよ。意識の違いだからです。考え方や方向性の違いなんです。時間や空間をきちんと変えていくことが、表現したりする世界で必要なことです。テンションの高さも必要です。自分自身が熱くなっていないと伝わりませんよ。どんなに間違えても、思ったことができなくてもよいのです。それは、課題に残りますから。

 

 

この研究所にもノウハウはあると思いますが、ノウハウをきちんと使うためには、まず自分がやれるだけのことを全部やって、それでやれないんだ、というところからスタートしないと始まりません。ここじゃなくて、その辺のスクールでやれるレベルか、そこまでも上達しない場合があります。他のところだって、チェックします。一週間でこれだけできたとかね。

 

ここでは、来週までにここまでやってきなさい、とかいいません。だって、自分がやりたい世界です。それをやらなくたって力が付けばよいのだし、それをやったって力がつかなきゃダメなんです。でも、その時期その時期の取り組みを見ていったら、本人のためにやっているわけですから、区切りも必要になると思います。誰に認められるかというのが大切なので、私が友だちを連れて来たいと思うようなステージも何十回も見ています。それが年に2、3回出ればよいと思っています。だから、もっともっとできることがあるはずです。

 

そうしないとおもしろくないと思うのです。プロの世界からいうと、やるだけやっていたらおもしろくなります。おもしろくならなかったら、そのことをやめているでしょう。やるだけやって、何か宿ってきたら、見てくれ、という方向にいくでしょう。そうしたら表現する。まず準備することです。そこで力を付けておかないと、昔、力があって、その余力でここをやれる人ならよいのですが、多分そういう人はほとんどいないと思います。やれた人というのは準備のときに力をつけている。それしかないわけです。

 

 

準備してこないのはこないでよいのです。そうしたらここで相当その瞬間に集中しなければいけない。でも準備しないと不安です。客との違いは準備にしかないからです。歌は、やる前になるともう10倍くらいやっておけばよかった、と思いますね。それですでに負けてしまうわけです。他の人間ができないところまでできてあたりまえで、そういう人たちしかやっていけない。私たちも助けることはできないです。

 

話の段階では聞いていてまだわかると思いますが、歌に入ってくると大嘘になってきます。そういうものに対して乗せていくとか、きちんとしたものを捉えないまま、歌え上げていくことで、わからなくなってくるのです。それは常に原点にもどることです。歌の力や表現力や音声のことがわかってきていたら、モノトークのステージも、同じように力が付いてくるはずです。

 

歌も、朗読も同じですが、難しいのは声とか、ことばを伝えているわけではなくて、その裏にあるものを伝えているものだからです。そこに歌い手がイマジネーションを練り込んでこなければ、あるいは、その世界を出そうとする意図がなければ、お客さんはそれを感知できません。そこを勉強しなくてはいけません。覚えて、それをいったらよいということではありません。その後ろにあるものが伝わるか、伝わらないか、それは複雑なことではなくて、その瞬間に時間や空間がどう変わるか、音がどういうふうに聞こえてくるかということですね。

 

 

だから、もっと集中してやるべきです。今日だけでなく、日頃の練習でもそうです。長時間やることも、たくさんやることも必要なのですが、実際には一つの音に対して、どのくらいのテンションで、どのくらいきめ細やかに全身を使って扱えるか、ということが基本のトレーニングです。

常に、今ということを忘れないこと。研究所にいればそのうちうまく歌えるようになると思っている人もいるようですが、本人が捉えたつもりでも、歌うと、離れていっちゃうんですよ。それは、ものにしていないからです。それを離さないためにどのくらい努力するのか。ピアニストがつくだけでぶっとんでしまいます。全部、他の世界に引っ張られてしまいますからね。

 

それから、他の人の歌やことばで勉強になることはたくさんあると思います。一回、一回が勝負だと思います。やれないことはやれといいません。このように文句を言うのは、できることをやらないからです。それは自分との勝負です。ダメだったらダメなりに、心、力がある人と1しか力のない人ではここの評価基準というのは違います。10ある人が9で出したら私は全然ダメだといいます。研究所の意味がないでしょう。それなら、外でやっていればよいですから。最低10でも11出さなくてはいけない。1の力の人に、10出ることは期待しないわけです。でも1の力しかない人間が1をきちんと出したら、説得力があるのです。もっとできるはずなのに、と思わせる、ということです。

 

ひどい場合は、ステージってこの程度でやっていたら通用するのではないかと思い始めることです。研究所はどうなってもよいのですが、私が守っているにも関わらず皆が皆で勝手に自分がダメになってしまう。どこでもそうですね。教えに来る人はプロできちんとしていても、場がそういうふうになってしまってたら、仕方ないのですね。ここもそういうことはあります。私も初回からこういうことはいいたくないのですが、皆にとって不利益だから言うのです。

 

 

ここの評価というのは、優秀であることは、去年やったことよりできていくことです。自分に対する勝負です。それから、自分の中で100の力があるのなら、100の力を出し切らなくてはいけないし、それからしか次に行けないのですよ。ほとんどの人がちょっとがんばったら死ぬ気になってしまう。人間の力というのはそんなものではないです。また、そういうものは伝わらない。それが音楽、バンドやプロのメンバーを周りに置くことによって曇ってしまいます。

 

だから、今日のように何もないところでやるとわかりやすいですね。そこで2年後に同じことを与えられたときに、2分か3分話して、その人の歌を聞きたいと思わせるようなことをするのに、どうすればよいのか。何も外国に通じるように、などということはいいませんが、日本のステージなんて、ほとんどMCです。トークでつないで、惹きつけて、そのあいだに歌が入っているという感じです。

 

それはそれで、日本の場合は必要な力です。ステージとしての形です。お客さんとコミュニケーションしなければいけないのですから、ことばでの語りかけなどの方面を目指す人はNHKが好むようなヴォーカルがどんな力を持っているのか考えてみればよいかもしれませんね。これはどんなお客さんが来ようが、ある程度必要な要素ですね。それがダメなために、歌に対するひきつけが半減している場合もあるので、人並みにできている方がよいとは思います。

 

 

私が理想とするのは、どんな格好していようが、顔であろうが、働きかける音声の力の方を期待したいのですが、ステージに来るお客さんは、それだけ音の世界に敏感な人たちばかりでもない。あるいはそれを越えたレベルでの表現ができていない限り、そういうことがなかなかわからないのです。だからあえてマイナスのものはあまり持たない方がよいという感じがします。

 

課題ということにしたって、やらされているという意識をなるべく抜くことです。ここを使いきってください、というのはそういうことです。

ここで一つのことが出されたら、それに対し10、100の反応ができるか、できないか。他の人は一つに対し、1の反応しかできないところで、そうしていくことが学び方ですし、それがその人の可能性です。

どうしても日本人はまわりを見て、やってなかったら自分もやらない。

 

研究所はそんなレベルの高いところではありません。ここの平均点をとっていたら、世界に出られるなんて、とんでもないことです。この研究所のルールを知って、そういうものを厳しく勉強している人たちもいるので、他のところよりは自分の表現を作るために足りないものがあることがわかりやすくなっているでしょう。あとはやっていく音楽の傾向によっては、もっと違う素質でやっていけることもあります。そういうものを見極めて、2年で1つの区切りをつけてみたらどうかということです。

 

 

次から、歌や朗読が入ります。人の作品を読んでいるのではなくて、それに自分がどういうイメージを持ったか、それを通じて、何を表現したいのかを問うてください。何がやりたいのかというのは難しいですね。そんなに、表現したいものがあるわけでもない。そういう状態において、自分の武器というのは何か。どれでもとれそうに思える。でも一つを選んで徹底してやらないといけない。一つ選ぶということは、他のものを捨てるということなのですが、皆捨てないからダメなのですね。

 

一つのことをとれば、人間悲しいことも起きれば、ドラマティックにならざるを得ないです。普通の人たちというのは、そのバランスを考えて、人間関係を優先したりして、差し障りなく生きていく。それはそれで大変なことです。そこでどういうふうに生きていくかというのは個々の問題ですから。

だから研究所を、好きになったり、はまったりしなくて結構です。

 

こんなところは、日本にはあまりないだけで、他のところへ行くと、カスのようなものです。ただ、そこにいる人間は一人ひとり可能性を持っていますから、それは福島や、先輩がいるとか、そういうことだけではないのです。そこに来る人がどう使うか。その人間が使いきって、そこでより大きな力を発揮してもらえば一番有り難いです。

 

 

ここの模範的な研究生というのは、問われる舞台が与えられたとき、ここにいるメンバーを全て客にしてしまう。こいつを観れたから、今日はモトがとれた、と他の人に思わせることです。どうしたらやれるかなんて、考える必要はないです。何をどうするかということです。

 

いろいろなやり方がありますが、結局やめていく人というのは、自分の眼を開けず何かが見つからなかった人と、どうやるか、というところで踏み込めなかった人です。それでダメだということではありません。声や、歌のことをやれなんて、誰も決めつけていませんからね。自分が楽しいことをやるわけですから、ステージを楽しくするために、どうすればよいのかを考えればよいですね。本人が楽しければ、1、2曲くらいは周りも楽しくなります。

 

大変なのは2曲から後です。はやく1曲、3分間のレベルを越えてみて下さい。やり終えた後、自分が何をやり終えたか、一ヶ月後に何をつけたらよいか、そして毎日そのために何を勉強すればよいかということです。半年、一年たつと、細かいことをいいませんので、そこからは一番来ている人を見て、それよりできればよいではないかということになり、比較的簡単になってきます。

 

 

 

 

 

【ステージ実習①】

 

今年から、課題曲に加え、自由曲を選択できるようにしました。比較しにくくなったかもしれませんが、逆にいえば、どちらか選べるわけですから、今までよりは自分のセンスや個性が生かせるのではないかと思ってみていました

歌う人たちは私のコメントに左右されることなく歌ってよいのです。

 

この曲に関してはある程度のテンションと、外国人に近いレベルの踏み込みが必要な曲です。この世界を出すとき、あまりに鈍いと、できないような気がします。結局、当人がどう受け止めてきて、何を表現したいかですね。それが皆になかったのが残念です。

その人の中にどんな世界があるかということを曲を通じて出していってほしいし、そこを見つめてもらえればよいのではないかと思います。ステージ実習というのは、可能性を見る場なので、作品としての完成度よりはそれが見えなくなってくると、厳しいものがあります。

 

きちんと入れていないものは出ない。出ないのは仕方ないのですが、それをわかっていくことです。何を入れていかなければいけないのかです。それから自己アピールの場なので徐々にトータルで自分をどう見せればよいかを知ることです。長くやれば人の印象に残るわけではありません。

 

 

一番よいところだけを切り取って出すのです。そのことで完成度のある作品を生み出す。なぜ、歌い手が2番、3番まで歌うからというと、聞き手が聞きたいからです。

なぜプロの人たちでも2番、3番でやめてしまうのかというのは、それで限度なのです。

 

その作品とその人間の接点においてです。伝えるのにそれだけの長さが必要だから決まっていくわけです。自分のイメージを下げてまで、全部歌いきる必要はないという判断をしていって欲しい。せっかくよいものが出ていても、それが曇っていくところまでやる必要はない。

 

舞台ですから、正直に出すよりも実力があるように見せなくてはいけないのです。苦手な分野や、やりにくいところまで全部披露することはないのです。どうも勘違いしているような気がします。自分の全てではなく、一番よいところだけ接点を見つけていって、絞り込むべきだと思います。曲も当然そういう選曲であればよい。無駄が多すぎるような気がします。その人の考えや煮詰め方の無駄であると同時に、判断力のなさを表わしてしまいます。

 

 

どのレベルでいえばよいのか、というのは、いつも難しいのですが、、例えるとストライクをボールに見せているような感じの無駄があります。計算でなれているところで、本人はより演出力が強まって、歌の世界がアピールできるとか思っているのでしょうが、それは通用しません。それからもう1・2歩踏み込むところがないというのは仕方のないことです。ただ、気づいていてもらえればよいのです。10に対して10出すことで、10の表現はできません。20出そうとして10残すということでしか10の表現はできない。その辺も感覚の問題なので難しいです。

 

それから、気持ちが離れているのは見えるわけです。最初の何行かはもっても、気持ちを全部つかんでおいて、この曲をやるのは難しいかもしれません。でも、できたら、それだけのテンションの高さでやる曲なので、最後まで握っている姿勢は見えて欲しかったような気がします。それから、大きくつかまなくてはダメです。やれないからといって小刻みにやっていって完成させたような人もいたし、そういうやり方もあるとは思いますが、よい方法ではないと思います。

 

20を10というのは、たとえばはみ出すときに、大きな流れで読んでおかないと、次のとき切り詰められないのです。伴奏が入っていませんから、そこで呼吸が甘くなってしまう。その結果、声も甘くなってしまう。なんか、根本的な勘違いです。

 

 

歌は広げていくのではなくて、凝縮していくわけです。意識の方向としては、まず絞り込むことです。絞り込んだものが聞いた人には広がって聞こえるというようなものです。音の動き、ことばの動き、表情の動き、いろいろなものがありますが、これを出そうとしたとき、音やことばだけにひっかかってもだめで、やはり、呼吸でやるしかないのですね。いつも体入れなさい、肉声でやりなさいといっています。

声や音ではこの勝負ができなくなってきます。

 

もっと単純にいうと、シンプルにならなければ間違いです。これだけのものを3分間で出すときには大きく捉えて、しかもシンプルに出さなくてはいけない。それに対して、スピードをつけていくには、やはりプロの体でなくてはいけないし、瞬間的に入ってなくてはいけないからトレーニングの課題として、プロの体を作ってきなさいといっているわけです。

 

難しかったのはわかりますが、作りすぎが目立ってしまったようです。だから、声として乗せていく、そして音の世界に持っていくということですから、浅い息の中でいくら作ってみても、バタバタしているだけで、一番感じさせたいものが感じられなくなります。

 

 

日本人は、半分くらいの音量で歌おうとか、息を少し混ぜようと考えると、半分見えるように出そうとしているみたいです。そうではなくて、そういうものを消していくというのは、確かにあるものをきちんと作ってから 消さなきゃダメです。あるものとして実線をきちんと作っておいて、半分消すのならよいのだけど、最初から点線でいこうと考えると、ダメでしょうね。

 

これだけ、音程が広いものになると、全体の動きより、そこでの引っかかりが見えてしまい、上に行かなくなってしまうわけです。音はあたっている場合はありますがだから、器用な人、うまくみえた人など危ないのですが、実際はブツブツと切れているわけです。

 

バイオリンでもピアノでもそうですが、伸びている音の感覚に身をまかせたところで変化がかかることに音の動きが現れるのです。力で伸ばせないのを、ことばでつなげていったところにエコーをかけてみても、一番体の中心のものが死んでしまいます。

 

 

個性的に歌えばよいのですが、その辺はもっと自分と対面してくる必要があるように思えます。個性の上に、その音を使っているように見えないと、他人の曲のままです。原曲の人とは違う世界をチラッとでも見せることが課題になってくると思います。

 

こういう歌になると、器用だった人はうまさとか、技術が出てくるのですが、出さないためにどうすればよいかを考えてみればよいですね。気持ちの上に技術が先に走っているのはよいわけです。結果としてうまいとか、部分的なところでうまさを感じさせられるのはよいのですが、それだけでひっぱっていくとダメです。

 

感覚がある人は自分に向いていると思ってやれてしまうのですが、そこに声や体を普通以上に使っておかないと自滅してしまいます。そういうのが多かったような気がします。情景と気持ちの動き、というようなものが見えなくなるのです。

 

 

当然ながら、最初から情景も、気持ちの動きも考えていないとか、感じていない人は番外です。全体的に日本の歌と、向こうの歌が半々くらいでしたが、両方とも同じです。本当は英語で歌うと拍がもっとはっきりしてくるはずなのです。ただそれが日本語の上に乗っている英語になると、発音がいくら正しくても踏み込めなくなるし、結果的に何をいっているのかはわかってもど、なぜ、英語の動きがそのリズムについているのかということがわからなくなっています。向こうの人にいわせれば英語をいっている中に、音をつけたらこうなったというだけのことでしょう。実に単純なことなんです。

 

このように、一見あらゆるテクニックがいりそうな歌ほど、最初からシンプルに保って最終的に完成するというふうに、練習していくことです。その中でいろいろなことが起きてきます。声が跳ね返ってきたり、動き出してきたりします。それを吸い上げていくのが練習です。

 

そうでなければ頭の中で計算してみてそのまま歌ってみたらその世界が出てくるということは、今のプロセスにおいてはあまりないはずです。自分が何回も歌っている中で出てくるものと、頭の計算は違ってくるはずです。頭の計算に合わないからダメなのではなくて、そこで起きていることをきちんと受け止められないのがよくないのです。こんなふうに動いておもしろいとか、自分が快感や不快感、生き生きするとかどうかといったことできちんと確かめてきた感覚で、曲の中のポイントを押さえていかないと、ただ歌いきることが目的になってしまい、勉強にならなくなります。

 

 

ここでの勉強は次への可能性をつなげていくことをやっていけばよいわけで、細かく完成させるがために、それが消えてしまうことをしないことです。完成品で問うなら、完全な完成品を出していかなくてはいけない。一生自分の作品として残ってもよいものをね。

そういうものは、歌い手はそれ程必要とされないのです。そのプロセスの中で動いてきた気持ちや、そこで生きてきたものを何であろうがヴィヴィッド感というものを感じさせてもらえればよいと思います。

 

あとは、慣れていない人は慣れてください。ステージ実習や授業で、「すみません」と謝るひとがいますが、その必要はありません。間違ったときに観客に気にさせるような甘えた流れをひっぱってきたことに対して頭を下げるべきです。間違うことは動きと同じで、出た後でもリカバーできます。そのことでよくなることさえあります。

 

そこで壊れてしまう人もいますが、そこで精神力や舞台に対する心がまえが必要になってきます。皆のレベルでいうと、間違いが10ヶ所おきても、命取りにはならないです。そのことも踏まえて、どこかを持たせればよい。一ヶ所だけでもね。

 

 

力では伸ばせないんのです。伸びているものの上に変化をつけていく。それがこういう曲との出会いのところで楽しめたり、よりよくなったりするというところだと思います。こういう曲に関してははまっていくと、出られなくなります。自分に対面してみて自分にできるところ、できるというより、どうやるか、という方向をきちんと決めた上で、処理していかなければいけないと思います。

 

ある意味では難しい曲だし、突き放してしまえば全く違うものとしてできてしまいます。やりにくい曲を課題として出されたとき、はまってしまって、どういうふうにやれば似てくるか、など考えても仕方ないです。それだけで既に負けています。絶対、相手のその土俵では勝てません。狙っているものも違うし、時代も違います。当時のポプコンは、歌唱力だけでなく、曲の作り、リズムなども、様々なのでおもしろいと思います。

 

いつもいっているように、その曲をレパートリーにしてくれといっているのではなくて、刺激が入ったときに自分がどう対応するかということをきちんと見て、その中で人前に出せそうなものを集めて、くみあげてきて、出してみる、というのが課題です。だからそれが多い部分をいろいろ変えていけばよいのです。でも変えるときには変える理由が必要です。要は自分の力をそこに入れてよりよくしてくるということです。そういうことです。では終わります。

 

 

 

 

 

【ステージ実習②】

 

 

簡単に総評しておきます。今回はあまり細かく見ないで聞きました。手加減なくいうと通じなくなってしまいます。自分の基準をどこにとるかというのはいつも難しいのです。

何人かでみていると、相談できますが、一人で見ると、その日の聞こえ方が違います。

今日の自分の状態がどこにあるのかということを設定して、いうことにしています。

 

皆さんはある一つの基準というのは、動かないだろうと思っているかもしれませんが、そんなことはないのです。前後のステージによっても影響を受けます。

あまりいうことはないです。よいことばでいうと、照明があまり冷たくなかった。

照明くらいは味方にして、なにかやれるようになったのか、という感じがしますね。

 

役者の劇団オーディションのレベルというところです。そのレベルの感じが残るのは珍しいですよ。だいたい、入門科や①の人はやらされているのが見えますからね。だからやっているな、という感じが見えた。練習や歌をやっているということではなく、やっているという感じがみえたのは、よいことです。

 

 

それから、私がポジティブになっているからかもしれませんが、可能性があるかないかわからないというような可能性が見えました。可能性がないわけではないのではないかというものが感じられたような気がします。音楽的にも歌的にも見ているのではないのです。

 

皆いつもは形をとるのですが、今回は形を捨てて、実をとったのかな、という気もします。今の音楽とか時代とかいうものを全然呼吸しないで自分勝手にやってしまうことがよいのか悪いのか、その判断は難しいと思います。

 

熱さとか、心が入っているというのは本来は前提なのですが、いつもはその前提が出ないで、中途半端に飾った音楽しか聞こえてこないのです。

なぜかなくなっていってしまうのです。それが原点で、最終点であるのです。

よかった、よくなかったというのは、それぞれ自分たちで判断して下さい。

来年にまた期待したいという印象です。

 

 

 

 

【ステージ実習③④】

 

前半・後半でだいぶ力の差があるので一概にいいにくいのですが、焦点がぼけている感じがします。

昔から④や上のクラスがそうなるのですが、結局、荒っぽい連中というのはわかりやすいというか、何をどう歌っているかが明確なのです。

何を、というのは自分しかないですから、自分を出してくる。どう歌っているのかというのは、どこに歌っているのかです。自分と客しかいないわけですから、単純に考えてみたら、自分の足元を見つめ、方向を客の方に伝えるということをやればよいのです。

 

スタイルや型ができてくると、長くやっている人に特有の甘さというのが出てくるのです。これは難しいものです。スタイルや形を作らないと、人前に出せるものにはなりにくいし、荒っぽいところだけだったらダメだから、うまく丸め込んだりするのです。同じネタをやり続ける人がいないのは飽きるのと同時に、その人間そのものの体や感覚が変わっていくから、一回壊さないと、音として中心に来ていたものが、今は中心に来ない場合が多いのです。

 

それに戻れるときもあるし、戻れないときは新しいものができていると考えるしかありません。当然そのあいだにいろいろなものを仕込んだり、いろいろな感覚を目覚めさせていかないといけません。技術が出てくると、その未完成ないやらしさの方が鼻についてくる。

 

 

勉強しているときも、安易になってしまい、他人のスタイルを借りたり、それにのっけたり自分のものに応用したりできるようになります。そのうち、自分と向き合うことがおろそかになるのです。3カ月かけてやっとできたものと、1週間でできたものは違います。3カ月かける必要はなくても、それだけの時間をかけると、いろいろとその中で起きてきます。

同じことが1週間の中でも起きているのがプロです。起きていないなら2週間、3週間かけてみないと形を見て、無難だからという方にミュージシャンや歌い手は行ってしまうのです。そして、そのうち勢いがなくなります。なにもレベルをわけて聞いているわけではないのです。全部に関して同じ視点に立ってみています。

 

 

今回のステージは、一体感がないのです。②の場合は、照明が味方していたという気がします。同じ照明を使って、その延長上に、客が味方をすることがあるのかな、ということです。皆の場合、独立した形をとっていて、彼らより完成に近い声を持っている。でも、声を持っていることが、音楽を制限することになっているという気がします。やはり、表現が持つべき何かを起こし、目覚めさせることです。

 

声の大きさやインパクトよりそれ以上のところのことで、焦点の問題だと思いますね。体の中心にきているものが観客の胸の中心にあたっていないというか、その辺のズレです。でも、あと5人か10人いて、こんなふうにやるとズレがあまり目立たなくなる。聞いているうちにこちらも慣れてしまうと思うのです。

 

荒っぽくて、角のある時期をもっと大切にしなければいけないということは、最近感じています。それが音楽的にどうこうというより、それが音楽になればよいではないかと思います。もっと人間っぽいものとか、生命力とか、そういうところから出てくる楽しさのようなもの。

そこが原点で、それをより観客に対して緻密に計算していくとか、それをより技術で見せていくとかいうことと、どこかで逆転してしまっているようです。

 

 

集中はするし、テンションは高いし、全員が全員そうではないのですが、一つにまとまっている、でも、だから、何なのという感じです。こっちが見ていて、それが出てしまったらいけないのです。終わり切れていない、とかそういうイメージが全体的にするのです。

 

だから、そこまでいっていない人は何か起こせばよいわけです。何も起こさないなら、まだ不快な方がよいといっているくらいです。客を刺激していくためにはインパクト、パワーは必要ですからね。これは課題曲によっても違ってくると思いますし、自分たちの自由曲の取り方によっても変わってくると思います。今日の問題というより、そんな気がします。

 

逆に焦点をピタッと捉えて、客と一方向に結ばないといけないかというと、四方八方にばらまいていても、ひきつける要素はあると思います。歌の中心や動かし方、音の世界、フレーズなど細かいところでのオリジナリティ性が欠けていて、そこの中心で動かしていかなければならないものが、まわりの方に起こっている。そこにポイントを捉えなければいけないところがそれをずらしたところで処理している。

 

 

課題曲が難しかったせいもあるでしょう。だから、それは練り込んでいて、結局できなくて、それをこの場で出したときにフッと逃げたというのであればよいのですが、最初からそれを狙ってしまうと、おかしくなっています。

 

プロセスを1から5のどこか2、3あたりを飛ばしているような気がします。最後のところをやっているから、何となく聞けるけど、何か違うのです。時間や回数ではない。それもあるのかもしれませんね。できる人は回数が少なくてもよいし、むしろ集中力とか、100回、1000回練習する中で、きちんとまとめてくればよいのですが、そのまとめ方のところでいいわけめいたものが出てしまう気がします。

 

全ての人が共鳴するわけではないのですが、その色を明らかにしていかないとダメです。ここは自由にやっていますが、やはり何らかの基準がある。しかし、その基準に合う客を集めたところで、そういうものをやっていくということだと劇団のようになっていきます。

 

出演回数の多い人の演技を出番のない人が見て、何か気づいて、上達していくというプロセスがある。それで同じ演技になるかというと、ならないわけです。だから、色を鮮明にした部分を一つ作っていこう、というのもあるし、自分たちの活動をやっている人たちは、ここの色に染まる必要もないのです。昔は、あまり色というものをつけたくなかった。しかし、外がパワーダウンしている。だったら、ここで、よりつかんで、つかんだがために動けなくなってもよいから、そういうところを一ヶ所持っておくことです。

 

 

ひとところで本当にやれたら、それはどこかで、いやどこでも通用するわけです。そういうことでいうと、もっと色濃くするものが必要という感じです。今の状態であれば福島一色にならないと思うのです。以前はそういう危険性があったのですが、それを排除してきたのは、私の貢献です。いろいろな色を加える人間を早目に④あたりに入れていけばよい。

 

1年目くらいで入ってくる優秀な人たちはわかっているようで、わかっていない人が多いのですね。その辺は調整していかなければならないし、逆に入ったばかりの人が3カ月くらいで、それなりにできなくてもないような気がしています。

 

年月かければよいということではない。でも年月かけた人は、それなりのものが出てきます。それが正面に出てくるか、カバーに回ってしまうか、というところが問題ですね。3年・5年なんて、キャリアのうちに入らない分野です。やはり、それを自分の中できちっと煮詰めて、それを作品にしていく。そういうことをやればよいと思います。

 

 

マイクをはずす、ということ自体でここの色になってしまうのですね。マイクをはずしてやるところに通用するものでなくてはならないと思います。逆にマイクをつけているところでは邪魔だったり、暑苦しすぎたりするようなものかもしれない。バンドや、踊りがついていると、もっとそぐわないかもしれない。マイクをはずすということは、今の音楽の中でやらなくなったというだけで、街頭であれ、合唱団でもマイクは使いません。劇団もそうです。そういうことでは人の心とそんなにずれているものではないと思います。

 

オリジナルなフレーズというのは、日本でなかなか聞けなくなってきたというだけに、ここに残したい、というのはあります。それは歌、あるいは音声表現の一つの基本的な表わし方です。だからことばでたたみかけていくというような歌い方があってもよいし、そういう歌い手もいるでしょうが、それも含めて、もっと研ぎ澄ませたところで、その人の節とか、線とかを鮮明にしていかなければいけない、人と似通うこと自体が嘘です。

 

こんな音の線や発声が許されるのか、というくらいのものが出てきてはじめておもしろくなると思います。