一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 13276字 817

 

 

レッスン感想   817

 

レッスン感想

 

 

 

いろいろな声、音が、自分の体でどう感じるか。純正律平均律の違い。レ♯とミ♭、また増2度と短3度の違いはあるのか、疑問に思ったことがあるが、純正律だと違うらしい。純正律だと、ほんの少し音の感覚が変わるだけなのに音と音とが共鳴している、音と音との間に波ができるみたいだった。私たちは耳だけで音を聞いているのではない。体にあたる位置が違う。そのことを発見した。手だったり、胸に鈍く響いたり、頭の上をかすめたり、左の頭(耳のあたり)を通り抜けたり。竹山の三味線の音は、頭の上半分に響いていた。

 

声は自然に出ていこうとする方向にもっていくべきで、無理に出そうとしてはいけないものだ。自分には表面的なものより感覚的なくせが抜け切れていないということが問題です。つまり全て10の力でやらないと気が済まないところです。自分の力をうまく配分してやることを覚えていかないとこれ以上の発展はないということも頭ではわかっている。でもそれが自分の感覚になってないからできないということで、その感覚のクセを直していかないといけない。自分のキーに合わせて歌おうとした時にその練習が甘いから音程をさぐるような歌い方になるというのもクセというか悪習としてなくさないといけない。正しくやろうと自分がしていてもそれをどこかで引っぱろうとしている自分もいる。だから音が下からもぐって出てくることになる。つまり声を離せないのだと思う。それもクセだ。もっと意識して自分のクセをなくしていきたい。

 

今までTapeに自分の声や歌を録音して聞いてこなかったわけではないが、今日は一晩中近く聞いてみた。何かをやりながら自分の声と思わなくなるまで聞き流したり、集中してバラバラにしようとしたりしながら。他人の声として聞けるようになったとき、この素人の歌はどうしていやらしいのか少しだけわかった気がした。(この“わかった気”がした時は一番間違いやすいのだけれど、せっかく“気”でも気がついたのだから書いておこう)声が少し最近楽になってきたこともあって、ムリやりクセで5~6mもの壁で塗り固めるような隠しだてをすることは以前より少なくなった。その壁が少しとれてくるに従い、骨に付いている肉と余分なぶよぶよの脂が見える。シンプルにやろうと、妙に感情移入しないようにやると、声を流すこと、ヴォイストレーニングでチェック用に流す声の流れを出すことで終わってしまう。音程もとりに行っている。声が一色の一本調子で流れる上にひからびたちりめんじゃこのように詞がパラパラのっているだけ。ああ日本人だなと思った(悪い意味での)。さて、いざ少しでも感情がはいったり、それを意図して音にしようとするとき私の音のライブラリ(人の書いた音)からがーっと自動的に(そのまんま)対応するものが、技術のごまかし/まねと共にやってくる。しかも体が同じじゃないのだから見苦しいばかりだ。言葉を丁寧に入れてゆこうとすれば体がしまっている。声が抑圧されてゆく。音楽にはならない。深さがとれない。大昔、ジルベールベコーやモンタン、アダモなどは“へっ”と思っていた。さらさら歌ってるだけじゃないか…と。さらさらのところしかみえないだけだ。私が。さらさらしかみえない人達にさえ聞かせてしまう声/音が動き出す音色。人前で人に聞かすもの→音程や思いを込めることや色をつけることというところは崩さないようにやっていた。込めたり、つけたりというのはたしかに練り込んでゆく中では全体にはずせない。(ふつうにやっていて何もしないでできないのだから作るしかない)ただステージの上では、想っていれば込められてしまう、音が動いてしまう、音色がひびきの中に生まれてしまうという状態で解放と集中が同じものとして行われなくてはだめだ。たぶんこういうこと、こういう方向性のもっと高度なもっともっと鋭く、微妙で保つことがウルトラE(最低限で)くらいの世界だと思う瞬間がある。そして人間の力と覚悟というところがはずせないというところが大変なのだ。腹の底から出す、ということは腹の底から出せるということだ。腹の底まで出せるということだ。よくもまあこんな大ウソがということもある世界だとしても、それにしたってそんな大ウソを腹の底から出すっていうことの根性のすわり具合を考えたら、どういうことかわかる。出してりゃいいってもんでもない。巨大迷路みたいだ。上から見ればばかみたいなのだろうな。でも上からみられるように(わかるように)なるためには何十もの迷路を自分で抜け出さないといけないんだ。少なくとも。、

 

感覚的な事は自分で実際できないとわからない。だからもっと自分の出した声・音に対して神経を鋭らせていなければならない。そして客観的でもある事。やってみたあとに納得がいかないのはどこがおかしかったのか、なぜそうなってしまったのか、そうならないためには何が必要なのかをきちんと見れるように、そしてそれがトレーニングにつながる。やっている事には意味がある。でも実際には意味のない事をしていないだろうか?厳しい目で見ていなければならない。

 

声を聞いて、声の太さ(幅・深さ)を考えさせられた。「身体(カラダ)の必要性」とはつまり「声の空間(幅・深さ)の必要性なんだ!トレーニングの意義、というか目標が見えた気がした。

 

いつもゼロからの出発にどう取り組んでいけるか。毎日毎日得るものがあり、何かが身についているかもしれないが、ふと、今までわかってきたと思っていたことが本当はそんなことじゃなかったと気づかされ、そういうところで何度あるかわからないけれど、打ち壊しゼロから始められるすごさ。自分はバカじゃないのかと泣きたくもなるが、慣れてしまうよりはいい。慣れは怖い。どんどん感覚が鈍るから…。

言葉を音にしていく事。余計なものを付けず、言葉を言い切ったものに音がつく感じ。難しくない。見本の曲の歌手のフレージングを真似してしまうとおかしくなる。浮かしてたり、抜いてたりする部分は、その歌手が、そこまで身体に入れて歌っているから出来る事であって、口先で真似しない事!!凄く納得。身体に入れて歌うことができれば、言葉が息に乗って、歌い方を教えてくれる。心を映してくれる。だからこういう人の少し抜いたようなフレーズがフッと入っていると、凄く心地よく感じる。一流の歌手と言われる人は、これを偶然ではなく、きちんとコントロールできて、それがイヤミな技術にも聞こえない。私は、この判別は、最終的に“声を出すのが好きなだけなのではないか?!”という人と、“本当に歌が好きで心で歌ってるな”と思う人は、この息のような歌での部分に見え隠れしている気持ちの違いで判断している。色々なアーティストを聞いてて、うまい人、技術がきちんと身についている人はたくさんいるのに“つまらない歌だなぁ”と思ってしまう人もいて、これがなぜかわからない。なので、こういう判断をしている。そうじゃないと、自分の感覚が鈍くなる。しかし、技術の部分で優れている部分は耳に残しておく。音声は残し、センスは残さない。今日のレッスンの曲は、非常にメロディが覚えにくくて、困惑した。日本語をこのメロディに載せて、いかに歌わずに出来るか。自分の言葉で言い切れるか。それにメロディが付くか。“意地でもメロディをなるべく正確に取る”という考えはあまりなくなり、それよりフレーズまわしで自分にまわってくるまでに身体を整えて、その時、瞬間的に身体に言葉を入れて歌えるかどうかが先決でした。サビ以外の部分はほとんど単調なメロディだったので、言葉重視という事を考えるようになった。あまり大きい声ではないが身体から比較的声を出せた部分もあった。力を入れて大きい声を出すと、身体に入っているような感じになり一時は、それで“身体を使うこととは…”という感覚を、その事により自分にわからせた。そして、最初の私の課題は、またそこから一歩進んで、声を押して出す事はそれは簡単で、そうではなく、自分のい息の流れに沿った声を確実にすること。以前先生が例えで使った事で、歯磨粉のチューブをとにかくブチーッといっぱい押して、いっぱい出してて、余計な分もあった。でも始めはあれでよかった。この例えを聞いた時、その時は頭では理解していたが全然わかっちゃいなかった。最近この事を思い出したのは、やはり、少しは自分の支えが出来てきたから。身体の支えがわかってくると、その息の支え加減、そして声になるものも全て支えがあってその身体で、息を押していく(というか、その働きは自然になっていくものだが、)効率に全てがかかっているという事。出た息の分、声になるという超自然的なことがわかるところにやっと来た。

 

要するに、やはりのどの力で歌ったところで邪魔になるのでそれを外すと、ヴォリュームは落ちるが、“この声だ!”という信頼性の高い声が現れてくる。これを伸ばす。このクリアな声が高い確率で出せるようになったのは突然で、その音は、“C”だった。身体の真ん中(背中の真ん中)に中心があって、素直に出る音。これが基礎となる音とする。それまでは、ここに入ってから、とにかく自分のクセ声をなくすため、どんどんキーを下げて、特に中間音でさえ出すのが怖かったので、下のGABとかその辺を賢明に鍛えていたつもりであった。Cから上の音は自分にとって高いという感覚になってしまって、出せてもどうせクセ声だと思っていた。けれど歌が歌えないので、とにかく下が出るように頑張ってた。

ところがある日、(トレーナーの授業でのヴォイストレーニング中だったと思うが)ドレミファ…を上下で行き来している途中、身体の支えがクッと上がり、出た息の分声がクリアに出て、そのまま上にどんどん行けたのだ。その声は遠くまで聞こえてるだろうなーという声で無駄なく出てる。それがCからAぐらいまで上に出た。(さすがにAはつらいがギリギリフィットしてる。)私はびっくりした。が、その方法で下に行ったらうまくいかなかった。下の音は、また別の出し方をしていたらしく、“違う!”と気づいた。Cより下の音は、よくわからないが、無理をしてノドで押して出していたようで、Cのフォームのままでは下がれなかった。なんと、下の音を鍛えていたつもりが、上が伸びていた。願ってもないことだったが、今度はその下の音のやり直し。クリアな声が出るその状態と同じところに息が当たるようにするには、なかなか苦労がいる。けれど、その場所はわかっているので、出ることは出る。が、まだ小さい声(しゃべる声くらい)でなんとか当たってきた感じ。

歌の練習の時も、まだ意識しないと、以前の間違った出し方で出してしまって、結局線が崩れる。そう、歌の線を出そう(声の線)と自然な自分の声を下の音で探していながら、その中には正解はなかった。だが、正解が現れた。おもしろい事だ。

でもこれで、迷いがなくなった。声や歌に正解っていうのはないかもしれないが、歌う本人がコントロールできないものは、やはり、使うべきではない。けれど、その声を見つけ、身につければ、どんな事でもできる可能性をもっている。そして色んな表情をつけられる。クリア(白)だから。まず、このクリアな線を確実にし、色づけに入るまでは、しばらく、まるで棒読みのような歌を歌ってしまうかもしれない。が、そこに自然と、気持ちが表れてくるように、耳を特に鋭くさせていたい。

 

地声と裏声は分けて考える。声楽的発声は響きを前にもってくる。上顎の前が響くようにする。お腹で支えてのどをしめない。のどに響かせない。音程の変化はのどで作るのではなく、お腹で支える。細かい音程の変化は曖昧にせず正確に歌う。声楽的発声での低音は、裏声の時の声の出し方にのせる。地声で出す低音とは違う、ということ。裏声の時に、声が割れやすい。高音になるにつれ息もれしてくる。のどをしめないようにと意識したが、のどで歌う感じになってしまう。お腹を使って、声を上顎に当てるイメージでやるのだが、上手く(効率よく)声にならない。息が無駄に使われてしまっている。お腹でしっかり支えられるような体の使い方を、何度もやっていく中で体で覚えていく。

 

歌うことと体を使うことは違う。体を使うことは声を前に出すため、聞き手には飛んでくる声が正しければ(表現があれば)よい。前に飛ばす声に集中する。自分の体を使うことに意識を向けない。力を入れても、その力を入れているということに意識を向けない。トレーニングは自分でコントロールできるところでやる。それを広げていく。トレーニングの状態の一番いい状態をこの場で出していく(体を使っていることは考えず)ということ。自分でコントロール出来る声がわかっていない。フレーズを歌うときに、ここをこうするというイメージは持つが、力みすぎて、つなげて歌いたいところを息が足りなくなり途中で切らざるをえなくなる。また、出だしは声が出てもフレーズの途中の低音で声が出なかったりする。自分の声、コントロールできる声を知ること。

 

とにかく前に声が、表現が、出ていること。体の力は、より楽に出すためのもの。前に出すための余裕のために体の力がある。だから「歌」と「体の力」は別もの、歌うのに体の力を使おうとすることはナンセンス。体の力はトレーニングで声の余裕を作るために必要なだけ。歌、フレージングの時はそんな事は考えないで、もっと楽に気持ちよく、心から歌う。ような、「どんな声でも、ひびきでも、声が舞えに出ていれば、とんでいればOK!」体を使うこと、大きな声を出すという思いこみの勘違い、これに気づいて、脱皮すること。体よりも、声の方に神経を集中する。心の中、心の感覚でにぎっておく。日常の中の一番いい声というか、表現をすぐとり出せる事。コントロールできる事。素直に声を出す事。歌、フレージング、表現の段階で体の事を考えないで、自由に声を使えるために練習の時にそういうことをやっておく。

 

多分トレーニングしていけば、声はでやすくなってゆくのだと思う。それよりもその声をどう使うかの方が考えなくてはいけないことだと思った。たったワンフレーズの中にも多くの課題があり、どこも気がぬけないのだということを強く感じだ。ワンフレーズでも4フレーズでも自分がどう歌うか、というイメージがしっかりとできていないと出たとこ勝負のものになってしまう。耳で聞くこととそれを自分の中で消化し発することを繰り返しやってゆく中で自分のからだ、声をつかいこなしていく必要がある。基本の課題としては声が一番よくでる状態を作れるようにすること、自分の体の状態を声を把握できること。歌につかえる声というものをいつもとりだせるようにしなければならない。準備不足だとどうしても浅いところで声を出してしまい息もとおらない。それと聞いたものをひとつにまとめ出す力が足らない。これはよく聞き自分のものとして出すということを繰り返しやってゆく中でつかんでゆくしかないと思う。4フレーズをなぜまとめられないかというと、押さえるべきポイントがわかっていないということがいえる。

 

曲を聞いた時、リズムが自分の中に入っていなければだめだし歌い手がどう構成しているのかというのも見えていなくてはならないし、そのうえで自分はどう構成するかというイメージをもてなくてはだめだ。ポイントを押さえること以外に、私の場合言葉と言葉の間がきれてしまっている為、音がつながっていかないのだと思う。集中力やイメージがきれてしまうからワンフレーズが独立してしまい次へ次へとつながっていかないのだ。プロはからだの中に一枚の絵が完成されていると思うが私の場合一筆かいては次にどうかくか迷っている状態なので勢いが感じられず鋭さもない。のどをひらいた発声は絶対に必要だ。これは表現することから考えるべきだと思うが、トレーニングでは深い息を腰で支え少しでも長く伸ばせるようにすること、息が浅くなってしまうと、息のながれがうまれず一回ごとに新たにやり直さなければいけなくなる。同じ太さの息に声をのせてゆくできるところを確実にし少しでも長く伸ばせるようにしていくこと。

 

 

 

 

 

課題曲レッスン

 

一流の人がもっている共通のものは何かを見る。最初から最後まで一貫しているもの。音の高低があっても変わらないものとは深い息がありその土台の上に声がある。立体感、リズムもその息によって生まれる。音楽をもっと自由に表現するために楽器としてどう奏でるのか基準をもたなければならない。より鋭い感覚で聞かなければならないし肌で感じなければならない。またその感覚を再現するためには常に自分の体で起こっている事を感じとって判断してどうしていかなければいけないのかを考える。

 

マヘリア・ジャクソンの「ジェリコ」はとても弾力がありキレがある。だが実際にやってみると勢いよくやってみようとしても、勢いよく生卵を投げてべちゃっとなってしまったみたいな感じだ。ボールのように跳ね返りがないからべちゃっとして雑になってしまう。声を出す準備(息の準備)をきちんとしなければならないし無造作に声を出しているだけではだめ。雑に扱ってはいけない。曲を聞いている時もでている音の高低とか音量ではなくもっと感覚的な所を見なくてはいけないと思う。年齢とともに体力が低下するならばはちきれんばかりの10代、20代がパワーがだせる時期と言えるかというとそうではない。そんじょそこらの若者より60代のエラの方がよりパワフルですごくかっこいい。体力はもちろん大切なのだが音にこれだけのものを込められるという事は単純に体の力だけでなくもっと他の要素があるのではないか。確かに一聴するとすごく力を入れているように思えるのだがそれが押しつけがましかったり嫌な感じがしない。むしろ気持ちがよい。それは音として聞けるからという所もあると思う。心地よい音とはどんなものかを見る。

 

非常に物理的なことだが、足の位置。Rock(ハードロック)は踏み込みたくなるのでかなり“前後”に近い位置で開く。それが一番動きやすい。ブラックコンテンポラリーは“横”に近い。しっかり立った上で腰と上半身のしなりで動くととりやすい。先生が中間のものとして(だと思う)かけたゆったりとしたブルース。BVに入る前だったら、ダッダ…ダッダ…ダッダ…というゆっくりとした表のビートしかよみ込めなかった。聞くだけだったらそのビートを打ってくるところの外側のところがみえる。Hard Rockはヒットしたところをメインにとっている。それをエッセンスとして濃くとり込んでいる。ブラックは、外のまわっているループ状の空間の中にあるうごきにあってゆく。そこをとっている。そう聞こえた。あと個人個人のコメントの二拍子の二拍目を深く感じてちゃんとまわして入れてとって生かしてゆかないと、つまってしまうということ。これはどうしてそうなってしまうのかずーっと悩んでいたことのあまりにも明解な1つの答えだった。短いもので1つだけやってみた。おおーっそうかあと思った。(でも他のものではできなかったが)すごいレッスンだった。すごい。、

 

みたことのない人達の背中を後ろからみて感じたことは続けてゆくことが何よりも大切だということ。それと音楽は個人的なものだということ。育つということはとても時間がかかるということ。他人にはわからなくとも自分のなかで何かが育っているという実感をもてるということは大きな喜び。このアテンダンスシートに正確な拍をとるとか6/8拍子をマスターするとか書いてもしようがない気がする。自分にとって必要なことは身につけるのが当然だし、それよりも自分と音楽についてもっと考えたい。以前は常に音楽がからだの中をながれているということがどういうことかわからなかった。最近はこういうことかなと思うことがある。朝目覚めると自分のからだの中に音がながれている。仕事をしていてふと気づくと流れている。以前は心ひかれなかった曲やリズムを心地よく感じたりと感覚っていうものは変わってゆくのだなと驚いている。

 

魂の込めかた、やどらせかたを学んでいく。母音でのメリハリをつける。よく聞くとピアノもアクセントをおいている。流しながらふくらみをつける。他の言語は、音の感覚でとらえやすい。基本はどの曲でも同じで、どこに体を使うか、息を使うかめいっぱい体を使ってはみ出してもいい。そこにフレーズが出てくる。

Satの部分でものすごく息を使ってふくらませているのがわかる。最初のinがすごく深い。blessed fieldの部分はちょっと抜いている(離している?)感じがした。自分でやるとthe upper roomで細かくなってしまう。ここをもっと体で広げていかなくてはいけない。もっと体を使う。

 

①最後まで責任をもって息をコントロールすること。②赤ちゃんの泣き声のリズムを思い出して、息をとばすのでなく最後まで体でつかむこと。③2人でひっぱって腰をおとす。よおおいしょ「おい」の勢いに「しょ」がついてくるように、体の中を掘っていく感じ④AとBにわかれて交互にHi Fight Hi Fight片足に体重がかかるときの芯をつかむ。体が温まった状態でmenuをやることによって、声がでやすくなるのでまず体が温まった状態で柔軟してからトレーニングを始めること。⑤we're got just what you need声色をとらないで息を吐くことでとらえる。芯をとらえるつもりで息を吐く。1回1回息を吐くようなつもりでとらえること。どんな言葉がきても口先でなく体を使う。そうすればあまり喉にこない声色に囚われず6回息を吐く。「ハイ」と一緒で体をつかむこと。1回1回キレを出すこと。息が先、その上に声がのっかる感じ。息を吐くようにする。⑥for your world of make (ここで1回つかみ直す)believe~つかんで動かす感じを。音程をとりにいかない。フレーズで動かす。maxのままひっぱらない。そうすると棒になってしまうので強弱のバランスを自分で取ること。つかんで自分がコントロールできる所で動かす。

①②この最後までコントロールというのが、ちゃんと意識するとそれだけですごくしんどいものだ。でもこれを歌になったとき抜くクセをつけたまま歌うとだらしな~い感じをうけると思う。やっぱり最後まで責任をもつことは何事においても大切だ(?)③ペアでやったのでおもしろかった。人のパワーってすごい。2人でやるだけですごい1人でやってるより全然powerが違う(自分の)と感じた。1人のときもこれ位の気持ちでやれないといけないと思った。④もおなじくこれはすごくリズム感のトレーニングになると思った。なんか、高校のときの応援団の練習を思い出した。体を動かすって(大変なんだけど)楽しーんだよなーとか思いました。⑤息が先でその上に声がのっかる感じ→でやってみると、すると全然shoutとよべる息の量が吐けないことに気づく。声域とか、そういう問題でなくまず絶対的に息が足りないのだと思う。むりにそれっぽくしようと思うとがなってしまう訳だし。⑥いつものつかんでうごかす。 world ofの所は完全にはなれてしまっていたと思います。だからせめてmakeでもう1回つかみ直せばいいのだろうか。やっててなんだかよくわかんなかったのが現実。⑤はまだわかるけどできないという感じだったけど。

 

フレージング…La vita continuerd ilmondo non si femera〜ふみこむ力、スピード、リズム。その概念というか、たぶんこういう事だな、というのは感じているが、実現はむずかしい。イヴァザニッキのそういう部分の「すごさ」がまだ実感できない。すごくさりげなく聞こえてしまう。

 

ジルベール・ベコーの「そして今は」あらためて聞いてみると、いぜん聞いた時よりずっと心に入りこんでくる。人間の声ってあったかいなと思う。歌っていうのは語りかけるものだなと、というより私はそういう歌い方に魅かれるということ、ボレロのリズムとベコーの気持ちが昂揚していくのが重なりあって聞いていて気持ちをかきたてられる。歌う中で自分でリズムをつくってゆくというのはやはり大変なことだと思う。

 

ミルバのリコルダでもそうであったけど、真正面から聞ける限りの形で同じように勝負しようとすると大げさでなく、一瞬ですごく体が疲れる。そこでとっておいて彼らがさらに軽々と聞かせ鼻歌みたいに動かしてゆくということのおそしろさに、毎度のことながら圧倒される。エラのこのマックザナイフは、きっと100回以上きいている曲だ。なのに(これもおそしろいことに)私は1度たりとも6回も転調して1オクターブ近く同じテーマ部があがってゆくことに気付かなかった。しかも、5回も転調したあとで、ものまねさえそこでやてみせている。おちゃらけてみせている。テーマ自体だって1オクターブ以上あるのにだ。私は頭のところで、3行位で、死にかけている。100回の中でそんなことがおこっていることを気付かせない(いくら私が脳天気なファンでも)その力。同じ所でくり返していると思っていたのだ。転調しているのはわかっていたのに。とったら離さん。基本中の基本。すごい見本のような素材だ。ハイラララーを1テーマで1オクターブ変化させてしかも作品として語りつがれるようにやる。エラ。限りなく学べる。私の知っている/見ている音楽の光景は2次元で、レッスンによって扉があくと1つ1つに宇宙がある。毎日がそんなだ。すごいことだ。ものすごい幸福だ。(1つみつける/気付くたびに1つ自分自身の評価が下がるという痛みはともなうが)。、

 

ひさしぶりのフレージング。毛皮のマリー(イヴモンタン)キーが僕に合っていた上に日本語詞がピタリとはまっていて、さらに曲自体にしっかりリズムがあって比較的やりやすかった。『派手な馬車を乗り回してはぶりをきかせたミンクのマリー~けれどひとりさびしいたそがれの涙』

ピッタリとリズムにはめて歌うのではなく、しっかりリズムを感じていながら少しずらす。単に長短ではなく、感覚的なもの。フレージングして、発した直後に「ウワァーン」と部屋じゅうから反響がかえってくる時がある。いい瞬間だ。発した直後に何も残らない時がある。考え、迷い、すりへって途中でしおれてしまったフレーズだ。即座に先生の注意がとんできた。気持ちが抜けていて、小手先の細工に走る歌はみにくい。うんざりだ。またやってしまった。先生のコメントの意味が身体で感じられるようになってきた。

 

歌の途中で、「あっ、このままこの方向で声を出してゆけばきっと次の音に間に合う!その方が聞いている人には“音程・リズム的に間違わなかった”と聞こえるハズだ。ついでに顔も自信あり気に作っちゃえ。これで完ペキ」…といういいかげんな(歌に対しての態度が。)必死でごまかす、近道・抜け道的なやり方と、「遅れても、外れてもそしてつらくても出来なくても格好悪くても、潔く全部息を吐け!もう一度胸の音をさぐれ!本当の声まで持って来い!」というひたむきな自分とが見え隠れするのだが、これが戦いへの第一歩なのだろうか。もっともっと違う確かなものだろうか、不確かなものだろうか。私は昔のバンドメンバーに電話して、「自分を見つめる」ことが怖くないかたずねてみました。彼の答えはこうでした。―怖かろうが怖くなかろうが、自分を見つめて引き受けるのがあたり前の義務だ。

 

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勝田特別レッスン

 

先生がふっと疲れてしまった気が抜けた瞬間には生徒もなんかふっと力を抜いてしまったりしてGスタが先生の波に合わせてゆれているのを感じた。本当はこれじゃダメなんだろう。先生が抜けた瞬間にも張った空気が保たれてなきゃ、ただ先生のライブを見に来てるようなもんでしかも受身に。客からも盛り上げる気持ちが湧いてきて出てないと、うちらは一体何だ、ということになってしまう。そういうことが見えてくると今まで以上に背すじ伸ばして顔をひきしめていく自分にも会える。

 

人に与える第一印象は技術でコントロールできるものだと思わなかった。もともとがサワヤカだとか自然に思わせてしまう人だと有利だけどそれだけではないと思う。そんな人だって緊張してこわばった顔になってしまったりしていたらよい印象を与えるのは難しいはず。頭で考えてコントロールできるけど、全部を考えてやってしまうとうまく行かない。ある程度は自然とできる様に日常の中で意識しておいて体になじませておくとかなり有利になるのではないかな?と思える。全体を通して切り替えの速さが大切だと思う。勝田先生を見ていると、簡単にパチパチとスイッチのように切り替えられている。よくそんなに簡単にいろいろな場面に合わせられるなと感じる。どこを見ても、前向きな先生しか見えないと言うくらいに高いテンションを保っているようだ。

 

こんな短い話でもものすごく難しいものなんだなと思い知らされた。落語家の世界も、あんな長い話をきちっと演じる基本の上に、その人独自のその人にしか出せない味をつかむのはすごいことだな、と思う。名声じゃなくて、実力のこと。まず基本なんだな。何しろ基本なんだな。基本なんだな…。

 

なぜオーラを出すことが大切かというと、人は誰でも緊張をする。すると、表情もこわばり、自然に前かがみになって、膨張イメージの反対で、縮まってきてしまう。すると、くらいイメージになり易く、ステージでは非常に損をする。人前に出る時は、必ず、気を取りなおして、オーラの方法をイメージして、場に臨む。

 

“歌を歌って表現する前に、まず言葉をシャウトして感情が伝えられるか”自分でフレーズの練習する時に発声のことや、フレーズを点でとらえることに気がまわり、感情がないようなフレーズになってしまっていた。感情をこめると台詞のようになってしまう。自分の普段の話し方には相手には伝わるだけの感情がこめられているか、考えていた。感情をこめなければ歌を歌っても空々しく聞こえてしまう。

 

この講座で、自分を知ろうと思った。アフレコは初めての経験だったので興味もあった。アフレコに入る前に、何も材料がないところから笑う、怒る、泣くということをやった。難しい。自分を捨てることが。笑おうと思っても不自然。構えてる、自分の殻に入っていた。自分を捨てることが自分がすごく嫌だった。課題、アフレコではアドリブ~おばあさん、ヤクザ(関西弁)などいろいろだった。台詞を覚えて正確に言うことではなく、その人物になっているつもりで表現すること。その人が話しているところでは、何でもいいからしゃべること、動きが止まってはいけない。台詞が出てこないと“あっ”と思って止まってしまうが映像はどんどん流れていく。これは歌の時と同じ。とにかく声でつなげる表現が止まらないこと。実感した。

 

アフレコに挑戦する、ということで音を消したとき映像で伝わってくる動き、表情に、負けないようにそれに合わせてみる、ということで、音声だけから入っていくのとは違うアプローチの仕方で面白かった。“なりきる”というのも歌よりストーリーがはっきりしているので取り組みやすい。

笑う・泣くの音声表現について…おととしの合宿かなにかでやったときよりも、感情に入れた。全身が使われているのに体から意識が離れて感情が出てくるのにまかせる感覚。

アフレコ…自分がやってみる前に何度も音と画面を見た。何が伝わってくるのか…。言葉の意味ではなく言っている人のテンションの高さと声に表れる感情。自分がやってみて、本当になり切れてないなとわかる。役者ってすごい。その気になってやるのと、なり切ることの違い。その瞬間に自分の体と心がそれを言う状態になっているかどうか。歌でも同じことだと思った。

“開けなさい、まゆ!!”自分の子供を心配するという、単純で強い感情。これをやってみて、役者さんの語気の強さとか興奮している感じとかを真似してみたけど、「あ、違うな」と思った。他の人のを聞いても、それらしくはできてるけど、何か違う。あの映画をはじめから見たら、もっと入りこめたのか。でもシチュエーションはあの場面だけでわかるはずだった。ぱっとそこに入っていって、出せるということが出来なかったということ。日本語じゃなくても、動物の鳴き声でも、感情が先にあれば伝わるものなのに心が動いてないからダメだということ。