ステージ実習コメント 826
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ステージ実習1
ステージ実習①
ステージ実習②
ステージ実習②③④
ステージ実習2
オーディション
Xmasライブオーディション
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ステージ実習1
音声で表現する舞台として考え、早いうちににいいわけはやめることです。与えられている時間は3、4分です。5分くらいやった人はやり過ぎです。質があって長いのはよいのですが、原則的に時間オーバーは認めません。それも一つの与えられた条件です。そもそも自分がやることが何分かかるかわからないということ自体おかしいのです。どんなところに出演しても同じだと思います。
表現というのは問題提示のためにするのはよいのですが、そのプロセスを自分の中で消化して、まとめて出していかないと、キャッチボールにならないです。汚いゲロをはいている過ぎないのです。それも表現にならなくはないです。でも、誰も見たくないし、そのことに対して感情移入もできない。一つのことばから自分で計算してきて、最大限に高める、という形で出せなくてはよくありません。
当然ながら、日常会話として隣の人と喋るようなことをいってみても、多くの場合、それは表現に値するものにはなりません。それから、自分のために使ったというのは、とりあえず想いがあれば、1回目、2回目は許されると思うのですが、24回毎回それでやるのは無理です。歌に入ってくると、これはいいわけにしかならない。ことばで喋ることはできなくとも、歌を聞いてくれ、というのがヴォーカリストです。
要は、拍手の対象になるものを出します。もちろん拍手さえ凍りついてもよいのですが、舞台であればその土俵に乗らないとよくありません。
優れているものは批評の対象になりません。ただ、まず、批評の対象になるものを出すことが先です。まず本人が目一杯やってきていないものは対象になりません。もちろん当日そこでできればよい話です。でもそれができないから普通の人は練習してくるわけです。できなかった人は、2度と同じ過ちをしない。
ステージが、仕事です。アーティストとして期待されていること、その役割を演じてはいけない。その場があり、その場を支えている人がいる。客がいる。その中でチームプレーしなくてはいけない。自分のことをやることが他の人を考えることになります。その役割を自覚できない人が多いです。そんなことでなにかできていく、というような思い違いをしないことです。自分が歌をやっていくとか、表現をやっていくとか、可能性を探っているレベルで来ている人はそれもよいと思います。わからないからやるわけです。それはわからないままやるのとは全然違います。わからないなりにこういうことを問おう、とか、与えようとかいうことでこなければ、こっちも期待はしないです。
アーティストというのはその期待をしない客に対して、期待させてしまうような人たちのことです。誰かが支えないとダメだという人はたくさんいますが、そういうものとは違い自立していることです。出てきたものがどれだけリアリティを獲得するか、という世界です。その人が何をしていようが、舞台でよければよいという世界です。その辺になってくると、その人の芸風や、やり方の違いになります。
私も含め、見る人が何か期待していることがある。その役割を毎回裏切り続けていったら、そのうち立てなくなります。技術的に水準の高いことや舞台として、優れたことをすぐにやれ、ということではないです。ただ、自分がやれるだけのことをやっているかやっていないか、という話です。そこで甘えるとよくありません。
誰もあなた方に歌って欲しいといっているわけではないのです。そのことをきちんとキャリアとしてつかんで、人様の前に与え続けることをやらない限り、たのむから歌ってくれとは誰もいいません。出されたものの基準はどうでもよいです。実力には個人差があります。ただ、その実力を出し切ってスタートするということをしなくてはいけない。力を伸ばした人というのはたった一つの舞台をおろそかにしない人です。わずか3分のためにどれだけやらなければいけないか、ということを、きちんとやってきた人たちです。これがやれなくなってくるわけですが、最初ですから意気込みぐらいはあるはずです。それが、技術に裏付けされてきて、ステージの経験を積むにつれて、どんどんみえてきて、もっとやらなければいけないことが増えてくるという中で、トレーニングというのが出てくるわけです。
いろいろな舞台が今日もありましたが、出ないより出る方がましです。それさえ出ない人がいる。人前で表現したいということを本気でやっている人は、場があれば出ます。経験になりますから。それくらいのエネルギーがないのなら成り立たないでしょう。人前に出るのが好きかどうかは問題ではない。嫌でよいのです。でもそこで何か得られるから、何らかの可能性がつかめるから、やります。やっているうちにそれが必然になってくるわけです。それがベースです。こういう問題はなるべく早く片づけて欲しい。その中で、自分のいいたいことをどういうふうにいえば一番相手に伝わるのかを煮詰めていきます。芸術的センスや構成力というのは問いません。それは少しずつわかってくると思います。少なくともそのことを考え続けて、煮詰めて今できる最高のことをやる。それだけのことをつめこんでここに立たないと、悔しいとも思わないでしょう。意図も伝えようとする構えもないですから。
自分の中で完結するより、伝えるとか与えるとかいうことを考えてください。その人の中に何もない、練習もしない、歌えない、でも与えることはできる。ただそれを音声で表現するレベルでやらなければいけない。歌でやらなければいけないから、大変なのです。その技術は宿していかないといけない。今は精一杯やらないといけない。先はありません。才能や、オリジナリティ、キャラクターという武器を伝えることにおいて位置づけできて初めてできることです。
人前で話すことに関しては勉強するしかないです。一般的にその時代の中できちんと生きているということと、人間を知っているかどうか。本を読めば身につくというわけではありません。大工なら木と毎日語り合う中で学ぶわけです。瞬間瞬間の中で何か感じて、自分の仕事の中で表現することです。へたな家をつくってはいけないのと同じで、へたな歌を歌うなということです。最初はそうでも、直していかないといけません。歌い手や、表現者は前よりよくなっていかなくてはいけません。
歌おうと思わなくてよいから、その中で人の語れないことを語らないとよくありません。僕が喋っていることもその辺の本を読んだら、同じようなことが書いてあります。皆、自分のことばで語っているだけで同じことです。同じことだけど、皆を読ませる力や、聞かせる力があるというのは、そのことが何かに触れるものを宿しているのです。人が語れないことで自分を語ればよいのです。その人そのものを見せたって価値はない。それを音声の中に詰めていくのです。音声の表現もって、いかに伝えるかということを勉強してこなければいけない。決めてこなければいけないのです。
人と比べる必要はないのですが、自分で満足できることができたかできていないか、ということと満足できることができたにも関わらず全然通じないとしたら、何が足りないのかということから始めて、日頃のトレーニングが成り立つのです。
そこまで前に出れていない人、出ようかどうか迷ってい人。誰もあなた方が出ることを期待していません。歌がうまいことも期待していない。それを裏切ることが期待に応えることです。あたりまえのことです。タレントやアイドルでもそうです。その厳しさ以上のものを持たなければ出ていきません。考え方から直せることは考え方から直してください。
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『ステージ実習①』
①のステージ実習は、いろいろな人がいておもしろいです。本人が自分のことをよくわからない分だけ、ある意味で可能性がなくもない。どこに基準を置いて評価するかというのは難しいです。上になればズバズバいえますが。
12月のライブのためのオーディションがありましたが、いつもながら人はいる、声もしている。でも、歌や音楽が聞こえてこないのです。歌とか音楽とは何なのかということをわからせるためにレッスンをしているわけです。課題曲「オーシャンゼリゼ」は雰囲気の似つかわしい人に有利かもしれませんが、それだけ舞台らしい曲でもあります。
舞台としてのことが演出できていないと、どう考えたって本人が浮いてしまいます。その人本人のステージングが生かせます。ただそれが役にはまったまま抜け出せないと、歌っていても、歌や音楽としては聞こえてきません。入り込んでいくのはよいのですが、抜け出してこないといけない。ニコニコしながら歌ってみても客から見たら変ですね。歌の場合はもっとリアリティー、真実味が必要です。でも、そういうことを繰り返して、今の時期、図太くなってよいと思います。最初は人前で笑うということさえ難しいわけです。手一つ、体一つ動かすことが大変な勉強となります。
勝田光俊先生のレッスンは大河ドラマなどで得た氏の素人の即興的な演出力、表現術です。せっかくの機会なので出てみてください。
今日のような曲では、照明に負けないような花がある人が有利だと思います。しかし何でも結局その人の魅力になります。突きはなして歌を見ていかないと、楽しい楽しいだけでは歌えない。見方というのはどうでもよいのです。その世界を全員に伝えようと考えなくてもよいですから、理解してもらえる人たちに対してもう少し絞り込まないと、楽しく歌って終わりになりかねません。もっと、身近に感じさせるものを持たないと、こういう歌はフルコーラスでは持ちません。
歌に関していはビデオを見て考えてください。演じ続けなくてはいけないということは歌い手に限らず孤独な作業ですから、顔をつくっていかないといけない。10代のときにこれを持つというのはムリなので、こういう歌や、音楽と接しているうちに考え方や生き方が出てくることでしょう。一つのことば、一つの音でたくさんのことを語らなくてはいけません。それを詰め込む作業はこの時期にやっていくことでしょう。
それから、客を口説ことが無理なら自分を見せにくるところ、ということです。もっと裸になるしかないです。所詮舞台です。そこで生きるというのはどういうことは、もう少し考えられるとよいと思います。そう考えるとこの世も、残り30年か40年の舞台です。本当の役者はそれを知って生きているわけですから、現実と舞台が分かれてくるわけでもない。最初はそれを一緒にしてしまうと、生活ができなくなりますね。人間というのはそこで楽しめればよい、というようないい加減なところがあります。本当に生きるということは死と直面することです。戦争にしろ、犯罪にしろ、そういうものと背中合わせに生きていくというのはよくわかるのですね。それをそのまま出すのではなく、断片をもって出してくるのがステージだって断片だけどそこで完結していくわけです。
一番やってはいけないのが誰かのまねです。フリをしても不自然だし、見ている方も不快です。その人がその人を生きているということが心地よいのです。そこに、言葉が入ってモノトークなどになると全く裏になってしまう場合が多いです。その人の考え、生きてること、感覚が出るか出ないかです。その人が出そうということを日々やっていなければ、その場になってすぐ出るということはないです。
おもしろいのはまだそこまでやっていないというおもしろさですね。加工されていない原石というものはよいのです。そういう人たちに会えるというのはここのよいところです。いろいろな世界でやってきた人もここに来たら原石になってください。ただ、原石になれない人、原石のままいる人と、研ぎすまされていく人がいる。研ぎすまされていく人しか残っていきません。
こういう曲も抵抗があるというか、役者の世界でいうと、私はこの役しかできませんよ、といっているようなところがあるのです。でも、それだったら歌や舞台をやる必要はないのです。ふっ切りのなさがみえます。役者だったら一ヶ月でそういうことは抜けますね。ヴォーカルというのも役者ですね。
その辺のことが、曖昧になって、だんだん人間を見なくなって歌や音楽に逃げています。ファンもそこに逃げています。それは必要なのかもしれないけど、毎日生きることはできないです。ここの歌というのは現実でありたいと思います。そうでないと伝わらない。現実であるということは、聞いている人が働きかけられる、生きる力、気づいたり考えたりする力になっていく。もっというと創造する力になっていく。それはあたりまえで、世界の歌は、だからこそ生きながらえています。日本の歌はだから世界に出ていかないし、次の日に聞かれないのです。
自分の世界を持っていたら、そういう歌は聞けなくなります。いろいろなものをもっとたくさん聞いてください。聞く歌も成長していくし、歌う歌も成長していきます。昔聞いた歌が聞けなくなるときもあれば、懐かしくて、聞けるときもあります。だいたい、日本の歌は自分が一番苦しいときに支えられた歌があって、その後、それ以上の生き方をしないからその2、3が懐かしくて聞くという人が多いのですけどね。そういうものでもたされている歌や歌い手というのは、あまりよいことではないですね。常に新しいものに取り組んで、新しいものを提示してほしい。皆の舞台もそのように客に働きかけるものであってほしいと思っています。
一般の人も誰でも一所懸命生きています。音楽に携わっている我々がそれ以上のものを出さない限り聞いてもらえません。
それから、動きや目線というのは気になります。ビデオをみて、比べてみてください。全ての動きを取れ、ということではないです。ステージは歌や音声に集中させるものです。それを邪魔する要素、自分をマイナスにする要素は極力捨てた方がよいということです。すると小さなプラスも、もっと大きなプラスになります。
間違ってもとちってもよいのです。そんなことでダメになってしまう歌ではダメなのです。しかし素人の歌は間違ったり、トチったところでその人らしくて、客とのコミュニケーションが作れたように思われてしまうのが特色です。そうならないようにしてください。
なぜ、もう1曲聞きたいと思わないのか。自分もそのレベルでやっているのか、そこで全部みえてしまっているのです。私は1コーラスくらいでみえます。大体、途中までしかもっていないし、音楽が始まっていない。それは日頃のレッスンで、本当にステージ、歌が始まるときというのはどういうときなのかで感じていくことです。歌というのは、いろいろな学び方があって、ここのやり方も一つの材料です。それはそれで参考にしてください。
自分の才能を見つけることはなかなか大変なことですが、問題はやりたいことと才能が一致しないときにどう生きるべきかということですね。ずっと煮詰めることをしないといい加減になります。やりたいことより、やれることで生きていくというのもよいと思います。そういうことはここできちんとやっていたら、生じてくる問題だと思います。
「オーシャンゼリゼ」はドラマを生じさせなければいけない歌です。劇団と違うのは一人でそのドラマを持ち込み、参加しなくてはいけないということです。
ここにいろいろな人がいるのはよいことです。でも人がたくさんいても仕方ないです。大体たくさんの人がいるということは不在だということです。歌を聞かせる相手はたった一人でもよいわけです。そこにどのくらい深く働きかけられるかということが、メジャーに、ということであればどこまで広がるかということです。一人の人間にきちんと伝えられるという部分が原点です。たくさん人がいてよいのですが、それらの人がそれぞれ、各人の一番よいところを出していることが必要です。それが音楽や歌をやったときにより出せる人がヴォーカルをやるべきだと思います。歌うことで他のどんなものよりよい面が出るなら歌う意味や価値があると思います。簡単なことでいうと、どこを愛してもらっているか考えたらよいと思います。そこが、より強調されて出ているかということです。
いろいろな考え方、感じ方があり、どれも正しいです。でも人に与える場合はそれを研ぎすまさなければ、単なることばのためのことばになりかねない。その人の中ではよいかもしれませんが、それは舞台になりません。歌でもない、聞いている人に対して働きかけなければいけない。才能が見えることよりも突きつめることが難しいのです。才能がある人、優れた人はたくさんいましたが、5年、10年でそのことをみつめつづける人がいないですね。ここにいようがやめようが、そのことをきちんと育てていけば問題ないのです。それは、自分の中で研ぎすまされた基準をつけていくしかないのでしょう。
私は20代のころから、40代、50代の天才的な人間と生きてきましたが、いかに一人の人間がすごいものかというのがよくわかりました。その人間がその人間としてではなく、何かが乗り移ったような瞬間で生きているとき、人間が人間を超えるのです。ここにもそういう人たちもいます。
歌なんて聞こえなくってもよいし、ことばがどうなってもよいのですが、その人が何を持っているのかということが出てこないと、器用で受けのよい人だった、とかそういうことで終わります。残っていく人はどこかでそれを知っているようです。能力に+αされるものは自分の力でなく、天啓的なものですね。天が何を与えてくれたか、ということをもっと見ていないといけない。それを見つめていくことがこういうことをやることの前提にあるのです。
ここもそういう意味で使いきってもらえたらよいと思います。いろいろな立場はとれると思いますが、人の土俵と考えていたら、いつまでもどこへいっても人の土俵でしかありません。自分の立つところを自分の土俵にできるのがその人の力です。それを自分の土俵にするために、たった1曲の中にどれだけものを詰めるのが大切か、大変なのかということをわかってもらえたらと思います。自分のために、5、10年後の自分のためです。
それを補うために人間にはイマジネーションがある。どんなに体験してもそれが入ってこない人はよくありませんね。でもイマジネーションも体験してこないとなかなかわかりません。一つの体験の中からどのくらいイメージをわかせるか、気付けるかのくり返しです。深さや大きさです。プロというのはアマチュアが4時間かかっても100人かかってもできないことを一瞬でやってしまう人たちです。奇跡を起こし続けているわけです。
私はいろいろな人たちと長くレッスンを受けていましたが、何十時間も一緒にいて、たった1秒、そのことに気づくためにいたということです。それで充分です。
回数で決めたり、先生のレベルをおとしめた簡単なレッスンにしてみても何の意味もないです。
わかりやすい考え方を求めたいのはわかりますが、わからないことから学ばないとよくありません。自分がわからなくても、そこにものすごく大きなものがある。自分の力がないからわからないだけです。学んだところから何か始まらないといけません。そういう勘違いが多いです。日本の教育がそうですから。自分の主張を明確にすることです。人のやることが許せるようではよくありません。しかし、それをいう必要はない、歌の中で見せればよいのです。ここで主張したいことも世界のヴォーカルがいるから通用しているようなもので、日本だけだったら成り立たないでしょう。もちろん昔の日本の歌はよいものが多かったし、今の日本にも曲や歌詞が優れた歌はたくさんあります。
でもこれからは世界でやる時代ですから、これからは日本人が日本人でなくなっていく。会社と同じで終身雇用というのがなくなり、才緑という才能のネットワークの社会になってきます。次の世代に生き延びようとしたら、その中心になっていくしかない。そこで間違えてしまうのです。アウトローでよい、と。それなら、人間社会と切れてしまえばよいわけです。本当の中心になることは中心にいくことではありません。次の時代の中心というのは周辺にあります。
これから皆が世界を築くのに5年も10年もあるのです。それだけあれば充分いろいろなことが何でもできます。皆考え違いを起こして、ここがアウトローだと思うのだけど、そういうことはないです。ここで大したことができないと思っている人はそれだけの話で、たくさんの人がすごいことをしました。ここへ移ってきて3年ですけど、私は30回以上涙を流しました。それだけ熱くする何かがおきてくる場をもてて幸せです。
できないのにやっている人は頑張ってください。できることをやらない人は番外です。準備してない限りチャンスも訪れない。生き方の問題ですね。
こういう場を使っていってもらえばよいです。何かやったという実感、でもそれを得るためには、それだけのことをやっていかないとよくありません。歌える歌を歌ったら、それだけで終わってしまいます。私がたくさん喋るときは、よくないということです。
きれいに歌えばよいということではないのです。歌がうまい人はたくさんいます。でも、熱いものを伝えられるかというと別です。本質をむき出しにしていく努力をしていかないからです。柔らかくなって、先が丸くなっていく。人間としては成熟かもしれないけれど、そんなものを見たいわけではない。私の勝手な意見かもしれませんが、才能、その人の世界が見たい。研ぎすまされている分だけ、残酷だったり、荒っぽかったりするかもしれませんが、わからないものをやってもらえばよいのです。今の時期からわかられてたまるかというふうに思ってやればよいです。もっと自分で考えて、気付けることがあるはずです。それをやり尽くしてはじめて、ここの場所のよさとか私がいることの必要性があると思います。
今のステップは、サッカーをやりたければ一流選手の動きを外からよく見る。一人ひとりの動き、感覚、足首、その爪先をみている時間です。その次に自分で自分のことを考え、気付けるだけ気づいて、出せるだけのものを出してみて、それで壁にあたるのです。そこに、こういう場の貴重さが、でてきます。そのためにここのレッスンやカリキュラムがあります。
どんどん試みればよいのです。そういうものはたいていウソになります。ウソもつきまくらないとわからないのです。ぼやけたまま一生を送るより、ましです。量をやるということはウソをつくっていけばよいのです。恥ずかしいほどウソにしてしまえば、そのうちポロッと落ちます。本当のことが学べてきます。
のどをこわしてもよいのです。人間は本能的に、体にたたきこまれていたら、回避する力がついてきます。ウソでかためられて、それがある程度のステイタスを持ったときにそれを剥ぐことをやれるかどうかです。自分のスタイルが決まると、どうしてもその中にはいっていく。観客もそれを期待しますから、なかなか捨てられなくなります。それがすごい冒険になってきます。
皮を剥いでいくと質に変わってくるようなものだと思います。好みでなくもっとあなた方の真実に近いところで選曲をするということをしてください。何を歌ってもよいのですが、なぜそれを歌うのかということを深く問うてください。
この世界の現実は厳しいものです。その現実に勝る本質的なものをもっと抽象化、シンボル化していかなければいけない。音の世界でシンボル化していくことによって、逆に誰もがそのことを感じられるように普遍化していくことです。言語や国が違う人でも、同じ気持ちを抱ける。そこまで高めていかなくてはいけない。そういう意味で音を使っているかということです。
オリジナルを模索していて、近づいているという人は、安心してみています。本人もそこに心が引っかかっているでしょうし、どんな表現が出ても見ている方も心地よいのです。そういう意味でもウソの世界に長くいない方がよいですね。ここでは、いつも平均点をとって終わる人ではなく、いつもは5点でもいいから、半年に1回でもよいから80点、90点出せる人を評価しています。
私のレッスンもそうでしょう。いつもいつも何かを与えている先生というのもよいかもしれないけれど、3年~5年のあいだに何度か90~100点のものを与えるものです。受ける側がそういう感覚でいたら、それで充分モトはとれるのです。ライブでもそうです。毎回うまかった人は心に残りません。5年も7年も消えない人は、たった1回でもよいから涙を誘ったり、心を熱くするものを出せた人です。広く薄くやればよいという世界ではない。どんなに狭くてもよいから深く何かを取り出していくことです。それが結果として広く認められるのはよいことだと思います。音楽や表現のところで人と接して欲しいと思います。たくさんの人と知り合ったとしても、ほとんど、3年後、5年後にはここにいません。どんな変わり者でもよいから、5年、10年たったら仲良くなれる人を見つけた方がよい。自分がよくなれば、他の世界にもいくらでもよい人は見つかってきます。去年の自分より伸びるということを考えてやってみてください。
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ステージ実習②
年間を通じて、曲目によっても影響されるのでしょうが、「オーシャンゼリゼ」に比べて、それを通じて何か出てくるものがないと、時代が違う歌、国が違う歌、当然今の自分がどう感じているのかというところで、きちんとしないとよくありません。それを音楽や歌的に処理していくときには自分の呼吸をもっとにきちんと考えていかないといけません。いつも自分の土俵で勝負しなさいというのは音楽とか歌の場合はそれが声や音の世界で取り出されていなくてはいけないのです。単純なことです。ことばでいっても、紙に書いても伝わるし、それ以上の何を求めて音にしているのか、伝えようとしたときに音や音色をどう使おうとか考えることです。
できないことが現れてくるのはよいことなのです。スポーツの世界であれ、芸術の世界であれイマジネーションなのですよ。それが人よりも働かないと、観客に負けてしまいます。もちろん、期待される通りにやる舞台というのもあってもよいと思います。皆のイメージにあわせてきれいに描いてみたようなものも。古い歌を選曲する人が多いですが、それは本質的なものをとるためで、それをやるためではないはずです。そこを間違えると、流行の絵をまねて描くのと同じです。
なぜそれをやる必要があるのかほとんどの場合見えない。昔を懐かしんだり、歌詞に共感したりということで選んでくるのかもしれませんが、それを音の世界に高めて変えて出さないといけない。感覚するのは誰にでもできることです。それを出そうとするとき、音の組み立てや音色、強さ弱さのバリエーションによってどういうことが人間の心に起きるか。
感覚でとって、煮詰める作業ができていない。声、音域、声量がないというのは、あとから解決していくことであり、そのことが舞台で出たら時間をかけてみれます。でもイマジネーションがないこととそのイメージを埋めようとする試みがないことにおいて、難しいです。
年間で1曲、2曲引き込まれるような歌を歌う人がいます。たった1曲、その人が歌える曲をみつけて、その時期にあった。ところがなぜここの舞台が1年半まででいいものが出て、3年目にオンしていかないのか。あるいはここを出たメンバーがそういうライブ活動をやっているのを、1、2年後にテープをもらって、がっかりする。なぜそんなことがおきるのか。体に叩き込んだものは忘れませんし、それを問うような活動をしていたらそうはならないはずです。それは結局イマジネーションの不足なのです。誰かのはしごの上でやっていたことに過ぎなくて、それをはずされてしまったら、何もない、何もないから自分の思いこみの世界にいってしまう。それっぽく弾いたり、歌っていたらもつように思う。日本の客は甘いので気づかなくなるのです。ここの1、2年で気づいたということ自体が幻想でいっている場合もあると思います。どんな人でもがんばっていたら一瞬プロレベルになれます。しかし、それを気づき、にぎっていないとプロになれないのです。
歌というのは盛り上げに欠けたり、熱いものがなかったり、そこに凝縮しているものが一つとなって現れ出てこなければ、あらかじめ描かれていた線をたどってみても、退屈なものです。今日もいろいろなものを聞きましたが、それで何が残っているか。多分音や歌以外のものが残っている場合が多いです。問題なのは自分の土俵にできていないことです。
自分のことを突き詰めて、選曲、課題曲をやってみる。課題曲は全員がやるわけですから、同じことをやってみても意味がない。そうしたら、違うことをやればよい。頭で考えて計算して、違うことをやってみても自分にフィットしないし、寸法に合わない。それを何とか合わせてくるというより自分がみつけてくることです。
曲と出会ったら発見して、その発見を作品というレベルで提示することです。その試みがないことが退屈な原因になるのです。そうでない人もいます。息一つ聞いていればわかります。思いこみや感情移入の世界とは違います。「氷雨」はそういう解釈もできる曲です。全ての曲にイマジネーションが働かなくたって、何かひっかかったらそれを持ち歌にしていけばよいのです。
1年、2年たってくると頭もよくなってくる。曲や他の人の判断も的確になってきます。でもそういう判断はあくまで自分に応用するためにやっていくものです皆。いろいろな武器を持っています。それの組み合わせや使い方によって、もっと強く使えるはずなのに、そう使えない。そこをサッサと次にいってしまう。そこで勝負しなければどうするのか。という部分がたくさんあるのです。歌1曲の中でこじんまりしてしまっている。初心者のように武器のありかもしらないし、扱い方もしらないというわけではないのですから、情況に応じてどう使うかということです。2年、3年きちんとやってきたら、これから先も、それと同じように伸びるということはないわけです。歌は見えないところの感覚が相手に伝わって勝負していくものです。特にポップスに関しては声量や声域の問題ではない。もし、そんな問題があるとしたら選曲ミスか、アレンジしそこねているからです。人の歌を人の歌のまま歌っているからです。
ここでは短いフレーズを何回も練習しています。ときどき、皆さんの中でもうまくはまったという瞬間があるでしょう。それを舞台と結びつけようとしないところに問題があります。それが出るのがステージですから、その2つをみえないということは、方向が違っているのです。間違えなく歌えても、伝わらなければ0点だという世界です。そういう部分で、体も情熱ももてあましているようです。
ここで1曲すぐに入るのは難しいかもしれませんが、できないなら、繰り返し練習するしかありません。丁寧に歌うことも、1曲としてのまとまりが出てくるのはよいことですが、まだ、まとめるレベルではない。もっと高いテンションを1曲の中で維持することの方が先決です。その人の声としては出てこなくても、感覚としてうごめいていたり、曲の端々に出ているかということです。
場が違っても自分の作品をきちんと歌っていかないと、どうでもよい評価しかもらえません。作品そのものを問う世界が成り立たないから、この国はやっかいです。曲はよい曲ですね。しかしそれだけではヴォーカルの作品ではありません。自分の全部を集中して出せば舞台というのは回っていくわけです。
今日は落ち着きすぎていたようで、ライブにとってはあまりよくないです。弱い表現、きちんと語りかけるものはものすごく強いものに支えられていないといけない。だからライブでもアップテンポのものが強いものをやったあとに必ずおきます。最初から弱いバラードではじめる人はあまりいませんね。1曲2曲で勝負しなければいけないときはそういうことも考えてみてください。2曲でステージを作れるとはいいません。どちらかで勝負してもらってどちらかを捨ててもよいし、別々に歌っても構いません。
一つにまとまっていないという感じがします。歌としてはまとまっているのですが、その人の表現とか、やっていること自体が作品を通してまとまってきていないという物足りなさがあります。逆に大事に抱え込んでしまって、歌の中でまとまっている。それはそれで一つの評価になると思いますが、それではもの足りない。もっと違うことができるという気がします。そのときの課題曲とか、雰囲気によって現れたり現れなかったりしますが、そいうことを感覚して勉強しているのであれば情況に応じて最高のものを組み立てて新しくステージつくっていくことです。
音や歌の世界でやっている人たちと、流行に乗って一流と呼ばれている人たちとか、声だけ出ている人たちとかとの見分けをきちんとしていかないとよくありません。歌がへたでもファンがいるという人たちはそれ以外のところでもっと魅力があるわけです。それはそれでいろいろな意味で勉強してもらえると思います。
声やそういった問題はそこにつなげていけないと意味がないですね。持てるだけのものを精一杯前に出したら、1曲だけではなく、1時間くらいその人につきあおうと思うのです。ウソでもよいのですが、その方向が動いているものとして舞台に出していかないとよくありません。止まっていたらよくありません。
1年前の歌を歌い比べてくださいやったことは何かということをきちんと確認してみてください。
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【ステージ実習②③④】
いつもはだいたい共通したコメントですむのですが、今日は参加者に幅があるので聴いた順に言っていきます。まずひとつが働きかけということです。歌とか声とか考える前に聴き手に働きかけるかどうかが先にあって、その上にその人の世界観があり思いがあり、それを歌で取り出す場合そこに音楽の線が走っていることが前提です。そこへ声とか言葉がおちてくる。その線が走っていないことが問題です。表現にならないところをやけに拡大してみたり、もうそこでやめたらよいようなところをだらだらさせてみたりしています。自分の中できちんとフィードバックできていないからです。いつも言っているとおり、人前で表現するにはなるべく最小で最大の効果を上げることです。
①クラスなら、とりあえず最大で最大のことをやっていればよいでしょう。そうでないと最初は体も心も入ってきませんから。でもみなさんの場合はそろそろその辺を使い分けてやっていかなければいけません。3分間でだらだらさせるくらいなら1分間で切ったほうがよいわけです。1分間で伝えきれないからそれが1分半になり2分間になっていく、そういうプロセスを自分の中でつくっていくべきです。
それから声の使い方が声の中に固まっているような気がします。実際伝えるときに距離をもう少しとったほうがよいでしょう。のどとか体とかにばかり意識がいっています。歌というのはイメージが音に溶け込んでくる、それを待って取り出していくものです。独立して声がある歌があると考えてしまうと、逆にそのことに限定されてしまいます。
私がここでしゃべるのに、こうして一番よい声だといって取り出してみてもわざとらしく聞こえるでしょう。自然さを失い何も伝わらなくなります。どのレベルで自然だとするかは難しいのですが、よい声を聴かせることがステージではないということです。もちろん、ものすごく声のよい人で、声だけ聞いていれば満足だと思わせる人ならそれでもよいでしょう、実際そういう歌い手もいますから。
でもそうでないとしたら、ばらばらです。イメージが音に溶け込んで歌が聞こえてくるのではなく「ここは高いところだ」「このメロディはこうだ」ということが見えてしまうのです。ここは難しいからこうやって練習しようというふうにすると自分をどんどん限定していきます。練習してきたのはわかるのですが、頭の中で決めつけていて、心と体がひとつになっていない。だからシンプルに見えません。
ですから④クラスのひとたちは、②クラスから見るとシンプルに出しているでしょう。歌が簡単な歌に見えます。それが力の差ですが、その前にそのくらいの感覚で歌をひとつにとらえてこなければいけないのです。たかだか3分間、そんなにいろんなことができるわけではないのですから。声の良さを誇る場ではないということですね。
どうしても声、音というものに限定されてしまうことに気をつけなければいけない。トレーニングと表現の場では違うと思います。聴き手はその人の世界が聞こえてこないと何も感じません。
課題曲は好きでもない曲でも、2曲のうち1曲を選択してくるのですからどこか心が動いたはずです。その中でその曲のよさや音楽性というものは受け継いでいかなければいけない。それとともに現代に合わないところ、自分の感性に合わないところは創造しなければいけません。その二つの作業をきちんと表現に結びつけないと、単に昔の歌が古く聞こえてくるだけになってしまいます。心と音楽性が聞えてくればよいのですから、あまり歌という型にはめないことです。たとえ認められなくても、なにかの世界がそこに確立していることが必要です。トレーニングによって感覚が変わり、それに対応できる体ができて、そのプロセスがここで出てくるように音声でひとつにする、そこでひきつけていくということです。
歌や声を勉強すればするほどひきつける力が弱くなるなら、それは勉強になっていません。そうなるときは自分に固執していることが多いです。イメージの浅さ、貧困さ、考え方の浅さも表れてきます。それが上達を妨げてしまうことが1、2年目は出てくるので気をつけなければいけません。なにか悪くなっていると思ったら、そういう部分が見えてきていないということですからゼロに戻す。ひとりよがりでそこで作品になっていると思うなら、一度やめて、お客に問うてみればよいと思います。ただその後、また戻すときにおかしくなってしまう人も多いのです。こんどはお客さんにわかりやすいようにとか、媚びるようにつくってしまったり、人の世界をまねていきますから気をつけてください。
音というのはとんでくるものです。働きかけがなければいけない。私はいつも目を閉じて聴いていてその動きを予想しています。そこで目を開けたとき、その通りに動いている人もいれば全然違うほうを向いている人もいます。働きかけようと思ったら人間の体は自然とそのように動くはずです。そういうことをもっと感じて伝えることです。
とくに②クラスの人は、言葉や音で動かしていくために声を使うのに、それが言葉、音で止まっています。感情を入れるというのは今のみなさんには難しいでしょう。たとえば「ギターよー」というように体から離してはいけないからといっても、体や声に意識がいっている限りそこで体を使ってみても「ギタよ」と、この瞬間にここで切れてしまうのです。きっと音楽というのは音声や声で伝わると思っていて「ギタよ」というところで体を使ったり感情を入れたりするのでしょうが、実際聴き手が受けるところというのはその後の部分、「ギターよ」...のこの後の部分です。その音を通して伝わってくる音色の組み立てです。だから内面を豊かにしていかないといけないのです。
イメージの展開がその人の中にないと当然声でやっていくのは無理です。単に「ギターよ」が声や音を通しているだけでは聴き手はそれを読み取れないです。「小さなたびだち」を、物語るのもよいのですが、「大きな夢」という言葉が出てきます。その人の世界の中で大きな夢もなにも感じていないし練り込んできてもいない。音とか音程とか言葉の中では解決したのかもしれませんが、それで伝わるはずありません。いつもいっているように、メロディや音の高さがあるのではなくてその心がそう動きたくなるからメロディがうまれたり、そのフレーズという形をとりたくなるのです。言葉とか声とか音で限定しないことです。言葉や声を忘れたときそのことが広がって伝えるわけですから。そういう部分がカチカチに固まっている気がします。
「小さなたびだち」とそこだけを一所懸命言っているのかもしれませんが、そのことが言葉の中で限定されていると伝わってこない。歌をひとつにとらえてみて、それを音声で舞台で表現すること、何を伝えたいのかをはっきり自分の中に持つことです。それを何で伝えたいのか、理由ではなく、声で伝えることでもなく、声の中のどういうイメージで伝えたいのかということです。リズムで伝える人、メロディで伝える人、いろいろといてもよいのです。言葉のところで分けられない部分のなにで伝えたいのか、その結果どうしたいのか、そういう絞り込みが必要です。
基本というのは自由を獲得するためにやることであって、基本によって限定させてはだめです。自由になったとき結果として体が動くために、基本のことを徹底してやるのです。ほとんどの人は自分をそこで守ってしまう。音がとれたら、その音の表現力を高めるために壊すことをしないでその音を守っていく。より深めていくとかより本質的な部分にそれをレベルアップするのは、守ることと違って闘いです。力をキープしたいがどうしたらよいかという質問がありましたが、キープするという考え方自体がもう守りなのです。より高いレベルに挑戦していればキープできるし、「これでよいや」と思った瞬間落ちていきます。これはどんな世界でも同じでしょう。
ここで歌をどうこう細かく言わないのは、歌はあなたの思うように作られていくということだからです。それが思うようになっていかないとしたら、どこかがおかしいということです。
ブレスヴォイス的な考え方だとかレッスンのやり方がどうのこうのと言いだしてくる人もいるのですが、私が皆さんの歌い方に対しこうしろといったことがありますか。私がここで一番努力していることは鏡になることです。ところが自分ができてこないと鏡がゆがんでいると思ってしまう人がいるのです。だから他の学校へ行ってみようとか他の人にアドバイスをもらいたくなる。それは鏡がゆがんでいるのではなくその人の目がゆがんでいるだけのことです。
思っていることを正直に言うと毒になるので新しい人にはカバーして言っています。伝わらない人には伝わらないのですからそれは仕方がないと思っていますが、ある程度わかってほしい部分はあります。それはどこに行っても同じだという部分があるということです。何ができて何ができていないかを見極めていくこと、見極めて、できるところで勝負していかなければいけないのです。
そういう点から自由曲の選曲などは全く甘いです。課題曲の方がまだその人のよさがでています。歌い手になろうという人は、200曲くらいのレパートリーがあるのはあたりまえなのですが、そういうものが入っていないから、そこまで、まずやってみるようにするしかないのです。ヴォイストレーナーの教える歌い方など全部捨てるべきなのですが、捨てろといっても最初に持っていないものを捨てようがないですから、まず持たせてから捨ててもらおうと思っています。
上達が妨げられていると思うならゼロにする、白紙にするべきです。そういうところであまり守らないことです。まわりからいろいろ言われたりして固めていってしまう場合が多いのです。白紙に戻したからといってべつに何かの権利を剥奪されるというわけではないのですから、歌も声も全部壊してみてもっと自由にやってみるとよいと思います。
ここは世の中の誰も認めなくても、何か本質的なものが出ていたら認めようということでやっていますから、全身で伝えてください。働きかけをすること、それが音で飛んでくること、声とか言葉でまとめてしまわないこと、発声で限定しないこと。動いた心がそこに出るためにどんな音にするのか考えることです。それがおりてこないならきちんと待つことで、おりてくるまで練り上げていくことが必要です。ここにくるとかこないとか、そんなことくらいで歌が左右されるわけではありません。
しかし、人間に働きかけるものですから、人間の中でもまれてつくったほうが早いと思います。海外にいくと、テンションの高さ、呼吸、スピード、どれをとっても、すごいものがあります。歌い手はショービジネスに徹しています。黙って出てきて歌って引っ込むということはありません。まず観客を緊張させ、ほぐし笑わせ、集中させる空気をつくってそこで乗せてから歌に入ります。その方がやるのも楽です。ステージではサービス精神を最優先にしているのです。そういうことも勉強していってください。
音楽観、イメージ、その歌で何を伝えたいのか、伝えたいことがその音を受けてどう変化していったのか、自分のことをきちんと煮詰めていったら原曲のままに歌えるはずありません。必ずフレーズが動いてくるはずです。音も変わってくるし、この言葉では、いやだというのも出てくる。その辺の練り込みが聞えてこないのは歌い手の準備不足です。そのために何をすればよいのかわからなければ、同じ歌を他の人がどう歌っているか、10人の歌い手がどういう世界をつくっているかというところからきちんと勉強することです。
ライブも、課題曲について、たくさんのパターンが出ていますから、いろいろと参考にしてください。自分より下手だと思う人からはたくさん学べます。うまいと思う人から学ぶほうが難しいです。たかだか声が出るとか高いところがとれるとかいうことがうまいのだと思ってしまうからです。でもその差というのは感覚の差であることがほとんどなのです。その感覚のところで勉強してください。
何回も何回も自分を見直し、音を見直しテープを聞き直しビデオを見直してやっていかなければならないのですが、その点はみなさんは恵まれているのです。昔の歌い手は何もないところでつくるしかなかったのですから。使えるものは使ってください。
ひとつにとらえられて、それがひとつになってストレートに飛んでくるというのが一番よいのです。あまり複雑になってしまうのはよくないということと、せっかく勝負できていたり聴き手を惹きつけている部分があるにもかかわらず、冗漫なところを出してしまう、その辺をもっと整理しないとだめです。長く歌うほうが歌い手としては得みたいに感じますが、聴き手としては短い時間によいところだけを出してほしいのですから、そこはもう少し整理のしようがあると思います。もっと絞り込み、自分のよさが出るようにしてください。人の曲の場合ならそこまで自分に合わせてアレンジしていくことです。
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ステージ実習2
1年、2年経って人の評価ができるようになるということは、その人の中で何かが育っているのです。その人がただ体や息で実現できないだけです。時間がかかりますからね。そこで短気に考えないことです。2年でうまくなった人もいるのに、自分はこれだけしかできない。だからダメだとか、才能がないという。
休み中にずいぶんいろいろな論文を読んでいましたが、声楽の世界では3年で基本。3年で基本を固めて、あとの3年でそれをチェックできる体制にする。その上に歌をのせていく。10年で基本なのです。歌い手の世界も、10年の仕込みがなくてやっている人なんていません。その10年のある時期、2・3年あって、10年間1回も欠かさずにそのことをやっている。その条件の上ではじめて才能の差を問わなければいけないのです。
一番大変なのは、カンが鈍ったり、トレーニングをやること自体が逃げになったり、歌うことが逃げになってはいけないということです。音楽をやることも、です。そのことで、表現という闘いや、人前に提示することをしなくなることが一番おかしいのです。
ここも、戦いの場にもなれば逃げの場にもなります。それを正すというのは、自分の中でその感覚がきちんと本質的なものをつかんでいて、自分にフィードバックされていくようにすることです。昔、ここを2年で出していたのは、2年経ったら自分で学べるということだからです。自分で学べるというのはメニュがわかることではないのです。自分で大切なこと、本質的なことが何なのかわかるから、他のところへ行っても、ステージに行ってもそのことを狂わせない。それがいかに大変なことかというのは最近わかってきました。OBを追っていけばわかるわけです。どこでその線からはずれていくか。
日本の難しいところは、それを本質的につきつめたところにゴールがあるのではなく、脇道に逸れたところにゴールがあるので、わからなくなるのです。体から徹底したものや、音楽的に徹底したものをつかむより、お客さんが求めるところを求めるように加工して出してしまったら、何とかやれるからです。それでよいという客もいるわけです。
それもそれで一つの評価です。それができないのにできてない人をどうこういっても仕方ないわけです。深さや意味より、「広くわかりやすく多くの人に」ということが目的となってしまうこの国では、音声や表現は難しいものです。
基本のトレーニングを積み重ねていくということは、それ以上の表現ができて、あるいは、その表現を支えるものになって初めて意味があるわけで、トレーニングそのものには意味はありません。それで意味があるなら、エアロビクスとかジャズダンスとかへ行った方がもっと健康的で楽しいと思います。
②③に対しては、どのレベルでいうか考えていますが、あくまでも材料としてよいものを提供するということです。どう聞いているかを材料にするつもりです。“ステージ&ソング”となっていますので、どちらでもかまいません。ステージでも歌でもよいです。自分の歌の勉強とともに他の人のも聞いてください。一人にいっていることは全員につながります。全員にいっていることは一人につながります。個性差が出てきて、音楽なり、歌の世界でいろいろな見方があるということでコメントが言えればありがたいと思います。
基準をどこにとるかというのは難しいものです。個別にいるときはその人の前を基準に考えています。②で甘いのではありませんが、③の場合、前はあんなによかったのに、という意味では厳しく見ます。皆さんの場合は私の中にそれ程、作品はインプットされていないので比較的同じ基準で述べていきます。だから、わかりやすいと思います。上に行けば行くほど、当人しかわからないようなことばになっていくものだと思います。
ケーススタディとしては②くらいが一番よいと思います。比べて聞いている人には特によいと思います。1番目から番号と曲名で進めていきます。よく意味がわからないといわれることがあるのですが、意味がわからないものをことばにしているからで、説明しろといわれても難しいのです。説明すればする程、嘘になるのです。レッスンの中でよく使っていることばや、他の人にも言われたことばを照らして推測してください。評価に入ります。
「ナポリは恋人」
出だしからぶつけているだけです。歌で評価するか、歌い方で評価するか、というのは難しいですが、結局最後まで何を表現しようとしているのかが感じられない。そういうことからいうと、悪い歌い方です。のどの状態が悪いとか、いろいろなことがあっても、感覚が出ないというのは歌としてどうしようもないのです。ことばだけ発してみて、転がしてみても、それはその人の能力以前です。
ステージのときにそうなったのか、勉強している途中の段階でそれだけ、音の変化や曲の意図とか、ことばのことを感じられなかったのかということです。結局、息で声をもっていっているだけということだけが残ります。
声のトーンからいうと、モノトーン1色です。1色の歌というのは特殊な歌です。この曲は音の展開のおもしろさや、その中でいっていること、その中でいっていることを音の感覚にうまく移し変えている曲ですから、そこが出ないと、全く意味がなくなります。ことばに動かされているだけになります。
「ラストダンスは私と」
入り方に関してですが、後半は皆入り方がよかったのですが、ことばがバラバラでカタカナっぽくなって、動きがない。こういう場合はことばからの勉強をしっかりやらないとよくありません。それからこれは日本人の歌に共通ですが、向こうの人は高いところをつき放しています。
日本人は高いところを放すかわりにひびきでまとめています。プロの歌い手はそれだからよいわけです。放しているだけではどうしようもありません。外国人はつかんだ上で、それを展開させています。これは全然違うレベルです。
高いところで踏ん張るか、あるいはひびきできちんとまとめるか、どちらかにしないと高いところという意味がなくなってきます。感情表現に関しては口の中だけでまわっています。これは原点に戻らないと切れがないまま、表現がつづくことになります。
ことばが流れから逸れているのです。流れの中にことばが乗っていないと、いくらことばが回転しても仕方ないのです。これは集中力の問題です。そのことに状態が専念できていないわけです。技術以前の問題で、いろいろ考えてやっていたようですが、全部小細工になっています。
「愛の讃歌」
ことば中心で全部運んでいますが、大曲のよさは出せなかったようです。小さな曲なら、マイクをつければ持ちますし、それなりによいこともあります。でも大きく踏み込んで大きく展開している中に時間の差を感じさせないとよくありません。速くなったあと、ものすごくゆっくり感じられる。そこに歌い手はたくさんのものを入れられる。球が止まって見えたようなものです。そういうのを丁寧といいます。その中で回転しているだけで展開がないですね。
「ただ2人だけ」とか「愛したい」とかいうのは全部、口先の中でやっている。伸ばすところは、単に伸びているという感じです。そうすると、とりつくろっているだけのことばになります。だから欠けているのは音のイメージ、感覚、表現、表向きになっているということです。それは心に伝わりません。
本当は2次元、3次元に変化していかなくてはいけない。そう入らなければいけないところで全部引いています。歌の世界の中に入っていません。歌に集中していないのです。本当は、こういうのはステージ以前のことです。一見、パワフルに聞こえなくても、しっかりとした作品であれば、ものすごいパワーがそこに入っているものです。
「愛のメモリー」
出だしは肯定的に捉えましたが、「なごりに~あなたに~」というところでは違う声質を使っていてよくありません。これは声の落ちつきのなさにとられてしまいます。当人の工夫だと思いますが、感情の強弱=音量の強弱という表現の仕方は単調です。一本の線上でいろいろ変化するのはよいのです。ただその変化が、線自体を変えるようにやるとよくありません。一貫するものがなくなります。
だからアーティストは歌いわけています。一本下に通しているものというのは、共通しているのです。1曲の歌の中でそこまで複雑にやると、バラバラになっていきます。それから、2番の入り込みですが、このように気持ちが入り込んでいくというのはよいことです。ただ引くところが全部邪魔しています。引くというのは最初は考えない方がよいです。強く出せば弱いところが出てきます。弱いところや引くところの勉強をするよりは、より出すことです。そこで自然に引くということで強さが増します。引き方もそうです。ただほとんどの人がダメになる中で、2番目に何か見えてくるというのはよいことです。
テーマが大きいので成りきり方が足りないと思います。どこまで成りきるか、というのも難しいと思いますが、もっと具体的にいうとスピードの高まりがないのです。実際のテンポではなく、そこで当人が考えるところのテンションです。歌の中でテンションというのは変わります。それが音色に反映されるわけで、音色をつくって、ここは弱く出そうとかつくっていくわけではないのです。自分の中で踏み込みたくなる。浮かせたくなる、その気持ちの上にテンションが乗ってくるわけです。だからテンションを高めてやればよいという話ではないのです。
「愛のメモリー」
入り方は、まあまあよかったと思います。でも切り方がボツボツしている。こういうのがさりげなくできている分にはよいのです。これに感情移入していくこと、表現との対立ができてます。音楽という線はある意味で消化しているが、ごまかしている。引っ張らないでおいていくところに音楽性やセンスを伝えようとすると結構難しいです。
逆に、この線を認めたとしたら認められないところが「朝の光が」というところ、「ゆーく」「そめーて」というところの変化は、そういった法則からはみ出してきます。逆にいうとさっきのことを認める人はこういうのを嫌がると思う。当人の中でもう統一性を持って、どっちにするか決めていかなければいけないと思います。
「美しい人生よ」のところからの感情の変化はよかったと思うのですが、してもしなくても音の世界に反映されていればよいです。これも個性の一つになると思いますが、ことばの生かしたか、変え方が全部ワンパターンで、私には退屈ですが、そのことが心地よく聞こえる人もいると思います。
「光のような」というところも、想いとスピードがずれているのです。想い込むことと、スピードどちらをとるのか。音楽のことでいうと、音の中でもっとスムーズに展開する必要が全体的にあるという気がします。
今日は、選曲によって左右されている人が多いです。今日いっている悪いところというのは、別の歌では生きてくるということもあります。
「愛のメモリー」
出だしはよいと想います。ただ「愛の」とかそういうところをシビアに歌うことだけが表現ではない、ということは知っておいてください。たまたまここにいる人たちにそういうタイプが多くなってしまうだけです。もっといろいろと変えて構いません。計算については、サビのところのスピード感覚が違います。テンポは変わらなくてよいのですが、自分の中で感じている感覚のスピードがもっと変わらないといけない。速く感じた分、速く出すのではなく、速く感じた分テンションを高めることです。
今日はアカペラで、速く感じるはずです。その感覚のところで同じになってしまうと、盛り上がらない。自分の中でドラムやベースの音を聞く必要があるのかもしれない。一人でやらなきゃいけないから難しいのです。だから2番までもっていません。もっと切れて熱くならないといけない。自分でブレーキをかけずにイマジネーションで補ってやることです。
動きが伴っていないし、サビのピークはもっと前に出してもよいです。そこで勝負をし終わってから、あとを歌わないとよくありません。なまじ配分しない方がよいです。皆が思っているより前に出し、高めた方が持ちます。持たせることの方が大切です。1回持たなくなったものをまた歌うというのは、致命傷です。
「愛のメモリー」
入り方は、今までの中ではややよかった方でしょう。あとにもっとよかった人が出ました。間の取り方のツメが甘いと思います。ことばの追い込みや展開もやや鈍いです。“やや”とつけているのは、その人の世界観が見えていないときに決めつけます。
どちらにしろ、「愛のメモリー」は、熱が集中していかないとダメな歌です。高い密度でやっていかなくてはいけない。2番少し変化がありましたが…。私の頭の中に3人くらいの基準として師をおいていて、その3人だったらどうとるかということを考えるのですが、その中で対立が起こることがあるわけです。流れがやや止まっていました。でも止まっていても、歌として違う面で気持ちが感じられたらややよいというふうにとりました。
そうでなく、1番のように流れの中に展開していくことを期待していたら、これはジャマだと感じたでしょう。まとめていえばジャマしたおかげで、流れが途絶え、それによって、その人のよさが出てきたという感じです。それは偶然性だからあまりよくないのではないか、
でも偶然というのはライブでよいのですが。一番困るのは、そのとき、その瞬間に、そういうものが出てしまったという場合です。こういうものに関してはノーコメントということです。ただこの曲は闘ったあとでないと歌えない歌です。そうでないと歌詞は伝わりません。ただ時期があるので、年齢に応じて歌ってみたらよいと思います。
「ラストダンス」
この曲が難しいので、どう評価するかということです。これは真面目に歌うと歌にならなくなります。本当は、声のよさや甘さで勝負するか、スタイルなどで勝負する曲です。歌での勝負を避ける曲です。そうでないと誰がやっても平凡になってしまいます。
「あなたの好きな~」あたりの入り方はよかったです。音楽と一致していた珍しい例です。「人と」あたりで2割くらい落ちています。ここで100%取り出せれば一つの音楽センスだと思います。あとは、盛り上げのトーンや「たびにでるのよ」というところが雑です。出だし100%で出ると、あとの評価は厳しくなります。
こういうシメ方や、音楽が普通にわかっている。(そんなに優れたレベルではないですが)構成がわかっているという人がいかに今日やった中の人で少ないかということです。他の人たちがまったく考えて歌っていないということです。この歌が平凡になって、その人にとっては没個性的だったかもしれなくとも、歌としてはよかったと思います。
なにも個性を出すことが歌ではないです。しかし、それが出てない人は1回出した方がよいと思います。
「愛の花咲くとき」
ややフンパーティング調でした。彼らは、イマジネーションよりも、そのことばを使って生きているわけです。日本人がまねしていうのとは違います。
もっと練り込んでいかないとよくありません。
雰囲気が似ているというのは一番気をつけなければよくありません。ハギレが悪くなっているというのは最大の問題です。フンパーティングみたいにやろうとしたら、フレージングをきちんとやらないといけない。それを全部対応してやろうとしないことです。声、フレーズが濁っていました。使い分けで自分の中で整理してうたった方がよいと思います。受け売りだと、こういう大曲はきついです。
イタリア語がカタカナになっています。それは語学の問題ではなくてことばの置き方を全て平均化していくからです。平均化していく手法もありますが、きちんとおいていくことです。息が伴わず平均的に聞こえるのと、息の上に計算して配分するのは違います。何か出てくる可能性があるのです。その証拠に後半はひびきのところに主張が入っていました。ただ未完成だから伝わりにくいのです。
盛り上がってワーッとなるようなものしか歌ではないわけではなく、何回も聞くに耐えるものというのは、押さえた歌い方をしています。そういうことから考えると、息と体がきちんと伴って、そこから自然にひびきに変化したり、ことばに変化するだけで、何も歌い手が伝えようと無理をしないでも自然に息を出していれば伝わるというところもあるのです。
何も余計な意図をつけたくないな、と思います。逆に私の手で汚したくもないし、ひびきでまとめてよりよく聞かせようとやる時期ではないと思います。そういう実験を自分で試みていけばよいでしょう。
少し、ことば、発音に敏感になることです。口触りを読みの中で楽しんでおくことです。ことばが転がっておもしろかったり韻を踏んでいたりするのが楽しいでしょう。その先に音楽はあるわけですから。ことばそのものを読むのが楽しくてたまらないくらいにやっておかないと、歌に入ったときに人のことばですから自分のものにならないのが普通です。
ことばのフレーズの羅列で終わってしまいます。それから、外国語はことばにすごい踏み込みとスピードが要求されます。体や息がついていかないときは読むか、セリフのようなもので鍛えることです。歌になったら出なくなる。日本語でも「ハイ」とか「ララ」とか音楽的日本語を使っておいて、歌になって出てこない。それを踏み留まらせようとすると結構大変です。それができても、流れができていないといわれます。それは自分の段階で考えてみてください。
全てつなげてしまうとよくありません。間や、言い切りがあることばです。拍は強く出て、あとはいい加減でもよいので強くやったところを提示していこうということばです。それ以外のところは弱くやっているところは余韻だと思って間と同じに考えていけばよいのです。
この辺は感覚的に全然違います。リズムや音声の表現の世界というのは、そういうメリハリの世界です。日本語らしく聞こえない方がよいですが、プロ歌手がどうしてあんなフレーズをつけていたのか、考えてみましょう。フレーズは大切にしたいものです。
「こわれかけのRADIO」
最初の2行はしっかり入っていましたが、音程の不安定が一番の原因です。「僕の~」から狂ってきています。ことば中心の世界にしてしまうと、どうしても音のところではずれると聞き触りが悪くなるのです。音の世界に身を委ねていると、それ程感じないのですが、せっかく入れたあとに音が崩れる。入れているのだから、そのあとの音の流れを予感するわけです。でもそのあと音がはずれてしまう。音楽というのは、それを確実に重ねていくことで効果を上げるものです。
こういうことも、2番を何度繰り返してみても、待たなくなる原因です。これは体から深く出そうとか、声を入れようと思ったときに、そのことができていないわけですから、どこかに感覚に逃げてみたり、全体の流れをとらなければいけない。
歌とヴォイストレーニングの一番の違いは「ハイ、ラララ」なんていうのは、この中で完結していたらよいのです。歌は、このことを完結させることによって、次のことが崩れるのならば、半分でも次のことを正しくやらないといけない。次々新しく出てくるものに対して乗っていかないといけないのです。本当は両方できないといけませんが、正しい声より正しいフレーズを優先することです。
全体の流れが壊れてしまうと、部分的な完成が足を引っ張ってしまいます。型と応用というのは違います。こういう場は両方要求されてしまうので難しいです。
皆が勘違いしているのは、歌うところは見ているのだけど、歌わないところをみていないのです。音楽というのは、余韻です。そこで人の心を惹くのです。
「翼をください」
最初から歌っています。歌の線が伸びているので、その辺の音楽教室レベルからいえば悪くないです。
でも2行目から持っていないです。歌らしく見えますが、歌そのものからいうとおかしいものです。
こういう歌い方をしたとき、一番難しいのはギクシャクしてくることです。
上下や共鳴の仕方が気になります。こういうひびきだけの歌い方は逆に難しいのです。クラシックに近い感覚が必要になります。つまり見せ方の完成度が問われるわけです。そこで主張もしないし、個人も入っていないのに、気持ちよく聞こえなければいけない。そういう見せ方は当然プロの仕事としてあるのですが、自分の適正とともに見極めていかなくてはいけないです。
「翼をください」
いいたいことはわかります。「つばさがほしい~」あたりからダウンしました。最初入るのはポイントですが、それがどこまでもつかということなのです。違う世界にいっていると思ったらどこかで切り変えなくてはいけない。発音というより音の深さの問題でいうと、「しろい」の“い”「つけて」の“つ”「ください」の“あ”「この」の“の”というと全部の母音ですが、歌になると一番苦手な母音の浅さに揃ってしまうのです。だから全部できない限り、歌の中でも全部できていないのです。それは一番やりやすいことばを使って勉強していけばよいです。
メリハリが息で雑になっています。この歌の場合、音の世界にどこかで飛び立たないといえません。ことばで限定してかかっているようです。ことばから音に入るというのはかなり冒険しなくてはいけません。身も感覚も預けなくてはいけない。少し感覚的な変化をことばからつけていくことです。音はそれを解放することによって感覚を伝えるのです。ことばの伝え方とは違います。その冒険をしていくと「い」や「あ」「え」といったことばがいえなくなり、雰囲気的に流されてしまうことがあるので、それはそれで補充しておかないといけないです。発声の問題がまだあります。
「翼をください」
基本的には落ち着くこと、自信をもつことが大切です。まな板の上に乗っちゃうとやりにくいとは思いますが、それを楽しんでください。入り方のイメージは悪くないです。でも2番のところで持っていません。ということは、そこまでの緊張度や、引っ張りがないということです。
1回目はわかろうとするからよいのですが、2回目わかってしまったところに同じものを重ねてみても動いてこないです。展開の線を出そうとしている試みがあるので、それがはずれているとよくありません。
集中力や声にあるレベルの力がないと、尻切れトンボになってしまいます。イメージの大きさがあるのだから、やりたいことがわかる。これは、ここでそういうのがわかるというのはよいことです。
ここでは皆、何をやりたいのかわからないのです。こっちに伝わらないのです。イメージの大きさに対して、体をつけていくことが大切だというのなら、これは待てます。音楽的な面を表現すると、バトンをなげて、それを一番高いところでとって、きちんと下まで流れでとっていくと力はいらないのです。手をゆだねればよいだけです。それをどこかで受け止めようと止まって構えていたりこっち側に持っていこうとか考えているから、うまく受け止められなくなる。どう投げるかだけなのです。
フレーズというのは投げたあとに、必ず落ちてきます。それを自分で読んで、待ちかまえていて、それでとらないとよくありません。一緒に飛んでいる人や、全然違う方向にそれをとろうとしたり、落ちてくる前にとろうとする人もいます。これは感覚の問題です。
スポーツの場合それが外から見えます。目で見える世界ならよいのです。こういうのを伝えられないのは、比喩を使うしかないし、使ったところで間違ってしまいます。
歌い方が上達してくるとこれから述べることも変わってくるのですが、今回のケーススタディとしていっていきます。
語尾を全て放す歌い方というのは、日本で歌唱力のある人がやっています。
それを初心者がやりはじめると必ず浅くなります。歌によってやるのはかまわないですし、日本語をきれいに聞かせるための一つの方法です。ただ、流れを切るくせがつくのです。歌い方そのものが浅くなる。エコーに乗るには芯のない声の方がよいわけです。そういう調整のなかでやると、体を使わないことを覚えてしまう。
覚えるのならよいのですが、体が使うことを忘れるのがよくない。歌い分けるのはよいのですが、その下に流れている意識のところでつくっておかなくてはいけない。練習で息を吐いてつかんだものを、舞台で歌うときもどこか流しておかないと、このような歌い方になります。ブツブツきれてしまって、ピークの作りようがないようのです。音楽が高まって降りてこなくてはいけない、という高まりのところへ向かう方向が全然できてこないので、何分間歌っても同じです。
そういう歌い方もありますが、その場合、全部に息を入れていかなくてはいけないし、一つひとつの部分的な完成をとらなくてはいけない。だから、日本語の歌をカラオケ的にやるなら、語尾を全て放した方がよいわけですが、体でできている人以外はポジションが離れますから、常に声立てをしなくてはならなくなる。たたみかけができないし、ピークをつくることができないのです。もっと息を吐くことです。流れをいちいちつくるのでは、苦しくなります。
自分で流れをつくるというのは苦しいです。伴奏なども流れと同じです。だから一曲の中で5回か6回息が流れたら終わりというふうにシンプルに捉えていくわけです。するとそのときどきによってまた応用ができる。捉えてからおき直すということをしないといけない。
一番よくないのは、息が入ってないと音符が見えて、世界が見えなくなってしまうのです。そこは、シャウトであろうがひびきであろうが歌の中に構成をつくっていかないと、3分で人様に与えるのだから終わらないのです。この辺は今回③の人全員に気なります。
ことばを丁寧にするのはよいのですが、それに振り回されないようにする。自分で押さえていかないとよくありません。押さえて、そのあとに解放していくのはよいのですが、だから弱くなるというのはものすごく難しいことで、なぜ弱く歌わせないかというと、強い線の方がまだ体や心が出やすいからです。だから、それ以上のレベルで歌っている人というのは、高音や、大きな声を出すのは、何も考えないで出します。そこで精一杯呼吸するくらいです。ところが、そこから小さなフレーズに落ちてきたところになると、全部の神経を使う。そこで集中しないといけないから、気を抜くところをつくるのです。
弱いところ、低音というのはコントロールが難しい。逆にお客さんに一番聞かれるところです。口で歌っているというのが一番ダメだと思います。ピアニストも、心と体、腰を使っています。体力、集中力がないとそれができなくなります。体と心を使って歌ったものしか伝わってきません。だから、息が入ってこない歌はダメ。スピードが基本です。今年は単純な発声練習だけで1年やるつもりでやりましょう。
どの世界にいっても基本を何年やれるかということだと思います。どこが違うかというと、息が瞬間的に入るスピード、それを出すスピードが全然違います。トレーニングをやらないでできたと思ってしまうのでしょうね。本当に差をつけるというのはそういうところしかないのです。
クラシックの人たちが単なる母音の一つや二つを何時間も練習するのと同じで、動きを止めてみないと動きはわかりません。結局発声といっても応援団と同じことしかやっていない場合が多いので、歌が宿るわけがないです。今日は全体的にバタバタしています。バッターは打つ前にピタッと止まっている。それから目線がきょろきょろしていたり、体が動いていてぴりっとしていないというのは、集中して動ける状態ではないのです。
どの世界で捉えるかということだと思います。音か、ことばか。
そこに対しては1年目からコメントしていません。私の能力の範囲に納まらないと思います。
合宿あたりで成果は出ていたのではないでしょうか。
何もしていないようでいて、他の人たちが全部あなたのことを書いてくる。それは、その人がその場を劇場化する存在なのです。歌がどうこうといっても仕方ないので、思うようにやってください。
歌ということで見てもらえるところはあると思いますが、習うということでなく、自分を自分で見つめていくことです。
一つの音で人が止まるとか、それがきちんと転がるプロセスが見れるような音を使うことです。当人が無意識にそれを行っているものに関しては、本人も私たちもとやかくいえないのです。私が皆に強いことをいえるのは私がそれをできるところかイメージの追いつくところで、できないものに関してはいえません。
ただライブの場合、アーティストが自分で取り出せないと厳しいです。その瞬間にうまくとれれば加工してやれるのかもしれません。
これも息の深さをどこまで要求するか、ということです。今の中ではまとまっている。息から声、ことばにしていくことだと、バランス、まとまりをとるとそうなっていきます。
ただこういう歌は高音で展開した方がよい。そのためにはひびかせて聞かせるか、踏み込んでインパクトを与えていくなどというやり方があります。
全く同じ形で進行していくと終わり切れない。一つのものは伝えられても、それ以上のものが伝えられるかどうか。単純にいうと他の人が出せない何かを出せたかというときに弱いです。
まだ感性、感覚のずれが直っていないようです。口の中で歌っている。いくつかは生きるフレーズがある。だからそれを取り出して組み立てればよいのですが、偶然性に負っています。
練習というのは意識してやるものです。必然にする努力です。
自分が歌ったフレーズごとに採点するのです。それで50点以下は捨ててよいのです。たった一ヶ所でも90点があればそこに何が宿っていて、生きていて、働きかけるかということを考え、感じる。そのことを曲の中で出していくのです。そこまでの練り込みをしてきていない。むしろ全体的に歌うことにいってしまっている。それを正すことです。
息が浅いことも、声たてのことも基本の問題です。要は歌う前から音楽が始まっていることが必要です。ワンクッションおく、ためが必要なのです。声を発している自分は深いところにいるということを踏まえていないと、音符がつなげるだけの音楽になってしまいます。心が死んでしまうとよくありません。音楽はそれを生かすためにやるのです。自分の心を閉ざしたところでつくったものはおかしくなる。体というよりは感覚から考えていくべきでしょう。
のどの状態がよくないです。こういうときは逃げ方を覚えるしかありません。ポップスですから、条件が悪かったというのはいいわけにならない。逃げ方を覚えるということが逃げないということです。今日はことばよりスピードをとったのですが、この曲でことばを殺したら成り立ちませんね。やってみたら何か出るだろうということはないです。他の人がやっている間に方法を考えることです。それからポジションのキーピングがうまくいかない。なまじ、うまくキーピングしている人は、乱れたときに音が狂ってしまったり、フレーズが持たなくなったりします。体とのバランスですね。ただそれはある段階で慣れて、体を使おうとしなくても動くようになります。まだ大変な時期ですが、その時にのどを閉めたり、部分的に働かせることに逃げることは覚えない方がよいです。音楽として逃げる方法はいくらでもあると思います。
これもまだクセがついています。ついたクセがなおらない。③になると乱れてくるのは頭が歌に入っていってしまうからです。歌は自分の世界を出さなくてはいけないから、声をこう使おう、などと頭が先行してしまう。②あたりは、体を使えば歌えるのではないかと単純に夢見て歌いますから、かえってストレートでよい。
どんどん出続けることだと思います。そのことで平均的に評価は受けられるでしょう。ただカラオケになりかねないところがあります。オリジナルな声の部分や息か声の流れをおろそかにすると、ついていけなくなるのです。結果的に今の歌謡界や、カラオケをやっている人を追いかけることになる。だから当然ダラダラなります。今の音楽は、声そのものの中にリズムや音楽性が入っていかない。そうでないのがオリジナルな声の可能性です。それをつくっていって、体につけていくようなことをしないといけないという気がします。
全体的に問われていることは、統一した感覚をもつということです。声たての問題も大きいです。②の後半部分は比較的よかったです。体が起きていないとダメなのです。よい状態であること。調子が悪いときは意識的に結びつけられるかどうか。それを知っているかというより、それをもってこられるかどうかです。
この二つがある中で、より息が吐けるようにしていくこと、体を強くしていくことが効果を生んでいくのです。声楽であれ、ポップスであれ変わらないのです。ただ、要求される度合いがどのくらい徹底しているかどうかです。歌の中での練習というのはできると思うのです。ポップスの人は1年たつと発声練習そのものに取り組まなくなります。そうしたら、ことばや歌の1フレーズでやってみる方がわかりやすいこともあります。その方が声が出ることもあります。
発声練習というのは最初は特殊なものです。歌は歌えて声は出るけど、発声練習になると声が出ないという感覚になる人も多い。やはり慣れがいるのです。自分の歌の世界でやれたら、それがむしろ近いのです。しかし、なぜ歌で練習しないかというのは雑になるからです。
基本の練習が雑になるのなら意味がないわけです。そういう感覚をきちんと磨いていくことを勉強してください。他の人のをきちんと取り入れていたら勉強になると思います。まだそこまでできなくてもプロと比べて何か違う、と思えば課題に落ちてきます。
地道なことをやるしかないです。それをしないで伸びた人は、ここにはいません。まだ、量の差だとしか思えません。精神の差はその後です。それは顔つきやステージに出てきます。それをあきらめないことです。今やっていることは、2年後、3年後に効果が現れてくるものです。今やらないと、今は大したことがなくても、何年かたつとダメになってしまいます。当人さえ気づかない場合が多いです。そこが一番難しいです。なぜ皆、2年後から努力しないのかと思います。
テーマ別のレッスンを増やそうと思っています。アドバイザーや講師の一番よいところがまだ皆の方に出ていないようです。皆のレベルや求めるものにもよりますが、その人の材料を一番よいものとして出してもらった方がよいので、もう少し絞り込んで、ここではあまり触れなかったことについてもやるとともに、細分化しようと思います。
しかし、何よりも自分の目標を定めてください。私もCDをたくさん買っていますが、計画を立てないと聞けません。そこで、やはり何か働きかけてくるものには耳を止めます。ここの場も同じです。私のペンが止まる歌を歌ってください。
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オーディション
昨日受けた人はお疲れ様でした。ライブですから「お金をとるとしたら…」という基準で考えます。合格は1曲ないし、2曲というのが、正直なところです。私が選考基準に加わらないのは、その人のなかで一番よくできたものを比較してしまうからです。でも、一番新しい舞台で一番よいものが出せるのが、学んでいるということですから、昨日の舞台だけで決めるのはあたりまえのことです。
何が足りないのかというと、何がやりたいのか見えないのです。ステージ実習やライブ実習から、オーディションというものに変化しただけで受け手に回っている。守りに入っています。オーディションというのはステージそのものでよいわけです。働きかけなくてはいけない。見せる、伝えるためには体が動いていなくてはいけない。心が動いていないといけない。
結局、よい曲を聞いて移しかえることはやってきていても、創ってないのです。加えるのではなく、ゼロから創るのです。おもしろくない曲を聞いても歌い手であればそれを読み込みにいかなくてはいけません。自分の活動をやっている人は一度全て捨ててしまい、勉強をするのならその中に開いていくに要素を見つけていくことです。
昨日のオーディションは、私は5秒~15秒のあいだに点数をつけています。それで最後まで聞いて、見直した曲は3曲です。ほとんど4フレーズくらいで決まります。そこで伝わらないと意味がありません。
今やって欲しいことはきちんと自分ができるところまで出すということです。これができないで5年、10年たっている人もいます。トレーニングをやっていくと守りに入っていくことになりかねません。それを破っていく努力をきちんとしていくことです。それは一つひとつのレッスンの繰り返しです。できるできないより、表現になっているかどうかです。それができない人は音楽的要素がいくつあっても歌い手にはなれません。
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X'masライブオーディション
昨日のオーディションの総評として、トレーナーがいっていましたが、
「悪くはないが、金を取るとしたら何かが足りない。」
何かが足りないと思わせるものであれば全くよくありません。
それ自体が評価の対象になってしまってはよくありません。
見てもらうなら働きかけがないといけない。受け手に入っていた点がよくなかったです。
昔は英語の歌やカンツォーネを使ってやっていましたが、シャンソンを使うと響きや、体の共鳴という一番ベースのところを知るためによいように思います。
シナトラの全集には全てが入っているわけです。英語、ステージマナー、ウィットや間の取り方、体のリズムの取り方など。
目に見えないことを感じられるようになってくると、洗練され磨かれてきたものしかステージで出てこないわけです。
昨日のステージ(12月ライブのオーディション)をみて。その人の中にどれくらい音楽が宿っているのかが第一の条件。第二に、それをどのくらいの技術や熱意で取り出せるか。この2つを持っているということが難しいことになってきているようです。
昔は歌うということは、そういうことだったのですが。
結局、その人の中の音楽性を高めることでしか気づくことはできないので、ことばがいくらいえても、いくらトレーニングをしてもそれがなければ歌の中には出てきません。
そういうものはどうやって勉強すればよいのかというと、ひたすら、その中に入り込んで、いろいろなものに気づく、そして、そこから脱して創れるかどうかです。
一人でコツコツやるしかありません。
歌一曲とは何かということからまず問わなくてはいけません。声、リズム、音感をそれぞれ得意とする人がいます。
でも結局問われているのは、歌の中にトータルとして見えないまま現れたものです。
自分のスタイルをもたないとやっていけません。
今日はそんなレッスンをやりましょう。歌を覚えて歌うことが歌だと思っている人が多いのですが、つくってこなければいけないのです。ことばを100~1,000回練り直して、音、リズムも同じようにやります。
それぞれの組み合わせからいうと何万、何十万くらいある。その中でどこまで選んできたかということです。プロのヴォーカリストというのは、20~30年もそのことをやってきているから、他の人より速くうまくできるということです。
皆がやらなければいけないのは、時間がかかってもよいから、優れたものを一つでもよいから創っていくということです。その一つが見えれば他のものも少しは見えてきます。
見た目にとらわれるとよくないので地味な曲を使います。彼女以上に感情
移入をしないということでは、案外とシャンソンというのはよいかもしれません。ジョルジュ・ブラッサンスの曲です。わかりやすい曲というのは、皆しだいでよくなる曲です。慣れていないととまどうかもしれません。