鑑賞レポート 826
何て自由自在な楽器。しゃべるように歌っている。いや、しゃべってる歌だ。ことばから生み出されるリズムの、自然で楽しいこと。人を楽しませる、魅きつけてしまう歌。ほとんど伴奏なんてなくても、歌で創っている世界。後半で出てきた女性Vo.の、体全体でうたっている姿の気持ちよいこと。私も、絶対にあんなふうになるんだ。と思ったら、すっごいギャップにぶち当たった。あんなに高い音まで変わらずうたえない。低い音も出ない。しっかりうたえなきゃ自信が持てない。人に伝わらない。考えこんだらキリがないけど、いつかは素敵なうたをうたうんだ。と思って日々歩もう。ナット・キング・コールと友だちだったけど、あんなレベルでつき合えるってすばらしいな。この間、観た、スティービーワンダーのメイキング・オブ・ライフにも仲間たちがたくさん出てきたけど、認め合う部分が、とても深いんだと感じた。
【ミーナ】
圧倒的な迫力を受ける。体当たりの歌い方に驚かされた。成熟した声を持ち、自信に溢れている。男性もびっくりするようなパワフルな歌声。ミーナを、先生が音楽的、音楽性という言葉を使ったりしていたけど、そのときはミーナの歌声を音楽的に聞けていなかった。私の中で日本語がやっとはずれたのは、ほんの最近のことだ。例えば、何か一つの言葉を歌うときに、それをフレーズとしてどう音楽的に処理するか、ということより、その言葉にはどういう意味が含まれていて、どういう気持ちで歌うか、とか、どういう風に言えば(歌えばではない。)その言葉として聞こえるのか、と考えていた。その結果、言葉を言い切ることの連続のような歌い方になっていたのだ。
昔の私は歌い手が外国人で、何を歌っているのか分からないと結構つまらなかった。今は、他のやり方で、歌い手の体の中に入っていく事が少しはできる。私が今抱えている課題は、歌にメリハリをつける、ということ。ミーナの歌を聞いていても、最初から最後までわめき、叫んでいるわけでなく、出だしは大抵、次につなげる為に、効果的においている。そして、聞き手があれっと思うようなフレーズをつけてくる。静と動の部分がある。体と心で自在に歌えている。静が3割、動が7割くらいのようにきこる。3割でもあるのとないのでは大違い。静というのは、息使い、声と息のミックス具合、安定感、その人の感性をより伝えられる部分。理解はできるのに。
ミーナの歌声で惹かれるのは、大胆な力強さと上昇感。次にどうでてくるのか、まったく検討がつかない所。高音をおなかの底からはる所もかっこいいと思う。観ると、ものすごくダイナミックに感じるが、それでいて女性的。声をおとしたときに、うまく情感を出しているからだろう。初めて見たのは、結構前で、化粧にギョッとしたのを覚えている。今観ると、とてもおしゃれなのだと分かるけど。目のまわり真っ黒にぬったアイラインのせいで、瞳がギロリとしているのが印象的。リップグロスをテカテカにぬっていたけど、似合ってたし、服装もセンスいいと思う。まつげは照明でとんでしまったのか、そってしまったのか。一度明るい所で見てみたいなぁ、と思う。
すごく軽く歌っている。声があふれ出てくるといった感じ。マイクがなくても伝わってきそうだ。歌っているとき、どこにも余計な力が入っていない。どちらかというとだらっとした感じさえうける。力が入るべきところにだけ入っているのだろう。歌にすごくメリハリがついているように思う。盛り上がったところで拍手が起こるのが日本とは客が違うと思った。声の出てくる感じとして体全体からという感じがする。アップで映ったのを見ても、喉に力が入っている感じはまったくしない。マイクを宙づりにして歌っていたとき、あんなにマイクが離れていても入るのかと思った。すごい。マイクなしでも届くんじゃないのだろうか。音の切り方が自然なのは体で息をコントロールしているからできることなのだろう。声が力強いと感じがした。声のパワーがものすごくて、圧倒されてしまった。どうやればあんな声が出るのだろう。ものすごい体がなくてはできないのだろう。
【ピアソラ】
『すごい音にはわけがある』踊ってる、踊ってないけど。歌に本人が溶けて。だからこっちが溶けてくる。「ロコへのバラード」語り、やっぱりミルバだ。そう感じるのは何故だろう。細胞が全開している。遠慮はいらない。舞台を走り回っている。ミルバ。そう300%ミルバ。走ろうとそこにいようと。楽器のみの曲だ。バイオリンはああいう音色も持っているのか。頭の中に勝手に作りあげているこれはこういうものの、何と狭いことか。しかし何故ああいう音あまり聞いたことないのだろう。最後ビューン、何て不安気。生きる哀しみ。こんなに激しい表情で歌っていたのか。いったんその人になっている。女優でそのうえ歌い手。うなる。こぶし。気持ちいい。何と安定していることか。
「アディオス・ノニーノ」美しくて何て悲しいバイオリンの音色、いってしまいそう。ビブラードかけた音の美しさ。あがっていって息がつまりそうになるその美しさ。全ての楽器で徐々に徐々に高まっていくその息苦しさ美しさ。絡み合い高まってそして結末へ。結末は何て悲しい音色。作曲家、バンドネオンの達人、アルゼンチン人。ピアソラは不動に近い姿で弾く。何が違うのだろう。
その名は「ファン・ホセ・モサリーニ」「来るべきもの」歯切れ、切れが違う。まったく。うちの包丁とよーく研いだ包丁(たぶん料亭かなんかの)との違いの様な。よく切れるから無駄に切ったりしない。必要なときだけ必要なだけ、スパッスパッと。その切り口の鮮やかなこと。比べて他の何とモッタラモッタラしていることか。切り口がグニュグニュで原型が何だかわからない。それくらい違う。「現実との3分間」まるで哲学だ。
「ピアソラとは親子の様だった。」と語る人。「音楽家として。新しい経験を踏むようすすめてくれた。努力を信じる心があった。彼の愛がそこにあった。ピンポンのようなやりとりがあった。」伴奏だったものを五重奏にして独立したものにした。バイオリン泣いてない。何が違うのだろう。悪い、と言っているのではない。弾くのではなく愛を伝えること。歌うのではなく愛を伝えること。ピアソラの言葉。「モザリーン&アグリ五重奏曲」ピアソラとは音楽の美しさ哀しさの深さが違う。あぐられない。比べてしまえば通り過ぎてゆく。立ち止まろうと思わない。低音から始まるバンドネオン。支えがピアソラより少ない。薄く感じてしまう。「AA印の悲しみ」緊張がピアソラのそれと段違いに違う。何故。ダラッタッタッタッはバイオリンをはじいていたのか。これも新鮮でいい音だ。体ごとでバンドネオンを弾いている。音色にしていくことがどれだけ難しいことか。できない。会場にいればこの音に入っていくのだろうか。
今日は疲れているから入ってこないのか。ピアソラなら入ってくる。何が違う。技術。それもあるだろう。でも技術が高まれば入ってくるか。それ以外の何かがある感じがする。「アサド兄弟」タンゴ組曲は彼らのために書かれた、ピアソラから。タンゴ組曲から「アンダンテアレグロ」キレがいい。キレはどうしたら出るのか。体の中でまずキレているかどうか。そしてそれをジャマしないで出してあげられるか。弾かれる音の何と生き生きしていることか。調子が変わるときの入り方の透明感の美しさ、楽しさ。調子が変わって入る1音の丁寧さ。「パリで初めて会い、曲を書くと約束してもらえた。あるとき嬉しさのあまり舞台に駆け上がってきた。いろんな個性を持っていた。激しく優しくわがままで。彼との出会いで音楽の喜びを感じるようになった。音楽人生が豊かなものになった。」スアレスパス。
「タンゴの歴史から酒と1990」すごいバイオリン。緩急が楽しい。弦の上を弓が踊っている。すばらしい。「レヴィラード」人をじっとさせておかないバイオリン。迫力でギター2人が負けている。泣き出しそうだ。小松亮太。ピアソラを聞くとこのままでいいのか、という気がしてくる、と。たちむかう気持ちになる、と。生き方そのものを変えられてしまった、と。音楽がこういうことをするのか。生き方を変えられた音楽に出会ったか。否。彼の演奏、何が違うから違うのだろう。バラバラだ。緊張が溶けちゃった。どうしてこうなるのだろう。
ブエノスアイレス。港だ。船がある。町で弾いている人。深く伝統に根づいている。3才でニューヨークに行く。ジャズ・クラシックを経てバンドネオンと出会う。多様性芽生え開花。
「リベルタンゴ」パブロ・シーグレル:ピアニスト。共演することによって逆に薄まっていないか。ピアソラと組んでた人のピアノは弾いちゃいない、たたいている。「こういう音楽の入り方やっとわかった」と。「アクセント、フレージングまったく違う。興奮した。一緒に共演してますます興奮・弾くことができて嬉しい」と。「天使のシロンガ」クラシックピアノの人は伴奏になってしまっている。いい所が出ていない、というのはこういうことなのか。1音1音がまったく違う。1音だ。そうでなく音をいくら持っていても駄目ということか。1音出れば後から音がついてくるのか。底力がある。フワフワしない音。流れていかない音。自分の行き先を1音ずつ決めていく音、意志のある音の連なりとしての1フレーズ1曲。「タンガータ」1音が違う。強さじゃない。緊張。集中が生んだ音。選んだ1音、流れない1音、クラシックの人のピアノの人うまいし音も綺麗だけど音にすごみ。がないのか。意志のある指。指が全然違う。
クラシックのピアソラへのアプローチ。ピアソラは新鮮。本当に優れておりすばらしい、と。そして誰にでも理解できる、と。ビオラ奏者が語るピアソラ。今世界がピアソラに夢中。突然とりつかれた。いったんそうなったら離れられない。心をつかんで離さない。天才だった。音楽に情熱を持っていた。バッハの影響を受けている。ヨーロッパ音楽とラテン音楽の融合からあの興奮が生まれた。種々の要素から魂を揺さぶるものが生まれた。
『リベルタンゴ』は現代社会を身近に映し出してくれる。作品の多くは聞く人の心を閉ざしてしまいがちだがそれは作曲家の多くが自己満足に終わっているから。偉大なアーティストは心の交流を可能にしてくれる.バイオリンのギー(コントラバスの人の靴音)ゾッとするゾッとさせて。「パチュリ」整わない不安なバイオリンの音、いいなあ。美しい曲。あってはならない音があえて入っている感じ。イヤ逆かもしれない。元々あったのにそれをどこかに置いてきちまっていただけなのかもしれない。すばらしい。「餃」ピアソラならああいう1音めの入り方しないのでは。
「ブエノスアイレスの冬」4人の演奏。歌ってない、語ってる。すばらしい。「ミケランジェロ70」ライトあたると手だけで生き物のようだ。それは何故だろう。「ブエノスアイレス午前零時」始まり方終わり方秀逸。70才でだ。今世紀に残る偉大な人間。彼は最高だった、と。すばらしい音楽家。本物だけを追い求め闘い続けて。重要なポピュラー音楽家。見習うべき生き方、天才。いつも叱咤激励されている気がする。とにかく一所懸命やりなさい、と。一人の人としてすごい人が音楽を愛するとそこにすごい音楽が生まれる。でもそれは闘いの果てに、だ。
【スティービーワンダー】
「人生をかけたアルバム」とまで言われていた「キー・オブ・ライフ」。スティービーワンダーは前から好きで特にこのアルバムは何度となく聞いたけれど、こんなに気合いが入っていたのは知らなかった。曲と曲のつなぎ。構成も最高にいいなぁと思っていたけれど、アイシャの泣き声を曲の中に入れたりする偶然との出会いも自由に取り入れるアイデアが楽しい。ハーモニカも間違えたまま録音してしまうのも、そのときのテンションの方を優先する姿勢というのが見えて思わずニタニタしながらうなずいてしまった。自分がやることに責任と自信があるからこそいろんなものを自由に取り入れることができるのだなぁと思う。
ハープ奏者のアスビーをレコーディングで使った。メディアではまったくといっていいほど取り上げられていないアーティストを自分の耳でたしかめよいものはよいという信念のもと使ったのは世間一般の流れに毒されない強さも感じた。また「ゲットーではドッグフードを食べる」という歌詞からもわかるように、人種差別、貧困とも真正面から向かい合って自分のおかれているそのときの状況からなにができるのかを考えてつねに発しているのではないかと思う。そして自分が歌をうたうことができることに常に感謝しているというのは忘れてはいけないことだといたく感じた。インタビューでいろいろな人のコメントを見たけど印象に残っているものがある。これは「最高の人」を自然にしていること、偉大なアーチストというのはやはりハートが大切なのだと思った。
【フランク・ザッパ】
『個性を大事にする』「ZOOT ALLULES」音切って切って揺らして、ふくらませながら揺らして。ほとんど家からそのまま出てきたカッコ。でもみんなNo Troble。「いかがわしくてよい。楽しみたい奴だけを楽しませる、この姿勢が全てだろう。自分のやりたいことだけをやる。誰も聞いてくれなくても変えない。生き方だ。誰も自分を理解してくれなくても生き方を変えない。どうでもいい事はあわせるが、根本は駄目。すぐバレる。バレなくても自分がニコニコしない。ごまかしているときは。でもやはりこの事をこれだけ徹底してやれる力というのはすごい。
いろんなごまかしがある。この人は自分をよく見つめてるんだ。見てなきゃできない。あの眼。ミュージシャンであんな眼の人を知らない。冷徹な眼、思考。歌詞は考えている事だ。やりたい事をまぎれもなくやってはいるのだろうが本能のままとか、そういうのとまったく対象をなす所にいる。歌い終わった姿は解放された姿ではなく一仕事負えた姿だ。いい悪いではなく、彼のやりたい音楽がたまたまそうだという事。彼の様な音楽が大多数の事だってありうる。たまたまそうでなかった、という事。その事とその価値はまったく関係ない。やりたい事をやっているだけ。自信とか何とかでなくやはり生き方。ドラッグやらないの異常。そういう世界なの。冷徹だけどそれを貫ける、というのは激情の人。でなけりゃあれだけメッセージおくれまい。冷徹で激情の人というのが成り立つのか。他にこういう人みたことあるだろうか。ない気がする。すごい個性。大事にしたんだ。偉い人だ。
【ベッド・ミドラー】
『「全てを投げ出す」ってああいう事か』どうせやるなら、ああよ。徹底してやる。中途半端は駄目。やるならやる、やらないならやらない。やるならキチッとやる。楽しい。ジョークを本気でやる楽しさ。雲のデザインが笑っている、開いて出てきた、オバケが、いやベッド・ミドラーが。楽しい。実に。楽しませてくれる人だ。出方としてごっつういいのではないでしょうか。
笑わせるMC.楽しいMC。いっちょまえに傷つく。まだ傷口がふさがっていない。でも理想は高く。こうでなきゃ。何のための声ぞ、何のための口ぞ、何のための手ぞ、何のための足ぞ、何のための表情を作る顔の筋肉ぞ。傷ついている割には強気。要はベッド・ミドラーがその元気をくれた、という事。すごいんだなあ。人とはこういうものか。絶対卑下しない。少し自慢する。この加減は品性が影響するんだろうか、直前に食べた物が影響するんだろうか、両方だろう。仲間を立てる。思ってないなら嘘だとすぐわかるから駄目。仕事やってる人が楽しく仕事ができる。智恵のある人だ。客席を見る、見て素直に反応してMC、おべんちゃら言わない、でも傷つける様なことも絶対いわない。思ったところを選りすぐってでも素直に。そして300%で歌に入る。ここが何よりかんじん要。どんなハプニングが起きても根性で。鬼になって入る。そこで切る。言うは易し。歌って踊ってる。あたりまえの顔して。しかしよく動き回る表情だ。飽きない。楽しい。
高い場所のお客さんにも笑顔をおくっている。何て美しいんだろう。歌うたたずまいが、寝ても座っても立っても全部自分の姿を知っているんだろう、女優なんだ。ベースの音を一音だけ自らはじいて終わり、演出。
「The Rose」第一音から、第一声からすばらしい。下品なMC、上等だ。何でもあり。こんな楽しいステージあっていいのだろうか。彼女の笑顔かもしれない、一貫しているのは。人魚だったのネ。驚かす。体張ってお客さんを楽しませている。思いきりアホらしくてそのうち悲しくなってそのうち幸せになる。アホらしいことをどれくらい本気で楽しんでできるか。楽しませる楽しませる、どんどん幸せになる。どんどん幸せにしてくれる。体で心で。美しい、容姿が。それ以上に心う心が。
「From Distance」声に抱かれる、歌に抱かれる。内職までさらけ出して。あの曲は何というのだろう。全てを捧げて歌う。それはああいうことを言うのだろう。全てを。彼女は倒れなかったけれどあれは鍛えぬかれているから。他の歌い手だったらその場に倒れている。それくらい全て。一曲に全て。3分に全て。わかった、もういい、やめて、わかったから、抱きしめたくなる。すごい人。しかし3分。歌う人というのは…。たった一人の女がこんなにたくさんの人を幸せにしている。身を粉にして内臓さらして。幸せにしたいと思わないでできるだろうか、こんな事。体中で思ってないと駄目なんじゃないか。自然に頭でなくお客さんに拍手をおくっている。そう思っているからそう体が動く。踊りの人達をも讃える。「最高だったわ、有り難う」と。思っているからそのまま伝わる。
【叫ぶ詩人の会】
満ち足りてしまうってこわいな。何でもあるってこわいな。目的が無いってこわいな。その他いろいろ。自分で選んで自分で行動しないと何にもならないな。望まなければ何もないな。望まなければなにもないな。彼の詩の子供たちや人々のことを知らないのに、荒れた国・時代に生きてないのに、何で泣けるんだろう。彼の心につきささったもの、本当に感じて本気で向き合ったものの出口に、彼は“叫ぶ詩人の会”となったんだなあ。
与えられた問題を、最高点で突破することにどうして価値を見出してしまったのだろう。すごく小さなことでいいから、自分が本当に思ったことを伝えて欲しい。人が望む答えをさぐっているようでは自分なんて存在しない。一度、本当に、“おなかがすいた”としか言えない状況になってみればいいんだ。食べ物は、誰でも食べるけど、アートは自ら望まなきゃ手に入らない。食べ物は食べれば身になるけど、アート(や思想)は心が受け入れないと何もならない。日用品を買ってくれば使えるけど、心や感性は手に取れない。うんこやガラクタにならずにそれらはずっと生きる。人の心をあったかくして生きる。次の人に伝わって広がることもできる。
【江差追分】
『1つの歌:求める心をよびさます』のどと腋の下に針さしてる。歌いたい、もっといい声で歌いたい。支部の中にはり師がいるのか、来てもらうのか、そうするのがあたりまえの雰囲気だ。息吸って吐いてでお腹があんなに、あんなにボッコリしている。「はい、一節やって」と言われて一秒で出る。全部違う。歌いたい、という熱。ただそれだけ。馬鹿。馬鹿になれてる。馬鹿になれない中途半端な本当の馬鹿。自分のこと。準備体操、走って、体操して。あたりまえのこと。そして公園の池にむかって「かもめ~」。いったい、いったい何回歌ったんだろう。それでも足りない顔してる。今の自分の「かもめ~」じゃない、もっと違う満足いくものに近づきたい、求める顔だ。満足しない顔、でも飢えてる顔じゃない。今の自分を見つめて半歩でも、いや1mmでもよくなりたい、そして実際に努力を積み重ねてる顔。隣り合う人は求める仲間。
もっといいもの、もっといい「カモメ〜」。永遠に求め続ける闘い。いい顔してる。愚痴らない顔。いろんな思いがあるだろうに。全てを「かもめ~」の中に入れていく。三橋美智也氏の解説。「かもめ~」と来ただけで「じーん」とくるか。それだけの背景が、生きてきたプロセスがあるんだ。
一節来ただけでジーンと来たものあるだろうか。ビリーホリデーの一声だろう。「レディ・イン・サティン」。一声、一節、たくさんいらないんだ。大事なものは。ひとつ。凝縮、賭ける、他を捨てる、犠牲。与えられた手は一対。ひとつの手の平を握りしめる。たいした容積は中に持てない。でも左右の手の平を合わせて深いお皿を作る。入ってこれるものがある。ふっくらと握ってみる。また、そこにふんわりした容積が生まれる。安定している。実際に目にすることができる。確実なもの。人がその生涯で手にすることができるもの。自分にとっての余計なものは要らない。本当に欲しいものだけが欲しい。本当に欲しいものは、わかりそうでわかりにくい。頭だけで考えてもダメだ。動きながら見ていかないと、ふるいをかけて作業に入っていけない。ふるいおとす、何度も動いて、みつめて、どーしてもとっておきたいものと捨ててもいいものと見極める。時間がかかる。間違って捨ててはいけないものを捨てることもある。でも多くはなかなか捨てられない。自分で自分の動きを不自由にしている。
歌。そこを捨てれば全てが動き出すのに、そこを捨てればもっとよく自分が出るのに。何故捨てられないんだろう。まずそういう姿勢を意地できていないんだろうか。わからない。恐い。何が。死にゃしないのに。かみつかれるわけでもないのに。軽くしてないと動きが鈍る。坂道の先は海だ。懐かしい、函館のそれの様だ。その風景だけで甦ってくる時間がある。坂道で一日中過ごしていたわけではない。坂道は象徴だ。その投げかけられた1つの映像で自分の中に広がっていく世界がある。温度、湿度、色、臭い、明暗、音、肌ざわり、声、味、全ての感覚。人間は一瞬にしてこういう作業をやろうとしてでなくやる。1つの音、1つの声を聞いて限りなく広がっていく世界を持てるときがある。歌い手が投げかけてくれたものに一体になる。一曲の中で体験する。体験させてくれる。投げかけるものは1つ。たくさん投げかけたら聞き手は二つの世界を生きなければならなくなる。生きるのは1つの世界だ。行ったり来たりする歌もあるかもしれない。自分が感じているものしか差し出せない。それだってまったく伝わらないかもしれないのだ。どれだけ感じられるか、それをどうしたら伝えることができるか。
せめて温度を感じて歌う、せめて湿度を感じて歌う、せめて色を感じて歌う、せめて臭いを感じて歌う、せめて明るさ暗さを感じて歌う、せめて音を感じて歌う、せめて肌ざわりを感じて歌う、せめて聞こえてくる声を感じて歌う、せめて味を感じて歌う、五感が研ぎ澄まされてなければこの事はできない。でも1つが傑出する場合だってあるだろう。それだって伝わるかどうかわからない。
でも、ここからしか始められない。うまくなくていい。自分であること。うまく生きなくたっていい。力は限られている。自分の力は限られている。でもどの段階でも、いつだって本当は自分を生きることはできるはず。代わりの替わりのいない自分、かけがえのない自分、一人一人の人間。それしか生きてゆく道筋はない。他の人の人生を生きることはできない。大嫌いな道筋に見えても。誰も愛してはくれない。自分が愛してあげないと。嫌でも。丸抱えする。そこからしか始まらない。これができない。目をそむけて、見えないようにしてときを過ごしてしまう。抱っこしてあげればいいんだ、出来の悪い子程かわいい、というあの心境に達するかどうか。やっかいな自分。一番。でもそこに必死で立とうとして立ってる人はいる。踏んばる。何故、それしか方法がないことを腹で知っているからだ。
一曲だけのコンクール。予選を勝ち抜いて残った260人。勝負。歌点がつけられる。競う。何のために。その一曲を子孫に受け継がせるために、後の人に手渡すために。競うことのまわりは与えることで満ちている。その闘う姿が他者に与えるもの、歌が人に与えるもの、優勝者の歌声がそこに来れない、学ぶ人々にお手本を与え。自分が一所懸命生きることが。そのとき初めて結果として他者が何かを受けとる。「歌の力ですよ」か。作った人がいる。でも、その人に作りたいと思わせるその人をとりまく、積み重なるとき間を作ったまわりの人々がいる。
無人島に生きてときを過ごして同じ歌は作れない。人はいつも人と共にいる。自分を嫌ってるであろう、その人しか私に教えてくれない大事なことがある。私を嫌ってるかもしれない人からすら私は愛されてる。人が私を作る。自分が作っているようでフト思えば出会いが、全ての出会いがそうさせている。そう考えると本気で私、私という阿保くささも少し見えてくる。でもここは表裏だ。自分を持ちながら、でも結局は所詮何もない自分に悲しまずただゆったりと立つ。という事だろうか。悲しむことはない。たぶんそう作られているのだろうから。
板金工場経営者、主婦、要はどこにでも居る人々だ。でも、熱い。歌いたい、うまくなりたい、そして舞台に立ち、たった一人で舞台に立って、自分に泣いて、自分を奮い立たせて次の舞台で闘うために毎日を闘う。「江差追分」は民謡の横綱か。音程も節回しも憎らしい程難しい、おそろしい歌、大変な歌。8分の6拍子の「野ばら」みたいなもんだ。おそろしくはないが置き去りにされ楽しそうに先を進んでいかれてしまう。「老いも若きもこれをやると普通じゃなくなる」か。確かに賭けてきましたっていう顔してる。「うまかったよ」と言われている。うれしいだろうな、言われて。
でも欲しいのは「すごかったよ」。熱いコミュニケーション。たった一人でいい。人と生きる瞬間を感じれれば。人と瞬間を生きたい。人と。共に。かけがえのないとき。何故。細胞がそういう。私の中にある人類が誕生してから営々と続けられてきた“生きること”、その数え切れない人々の声。私をこの世におくり出してくれた愛しい人達。その人達の声。こんな私に話しかけてくれる。もったいない。
高校生と主婦が歌ってる最中客席から拍手をもらった。そのこぶし。節まわしのうねりに一緒にひっぱられたいのだ。ギクシャクしてたら途中でおりる人もいるかもしれない、ムチ打ちにしてしまうかもしれない。聞く人を気持ちよくひっぱっていく。ひっぱっていくんだ、と軽く重く自覚する。図面。ひっぱる道筋を示すもの。楽譜よりもはるかにわかりやい。直接的にクッションなしで伝える、という意味で。信州の馬子唄が江差追分になった、と。馬子唄:馬子が馬を引きながらうたう民謡で、息をながくひっぱるうたい方のもの。馬子:駄馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人。うまおい。うまかた。労働の歌だ。しかし何故息をながくひっぱるうたい方になるのだろう。
「江差追分」は遠い地の果てに来て、ここで生きる事に腹をくくった祖先の叫び。そうか、民謡の中に叫びがあるか。ジャニス・ジョップリンだけが叫びじゃない。人が生きている限り喜怒哀楽が日々繰り返され、叫びたい思いをかかえ、叫べちゃった人は、それで済んじゃった人はそれで終わっちゃうかもしれないが、叫ばない人、叫んでもまだ足りない人はその叫びを歌に託す。託された人々の想い。必然のある歌。生まれるべくして生まれた歌。そのプロセスが人々を駆り立たせつき動かせていくのだろうか。
追分名人、追分師匠と呼ばれる人が地元に40人。それぞれ職業をもってだ。時間の言いわけはきかない、という事だ。でも、そこに至るまでに道のりは各人違うだろう。焦っては駄目、止まってももちろん駄目。歩き続けたからたどりついた、とにかくそこまでは、漁師を生り業とする師匠、何ていい顔の人だろう。生きてきた時間が豊かさとして顔に刻み込まれている。追分道場が全国に107あり、そこの指導のために東京まで手弁当でかけつける。求められ広げていく。惜しまない。隠さない。持ってるものどんどん出していく。出し切っていく。こういう人達に支えられているんだナ。歌が人々を支え、人々が歌を支えている。歌が生きている。歌って何だろう。「チョット早いんだワ」と指導している。第三者として聞いている分にはわかる。でも、指摘されてわかったらできる、とならないこともわかる。しかし、すごい熱気。そう、この場から一挙一動、一声からどんなことでも盗もうとしている。そういう熱さ。うまくなりたいんだ、みんな、「江差追分」が。焦点がビッチリ合ってる。焦点がぼやけている自分。みんな「江差追分」を歌いたいのだ。とにかくどうしてもこの一曲が歌いたいというのはないのか。それがあるかないか、の決定的な違い。なくて欲しいと思うなら捜さなくちゃ、巡り合うまで。本当みんな子供みたいないい顔してる。西日本大会だ。「肝じんのものが欠けている」と指摘されてる。どんなに嫌だろう。自分が気がつかないからそう歌い、それを自分が気がつかないから教えてもらえたのだ。有り難うございましただ。理性を勝たす。それが結局自分のため大海の最中、それをテープにとってる。他の人のを聞いて勉強している。自分にあてはめて聞いている。「追分を習ってそれで死んでもいい」と語る人。誰かも語っていた。人を捧げさせる歌、歌の持つさまざまな表情。歌とは何だろう。歌に命がある。不思議だ。追分研究グループを作っちゃった人、師匠が歌ったテープがお手本。勉強しようと主場どんなところからでも学べる。散漫にさせては駄目だ。全てをとるとき、一つをとるとき。「難しい個所個人個人違うから、そこをよく聞きながら練習しましょう」か。普段歌ってるからこのかけ声で始められるのだ。
プレハブの練習場も作っちゃった。「どうしてもわからないときは、直接師匠に電話をかけて習う」。電話で習う、か。求める心とはこういうもんだ。2分30秒にピッタリ納めなければならない」一節の中でいきつぎすると失格。規制に文句をつけるのではなく、とにかくやる。できなくてもとにかくやる。海を皆に歌う名人。歌っていったい何だろう、と思わせる。何故そう思うのだろう。青函連絡船だ。威風堂々の姿。すばらしい。別れ。交わされるテープ。鳴り渡るドラの音。滑るように岸を、でも確実に離れていってしまう船。別れを味わう。別れを確認する。苦しくても悲しくても大事なこと。そこからなら人は歩き出せる。それでも歩き出せないときもあるけど、ここをカットしたらその足どりは浮いているだけ。浮いている事も気付かず歩くこともあるけど。本大会を前に特訓に熱が入ってる。特訓。訓練。繰り返す。とにかく繰り返す。鈍らせないで気付くか。一番練習熱な娘さん。ダメダメダメダメ。映っているときだけでも何回言われただろう。泣きそうだ。「自分ではのばしたつもりでも全然のびていないの、自分で確認出来たらとめに入るの。」「ダメダメダメダメ」。「自分が泣いたらおしまい。泣きたかったら大会終わってから泣け」「親指握って、くやしかったら握ってそしたら腹に力入るから」意地をかませるまで、何くそと思わせるまで教え込まなくてはならない、と。そうまでして教えたいと思わせる何かがなければ、そこにもいけない。たくさんの人の涙が見える。でもそれは闘っているから出る涙。本番で歌うその人の背景に見てくるもの。これがその1つ。朝8時開始。朝連ドラより早い。江差の舞台は雰囲気が違う。圧迫感が違う、と。子供も聞いている。みんな聞いている。飲みながら食べながら、横になりながら、あくびしながら。耳がある。おべんちゃらしない。いいと思ったら拍手する。歌を歌い手を育てる観客。聞きながら歌っている。こわいけどあったかい。こういう場を持ち続けている江差の人。歌への思い。思いを具体化する腕力。
参加した東京新宿の人。公園に12時近く行って、そこで寝ていたルンペンに文句言われる。そしてガード下での練習へ。没頭する。会場に来れなかった人の為に優先で大会の歌が街に流れる。熱を帯びた街。そこまでさせる「江差追分」という歌。出番待つ人、外で練習している。審査員の灰皿だって満パイだ。休憩は途中1回10分だけ。
入賞した人「色気を出した」と語る。人はなかなかチャラにできない。できているように見えている人もいる。何故できるのか。さっきの彼女だ。最初の一声が外の人と違う。でも、早い。終わって泣いている。ああ。「練習の半分でもない。舞台にいながら注意されて多少気をつけた、なんて言ってたけど、そんなんじゃまったく駄目。練習の延長線上でしか歌っていない。舞台にあがったら何もかも忘れて一所懸命歌わなければならないのに。不満です」まったく同じだ。舞台に立つ、舞台にあがる、そこは日常に違うところ。身を晒して、身を晒せるか、全てを。出てきた者がカッコ悪くても哀しくても滑稽でも、それ以外に出せるものなどドダイ無い。ペタペタはりつけたものはすぐバレるすぐ落ちる。でもペタペタはりつけていることさえ気が付かない。この歌は祖先への供養だと言う。じゃあ、お経みたいじゃないか。祖先の苦労を思えば立派に歌い切ることが供養になる、と。三橋美智也氏は背景を知っている
一つの歌が生まれる背景を。20人目の名人誕生。でもこれからが大変だという。技術だけでなく人柄まで歌に出していかなくてはならないからと。一生修業の歌。修業させてもらえる幸せ。「江差追分」という目標がある限り幸せ、だと。本当にそうだ。確かに「生きている」人々。そう、まさに熱唱。「江戸差追分」に関わる全ての人が熱唱している。歌。歌。不思議な「歌」。
【福島泰樹】
印象的だったのは彼の友人であり作家の、立花和平氏の言葉でした。
「言葉というものは生きているのです、でもみなさんが聞いてくれなかったら、いくら叫んでも言葉は生きてこないのです。」「言葉を取り戻すために彼は絶叫しているのです。肉体としてたましいとして取り戻すために絶叫しているのです。」「言葉は語られたり、歌われたりして伝わっていくのです。伝える言葉はたましいに直接きざみこまれ伝わっていくのです。たましいからたましいへ何世代にも渡り伝わっていくのです。たましいと魂が結びついて人の心に直接伝わっていくのです。」
【高橋竹山】
高橋竹山の音から学んだこと、一番印象深かったのは『即興曲「岩木」』でした。ほぼ光の世無い世界で生きてきた竹山さんの鳴らす三味線からは力強く激しい音が流れ、その曲は、信じられないほどビジュアル的なものでした。見たことのない風景が、木々だったり、吹雪だったりが鮮やかに光に照らされて目の前に現れてきました。竹山さんがインタビューで『上手に弾くことではなく、どれだけ気持ちを込められるのかが大切なんだ』ということをおっしゃっていました。
わかっていたつもりだったのに、『ああ、そうか。』と、とても感銘をうけました。上手になりたい、と強く思うあまりに忘れてしまっていたのかもしれません。そして、改めて気持ちを込めて音に、声に出し、人に伝えることがどんなに難しいことか、を改めて気付かされました。そのために、技術は必要だし、表現する場も必要。手段を選ぶことも重要だと思います。けれど、何よりもそれだけの気持ちの量が必要なのではないか、と思ったのです。伝える為に音にだしたり声に出したりすることは、気持ちの爆発によるものだと感じました。今の私に、それだけの気持ちをだすだけの、経験や思想があるか、といえば自信がありません。求めてはいるのですが。これは求め続け、アンテナをもっともっと張りめぐらせるよう努力すべきだと考えて、毎日実行しています。この気持ちが竹山さんには、いっぱいあるように感じました。激しい音色に日本人の隠された感情を見たように思いますが、もしかすると、あの時代に生きた人だからこそ弾ける音だったのかもしれません。
【黄金のロック伝説 ジャズ・ロックVol.3】
『BEATって何だろう。』任せている、ゆだねている。2本一緒に吹いている。やっぱりこういう人がいる。でも守安さんほどじゃない。しかし、どうして2本一緒に吹くのだろう。吹きたくなったから。人手が足りなかったから根性で。「ISLAND」女の人もゆだねている。ゆだねて出てくるのがあのメロディーあのリズム。出てくるものはみんな違う。ただそれを出すだけ。恥ずかしくても、嫌でも。でもその人の花が咲いている。他の誰が咲かせる花でもなく、その人そのものの花。出そうとして出してない。任せている。
「INTRODUCTION」これもバイオリン。何てイメージが自分は貧困なんだろう、いろんな音色。遊びに近い楽しさ。こんな音出た、それで何かできないでか、こういう使い方できないだろうか、必死の遊び。薄紫のズボンにあのブラウスか。そしてあの材質。すだれの様な服。おもしろい服を着る人達だ。音がすばらしい。この音はこうしか出せない。何て生き生きしていることか。
「21GATES OF THE CITY」何かものすごい組み合わせ。頭の中に入ってこない。頭で聞いているんだナ。たくさんの音がある。多過ぎる。わからない。全部が理由があってそこにある様な気がする。おもしろい。サックス2本のベースのメロディの不協和音のおもしろさが基本か。2人のコーラスの不協和音も、と考えるとそれなりに随分調和のとれた曲なんだろうか。基本にのっとってやってパッと見、パッと聞くだけでごまかされたか。おもしろい。でも、その基本がもしかしてJAZZなんだろうか。
「JURANUS」JAZZの自由さと違う自由さがある様名気がする。前の曲と続いたせいだろうか。型の中で格闘していくのでない。その外側が広がりとしてある様な。そこが楽しい。
「WATERFALL」滝か。どんな滝だろう。木、スリッパ、打楽器、パーカッションはとりあえず実験の様だ。楽しそう、ものすごく、みんな、声のパーカッション。パーカッション滝の様子を変えるリーダーシップだろうか。実験・かけ合いをデフォルメした感じ。
「BEATCLUB」BEATか。リズムクラブじゃない。ビート板。うちつける。コーヒービート。ギンギンじゃない。でもスネアドラム。の音は際立たない。広がりを感じるのは何故だろう。可能性か。
【ニューオリンズ・ゴスペル】
こういう系統のものに対しては、一生、観客だなーって感じがする。声がどうこう以前の問題。あたり前だけど。体もすごいし、一番、印象に残ってるのは、ピアノの鍵盤をたたく指。私の5本の指を全部合わせたぐらいの太さの。一番遠い音なんだろーなーと思った。“音楽は学ぶものではない。SOULから出てくるものなのよ”っていうコメントがあった。外から入ってくるものではなくて、内から出てくるものだと言うこと。1つ前に見たビデオの、バーブラ・ストライサンドの、“技術よりも何よりも、その瞬間の感情があれば、それでいい”っていうコメントに、共通したものがあったと思う。パワー、情熱、感情そのものが、炸裂した音の集まりを聞いた。情熱、感情、内なるパワーみたいなものが私の中で、彼らと同じか、それ以上高まったところで、Physical Strengthの、どうしようもない差は…と思うけどよく分からない。