レッスン感想 827
このスピードについていけない。「ハイ」でいつも握れないところだ。あの速度で入れない。出だしの時点で、そこから動きようがない。体に余裕を残せない。そういうふうに入るのでなく、大きく取って動けるように線を描いていくこと。速度は必要だがそこに留まってはいけない。遅れが気になると結局押し付けていってしまうので、大きさがなくなりつまらなくきこえる。今まで、普通そうして歌っていたことがわかる。突き進むようなところが必要。自分のフレーズというのがまだぼんやりしていてどっちへ行ったらいいか一瞬迷ってしまうときがあるが、練習の中で行きたい方向を見ることと、むやみにぶつけないことを続けていて、だいぶつられなくなってきた。しかしイメージやつかみ方の甘さは全部フレーズに出てくる。もやもやしながらも、こっちだというところが見えつつあるので、それをさっさと取り出して、ヴォリュームをつけるとか切るとか揺れる感触をきちんと確認したい。
つめが甘い。ものすごくはっきりしてくるはずだと思うのだが、そこまでわからない。半端なところで動きを付けようなどと思うとたちまち別世界のものになり不自然になった。歌ってはいけない。音を感覚できない体でその体を使ってもイメージは伝わらない。体を使うのではなく音を描く、そういう見極めを体の感覚できちんとできるようにすること。何もしていないときにそのことがわかっているつもりでも、実際出してみたときに勘違いしてしまう。歌ってはいけない。嘘ついてはいけない。そのことが概念でなく、音の感覚として内側になければいけない。少なくとも自分がやってしまったとき、気持ち悪いと感じられなければ。それより、あくまでも、それをやってはいけない、ということ。感情をこめることはその気分に浸ってみせることとは違う。それは、そういうものを見たとき拒絶したくなることでわかる。音楽の中で、こめるということは、こうしたいというのが鋭い1点にあって、それをその部分においてどこまで満たしたかということ。音として自分の中に持っていて、鋭く取り出せることにちがいない。
歌の中の媚びくらいおぞましいものはない。音を取り出すことをせずにぶつけてしまうのも同じことだ。感じている気分でいて実際何も感じていない状態。その差は計り知れないくらい深いのに、出たものについては微妙な差にしか、一見みえない。事実、ホントは微妙なことなのかもしれないから、そこをくっきり違えられること。そういう点はサビより出だしの方がわかりやすい。サビのあの盛り上がりというか強さは、最初に聞いたときから気になって仕方ない部分だった。どこまでも大きくしていくことが私はできない。それも実際にやってみると、「盛り上げよう」とすること自体が限定であり、シンプルに中心をつかみさえしたら、何も考えなくてもテンションで線を描き切れるということを感じる。体力、気力、器の問題。イタリア人並の力を見せる目的ではないから、全て自分の中に置き換え、その中で、最大にするとはどういうことなのかをつかみたい。
表情の勉強か。思いきり大げさにやって普通に伝わったのが表現の講習で学んだことの一つだった。思いきりやってみてから選んでいるだろうか。してない。結果全部やめるにしても。練習で思い切りやってみておかないとどんな1mmの可能性があることもわからない。新しい表現の種。大事な事をすぐ忘れる。見直さないからだ。何故見直さない、見直す時間をまずとろうとしていない。歩き始めるとすぐ走り始めてしまう。走ってもいい。とまって見る主幹さえつけば。繰り返さないために。私はその習慣がつくまでに時間がかかるのだ。時間がかかっても途中でやめればハイそれまでよ。いい習慣を身につける。簡単にはいかない。仕方がない。でもいい習慣はきっと私をたくさん助けてくるだろう。手に入れていない習慣がそう言ってる。励ましの言葉だろう。有り難い。
私にまだできていないのは、体の力を抜くことと、声に力を入れすぎないこと。体から声が離れてしまいそうで、ポジションをしっかりつかんでいないと落ち着かない。少しでも離せば、何か言われそうな気がしてしまう。指摘されたら、完璧にしてそれに答えたい。そう思いすぎるのも問題だ。逆に、完璧からかけ離れてしまっているのだから。ミーナのように、心と体が一体となり表現するものが歌であるはずだ。あたり前のことなのに、力がついてこないと、なかなかできないことでもある。
でも、あんな風に自由になれれば、本当にすばらしい気分だろうな。歌声に酔う、ということが、最近いろんな歌い手でできるようになった。ちょっと前までは、自分が本当に好きなものしか、素敵だな、とは感じられなかった。その歌い手の発散しているモノが、私の世界だと思い込んでいたちっぽけな枠の中のモノと類似した点がないと、拒否反応を示すのだ。今では、自分が音楽の世界を知らなすぎて、臆病になっていたのだ、とよく分かる。何事でもそうかもしれないが、一所懸命生きたり、何かに打ち込んだりした事がない人程、自分の価値観に自信を持っていたり、自分はすごい、とか頭がいいとか思い込んでいるものだ。そんな所でのん気に高みの見物をしている場合ではない。少しでも早く、象牙の塔から降りて、自分が本当にやりたいと思う事、その世界に飛び込んで揉まれてみるべきなのだ。そして、やっと自分のいろんな偏見に気付いてきたのであろう。きっと歌についても同じ事で、今、私の歌は私自身をそっくり現している鏡のようなものだろう。真面目で固くて怖がっている。でも、少しずつでも変化したい、変化してやるとは、ずっと思ってきた。すぐにミーナのように歌えるようになるのはまだ無理だ。彼女のように成功に裏付けられた自信がないから。でも、フリならできるだろうか。
息を吐いたときに、姿勢を崩さない。32分休符でブレスするときも、お腹が動けば楽。オクターブの練習、言い直さずにオクターブを取ること。波声、上下の波声、強弱の波声、やりすぎると気持ち悪く聞こえる気がする。あまりうまくできない。苦手。今練習すると、喉でコントロールするクセがついてしまいそうだ。今のところはあまり考えないでおこう。言葉の頭などに母音があったら、小さい母音と普通の母音を2回言うような気持ちで。確かにこうすることで、唐突に始まるということは防げる。
喉には3つの穴がある。食べ物、息、そして声の通る穴。そういう考え方もあるのかと思った。盛り上がる部分を歌うときに、声を張り上げない。何か模範というか、こう歌わなくてはいけないというようなことを押し付けられているように感じた。これを基本(この歌の)として、そこから自分なりの歌い方を考えていかなくてはいけないかも。
語り、小さい声のとき、より大袈裟に発音をはっきりと。昔話などを語るときにも抑揚があるように、
歌の語りの部分でも雰囲気を付ける。サビまでおおきなところは取っておく。言葉ははっきりと、母音を柔らかく入る。歌はうねっている、いきなり大きくなったり、小さくなったりすることはない。だんだんと自分の体の中のうねりを感じながら。舟歌の最後のルルルの部分でデクレシェンドしていくのが難しい。
歌には、その歌の持ち味というものがあり、最初はオリジナルの人のマネになってもしょうがないのかもしれない。でも、そこから自分のオリジナルのものを作り出していかなくてはいけない。このときに自分だったらこう歌うなというものがなくてはいけないと思う。カラオケの場合、まったくオリジナルと変えてしまっては周りがしらけるだけだし、ちょっとの新鮮さというのが適当だろう。カラオケで歌う場合じゃなくても、ある程度の核というものは残さなくてはいけないだろう。
具体的な歌い方の改善策についてアドバイスがあり、うねりの出し方など日本的(演歌調の)なコトバの処理などもわかりやすかったと思う。男性のトレーナー(作曲家。)がうたって手本を見せてくれるのだが、それは考えさせられるものがった。うまい、こなれた、点数をつけたら満点なのだろうが、きいていてつまらなかった。歌詞をくみとって表現しているのだけど、よくあるメロドラマをTVで見ているような距離感があった。カラオケ教室なのだからそれでよいのだけれど、うまくうたうことと人の心を動かすことはちがうと強く思った。そして今、私がやっているのは、くやしいけれどカラオケに近いのだと思った。大もとになる器、基本があって初めてどう表現をたくみにしてゆくかということができるのだと思う。
歌う前の約束事(基本)。①健康と筋力(体が楽器)②正しい呼吸③正しい言葉(発音、アクセント)④正しい発声⑤音程を正しくとる耳と声⑥リズム。この6つに個性を加える。個性の完成=人生の完成。人生を歌う=歌を歌うこと。自分なりの人生。歌の心を解き明かす、というところで何人かの人の言葉を紹介していた。
「歌はドラマその詩を作った人の気持ちを考えて歌う」
「どんな歌い方をしたら自分が出せるか。いい音楽をたくさん聞くこと」、「毎日の積み重ねが、ある日パーフエクトになる。繰り返す作業は単純で飽きる。でもこれが大切」など。自分に言われているようだった。歌の心を探す(意志を探る)。詞を読みこむ。楽譜(メロディー、休符)を見る。イマジネーションとクリエイティブが必要。歌詞とメロディーを分析、解釈(個性)していくこと。
体、呼吸、言葉の基礎訓練についてだった。体と呼吸、発声は日頃行っていることだが。発音はあまり意識してやっていない。今まで、自然に身についている(我流の)発音で歌えないわけではない。でも、今日「あ・え・い・お・う」の正しい発音(口の開け方、力の抜き方)をやってみると、その言葉がはっきり聞こえ、自分自身も声が出しやすく感じた。言いにくい言葉は、一度子音をとって母音だけで言ってみる。それから子音をつけて言うと言い易くなるといっていた。歌詞を読むときにやってみようと思う。
自分が感じているリズムを人に見せなくてはいけない。歌の中にリズムが出せなければいけない。曲を聞いてリズムをとることはやるが、それと歌の中にリズムを出すこととは別のレベルである。今日聞いたリズムパターンだけで20以上もある。覚えるだけでも大変。歌うとなればもっと大変。まずは、リズムを体に入れる。しみ込ませる。いろいろなリズムを聞く。歌ってみる。これを習慣にする。
もうずいぶん前から、どうして外国のヴォーカリストの歌は伴奏と調和していて、大抵の日本人の歌は伴奏と分離して妙な感じ(違和感)があるのか不思議だったが、今日のレッスンで、その謎を解く端緒を見た思いがする。要するに「調和」しているかしていないかなのではないか。曲に流れているうねりを理解しているか。意志(思い)やイメージをとらえているか。うねりと相関しているリズムをからだで感じてるか。それらを全て声に込めて歌として出しているか。ただ歌えばいいわけではない。それらを表現している一流ヴォーカリストの歌声が伴奏と調和し、さらに大きなエネルギーをもつものとなっているのは、あたりまえのことなのかもしれない。
自分一人でやってると思うな。自分一人でやれると思うな。でも自分がここに在って、自分一人で気付いて、つかんで、握りしめて、覚えて、しみ込ませて、のんびりと陽にあたって、融かして、忘れな。壊すのは陽にあたる前だろうか。
ここは、私の知ったどこよりも、具体的に細かくやっていて、まさに「研究所」なんだと気付いたけど、そうしてみるとここは私の知ったどこよりも観念的になってる人間が多いことも気付く。もったいないことだ。(もちろん私も含めて)それは「声・歌」そのものの見えにくさもあると思うが、ここに在るものが深すぎて、それを受けとる人間の択え所が浅すぎて意味が迷走しているような気がする。ここで使われている言葉には装飾がない。そのまま受け取れればいいのに、こっちが勝手に飾りをつけてる。でも、世の中をみると創りたてた方が真実が見えるときもあるように思うので、伝え方というのは難しいものだ。
音楽を支配しているリズム、音楽の中で舞っているリズムの感覚をつかむ。
ある種の音楽を創りたくてそれを形にする(作る)段階で曲やリズムが作り出されている。曲を作る段階だけでなく演奏する段階でも言える。単に何拍子かとそのリズムをとるだけでなく、演奏に入る前にうねりがある。
イメージや意志を大切にするためにテンポを守らなくてはならない。しかし、それは形だけではなく、イメージや意志と一体となったものではなくてはならない。それらをすべて声の中に込める。
からだの中で感じたものを的確にとらえる。深さとか息とか。それらを声や歌に込める。
これがバンドだったら、全員が同じノリをつくらないと1つの曲が作れない。
そう作りたいからこう作ってあるということを理解する。曲が違う←意志が違う、イメージが違う…ただ単にジャンルが違うとか曲が違うとかいうことではない⑦耳だけで聞き取るのではなく、気持ちいいところはどこなのかという見方を持つ。違いは何なのか。Black SoulだからRockだからJazzだからとかいうんじゃない。フレーズを聞くときにこれは何なのかということを考えて、突き詰める。ある種の。どうしようというイメージや意志が先にある。そして曲ができてくる。曲を聞いて、曲の中に自分でどっぷりつけ込んで、このイメージや意志を読み取る。
一音の中に凝縮しているものを感じとる。自分もそこに入り込んで聞く。こういうことがしたいからこういう声になっているというところ。そこに込められてるもの。その人が込めているもの。そのテンション、音やリズムだけとってもしょうがない。真似したところで何も残せない。その人が歌っている姿・表情を想像し、その音に込められているものを感じる。自分でそのテンションが出せるようにしておかないといけない。自分を投げ出せる状態。一音の中に凝縮されているものを感じとろうとするとき、耳だけで聞こうとしてもだめ。体全部をレセプターにする。1つの曲を、感覚器官としての耳だけで聞けばメロディーや歌詞は覚えるけどその次がない。体全部で受けとめて感じとらなければ、その歌に込められたもの(感情というより精神)はわからない。今までは、耳で聞いて覚えて、イメージして、雰囲気で歌っていたと思う。歌うときに自分の中のものを込めているつもりではあっても、どこか手探りしながら歌っているような感覚であった。
今日はまず聞き方が違った。そのヴォーカルが近くに感じたというか浮き出てくるというか、立体的というか、存在が近くにあった。耳だけで聞いているときにはこんなことはなかった。心にきた。愁いを帯びた声につまっていたもの。Desperado感じられていたと思った。でも歌ってみるとその感じ方と違うものになっている。これじゃない。そのまま出て来てない。何かが余っている思いだった。出し切れていないからそういう感じになるのか。思いを入れきっていないからか。セーブしている。メロディーを気にした。どれにもきっぱりとNoが言えない。何かを隠しているよう。さらけ出せない。上手かないんだから、言いたいことを思ったように言いなさい。Halleluiah。尻切れとんぼ。息が続かなかったのがだめじゃなくて息がプツッと切れたときに、込めたものもプツッときれた。素に戻った。自分の演技中に自分の幕をおろしてどうするのか。自分を人に伝えるということを考える。
フォームの大切さ.崩れたら戻る。
中心から出す、常にそのことをのがさずやる。
側腹と背中が動くことを感じる。そこに意識をやる。ポジションは立体の中心にあるもので、面の前側にのっているものではない。脇と背中が意識されて、背筋がのび、あごが引け、うなじが後頭部を抜けて斜め後方に伸びていかないとポジションは出てこない。
口でコントロールしてしまうのは、どんどん浅くなっていくから。深い所にうまく入っていけたときは口なんて全然動かず、動かすというよりは、ギュッギュッと握り直しているだけで、声になっている感じがした。
ポジションがつくれない。息がのどにあたるばかりになる。
自分の呼吸とつなげる。声が表面に出てくることに惑わされない。立体的な息の流れと常に一致しているように。そうすると、「伴奏に合うことが問題ではなくどのくらいずれるかを知ること」とトレーナーが昨日言ってた。言葉の意味がわかる。
まず、イメージラインをつかむ。体で。できるだけ正確になぞる差を知る。どこにムリが出るかを知る。整えて、やり直す。
練習をする中で感じていることは今までとは感覚が違ってきているということ。ほんとうに少しずつだが楽譜から離れて歌える可能性がみえてきた。プロの歌をきいてどうしてこんなにも大きな世界で歌えるんだと思っていたがからだの器が大きくなることで近づいてゆけるのだということが見えてきた。見えてはきても今までのように楽譜をおっていくような歌い方をするのでおさまりきらない。もっとフレーズを大きくとらえて歌っていかないとバランスがとれない。それと音感とリズム感はどうにかしないと大変なことになる。歌は全てが統一されトータルでみられるものでこのリズム感はベースにきちっとなければならないし音感もそう。音楽的な要素が足らなさすぎる。歌一曲歌うにはいろんな要素が必要でワンフレーズつくるにもいろんな課題があるということが今になってわかった気がする。それとからだから歌うことによってプロとのさまざまな違いを感じる。スピード、切れ味、ふくらませ方、深さ、とめ、入り方、メリハリなど何もかも違う。声に関しては今まで耳できいた基準はもっていたけれど、今回はじめてからだの感覚でこれでいいのだというものがもてたようだ。どこも邪魔しない出し方これを安定させさらにからだを強くし押し出せるようにしていく。6/6まで全力でやっていく。
ここのライブを見て、また昔みたいに積極的に出ていって何かライブをやってみたいという衝動にかられました。とにかく、傷つく事に恐れずに、何でもやっていこうと思いました。でもなぜか、一番大切な伝えたい事が自分の内側に無いような気がします。昔は今よりも、伝えたい事が山ほどあったと思います。それが年をとるとともに、そんな事をどこかに置き忘れてきたのかもしれません。それに歌とは日頃の生活と結びついてなにげない暮らしの中から生まれてくるものなのでしょう。そうであれば、日常の生活をもっと有意義なものにして行きたいです。豊かにしたいです。あまりにも今まで日常の中の小さな幸せを大切にしてこなかったと思います。毎日のただ、なにげない幸せ、たとえば、「今日はごはんがおいしいなぁ」など小さな感動をつみ重ねてゆきたいです。
本質的なものをつかみ、あぶり出していくということ。今は表面的になってきてしまっている。すでにあるものを選ぶ。1回選んだことで、自分が“選んだ”ことにしてよしとしてしまっている。本当は選び続けることが“選ぶ”ということなのに。心と体で考えず頭で考えているだけ。切り込めない。集団の中で相対的に動いているだけ。どこにいても自分一人で自分のスタンスで他のものにとらわれず立てること。ありったけ出して失敗して反省する。個々に深めて出してゆく。その個々が集まって結果として何かが出る場であること。個々にまっすぐ出していくだけ。(支えられ、作られた場ではなく。)。
個々のレベルアップしたことが場の力になってゆく。学んでゆくほど見えなくなる(書けなくなる)やれなくなったら基本に戻す。ごちゃごちゃしたことをやめる。素直にすっきりとやってみる。汚してゆかない(自分で)判断できないというのは基準をつけられないということ。体でつけられない。言葉や頭の中だけで考える。基準はプロとして足りないものと足りているもの。すぐれているものいないもの。体よい心の感覚の状態を正す。「きっかけ」。迷いを片付けてきて、つかんで、出す。失敗してもやめないでそのまま出しきってみる。量から質へうつしてゆけるようにする。
1つの曲をVocalistが歌う。1つのプロの試合。トレーニングをベースにステージという頂点へとつみ上げ、その頂点に立つ瞬間はすべて消化させ忘れて出す。自然に無意識に出せるためにトレーニングはあり。出す瞬間いかに自由になれるか。ファインプレーが出るのを邪魔するものをのぞいてゆくこと。不自然なものを。息が声になるまでねばる。ねらいを待つ。何に対してどう成果をねらうか。音楽と歌が同時進行すること。見えてきたことよい新しいものを次々に出してゆく。体をいかに合理的に使うか。与えられたものを材料にいかに自分のメニューにおとし込んでゆくか。
曲がってゆかないようにすることが難しい(感覚を常にチェックする)やればやるほど1つ1つの要素を結びつけて統合してゆくことが難しくなってゆく。時間をかければよい(ベースに)。ベースがひろがらないことが問題。ベースがひろがらないのにオンしてゆかない。のびられない。
言葉は誤解を生む。。書くのはよいが体でまずとらえる。ベースをひろげることができれば全身的になってゆきもっと大きな世界がつくれる。デッサンでわざわざ描いたものを消すような上面だけのことはだめ。自分の本質的なものを骨格としてそこに自分の肉をていねいにつけてゆく。よくなってゆかなくては意味がない。
天才といわれた人たちは並外れた量のことをやって多くのものを出し、書いてきている。心を使うようになること。素直にゆがみを自ら正せること。きちっと受け止めて弱いところを認めてゆく。。限られた命。命の働きかけによって正されてゆく。練習にミスをフィードバックし、発見したことを自分で直してゆく。
“表現に至らない”ことは失敗である。1ヶ所はずしたら巻き返す。最終的に負け戦にしない。(音声での失敗だけではない。ステージだと個人の出そうとしたところをまわりの力の兼ね合いもある)。合致して表現が伝わるところを誰でも歌えるところではなく、自分でなくては歌えない歌にしてゆくこと。技術は示せるが、もっと“自分”であることを出す。型以上のものを出してゆく。
人のカタチにのらない。。個々の色であること。“場”を正しく使えば正してゆくことができる。ニュートラル。何もできていないところであり、何も間違っていない。人のマネでない。自分が自分を変えたいところ変わりたいところをわかり、向かう。
積み重ね、1つ1つベースのことをやってゆく。あるとき、そういう毎日の中に何かができてしまう。。脱皮するように。あるとき異次元が突然くる。音の世界を自分オリジナル&絶対的基準を持って求めてゆく中でおきること。“基準”をつけず“待っていないと出たときわからない。
体が変わる。感覚が変わる。いい方に変わったら身を任せる。勘違いしない。内部の感覚で判断する。。プロのものでもどこでごまかしたかなどわかるようにする。
100%の衝撃を。60点70点を平均して出しててもだめ。一音でいいから90点を。可能性のあるもの。人がはっとするもの。原理が正しい。あるとき一瞬出る。次出せない。確立をあげるために手間ひまかける。一人静かに練り込むとき間を。確実に声にしてゆく。一番理想のところでぱっととる。毎日毎日の基準づけ。学び、確実に出す。
歌い手の技術はメインにならない。自分のスタンダードにする。“自分”とはと問いかける。表現。自分でわかっていても他人にわかってもらえないこともある。出してゆけばわかってもらえる。他のことをしっかりやっている人たち。みえている。歌の歌い方よいステージは1つ1つを組み合わせてよい効果を積み上げて。トータルでとらえる。生き方。何で“歌”か。そして自分のタッチで表現する。認めることからスタートする。限定しないこと。体は強くなる。リズムもよくなる。続ける。その上で、自由になれる瞬間を耳と心をこらして待つ。、