一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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楽器であろうと歌であろうと人前に立ち金をとるプロになるには最低限必要な条件がある。聞いている音をひきこむレベルで同じ事を繰り返せるということ。それには基本に支えられた技術と何度も繰り返し練習して身についた自分の感覚というものが必要なのだと思う。それとプロの条件というより表現者は出だしがどれだけ大切かということを常に意識してなければならない。プロは意識しなくともできるのだろうが自分の場合その出だしにどれだけ心と体を一致させることができるかということは大きな課題だ。彼の演奏の場合出だしというよりその直後のひろがりをもつ音にひきつけられる。いろんな始まり方があるだろうがその一瞬に全てをこめる熱さと冷静さの両方がバランスよくなければならない気がする。熱くなりながらも暴走しない為には土台となる基礎が必要だ。からだを楽器として考えると声と楽器の音は共通したものがたくさんある。どんな呼吸をするかでその音が違ってくる。息が一本の線として凝縮されていなければ音も密度のないものになってしまう。

 

ブルースハープの穴は小さい。そこに息を拡散せず送り込むのに口びるをとがらして息の出口をせばめてもだめ。それは声の芯をつくるのに口びるをとがらすのとおなじくらいおかしなこと。いい音というのはまっすぐ遠くまで響いてゆくものだと思う。それには息が何にもジャマされず一定の強さで伸びていく必要がある。自分のからだという楽器でいい音を追求するならば、声の通り道をいかにストレートにつくるかをまず考えなければならない。背中、首、頭を含めた姿勢、音の出口となる口、そして音の出発点となる腰、これは深ければ深いほどよい。どれだけ強い息をはけるかで音の鋭さも違ってくる。演奏する前に楽器をあたためるようにからだを柔軟に保っておくことも必要だ。自らが楽器となり奏でることを意識し続ける。彼の演奏を批判するわけではないのだが、どうしても外国人との違いを感じてしまう。よく感覚の違いは教えられないと言われるが本当にそうだと思う。私自身その感覚の違いが明確になっているとは言い難いが何か伝わってくるものの強さが違いすぎる。

 

ポール・バタフィールドというアメリカのハーモニカ奏者なのだが(歌もうたう)もうビート感が違う。強弱の感覚が違う。このビートが無ければ人の心はかきたてられないと思う。この感覚の違いはうたにも楽器にも必ずあらわれるものだろう。技巧のことは解決できてもこの呼吸の深さ、強さは感覚が変わらない限り解決できない。それとオリジナルのフレーズという点で考えるとスティーヴィー・ワンダーボブ・ディランのハーモニカはそれぞれの歌のフレーズと似通ったものがある。結局その人間の呼吸というものが元にあるからそうなるのだろう。音のクリアさ強さ、その強さの中での変化といろいろな違いがある。このハーモニカは何度聞いても不快には思わないがこっちの心をかきたて何度も聞きたいと思うものではない。躍動感みたいなものが感じられない。全身で表現するからこそ、そこにその人間の命みたいなものが宿るのだと思う。やはり秘密は呼吸の中に隠されている。

 

世界と日本の違いをわかり自分の中で基準を固めていかなければならない。求める場、レベルが世界でなければ基準など身につかない。一流の歌を聞き続けていれば何が不快かというのは頭でなくからだでわかってくると思う。QUEENの曲をうたっていたが発声できかせようとする歌がこんなにつまらないとは…。というよりフレディー・マーキュリーのあの全身をふりしぼり全てを賭けたうたい方、姿をみていたら聞いていられないだろう。全身全霊でうたっている人間の歌を真似なぞできない、だからこそオリジナルなんだ。感情をいれこんで言葉を伝えるには技術がいる。その技術がなければ伝えたいものがどんなにあっても限界がある。息をながしそこに声をのせているだけではだめだし、息のない声ももちろん通用しない。発声だけの歌では人間がみえてこない。伝えたいものがみえてこない。やはり、どう歌いたいかという問題が大きいと思う。伝えたいことがなければ息の上に声をのせているだけのうたい方で満足するだろう。伝えたいものがあってより多くの人々にその思いを届けたいと思うからこそ技術が必要となる。

 

そのステージの観客をみてこれは本当に大きな問題だと思った。どんな客でもいいということはない。以前マライヤ・キャリーのコンサートに行ったときとても嫌な気分を味わった。周りの視線を気にしながら立ったり座ったり、拍手をしたり、ゴルフバックを抱えたスーツ姿の中年男性は歌などまったく聞いてなかった。しかしこれがこの国の現実なのだと思った。

ステージは人と人との出逢いであり、そこに何かが起こり生まれるものだと思う。主体的に生きている人間同士でなければ何も生まれない。通り過ぎてゆくだけだ。ユーミンとモンゴルのホーミー、アルゼンチンタンゴアコーディオンバンドネオンを同じまな板の上にのせ比較できるものだろうか。

日本の中でしか認められないものって何だろうか。活動できるということは自分の世界をつくることより魅力的なのだろうか。身近な人間に認められることは、世界の人々に受け入れられることよりその人間にとっては価値あることだろうか。

求めるものは人の心、個としてこの私と向き合ってくれる人々。出会わなくては意味がない。ユーミンは自分という人間をみつめづつけ自分の世界を声を武器としてつくりあげてきたわけだからその才能は誰も真似できるものではないと思う。いろんな見方、認め方があるから批判することは意味がない。結局自分はどうしたいというところにいきつく。この世界とどう関わってゆくかということは考えなくてはならない。日本ではなく世界と。

 

モンゴルのホーミーを聞き人間のからだの不思議さを感じた。知識など何の役にもたたないと思わされるほど不思議なことだ。人間のからだのなかに宇宙がある。人の言っていることにのっているだけではその宇宙とは出会えない。自ら探検しにいかなくてはだめなんだ。モンゴルの人の人生観てどうなのだろうか。遊牧民族という日本とはまるで違う生活。人間の頭の中というのは生まれた国、育った環境によりかなり限定されてしまうのではないかと思った。皆が同じ世界に住んでいるようでまったく違う世界に住んでいる気さえする。私にとっての真実はひとつの命としてこの世に生まれ今生きているということ。どこで歌おうとそのスタンスを守りたい。うたは今生きていることを叫ぶものだと思うから。伝統を守ってゆくということは大切なことだろうか。守ろうとしなくとも多くの人間に勝ちがあると認められたものは必ず受け継がれてゆくと思う。守ることに固執するのは危険だとさえ思う。中心を握ったまま変化していかなくては血の流れないからだのように腐ってゆくだろう。核をつかみつつより広い視野をもてる人間だけがひとりの人間として、この世界とむきあえるのだと思う。ひとりの人間がひとつのことを長い時間と心をかけてきたことを思うと人間の偉大さを感じる。その熱い思いに感謝さえしたくなる。

 

音には必ず何かがこもっているものだと思う。三味線にしろアコーディオンにしろ人間の声にしろ必ず何か感じられるはず。どんな音にしろ指先で弾こうと口で吹こうと全てその人間の中心とつながっている。自分が楽器だと本気で考えると嘘くさい音は出せなくなる。音の密度というのは確かにあると思う。それは技術があるからだせる音ではない気がする。バンドネオンの男性が「この技術を習得するのには少なくとも10年はかかる」などと言っていたがそういうことを口にして恥ずかしくないのかと思ってしまった。また、それを聞き感心する人もいるのだろうなと思った。それはいいとして、プロの演奏は技術など感じさせない。人前に出続け自分の世界を提示してゆくにはそれ相応のものが自分の中になければならない。今この時期に吸収できるものはし尽くすぐらいの思いでやらなければと新たに気をひきしめられた。自分の力をつけそれを認めさせるには誰かと似たものではなく、自分の世界をもち、それに裏づけされた揺るぎのない基準をもつこと。どこまでもあきらめずにこだわってゆくこと。

 

アメリカ人は外国の音楽にあまり興味を持たない。まして英語以外の言葉による歌など聞きたがらないから、ほとんどの人たちがアフリカに面白い音楽があるなんて想像したこともなかっただろう。そんな不利な状況の中で、いくらアイランドの宣伝がうまかったにしても、アデの人気の爆発は、前代未聞の珍現象だった」と、その大ブレイクぶりは前代未聞であったともいう。それにしても何故、アメリカ人は英語以外の言葉による音楽を聞きたがらないのであろう。 

 

とうようさんに言わせると「ぼくはアメリカがワールド・ミュージックに冷たい態度を取ったのは、(アデ人気爆発の反動以外にも)もっと大きな社会の風潮が最大の原因だと思っている。冷戦の終結アメリカ人は国外のことに関心がなくなり、レーガン大統領の反動的な政治姿勢もあって国民の意識が後ろ向きに転じたのだ。景気が好転して自信過剰になったことも関係あるかもしれない」

そういう不健康な状況は21世紀には変えていきたいところではある(もちろん日本語の音楽もいっとかないとね)。

 

とうようさんのライナーには「変わらない、ということで停滞している印象を受けるとすれば、それは西洋人の考え方であり、われわれ日本人もかなり西欧化しているから、同じ傾向に陥りがちだ。経済にしても文化にしても、拡大し発展するのが当り前だと思い込んで、先進国は地球を破壊して来た。アフリカには基本的に、同じことが続くのがいいことだ、という考え方がある。音楽がまさにそうで、繰り返しが作り出す安定感を好む」などといったことも書かれて、興味深い話ではある。

 

 

 

 

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おすすめ

 

 

「Vメニュー100のメニュー61」福島英

「日本語の表現について」の中で、「フレーズ重視」が一番音楽的に伝えることができる歌い方だと書いてあった。それを読みながら、ふと「フレーズって何だ。」と考えこんでしまった。

この研究所の中で最もポピュラーで慣れ親しんでいる言葉なのに、以外とその概念について知らないということに気づいてしまった。

フレーズとメロディーとの違いを明確に考えずに混同していた。

フレーズ重視の歌い方は、1.唱歌風、2.メロディー重視、3.ことば重視のそれぞれの長所をとり入れた方法らしい。

そこで上記の3つの方法(言葉)の概念から考えてみた。

1の唱歌風は、いわゆる響きを重視した歌い方だろう。そしてほとんどの日本人のヴォーカリストがやっている方法でもある。日本語の美しい響きを大切にするため音色が綺麗で、朗々と歌いあげるので多くの日本人が慣れ親しみ、好む歌い方だ。しかし、この方法は体から息が流れていないと、頭に響かせただけのカン高い声になり、響きも浅く、1つにまとまらずに複雑になった音色になるため、声楽などを聞いて耳ができている人には汚く、気持ち悪い声に聞こえるだろう。最も、そうした声が今の日本では主流になっているが…。

2のメロディー重視の歌い方は、音色と音の動きを重視している。これは、昨今の音楽プロデューサーが好んで使っている方法でもある。さまざまな音色とリズムを使って、奇抜な音の動き(高低の変化)で聞き手に新鮮味と音の面白さをアピールするが、そのために音の動きが複雑になり過ぎて、かなりの実力を持った歌い手でも難しく高度な技術を必要とする。

3のことば重視の歌い方はことばの意味を聞き手に正確に伝えようとする歌い方である。ことばのアクセントやイントネーション(強弱と抑揚)を正確に知り、伝える技術が必要で、聞き手には歌詞の意味がストレートに伝わってくるが、ことばにとらわれすぎて、響きや音の動きを犠牲にしてしまわなければならない。逆に1や2ではことばが犠牲になりやすい。

そうするとフレーズ重視の歌い方とは…。フレーズとは…。自分独自の考え方では、フレーズとメロディーの違いは「音の動き」と「音のつながり」だと思う。つまりフレーズ重視の歌い方とは、音と音のつながりの間に息を流し、その息の流れの中に感情、テンションをこめていく方法である。これによって複雑な音の動きを単純にとらえることができ、息のコントロール=声のコントロールによって響きを調節し、ことばを明確に伝えることができる。そのため歌が音楽という枠の中で自在性を獲得できる。この方法は体の強さと息のコントロールを必要とするが、逆にそれさえ身につければ歌の中で自由に表現ができ、音のイメージから表現を感じとることができる。外国人には当然の方法なので、これを深く追求することはないだろうが、(もしかしたら無意識に追求しているのかも知れないが)、ここがフレーズ重視の歌い方について徹底的に追求していく場である。また上記の3つの方法についてもここで追求していくことができる。このことをしっかりと認識した上で、この研究所を利用していきたい。L懇でMCのこわさを知った次の日に反省をこめて。

 

和太鼓 

観て心がふるえた。最初は単調に聞こえて眠くなってきてしまったというのが正直な気持ちだけれど、途中からというか、ある場所から脳ミソが“ハッ”と目をさますのがわかった。自分にとって和太鼓というのは日本人でありながらあまりなじみのないもので、聞いたことのあるときのことを思い出すと幼い頃家の近所の広場で聞いたお祭りの太鼓、そしてその練習をしている夜に聞こえてくる音、記憶としては“うるさい”という印象が強く残っていてあまりよい印象はない。今回このビデオを観て感じたのは、太鼓を打つ人の気持ちの高鳴りがどんどん胸に直接入ってくる、変なフィルターは通さず、素直に入ってくる、そしてふいうちのように予想していないところで強く突き刺さってくる。予想もできないところで熱く突き刺さってくるから驚きと感動があって予想していたところでピタッとはまると気持ちよくなってくるそのくり返しが、なんとも言えない躍動感を感じることができるのではないかと思う。とても参考になったのはアカペラで歌をうたうのと同じということ、こまかく刻まれた音層は声でいうと伸ばしている部分、音は小さくてもちゃんとリズムをキープできる体力、持久力を感じる。自分の声もこれだけ自由に力強く、そして小さな声でもしっかりと響いてくる声を出せればいいなあと思ってしまう。人の歌声を聞くよりとてもわかりやすく、参考になった。そしてシンプルなだけに素直に感動した。

 

「透明な力」

本を読みました。ある武道の達人のお弟子さんが先生の語録をまとめた本なのですが、トレーニングの本質論的内容で一読の価値ありです。特にトレーニングに迷っている人、壁を感じている人には絶対にお勧めです。“いくら道場に沢山来たってできない事をただくり返していてうまくなる筈がないでしょう。(中略)反省しないでただ稽古に来ても何にもならない”“人に頼ってはいけない、人が自分を強くしてくれるわけではない。自分の工夫や努力で強くなっていくのだ。また、そういう人でないと本当に上達しない”などヴォイストレーニングに置き換えるまでもなく通じる所が多々あり自分も考えさせられました。

 

丸山健二

「まだ見ぬ書き手へ」という本を読んだ。小説というジャンルではあるが、本物の芸術を追求している人だと思った。アーティストとしての生き方みたいなものがすごく刺激になった。自分にここまでの気負いみたいなものがあるかといわれると少し困るけど。

 

アントニオ・パントーハア ルゼンチン

'91年10月に亡くなってしまった。彼の吹くケーナの音とうたう声は同じ様な音色でその音は大地のかおりと太陽の光のようなあたたかさがある。声って自然にさからわずに出せば、こんなにもいい音になるんだなぁ。

 

キング・サニー・アデ

ナイジェリアが生んだアフリカン・ストリート・ミュージックの王者の新譜「オドゥ~」

このキング・サニー・アデが今から15年ほど前に世界的に大ブレイクしたという事実を皆さんは御存じか。 82年にイギリスのアイランド・レコードから突然アルバムを出し、次の年にかけてアメリカやヨーロッパ各地で公演して大きな話題を巻き起こし、欧米のマスコミも大いに絶賛したと、中村とうようさんのライナーノーツにもあるとおりで、更にとうようさんのライナーを読んでいくと「83年と84年にアデはアメリカ公演を3度もやったが、その3度目のときはアメリカでの公演回数がなんと41回。これは信じられないほどの回数である。

同じアフリカのユッスー・ンドゥールサリフ・ケイタのヴォーカルのパワーには少し及ばないかもしれないけれども、サウンド的にはアデ特有のジュジュ・ミュージックと呼ばれるサウンドの軽快な疾走感よい躍動感はなかなかいいなと思う(本当に変わらない若々しさもね)。

 

ジミー・ペイジロバート・プラント

新譜「ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル」

なかなかいいアルバムだな。ボンゾ(もちろんレッド・ツェッペリンのドラマーの故ジョン・ボーナムのことです)の不在を嘆いても仕方ない。それどころか、あのボンゾの創り出した圧倒的なテンションに近い音空間を、今回のペイジ&プラントのプロデュースを引き受けたスティーヴ・アルビニもそれなりに創り出していて、これはこれですごくカッコイイと思う(ちなみに僕が他に持ってるアルビニ作品というのはウェディング・プレゼントというバンドの「シーモンスターズ」というアルバムとそしてニルヴァーナというバンドの「イン・ユーテロ」というアルバムと2枚あるのだけれども、すごくカッコイイしね)。年を取って歌が歌えなくなったロバート・プラントとは僕は思わない。若いツェッペリン時代のハイトーンは強烈だったけれども、別にハイトーンは出せなくたって今ぐらいの渋い声のテンションの方が、僕は絶対いいと思うし、僕は好きだな。年齢を取ってギターが弾けなくなったジミー・ペイジ、とも僕は思わない。って言うか、エリック・クラプトンジェフ・ベックと三大ギタリストと並び称されている当時から今イチ弾けてなかったことない。ジミー・ペイジのリフの弾きっぷりにはやっぱりシビれてしまう。

 

猪木「闘魂記」

「闘いというものは繰り返し、繰り返し慢心や敗北感や寂しさといった気持ちにとらわれながら、最終的に相手を認めていくことじゃないかと思う」

「どんな反対を押し切っても自分の我を貫き通したときには、必ず大きな成果をもたらすことができる。ところが自分の我を引っ込めたときには、必ずといっていいほど挫折感を味わうはめになってしまう」「自分にこだわりがあったり、無になれないときには、ものの本質を見ることは絶対にできない。自ら純粋化したときに初めて、相手を素直に受け入れ、そこにはなんの恐れもなくなり、自分自身を捨て切れる世界に到達することができる」

「現代人というのはいつでもいろいろな欲望にとらわれたり、生き方に迷いを生じることがある。そんなとき、最も原始的なものに思いを馳せてみる必要があるのではないだろうか」

「自分の描く夢が周りに理解されなくても、ひたすら孤独に耐えなければならないときがある」

「自分自身をコントロールできる余裕を持つためには、人は大きな夢を持たなければならない」

「本当の勇気とは、相手を包み込める器を持つことであり、自分自身をコントロールする心の力を持つことではないかと思う」

「人間は闘いを挑まれたとき、敵がどんなに圧倒的な数と力で向かってきても、それを押し返す信念を持たなければならない」「人間は分かり合うためにはコミュニケーションを欠くことはできない。それを失ったときに、人間は誤解や猜疑という枷にとらわれてしまうものだ」

「人は困難や逆境に陥ったとき、それをエネルギーに変えることができるかどうかで、その後の人生は変わってくるものだ」

「人間は人生の岐路に立ち、選択を迫られたとき、自分を取り巻く人間のちょっとした言葉で大きく変わってしまうことがある。それは、人間が一人で生きているのではないという証でもあり、自分を取り巻く人々がそれほど自分の人生と深くかかわり合い、影響し合っているということだ」

「人間は常にまだ見ぬものへの憧れと恐れを抱くものだ」

「物事というのは、最初に障害を考えたら何も進まないし、頭から否定をしたら何事も生まれてはこない。否定論者とは楽なものだ。『無理です』とひとこと言ったらすべてはそれでおしまいとなる。何故ならそれは面倒な障害を乗り越えなくて済むからだ」

「人間というものは可能性を捨ててしまったら、これほどつまらないものをないものはない。不可能という結論を出すことは簡単である。しかし、それは同時に自ら夢を切り捨ててしまうことでもある」

「相手にだまされようと、利用されようと、そんなものに左右されない自己が確立されれば、相手を動かしてゆくこともできるのだ。相手を固定概念で見てしまうということは、自分にとって大変なマイナスとなることだ」

「毒は毒をもって制す、という言葉がある。しかし、それでは相手を殺すことだし、自分もそのことで失うものは大きい。毒に対して、いったんは、それを飲み込む勇気、それが人生の肯定論者、すなわち未来への開拓者になれる条件ではないだろうか」

「人が相手を認め合える素直さを持つことができれば、現在ある人種の違い、国家間の壁を超えて、もっともっとお互いを知ること ができるはずだ」

「自分がどんなに悩み、コンプレックスを抱こうと他人には分からない。しかし、人間のすばらしさは、その言葉がときとして他人の心の支えとなったり、それによって人を励ますことができるということだ」「人間は精一杯悩み、悩み続け、悩み抜いた果てに、初めてこだわりを克服することができる。自分の生きる道で全力で闘った者のみが、コンプレックスをバネに飛躍することができるのではないだろうか」「あるときには壁にぶちあたり、また失敗しても夢を持ち続け頑張りとおしていけば、いつかは花が咲く、それでいいじゃないかと思う」

「人は何10回となく打ちのめされても、立ち上がってゆく勇気を持てたら決して敗北者にならないものだ」「負けを知った人間が這い上がってゆくとき、本当に強くなれるものだ。しかし、勝つことしか知らない人間は本当の強さを持ち得ない」

「人間というのは肉体をトコトンいじめ抜いた後、欲得抜きの安らいだ境地に至れるものだ。そして、痛みを知ることによって、他人を初めて思いやることができると思う」

「人生の中で失敗はある。だが、その経験から学び、人生の目的をより純粋に高めてゆくことができれば、それが失敗を成功に変える唯一の道だと思う」

「人間は生きていく中で、自由奔放な生き方を誰しも望んでいる。しかし、本当の自由が与えられたとき、その自由を使いこなせる人は少ない。本当の自由というのは、社会の枠組みからの自由というのではなく、心の自由を持つことだと思う」

そしてこの言葉はみんなも特に考えてみて欲しい

「世の中が殺伐としてくると、つまらないことに怒りを露にすることが多くなる。怒りに値しないことに激情することは、己の価値を低めることになるだけだ。怒りは人間に残された最後の聖域であり、人間の真価が問われるものであると思う」

 

「キレる文学」若者や少年たちと話していて、彼らの「キレる」という言葉の使い方に歪みを感じたことはないだろうか。中には「キレることはカッコいい」と、はっきり口にする子どもたちもいると。キレたら怖いぞってことを分からせたい、と思う気持ちはまあ分からないでもない。でも本当にキレてしまったら。これほどカッコ悪く最低なことはないって僕は思う。本当にカッコいいのは「独り群れずに毅然と耐え抜くこと」であると、これだけは僕からみんなへ発信しておきたいと思う。

 

アントニオ猪木引退試合

最後の「イノキ・ボンバイエ」に乗って猪木会長が入場してくるのかと思いきや、何とその前に「アリ・ボンバイエ」に乗ってモハメド・アリが登場、アトランタ五輪さながら聖火に火を灯して猪木会長を呼び入れるという心憎い演出には心底熱くなってしまった。

世界を揺るがせた世紀の一戦猪木VSアリという一期一会の闘いがもたらした数奇な友情。そしていよいよ「イノキ・ボンバイエ」に乗って猪木会長が入場、試合は249秒で猪木会長の勝利、あっという間だったものの、ナックルパートもコブラツイストもそして魔性スリーパーも見ることができた。最後は延髄斬りで決めてくれた。引退セレモニーにはさまざまな人たちが集まり、猪木会長に花束を贈呈していった。前田選手、長州さん、天龍選手‥‥、師の引退の日に見事IWGP王者の佐々木健介選手からベルトを奪取した藤波辰巳選手も花束を贈り、そして最後にはアリも花束を贈った。“闘魂の語り部”古館伊知郎アナのナレーションを受けての猪木会長のラストメッセージは、一休和尚の言葉で、新日本プロレスの道場訓にもなっているという「道」。いい言葉である。ラストメッセージを終え、10カウントゴングがドームに鳴り響いた。とうとう猪木会長がリングを去って行く瞬間が近づいてきた。最後は、もちろん「1、2、3、ダーッ」。うん、本当に、猪木会長らしい、いい引退セレモニーだったと思う。

  この道を行けば、どうなるものか       

  危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし

  踏み出せば、その一足が道となる

  迷わずにゆけよ。ゆけばわかる。

 

「シングル女性の老後不安 ある日、ふと忍び寄る寂寞」

夫がいるから、幸せ、とはもちろん限らない。でも、やはり一人で老いを迎えるのは恐ろしい。仕事も趣味も恋人も手に入れた女性たちが、孤独に怯えていると。これは仕事も趣味も恋人も手に入れ過ぎてしまった反動から来る孤独では。

「こんな女に誰がした『寝たきり主婦』の哀しい生活」

評価も期待もされないのなら、もうやめた。夢破れた主婦は、枕に逃避する。物があふれ、家事も楽になっているのに、心だけが飢えていると、これもまあ物があふれ過ぎてしまった反動だと思うけれども、とりあえずどちらにせよ寂しいんだなと。

 

「現代の肖像」は「『混』がプロデュースという言葉の本義である。一人の地味な少女に目を留めて山口百恵伝説をプロデュースした彼は、そう語る。表現者と素材を渾然一体に組み合わせ、思い定めていたイメージを大衆の頭上に投影する。それは、決して混沌、混乱、混迷とはならない」という(興味深いな)プロデューサーの酒井政利さん。先述の山口百恵さんから絶頂期にあった宮沢りえ嬢まで手を替え品を替え、かくも長きプロデューサー生活を歩んできた酒井さんは、その傍らで累々と倒れていく同業人もいやというほど目にしてきたという「だから、はしゃぐ人は絶対にだめなんです。人は一曲ヒットを飛ばすと次も同じことを繰り返しがちですが、それがはしゃぐということ。ヒットが背景なんて、大体が茫洋としたもの。ヒットはその中での予期せぬ出来事、ぐらいに思わねば」と、まあヒットなんて二の次でいいってことなんだろうなあ。

 

「舞踏家・大野一雄91歳からの更なる変容」

老境にあっても、人はなお、生きる活力を保ち得る。卒寿を超えた舞踏家は、生と死の境を越えて踊る。舞踏家・大野一雄さん。 すごい。すごすぎる。すさまじすぎる‥‥‥‥。

 

『24人のビリー・ミリガン』

是非とも読んでおかないと。特集「ヒット曲の仕掛け10大法則」という形でビジュアル系の人たちが取り上げられている(「日経エンタ」って頻繁にビジュアル系の人たちを取り上げたりはしてるけれどもね)。ビジュアル系の人たちも、芸能人としてとか、タレントとしてとか、アイドルとしてとかで見たら(ミュージシャンとしてとか、ヴォーカリストとしてとか、ロックンローラーとしてとか、もっと言ってしまうとプロフェッショナルとしてとかでは見ない。まあ芸能人とプロフェッショナルとどう違うのかはあえて言わないけれども)、みんな頑張っていると思うしこれからも頑張って欲しい。

 

SHAZNAのIZAM

「SHAZNAは自他ともに認める苦労人集団でしたね。(インディーズ時代の生活は)毎月5~6本ずつライヴやって、練習は週3回と決めていましたから、残された日でバイトをすると月に5~6万しかならない。しかもライヴで2年間組んでいた人にだまされたりして。メンバーは一時、アパートを追い出されて機材車暮らし。公園の水道でシャンプーをする生活を強いられました。『あと一年だけやってダメだったら解散しよう』というときに事務所の社長に出会ったんです」なんてインタビューを読んでしまったら、尚のこと、ね(好意的でしょ。)。

僕がビジュアル系にちょっと引っかかるのは、その歌い方である。そこで検証、ヒット曲の仕掛け10大法則「はやりのボーカルは西城秀樹。」というわけで、巷では今“西城秀樹的歌唱法”=もっと大ざっぱな言い方をすると“感情過多となるビブラート唱法”が、ビジュアル系のヴォーカルの主流となっているのだけれども、う~ん、個人的にはこの“秀樹唱法”は西城秀樹さん一人で十分かな。っていうか。まあ声紋分析の鈴木松美博士のように「上から降りてくる歌い出しはかなり高度なテクニック」と言う人もいるかもしれないけれども、でもかなり高度なテクニックを必要とするのは、やっぱりオペラの歌唱法なんじゃないかな。

 

「カット」70号スペシャル・フォトセッション「木村拓哉・ミーツ・エアロスミス

このスペシャル・フォトセッションの中で、木村拓哉君はスティーヴン・タイラーに「ねえ、何でお前らのCDねえんだよ。」「今日、持ってきてねえのか。」「どれがお勧めだ。」などと矢継ぎ早に尋ねられて、まともに答えることができなかった(「お勧めができないんですよ、音に関しては」だなんて‥‥)というのであるけれども、これはもう僕だったらまともに答えることができないなんてことにならないように「おれのこの曲聞いてくれ」と、まあ日本の女子中高生もいいけれども、やっぱスティーヴンやジョー・ペリーあたりにも「悪くねえな」などと言ってもらえるようなロックを演れるようになりたいなと、ものすごく思ったわけである。で、そのついでにスティーヴンの愛娘リヴ・タイラーにも「素敵ね・」などと言ってもらえれば、本当にもう言うことはないんだけれどもね。

 

「現代の肖像」ミュージシャンのASUKAさん。

「恍惚として歌う戦士のように、アスカは舞台の袖に独り立ち尽くす。聴衆と至福の時間を共有できるよう祈りつつ合掌している。自衛官で道場主の父の許で幼少から剣道を学び始めた。高校時代に竹刀を捨てざるを得なかった屈辱が音楽にのめり込む転機となった」というアスカさんいわく

「これまでの日本のポップスは、なんらかの形でビートルズの影響を受けてきた。今回のアルバムではできるだけビートルズを忘れよう、その匂いがあるものは除いてみようと思った。ワイルドでスリリングなもので表現したい。安全なところよりも、危険な場所に惹かれる」。

 

ロックン・ロール(「レッド・ツェッペリン・」)

 俺の (「プレゼンス」)

 永遠の詩(「聖なる館」)

 レイン・ソング(「聖なる館」)

 カシミール(「フィジカル・グラフィティ」)

 フール・イン・ザ・レイン(「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」)

 レモン・ソング(「レッド・ツェッペリン・」)

 コミュニケイション・ブレイクダウン(「レッド・ツェッペリン」)

 貴方を愛し続けて(「レッド・ツェッペリン・」)

 天国への階段(「レッド・ツェッペリン・」)

 

アルバム・ベスト10

フレディ・マーキュリー「MR.サッド・ガイ」

レニー・クラヴィッツ「5」

ジミー・ペイジ&ロバートプラント「ウォーキング・イントゥ・クラークデイル」

キング・サニー・アデ「オドゥ~」

デューク・エリントン・トリオ「マネー・ジャングル」

パパ・ウェンバ「エモーション」

ウェザー・リポート「ブラック・マーケット」

ポール・バタフィールド・ブルース・バンド「アンソロジー

ミルバ「リリー・マルレーン~ミルバ・ベスト・ライヴ・イン・ジャパン~」

レッド・ツェッペリンの全オリジナル・アルバム