一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン録 取り組み 課題曲 29700字  833

レッスン録  833

 

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レッスン 取り組み

課題曲レッスン

 アカシアの雨

 リコルダ

 木曽は山の中

 素敵なあなた

 イレーヌの店

 群集

 冬の花

  そして今は

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レッスン 取り組み

 

 自分が思うままにやっていると、その人が天才でもない限り、自分がよいと思うところまでしかいきません。

最近、新しく入った人が、ここのプロやプロレベルの人や私の考えと対立するというようなことを問題としているらしい。信じられないことですね。

自分が考えてきたことと違うことをいわれたら、それをも組み込んでいくのが勉強です。

これまで自分が思った通りにやっていくなら、それはひとりで、もう外でやっていけばよい。

張り合ってくれるならおもしろいのですが、自分で相手を否定して、勝手に対立しているつもりでは、手前勝手な一人相撲です。

 

 誰に認められるのか、というのは大切なことです。

何ごとも基準というのがあって、それは、本来、ごまかしがきかないものです。

それが、日本の場合、特に歌に関しては、とらえる基準が完全にずれているのです。

それでやってしまう人が多いのは、この分野が成熟していないからです。

 

 評価基準に関しては、私はよい人たちに恵まれてきました。私を超えた人もいるでしょう。

そして、世界には、数しれぬほど、たくさんいるのです。

ただ問うところの才能や技量、キャリアが違うというだけのことで、きちんとみていけば、そんなに難しいものではないと思います。

そこを間違わなければ、どんなに業界で認められず誰も味方してくれないようでも、多くの人の支持を得て、生きていけます。

 

 

 耳をきちんと作っていくことが大切です。それに対して、心がどう動いてくるのか。正攻法で声でやっていくのも、ショウということでいろいろな要素を入れてやっていく方向もあります。

しかし、ここでの今は、声を空間に出し、時間を踏み込んでいくことです。☆

 

そこの部分で息の支えが必要です。それが体に結びついているという条件になります。

 この部分では、ある程度プロレベルの背景、つまり練り込んだキャリアを持っていなければ、外にあるリズムや向こうの感覚がそのまま、おかれていくだけになってしまいます。

それでは、平面的な音楽になりがちなわけです。中学生がドラムを叩いているのと一緒です。

 

 人間が声で表現することにおいて、そんなに持っている体の差はあるわけではないと思います。

ただし、ここでのヴォイストレーニングを20才まで、体の中に彼らはやっています。実際のことばの中でそれを使ってきているわけです。

 

 

 フォームというのは声に息と体がどういうふうに結びついているかということです。日本にいても、スポーツをやっていれば、息や体は強いかもしれませんが、それが声に対して、きちんと結びついていないのです。

そういう人たちはまだわかりやすいのですが、そうでない人たちはもっとベースの部分が致命的に欠けている。その欠けているということを理解しないで練習をしていく。それがわからないまま間違って身につけてしまうわけです。

 

 なぜわからないかというと、たとえば、“アタック音”というものが、日本語にありません。

息を吸う力、吐く力、それをきちんとキープできるということ。それを声立てといって、確実に声として出していくこと。それから、声をキープすること。そして終止。

これらの繰り返しをイメージとしてどうとっていくかでしょう。

 

声楽をやる人はイメージというより、見本があって、それを手立てに練り込んでいくわけです。枠があって、それを埋めていくという感じです。

これを埋める力や体がない人はイメージそのものをどう動かすかということでやっていかなくてはいけない。どちらかということではなく、両方入っていることが、理想です。ただ、ポピュラー歌手の大半は、練りこないで先に行ってしまうのです。

 

 

 最近のポップスのヴォイストレーナーは柔軟させるとともに、高音とファルセットの出し方から教えます。黒人のヴォイストレーナーなどの受け売りで、ミックスヴォイスという表現を使っていますが、かなり意味合いが違います。浮いてきたのをハスキーな声でつなぐようなのを推奨しているかのようです。☆

 

私の本をに述べられていることもできないのに、本来のミックスヴォイスはできないでしょう。それだけの息と体があったところで、声帯をしっかりと、どう使うかということなのです。

ちなみに私は、このことば自体、使うのは避けます。実態がないからです。

 

 息と声を同じ感覚でとるという声の芯そのものがでてくるまで、日本人は随分とかかるものなのです。声の芯というものと、その上にできてくる響き、これは矛盾するものではなく同期するものですが、今、皆さんが同時にそのことをやろうとしたら矛盾します。

 

 

本当は、声の芯をつくるのに時間をかけて、それから共鳴で、音楽に入っていった方がよいとも思うのです。

もちろん、異なる場合もあります。のどを完全にはずすということ完全に呼吸で声をコントロールするということがどういうことなのかをわかっていけばよいのです。

 

私は、ポピュラーの声の延長上、そして根底にクラシックがあると思っています。☆

クラシックの発声をよく聞いてみてください。

 

(「星は光りぬ」「トスカ」)

 いろいろな人のバージョンでも、クラシックなので、全部何かしら似ていますね。でも違う部分もあります。その違いを聞きわけて、共通している部分は何か考えてみてください。

入れてほしいのは、音の世界の感覚です。そういうものに慣れてください。楽器として人間の体が使われているところの共通の部分があります。

こういうのを聞けば、声の問題の疑問を解決するのにつながると思います。

 

 

(「夏の日の(ことば)、夏の日の

(ファファファファソ♯ー)」)

 かなり意識しないとことばで10いえることが、歌の中で5や3になってしまうという実体験です。☆

メロディや音程をとろうとか、長く伸ばそうとかすることは、より大変なことなのです。

 

ことばのところで、30くらいで叫んだりしている中で、強くしたり、伸ばしたりというところに歌の中で行うべき感覚が含まれてきます。

 

我々はそれを日常やっていないので欧米人に比べてできないのはあたりまえです。複雑にするのではなくその接点をつけてください。そうしたら、息がもっと吐けなくてはいけないし、声そのものがコントロールできるようにならないといけないことがわかるでしょう。

 

 

(「青空が(ことば)、青空が

(ファファファファファー)」)

 日本の歌というのは、残念なことに、体が動かないのを認めた上に音楽性をつけていっています。それはそれでよいのですが、求めたいことは、ことばでいっているところだけのことばの力を少なくとも歌の中でもキープする。だから少し押しつけがましいことになるかもしれない。それはトレーニングだから許されることなのです。

 

そのことによって、あとで自然になることをねらっているのです。そこを間違えないでください。これは、どちらがより、自然な声かというところの基準からきています。

 

 実際に最初にしてほしいことは息を吐き、それを感じ、声を感じ、音として取り出していく、ということだけですね。そこを急ぎすぎると、無駄になってしまいます。

それをやって、普通の人が10回に1回しか取り出せないものを10回に10回取り出すようにしてください。どういう方向からやっても間違いというのはないと思います。

 

 

 日本人のいう音楽性というのを今は区別した方がよいです。なぜ、先に歌のことをやらないかというと、体というのは後からつくれないからです。最初につくりながら、フォームも正していくことです。

行ったり来たりしなくてはいけなくなりますが、今は一つでとらえることの体験をしていってほしい時期です。体が動いたら声が出る、息を吐いたら声になることにしていくのです。そこを今は怠けないでやってください。

 

 レッスンに出れば出るほど、わからなくなってもかまいません。感覚が変わる、そのことは、教えようがないからです。

武道やスポーツをやっていたら、一つひとつ、フォーム直されたと思います。

それで何もできなくなってしまう。すると、昔のようにやっていた方がよかった、うまくできたと思うこともあります。でも、そうではなかったことが、やがてわかったでしょう。☆

 

 トレーニングというものが実を結ぶまでの間というのは、マイナスに働きます。

歌とトレーニングをまぜないでください。

歌うときにトレーニングのことを考えること自体、間違っているのです。歌はトレーニングを見せるものではありません。歌うときは全てが体にはいっていないといけないのです。

歌うまではそれをやってもよいです。しかし、歌というものが自由になるのですから、他のものに比べてわかりにくくなってしまうのです。

 

 

 何がやりたいのかということをまずきちんと見据えなければいけません。うまく歌おうと思ってうまく歌えている人はいません。要は考えてはいけないということです。少なくとも歌をやるということにおいては、その状態でやるしかないのです。

 トレーニングは部分的なところを意識してやりますから、反自然です。

 

歌というのは、自然に伝えるところにいかなくてはいけないので、そのときはトレーニングのことは忘れていないといけません。トレーニングを見せるわけではありません。それでは聞いている人はおもしろくないし、伝わらないわけです。

ステージでやってはいけないことはないのですが、やったために表現効果が薄れるものは切り取っていかないといけない。それは一つのセンスです。

 

 まわりの人がいうことを全部聞いていたら、何もできません。その判断力がつかないと、学べなくなります。皆がダメといっていることをやらないでいると、あたりまえのことをあたりまえにこなすだけで終わってしまいます。何かやろうと思ったら、徹底的に疑うことです。

 

 

 新しく入った人には、価値観が違うとか方法が対立してしまうとか、メゲてしまうよう人もいるようですが、そんなことは起きるはずがないのです。

私は、あれをやってはいけない、これをやってはいけないと一切いっていないでしょう。

それをやり遂げてきた人が、このことはあたりまえだ、と思ってやっていることがあって、そのことをやらない人はやれないから、いっているのです。

 

 予習すること。実践の場において集中すること。終わったら復習すること。学べるところから学んでいくことなどといった単純なことです。

最近は、こうした学び方もわからない人が多いのでしょうか。トレーナーのレベル以上のことができないのに、対立の問題にして本質を見ずに、すりかえてしまう。

 

要は表現ですから、問えばよいのです。何をあなたはもっていますか。出せばよいのです。

そういうものは、自分勝手にどんどんやっていっても身につかないのです。それで身につくものは、もう身についているからです。

私は努力して一所懸命に歌っているのに誰も認めてくれないといっているのと同じで、おかしなことでしょう。学校でも受験でも、結果で評価されるのでしょう。

 

 

 私は日本の業界では、やや距離をとった異立場でやっています。でも、どこでも認めてもらっています。執筆依頼や取材も絶えません。それはどうしてでしょうか。この鍛錬した声があるからです。

ですから、声以外では、私などを超えている人はここにはたくさんいます。プロもくるのですから。才能の発揮する分野が違うのです。歌は誰でも歌えます。ただプロなら歌を仕事で頼まれることです。

 

あたりまえのことをやるのがあたりまえなのにやらないうちに迷ってしまう人がほとんどなのです。ここをもって、多くの人を長くみていると、ダメになっていく理由がわかります。伸びないからです。

まわりの人の努力と同じでまわりの力に左右されるくらいなら、本人だって伸びないのです。

 

いろいろな業界をみても、声に関してなら、ここほどきちんと人が育っているところはないでしょう。ここに来たから育つのではなく、ここに来た人がきちんとしたものを残していったのです。

それは、歌唱とか演技とかいうのとは、違います。ある意味では世界に通用するレベルのことをしているのです。

 

 

歌い手というのは毎回、歌で奇跡を起こすことを要求されるので、そのレベルになってくると大変な仕事です。常に初心に戻ってもらうとわかると思います。

あわてたら負けます。10年、あっという間に過ぎていきます。でも、大体の場合、何年たっても何もできないで終わってしまいます。ここのような濃い日々、環境がないからです。自分のことを自分で決めて動かないためです。やっていく人間はきちんとやっているのです。それは私やこことは関係ないのです。

 

 私の本の推薦文にフランスのオペラ歌手がこういうことを書いています。

「日本では男性は固く、しわがれた声、女性はかん高くて子供っぽい声が典型的な特徴として受け入れられている。しかし1億2千万人が住む国がたった2種類の声で象徴されてしまう。一つの性に一つの声しかない。人の声は人の耳に心地よいものです。日本が1億2千万種類の声を持つ国になることを期待しています。」日本の業界や歌手を見てガッカリしたのです。

 

 生きることは、自分で自分を発見していくことですが、声も同じです。自分で決めていくことです。

皆も、本当のものを見極める目をきちんとつけると同時にそういう人たちがどのように生きてきたのか、そこを勉強すればよいと思います。

皆、同じことしかしていません。そこからどれだけ+αしたか、その+α分だけがやっていける力です。そのことが好きかどうかは別にして、一所懸命やっています。

誰かが決めるわけでもないし、誰かがどうにかしてくれるわけでもない。自分の声を自分できちんと聞かなくてはいけません。

 

 

 楽器ができないうちに、自分のイメージする音楽がつくり出せるはずがありません。つくり出せているとしたら、それは、その程度のものです。

問題とするべきことは、自分の声をきちんと聞いていくこと、それを再現すること、それと音楽をどう作っていくかということです。それにとりかからなくてはいけない。そのための基礎なのです。

それには自分の体を作っていくというプロセスなくしては手に入りません。表現や本当のことをやるために声が必要なのです。

 

 体格ということでは、音色の問題があると思います。もとは、その人の声の共鳴という物理的なものです。しかし、そういう自分の条件は、引き受けるしかないのです。でも、ポップスの場合あまり考える必要はないと思います。

 

 入って踏み込んでいく、そこからが声たてです。そこだけ覚えようとしても無理です。体というのはそう簡単に変わりません。たとえば、スポーツで体に身につくプロセスと同じです。だから、そこを知っていることは、とても役立ちます。

 なぜ日本人に踏み込みなどができないかというと、そういうところが聞けていないからです。歌の才能やフレージングの才能がある人があの程度の歌で終わってしまうのは、感覚での限界というものからです。

 

 

 最初のところに戻らないといけないと思います。音はどう響くのか、何がおもしろいのか、何を魅きつけられるのか…。そのことをきちんとやっていいくうちに、ここでやっているようなトレーニングは必要になるのです。

しかし、トレーニングの位置づけというのでさえ、3年たって、何人もできていないのです。自分の音を聞いていないのです。これは仕方ないと思います。

しかし、次第に自分の出したものをセレクトできる眼ができてくるでしょう。

それをセレクト、判断するために世界中のプロのヴォーカリストを耳にするのです。

 

 その基準とは音というより息の世界のことです。それを見ていかないといけない。日本人が1音か2音出せるのが精一杯で、それさえ長時間やると、のどがつぶれる。外国人はそんなことはないのです。体に入っているのと同時に歌い手はその条件をより強化しているので、歌の中でできています。日本人は歌の中ではできません。

 彼らはそのことがベースに入っていて、その応用でやっています。声のイメージがある。のどをあけることに対し、全て呼吸でトレーニングする。単純にいうと、それだけです。響きと心とのバランスについていろいろいわれますが、それもそれぞれのトレーナーの思いこみですので、たいして気にしなくてよいのです。

 

 のどに負担をかけないということ、それを呼吸だけでコントロールしていくこと、これもあなたが日常の中で表現していくときにやっていることです。

核にあるのは、あなたの感覚です。どんなに違う考え方をしていても最終的な判断基準は同じです。

それはことばでいうから違うというだけであって、共通するところがあるから成り立つわけです、それは信じてもらってよいと思います。

 

 

 音楽の業界というのは、売れているものが基準なので、コロコロとー変わっていきます。

 だから、その人がいて、存在するオリジナルというのは、本当にベースになります。それを発見していくことが自分自身を発見していくことになります。

スタイルもそうですね。基準ということでいえばクラシックの曲の中にも、同じところが見られます。声に入る前の状態をよく聞いてみてください。

 

 皆の思っていたオペラとは違うでしょう。こうでなくては人間の歴史を動かしてこないし、全世界の人間がそんなものに心を奪われることなどないのです。

 自分の中で真実をきちんと理解することです。

 

体は間違っていたら生きていけません。頭が間違うのです。ウソっぽいものにどんどん惑わされて、自分の体もウソの使い方になってくる。きちんとした基準をもってやるためには、それだけ一流のものを聞いていかないとよくありません。歌というのは思いこみの世界ですから、それを正せなくなってくるのです。そうすると声もダメになってくる。

 

 

 ヴォイストレーニングだけをやっているからおかしくなってくるのです。響きか芯かなどといった問題などではなく、できていない、足らないというだけのことです。

中心のことをやらないで周辺にいかないことです。

こういう分野は、教えている人もいい加減だから、こうした方が響くとか高く出せるとかいうわけです。でも、それは目的でも何でもありません。

声を出すことではなく、そういう状態をつくることです。歌も同じです。きちんとそういうことを見る時間を作ってください。

 

本当に練習ができるようになるまでに時間がかかります。そのあいだはゴタゴタ、頭であいまいに考えていてはよくありません。きちんと書き出して、消えていくようにしていくことです。

いくら質問してもかまいません。でも、理解の仕方を教えられたって仕方がないということを早くわかることです。

 

ここは教えないところです、と最初にいっているのですが、説明されたからといって、それは材料にすぎないのです。一喜一憂するより、そのことに自分が耳を傾けて聞いて、そして自分の声を実際に聞いてチェックしたり、フィードバックしていくのです。

 

 

 一流の人のものを聞くと一番よいのは、1/1000、1/10000でもどこか間違っていたら、歌が成り立たないということがわかってくることです。

私がこうやってしゃべっていることは、のどがかすれても成り立ちます。そのレベルでやっているということを耳で聞いて、それと同じように出せなくてもよいから、同じところに出せるようになるまでの状態をつくることです。

こういう声のコントロールが瞬間的にできるということは、それだけの息があるからです。

 

 いかに日頃のメニューをやっていくかということが問われます。一方的に決めつけた練習のメニューなど、どうでもよいのです。そうではなく、一番今大切な自分がやるべきメニューとは何なのか。それを他の人の判断に委ねないことだと思います。

 時間がかかりますが、今は大切な時期なので、そのことを知っていた方がよいと思います。それぞれの先生がいうことをフィードバックして考えていくことです。どうすればその条件が整っていくのかということです。複雑にしてはよくありません。単純な世界のことです。

でもそれについていける感覚と楽器がありません。それを授業を受けているあいだに探っていくのです。自分の出した声が何を象徴できているのか。そこに音楽の世界というものが成り立っていくのです。時間がかかることを恐れないでもよいのです。

 

第一線で歌っている人も、皆、問題を抱えています。抱えていながら、そういう問題に対しながら歌っているのです。私たちも説明するためにいろいろなことばを使っていますが、あまりことばそのものに翻弄されないでください。何をどうやりたいのか、ということを自分の体・呼吸と相談して決めることです。

 

 

ここに来ると、最初は何もできなくなってきます。前より歌えなくなるでしょう。でも、待たないと仕方ないのです。体の芯からわかって、それを積み上げた人たちの前に立てば吹っ飛んでしまうようなことをしないことです。崩れないものをキャリアにしていくべきだと考えます。時代によってあせるものではない。基準をきちんと持っていれば、力不足はあっても、きちんとオンしていくものです。そういう練習の仕方をしてみてください。

 

 問題は考えなくてはいけません。でも解決でいない問題は、すぐに解決しようとしないで、自分の体や声に耳を澄ませてください。それから歌とは何だ、ということに自分できちんと答えを出していくことです。頭でなく、体でだしていくのです。そこにギャップが出てきて当然です。10の力で10やっても仕方ないのは歌にならないからです。ほとんどの人は10の力が分散してしまって、1曲がもたなくなるのです。それは人間として優れているかどうかなどということではなく、やっていないだけです。積み重ね、チェックをしていくことです。

 

 ポップスはそういうことが難しいです。クラシックの方が単純でわかりやすい。ポップスはいろいろなことが許されてしまうからです。時代によってもリズムが変化していきます。ただ、その人間がやっていて心地よいとか、そこから何かできてくるのではないかといった直観を磨いていくことです。

 今は、ゲーム(=自分のステージ)を遠くからでもきちんと見ること、息の世界をきちんと聞くということです。 

 

 

 プロの写真家だって、1枚のシャッターを切ること、1枚1枚の扱い方が違うのです。素人は1枚を1枚以上のものとしてとらえられないのです。歌も後でそういうものが出てきます。無駄ではないのです。その人が、どこまでそのことにかけてきたのだろう、というところに人は魅かれるのです。

 

 決して何もないところに美しい声が出ているからひかれでいるわけではないのです。

 日本人はそこが間違っていて、ただ美しくて、いい加減であやふやで浅いものにひかれてしまうのです。日本人がいろいろなものを受け入れる度量があるのはよいことです。

 

しかし、本物というのは、このように他のものをよせつけないものです。でも誰の心にも入ります。そういうものをたくさん聞いてください。クラシックをすすめるわけではないですが、ポップスよりはわかりやすいかもしれません。

 

 

 

 

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課題曲レッスン

「アカシアの雨」

 

 (「アカシアの雨にうたれてこのまま死んでしまいたい

(レレレレーミレシレミミミミー・ソソソソーラシシシララソソソー)」)

 

 西田佐知子が歌っているフレーズと、自分のもののフレーズというのがあります。どちらかではダメなのです。音楽が入っていることと、音楽が出るというギリギリのところでつくっていかないと、どちらかに片寄ると失敗します。その時期その時期でいろいろなことがあってもよいのですが。

 

 ほとんどがテンポそのものがおそくなっているのです。自分の体で凝縮させようとしていたら、ダラッと伸びるはずがないのです。落差も何も出てこないのです。その人の体に全然合っていないし、準備できていない。ライブ実習でも、ピアノの伴奏に合っているつもりでほとんど合っていない。見えていないだけです。

 

 そういうところはプロの伴奏者などが聞いたら、すぐに素人だとわかるのです。もっと明確にわかるのは、「このまま」の前のブレスのところです。そういうものを聞いたときに、基本のフレーズの線をつくる。それは自分の線であり、外の線でます。外からヒントがあるわけです。「ま」と「レ」のところだけ聞いてもらえればよいでしょう。ここまでヴォリュームを上げてもわからないのは、鈍いということです。

 

 

 わかればよいだけの話で、それをやれ、ということではありません。「死んで」というところが言いたいことです。この部分を若干ずらしているわけです。このように音の上で動かすことをやるために基本の線をとらなくてはいけないわけです。基本の線をとるために、体と心とテンションを一致させておかないと、そんなところに敏感にはなれません。

 

 できないことは要求していません。でも感覚に関してはできないことは10年たってもできないのです。絶対、歌が歌として成り立たせるための要素はつかんでおいて、その上で流れを作ったり、変化をつけたりするのです。でも皆は、それを全部無視したところで、こうもっていきたい、と出しますよね。音楽にならないのです。そこは、自分の感覚やすぐれた歌い手の間に入って相談するしかありません。見本がない、というのはそういうことです。その間で、作らなくてはいけない。また、どのキイ・テンポをとれば自分のものが出せるのかわかっていなくてはいけません。

 

 その辺は毎日、毎日ぎりぎりで余裕が出てくることなどあり得ないわけです。失敗をカバーできる方法をマスターできてくるくらいのものです。テンション、集中力、声の大きさは必要ですが、何よりも音楽にするということです。

 

 

音楽はどんな曲でもよいのですが、きちんと聞いていくことです。そして、自分の出したものを聞いてきちんと判断していく。複雑になっているのはおかしいのです。それを単純にとらえるために、自分の体のメカニズムを知らなくてはいけない。そういうところに厳しくなってください。

 

 1年くらいたつと、随分甘くなります。ただ、体を動かして練習している。でもそれは、身についているものではありません。それをきちんと使えてはじめていえることです。歌うのであれば、歌や、音楽から、もっと勉強していかないといけない。どう見て、どう気付いて、どう出すかのところまでもっていって一段落です。

 

 鈍くならないことが一番大切です。こういう歌でもそうです。人間はややもすると、精神上満足しますから、昔聞こえていたことが聞こえなくなることがあります。だから気をつけないといけません。聞き方も一つの孤独の創造活動です。

 

 

 

リリー・マルレーン』(マレーネ・ディートリッヒ

「花のささやき」(ウィルマ・ゴイク 伊東ゆかり ザ・ピーナッツ

「リコルダ」(オルネラ・ヴァノーニ、ミルバ)

 役者の力で100%持ってしまうような歌は「リリー・マルレーン」のような歌ならよいですが、他の歌になると難しいですね。

 

 

 

「ラ・ノビア」

 

 ペギー葉山さんは、よいところで歌っています。  

 こういうフレーズは自分の技術というより、感性が出るところです。体や頭を使ってやらないことです。それが見えてはいけないということです。

 

 ペギー葉山さんの曲で、これで通用してしまうのですね。

技術、歌唱力、集中力、キャリアもあるのに、歌になるところまで変わってしまっています。

日本に批評家がいないからです。本当の意味でのプロデューサーもいない。

海外では全部の曲をあるレベル以上にしないとアルバムに入れない。だからアルバム全体として優れているわけです。

 次は日本で有名なクラシック歌手です。

 

 

「赤とんぼ」

 これまで売れているのですから、それはよいのですが、普通の感覚の人がこのままいくと、そこから出られなくなります。だから早く耳を身につけていくとともに、集中力をつけていって下さい。3分間の中で、どこをにぎって放さないようにできるかというのは難しいのです。よい聴衆になること、そして、そこで自分の表現は何だ、ということと、それをどのようにやっていくか、ということを常に問わないといけません。

 

それが真ん中にはしっていてはじめて、リズムも音程トレーニングもツールになります。そうでないと、どんどんおかしくなる。頭で計算して、体でもっていってしまう。音楽を置き忘れてしまう。最近、そういう傾向が強いです。

 

 テンション、集中力をまずもって、乗り移ってください。それを人前で出すことです。大切なことは人前で、自分が何ができるのか、ということをきちんと試して、できた人がいたらそれが何に支えられているのかきちんと見ていくことです。

 

 

 

 (「リコールダー・イオティアーモー(ファ♯ミレド♯ー・シシド♯ード♯ー)」)

 

 大曲になると、日本人が歌おうとすると複雑になります。よくこんなの歌えるな、と客に思わせてしまったらよくありません。ペギー葉山さんのは、比較的うまく処理できているものです。音楽の世界ということとは別に、なり切って自分の方に全部表現を引きつけてしまえば、それなりに正解が出せます。

 

 皆に望みたいことは、精神性などといった難しいことではなく、集中力です。歌の中にまず入り切ること。これがまず必要です。歌の中では恥ずかしい歌詞内容であっても堂々とやらないといけない。そのときに、解釈という問題が出てきますが、そういうことが吹き飛んでしまうくらいのものをまず獲得していくことです。それがないと、どちらにしろ出てこないのです。

 

音程とか、リズムとか、皆さんは勉強しているので混乱するかもしれませんが、一番勉強しなくてはいけないことは、何を表現するか、したいか、ということ。それをどう表現するか。これをしない人が多いのです。勉強しているふりになってしまうのです。ヴォイストレーニングもそうで、一つひとつの声をチェックするとき、その前に自分がそういう精神状態になれない限り、それは10年やってもたいしたことにならないのです。

 

 

 声がわからない、という前にそれだけ精神が覚醒していなくてはいけない。こういう場所に来たら、奥にあるものを見ないといけません。表にあるフレーズを勉強してみて、それをそのまま真似てみたって何も出てこないわけです。ここで使っているものには、古いもの、他の国のものが多い。でも、そこに共通するものがあって、それは皆の耳、生き方、感性などが研ぎ澄まされてきたらつかめるようになります。そうやって全力で生きている人が歌えばそこに歌が現れる。それがないとよくありません。

 

 音楽や、歌という前に、人前で何ができる、というところの勝負をきちんとつけなさい、ということです。とてもシンプルなことです。トレーニングというのは、30分の中の、1分くらいしかトレーニングにならないわけです。体ができてくればできてくるほどそうです。音楽の勉強ができていっている人はその1分を29分にする努力をするのです。限度のない世界です。でもほとんどの人は、29分の方をみてしまう。そのことを3時間・4時間できる…とやっていったって鈍くなるだけです。それがステージに出てしまうから怖い世界なのです。

 

 何が違うかということを見てもらえばよい。どうしてこういうことをするのか、と違和感を持つところ、それを自分たちが音楽にしたときに、お客さん、あるいは自分たちがそうしたい、という感覚になると思います。それをやめるということですね。よくないものはよくないものとして聞いておくのも一つの勉強方法です。

 

 

 (「リコールダー・アモレミーオ・リコールダー

(ファ♯ミレ♯ド♯・レ♯ミファ♯ミレ♯ド♯・シド♯ド♯」

 

 いろいろなタイプがいます。ここは流してもよいところですが、こういうフレーズの練習でやるときは、練り込んだものが音楽的に流れているというくらいでとめておかないとよくありません。フレーズを勉強するのもよいし、音をとるのもよいのですが、歌のことばとメロディだけとなるということです。

歌になりません。そんなもので場は動きません。こんなものはステップになりません。こんなことを考えるからダメになる。もっと、自分の立っているところからきちんと踏み込んで、表現として持ってこないといけません。入り込み、表現として出していく。その2つです。

 

 ミルバやオルネラ・ヴァノーニの感覚の部分が早く見えるようになってほしいです。そしてそのままとるのではなく、自分でどう表現するか。きちんとそれをつかまえにいき、それを出すという2つだけです。その瞬間に入れるかどうか。

 

 ここにきたとき、そういう状態になれないといけません。どこまでとか、どんなふうにやるのか、とか考えても仕方ない。体が覚えているままでやらないといけない。要はタイミングですね。声が心地よいのは一つの条件ですが、体が使われている、息が回っているとかいうのはあくまでトレーニングの中において、個人的につかわれる感覚です。本当はそんなものもない方がよいのです。でもいきなりやれ、といったらできないから、そのことを考えていかないといけないということです。

 

 

 (「リコールダー・エティアーモ

(ファ♯ミレ♯ド♯・シソ♯ド♯ド♯)」)

 

 この前の特別授業で「表現と命」ということをやりましたが、まず近づくことです。ヴォーカルもヴォイストレーニングも同じだといいましたが、本質的にはずしてはいけないものがあるのです。そこにきちんと近づく、この力をみるのです。

 

次にどこまで読み込めているか、そしてそれに対し、どこまで位置づけができているのか。これがピタリとあっていたら、何かが動くわけです。それが伝えるということです。それを他のところからとってこないこと。発声のあるなしではなく、自分の心や体を殺していないかどうかが大切です。

 

三者的に見る目を養って欲しい。だからグループでやっているわけです。素直になって、きちんとしたものを聞かないといけません。声も、こういう音楽に対しても、基準を持ってください。

 

 

 バラバラになってはいけません。とてもシンプルなことです。シンプルをやるのが難しいのです。だから日頃の発声や精神集中などをやっておかないと、こういうところで出てこない。大抵うわっつらのところをとっています。間違うことは恐れなくてよいのです。そのことに気付いていないといけない。一回潜らないといけないのです。

 

 ミルバなどは、きちんと前にフレーズを送っていて、流れを出しているからそこで小さいことをやってもおかしくないのであって、流れもないのにいろいろなことをおいてみてもダメなのです。細かい加工の部分よりも大きなところを勉強して下さい。それらしく出せるようになるまでイタリア語と、日本語でやりましょう。

 

 日本の歌はことばとメロディが中心です。本当のものは本人がなりきっているところからもう一つ突き放さないといけない。音の流れを感じ、とりにいく。とりにいけても出せないときがありますがそれは慣れていくしかないでしょう。こういう曲は自分の音の感覚を変えるのに勉強になります。

 

 

音に反応できることです。「はなれずにー」というところはシャンソン的な歌い方ですね。ここのところで合わせないと伴奏から放れてしまう。ことばとして処理するというのは日本的なやり方です。ミルバやオルネラ・ヴァノーニなどは音の線にきちんと合っているわけです。

 

 早くうまくなりたい人にはこういう勉強が一番よいと思います。パッと聞いて、なりきってやってみて、なんだかわからないけどそれができてしまった、というところで勉強すればよいのです。その地点がわからないとダメなのです。

 

失敗するのはあたりまえなので、変なクセをつけないで思い切ってやってください。逃げないことです。思い切り踏み込んでください。

 

 

 (「いられたら(ラソ♯ファ♯ミレー♯)」)

 

 弱くするのも、変化を付けるのもよいのですが、そこで気を抜いてはいけません。前にきちんと出さないといけない。それから音が平行に置かれてしまうのはよくない。ソルフェージュと同じですね。表現というのは、それがあった上に何かやらないといけないわけです。このフレーズの前の流れをきちんととっていかないといけない。そこで自分の出し方を決めていくわけです。このレッスンでは表現に対して、発声をどこまでくっつけていくかということで、先にこれをやらないと後ではできないことなのです。発声を間違えてしまうのです。煮詰まっていかない。そういうことを他の人の表現を聞いて学んでいってほしい。

 (ミルバの曲)小細工や、声に変化をつける前のフレーズで、それがゆるされるくらいの大きなものを作っています。また、それをやった後に次の大きな波をつける。そうしないと、音楽が止まってしまうからです。最初に取り組んでほしいのはピークのところです。歌い手が一番集中して出しているところです。弱いところはもっとも難しいからです。今は弱いところはあまりやらなくてもよいので、フレーズや動きがもっと大きく出ているところに自分の体を思いきり使ってやる。そうすると、思いきり力でやってもダメだということがわかってきます。それに応じて、体で加減や配分ができるようになるのです。そこを今は感じてみてください。

 

 いろいろな曲を聞いて、比べてください。そこで何を学び、それに対して自分がどう出すかということをやってください。

 自分で出したときにどこまでできているか、チェックしてください。ここで皆よりできている人たちは、皆より読み込みにいっているのです。それを出せるかどうかは日頃練習しておかないといけません。しかし、集中力の問題というのは、大きな問題です。切り替え、瞬間的になり切ることです。

 声も音の加減もなくてもよいのですが、自分でどこが勝負できるか知っていくことです。

 

 

 日本人の歌い方はことばや音楽の世界では正解なのですが、練り込めないから、ひびきの方にそらして歌ってきているわけです。音色とリズムをどうからめていくかをやらないと、音自体、動いてこなくなります。深い息が使われるときに体を一体にする。それだけ体を使うときは心も一体になっているものです。自分で、いろいろな音色や体の使い方があることをまず知ってください。それを一つの曲に対し追うようしていくのです。

 

自分がきちんと出せて、音楽として出せるところの接点はそんなにたくさんはありません。正解といわれるのは何なのか、それをやろうとしたら、1フレーズから4フレーズのレベルで難しい問題になってくるのです。1曲でやる必要はない。どこかフレーズの中出自分の声が出しやすいところを自分のキイにもってきてもよい。

 

 ただし遊び、加工の部分を先に入れてしまわないことです。なにかやるとそれは全部いやみになります。ノイズになってしまうのです。自分の体の原理に正直でないと、音域もとれないし、あとで声量も出てこなくなります。人間のシステムというのがあって、それをきちんと追求していくことです。今はいろいろなことをやってよいと思います。それを狭いところで限定しないでください。

 単純にしていかなければいけないとうことです。音や音程を正しくとることに頭がいっているようです。それは前提です。自分の表現のどこが生きているか死んでいるかを見極めることです。

 

 

 

 

 

『木曽は山の中」

 

 (「だからあなたが恋しくて熱くなるのです」)

 あとは焦点を絞り込んできちんと合わせることです。方向がずれていることをやらないことです。それはよいことではないし、練習にはなりません。練習というのはそこから始めるべきなのです。今ので方向はよいです。

 

(「だから(シ♭ラシ♭)」)

 「だから」から次の「あ(シ♭)」ぐらいで決まると思います。予期した線の上においていくことです。フレーズの中から動かしていって、そこから出てきたものが落ち着いている。「だからー」と大声でいっても仕方ないです。力の使い方が違うのです。意図、メッセージを伝えるのです。一人ひとり、その正解は違います。感情や、音色から、音色だけ出ても仕方がなく、これがフレーズになる。このフレーズというのは、呼吸で決まってくる。それがたりないと思ったら、呼吸、息吐きの勉強をしてみる。そういう結びつきをしておかないといけません。

 

 それが歌になって、どんどんごまかされていくとよくありません。歌い手の中の総合的な要素なのでトータルで出せればよいのですが、結局自分の心や伝えたいものが重要になります。どれだけ強くそのことをつかんでいるか、つかまないで大きい声を出してみても、音には聞こえませんし、大きく聞こえなくなってくるはずです。つかんでいるところの深さが大切です。音の世界になったら、つかんでいるだけでなく、動かしていかなくてはいけない。その動きを感じて、何回もやってそれが出てくるように導いていくしかありません。

 

 

 「だからあなたが恋しくて熱くなるのです

(シ♭ラシ♭・シ♭ラソファ・ドドーラソラ・ソソラ・ミミファソファ)」

 

フレーズになってくると、そこから落ちてきたところのフレーズ、呼吸になりますから、皆がとろうと思った瞬間に全部間違うわけです。だからヴォーカルがヴォーカルを勉強するのはとても難しい。ここで勉強できることは、その入り口のところです。その後は自分の方に正解を持ってこなくてはいけないのです。「だから」というフレーズでどういう世界を作っていくか、そのことが全てなのです。ここに表現が出てこないうちに先には進めません。

 

 単純なことで、計算が消えてしまえばよい。このくらいならもつのです。これが3分になったとき、大きな差がつくのです。“あつさ”の捉え方だって、人によって違います。その人がどう解釈したいのか、ということが見えない歌は結局メッセージ、意図がない歌です。それは働きかけない。

 

 皆が意図や感情を入れたら、うまく声が出ないでしょう。そこに技術が必要になります。技術とはそういうものを瞬間的に一つにして出せる力です。自分のイメージとそれた声が出てしまうという失敗をくりかえしていたら、そのうち修正されていくわけです。失敗が失敗になっていないから、いつまでたっても修正されないのです。中途半端に出して何曲も歌っていくから。それはその人の厳しさの程度ですから仕方ありません。

 

 

(「未練だね、今日は何もかも木曾は

(ラドレド・ソソファミファ・ソドドソ)」)

 計算するのはよいのですが、それを出すときに忘れないとよくありません。自分のかまえたカタチにはまったときに、音楽は死に音の動きも死にます。コンピュータがやるような演奏は、歌の場合よくないです。いろいろなタイプがありますから一概にはいえませんが、声で歌ってはよくありません。体でうたっている方がマシです。声を聞かせるのなら、もっと音楽的にいろいろなものを入れなくてはいけません。

 

 取り出したものの中で何かを起こそうということをしなくてはいけない。それが、ズレやその中での動きになります。その動きを聞いている人間は新鮮に感じたり、次のところへ引っ張ってくれる動きに感じたりするので、単にことばを声で置き換えてもよくありません。自分の中できちんと意図を入れていかないといけない。一致させた上で動かしてください。一致させただけでは次に行けないのです。

 

 音楽というのは2つ必要で、一つで捉えること、次にもう一つのフレーズを捉えて出すことです。そこでその人のセンスというか、音楽性が表れます。それが一つのスタイルになってきます。それが出てこないものは心に届かない。大きな声や、強さではなく、それがどのような展開をとるかです。フレーズがその人から離れていないと、批評のしようがないのです。それはヴォーカルの自由で、納得させることができていれば、それでよいのです。ただできればオリジナルな声をオリジナルのフレーズにして欲しいです。

 

 

(「未練だね今は何もかも木曾は山の中です。誰もきやしません/だからあなたが恋しくて熱くなるのです。

(ラドレドファ・ソソファミファソドドー・ドドレドファソラソファソソファソファララー/シ♭ラシ♭・シ♭ラソファドドーラソラー・ソソラ・ミミファソファ)」)

 

このうちどこか選択しましょう。

 

 

 

 

 

『素敵なあなた』

 

 

(「ただ愛すると(ファレ・ミファソミレミミー)」)

 

 こういう、イタリアの曲になると、日本の感覚では入りにくいです。一番勉強して欲しいことは、ここではトレーニングなどに関して、ある程度正解が見える方向でしかやれないことを知って、いろいろと試しておくことです。やることが全部よいといってしまうと、トレーニングのメニューも定まりません。世の中にいろいろな歌い方がある中で音色をどのように出していくかということです。それとリズムを合わせてフレーズということをいっています。

 

 日本の歌を歌うのは“ヴォーカリスト”ではなく“歌い手”なのです。「歌声」でことばとメロディを処理していく。共通する部分がありますから、そこをとっていけばよいのですが、ただ、役者と同じで響かせない歌い方やシャウト系の歌い方はことばをきちんと入れていかなくてはいけません。技術でカバーできることでもあるのですが、基本的に点が定まっていないといけません。

 

 最初から方向が間違っているものが多いですね。最初から開いているフレーズというのは、焦点がぼけていって、声と、体の力だけでもっていっている。それは体が見えているというのとは違います。この2つのことが見えないようにするのが技術です。読み込みはやるべきだと思います。ことばというより、感覚の中で読み込んでいかないと、この音色が定まらないです。体の力だけでやっている人は、どんな歌を歌っても何も変化していかない。動きが出てこないのです。外人はあまりにこびないで感覚だけ少し変えて出しています。リズムの力がとても大きいので、微妙で我々には読みとれないのです。

 

 

(「ちかってちかって(ミファーレ・ファソーミ)」)

 ことばとしてより、音として重なっていることが条件です。本人がそのようになっていないといけない。「ち」に対して「か」をこぼれないところで、2音をまとめてからずらしていく。何人か試みていましたが、そうすると「ちかって」と聞こえるのです。当人にイメージがあって、そのフレーズで動かすことができないと、当然できません。

 

 

 

 

ーー

(金子由香里特集)

『イレーヌの店』

 

(「この店で歌い、踊り、恋を語る人もいるわ/この店で酒を飲んでうさをはらす人もいるわ

(レ♭レ♭ーミ♭ファファー・ファファファーミ♭ファソ♭ー・ソ♭ソ♭ソ♭ファミ♭ソ♭ーミ♭ミ♭ミ♭レ♭ミ♭ファー/レ♭レ♭ーミ♭ファファーファファファミ♭ファソ♭・ソ♭ソ♭ソ♭ーファミ♭ソ♭・ミ♭ミ♭ミ♭ーレ♭ードシ♭ー)」)

 

 いつも読みの練習をしなさいといっています。皆、切れ切れにとらえています。自分の中で一つに捉えないと行けません。このときに並はずれた集中力がいります。たった1フレーズでそんなに考えません。一つひとつのことばを大切にし、丁寧に歌うことは歌の場合必要であっても、もっと大きく捉えて、ひとこと、ふたことくらいで捉えておかないといけない。その中で1、2ヶ所変化すればもちます。きちんと押さえてやっていかなければいけないというのは、力で全部やれというのではない。やるべきところできちんと捉えて放してやればよい。これを長いフレーズで捉えてしまうのは日頃の練習不足です。

 

次へいきましょう。歌謡曲・劇団の歌い方、宝塚とはまた違う日本語の処理の仕方があって、これはこれで独創的なものです。私が楽譜を見て、こんな処理の仕方は思いつきません。そういう意味で違和感を感じてもらえればよいというのがこの問題です、真似をするとぐちゃぐちゃになってしまいます。

 

 

(「いとしい人よ 私には/あなたのいない世界なんて考えられない

(シミファ♯ソ♯ソ♯ソ♯ファ♯ー・フォ♯ード♯ミミレ♯/シミファ♯ソ♯ソ♯ソ♯ファー・ファ♯ーレ♯ミミレ♯レ♯ー・レ♯レ♯レ♯レ♯ファ♯ミレ♯ド♯ー)」)

 

 4つ、3つよりも2つで捉えたら随分楽になります。金子由香里さんは、日本語の特質をうまくつかまえていますね。リズムで呼吸を乱されないようにしてください。リズムは呼吸を整えるためにあるのです。そうでなくバタバタしている人が多いですね。自分で引き受けないからやれないのです。

 

 

(「わきたつ拍手の嵐、手のひらのひとつひとつが

(ドドドドードドドドレラ・レレレレーレレーレファミ♭レー)」)

 

 こういうのはあるていどどこかにポイントを絞り込んだ方がよいでしょう。このフレーズの中のピークをどこにもってくるか、それは決まっているわけではないのです。伴奏がつくと決まってきますが、アカペラでやるときは自分が好きにやればよい。もう少しディテールを読み込んでいくことです。聞き取ってから真似してやらないというのはよいのですが、聞き取らないで素通りしてやらないというのはよくないです。

 

 方向性というのがあるわけです。そこで何がおきているのかを捉え「らー」で一つにまとまっているところに対して「てーのひらの」と入る。それをそのまま真似しろということではなく、こういう動きを作っていってフレーズを持たせることはしないといけない。計算しても仕方ないのですが、自分の中で何か動かさない限り、作品になっていきません。頭と声だけではつくれません。こういうのを100回も、200回もやらないとわかってこないのです。それで何がおきているかがわかってくると、1回でそれを取り出せるようになる。それがその場、その場でパッと出ないとよくありませんね。自分のことを知っていたら、その中で共通のものはあるでしょうから、そんなにそれないはずです。

 

 

 

「群衆」

 アコーディオンの波に対して、ヴォーカルがどうぶつけているかを聞いてください。ぶつかるところはぶつかり、乗るところは乗っています。かなり強く引っぱる意志を持たないと、こういう歌は難しいですね。

 

(「わきたつ調べに2人はつつまれ/我を忘れて楽しく夢みる

(ソソシシシドレレドシドド・ドドドドドミ♭ーレレー))

 

 シャンソンというのはことばでかなり動かしていきます。ことばの勉強をするにはよいでしょう。リズムや、決まり、グループ感に左右されないところです。歌い手のことばの流れによる少し違う意味でのグルーヴ感はあるのですが…。そういう中でどこが表現なのかをきちんとみつめ、拡大して練習しておく。

 歌というのは3番まで歌って、たいくつしてきたら何かやりたくなります。そこで踏み込めるか踏み込めないか、放せるか放せないか、というのはとても大きなことです。そこで鈍かったら対応できません。

 

歌い手にもつまらないものを、お客さんが新鮮には感じません。同じフレーズを繰り返すのは心地よいことですが、その心地よさを出すために、きちんと入れておかないといけません。きちんと集中して、音色を出していく。歌い手が動かしていないといけない。放して動かしていないといけないところが難しいのです。声楽の場合は声にのせて、ある程度出せますが、ポップスの場合はメッセージを抱いてやった方がこういう曲に関しては通じます。トータルのバランス関係もあります。

 

 どちらにしろ伝えるのは音色です。いつもいっている通り退屈しないフレーズ、ぐいぐい引っ張っていくフレーズをつくる。1回引っ張っておけば3回くらい遊べるのです。それを引っ張らないで遊んでばかりいると、歌にはなりません。歌というのは、歌っていくと流されてしまいますから、引っ張りたいときに引っ張って、自分でまとめる。ことばもそうです。

 

 

自分で読んで、それをきちんと前に投げ出そうとしたら、相当集中力と、体のコントロールがきかないと、失敗してしまいます。それが確実にできることが技術です。発声だけの発声があるわけでもなければ歌だけのトレーニングがあるわけでもなく、一致させてもらえばよいという感じです。

 

 こういう曲を参考にして、それに変わる何かをつくってください。いろいろな影響を受けていくのはよいことだと思います。ただ抜け出せないようになるようなヴォーカルに関してはこちらで指示していきます。

 なるだけ拡大してやると、より皆の体も必要になります。3くらいでやっているのを30くらいで表現しておいて、実際のステージでは3くらいで出す。こういう練習をしないと、一致しないわけです。感覚が一つにならない、そうすると、どこが響いているかとか、自分の体に置き換えて、読めるようになってきます。

 

 

 こういう歌は一人舞台そのものです。単純にいうと、初めて聞いたときは、物語がおもしろくて聞いています。2~3回目にきくときは、歌い手の表情や仕草をイメージしながら聞くわけです。でも、皆、今がやらなくてはいけないことは、それを音の中でイメージし、自分でそれを引き受け、自分だったらどう出すかということが働くか働かないかということです。

これは、プロ意識のようなもので、早く持った方がよいと思います。音の世界を読み込んだ瞬間に自分の体や、感覚がコロコロ変わっていく。その中で何がおきているか、聞いてみてください。

 

 

(「輝くフットライト わきたつ拍手の嵐 手のひらのひとつひとつが

(シ♭シ♭シ♭シ♭ー・ファファファラソ♭・ドドドドードドドドドーレラ・レーレレレレーレレレーレファーミ♭レー)」)

 

 

 音の世界をとっていくことと、ことばとメロディをとっていくことがあります。日本人は後者の方です。「あ・らーしー」という感じですが、本当は、そこにきちんとフレーズが入っています。「ぁらーし」とか「てーのひらの」といった風に、気や体を入れています。この通りやる必要はありませんが、点をおいていくのが歌だと思わないようにしていってください。5年くらいやると、読みとれるようになると思います。放してはだめです。きちんとつかんで投げ出してください。

 

 勝田さんの演出講座を受けていたらわかると思いますが、その気になることです。それが難しいから、養成所があるのでしょう。仲間の中から、音楽的センスがよさそうだ、とかノリやすそうだということから、勉強していってください。なり切ることが難しいのです。

 

 皆はフレーズをいっていながら、自分のものになっていないわけです。情景もなければ、その気分にもなっていない。その切り替えというのが日本人には難しいのですが、日本人にはそのままなのです。「あらし」のところで「あらーし」というのは理屈ではないのです。何かを宿していてそれを出すときそうなるということです。文字をとるわけではなく、イメージとしてわかるでしょう。そういうところに音色ができて、その中の動きがリズムやフレーズを助けてくれる。そうなった方が出しやすいのです。

 

 

一つひとつにどうやるのかなんてやっていたらどうしようもなくなります。自分が思って、表現すればよい。思わないから、表現は難しくなってしまう。思ったのに、表現したとき、失敗するというのはよいのですが、核となるものがないとよくありませんね。核というものは、一人で練習していて、バカになっていれば出てくるのですが、なかなかなれないのです。でも、体の動きや、リズムを学ぶのは、その気になるのが一番簡単です。そこから入らないと、日本人がリズムを勉強するのに10~20年かかってしまいますよ。感情がリズミックになっていると思った方がよいです。

 

 

 「ひとごみ」のフレーズで「ひとーごみ」とすぐに軽くいうことができてしまうところでは、自分を持っているということです。自分を持たないと仕方ない。それから、部分的に覚えようとすると難しいですね。ここまでのことを覚えているから一気に入るわけです。入り方のところは難しいですね。3拍子のリズムの中にのっています。

 

(「わきたつ調べに2人はつつまれ我を忘れて楽しく夢みる

(ソソソソレドシドドー・ドドドドドドドドドドドドミ♭レレー)」)

 

 メロディや、ことばを間違えないようにいおうとするとこんがらがってしまいます。それよりも大切なことは、「わきたつ調べに2人はつつまれ」といって、「我を忘れて楽しく夢みる」ときちんといった時に音ができてくればよいのです。考えながら、この音どうだったかな、なんてやっているとわけがわからなくなります。そんなことで方向が狂ったり、歌自体の表現力が落ちたりするわけではありません。楽譜で書けないような凝縮された表現をしています。フレーズの一つひとつを自分でどう感じて出すか。ことばの解釈ではなく、音楽的な部分の感覚でよいのです。自分の中でまず一つにしないといけないわけです。

 

 

 「ゆーめーみーるー」は4つ、「ゆめーみる」というのが一つ。1回一つにしてみて、1音1音を出していくと、少々音があっていなくても、リズムが崩れたりしても動きが引っ張っていけば間違いにはならないわけです。聞き手もそんなところにいちいちこだわらないで、次のところへいくわけです。大切なのは音をきちんと出していかなくてはいけない。正しい音ではなく、音の流れです。それを自分で示すことがヴォーカルの世界です。何かの音色を入れ、何かの動かし方をするから歌い手のフレーズになるわけです。そういうところは慣れていってください。全身で、全集中しないと見えてこない世界です。

 

 

 

 

 

冬の花

 

 

 歌う人は前に来て客に顔が見えるところに立ってください。スタートまでをじっくりととってもかまわないので、入りやすいように入ってください。

 これで一通りです。聞いている人が判断すればよいわけですが、生きている表現、死んでいる表現でいえば全部死んでいます。何の意味もない。そのことをわかってもらえればよいです。生きているというのはどういうことかというのを感じるのが今日の目的です。私がオーディションのプロデューサーなら、全員確実に落とします。もういちどやってみます。

 

「冬に咲く青い花

「つめたい砂漠におちていた」

 

 2行になってくると、雑でなくなってきます。ただ一つ目のフレーズはまあまあでも、二つ目のフレーズで定まらないと、力がないことがそこでわかってしまうのです。これだけのフレーズでほぼ決まってしまいます。今のでいうとSさんのところで、ニュートラルです。全然よいわけではありません。普通に出ただけで、何も作っていない。ただ0です。

あとの人はマイナスです。Sさんにプラスα加えていたのがWさんです。ただ、最初に形がある。それでは音楽はよくありません。動きが形をとらないといけない。

他のメンバーも計算しているから、それがマイナスに働くのです。器用な人はあまりよくなくて、心に働きかけられなくなってしまう。それがうまくなることだと思って、そこをどんどん作っていくのですが、洗練されていくことと、それが逆行してしまうのです。一行でやってみましょう。

 

 

(「冬に咲く青い花」)

 

「ふ」も「ゆ」も「に」も「さ」も「く」も全部いいにくいことばです。ポップスの練習の課題としてやればとても難しいです。やりにくいからどうやるかではなく、やりにくいところで勝負しないことです。一つに聞こえた人が一番よいのです。今の中で音がおちて動いた、あるいは次につながったというところまででよいのです。歌の場合、全部プラスにするというのは無理です。マイナスにならなければよい。違和感があるのが一番よくない。何もなく、ポッと出ればそれだけで引き込むことになります。

 

1行目は自己紹介のようなもので感覚も一応好意的に聞いてくれるわけです。そこからマイナスをオンしていってはいけない。評価はつけられません。その先でつくしかないのです。評価されないことが評価なのです。評価がつけられるというのは、しょせん相手に理解されてしまう程度です。細かいことを抜きにして、単純に捉えてもらったらよいです。皆と私の捉え方はそんなに反しないはずです。正解があるわけではありません。

 

 このあとのフレーズにしても、いいにくい音やことばがあったとしても先に出てくる音や、ことばを優先している。歌の場合はそれでよいのです。この歌の歌い手より声の基本力がある人はここに何人もいますが、歌はそれで決まるというものではない。その歌い手が自分のことをわかっているのと、プロデューサーがアレンジしたものがキラリとでも出てくればよいのです。これをそのままとって歌おうという考え方は、最初から捨てないと不利になります。簡単に感じが変わりますので、その辺を受け止められたらよいと思います。

 

 

 

(「鐘がなるなるなるこころの中でふるい時代の石だたみ」)

 

 8割方、「鐘」のところで終わっています。こういうものの真似をして悪いところばかりとっているのです。よいところを3つくらい捉えて、動きをきちんと出してそれを放り投げればよい。その上にどう処理するかが乗らないといけませんね。歌か、音楽にするところを出さないといけません。歌といったって、歌えばよいわけではないのです。何かにしなければいけません。

 

(「いつまでたってもかれないで毎日涙をあげるから時をこえ」)

 

 全体的に動きが少し緩慢です。ゆっくりというのとは違います。皆、これまでのフレーズに比べて歌の勉強をするのに何回か練り込んでいるし、どこをポイントにするかをはっきりしているので、わかりやすいところです。評価もつけやすいところで、個性も出やすいです。誤解して欲しくないのは、柔らかくおいたり、組み立てていくときに、呼吸を使わない、体を使わないことで調整している。逆なのです。おいていくというときには、体や神経を使います。おいていけばよい、とか声量を少なくしていけばよいということであれば、体を使わなくてもよいのですが声量を少なくしたり、おいていくことによって伝えなくてはいけない。

 

大きく出すところでは、単に踏み込んで、声だけ出していけば伝わる。でもそうでない部分というのは、相当自分で体を使ってコントロールしない限り、伝わらない。だから流れてしまうことになります。私たちからみると、体がさぼっているということにもなります。息や、体がそこで7割になってしまったら、その動きは緩慢になってしまいます。そこを間違えてはいけません。音色がそれらしく聞こえるので歌として通用するように思えるのでしょう。そのようなところが歌の中で一ヶ所でもあってはいけないのです。今度はうしろにいる人のフレーズ回しをします。

 

 

(「冬に咲く青い花」)

 フレーズを音の動きで捉えたときに気を抜くと音楽にはなりません。イメージとしてフレーズにしていくということはどういうことなのか。凝縮して踏み込んでください。

 

 

 

ーー

 

イヴァザ・ニッキ「さよならも云わずに」

ミーナ「太陽はひとりぼっち」

 

 

課題は歌詞を渡していますが、言語にとらわれないでください。

どれだけ、歌詞から離れられるかが勝負だと思ってください。

このコピーではなく、自分の出したものが、表現に値すればよいのです。

 

 

(「チャオカラコーメスタイレイノンリスポンデピュ

(ラーファラレードド・ファファファソラソ)」)

 

声楽的にやったり、いろいろなアプローチを試してみるのはそれでよいのですが、ステージに立つと3分もちません。もともと自分の中にあるものを出せばよい。ただ、個を完全に使いこなすだけの厳しさとテンションがないだけで、そこに半分くらいの答えは出ていると思います。それを出さないで、何か作ろうとしてしまう方がおかしいと思います。

 

動きができていないところで歌ってみても仕方ない。感覚が入っていて、音楽の上に声をどう出していくかです。今できていることをきちんとやり、今できていることが何なのかを見極めてもらえればよいと思います。②あたりでは、よいものがキラキラと出てくるところなのですが、真面目すぎて何も出せなくなったり、自惚れて固定できなくなってしまったり、とても危ない段階ではあります。

 

そういうときは、一流のものと比べてみたとき、それに比較するものは自分の中で何なのか考えてください。それは誰でも必ず持っています。それを自分で統合する、コネクトするためにクリエイティブなエネルギーを注がないとよくありませんね。

 ヴォイスジムなどは、トレーニングのための準備トレーニングですね。それだけで疲れてしまってはどうしようもありません。

 

 

 

「そして今は」

 

 皆は理解できなくて当たり前だと思うのです。こういう人たちは観衆の方におりていかないのです。

 

 腹式呼吸の練習で、横や後ろの筋肉を使うのは、前は動かしてもよいのですが、横や後ろが付いていかないからやるわけです。だから、横や後ろで全部やるわけではない。トレーニングというのは部分的なものを強化するわけです。自分の体の弱いところを鍛えるのです。今まで高低アクセントに慣れていた耳を強弱アクセントに変えていく。リズムでとるということもそうです。まずことばのところでやりましょう。今は小さな声より大きな声でやりましょう。高低アクセントや発音のことは考えないでやってください。一つでとらえないと、体が働きません。

 

 

(「ハイ、今、僕は」)

 

 今やっていることにのせていかなくてはいけないことが、どこにも出てこない。当人が感じていて握っていないものに対して、他の人間がいえません。そして一曲を一つということでとらえていくのです。さっきの歌でも、完成度はそれぞれあっても、ある一つの点でドラマを起こしてそこを伝えようとするために物語が進行して終わっていく。

ここではやれないことをやりますから、自分でできることはやらなくてよい。なぜそこでできていく人と、できない人がいるかというと感覚の違いなのです。私がいっていることは、私がやっていることではなくて、世界の常識で、日本ができていないことです。

 

 「く」が皆にとっては難しいと思います。ことばを変えてもよいです。日本語でやるとやりにくいかもしれませんが、結局は同じことです。集約していけばよい。「今僕は」のフレーズでは「…くは」が聞こえてくればよい。これがたいてい2拍目やダウンビートになるところです。

日本人はそれを伸ばしていきます。だから伝わらなくなります。なるべく単純にとらえてください。一つにとらえた上で、動かしていくのはよいのです。音楽ですから固める必要はありません。でも一つにとらないうちに動かそうとすると、全部走ってしまいます。「ぼく」の「ぼ」の後にアクセントが入ります。

 

 

(「今僕は(ラ♭ラ♭ドド)」)

 

 これは1オクターブですが、実際2割くらいの人しか半オクターブもできないのです。それをしないと、2年間で1オクターブはつくれない。そういう基本がステージでものすごい差になります。ただそうでない歌い方もあるから、判断が難しいのですが、ほとんどの場合、真似事で終わる場が多いです。音楽の世界に踏み込んでいないとよくありません。体一つで感情をとらえて、そこから音色を作っていくという創造的な活動が入ってないと、人は感動しません。そこが大きな違いなのです。

 

 なるだけ、単純にしていくことです。それと体を使うこと、体を入れていくことです。これが声を深くしていくことでもあり、フレーズを動かしていくことでもあります。そしてノドをあけることでもあります。よい作品を見てもらえばわかると思います。一流の人と基準を同じにするのです。それを入れないまま何年トレーニングをしようが、出てこないのはあたりまえですね。それをここでは若干わかりやすくしているつもりです。

 

 のどや、発声の状態はいろいろなことに関わってきますが逆にいうと、そんなものは全部どうでもよくなってしまうほどの何かがない限り、そんなものがいくらあったって、音大生やプロにかないっこないです。形もないよりあった方がない人に対しては通用するということです。

 

 

 そのとき、そのときにできていることをきちんと得て、その上にのせていかないといけない。トレーニングには繰り返しがあたりまえで、それにオンしていく、オンする量が少なくなると、そこで止まってしまいます。そういうことを少し考えてください。歌い手というのは、それぞれのスタンスがあって、それはここで勉強しながらも定めていかないといけない。

 

ここは、“ことば”ではなく音としてきちんと音楽をのせた上にことばの働きが生じる。ポップスはメッセージ性が強くのっていることが大切です。リピートする上にオンできるだけの根っこの部分を作っていくことです。そこを作っていかないと、3~5年のうちにあきらめてしまいます。

 

 才能というのは余程やらないと出てこないのに、今の皆の弱いところは、誰から作ったゲームの上でやろうとすることです。それは作っているわけではなく、ただの消費者です。今はそれがわかりにくくなっています。

 

 

デジタルとアナログということで質問をしてきた人がいました。

デジタルというのは再現できるわけです。人間というのは生まれて、そしてピークがあり、やがて死ぬわけです。音楽というのはインターラクティブなもので、場があって観衆がいるから成り立つのです。21世紀に皆さんは音楽を通じていろいろやっているのでしょうがその時代のポップスというからには、最新の技術と、最新の感覚がつかないといけない。

 

時代が進むほど、誰でもできるという環境はととのってきます。枠組みができてきているわけです。この枠組みの中で勝負をしようというのは結構難しいです。

 

 今はアーティスト自体がゲームの駒になってきている。これを取り返す試みは他の世界で行われています。歌い手も見せ物のようになっている。昔、ライブでやっていたようなことはインターラクティブなことです。今は歌い手がステージに上げられてしまって、一方的に投げかけるだけ。アクティブな場でも何でもないのです。できた作品をそこに提示するだけ。それなら、テレビでやって、レコードやレーザーディスクを出しておけばよいわけです。

 

 

こういう場では、そこで自分が出した表現に対して何を感じ、フィードバックしていくかということです。それをまわりの人間が場の雰囲気として持っている。

 

私が③を評価して、②を評価しなかったのは、③は場ができていたからです。私が来なくても、勝手に勉強してやっていく。

 ②はそれができていない。自分たちが何をしているのかわからない。場を与えられて、その中で歌おうとしている。それをひっくり返さない限り、新しいものは出てきません。

 

フレーズを1フレーズでも2フレーズでおよいからきちんと取り出し、それを最大限、1曲にしていくことです。これが日本の場合、構成をいろいろつけていかないと、なかなか伝わりません。

 

 

 今のお客さん自体に主体性がなくなっているのです。一方的に与えられるものにだけ反応している。ここで原形のものを見せるとしても、そのことを理解できるだけのものをお客さんが感じないと無理なのです。日本というのは昔からいろいろ説明しないとわからない国なのです。歌の舞台というのがどんどんなくなってきている。

 

 アーティストにもそれ以上のものがないから、客をつくれないわけです。今はデジタル化した見せ方の中で、プロデューサーと作詞家、作曲家は評価されていきますが、アーティストは使い古されてきます。本来は、その人間(アーティスト)の一生の中で高まっていくべきものです。それのもとになるものは、身体性、個の肉体の内に感じるものしかありません。

 

 コンピューターを使うようになったら、高水準の作品ばかりできるなどということにはならない。その中で高品質の作品を作っている人々は、皆アナログの感性がものすごく働いている。それを単に技術として出しているだけです。

 

 

 皆さんは、自分たちがのせられているゲーム盤をひっくり返すことをしてほしい。それが、私が評価する作品の条件です。リズム感や音程などといった評価の基準からはずれるもので、認めざるを得ないものです。そのためにも、ここで勉強して、自分の中で壊していかないといけない。

 

当人がその必要性を持つことです。しかし、やはり人前に出る人はそこまでやっているわけです。それから、人生の上でそういう経験を積んでいる人もいるわけです。今はそうでない人たちが多くなったので、それをどこかで補っていかないといけないでしょう。

 

 アーティストとしてオリジナリティなどで勝負していきたい人は、他人とのちょっとした差違を感じたことを大切にする。ただ、自分が感じたことが絶対正しい、といえるほど勉強していないと、そのことがゆらいできます。

 

 

 

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