鑑賞レポート 836
【ピアソラ】
ピアソラを知ったことも、自分にとって大きな財産だ。日本人は、本当にタンゴが好きだがそういった問題とは別の、“ピアソラ”というアーティストの存在が重大なのだと思う。何せピアソラが作曲したものだからピアソラの血と魂であり、その作品に脈々と生きづいているのはもちろんである。しかし、他のすばらしいアーティスト達がピアソラを演るのを聞いていても、ピアソラ自身が、いかに自分の作品をバンドネオンを通して表現するのに長けているか確信できるだろう。ピアソラはその自らの中にあるものを、卓越したリズム感と共に空間に強力なエネルギーとして、たたきつけてくる。その独自な詩情感は、ピアソラの生い立ちや生きざま、アルゼンチンという風土への憧憬として迫ってくる。ただ私にはまだまだビギナーなためか、どの曲も全部同じメロディーとリズムとして聞こえてきてしまう。これは、もっと聞き込むと変わってくることを祈りたい。
セッションとしてはエマニュエル・アックスとパブロ・シーグレルのピアノがとてもおもしろかった。たいへん熱っぽい演奏だった。クラシックとジャズのアーティストがこんなにピアソラにのめりこんでいる。ピアソラの音楽というものは、連続と形成されてきた音楽の基盤(もう出し尽くしてしまった後は、サンプリングを繰り返しているだけという云われ方もしている)に、あらゆる、ヨーロッパ、北南米などの世界の薫りが散りばめられ、しかもそれが、ピアソラという人を媒介としてきたことによって、これだけのファンをつかむことが出来たのだろう。ピアソラという人を通過し、練られてきたことは、音楽にとって幸福なことであったろう。故人になってしまったことは、悔しいが、多くの偉人がそうであるように、色々な形で様々なアーティストに受け継がれていく。そんなわけで、私も「ミルバ・ピアソラを歌う」を観に行くわけだ。
【プリンストラスト】
ダイアナが見に来ている、皇太子も、ロックのコンサートに。どういうことだろう。皇太子が厚生年金ホールのコンサートに来ていたことがあったか。同じことだろうか。わからない。国歌。コンサートの前になぜ。皇太子夫妻で来ているから。ひっかかる。何。ロックのコンサートに国歌だから。ロックだから。いや、むしろコンサートだから。しかし会場の人の表情は特にどうということはない。イギリス人にとって国歌とは何なのだろう。そして私にとって国歌とはじゃあ何だろう。なぜ歌おうと思うのだろう。なぜ歌おうと思わないのだろう。言いたいことがあって、自分の体だけから出てくる言いたいこと。たった一言でも、一言でいいんだ、本当はきっと。身の丈にあったものなのだから。外へ行かない。自分の中へ見つめに入っていく。あのドレスの着丈は何だろう。生地厚であの長さ。見ていて重たい。持ってゆらす楽しさならもっと薄手。束ねた髪をひっつかまれてふりまわされているみたい。重苦しい。長さだけでも解決できる。なぜあの長さにしたのだろう。
アディベル:もっと自分を信じよう、と思わせるんだ。出してる、出してるだけなんだ。本当に。でも出してくれるから立ち止まる。自分の中にあるものだけが信じられるもの。嫌われても。まとめてるということか、自分に聞いてあげてない、ということか。じゃあなぜまとめたがるのか、かっこつけるのか。
ミーシャパリス:ババババババ一緒にやってみる。体に入っていないから遅れる。スティーブ・ノーマン:この選曲いいんだろうか。Free You Loveのリフレインには少し飽きた。
バイオンリン・ソロ:クラシックじゃない。「伝えたい」それだけがそこにある。とらえて離さない。彼一台のバイオリンがオーケストラ全体を引っ張っている。彼だけの音色。ギターだってもうこうなったら弾いちゃおれん。たたいている。誘い水だ。バイオンリンは。みんなの中の何かを引き出している。弦をかんじゃった!ギターで返事してる。要は会話をしてる。止まらなくなる。でも、この最中にもダイアナが立ち上がったのに気が付いていたんだ。醒めてる部分を確実に持ってる。それだけパッと見て出すこと。
アレクサンダー・オニール:腹を使わないとああいう発音出来ない。目一杯使っても同じ様に言えない。ものすごい遅い。息をまじらせた声も使う。ブレスの音入り入り。でもそこに間違いなく彼がいる。うなる、今までとのトラスト。パリッパリッ。力抜けている。無駄な力が入っていない。だから入れるべき所だけに入れられる。息の混じり方がセクシー。
ヴァン・モリソン:パンチ。近所のおいちゃんが歌っている。感動する。どんどん推し進んでいく。しゃべっているだけ。「歌う」ことの原型か。
ジョン・ファーナム:ステージを端から端まで歩いている。拍手の音マイクから入るとシラケる。たった一人しか拍手してないみたい。長い曲だ。何を歌った歌だろう。泳ぐポーズでのってる人がいた。ギターが体みたい。しかし背広着てなぜ歌うの!歌えるもんか。歌ってるけど。No Trouble。鳥肌が立つ。今まではじゃ何だったの。これが核だよ、と言われているみたい。限りなく余計な事しているのか。イッイッイッ,イッ/イッイッ/イッイッ息、凄い。いいものはいいんじゃなくて凄い。芯にある声。高い音とのコントラスト。ウェルダンンニング:デュエット、必死こいて遊んでる、楽しかったね、でも抱き合わない、なぜ。
スイギング・シスター:ステージにあがったら考えない。アンティ・ベル;神に口づけしたんだろうか。トニー・スティーブ:つまらない、なぜだろう。芯がつかない。なぜだろう。
ジョーン・バエズ:いつの時代で聞いてもいい歌というものがある。そうでないものもある。それは何か。メロディ,歌詞との出会いか。そうではあるまい。思想でなく、思考でなく、想いか。人が生きていて喜怒哀楽がある限りその歌に投影される、ダブらせて聞いてしまうものをいい歌ならグッと差し出してくる。そこでひっつかまる。ビリー・ホリデーの歌を思い出す。彼女にはあの歌をああ歌う背景があった。みんな同じ苦しみを味わわなければ人の胸に届く歌を歌えない訳じゃない。自分の核に降りていくかいかないか、たどりつくかつかないか。そして、それはかけた時間でなく、やわらかい感じる心と見開いた眼と集中する静かな時間・瞬間と。ゆったりと研ぎ澄まされる。そんな豊かな時の産物。切れる直前か。Love,Love、Loveみんなフレーズが違う。みんなさがした、自分を。女の子が万歳して踊ってた。先にやられた。
【ボブ・ディラン】
アーティストとして絶対的に必要なもの、存在感。一体この存在感とは何なのか。その人間の前に出たら何だかわからないが「すみません」と謝ってしまいそうな光を発している。日本という国はアーティストが育たないというのがよくわかる。アーティストと限定せず人間といってもいいかもしれない。これは本当に大きな問題ではないだろうか。個として自らを鍛え上げてもそそれに反応する人間がいなければ妥協するか断念するかの選択しかないのではないか。そう想いながらもやはり自分は自ら輝きたいと思う。これはもう日本人としての問題ではなく個人としての問題。ひとりひとりの人間が自分をみつめ自分にとっての良き人生とは何なのかということを考えなければ居場所を失ってゆくと思う。
ジューン・カーターとジョニー・キャッシュ。なんて大人の雰囲気を持った二人なのか。人間て不思議なもので積み重ねてきたものが全て表面にでてくる。精神的なものが嫌なくらいみえてしまう。だからこそ自分を磨き続けなければといつも思わされる。女としてこの社会の中で前に出続けようとすることは難しいことだろうか。女性が変わらなければこの国は変わってゆかないだろう。日本という国は弱者という言葉で多くの人間の可能性、能力を押さえ込んでいると思う。自らの責任で何でもやってみてそれで怪我しようが死のうが(少し過激だろうか)しようがないではないか。個人の責任という考えがないから、根づいていないから個としても育ってゆかない。
シンニード・オコナーの叫びは、心にストレートに響いてくるものがあった。言葉などわからなくともその表情、声で想いは伝わってくる。彼女の内に秘められた押えきれない想いがあふれていた。歌とは何だろうと考えさせられる。一人の人間が何を感じ、考え、この社会とどう関わっているかのあらわれではないか。自ら生きる場での問題を真剣にみつめメッセージを発信する。色々な伝え方があるだろうが彼女の場合は何の飾りもなく言葉がむきだしになっている。そしてその内容は彼女個人の思いでありながら普遍的なものとなっている。だからこそ多くの人々に受け入れられるのだろう。彼女の国、アイルランドだけではない。いつの時代も国も問題は支配する者とされる者の間で起こる。終わりなき闘い。私がアイルランドの問題を黒人白人の差別問題を直接訴えることに意味はない。そこで生きている人間ではないから。私にできることはこの日本という国を通してより多くの人々に働きかけるメッセージを送るということ。そういうことを彼女は気付かせてくれたように思う。
ボブ・ディランの曲は、歌詞をみればわかるが彼独特のセンスがある。そして誰とも違う彼だけの歌い方。初めて聞いた曲は「風に吹かれて」。その時は歌詞も知らず風の向くまま気の向くまま旅をする男の話だろうかぐらいにしか思っていなかった。彼の歌は自分の生きている時代と場そして彼自身の問題意識がひとつになっている。音楽というのは思っていることをストレートに言葉にしなくとも伝わるんだということを知った。その人間がまっすぐものをみつめていれば。いろんなアーティストが彼の曲を歌ったが一人ひとり全く違う。
スティーヴィー・ワンダー。なぜ「風に吹かれて」があんな風に変わってしまうのか。はっきりいってよくわからない。自分のスタイルにもちこむなんてものではなく、全く違う彼の歌になってしまっている。彼の声やハーモニカの音を聞いているとあらん限りのものをこめているのがわかる。ひとつの音としてゆるんでいるところはなくハーモニカでいえば吸うことも吐くことも全く同じこめ方をしている。これだけ全てを出し切るという感覚の上でやっているということを自分の感覚にとりいれなければならない。これだけの伝え方をするには全身で伝えなければ無理だ。どんな時もこういう人間の中に自分の身をおいているイメージを持っていようと思う。
ジューン・カーターとジョニー・キャッシュ、聞きあらためて日本人の歌うカントリーの退屈さを感じさせられた。体から歌えないということは本当の意味で全身で感じられないということ。表面的にのっているふりはできるがそれでは言葉も音も表情も動きも死んでいる。退屈と思わない歌い手と客で成り立っているのだから何ともいえないのだがそういう客にはなりたくない。
クランシー・ブラザーズというグループがうたっていたがこれまた日本のダークダックスとはわけが違う。グループになるとよくわかるがひとりの人間としての存在感の違いが大きすぎる。4人かかっても一人のパワーに勝てないなんて。結局日本の客がパワーというものを外国のアーティストには求めても日本のアーティストには求めないからこういうことになるのだろう。音楽というのは自分とこの世界をみつめさせてくれる。今自分を生きている時代、場を広い空間の中でみることができる。この私が日本という国に生まれたことと、女という性を受けたことは事実であるけれどそういうものを取り払ったところでひとりの人間として生きていきたいと思う。
【トミー】
『人は新しく生まれ得る』ギンギンの兄ちゃんだ。泣いてばかりもおれん、もう笑っとる。さっきお墓参りしてたときは泣いとったばってん。生きるためにこういう風に人間は創られている、ということか。少し、この人早い気がするけど。まあ話の成り行きで。しかし、完璧な太ももっつうのはあるのだろうか。大人には付き合うのも大変タイ。しかし展開早い。お話しだから。「ほほえみ見ると生きる勇気がわく」か。うまれた時からの基本。一気に修羅場。こういうものか。「僕を見て、感じて、さわって、治して」か。「治して」だけでも内容は伝わっているのではないのか。まず「見て」そして「感じて」そして「さわって」そして「治して」。そしてこの順序。まず見る、見てるだけじゃなくそこから感じて、でも感じてだけじゃなくて直にさわって、そうやって治して、ということか。人が生まれた時の心の動き。見る、愛しい愛らしいと思う思わず頬ずりしたくなる。だんだん言葉を、まわりにいる人々の真似をしたくなる土台ができる。その基礎の上で言葉を覚えたくなる。真似したくなる、好きだから。嫌だナ、嫌だナと思う刺激ばかり与えられ続けたら、感覚を捨てて行くだろう、防衛本能だ。これ以上傷付かないために。一見病いに見えるものでもそれは身を守るためのものの時がある。精神的なものは。表面をいじくったって何にもならない。まずその根っこまで降りていけるか。テイサイにとらわれずに。そしてテイサイにとらわれずに腹をすえて愛をもって長い意味での幸せに立てるか。時間がかかるけど基本的なつけやいばでない幸せに。普通はなかなか立てない。余計なものチラチラするものにとらわれて時が残酷に過ぎていく。
トミーはどうやって治るのだろう。ティナ・ターナーか、こういうのをはまり役というのだろうか。他の誰がこの迫力でこの存在感で演じられるだろう。強烈。「ジプシー、麻薬の女王だよ、プロだよ」か。太い注射針。でも彼女が持つにはちょうどいい大きさだ。金のツタンカーメン。注射何本あった。一斉に注射しながらグリグリ回しちゃった、ギャーッだ。何であんな太い消火ホースが家の中にあるねん。「遊び」か。ああいうのをおもしろい、と感じる人も世の中にはいる。もっとわかりにくい形でいるかもしれない。画面が消えた、声だけ。鏡に映る姿が3人になってる、そして1人になった。笑った、初めて。もう一人の自分が手を差し伸べてる。ライトが点滅し出した。感覚が蘇った、ということか。警官だ。でもとにかく感覚を新しくするのに貢献するのは他の誰でもない。自分。自分が見つめる“もう一人の自分”。自分を見つめる“もう一人の自分”。象徴的に鏡を使っていたが、他者との間ではなくその世界で生きていた、ということか。一見何もしてない様に見てても彼はそこに立ち、もう一人の自分に対しては目をそむけることなく見つめていた。鏡の前に立つことを彼の中に残されたものが選んでいた。ということ。こういうものが。
人間は聴覚は最後まで残るという話を聞いたことがある。人は生きている限り生きている。自分が自分の中にある声に耳を傾けず、対決しない時にでも、感覚を失ってしまったかに見える人の中では、その声に耳を傾ける作業が行われ、それに従ってみる、という私よりはるかに頑なでない、やわらかい心で本質的な対話を積み重ねていることがある、ということ。そのやわらかさはさておき、静かに自分の中の声に耳を傾けてみる、というのは習慣かもしれない。
トミーが確実にその形が生きている時父母は何をしていたか。「大丈夫かしら。心配だわ。」「大丈夫だよ」瞬間に抱える苦しみはもの凄いものがある。が、普段は気分だ。楽しむな、という意味ではない。空っぽの会話だからだ。漠然としている。具体的じゃない。このあたりは身につまされるので嫌でもよくわかる。
トミーは気分にひたってはいなかった。みつめつづけていた。そうしているうちに少しずつ見えてくるものがあり、それに従った。そしてもう一人の自分が消えた瞬間を迎えても車の瓦礫の中を歩くのをやめなかった。さまよった。そこから光り輝くピンボールにたどりつく。鏡もろとも母からぶっ飛ばされたとき彼は自由を取り戻す。父からじゃない。そして感覚を失ったあの修羅場まで記憶をたどる。そして母に対して初対面の人として語る。復活じゃない。新生だ。修羅場まで思い出し目をつぶったあの瞬間に父母を許したのだろうか。許す意識すらないだろう。むしろ越えた。全て越えて新しい生命になる。凄い。すさまじい道のりだった。支えたものは何だろう。苦しむことで隣にたたずんでいてくれた母。その母を支える父。殺された実の父との間に交わされた愛情。それが底流で感覚をなくす原因にもなり、かつ生きる支えにもなり新生を支える力にもなる。
トミーが一度も愛されたことのない人間だったら。感覚できる体験を積み重ねていなかったら。それでも人間は新生することがある。それは出会いだろう。出会える人と出会えない人がいる。それは何か。求める力か。ではその求める力の違いはどこから出てくるのだろう。人智を越えた所か。わからない。群衆の最後の捨てぜりふ「レイプしてやる」か。こういう風に心が動いていく。そういう人間・どういう自分を選べる。自由だ。レイプしたら生涯そのことを引き受けるということだ。意識しようがしまいが。戦争が行われた国を思う。戦争が具体的に終わっても戦争を生涯引き受けて生きていく、ということだ。その重さ。ここで自分が問われる。結局は信徒。に父を殺され母を殺され。でも彼は怒りに身をゆだねない。その人に会いに行く。嘆きの中でだ。でもむしろ表情は明るい。方針が決まっていた、確かなことをしているという確信に満ちた様な。あの時、神が呼びかけたのだろうか、彼が目覚めたのだろうか。思い出せない。「見て、感じて、さわって」は神の言葉だったのだろうか。彼は神に抱かれる。その光の中に溶けていく。どういう形がこの後あるにしろ神と一体となった。そういうこと。全てのことは神と一体になるまでの長い道のり。ティナ・ターナーのざんばら髪、ジャック・ニコルソンのいやらしい目つき秀逸。
【ボブ・マーリィ】
『与え尽くしてだから微笑む穏やかに』
「彼はジャマイカの一部だった」人が国の一部になりうるのか。「ここでの時間がどんな意味を持つのか彼は知っていた。」どんな時間だったのだろう。ボブの父は英国人、白人、山の管理人だった。想像もしていなかった。「当時白人と黒人一緒にいるだけで大問題だった」と。でも彼女との間にボブが生まれた、という事実。
出てくる人々皆、「わからない」「言えない」を本当によく使う。ベラベラしゃべらない。考えてしゃべってる。10才の時にボブの父は他界。小学校だ、まだ。いや学校。母がボブの歌を初めて聞いた時大笑い、これはその楽しさ故だろう。店で歌ってる人が映る。この人とボブとの違いはどこなんだろう。体で歌ってる。色彩の濃淡の様な顔の肌の風合い、彫像の様な。どういう作りになっているんだろう。父が亡くなった後の生活「人に頼らず生きていくこと学んだ」と。
しかしこんなに屈託なく笑う人なんだ。まず、この頃カリプソがアメリカ音楽の影響を受けた。そしてだんだんとレゲエに近づいていく。確かにリズムが全く違う。
木にもたれかかっているプロデューサーに歌を聞かせて認められることが貧しさからの脱出。ハーモニー合わせるのに3~4年かかった、という。誰がリーダーというのじゃない、強いていえばみんながリーダーの様な、と。謙虚な人だ。たとえそうでもそう言わない、思えない人の方が多いのに。教会に行くと色んな発見がある、真理とか。宗教が神が体の一部になってる。“ウエイル”泣く・嘆く・叫ぶの意味。それがグループ名。「ここの地域は99%が貧しい生活をしていて、誰も助けてくれる人などいない。彼らの叫びを代表にして歌にしただけ」と。ボブの歌声はそんなにもの凄く叫んでいるとかそういう歌い方ではないが、一音めからつかんで離さない。「唯一怖いの警察。無実でも出さない」か。映画のシーンで銃を向けながら「逃げ通せよ」と言ってる。時代劇でもあるやつだ。天使の声の様で魂を揺さぶる声か。幸いだ、何回か出会っている。その歌い手歌い手で揺さぶり方は違う。でもまっすぐ魂にくる。そこに揺さぶりをかけてくる。ロンドンのスタジオにまだ無名の3人がたずねて行く。「皆の姿勢を愛した、もうスターの風格が出ていた」と。
音楽を愛した、と言われないんだナ。愛される姿勢を持っていたのか。皇帝を待つ飛行場。個性的な顔ばかり。似た顔なんかいないんじゃないか、と思う位みんな顔がすごく違う。こんなに違うものか。逆に日本人の今の顔を見たら思うだろうか、「こんなに似るものか」と。
「ラスタ」「ラスタ・コミュニティ」同じ様に考え生きるラスタに自分を、生き方を見つけた、と。安らぎを求めてここに来た、と。歌の活動を始めて何年が経っているのだろう、この時点で“安らぎを求めて”だ。他の人と違う。全く違う。考えていることのどこかが全く違う。歌うことは祈りか。しかし、ここで自分を、生き方を見つけたのだから求め続けたからこそとはいえ凄い、そして幸せだろう。「本物の反逆者」か。「働く意欲は高いが誰の指図も受けない」と。要は自分の生きたい様に生きる、わがままに、責任もって。そんな彼らにだからこそ4000ポンドの資金の提供。信頼関係だろう。結果としては充分ペイするもの。素晴らしい歌詞だから全て知ってもらいたくてジャケットに載せた、と。そして「彼らは詩人だ」と。しかし、とらえて離さないその歌声、そして歌詞までいいのか。分裂。インスピレーションを音にすること学んだ、か。どういうことだろう。音が直観としてくるんじゃないのか。直観を音に。こういう感じ、というのを音にする、ということか。こういう感じ、というのが、パッとひらめくのか。その感じに限りなく近づけていくのか。ボブの声はもっとよくなる、ということに全霊をかけてやった、か。グループの最初のハーモニー完成させるのに3・4年かけて3人共リーダーだ、という認識からの出発。「ボブの声はハーモニーをのせることでもっとよくなる」というその発想。何だろう、尊敬が土台にあるのだろうか。相手を認め自分を認めるからこそ自分を他者をよくするものとして使う、のか。3人の美しい、2人の美しいハーモニーをつくる、と一回も言ってない。聞いている時考えてみた、
ボブ・マーリィ一人の歌声だけだったらと。ボブ一人それなりの深さ、奥行きもある、がそれが足し算でなくかけ算で、思わぬ波及効果も含めて。やはり“ウエイル”でも3人の中からの内発してくるものなく外圧としてグループ名も「ボブと~」に変更していく。確実に時が流れていく。ラスタ・コミュニティを築く。今はミュージアム。1976年12月狙撃事件。ボブが受けたかもしれない銃弾をマネージャーが大量に浴びている。マネージャーも命がけだ。BMWに乗っても変わらなかったボブ。筋金入り。やはりどこかが決定的に単純に違う。最後まで人々を切り離すことをしなかった。両者とも幸せだったろう。その点に関して。一人の人間が有名になりたい訳でなく、そのことが最終目的でなく有名になってしまう時でも結果として人々と離れてしまうことがほとんどの様に見える。それがなぜなのかわからない。ボブは切り離さないことをなぜ実現出来たのか。自分にとって大事なものを決して離さない。
「ボブは心の優しい人だから」か。凄い人だなあ。まず人として生きる。人としてどう生きたいか。そして手段として歌を歌う。4000人の人が彼を頼って生活していた。政治だ。4000人だ、わかるか、わからない。そして考えていることを地球規模で伝える。ジンバブエの誕生。一つの国の始まり。国旗とはああいうものか。心が震える。ジンバブエを歌うボブ。彼はまさに代弁者だ。代弁してくれる人を持てることは幸せだ。そういう幸せをボブは人々に差し出している。
アジアのルーツはアジアにある、か。私のルーツは。ガンと言い渡されたから。2年間ステージ続ける。最後まで前向きだった、と。「大事な友を失うことがある」か。失いたくない。彼の死に対してジャマイカ中の人が集う。一つの国中の人がだ。人数ではなく彼が与えたものの大きさ凄さを思わずにいられない。でも悲しみではなく祝典の様だった」と。楽しそうに音楽がなって大事なことは敬意を表した、というところ。涙しても敬意は持たない持てない。楽しくしてても敬意を表している。敬意を表される歌い手。ジャム・セッションの様だったと。人が亡くなったら悲しいはずなんていうのも勝手な思い込み。いろいろでOK。大事な所が肝心。彼らの方が本質をおさえているかもしれない。形式にとらわれず。でもやはり生きていた時のボブの生き様が自然にジャマイカの人々をこうさせたのだろう。「多くを与えわずかを受ける」ボブの生き方。このリズム・基本。創り出したもの。「Say Something」で終わるのか。確かに生きた人、ボブ。静かな人。やっぱりこう生きた人がいるのか。幸せだったろうか。
【美輪明宏】
美輪さんは、自分のリサイタルと椿姫を演じるそうである。もちろん観に行く。思えば、私が美輪さんに“ハマッて”しまったのは、TV番組で、独自のステージで“老女優は去りゆく”を演じたのをたまたま観てしまい、またその人生を語ったのを聞いてしまったからだ。このライブビデオでは、ちょっと表情が見えなくてとても残念なのだが、番組で観たものは、アップで迫ったりしていることもあって、すさまじい迫力があった。演じる女優の顔が、若い頃・苦労時代・スターで華々しく輝いている頃・挫折・引退へと、その時代の顔へと変貌していく。いま、その女優が何を考え、どんな精神状態にあるかが顔を見れば一目瞭然なのだ。演じるというものへと昇華していく過程とでもいうのだろうか。そんなものに引っ張られていく感覚になっていく。この曲を美輪さんが作ったというのも素晴らしいと思う。
このリサイタルにおいてびっくりしたのは、こんなにMCの時間、美輪さんのトークが長いということ。そして、得意とはいえ、その話がおもしろく、興味深く、説得力があること。およそ芸に携わる人には、二つのタイプがあるように思う。芸と生活に大きく境のない人、また、ステージなどにおいてパワー、エネルギーを発散するために、普段ため込んでおとなしくしているような人。いづれにしても切り替えは上手いのだろう。美輪さんは、その辺の境がどうなのだろ。銀巴里時代から、まったくの一般人とも交流が深い人のせいか、人生の機微に親近感を持たせてくれる部分とスター性をきらびやかに見せてくれる部分がありいづれにせよ、人をひきつける。芸と生き方が一致するタイプ―ピアフ。美輪さんもそんな人なのかしら―などと思いながら観た。ピアフのことば―“くだらない歌を歌わないで。愛の歌を歌いなさいよ。すばらしい愛の歌を”を紹介する美輪さんの語り口に、熱っぽいものを感じた。心のひだに語りかけてくれる歌・芸―。目指したいものだ。