レッスン感想 837
福島先生が確か「掘り下げていく」「もどっていく」というような表現を使っていたと思うが、その感覚がやっとわかってきた。必要性がわかってきた。自分の肌に刃をあてるくらいリアルな感触で。
喜納昌吉「花」を歌った。今日も他人の歌を聞いてるうちにすっかりお客さん気分になってしまって、ステージに立った時には何もなく手足さえバラバラで自分のものでないようだった。緊張のためか無理に身体を使おうとする。息が足りなくてブツ切れになったフレーズを流れず、ころがりもせず無造作に並べてくだけ。
ずっと座ってたトレーナーはそのままの状態でなめらかに歌いだした。さすがにとてつもない声だと思った。部屋じゅうにビリビリと満ちあふれた。「いつでも取り出せる」とはこのことなんだな。「気持ちの準備が遅れました。」その程度ではステージの修羅場で自由に動けないか。
声を前へ出していく。「のど」を広げようとするのはまちがい。「ポジションを深くとる」ことを勘違いしていた。声をのどの奥にしまいこむのではなく、できる限り外側に向けてとばす。かかかかかか川は流れて~しっかりと口を開け、奥歯の方からだんだん大きく前歯の方へ響かせてゆくイメージ。(のどにかかりそうでこわいが自分でくりかえし探してみよう。)
言葉を口先でつくらない。自分の言葉づかいを誇張して(練り込んで)オリジナリティを生みたいと考えてきた。特に日本ではそういうヴォーカルが多いけど、その中で何かを感じさせる歌は口先だけでなく、腹の底からわいてくる何かとうまく一致してるような気がする。今日の僕の歌が藤井フミヤにたとえられたのはくやしかったが、先生の言わんとする意味がよく解る。後日、バンドで練習したテープを聞いてみたら、本当に自分が思ってた以上にコテコテに貼りつけたまがいものな歌で、われながら馬鹿の鼻歌みたいだと思った。「歌うな」今まさにその意味をかみしめている。
時代を追って、ソウルミュージックがどのように変化していったか。アフリカ音楽の黒人霊歌は、ゴスペル、ブルース、ジャズの3ジャンルに分かれ、それも年を追うごとに形を変えていったこと。SamCooke,James Brownといった方々は、あまり知らなかったがソウルの創始者として多くのミュージシャンが影響を受けた存在であったことを学んだ。ソウルの父、Sam Cookeはソフトで耳ざわりのよい、どちらかというと軟弱な感じの歌い方をすること。James Brownは迫力があり、ガナリ立てるような声を出すこと。モータウンサウンドは、全体に明るさのみなぎった曲調であること。
ディープソウルはその名のとおりけだるいメロディでゆっくりしていて。ため息のような歌い方だが時としてすごい息使いをすること。ニューソウルはおとなしめのサウンドであるが、明るい曲調で、大勢で歌っていること。ファンクミュージックは明るく、大勢で歌っているが、リズムを重視していて、声は所々で入れていること。
「イエスタディ」ビートルズ。思ってたよりは歌いやすかった。実際に自分の歌い方がある程度定まるまでくりかえした後に原曲を聞き返してみると「この歌い手はこうくるのか…」と、やろうとしてる流れがわかったり、どのあたりにこだわって、どのあたりでは力を抜いているかとか、僕は息が続かなくて苦しんだところを、その歌い手はどうしのいでるかとか、④あ、ちょっと失敗したんじゃないの。とか気がついておもしろかった。
ハミング。「くちびるに響かせてはいけない」といわれたがなるほど、こうやってしまう人もいるのか、と思った。自分の声を聞いて―低いキーだと感情を込めにくい。響き、というか音を保つことに集中する。ある高さより上のキーだと、歌いながらその声に引っ張られるように気持ちが入るようなところがある。今出てる声の奥からさらに何かがわき出るような気がする。その瞬間はすごくわくわくする。
語られない、大きさ、後ろにたたずむ大きな世界を1つにとる。効果.追い込んで重ねてゆくこと。ことばを活かしてゆく。体をしっかりと使うこと。意識、内に込めすぎない、こもらせない。体の力、前へ合理的に出せるエネルギーに変換すること。強弱もつけられず、自由度もない。音色を前に出してゆくことをさまたげている要素を見極める。複雑にしてゆくと結果的に出せなくなる。無意識の境地に近いシンプルさ、特にステージの場では。外側に対して開かれてゆくこと。遠くても届かせる。内側で完結させてしまわない。意識しなくても働くようになるまでトレーニングする。体につける。オリジナルのものはその上にうごいてくる。自分で自分を拘束しない。汗をかいてつかむ。入れる。そして忘れる。体の筋力でなく心のテンション、集中が原動力となる。Keepできる力。“やっている気にならない。出ている声を聞く、出たところで聞く。(内側に響いているものでなく)遠くにとばせる、集中力、密度の問題。とらえたところからはなれようとしたとき、取り戻す、戻る、歌い手の中の当然の正しい動き、ここのところの感覚をゆがめないこと。判断の基準は、体や息や感覚が変わってゆく中、もし条件がそろっていなくても、もっと深いところで1つにとる。ある程度自由にやること。途中で(段階)、何もとらえられない、思い込みからくる。とんでくる声が正しければよい。、とんでくる声の中にとばしている声の中で何がどう動いているのか最後の最後まで自分でとらえる。はいらないところにムリに入れようとしない。体の力をつけたり、今の呼吸でとれるようにとるなど、ごまかさないですむ方法で解決してゆく。体の中にある感覚の中心でとらえ、戻してやる。声も中心に戻す。コントロール不能になってもあたりまえ。トレーニングの中の一番いいところを出せるように、少しでもそこに表現のせてみる.応用する、くずれる、戻すのくり返し。ぎりぎりやってゆく。ぎりぎりの接点をみる。広げてゆく。スポーツでも限界点を少しこえたところまでのくり返しの中、少し限界点が上のレベルに動いてゆく。“ここを正すために、今、これをやっている”という意識がないトレーニングは何にも生み出さない。先にいく力にならない。、
アルジャロウの4/5拍子をやってみてはっきりわかった。楽器群のベースとなる拍の中で泳いでいるような、サーフィンしているような自由さ。それにくらべて、私は拍をつかむのに必死で、それ以外に注意はいかないし、歌を歌おうとしたら混乱する。歌の「パーパーパー」の「パ」が1拍目ではなく、少し早く、というよりは、まるで拍子とは関係ないかのように入る。私は、この音の出だしが何拍目かということばかり考えて、それどころではなく、こういう箇所にくると、とたんにリズムがとれなくなる。リズムが腹の底に入っていて意識もしないところで一体となって、その中で泳ぐように歌うのが本当なんだ。このリズムがどうなっているかなんて歌っているときに考えなくてはいけないから遅いのだ。バーブラ・ストライザンドの曲で、入りが遅いと言われたが、私には遅れていることが全然わからなかった。もう、アルジャロウは別世界の人という感じ。道は非常に遠い。
自分の音色、自分のフレーズへの絶対的こだわり、追求。しっかりと言葉とメロディー、世界をイメージする。そのフレーズ、その一行の中で歌い手はどの言葉を最も伝えようとしているだろうか。そこに集中して耳をかたむけてみると、なぜそこでタメをつくるのか、なぜそこでぐんと踏み込むのかが解ってくる。それじゃ僕はどの言葉をどのようなニュアンスで伝えたいんだろう。ここがスタート地点なんだな。曲を読み込み、洗い出して「素」を見極める、つまり(純化する)ってのはこのことだったんじゃないか。月の砂漠~砂漠は「人生」。焼けつくように熱く激しい若き日の思い出とらくだ2頭分のわずかな財産をみちづれに。風もなく、今は静かできーんと肌寒い砂の上をどこへともなく歩いてく。月に照らされながら、さくっさくっと足音だけのこして。
1曲の前にワンフレーズ。ワンフレーズをプロと並べた時にひけをとらないものに煮つめていく。これだけだ。他に余計なことなど考えなくていい。そうしていく為には具体的にどうしてゆけばいいんだろうか。福島先生が話したことも含め思いつく限り書いてみようと思う。まずは、音程・音感・リズム感・ことばなどの技術的なこと。半オクターブに満たないフレーズならなんとかなるはず。ー
(今日のワンフレーズ「ミゼレーレ」(ドシレド)は3度だ)。集中力、緊張感、歌に向かう気負い、表現。これら全ての目盛りが振り切れてなければならない。普通の精神状態ではダメってことだ。トレーニングの時でも。今日やった「ミゼレーレ」を聞いた時に「月のでてない夜の砂浜。重たい海」というイメージが湧いた。で、ここはステージなので、1万人の客席にそのイメージを重ね合わせて歌ってみた。ダメだった。1万人のお客がいたとして、がんばってない人ということでは私は下から数えた方が早いところに位置するだろう。1万人いなくても今日のグループレッスンは20人ぐらいだったろうか。それでも下から数えた方にはいるだろう。そういったことで日頃からの取り組み(がんばり)も重要だ(今日の20人の中でも頭ひとつとび抜けるのは並大抵のことじゃない)。
過去のことを見ていく。やってきたこと、できたこと、できなかったこと、気づいたこと、聞いたこと。それらをどれだけ大切にし、深く追求していけるか。できないんじゃなくできてる人の100分の1も努力してないからできないだけ。自分で分かっていなければいけない。聞き手の耳で何ができているか、どうした方がもっとよくなるのか、音楽になっているのか、不自然なところがないか。人のはよく分かる。あの人は発声を気にし過ぎているな、あの人はうまいんだけどただそれだけだな、あの人は出だしから声がとれてない、平面的だ、感情がはいっていない、やる気あるのか。なんか、かっこつけてる、やる気は見えるけど呼吸上から完全に離れているから見苦しい、など。さて自分はどうか。おそらく高いレベルから見れば(見なくても)全てあてはまるのだろう。判断力や音のセンスを磨くために(ワンフレーズのために)様々な曲を聞いて体にいれとく必要もある。自分のオリジナルのフレーズを創っていくというが、はっきりいってよく分からない。そのために様々な曲を聞き込む必要があるんだろ。となりに凄い人がきてもぶっ飛ばない何かをもつ。さあ、分からない。パヴァロッティと共演しているポピュラー系の人を見れば参考になるかもしれない。何か奇抜なことを演ればいいってもんじゃない。とにかく、ワンフレーズ。歌って歌って聞いて直していく。直すと言うより創っていく。自分のセンスにまかせて。その自分ってのがたかがしれてるから、様々なものを常に歌だけじゃなく呼吸していく。
上半身脱力のエクササイズを充分にやり、それを保ちながら息から声、そして声のポジションをとらえる。ここのところを何をどうやっても声を出すとのどに力がはいりどうしようもなくて、発声が悪いんだか、のどの調子が悪いんだかよく分からなかったが、今日のレッスンでいい状態にもっていくことができたので、単に発声が悪かったということが判明した。前にもこういうことがあったのでうまく声がでない時は発声が悪いと疑った方がいい。上半身のリラックスは分かっているつもりでもできないことが多い。調子の悪い時は大きな声でハイといって強引に声のポジションをとりにいっていた。それでうまくいっていた時期もあったが最近では、上半身をこわばらせるだけでのどに必要以上に負担をかけてしまっていた。声を出す時には、本日教わったような上半身に力がはいらない体勢でため息のようなはき方で息を流す。そしてそれを声にしていく。この時にのどが鳴るようではいけない。今まではここでのどが鳴っているにもかかわらず先に進んでしまっていた。あせらず息が充分通ってくるまでくり返す。本日は胸声を教わったが、これがまた非常に参考になった。
最初は完全に上から押し付けて胸の響きをとりにいっていて、それは間違いだと気づいた。それから上から押し付けないぞ、と言いきかせながら自分なりにいろいろ試していたがうまくいったりいかなかったりで、先にも書いた大きな声で強引に声のポジションをとらえようとして悪循環におちいるパターン。
今日は先生の見本を見て一気に理解が深まった。今までは胸の響きをとりにいきつつ、同時にしっかりと声にしようとしていた。だからうまくいかず結局のどに力がはいる結果となっていた。
声にしようとはせず、胸だけが振動する感覚。音的にはビンの先に口びるをもってきてボーっと鳴らした感じに似てる。胸のあたりから声が出るというより胸の内部にスピーカーがあってそれが響いているという感じ。この段階ではかなり息が漏れているが胸の響きをとりにくいのが目的だから、あまり気にしなくていいんだろう(と思う)。とにかく胸を確認できたところで、ハイなどのことばでまずはシャープに声をとらえていく。そしてそこから長く伸ばしてみたり音をつけていったり発展させていく。声のポジションは一定に保つように。この時に息漏れしないように整えていけばいいんだろう。段階をきっちり踏んでいくことが大切。本日やったような手順で毎日ウォーミングアップ、声を体になじませていく。
声に関しては、マイナスからニュートラル状態の時にやや低く、やや遅いと言う事だが、私の場合も声立てがうまくいく場合というのは同じ状態のようだ。早いフレーズなどでは、体をしっかりとその状態に戻すことが出来ず、結果、浅い息になってしまって、腰回りから声帯に確実に息をヒットさせることが出来ない。今回2回目に私がやったフレーズもまさにそんな感じだった。最初の音からトーンが崩れてしまい、たった2、3秒も集中力を保てなかった。やはりフレーズは最初の一音が勝負のようだ。後半持ち直す人もいるが、私はやはり最初の一音のトーンをしっかりと鳴らせるように、それをワンフレーズ引きずり込めるように、そして自由に動かせるようにしたい。
今回のフレーズに関しては、私もふくめて参考になるような人もいなく、レベルも低かったようだ。冷静になって自己分析してみると、ヴォリュームを上げようと首回りに力が入って、口、アゴを動かし過ぎ、おなかから息を送るより口回りから引っ張り込んでしまう。首、頭だけが響いて、トーンが造れていない。集中力が途切れる。フレーズ失敗となったようだ。
私は現在フォームのチェックを重要視しているが、それと同時に首回りと口、アゴのリラックス度がトーンに大きく影響を及ぼすことを研究中なので、なんとかこの2つを結びつけられるようガンバリたい。そして小さい声でもしっかりしたトーンで声を造ってから、ヴォリュームをつけていくように、これらの事を体、頭にキザみ込んで、もう一度レッスンを受けてみようと思った。
基準を持っていないと甘くなる、甘くなると自分の出したものがどうかもわからなくなる、「伝える」ことからどんどん離れていく、聞く人がどんどん離れていく。
一言でいい。真似していってみる。自分を聞く。どこがどう違うか考えてみる。うめるにはどうしたらいいか考えてみる。
自分の最もいい「ハイ」をとりだす。2.これと同じポジション、体で言うゾと肝にいいきかせる。3.たとえば「夢」ならゆめと「ハイ」と同じところでいってみる。4.自分のイメージの「夢」を描く、それが伝わる様に「ゆめ」ともいい「ハイ」で言ってみる。
イメージが伝わったかどうか確かめる。ここで伝わっていないとき、何がどうだからかを考える・それが次回に改良できるものなら後日そこを考えて、ふまえてやってみる。
すぐどうこうできる問題でない場合、じゃあどういう問題なのか考えて、どうしたら具体的にいいか考える。体は動いたか確かめる
一回たりとも甘い「ハイ」をトレーニング中に出さない。なぜ。一音がステージ。昨日より今日がいい声。いつも前回までのことを踏まえて考えて出す。一音を大事にする習慣。(いつも大事にしてないで急に大事にするの無理)
これができると1点、それにこれができると2点、それにこれができると3点。基本は今日できる最上の「ハイ」そこから全てを始める。そして全てを戻す。
つながる2つの音(どれ位見れるか)
1.最初より後の方が大きい-1点、2.縦にほってる-2点、3.音量じゃなく体-3点、4.2つの音の関係は。-4点、5.つかみっ放しじゃない-5点、6.最初の一音へのアプローチができる-6点、7.語尾の始末-7点、8.伝えたいこと伝える-8点、9.ポジション1つ-9点、10.自然か-10点
動かそうとしなくても動いてゆくとはどういうことか。それがわかるにはたぶん息の流れが必要なのだと思う。その息の流れを止めず踏み込み、離すということが感覚的にできることなのではないか。言葉にしてみても自分のからだでわからないものは確かな実感としてとらえることができない。日本人のうたを聞いて表現するテンションの高さ、鋭さ、切れ味、メリハリの感覚がなくなってしまうようでは自分の身になっているとはいえない。自分の出しているものは音のつながりを無視しているように思える。バックにながれる音と一体になれず自分勝手にやっている気がする。自分のものとしてそのうたの雰囲気をだせていないし、リズムを無視していたり全くわかっていないのではと自分に疑問をいだいてしまう。
今一度見本をよく聞き、他人のフレーズをよく聞く。どこを一番伝えたいのか、その為にどう構成するのかということをできなくても考えること。そして出す時は表現することに集中すること。考えながら出すものは全てが遅れていくし伝わらなくなる。表現する意志で音程をまきこみひとつの言葉として伝えていく。音の流れを追っていくと言葉がひとつにならず、言葉をひとつにしようとすると音のながれがとまってしまう。器を大きくしていくことで少しでも両方をとっていきたい。それとベースの声を安定させる。自分の一番いい状態をつくることが重要。トレーニング以外の時間にどう調整するか。
結局、色々な意味でバランスがとれていることがキーなのだ。それは、自然さ、ということにも通じる。ものごとをニュートラルにとらえられる感覚―そんなものはあり得ないのだろうが、つまり、ニュートラルということは何か基準があってはじめて、「ニュートラルである」と言えるのであって、じゃあその基準の正当性は誰が保証するの。と問われれば、結局は「自分の感覚(生理)」に戻ってしまう。だから、感覚がニュートラルであるとかないとかいうのは論理的にはナンセンスな話だ。―指向としては、それを目指さなくてはならない。「こうでなくてはならない」ということは何一つ存在しない。
ぼくが発したものが相手にどう伝わるか、ということだけだ。「うたをひとつにとらえる」、「出す」、「ゆだねる」。この「ゆだねる」というのはどういうことなのだろうか。ゆだねる、ということはコントロールする、ということの対極に位置すると思われる。ここでも「対立の統合」が要求されているのだろうか。ヴォーカルでは「対立の統合」がさまざまな面で求められるので悩まされる。
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課題曲レッスン
【Without You】この曲はメロディに歌われたら気合い負けする大曲だなぁと思う。自発的に自主的に歌う覚悟を決める所から練習を始めた。つまり最初の1こと“No”ですべて勝負はついてしまうのだ。“ノーアーイ”なんて歌われたら即、終わりだ。“No”を語り切ってから、“I can't”を言う。その時は慎重に、基本に忠実に、胸の所に自分の息のまさつ音を確かめること。ミからソに上がる意識を持ってはダメで、“No”はミ、“I”は新めてここが初めだという感じでパシッと打ち出すのだ。“forget this evening”[i:]でフレージングする。深い息から徐々に胸の響きを体中にしみ渡らせる。“nor(マライヤ・キャリーのカバー曲ではfor)your face as you were leaving”“face”の1ことをしっかり客(聴衆観客)に渡す。えっ…顔。って思われてもいい。聞いてもらうのだ。続くasyou were leavingで説明がつくから。“but I guess itsjust the way the story goes…”
[i:]ものすごく大事な音なので納得がゆくまで響きを確かめ、拍は次の小説で調整する。この娘は何を分かってたという期待感を持つ観客が出てくれば成功。「それはね…」と語り出す。
“You always smile,but inyour eyes your sorrow shows,Yyes,it shows”ここは歌詞の大事な所だ。主人公の気持ちになると、私の場合“eyes”を言う時ちょっと怖くなる。真実に傷つく気持ちになる。どうして人間ってお互いの為に最善を尽くしても全然「よい」方向に働かなかったりするんだろう。家族なんか特にそうだ。どうして誰かが幸せになりたがる時、皆いっぺんに幸せになれないんだろう。喜びを共有できる家族は本当に幸せだと思う。“No,I can't forget tomorrow/when I think of all mysorrow”ここは観客へのサービスだ。歌詞は主に韻の為に並べられていて、しっかり演技したら逆にしつこくてウソになる。私はそれを逆手に取って「明日」のこと楽しくなつかしむ笑顔を寂しげに作って見せる。リズムも強調してあきさせないように工夫する。(実はあきられるのが恐いのだ。次を絶対に聞いてほしいのだ。
出来れば…!!)“when I had You there,but(マライヤ・キャリー版はand)thenI let you go.”悲しい歌で正直にマイナー調になるのは先の“it's just a way the story goes…”の所とここだけだ。あきらめのメジャー調から、より現実に引き戻されるマイナー調への移調、と私は思うのだ。だからこの2ヶ所だけは、本当のことを語るチャンス、聞く人に痛みを見せる、うちあける、共有する、その声を聞いて自分も深く客観的に自覚するチャンスとして使いたいと思った。私は息がちゃんと深くはけていたせいか、ここは本気で感情移入出来た。“there”は“here”でないのが信じられないので言いながらとまどってしまう。その直前の“I had you”はハッキリ言えるのに。そしてまたアドリブで“Then I”で自分を責めるように自分の右手で肩をぶったら痛くて涙が出た。弱気になっている時は軽くぶっただけでもこんなに痛くて情けないのだ。悲しみが本物になった。“and now ,it's only fair that I should let you know…what you shouldknow…(is that~)”ここはサビへの移入部で珍しいメロディだなあと感心する。作曲者の為には、この変な音階を上手に使いこなさないと失礼だ。歌詞的には完全に逆説的(=ねえ、教えよっか、それが正当でしょ、何だと思う。と言いながら、もうどんなに叫んでも届かないことを知っている)でちょっとひねくれ者だ。だからちょっといじけたうらみの目線でやってみた。“I can't live”もう、気を張ってひねくれて見せる必要はないのだ。本当の気持ちを言って楽になった。“if a living without you”たぶん主人公はこんな言葉を口にするのは初めただと思うのだ。いつだってliving is with youがあたりまえだったはずなのだ。だから私はひとことひとこと“。”をつけてやってみた。えっ本当に。本当に。without。you。という感じで。すると自分の耳に届く自分の声にそうだよ、without youだよ、と言われている気がして、泣けて泣けてしようがなかった。たぶんこれからもきっとずっとこんな事が起こると思う。つまり、表現の為・客の為・作曲者の為に増幅させた計算づくの感情とは言え、息が深く、(今の私にしては)本物の声に近い声が出ると(そんなのカンケイないかも知れないが)その声を聞きつけた歌い手自身の感情がより本物になるのだ。“I can't live…I can't give anymore”“I can't live…if a living is without you.I can't give…I can't give anymore”1オクターブ上になる直前は心の中に伴奏の盛り上がる音が鳴っていたのでそれにゆさぶられて大きな声を出したくなった。
聞いていてぐっとひきこまれていくものは何なのか、逆にどんどんさめていってしまうのは何なのか、そこを学び他人と自分を同じようにみること。ステージの上での力の差はあきらかにわかる。慣れている人ほど緊張感がなくなるということもある。常に他人をみて自分におきかえること。
新井英一さんの声、深いです。体の底を深く太い川が流れているよう。その川は決して清流ではなく、ミシシッピーの泥の川のようだ。余計なことはまったくしていない。NYのあるライブハウスに行った私の友人が、アフリカ系アメリカ人の男性に「おまえはこの男を知っているか。すばらしいブルースミュージシャンなんだよ。」とおしえてくれたそうだが、その人は新井英一さんだったそうだ。NYでライブをやると、チケットがすぐに売り切れてしまうらしい。彼の人生、魂のなかに宿る太く強い流れる濁った川が音楽を生じさせ、それは国や言葉を越えて伝わるのだろう。彼は、普通の日本人であれば、うまく逃げてしまうようなブルースも、ほとんど逃げず、進んでいく。いつもそうして、うたっているから、歌えば歌うほど体が強くなっていき、川はより深くなっていくのであろう。
遠い町遠い海夢遥か一人旅。こういう4つのフレーズがあるとき、まず遠さ、広さ、遥かという感覚が自分にないと思いは遥かにはならない。レッスンの際、自分はこういうフレーズでやってみよう、とやると、相変わらず「自分」「声」「フレーズ」という狭い世界の中に歌の世界を造り、4つのフレーズに流れる遠さ、遥かな思いなどを忘れてしまう。、歌が変わらない。遠い町の一つで考えても、発声でやっている「あおい、とおい」のとおいを基本とするのはもちろんだが、そこで深くて統一されたとおいが言えても、「遠い」と聞こえなければ意味がない。
オルネラヴァノーニは、淡々と歌っているようだが、表面上のそれをとらえて、自分が淡々と歌ってみても全く感じがでない。先生が、感じが出るか、出ないかだ、とおっしゃっていたが、その「感じ」への自分の「感じ方」はひとによっていろいろだと思う。いろいろな人の感じへのアプローチがあるから歌はいろいろになって面白いのだがやはりあまりに「はずしてしまっている」ものには何も感じない。
日本語の歌詞の「忘れられない、愛の思い出」というのにとらわれて、あまりに切なく歌ってもおかしいし、かといってただ淡々と歌っても何も伝わらない。ただ人は悲しいとき、悲しいということを前面に押し出さず押し殺す、という方法をよく使う。その方が多いかもしれない。そんな心の状態で息を送っていく、そして体の進む方向に踏み込んで行く、という風にやってみた。特に大きな盛り上がりのないこういう曲はとても難しいが、こういう曲でメリハリや聞く人に、その歌の持つイメージやメッセージを伝えることができるようになれたら本物だ。
人のフレーズを聞いていて思ったのだが、どの曲をやっても1つのフレーズの終わりの処理が同じ、という人がいる。本人がそれを気に入ってやっているのか、はたまた癖でそうなってしまうのかは分からないがああいう物がいつも出てきてしまうということは最終的に変わっていけないことになると思う。私自身、気づかずにそうなってしまうなどという恐ろしいことがないように、いつも厳しく自分を見つめていかなくては、と思う。
聞いているのと歌うのとでは感覚が全く違う。出だしの「Leu~」見本は深い息でつながっているのでひとつのフレーズとしてきこえるのに対して自分の出すものは支えているものがない為音程にあわせ声が上下している。ひとつにして出すイメージをもつこととより深く強い息をはけるようにすること。特に踏み込みたいところではより息をはけるようにすること。声立ての段階で深いポジションをつかむには前奏をどう感じ準備しているかが問題。感じていない物をいきなりやろうとしても無理。「Tuttibimbi~」から4フレーズやって気付いたことは音は全て自然な形でつながっているということ。ブレスをしている時に自分の中で音の流れがなくなってしまう為フレーズとフレーズをうまくつなげないということになる。バックの音の中に自分の声をおいていくイメージをもっていればそれほど迷うことはないのだと思う。フレーズの中で自分の伝えたいところを絞ること。
プロの歌をよく聞きどういうところで自分はひきこまれるかそれはなぜか、何を気持ちいいと感じるか、自分の耳、感覚を信じてみる。プロはワンフレーズ、4フレーズをどう構成しているか。どこでより伝えようとしているか。もっとこまかくきけるようにしていく。きくことと自分のものを出すことは違うと思うがどれだけ深くきけるか、感じられるかの繰り返しが自分の耳を育て、より質をあげることにつながるはず。レッスンに備えてというより常に声を出しやすい状態にしておくにはどうしたらいいかを考えなければならない。いくら早起きしても声のでる体にしておかなければだめだということが今日のレッスンでよくわかった。一番いい状態の声を取り出せなければトレーニングにもならない。
力をいれずとも楽に声が出るポジションをつかむ。何度も繰り返し取り出す努力をすること。レッスンの中でその声を取り出せる状態をつくる。それができたらその声により深く・太く・強い息をおくる。息の上に声をのせていくイメージをもち、フレーズをひとつにとらえられるようにする。質を高めていく。心を開かなければ見えない、聞こえない、感じられない。
本当に自分がその音の中に入っているときは、声の行き先やフレーズは限られてくると思った。その想いをそういう形で伝えたいと思った時にこうはならないはずだというのがわかった。自分のものでわかったわけでなくて人のものを聞いているとよくわかる。まわりの人のものを聞いていると一所懸命やろうとしているのもよくわかるし、声をしっかりだそうとしているのもわかる。でもそう思っているならなぜそうなるのということをやっている。これは紛れもなく自分の姿そのものだった。まず第一に自分で自分のものを聞いて“うるせえなこの野郎”と思うのだから相当である。先ず強く想い感じることだ。それを吐き出してやる。決して声を出そうとか音をとろうとかでない。吐き出してやる。するとおのずと決まってくると思う。でもそれだけでは人の心に届かない。だから届けようと息を流してやるんだ。その人の心に届くまで体で想いを運んでやる。そういう意識で。その時その人の心は動くのかどうか。自分の状態はどうか。空気をさいて感覚の応酬になっているのか。感じることだ。
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ステージ感想
【3人ライブ Vol.1】集中するということの難しさ。私をはじめ多くの人のように“集中する”、ただ集中しようとして集中し続けるのでは3曲ももたせられないということ。ステージ6曲を大きく1つの曲としてとらえられることが、ベストなのだろうけれど。自分の呼吸で“その場”を呼吸する。自分の呼吸のリズムで対応してゆく。世界中で一番偉くなる。世界中で一番素直になる。世界中で一番馬鹿になり、愚かになり、その場で一番冷静になる。そのどれひとつとっても、つかまえられず、自分の振り子の軌道上で一瞬通過するだけだ。それを1つに置いて声にする。凝縮する。頭で考えたら絶対にできない。究極のフリースローのフォームは1つだけだ。(その人にとっての)(筋力/体調などのブレがないという条件のもとで考えれば)確実に入れられるフォームは、リズムはきまってくる。
体調が悪いとき、飛ぶ距離が鈍いとき、少し前に出て調整がきくように考えると余裕分、ラインから少しさがったところ。そこで自分のベストを固める。様々な条件で応用がきく。固める、といってもそれが以上に大変な作業だ。そこが90%以上をしめる。95%かもしれない。厳密につめて、からだに1つのものを入れてゆき、いらないものを排してゆく。驚くほどシンプルに同じ事が繰り返されるようになると、確率に対する自信という+αが生まれる。そしてそこで自由度が生まれる。ただし、そこで雑になろうとする力がはたらく。すぐれたPlayer、すぐれたものを生み出せる人が違うのはそこからだ。追いつめられれば生き物は一瞬発光することができる。ぴょんとはねれば極めて短い“飛ぶ”状態も造れる。
渡辺貞夫さんは弟子入りしたい人に最低条件として「最低でも1日7~8時間練習のできる人」と言ったそうだ。“続ける”。安易に使われる。ありきたりで、だれでもが“今は~だけど続ければ”のように簡単に使う。一番難しいことだ。きちんとした本当の意味で、続けるということは、果てしなく苦しい辛い時間(いやだということでなく自分の進めなさに対して)がほとんどだ。基準を甘くせず、ぎりぎり厳しいところで、踏みとどまれる。そこで求め続けられることを“続ける”という。ただ、だらだら何回やったって、いつまでもそこにとどまったってただの羅列であり、停滞であり、時には老化という毒さえ生む。そんなことをしててだめになるくらいなら、新しいことをはじめた方がよい。もしちゃんと続けていたら、意識的に“どんどん厳しくする”必要はない。厳しく厳しく1つのことを求め続けていればおのずとどんどん基準は厳しくなってしまうからだ。
ステージ評ではなくなってしまったが、私はこの三人ライブのあと、ずいぶんと色々なことを考え続けている。ボディーブローのように私の中に置かれた種が素知らぬ顔をしてぽんとはじけてゆく。その場で頭の中で発芽しきれなかったものが、日常やトレーニングの一場面一場面で本当のエネルギーを表面化させる。あの人たちは“続けて”きたのだ。幾億の自己嫌悪と、迷いと、耐久力を要求され続ける時間の中を、ここまで自分の心と体1つで歩いてきた人たちなんだ。何度自分を壊し、時には壊しそこねて傷つき、吹雪を耐える野生動物のようにじっとそこでこらえてきたことだろう。“続ける”ということは、初動のエネルギーと心と体の力だ。どれ1つ欠けても飛び続けることはできない。今「できていない=見えていない」状態の私にも、ぐるぐる考えさせるだけのものを前に出していたあの人たち。なんとか続けてもう少し視力がよくなった時、もっとすごいことが本当はおこっていたことに気がつけるだろう。そうしたら、いつか私も誰かの目に、大きなワシの頭部のつややかな羽根のカーブや、木の枝のこおろぎと夜露をかいま見せることができるだろうか。(いつかでなく、今、とは常に心がけてはいるのだが)時間の期限さえつけなければ、“続けられ”れば自分の声を取り出せる。本当の“続ける”なら。そしてその瞬間が人生の期限に間に合えば。“やる”ことのできる人間になることからやらないと。やってこなかった人生の大ツケがまわる。そう、自分が努力しなかったツケはこうやって、一番肝心な時や肝心なことにまわるもんだ。蟻とキリギリス。怖すぎる童話。、
【3人ライブ Vol.3】3人それぞれの持ち味があったと思うが、それをどうみせるかということが大切なのだと思った。ひとりひとりのステージから学ぶことは多い。自分の歌に集中しながらもピアニストとコミュニケーションをとっていた。私には大きく欠けていること。それとMCについて考えさせられた。客の呼吸をつかむということが大切なのではないか。それは笑わせるということではなく客がステージの上の人に何を求めているかということ。歌の余韻に浸りたいときにすぐMCに入ってしまったりMCを入れたことで緊張がゆるんでしまったりする。何をどう話すかによってその場の空気が大きく変化する。自分のペースに引き込む為のMCが必要。曲の構成として最初と最後に変化をつけたことで客を引きつけたと思う。
日本語の歌が一曲あったがあまり印象に残らなかった。この曲の中でもっと客とコミュニケーションをとればよかったのではないかと思う。全体的にせわしない感じがした。ヴォーカルの呼吸が客に伝染するのだと思う。
ライブ実習で「ケ・サラ」を聞いたことがある。その時は突っ走っていたように思った。3人の中で一番雰囲気を感じた。何というか聞く余裕をもたせてくれたように思う。MCも彼女らしさ(というほどよく知らないが)がみえてそれがいい印象になっていたと思う。自分をどうみせるかということを考えている人で私のステージでの見せ方を考えさせられた。歌い慣れている感じがしたが、新鮮さをあまり感じなかった。どうしてそう感じるのか私自身よくわからない。どんな曲を歌っても彼女の歌になるような気がしたが、それはオリジナルなものがあるということなのだろうか。
歌はどれも同じように聞こえた。曲が違えば想いや気分も変わると思うが歌の中でそういうものは感じられなかった。服装にあう歌は一曲もないんですといっていたが彼にとっては大した問題ではないのだろうか。歌よりもステージに立つ姿勢や態度の方が気になってしまった。全て彼の好きな曲だと思うが好きな曲と自分を表現できる歌は違うのではないか。
これは自分自身にもいえること。基本がどう歌うことに結びついてゆくかということをいつも考えていたが結局歌の中では基本はみえないのだと納得した。こういう考え方をしていたから私の歌は私のものにならなかったのだと思う。自分を客観的にみることは難しくてなかなか思うようにいかない。私に今必要なことは自分を出すこと、そこからしか何もはじまっていかない。理想やイメージの自分ではなく今の自分を出さなくては。
【ライブ感想】ステージはつくづく戦場であると感じさせられる。空間を息と声と体だけであやつり表現する。短くも長くも歩いてきた人生を一曲3分あるいは1フレーズ1秒にたくし、かける。うれしくもあり、せつなくもある、なんとも言えない一瞬を感じる。皆それぞれによいところと悪いところが見え隠れしていたように思う。いろんな思いや価値観が飛び交う中、自分もそこに存在していただろうか。強い思いは誰にでもあり、本当は誰もが誰かに何かを伝えたいと願っているのだろうとライブを見ていて思った。ただそれを表現し伝えることがとてつもなく大変であるということを同時に感じた。
歌は間違えやすい。自分を表現し、歌い、とてつもないエネルギーを感じさせてくれるアーティストを見ていると自分も歌いたくなる。(単純にカッコイイですから)観客として歌うならもうそのままでいい。ただしアーティストとして歌うなら、それじゃいけない。
その境界は他人が見ればすぐにわかるのに、自分で気付くのには大変時間がかかる(人にもよりますが)。アーティストにとって歌はアーティスティックな活動、生き方の上に成り立っている。
決して歌が先にあるわけではない。一流になればなるほどきっとそうだろう。そこが見えずに歌ってしまう。本当に伝えたいがために歌うべきものを、歌いたいがために歌ってしまう。
自分もまた同じである。歌いたいがために伝える「何か」を捜しはじめたら、いっそ一度歌を捨てた方がいいのかもしれない。そうしていつかまた歌に出会えたら今度は本当だろう。もし出会えなければ、歌わなくても生きてゆけるということだろう。
今回のライブを客として見ていて感じたことは、歌うことに必死になってはいけないということ。もうステージに立ったら何よりも伝えることに必死にならなければいけないと思います。どれだけうまく声が出て、しっかり音程がとれても、それが目的ならそれで終わってしまう。一所懸命は大切ですが、何に一所懸命にならなければいけないのかを間違えてはいけないと思います。さすがに目線が定まらないような人はほとんどいませんでしたが、場を動かせた人は少数だったように思います。よいものからも悪いものからもとにかく気づき、感じ学ぶことが大切だと思いました。そして“ひたむきさ”を失わずに純粋に追い求めることが生きてゆくことだと確信しました。
今回選んだ理由は、「守ってあげたいあなたを苦しめるすべてのことから」とか「他には何一つできなくてもいい」といった何か普遍的なものを感じさせてくれる言葉が胸に残ったからです。最近少し年をとったせいか(といてもまだまだ若いですが)ノスタルジックなものに心を奪われることが多い。「もう一度あんな気持ちで」とか言われると妙にせつなくなる。生きてゆくこと自体が何かを失っていくことなのだろうか、とそんなことを考えてしまいます。夢を追い求め続けることはすごくエネルギーがいることだと思います。この曲にも「夢」という言葉が出てきますが、この言葉だけを聞くとかなり漠然としていますが、これを少しでも具体化していくことが大切なのだと思います。
声にしろ歌にしろ人生の中でどこまでそこに価値を見出せるかで全てが決まってくると思います。人は自分の価値観で生きてゆくわけですから、その価値観を磨いてゆくことが大事だと思います。磨いてゆくための材料は多ければ多いほどいいと思います。人がしたこともないような経験をたくさん積んできた人の言葉や瞳を見ているとそう感じます。極限のことをやっている人、やってきた人はただそれだけで輝きを放てるのだと思います。ただそういう人にはたいていおのずと輝かしい結果がついてくるので、多くの人はそこばかりを見て間違えます。全ての人が輝けない理由はここにあるのではないかと思います。しかし逆にいえばすべての人が輝きを放てる可能性を持っているということになります。と、こんなことを書きながらまだまだやれていない自分の愚かさを憎らしく思います。誰かに伝える前にまず自分に叫びたい。“もう一度、あんな気持ちで夢をカタチにして…”
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【レクチャー感想】
福島英先生のステージをありがたく体験させていただきました。言葉が湯水のようにあふれ、ガンガン表現してくるステージは何度見ても飽きない。いや飽きるどころか何度でも見たくなる。ここまで来るのにどれだけギリギリの所で勝負してきたのかがひしひしと伝わってくる。一瞬のスキも与えないというのはこういうことなのかと思い知らされます。
今回普段あまり聞くことのできない音量で一流の声を聞けたのは大変勉強になりました。まず感じたのは息がまるで大河のように流れているとうこと。流れが緩くなったり速くなったりはしますが、絶対にとぎれない。河幅が狭くなっても、その分深い。そして時に滝のように落ちる(シャウト)。一流の歌に共通しているのはとにかくつながっているということ。
「線」という言葉がぴったりときますが「直線」ではなく変幻自在の「曲線」という感じで、しかも紙の上に書いた曲線というよりは粘土のようなものをゴロゴロと伸ばしたようなとにかく立体感のあるものという感じがします。そしてスキがまったくない。完全に体で握られていて、不安定に飛んでいってしまう音など一つもない。飛んできては心をワシづかみにしてまた戻っていく。ちょうどヨーヨーのような感じで、大きなヨーヨー、小さなヨーヨーの出し入れ自由という感じがします。そして自然なテンションの高さは天下一品です。(技術があるので自然に見える)言うまでもなく楽器としての完成度もハンパではない。一流の声はMCの声だろうと、どんなに軽くファッと出した声だろうととにかく下へズッシリひびく声(胸声)がついてくる。
大抵のシャウトでは胸声がピッタリとついてきますが、高音で上へ響かせてシャウトするときなどは、否が応でもついてくる胸声を無理にひきはがしているかのように感じさせられてしまう。それだけ深い声がついている。しかもそれが体のみで1ミリの狂いもなくコントロールされているから恐ろしい。自分の歌をテープに録って聞くと明らかに直線で、しかもとぎれとぎれ。まるでキャンバスにロボットが絵を描いた様な感じになってしまう。(最も最近のロボットはかなり精密なので僕の歌よりうまく描けるだろう)この線をつなげていくにはとにかく体の強さが必要だと思います。そして直線を曲線にしていくのはイメージだと思います。
ということから楽器としての体も、アーティストとしてのイメージもどちらもまだまだ貧弱であるということがハッキリわかる。しかし体を鍛えるというってもただ息を吐いていてもそれを歌に生かせるわけがないし、イメージにしてもただ目を閉じて思い浮かべるだけでは何の意味もない。すべてが一つにならなければ意味がない。しかしそ簡単にひとつにとらえることはできない。じゃあどうすればいいのか。自分でできないのならまずできている人のものを聞くしかない。音や息を耳で聞くというよりは体全体で感じて、一つの大きな息の流れや、彼らの一つにとらえている感覚をイメージで体験する。それを体にしみ込ませたら、今度は自分の体に当てはめてやってみる。こうやって少しずつ体と心を一つにしていかなければならないのだと思います。外国の人というのはとにかく体と体でコミュニケーションをとります。
外国へ行くと道端でもどこでも平気で抱き合ったりキスしたりしているのをよく見かけますが、これは肌と肌が触れ合うことによって頭とは別のところでコミュニケーションをとっているような気がしますし、ステージにしてもアーティストが体を使って顔をゆがめて表現すると、そのゆがんだ顔が見えなくても、体で聞いている観客は同じように顔をゆがめ、そして居ても立ってもいられなくなってWhooとかYeah(あるいは拍手、口笛)をアーティストへ向けて飛ばす。それらがすべて日本人と違い体から出たものなので、アーティストもまたそれを体で受け止める。この一瞬、そこには音程もリズムも存在せず、あるのは体と体だけ。それぞれの人生を深く刻み込んだ体だけがある。そしてまたアーティストもシャウトする。こうして声や音を使って体と体でコミュニケーションをとっている。
それに比べ、日本のステージはどうか。音だけは立派に飛び交っているが、アーティストでさえ体を使っていないから観客の体に届くはずもなく、おおかた耳と口のコミュニケーションという感じだろう。
それゆえ耳に聞こえてくる言葉をかみしめて自分の頭で解釈し、自分なりの伝達経路で心に伝えなければならない。これでは大変手間がかかり、肉体芸術とは呼べない。
それに比べ海外のものはシンプルかつストレートである。これらは国民性にも共通している。日本人はある意味どの国の人よりも複雑なのかもしれない。だから日本以外では通用しない首から上だけを必要とする“オンガク”というジャンルが確立されてしまったのではないだろうか。
人間はもともと動物なのに、日本人は特に動物というものから遠ざかろうとしているような気がする。体から声が出るイメージとして“吠える”という言葉が使われますが、動物は皆吠えるし、それでコミュニケーションをとっている。原始の“人”もそうだったように。物質社会に生き、コンピューターを扱う“人間”としては日本人は最先端なのかもしれない。ただ自然との共存なしに生きてゆけるほど人間は強くない。原始より根づいたものを見つめ直す時がきているのかもしれない。僕らはそれを声を追求することによって気づき、歌やステージで伝えてゆかなければならないのではないかと考えています。