一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン  28627字  843

レッスン  843

 

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レッスン

QA

課題曲レッスン

 アンジェリータ

 メケメケ

 空と海と太陽と

 千曲川

 アカシアの雨

 兵隊が戦争に行くとき

 谷間に三つの鐘がなる

 ラ・ボエーム

 

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レッスン

 

 体ができている、できていないではなく、感覚の中で、自分の見せ方に作品ややりたいことを意図しなければいけない。歌い手の呼吸の中で、それを音にして表現していくのです。

 皆がやったのは全部はずれているのです。一つのことを煮つめて、出すという法則があてはまりません。それをやるには、やはり感覚だけでは難なく出した声そのものが一致していく必要があるのです。

 

まず「ハイ」でとれていること、そして「ハイ・ハイ・ハイ(レ♭ドシ)」の中で音が動いていること。そこにことばがついているというだけなのです。

 練習の方法としては今は、「ハイ」ときちんと出せること。それから、次のフレーズとの置き方には何パターンもあります。

 

私が見本を見せないのは、皆それが正しいと思ってしまうからです。先生の影響を受けます。それを抜けられる人はよいのですが、真面目な人ほど抜けられなくなってしまいます。だから、いろいろな材料、先生、歌い方の中から、勉強し、自分ならどう出すか。他の人と同じ表現になるはずがないのです。でも、原理は同じだし、力が働くことに関しても同じです。

 

 

 天才的に読み込めている、でも1曲の中で、どこを歌い出が感覚して出しているか、ということを感覚の中でとらえていかないといけません。声で聞こえるようにとるのではない。まして、歌詞や音符で見えるようにとるのでもない。そこでなり切っていくしかないのです。

 

 それがよりわかるために、たった一つでも二つでもよいから、勉強してみてください。感情を込めてやるのとは少し違うのです。それは、やるほどのどにきてしまいます。それをはね返せるだけの技術がなければ感情も込められないのです。そのことは自然にやらないといけません。

その世界がその人の中にあれば音にしたときにそれが出てくる。ただ、練習のプロセスでは、いろいろなやり方をしてみて、自分の声帯にどういう影響があるのか、出た声はわざとらしいか、それとも伝わるのか、ということをフィードバックすることもあり得ます。

 

 優れた歌い手ならば、自分の声を把握しています。泣いたときに声はどうなっているのか。やってきていても、自分で聞いていないから再現できないのです。音の世界をものすごく理解する必要があるのです。そういうことと同時に開発していくしかないと思います。今日のレッスンで何もわからなくてよいから、やってみることです。やっているうちに、いろいろなことがおきてきます。信じるしかない世界なのですね。

 

 

 体を変えていくことが一つの条件です。しかし、体が強くなって声だけ大きくなってもダメです。だから感覚を勉強していかなくてはいけない。音楽をもっと違う意味で聞き込まないといけない。クセがついている歌い手から学ぶのは難しいです。まずベターな声を日常で使えるようにしていく。

それをベストな声にしていく。ベストな声というのは、どんな状態でも一瞬で出なくてはいけないから、それだけ体の力も感覚も、研ぎ澄まされていないといけない。そして、作品としてどのようにやるかということです。リズム、感覚、フレージングの仕方などの特質が出てきます。

 

 まず自分で自分のことを知ることです。皆、フレーズを一応こなしていましたが、たぶん自分で何ができたのか、何をやっているかがまず理解できないと思います。今は手探りでよいから見つけていってください。その時、一人でやっていると、一人の中の世界になってしまいがちです。場を与えているのは、この中で、それが出たとわかるからです。他の人間が反応します。それをまた受け止めてやっていけばよいのです。その中できちんと基準を作っていくことです。

 

 いくらきれいに歌ってみても、外に対して提示されない限り、その人の中のきれいな世界で終わってしまいます。だからこういう場で、声の力などを感じてください。いったいできている人と何が違うのか。それが一番のノウハウなのです。声の中だけでもありますが、それが音楽になったときにもっと大きな効果になってくるのです。

 

 

 1年目や2年目はよいものをたくさん聞きながら、歌い手、声を使う立場として考えることです。自分の身にきちんと入れて聞くことを続けるということと、体を変えていくことをやってください。少しでも息を吐いて、どこまでねばれるかということです。これだけやって充分だという段階はないです。

あればあるほど、よいのです。調子がよいときは応用として歌の練習をやって、そうでないときは基本をやるとよいでしょう。その繰り返しです。よい状態になっても、すぐ悪くなる、というのが最初の2、3年目ですね。

 

 先が見えていないと、こういうフレーズを使ったレッスンの重要性もわかりません。耳を鍛えていって、感覚と体を変えていってください。出して問うていくということを私は中心にやっています。

 

 カラオケなどの影響をそのまま受けてやっていると、自分の原点に返らなくなります。皆がここに1年いるとトレーニングのことやスピード、テンポのことなどを人に語れるようになります。でもそれが自分でできていないのなら、それは人のことばにすぎないのです。2、3年やってただのレベルでやっと自分のことばが出てくるくらいです。それと会報に載っていることばの1/3くらいは、自分のことばで書いていますね。そういうものをきちんと見分けていかなくてはいけないのです。

 

 

 それっぽくのって歌うと、かっこよく聞こえるのですが、自分の原点にもどっていないと適しません。真似してやっていると、なんとなく作品らしく見えるわけです。それを全部とってしまったら、歌にならない。でもそこまでいかないと、声も歌も出てきません。

 

 

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 QA(質問への解答)

1.のどをはずすということに関しては、意識してやってもよくないです。

 

2.感情を出すというのは技術がいります。のどがつまってしまうのを、技術できちんと支えなければ、相手に伝わる感情にはならない。その辺になってくると、ヴォイストレーニングというより、生き様になってきます。日常生活から、そういう感覚で生きていないといけません。ステージの中でやっていかないといけないことです。自分をかばってしまうとたいしたことはできないです。人それぞれでよいのかもしれませんが、大人になって、歌えなくなってしまいます。下手に大人になってしまうのでしょう。

 

3.本質はここでは自分でわかるしかないのです。わかったとしてもそれが音や歌で取り出せないと仕方ありません。音の中に本質的なものを感じられればそれでよいし、いろいろなスタイルがあるのです。本質の最も中心をついたら、動きがとれなくなってしまします。ステージですから、その辺はある程度割り切っている部分もあるのでしょう。

 

 私たちのレッスンでも、全部本質ばかり出していたら、持たないです。芸術の世界だけでなく、仕事の世界もそうなのです。本当によい仕事をしている人は、全部よい仕事をやっているというわけではなく、100いっている中で、一つか二つ何か想いが入っていればよいのです。あとは全部、自分を裏切っていきます。表現するときは、そういうジレンマから抜け出せないのです。

 

だからむしろ、結果からとっていくしかないのです。そこに込められた感覚のようなものが人をどう動かしたかというところで見るのです。そのときに客がある程度そういうことをわかる人間でなくてはいけない。本質的なことをつかんだ上で客受けをねらってやっている人もいます。それはメディアのせいです。テレビはその最たるものです。

 

 リズムのことなど、全然わからないと思いますが、それであたりまえです。そのことを重ねていけばよいのです。わかっていくことを重ねていくのは楽です。他のところでもできますからね。それを許せる度量が備わってはじめて、次の土俵に行けるのだと思います。

 

 

 

 

 

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「アンジェリータ」

 

 (「アンジェリータ・アンジェリータ(ソファミ♭ミー♭ー・ラ♭ソファーファー)」)

 

 緊張を失ってはだめです。表現は集中力の上にしか成り立ちません。日本語バージョンはスタッカートぎみにリズムを生かそうとして、わざとはねていますね。軍歌調というか勇ましさを出していますね。体から離れていますが。

 

 (「月だけが輝く夜のアンツィオ

(ド♯ド♯ド♯ファファ・ド♯ド♯ド♯・ド♯ド♯ファ♯ド♯ド♯ファ)」)

 

 ステージ実習や新入懇が終わったら、そのとき気付いたものを降ろすことです。

いつも勉強の仕方の話になるのですが、②や③を見て、2年たったら、あのようになれるのではなく、半分がいなくなって、必要のない人が検定に出なくなっている。

2割の人が残っていくくらいなので、期間とは、全然関係ないのです。2年の中でもずいぶん差はついていくものです。もともともの差はたいしてなくて、それが舞台ではふっとんでしまうくらい大きくなるのです。

 

大切なことは、音楽が自分の中で宿っているかいないかです。とにかく自分の中でその作業をやっていくことです。それがある量にならないとわからないので、本質的なものを見て、それを取り出す努力をしなさい、というくらいです。歌や、声というものがどれくらい神経を使って組み立てられているものか、わからないからです。聞ける、聞けないというのは、1回聞いてわかる人と、10万回聞いてもわからない人がいるということです。音の世界が徐々にわかってこないといけません。

 

 歌の世界は1回でやれなくてもよい。何回かかっても、より完成度が高ければよいし、取り出したとき、それが狂わなければよいのです。その裏の努力は見えないものです。ただ100回やった人より、1000回やってできる人は100回やった人より、10回や5回でみえているのです。その聞き方の差は、説明できないので、アドバイザーのレッスンの中で何が聞けていて、何が違うのか、見てもらえればよいと思います。英語と同じで、入っていないものは出てこない。

 

 レッスンでわかったことは、歌を本当に聞いていない、ということです。自分のレベルで聞いてしまうのをプロのレベルで聞くことです。それができないのは仕方ありません。しかし、ほとんとの人は、声やことばの音はとるけれども、この中に踏み込まない、踏み込めないのです。上辺の部分だけでとってしまう。それは必要な部分ではなく、絶対的に必要な部分を取り出してきて、場が与えられたとき出す努力をすることです。そのためにはそれを入れてこないといけない。でも入れられない、という能力の限界があります。

 

 

 レッスンの中ではそれを入れていかないといけない。その辺はクラシックより、ポップスの方が難しいと思います。耳で聞かないで、体や心で聞かなくてはいけない。入り込まないといけません。入り込んでそれから出していくことです。

 このプロセスの上に、発声のトレーニング、呼吸法がのっていれば作品として出てきますが、その根本のところがないと出てきません。結局、その時期にその努力をしたかどうか、ということでしょう。これは一見無駄のように思える努力です。毎日詞や曲を作ってみたり、人の曲を歌い変えてみたり。それを15~20年やっているとまわりの人はいなくなる。

 

 それで顔を売りたい人は売ればよいし、売りたくない人は売らなければよい。どういうスタンスでとるかというより、できるか、できないかの方が問題です。できているものをどう使うか、というのはその人間が選んでいけばよい。

 今大切なのは、練り込みをきちんとやっておくことです。そこから歌う必然性というものが見えてくるのです。

 

 皆さんの場合、その必然性がここに現れない。現れないということは、日々のトレーニングができていないというより、勘違い方向違いにあるのです。そういうプロセスもある時期に必要ですが、自分の限界を知って、それを広げていく努力をしていかないといけません。何を伝えるかということが次に問題になりますが、そこをハッキリしていくことです。ここでは歌を勉強するためではなく、それに気づくためです。

 

 人前に立ったとき、何かをする人間であるか、ないかということが大切です。それは他人のものを移し変えてみてもダメなのです。プロセスをきちんと踏んだ上で出てきたものしか人の心を打ちません。自分のものでない表現をやらないことです。最初は、それを見る目をきちんとつけていってほしいです。

 

 感覚を変えていくということでは、1曲の歌の中で感覚が動めいていなくてはいけなません。体を使うし、一つにとらえてはいるのですが、それが変化していってはじめて、歌としての心地よさや余裕になります。そういう意味でも、一つとまる点、というのがないといけない。それをうまくつけていくことです。

 課題曲などの古い曲が古く聞こえてしまうのは、歌い手が今を生きているからです。それでも場は成り立ちますが、進歩はありません。

 

 

 

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「メケメケ」

 

 「メケメケ」、シャルル・アズナブールです。日本では、美輪明宏さんが歌っています。どちらがよいというより、両者に共通する優れてものを見つけていかないといけません。

一つは、本質的なものをどうとらえているか、ということ。もう一つはそれをどう歌として開花させているかということです。こういう音楽を聞いたとき、まずそれにひたることです。

 

 当人の意識がどこにあるか、という問題になってきます。舞台をやるのには、体力と気力がいります。そ常にそれを意識して、生き、覚悟を持っていないといけない。歌い手や歌の世界というのは特殊なものです。その特殊な中に、聞き手を入れていきます。歌い手は入っていくだけでなく、抜け出して、外から動かさなくてはいけません。

 

皆さんは、今、1時間同じ曲を聞いてもできません。それが3日間で自分の歌になる人は、最初1、2回聞いたときに全部わかっているのです。そのためにどうすればよいのか、そこにトレーニングの意味があるのだと思います。はやくやれ、ということではありません。

何を感じ、自分の世界で何かを武器として見つけ、課題に対して取り組むのは、それで音楽にするためです。音程、リズム、歌の進行などというものはそれ以上のものではありません。それをきちんと体得してもらいたいのがこういうレッスンです。

 

 

 何をしても舞台になっていることが大切です。そこの引きつける力はきちんと保っていなくてはいけません。皆、伝える努力や引きつける努力をどこかで忘れて、ヴォイストレーニングをしてしまうのですが、歌はよくなっても舞台はよくなりません。

舞台はよいのに、歌が下手だからトレーニングするというスタンスにはやく立ってもらいたいと思います。

 

 曲に合わせるのではなく、曲を自分に合わせるというやり方をとっていってください。感覚については、一番勉強になると思います。それでとらえられなければ、曲で感覚を磨いていくしかない。これは自分の中を柔らかくしていくことしかないのです。

 

 

 私は、いろいろなことをしていますが、ベースとなるのは、自分で創っていることです。レッスンでもそうです。何かを感じ創っていない時間はありません。そういうことはすぐに認められなくても、15~20年やっていると、まわりにいないレベルになれるから否応なしに仕事になってくる。仕事になってもならなくてもよいのですが、価値というものをきちんと出していくときに、仕事というのはわかりやすいのです。理想と現実のギャップはものすごくあります。自分のレベルまで他人の求めるものがなくなる。

 

 それはその人その人のスタンスでやっていけばよいのですが、大切なことは創るということです。そうしないで、人に求めると自分が気持ちがよいようにやればよいことをどんどんなくしていってしまう。方向が違うのです。

 

独創的にやることが評価され、仕事になる世界です。相手は実際に生きている人間でなくてもよい。こういう作品は、声を通して感覚を伝えているのです。声をだしているわけではない。そういうことから生まれた音楽もありますが、今残っているものは、ある意味で完成され形として成り立っているのです。

 

 

 音程やリズムでやっているわけではない。それをトレーニングでやるというのはどういうことなのか。トレーニングでは補充することはできても、発していないものに対しては何の意味もありません。主体がないわけですから。表現する意味がなかったら、やる必要がなくなるのです。そうしたら、やらなくなってくるのはあたりまえのことです。

 

 最初の原点というのは大切なのです。そこできちんと見ているということ、それを実現していくのに時間がかかるのです。だから見なくてはだめです。その努力をしていった方がよいと思います。必要性がないところに必要なものは身についていきません。やれている人間は、それだけの必然性と理由を持っていて、3年~5年、目をそらさなかった。外にいて、やれている人も同じだと思います。

 

 それを音で取り出すのは難しいことなのです。自分でそうやりたいと思っても、体が裏切る。感覚が裏切る。そういうものをきちんと見つめることが大切なのです。できないのはよいのです。でも、できないのがわからないというのは困ります。それがわかれば、時間はかかっても、できるようになります。それが具体的になっていくのがトレーニングのプロセスですね。

 

 

 それからわからないことを認めていくことです。出てきたものの奥にあるみえないものを見つめていくことによって、次の作品が生まれたり、次のことができるのです。たくさんやっていけばよいという話ではありません。

 

 人間、足らないもの、わからないものをなかなか認めないのですね。でも、作品で比べてみると何か欠けているのでわかるのです。欠点を直せ、ということではない。勝負できるものを見つめ、大きくしていかなくてはいけないということです。角などをなくす必要もないのです。それを大きくしていく。それが音で取り出せれば、歌になり、音楽になります。

 

 でも、最初の前提を持っていないと、表面的には音が乗っていって、歌らしくなるのですが、ガタガタのままで終わってしまうと思います。完成された作品は丸くなっているので、柔らかくなっているのだろう、と感じるのでしょうね。

 

 

 課題曲などを体で読み込めるようになってきたら、自分の体でできること、できないことが何なのかわかるようになってきます。皆さんのように、最初は、自分が歌ったらどうなるか、ということがわからないのです。どんな材料が与えられても、そこに自分が出てくるか、こないかということが一番楽しく楽なことなのです。そこまでのことを自分でやってきなさい、ということなのです。そうでないと、とんでもないフレーズが口から出たりします。

 

 その人の中に音が入っていたら、できあがってくるものはとてもシンプルです。

 歌が難しく聞こえるということは、全然わかっていないのです。バタバタしてしまっている。それは歌にもなっていないし、自分の中で作って来たつもりでいるだけなのです。その条件が備わっていないから難しいだけです。

 

 勉強するのが難しいのではなく、要は、それだけのものを入れるということを確認して、出す。出したら確認して、次の日の練習にどう結びつけていくか、ということです。これは難しいです。知識のようにチェックできません。かといって、体育会系的に強制的にやるわけにもいかない。表現ですから自分で見つけてくるしかないのです。その時、何をやっているのかわからなくても、作品が出て、自分の中に宿っていたものがわかってくることです。そういうことを楽しみながらやっていけばよいと思います。

 

 

 

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「空と海と太陽と」

 

 1オクターブ飛ぶところもあって、日本人が歌うと大きく聞こえる曲です。それがどうして生じてしまうのかを体験していってください。簡単なところをやります。

 

 (「誰も知らぬ巡り会い

(ラシド♯・ラミファ♯・シド♯レ・シファ♯ソ♯)」)

 

 どう出すかは全て自由です。でも自分のことを知っていないと歌えません。その前提として、体力や気力をきちんとつけていかないと、方向が違ってします。方向が違うと体もついてこないのです。イメージが間違っている場合が多いです。

 

歌の大きさに対応できるだけの自分の体、テンション、コントロールが切り替えられていない。それの元はやる気や熱意です。それを内に秘めていても、こういう場で外に出さねければ練習になりません。そういう感覚で聞かないと音が聞こえていないのです。

 

表現する人であれば、普通の人の何倍ものパワーで取り出そうとしなくてはりません。そういう感覚が、まずトレーニングの中に働いているのかです。レッスンでも一番大切な気構えが抜けてしまうと、一人でやったときも何も出てきません。だから舞台に立つまでが勝負なのです。それは日頃の生き方だと思います。

 

 

 お互いに聞いてみればわかると思います。今は、問題を明らかにしていくことが大切です。今までの皆の基準はそのレベルで許されたし歌だと思われていた。今の音楽を聞いていたらそうなってしまいます。でも、この当時の音楽はそうではない。何度も練り込まれています。また、練り込まれた人間がやっているので、とても単純なのです。たとえば、この高いところは技術があればひびかせて軽くとれます。これは、それをひずませ語るようにして伝えています。これを支えるには、感覚と力が必要です。

 

 トレーニングで覚えていくやり方というのは、単純でなくてはいけません。複雑にすると、上達していかないと思います。だから正攻法をとっていかないといけません。それは、1曲ではなく、たとえば「だれも」の「だ」の音で決まってしまいます。

 

 条件が整っていないとダメです。数をこなせばよいというより、数をこなしながらも、その瞬間を一つの声に対してどのくらい踏み込めるのかということに対して敏感になって、そのことが出ていないとダメです。トレーニングにもいろいろなやり方はありますが、その内部の感覚が正されていかなければ、深まっていかなければ治らないことだと思います。そこの方向性や、イメージというものは、とても大切です。出すときのイマジネーションが声をおいていくのです。

 

 

 よい見本となる人がいたら参考にしてみてください。ほとんど、8割くらいはトレーニングの袋小路に入ってしまっているのですが、それ以外の人、何か心に響く表現を出した人がどのように聞いているのか。伝えているのか。1番でどう聞こえて、2番でどう出そうとしているのか。3曲番までで自分の世界と合わせているはずです。皆には簡単に聞こえる曲が、どんなに難しいか、というところから入っていくのです。

 

 難しいというよりわからない、わからないから難しく思えてしまう。でも条件が整ってきたら、やれてしまうなら、やれてしまう人は何をやっているのかを見ればよい。少なくとも、声域や声量の差ではありません。コントロール力のよさと、それを持っていくための身構えの差です。集中力と体力がいります。何かつくり出すときにスキがあってはなりません。

 

 場に来てそういうことを問うことが感覚を正すためによいと思います。歌が一番間違うのは一人でやるからです。先生に見てもらえばよいということではありません。自分の感覚が鋭くなれば、まわりに何を伝えたかがわかります。では終わります。

 

 

 

(「何もいえずにただ口づけ

(ファ♯ソ♯ラ・ファ♯ソ♯ラ・ファ♯ソ♯ラ・ソ♯ファ♯ソ♯ファ♯ミ)」)

 

ここが表現として一番強くできるところだと思います。強くするというのは声量で強くするのではありません。テンションと呼吸が一致して、その方向に向かっていかないと落ちません。根っこから天に上がってこないと、集約されませんから、次のところに入ってもダラダラしてしまいます。

 

大きな場面展開が1曲ずつにあるので、一つずつ終わらせていかなくてはいけない。一番よくないのは、読んだだけで終わるとか、4つ8つなどバラバラに聞こえてしまう。音程が聞こえてしまうのも間違いだと思います。音程がとれていませんが、わざと変えたのではなく、そうなってしまったのでしょう。音色を変えることの方が先です。リズムや音はあまり動かすとよくないことが多いです。

 

 

 (「いつか波が消していく

(ファ♯ソ♯ラ・ファ♯ソ♯ラ・ファ♯ソ♯ラ・ソ♯ファ♯ソ♯ファ♯ミ)」)

 

 元気をテンションに変えるとき、一つのところさえ完成していないのであればそのひとつのところをやるために他のところを捨てなくてはいけないと、考えた方がよいでしょう。声量がどうこうということではなく、気持ちの問題です。その中においていかないとダメです。

 次のところへいきます。ここはもっと音を置く、という要素が大きくなります。

 

 

 (「涙かわく時を待つ

(ド♯レ♯ミ・ド♯レ♯ミ・ド♯レ♯ミ・ドレ♯ミ♯レ♯ド♯ミレ♯シ」)

 

 ねらいを1点に持ってそれが入るようになってきたら、2点、3点と入れていってください。考えると複雑になってきますが、うまくいかないところの原因が何なのかということのイメージが見えていないとダメです。ある種のセンスで無駄を排除していかないといけない。それはその人がどう気づいていくかなので、こちらからは何ともいえないのです。

 

ことば、リズム、どれで勝負してもよいのです。たいてい歌い手は何かの要素がものすごく優れていて、あとは平均以上ということが多いのです。それを自分の中で問う練習をしているかどうかです。やっていないのに出ないのはあたりまえです。だから1フレーズの中で厳しく見つめることです。その状態にならない限りダメですね。

 

どこかに高度に統合するセンスがあります。そういうことをしている歌い手やバンドは評価され続けています。そこでは音が狂うことなどはおきません。耳がよいからではなく、もっと別のものです。そこのイメージがものすごくハッキリしているのです。そういうものは、自分の体を使いながらでないと育ってきません。

 

 

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千曲川」「アカシアの雨」 

 

 オリンピックですが、開会式の演出にもいろいろあったと思います。浅利慶太さんが演出して大相撲を冬に出し、森山良子さんと杏里さん、どうそれを舞台にするのかと思ったら、欽ちゃんでした。

 日本の歌手で誰を出したらよいかというのは思いつかないです。だから小澤征爾を出したところだけはよかったのではないかと思います。日本人のクラシック歌手でも入れておけばよかったのかもしれません。ギリギリのところでの選択だったのでしょう。

 

 私の本の帯に入れてくれたウィーン歌劇団のマリー・ルイズ・ブルー三世さんのことばです。

「発声を学ぶと声はコミュニケーションの道具以上の働きをします。それは自分自身を発見する手段となるのです。日本では男性は固くしわがれた声、女性はかん高くて子供っぽい声がそれぞれの典型的特徴として、一般に受け入れられているようです。1億2千500万人の住む国がたった2種類の声で象徴されてしまう。人間の声は、人間の耳に心地よい音です。そして周囲の人の声に心地よい喜びを見出すことば。このストレスと緊張だらけの時代に大切なことといえるでしょう。」

 

日本人の声はそのように聞こえているのです。大切なところは「自分自身を発見する手段になるのだ、というところです。2年、3年やっているといろいろな問題が出てくると思いますが、音ということでいうとたとえばオペラ歌手といのうは、100分の1でも狂ったら声は出ません。人間がその分カバーして出せてしまうのでしょうが、結局、息の部分です。

 

 

 声というのは判断するのに曖昧です。声たてからはじまって、キーピング、終止ということを繰り返します。こういうこと確実にをやるために声の芯が必要になります。よく考えてみたら声を出す前のイメージ、感覚の部分と、それから息の部分の準備です。1度声を出す前のところに踏み込みがあって、そこでキープしています。これができていないのです。

 

 プロは出す前、私たちが意識するずっと前から、予測しているのです。線の部分で自分の体の声をどれだけ聞けるかということです。その辺にあまり他人は関係ない。他人は出たところで判断していく。皆さんも、声の部分だけ、下手をするとその展開の仕方から直そうとしているのではないでしょうか。でも、もとが狂っていたら、どうしようもないのです。だからそいうことを発見していってください。それの繰り返しです。私は出た声を通じてその中を読み込んでいきます。

 

 トレーニングを見ていると、だんだん自分のいったこと、出したものを見なくなってきている。カメラマンは、写真を撮ったあとに、どれがよいのか悪いのか決めます。それを繰り返すから、また撮る意味があるし、よりよく撮れるのです。そういうところのツメが甘いように感じます。基準がないから撮っているところで楽しければよいという感じです。それはアマチュアです。そこで残ってきたのものをきちんと残していくことです。

 

 

 

 (「千曲川」(五木ひろし))

 (「わすれな草にかえらぬ恋を

ファーファレード・ドシ♭ソシ♭・ドシ♭ソドシ♭ソファ)」)

 

 これを全部呼吸でコントロールすることです。芯や響きが入ってきて、それをどう動かすか、と考えていくのではなく、呼吸とのどが開いている状態、つまり楽器が使えるという状態でやることです。そこができていないのです。そこから線が見え、当人が何がやりたいのかということがわかるということです。上に出てきているところだけでコントロールしないことです。そこでコントロールするとふらつくのです。体でコントロールすると考えた方がよいと思います。

 

 

 

 (「アカシアの雨」(美輪明宏)(西田佐知子))

 

 西田さんのは、最初のよさに比べ、後半がやや演歌もどきのようになっています。「アカシアの雨にうたれて」というところは一つでとらえられています。これで最後までいけば、体と自分をきちんとわかっているということになると思います。

 

 (「アカシアの雨にうたれて

(シ♭シ♭シ♭シ♭ードシ♭ソシ♭ドドドドー)」)

 

 こういうところはマイナスにしなければよいうという感じです。無欲でゼロにして、体の情感を出せば成り立ちます。計算してはダメです。無欲というのと流すのはまったく違います。テンションと情感は作らなくてはいけないのですが、ポッと出すことです。何かやろうという、欲が出るといけません。

 「このまま死んでしまいたい」のあたりになるとその人のフレーズが出てきます。あまり真似ないでやってください。

 

 

 (「このまま死んでしまいたい

(ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ーファ・ソソソファファミ♭ミ♭ミ♭ー)」)

 

 「ま」から「し」に入るところを学んでください。真似しなさいということではありません。

 日本の歌なのでたいてい伸ばしたあとにフレーズをもってくるのです。ここから「死んで」と落とすのですが、これが一つのフレーズの作り方だとしたらもう一つひねっているのです。少しあとに送って「死んで」をもう一つあとに入れるわけです。重ねていくために立体感のようなものが出てきます。「死んで」と「しまいたい」のところでたたみかけを作っているのです。

 

 微妙なフレーズや節まわしをそのように変化させるということではなくて、表現ということで一つの定型なフレーズをとってみたあとに、自分の個人的な節まわしで、弱若変化させ、動かしてみるのです。これは頭で考えるのではななく、何回もやっている間にセンスのある人はある歌い方を選んでいきます。皆は皆のセンスで作ればよいのです。この曲では「死んで」のところがハッキリと聞こえます。一方、全部いってしまうと、全部が聞こえてしまうがために何も残らなくなってしまうのです。相手にきちんと届けるためにいろいろなプロミナンスをつけるのです。歌のプロミナンスというのは単に強く、弱くということではなく、いろいろなやり方があります。

 

 

 (「夜があける陽がのぼる朝の光のその中で

(ソソソソソー・シ♭ーシ♭シ♭シ♭ー・ドドドシ♭シ♭シ♭シ♭ソソソソファー)」)

 

 西田さんと比べても、戻りが遅いです。「るー」から「朝」に入るまで、すぐに息が入っていて、このポイントにちゃんときて、一呼吸あけて「あ」と入って、しかも、ここがあいていないように聞こえさせる。この重みが弱いのです。ここのリズムをとるように平坦に歌ってしまうのですが、準備というのは、体に入れて、たたみかけるために待っていないといけません。

 

 呼吸でコントロールしないで、頭でリズムをとっています。とるところを間違えないでください。フレーズのところでとっていくと、リズムと音程をとって歌っているだけになります。そこは忘れてしまってよいのです。楽器として勉強するときにやっておけばよいのです。歌を歌うときにとらなければいけないのはブレスが次のフレーズを決めていく部分です。

 

 「るー」と伸ばした人がいなかっただけましですが、「る」で止めて、つぎのところの緊張感に合わせた呼吸をしなくてはいけません。入ること、すぐに用意すること、次に待つということが日本の歌い手はルーズです。外国ではそれがリズムを決めますからモタモタとっていくわけにいかない。我々の中には前の呼吸をゆっくりとり、ゆっくりフレーズに入る感覚が入っています。その辺には敏感になってください。体のリズムをとっていくことです。日本の歌でも歌い込んでいくと、どんどん自分の呼吸が動かしていくようになると思います。

 

 

(西田佐知子の「アカシアの雨」)

 後半は脳天気な日本人らしいフレーズが出ています。その当時のよさだと思います。最後は息で殺してしめています。

美輪明宏の「アカシアの雨」)

 エコーのかけすぎでよくわからなくなっていますが、美輪さんの動かし方が出ていますね。自分で動かしていればよい話で、楽譜やリズムことばで限定されないことです。自分でやってみると昭和30年代の歌い手のレベルの高さというのもわかると思います。

 

 

 皆に課題として与えているのは、日本人としての歌い方を学んでほしいからではなく、こういうフレーズで、どう天地を作っていったり、音を動かすかということを考えてほしいからです。当時の日本人の作曲家、作詞家、歌い手はことばがきちんと相手に残るためにはどうすればよいかを徹底して考えています。そこから学ぶことはたくさんあると思います。その条件を満たしながら、歌を知っていくということができればよいと思います。それが全然わからないまま息や声だけ大きくしていってもあまり意味がありません。

 

 相当、集中力、精神力が必要になってきます。だから計算がみえないように思いきり突き抜け、落ちてくればよいのです。その流れを感じながら、そこに音をおいていく。それがそれたところでおいていくと、作ったとかクセで歌っているといわれてしまうのです。2番も読めてしまうのです。それがよければ、2番も同じことを期待されるし、決まればよかったということになります。それがどいうことなのかを歌の中で勉強していってください。

 

 

 

 

 

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「兵隊が戦争に行くとき」

 

 (「ごらん、夏の日の青空が」)

 

 では「ハイ」に対して「ごらん、夏の日の青空が」というふうに導入をつけていきましょう。

「ハイ」に対して「らん」のところで深く落とし込むことです。大切なのは自分の呼吸をはずさないことです。これはトレーニングをしていると大きくはなりますが、大きくなったからといってゆっくりやればよいのではなくて、大きくなるというのは、早く入るために大きくするわけです。頭で考えて急ぐのではなく、自分の中で感じながら、やってみてください。2つあれば曲になります。

 

 (「ハイ、ごらん(ことばで)」)

 

 「ハイ」の「イ」で日本語的に作らないことです。「イ」でのどをとじてしまわないでください。「ハ」にくっつくくらいで、2つにわけないでやってください。だから「ハ…ラ…」くらいでよいのです。

 

 今やっているのは「ア」から「イ」にいく勉強で、一番基本となるところです。「アイ」で一つの音くらいにとらえてください。「ハイ」は「ハ」の音でお腹を使うことができるからです。その応用として「カワイ」をやります。

 

 

 (「夏の日の青空(ことばで)」)

 

 アゴがあがっています。歌うときに障害になります。役者なんかは体にきちんと入れて話すのですが、そういうのはあまり真似しない方がよいと思います。どうしても体に入らないのなら仕方ありませんが、体を曲げてみるとよいかもしれません。

 なるべく前に出そうと考えたときに、胸の位置を少し上げておいて、腰で支えることです。それからまだ、口をきちんと開けない方がよいと思います。

 

 口の中でくっついているから体を使っていません。オリジナルの声そのものからいうと、はずれています。もっと操作をつけないで体でやってください。首から下の楽器を使って一つでとらえることをやってください。これに音をつけていますこれを「ドドドドドー・レ♭レ♭レ♭レ♭レ♭ー」とやると、バラバラになってしまいます。「ド……・レ♭……」くらいでやってください。響きを使わない発声で一番いえるところまでが、胸声部(体でとらえているところ)までの音域です。これが日本人は一音あるかないかです。これを1オクターブ合わせ持ってほしいです。皆でやるとできているように聞こえるのですが、自分のテンポでやってください。自分の出しやすい音で出してください。

 

 

 (「夏の日の青空が

(ドドドードドー・レレレレレー)」)

 

 これが一つに押さえられたらフレーズに展開していくのですが、一音一音をとってつなげないこと。これは抜けてしまっています。一回「夏の日の」と押さえることです。集中力や気力がそこに合っていないと、うまくいかなくなります。

 シャンソンを使っているのは、ことばから音に持っていくのが比較的わかりやすいからです。

 

 

 (「ごらん夏の日の青空が

(レ♭レ♭レ♭・レ♭レ♭レ♭レ♭レー・レレレレレ♭ー)」)

 複雑にせず、かといって流したくないのです。少しずつ音にしていってください。

 (「ごらん夏の日の青空が(レ♭レ♭レ♭・レ♭レ♭レ♭レ♭レー・レレレレレ♭ー)」)

 今やっているところのレベルで歌わないことです。一つでとらえてください。今の目的は歌い上げて、歌そのものの情緒を出すより、音そのものを自分の体から取り出して肉声としてきちんと前に提示することです。それがとんでしまうと、今度は動かせなくなってしまいます。どちらにしろキツくなってきます。

 

 

 (「青空がみつめている

(レレレレレ♭ー・レ♭レ♭レ♭レ♭シー)」)

 3つくらいポイントがとらえられていて、それが一つに聞こえていながら、あとに動いていくということが感じられればよいと思います。音としては、「タタタタター・タタタタター」とあるのですが、「ター・ター」と感じる中でやっていくことです。それからその中に音の変化を感じていってください。単純にとらえながらも感覚的には、その中で何かの動きを作っていかなくてはいけません。きちんとしていないところに何か作れというと、不自然になっていまい兼ねないので、オリジナルの声とフレーズをきちんと結んでください。

 

 それから、動いてきたフレーズの中でいろいろな感覚をとらえて自分で展開していくことです。まず大切なことは、「青空が」で一つにとらえることです。それには、のどが開いていないと難しいです。何人か呼吸が合っていたのですが、次のフレーズもきちんと入ることが大切です。ダラダラとなってはいけません。

 

歌い手というのは歌っているところを外側で見ていて、チェックしていかないといけません。練習のときには特にそうです。そして一体となることです。なれない人は息を吐いてからやってみてください。表現が自分の内にこもってしまわないで、前にきちんと出ることです。その上で、できればことばから音楽の世界に持っていってください。

 マイナーな音で進められています。そういうことの意味も感じて表現していくという世界になってきます。

 

 

 

 

 

「谷間に三つの鐘がなる」

 

 (「鐘がなるなるよ、教会の鐘が、ジャンフランソワ坊やの壇上の鐘が

(ソソシ♭シ♭ミ♭ミ♭ソーシー・ソソシ♭シ♭ミ♭ミ♭ファーファー・ラ♭ラ♭シ♭シ♭レレファーファー・ラ♭ラ♭シ♭シ♭ファファミ♭ー)」)

 

 第一線でやって名前が通っている人はそれなりに才能がある方で、音楽的な素養も豊かです。昔は基本のことを厳しくやっていましたから、そういうふうに教わって、できてきたものがこういうものです。そこで得られたもの、失われたものを見てほしいと思います。

 

 

 私は日本のシャンソンカンツォーネも嫌いですが、そこから見れば、彼らが先生としていたピアフなどを聞いて当然そこにギャップが出てきます。当人達もそれは認めていると思います。そのギャップのところで日本人の表現があって一方で世界の一流という表現がある。

 

皆に出してほしいのはそのあいだにある真実のものです。日本人が作品を作っていくプロセスでどこかで歌い上げていく方法をきちんととってしまい、このようなものになる。そのために落ちたものは多いです。この時代の日本の観客の呼吸があのテンポで、このくらいのトレーニングを求めていたのかもしれません。

 

勉強するプロセスの中で、自分の表現の仕方を決めることができていないような気がします。この歌は3つの時代を一つの歌にしたものです。それをことばでつなげていくというやり方もありますが、音的にどうするか。1、2、3番と音色は変わっていないのですが、ことばを変えることで少しずつ変化しています。こういうことは、ピアノやトランペットではできないことです。そこが歌詞の一番の強味です。

 

 

 こういうことは、自分のレパートリーにする時に考えればよいことで、今日考えてほしいのはその中で何をとらえなければいけないかということです。だいたい、すぐに正しく自分の個性や音楽性を出して、1曲やるのは無理です。日頃の練習のヒントになればよいのです。リズムや音程は日頃のトレーニングで力をつけていくしかない。歌い手は器用でなくてもよいのですが、表現から入って、そこから形を加えていくというふうにしないと、1曲に何十分もかかってしまいます。

 

 大まかなところをとらえればよいのです。大まかなことをとらえるために、音楽の勉強をしておかないといけないし、自分の表現を持っておかなくてはいけない。その接点をどこで合わせるかということです。確かに、音程やリズムがとりやすいとか、とりにくいというのはありますが、そのことより、日頃そういう練習をしているかどうかです。しかし、課題をパッと与えられたときに反応できない体であると、ピアニストやバンドと合わせたときについていけないことがあります。何がおきるかわからないというのは、どこでやっていても起こることです。

 

 ある程度のレベルにいっているヴォーカリストはアドバイザーはいても、自分で決めていっています。どのテンポで歌いたいのかまだわかっていない気がします。テンポというのはヴォーカルが絶対に決めないといけないことです。その妥協ができてしまうというのは、音楽性のなさをアピールしているようなものです。練習の仕方を間違ってはいけません。音程やリズムは絶対とらなければいけない条件の一つですが、むしろ感覚を変えていくことでリズムや音感の究極的な問題もやっていくことです。

 

 

 まず、自分で決めて大はずれでよいからそれをやってみる。はずれたら、それはなぜかを考えてみる。繰り返していくとわかります。音楽というものは、時代も国も超えるものですから、厳しい眼でチェックしないといけない。だから、そういう意味で残ってきた人たちの作品を基準にしていくことが一番よいのです。そういうものに反応できる声を作っていくようにしてみてください。

 

 面倒でもいろいろな曲を集めてきて、それを比較して、その中で自分の位置づけをきちんと出していくことです。フランスでもイタリアでもアメリカでもスタンダードなナンバーがその基準になっているのです。日本はスタンダードの曲がなくて、ものまねになってしまう。そういうことでチェックしていかないと、気にいっている曲を自分でよいように歌っていると、あるレベル以上になるとわからなくなります。形で作っていくと、そこにはまって動けなくなります。それが個性であるというのは大きな間違いで、単なる癖にすぎないのです。

 

 日本には、それを是正してくれる批評や客観的な評価がありません。派閥と同じで、ジャンルができてしまうと、そこでモノをいうとそこでけむたがられます。こういう世界でも相当足の引っ張り合いがあるのですが、ある意味では権威のついた人にはそれが守られています。権威があろうがなかろうが、その人が作品を出すことが全てなのですが、そこにもよい作品、悪い作品はあるのです。それをだれもいってくれないからおかしくなっていく。だから一番精選されたものを残していくことは必要なのです。それができないのは、本人の見極めのなさです。

 

 

 10代のころはどこへ行っても可能性を見てくれるので、どこへ行ってもよいと思います。そのあとになったら、自分の作品を選んできちんと出していかないと、自分の下手さをアピールすることになってしまいます。残っているものに関しては、きちんとしていかないとダメです。アマチュアは自分が何をやっているかわからないのです。

 

プロは下手でもよいから、自分が何をやっているのかわかっているのです。だから、どうすれば相手に伝わるかという形がつけられる。プロがうまい下手というよりも、選んだことのセンスに対して客はお金を払っていくのです。アマチュアは、何でもよいから聞いてくれ、自分たちはこれが楽しいんだ、というスタンスでやっていきます。自分たちはよくても、客は楽しくないのです。だから成り立たなくなるのはあたりまえです。これは好きなことをやるのとは少し違うのです。

 

 プロは使い分けています。日本で売れるものを作りながら、その奥にきちんとしたものがあるから、その活動はやっていけます。売れているところだけの活動をやっている人はやがて売れなくなります。その人がどこのスタンスから作品を取り出しているかということなのです。

 ここの場でやるときもいろいろ限定がかかっていますが、それはその限定の中でやるべきだと思います。その人に力があればまわりの人がそのうち用意してくれます。

 

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(「ミロール」「私の神様」「愛の讃歌)」「群衆」)

 

 

 日本のものと世界のものを比べてみて、テンポ、リズム、ことばの違いを感じてもらえればよいのです。日本の昔の歌い手は芸大を出て、音楽の基本を学んできた人たちです。それがなぜ、こんな音楽になってしまうのか。いろいろなものがつけ加わっているようでいて、それ以上にいろいろなものが落ちているわけです。

大切なことは、何が落ちていて、何を取っているか。何を取っているために何が落ちているか。本当は、それは反するものではないのですが、多くのものを詰め込むためには、そのための技量が必要になってきます。

 

 彼らも本場からいろいろなものを学びましたが、学べないものもあって、それが何なのか、見えないままやってしまうのです。プロになってしまうと、お客さんの要求に応えなければいけない。その結果、そういう歌になるのです。根本的に違う、というところを感じてもらえればよいと思います。

 

 ここでやることは、感覚を変えていくことと、それに対応できる体にすることです。体の中に音楽を入れて、それを感覚的に出す。皆のステージをみていると、前提として欠けているものがあります。まず集中力です。レッスンがはじまって、ようやくできるか、というところまでに30分かかっています。外国人に比べてないというより、普通の日本の舞台をやっている人たちに比べてもないのです。今プロの人たちが、プロになろうと思ってやっていた頃と比べてもないのではないでしょうか。

 

 

 家でできることは自分でやらないとダメです。レッスン中は真剣に取り組まないと、全部逃してしまいます。レッスンに臨む前にやっておくことがあります。来たときにできているというのが当然の状態です。

 耳ではなく、体に音楽を入れてください。皆、音楽を歌えるつもりで、ステージに立ってよかったとか、よくなかった、とかいっていますが、音楽が入っていないのです。技術だけでマスターしても、音楽が入っているとはいえません。ここでは音楽が入っている人ばかりをいれているわけではありません。日本人で音楽が入っている人は少ないです。欲をいうと誰もいなくなります。

 

楽器のプロの人は入っていますが、ヴォーカルで入っている人は日本には少ないです。その辺は自分で判断していかないと、先天的にパッとできても、あまり伸びないのです。それぞれのレッスンにそれぞれの目的を与えているのですが、一番やってほしいのは、そういう場で音を自分できちんと受け止めるということです。それをわずかでもよいから、自分の音として再加工して出すというところの体験です。

 

 

 皆、素振りをしていれば声が出て、音楽になると思いがちですが、かえって歌にならないでしょう。それを一致させるところのことが、先に見えていて、やっていかないといけない。何が違って何が当たっているかわからないまま終わってしまう恐れがあるので、その辺をもっと集中してやってください。ことばとか、部分的なところに意識が行きすぎている気がします。

 

 ことばはあくまで補助的な道具にしかすぎません。大切なことは、表現になっているかいないかです。プロはそれを毎回確実に取り出さなくてはならないのです。それから、それを計算の上でやらないといけないのです。そのことを自分の中に、トレーニングのメニューとして入れていってください。トレーニングが目的になっている人が多いのです。

 

 1回のことに集中しないと、100回やったら声ものども壊れます。楽器と同じで、ある程度ポイント、ポイントをきちんと押さえながらやっていかないといけない。アマチュアは自分が何をやっているかわからないからトレーニングをして汗をかいたり疲れたりすることとか、形を求めたがるのです。でもそれはあるレベルから見ると、何もやっていないよりはよいのですが、何の意味もないのです。それを10年やっても何にもならないのです。

 

 

聞けていないことが出てくるはずがないのです。早く次のレベルへいくことです。強制的にでもやって、その中で見えるところを出せるようにしていくのです。ステージでできている人は、それを見る力があるのです。音楽の分野では、その鋭さが必要です。いろいろな条件はあっても、音の感覚に対する鋭さがないと、採取的にできていきません。

 

 日本の歌い手はそこが鈍いです。ここでやる場合、彼らより感覚が鈍いと、やっていきようがありません。こういうものは時間の感覚が問われます。ここでかけている音楽にはそれなりに意味があるのです。一流のヴォーカルのたった一つの動作の裏に何があるのかを10年後の自分に置き換えて読めていないと、10年後もそれができないのです。それを一つひとつ積み重ねていかないといけない。

 

 日本と世界の一番の違いは世界の人は皆自分で考えます。日本人ほど考えない国民はいない。人を見てそれに合わせていく。考えているつもりで、人のことを受け売りする。村の社会だから仕方がないのですが、同じようになることで既に間違いだということをどこかで覚えてください。

 

 

 

 これはスタンダードな曲です。フランスの曲ですが、オールディーズでもよく取り上げられています。

 

 

 

「谷間に3つの鐘がなる」

 

 音楽というものは好き嫌いでよいのですが、だんだんわかってくるものです。マイルス・デイヴィスを中学のとき聞いて、わかる人は少ないでしょう。読み込み方の違いというのもわかってきます。わからないところで、わからないものを吸収していくしかない世界なのです。わかっているところだけ見ていくと、絶対、偽物になります。

 入ってないものが出てこないというのは、これくらいの英語が聞き取れない人が英語で歌うということは既に英語で歌うこと自体が正しくないのです。どんなに直したって、英語ではない。①や入門科では何もわかっていないと思うのです。外国に行けばわかると思いますが、英語がしゃべれるということは、ある程度英語が聞けるということです。日本人で10才くらいで英語がペラペラの人はいくらでもいます。そうしたら、歌い手がそんな英語を使ってはいないのです。

 

 今は練習だからよいのです。でも練習というのは、当人が気づいていることが前提なのです。そのままの感覚で歌っていても、発音はよくなりません。その辺は勉強していってください。

 

 

 

(「鐘がなるなるよ、教会の鐘が

(シシレレソソシシー・シシレレソソラー)」)

 

 私のレッスンでは、リズムや音程が崩れても気にしていませんが、30回くらいかけたので、このくらいは取れないといけません。入ってきた段階でレベルがありますし、これから勉強していけばよいのです。しかし、こういうものはトータルに自分の考えを持って、大きく見て、やってみることが大切です。やってみて通用すればよいのです。でも、逆に通用しないのなら、基礎をやっておかないといけないのです。読譜も、リズムもとれなくて、それでも完全なコピーができる耳があって、それで、伸びていった人もいます。でも、そういう人は、伸びたあとが頭打ちになったとき、基本をやる必要性を感じてやっていくようです。

 

 基本をいつやるべきか、というのはありますが、基本のあとに応用がくると思うのは大きな間違いです。応用わからないと、基本はできないのです。基本をやる中で正しいかどうかを判断することはできません。結局、歌という応用面から判断してみる。

 こちらから見ても、声のことを読み込むことができるし、判断することはできるのですが、それが表現としてどこのレベルにあるかというのは、各人で出してもらうしかないのです。結果オーライの世界です。さっきのフレーズ回しで、音程、リズムが合っている人が一人もいない。自分の中で音程、リズムを調整しようとしている人が3人くらいいました。あとは、途中でわからなくなって自分で勝手にやってしまった人がほとんどです。合っているか合っていないかわからなかった人もいます。これまでかけた曲では、それぞれことばの置き方は違っていますが、音感も、リズムも共通のものをとっています。それが皆に入っていないのです。

 

 この課題はちょうど1オクターブです。まだ皆がそういう耳になっていないので、これが1オクターブある曲だとはわからなかったと思います。感覚的に気づきもしないということは、それをやってみたときに、余程感覚に自身のある人以外は無理です。だから計算をしてやるのですが、本来なら、その感覚に体が働くということでよいのです。気づかなくてもできてしまった、というのでよいのです。それが最終的な目的です。

 今は音程やリズムより、この音自体がどう動いているか、ということを自分の中にきちんと入れることです。入れたときに、自分のことを知っていたら、これのどこが難しくて、どこができなくて、どこがとっつけるのかがわかります。キィの設定もそうです。慣れもありますが、1オクターブの中で、音の世界が読める人はそれができるのです。

 

 

 ②③のクラスでも1回目でとれた人は3人くらいでした。長くいればできるということではなく、これは勉強の仕方なのです。日本にはスタンダードがないから、こういう勉強をしないのです。向こうは即興から始まって、次にスタンダードを与えられたら、それを即興で、どう変化させていくかという音楽的なセンスを見るのです。鈍いということと、センスがないということは、音楽をやる資格がないというくらい厳しいことです。そのことに気づいていければよい。プロの人は原曲を聞いて、自分ならこうしよう、と思って、ずらしているわけです。

 

 そのことは皆さんにとっても参考になると思います。だから、自分の曲にしてしまえばよいのです。ところが、自分の曲や声が何なのかがわからない。何か与えられたときに、フレーズやスタイルができていないと、自分でやったときにバラバラになってしまうのです。その間は練習になっていないのです。自分がどんなに走り込んでみて、体力をつけても、ボールを置かれて、蹴ってみるろ、といわれて右で蹴るのか左で蹴るのか悩んでいるようなものです。

 

音楽というのはスポーツ以上に感覚的にワープしていくものです。スポーツというものは、何かを積み重ねてそこに達するものですが、音楽の場合、何かをやってはいるけれど勘やセンスの鋭さで新しいものを生み出していくことがものすごく問われます。

 主体的に自分の中で決めていくことが必要になります。それを出してみたときに、この人はどう考えて出してきたのか、というプロセスが参考になるのです。真似るなといつもいっていますが、真似てできるものではないのです。慣れていってくださいとしかいいようがないのです。カンツォーネなどを歌うつもりじゃないから、歌わなくてもよい、という人もいますが、基本を守ることは大切なことなのです。

 

 

 こういう歌の歌詞は、あまり意味を持たないです。ストーリーです。

赤ちゃんが産まれて、結婚して、死ぬというその3つのことです。日本語がやりにくかったらスキャットにしてもかまいません。音の表現を出してください。

 

(「ある山奥の谷間の村に

(レ♯ーレ♯レ♯ーレ♯ミミレ♯レ♯ミミレ♯ー)」)

 

 読んで発音するのはなく、ネイティブの声を音で聞いて、それに感覚を近づけていかなくてはいけません。自分で考えて出すだけではダメで、まず入れていかないといけません。少し難しい課題でした。これでパッとできたら大したものだと思いますが、しかしそうならないといけないのです。このことが実際のステージで要求されているのです。バンドの中にいても、バンドの音でありながら、ヴォーカルが決めなくてはいけない部分があります。たとえばヴォーカルにとってテンポは命です。皆がやっているように安易に決めてはおかしいのです。

 

 ライブ実習などでは、まずキィを決めます。テンポというのはもっと難しくて、ヴォーカルが唯一決められるものです。自分の体や息のことがわからないのとともに、その音楽が自分の中のどのテンポを使えば引き立つかがわからない。

これはプロデューサーやアレンジャーがいればできるということではなく、あるレベル以上のヴォーカルはそれを全部決めているのです。決める力が少なくともなくてはいけません。最近の若い人たちは、ピアニストやバンドやアレンジャーやプロデューサーが何とかするという考えの人が多いようです。そういう人が今いないというのは力がないわけだから、力をつけて一緒にやりたいという人が出てくるまで待つべきです。最初から分担というのではやれないわけです。

 

 ピアニストはピアニスト、ヴォーカルはヴォーカルで完結している。両方ともきちんとした技量を持っている上で何かが生まれることはあっても、お互いが中途半端で補っていたらひとつの音楽が生まれるということはあり得ません。それが通じるのは10代やアイドル、タレントさんのレベルのことです。歌い手であれば個人のものですから、自分が決めるしかないのです。でもここのトレーニングや歌の発表に関しても、結構人に委ねている人が多いようです。

 

 

 先輩やまわりの人のよい意見は参考にすればよい。本当は10人がやるなということを、自分はやるといってやっていく世界なのです。しかし、自分が10人以上に勉強していないと、その自信はできないから、続かないのです。勉強というのは、たくさんのものを見て、たくさん息を吐いて、たくさん歌ったらよいのか、というとそうではなくて、その感覚をどこかで深く得ることだと思います。

 

 ここはわけのわからない音楽ばかり流していますが、皆にわかりやすく、やりやすいものは、小さく勝つ自信にはなります。しかし、自分の世界がないからこういういろいろなものを受け入れられないのです。ここでは、皆が一人でやっていたら出会わないものをぶつけていきたいし、それに自分がどう反応できるのかを楽しんで欲しい。そこから出てきた自信はどこへ行っても怖くはないです。歌をうまく歌えないと、殺されるような状況を想定して練習していたら、やはりうまくなります。

 

 私も世界の国をいろいろ回りましたが、日本人に好意的な国と、とても敵意を持っている国があって、大体日本人があまり行っていない国は好意的です。日本が行って汚したりした国は、雰囲気が違います。同じ人間なので、いろいろなもので通じ合うことはできるのですが。

 

 

 そういうものを練習に取り入れてやってみて下さい。これは1オクターブいきなり飛ぶので難しいと思います。外国人のヴォーカリストが1オクターブの声が安定して出せるがために、その中で高低差をつけないで歌える、ということが日本人にはなかなかわかりません。それが息や、体を使うところの原因です。

 

 ここでは日本人が音大に入ってきれいに歌えた、というところを最低のベースにしています。それ以上のところに、ポピュラーにおいていくために、やっているのがここのトレーニングです。こういう課題にすぐ対応できるような体や感覚を作れるよう、トレーニングしていく。日本は環境が悪いですが。ミルバやピアフになれ、ともいいませんし、その必要性もないと思います。しかし、その間のところに音楽への入門のきっかけがあると思います。美空ひばりなどを聞くと、人種、民族の問題ではなく、感覚の問題なのだということがわかります。しかし、その感覚というものが、民族や国民性に支えられているものです。

 

 鋭さ、切れというものは、音楽では必要なことです。課題を与えられて、それをやっているだけではそれは出てこない。自分の好きな音楽をどんどん聞き込んでいって、そういうもので得た力というものを使ってみてください。

 

 

 今日の課題のゆっくりしたテンポの中で緊張感を保ってやるのは難しいことなのです。ヴォーカルのスタンスとしてはよい曲、内容のおもしろい曲の方がお客さんに受けるかもしれないけど、伝える力でそれをよいもの、おもしろいものにすることが大切です。話と同じで、誰かが話すことによっておもしろいこともつまらなくなるし、つまらないこともおもしろくなってしまう。その伝える力の方にプロとしての力量があると思います。退屈な曲がある人の歌でひきしまる。そこで働く力とは何か、だしている人間がどういうことを考えているというより、どういうイメージでそれを集約し、使っているのか、ということを自分の身に覚えさせていく。

 

 1年目はあまり限定せず、全体を見てやってください。一番基本となる考え方やイメージをなるべく膨らませてやること、もっといえば器をつくる。可能性を大きくしてやることです。ここで何も身にならなかった、とか声が変わってなかった、ということでもよいと思います。でもそのかわり、もっと大きなところが変わっていないといけない。歌っていくと、どんどん形にはまっていきます。そのスタイルが見えていたら、自分の中で位置づけをしたり、否定したりできる。でも、そこしか見えないでやっていくと、いろいろなものを拒否することになりかねないのです。それはここを出てから、やればよいのです。勉強のプロセスにおいては、絶対、自分一人なら聞きかないようなものを今のうちに入れておけば2、3年たったときに何か違うものが出てきます。

 

 私も最初はピアフなどわかりませんでしたが、その前に何十人もわかりやすいのを聞いておくと入りやすくなります。バンドネオンアコーディオンがヒントになりました。量を聞けばよいということではなく、そこで何を感じるか、ということです。一流のものは何回も聞くに耐える、そこに何があるのか。繰り返しに耐えるというのは、すごい評価です。おもしろいもの、よいものはたくさんありますが、続けて2~3回観ると飽きてしまうものと、何回観ても飽きないもの、それから、自分を元気にさせるものと、疲れさせるものがあります。それはとても感覚的なものなので、自分が聞くなら、なるべく広く、高いレベルのものをとっておいた方がよいです。今は誰でも音楽を聞いています。聞くだけで歌い手になれるのなら、カラオケをやっているのと同じです。

 

 

 自分のやっていることをつかんでいってください。それが一番難しいと思います。何をやっているかわからないまま、やっている時期も必要ですが、その先のことを少しずつ見ていくことが大切になります。それには、先ができている人たちを見ておけばよいと思います。レッスンを受けたときに曲をかけているときなど、体がどう働いて、そのとき、何を考えているのか。ことばが足りないところもあると思いますが、声の中で見えない部分をとらえていってほしい。皆の中でとらえていってほしいと思います。よい意味で、成長し合えるように人との関係を大切にしてほしい。

 

 歌がうまいかどうかより、そのことに集中できることと、もとをつかんでいることが前提です。それは表面的には見えないし、時間がかかるものです。器用、不器用というのはあります。しかし作品というものはできるものをきちんと出していけばよいのです。その辺がわからない人たちは全部を出して、全部失敗しているのです。自分の全てを出せばよいというのではないのです。客が期待している以上のものが出るというところだけを凝縮して、そこだけを出すのがステージです。自分の全てを出してステージになる人はそれでよいのですが、ほとんどの場合、間違ってしまう場合が多いのです。勝負できるところをひとつ持っていることというのはそういう意味です。

 

 ステージ実習やライブ実習などで、平均点をとろうとあまり思わないようにしてください。どれかひとつを一番になれればよいのです。全て平均がとれるようにやっていると、丸くなって終わってしまうという感じです。ただ、伝わるかどうかを考えてください。

 

 

 

 

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ラ・ボエーム

 

 英語で歌っていても全然英語に聞こえないのは、ただ英文を読んでいるだけのようなところがあって、入っていないものは出ないのです。それをどこで入れるかは大切で、日本人が海外へ行って、やりあっていたところは入っていたと思うのです。

 

 日本語でも、いろいろな使い方があるわけです。金子由香利さんが彼女の歌い方しはじめて、彼女は彼女でうまくやっていたのでよいのですが、なぜか他の人もああいった歌い方になってしまった。日本というのは、そういう国なのですね。

 

 本物や真実を尊敬しながら、安易にまねることで否定していく。その周辺のところでどんどん作っていく。その作り方に対して評価するわけです。作られたものというのは、本当のものではないし、偽物だから、評価してはいけないのに、その前提がないのです。

 音楽の世界だけでなく、全てそうです。

 

 

 「瀬戸の花嫁」くらいまでは、日本人の芯やひびきがないという特徴を取り入れて作品にしていました。それから、日本人のしわがれ声をそのまま出していたのは、イカ天くらいまでです。表現する人が自分で考えなかったり、アドバイスをすぐ求めるというのはおかしいでしょう。自分があってのアドバイスならよいのですけれどね。

 

 ヴォーカルに限っていうのであれば、キィの設定。声があればかなりの幅で自由になります。もう一つテンポの問題です。テンポというのはヴォーカルが一番大切にすべきものです。私も最後の最後まで悩むのはテンポです。しゃべりは気分でもやれますが、歌は気分では歌えません。自分が心地よい、あるいはお客さんにも心地よいテンポを決めていかないといけない。それがものすごくいい加減な気がします。それは歌う前にきちんと決めてくるべきなのです。

 

 ここの2年間を息がどれだけ吐けるかや声の大きさに関することに費やしている人が多いのですが、本当はそんなことをやらなくてもその前のところ、一体声とは何か、自分にあるものは何かその中で必要なものは何か必要としないものは何か、その中で優先順位をどうつけるか。トレーニングとはそういうものです。

 

その辺がないから、日本の場合、汗をかいてやっていればそのうちうまくなるから、ということになるのでしょうね。スポーツではそれはある部分では必要ですが、なった人はそれだけではないです。それだと、三流までしかいきません。歌になると、時間の中での戦いになってきます。そういうことが日々、自分の中で行われていなければいけない。問いかけが行われてないといけない。

 

 日本の歌い手は、第一線で活躍している人ですが、彼らがここのステージ実習に来て歌っていたら、「そんなに才能を無駄にするな」といいたくなります。日本の場合、才能を生かすというより、つぶさないようにするのが難しいため、すぐに守りに入ります。これが日本の風土だと思ってください。批評に関してもそうです。

 

 若いときには、もっときちんと歌っていた人たちだが、プロになったら、あとは落ちていくしかない、という感じになってしまうのです。うまさは感じられますが、それだけでしょう。普通の国なら座布団も飛ばないと思います。今の若い人たちは、まわりに人がいないと活動できないみたいに思っているのです。それは本当におかしな話で、ヴォーカルというのは完結したひとつのパートなのです。

 

 

 

 (「ミロール(ミルバ)」)

 最初のところで、つまり、入る前で違います。

要は、音楽になっているかいないかということです。