一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート 17315字  846

鑑賞レポート  846

 

 

【The Band】

 

まず、全ての出演したヴォーカリストに共通していることは、声や歌や音色が曲や伴奏と調和しているということだ。そして、調和しながらも、決して埋もれることなく歌声が飛び出してくる。まさにヴォーカリストがバンドを引っ張っているようだ。音色の決め方はいくつかのパターンがあり、その時々で選択すればよいようだ。

「こう歌いたい」と先に音色が決まっていて、曲や歌が決まるパターン

曲、歌が先にあって。それで自分にONさせていく(近づけていく)

曲、歌が先にあって、それに自分が合わせていく

などがあると思うが、固定させず柔軟に決めればいいのだろう。

 

無名の頃の話は興味深かった。「ばかでかいダンスホールに客が3人」「しばらくは辛かった。とくに金がなくて食えなかった」と語っていた。万引きをしてつ食いつないでいたというがおもしろい。たぶん彼らはクリスチャンなのだろうが、神様はそんな彼でも許しているのだろう。だってそこまで彼らのことを支持している人たちがいるのだから。そして、肝に銘じておかなければならないのは、「どんな有名なミュージシャンでも、みんな突然現れたんじゃない。最初のドサ回りみたいなことをしている。それが人々の前に急に現れた時奇妙なものとされるな」といっていたことだ。彼らほどの有名人(本人達はこういわれるのは嫌なのかもしれないが)でも、どんな有名なミュージシャンでもといういい方をしている。ほんとうにどんな有名な(有名でなくても)ミュージシャンでも地道な努力の積み重ねによって少しずつ大衆に評価されるようになっていたのだろう。この言葉の中で興味深く感じるのは、一部の人たちには少しずつ認められながらも、大衆の前には『急に』現れたように映るものなのだなということだ。101匹目のサルの話ではないが本人たちの努力は目と変わらなくても、変化は急に現れたりするものだ。

 

ザ・バンドの伴奏で色々なヴォーカリストが歌っていたが、イントロが流れた他段階で、僕の中にある種のイメージが形づくられ、それははっきりとした映像ではなく、何となくぼんやりしたものイメージというよりFeelingといった方がいいかもしれないし、そのイメージによって歌声、音色がある程度予想できる。予想できるというのは、僕の中にこのイントロだったらこんな感じの歌声、音色だったらぴったりだなとか気持ちいいなという感じが湧き起こる。そしてだいたいそのイメージ、感じを裏切らない声や音色で歌い始められている。

「この歌声で、この音色で」というはっきりしたものは思い浮かばないが、とにかく何となくこうだという感じ通りになっている。ここで疑問なのは、この点に関しては裏切りはないのだろうか。映像の中では、僕の耳の力ではこれにあてはまらない声はなかった。イントロのイメージと調和した音色とフレージングによる少しの裏切りだと思った。

ヴォーカリストの中ではニール・ヤングがダントツだった。イントロのハーモニカの音が既にこれから表れてくる歌の世界をつくる序章になっている。既に心の音というか心の動きを表しているようで心に響く。出だしの1フレーズで参ってしまう。うなる。かっこいい。断然かっこいい。もうそれだけで歌の最後まで思わず聞きいってしまう。

絵にすると上のような感じだが、これはイメージの世界の問題で、イメージの勝負といえると思う。

 

福島先生が「歌は言葉を伝えるんじゃなくて、感覚を伝える」とおっしゃっていたことを思い出した。また、調和した感覚、統一感というのは歌の入りだけでなくフレーズ、構成にも必要なことのようだ。1つのフレーズの終わり方と裏切り(踏み込みやスピードの変化によるもの)があったとしても、決して流れを切らすものであってはならない。フレーズ自体の終わり方(切り方)は決してだらしない伸ばし方はしない。イメージを形にできていれば、そこで切れるのならそれでいいし、少し伸ばすのならそれでいい。おなじようなフレーズの繰り返しは感覚により踏み込みの変化があり、フレーズに変化をもたせている。但し感覚により変化させるのだが、感情に流されて声を乱してはいけない。

 

ニール・ダイヤモンドの歌で、初めの頃はそうでもないが、曲が進むにつれて、だんだん彼の世界に引きずり込まれていく感じがしたことと、エリック・クラプトンのかゆいところに手が届くようなフレーズづくり、ここで、こう行ったら気持ちいいんだけどなというところに行く、で引きずり込まれていったこととヴォーカリストたちの太い話し声だ。

いつも思うことだが、誰かのステージを観ると、自分があの場所にいたらそんな姿なのだろうということが想起されて楽しい。イメージが広がるのでもっともっと多く観なければと思った。まとめると、曲・リズム・テンポ・声・音色、それらが一体となったもの、統一されたもの、調和がなされているものそれが音楽だと思った。

 

 

 

【Billy Joel and Elton John】

 

「Face to Face live in Japan」東京ドームに観に行ったのだけど、あまりに音がひどかったので(彼らのPowerは凄かったが)編集されてTV放送したものを観ています。

ビリージョエルも随分、割腹よくなった。ステージにグランドピアノを向かい合わせに2人いるだけでもう感動である。エルトンジョン、歌う時の右の眉が特徴的。

一曲目、エルトンジョン。Your Song、歌うビリージョエルは、彼への尊敬の念かできるだけ歌に忠実であろうとするみたい。それをエルトンジョンが大きく広げて歌うと、ビリージョエルもちゃんと答えて変化してゆく。しっかりお互いに作用しあう。ジョンは、客席にも愛敬たっぷり。彼の歌いかたは、瞳を閉じて内側の感情の動きを、集中してスムーズに繰り出そうとする様。お互い妥協を許さない。自分のベストをぶつけあってより心が動くものを創り出そうとしている。真剣勝負。ひとりの人間同士の姿がある。実際にはかなり神経を 使っているのかもしれない。はりつめたものはあっても様子を伺うものは感じられない。

次にビリージョエルのステージ。彼のバンドはとてもアットホーム。みんな楽しんでいるしあたたかい。ジョエルもバンドとの一致をとても大切にしている感がある。一人一人の表情や動きを細かく観察している。客席よりもメンバーに視線を多く送っている。自分が引っぱっていく自負があるからか。きっとその反面、人一倍シビアであることだろう。より完成度の高いものを創ろうとしているように見える。後半は客席に乗り込んだりして随分暴れていたけど。

 

ジョンのパフォーマンス。歌う姿についつい見入ってしまう。目を閉じて思いの丈を曲に託すみたいに。どれだけ深い場所から気持ちを伝えているのだろう。彼のバンドはどことなくクール。対する姿勢もB.ジョエルとは対照的。耳だけを頼りに、各メンバーには絶対的な信頼を寄せているみたい。

2人とも、セッションの時と各個人でのステージの時と、取り組み方が違う。相手の予想できない展開に応えていけるよう、常にベストであろうとする。それが次につながる唯一の方法だと十分分かっている。2人とも当然のことながら、自分の声を知り尽くしている。遮ることなく、一つの言葉が次の広がりへのインスピレーションへつながっていく。それが相手の提示であっても、とても柔軟、自由。だから2人の生み出すハーモニーは素晴らしい。何をおいても声の音色に参ってしまう。

以前、読んだ本に「歌を聞く時、聞手は歌詞の内容以前に、その声の音色で受け入れるかシャットアウトするか決めてしまう。」とあったけれど確かにそうだ。ラスト。PianoManでのハーモニカが心動かすのは、タイミングもさることながらやはりその音色の斬新さか、それとも呼び覚まされる何かなのか。

実際のステージは3時間以上あった。それで世界中を周っているわけだから、そのタフさと常にクリエイティブであることに自分の甘さを省みる。結局はどれだけ自分に真摯に向かって生み出せるものがあるかということ。可能性は無限である。

 

 

 

【セリーヌ・ディオン Celine  Dion】

 

「THE COLOUR OF MY LOVE CONCERT〜」彼女のステージを観て、はじめて、すごく芝居に近い物を感じた。芝居と歌との境がないように思えた。表情の豊かさ。広がる世界。意識はどこに向かっているのだろう。完全なリラックス。開放されているだけに表現も自在に動かせる。感情と体と声の一致で、体が動く様に声も自由になる。歌い出す直前の一瞬の表情に見える深い集中力と、一曲の間のその持続。静かな歌い出しの、一本芯が通ったような柔らかい緊張感。

小説も書き出しの文が面白いとどんどん引き込まれる。同様に歌の出だしも(それ以前の空気も含めて)素晴らしいとそれだけで引き込まれてゆく。そのわずかの間にどれだけイメージする世界を提示できるかの勝負か。

 

印象的なのは崩れないフォーム。だいたいにおいてまっすぐ伸びている背筋。時々、胃のあたりに手を当てるのは何か確認しているようにも見えるけれど。高音をはる時に体の動きが重心が下がるように見えるけれど、実際に自分のからだに置き換えてみても、どういった力の入り方なのかうまくイメージできない。高音の声のイメージは、背骨から後頭部にまっすぐ一本にのぼってきている感じ。

歌が存在する世界そのもの。彼女なのに彼女から離れている気がする。広がる空間がある。固執していない。ただ、魅せられる。体の内側の深いところに渦巻くものを、生み出そうとしているように歌う。リラックスと集中、感情と呼吸の密接な関係がきっちり保たれている。あれほど表情が豊かなのは、体の奥から感情を汲み出しているからで、それが声の艶になるのだと思う。歌う時もトークの時も、目の輝きは素晴らしい。

 

 

 

【エルトン・ジョン Elton  John】

 

 彼に限ったことではないけれど、一声歌い出す前の妙というか、あの微妙な空気がとても印象的だった。呼吸。 想い。間、という言葉もあるけれど、それは私には人為的に計算された時間のようなイメージがある(私の稚拙さゆえかもしれないけど)。それとは異なった、何か人がアクションを起こす時に、理屈抜きに内から働きかける力と同じにも思える。静かであっても芯のあるなにか。時には抑えられない情熱的な、なにか。その瞬間はダイレクトに私の胸に響いてくる。それは次の瞬間に声を伴うからこそ生まれる感動なのか。それなら本当はどこで歌っているのだろう。声として聞こえてくる歌同様、一曲の中には声なき歌もしっかり織り込まれているのではないだろうか。言葉と言葉の間にも歌い続けているからこそ、もっとも伝えたい位置に言葉が生み出されていくし、同じ曲を他のアーティストが歌うと全然別の世界になるのも、このバックグラウンドがそれぞれの生き方と深く関わり合っているからかもしれない。それに呼吸が合わさって生身の人間が感じられる。命を削ってまだ開かれていない扉を一つ一つ彼自身の手で開けてゆく。

 

アーティストとして魅せる世界に欠かせない、集中力とテンションの高さ。プロフェッショナルと素人のステージの差は、それをどれだけkeepできるかが大きいように思える。歌う以前に声に想いが宿っている。内なる世界が開放されて、突き抜けて広がっていく。集中と呼吸と体の基点と想いがぴったり一致すると、偉大なるSomethingが流れ込んできて今までにない輝きを放つこともあるけれど、それを確実に取り出してゆくのは難しい。彼のLiveで得たことを糧に日々チャレンジするしかないと、未熟さの分身が引き締まる思いである。

彼同様、魅力的な人物がもう一人。パーカッション担当のおじさまである。技術もさる事ながら、ミューズの許しを得た者はこんなにもまっすぐ輝くものかとドキドキさせられる。

 

 

 

【シェリル・クロウ SHERYL  CROW】

 

漂うけだるい雰囲気。半開きの瞳。何に集中しているのか読み取れない不思議な表情。あなたの歌は何とつながっているの。彼女の体の内側に何か  大きなPowerが介していて、それ以外は何も映していない瞳のようにも思える。逆らわない。身を任せきっているかのよう。

素晴らしいのはビートの感覚。あぁ、やっぱり全然違うと、改めて未熟さを認識させられる。

曲が転がってゆく。日本人のリズムだと停滞してしまうのでは、と、ふと思う。ビートをしっかりとれるようになると、メロディをつなぐ間合いも自然と測れるようになる気がする。

バンドもよい。生で聞きたいと思う。いままでは感じていなかったけれど、バンドの中でドラマーの占めるウェイトって大きいと気づいた。叩いていない裏のビートがうねりで感じられるととてもかっこよく聞こえてくる。ほかのパートもヴォーカルもしっかりとリズムをつくっているからだろう。

 

彼女の歌と演奏との間になにかある。見えない橋のようなものが渡されている気がする。ビートだけじゃない何か。一曲の時間の長さの感覚がピタリ一致しているということ。自由だけど見当違いにはみ出さない。演奏と歌、と分けて感じる事が間違いなのか。

彼女の言葉はとても感覚的。伝えたい思いというよりその時の心の動きとメロディとが合わさった間からアドリブ的に生まれてくるような。でも、声そのものに意志がある。特別声がいいとは感じないのだけれど、その他のいろんな要素が魅力的で歌に引き込まれる。絶妙なバランス。

アンコールで何の紹介もなく、さりげなくクラプトンが出てきたのには驚いてしまった。 

 

 

 

 

【ヴァネッサ・ウィリアムス】

 

顔と声のアンバランス。いくつだろう。のびやかな声、甘く幼い感じのする声、それが魅力。トレーナーで歌うのか。黒い帽子にサキソフォーンの二人と対称的。自然。前歯が愛らしい。お化粧するとこんなに大人っぽいの。闘牛のシーンと彼女が涙を流すところをだぶらせている。

仲間が死んでも、死ぬことわかっていても戦いをやめない。また練習する。人間は死ぬことを知っていても生きることをやめない。ステージにも立ちつづける。おもしろくない。どうしてだろう。この映像でなければならない理由がわからない。カワイイ猫だ。でもおもしろくない。この位の年格好の女の子にはカワイイ猫。苦心して考えた構図かもしれないのにそう見えてしまう。どうしてだろう。退屈。これを私は歌でやってるんだろうか。疑わないで、こうならこうとそのままで。そう思ってみると他人事じゃない。嫌なもんだ。でも、彼女は画面の中でもっと素敵で在れる気がする。孫を、娘を見る視線だ、ミュージシャンの表情。何といっていいかわからない物足りない空気が流れる。しかし、自然だ、のびやかな声。特に音をのばさなくても。しっくりこない。このノリ、リズム感。どういう歌詞を歌っているのだろう。よくわからない映像だ。ギターをひいている人は女か。ポールにからみついているのは男。この位しないと席を立つ。何てカワイイ声だ、少女だ。ゆえ意にそうしたのではなくて。妖精みたい。美しい、ブルーの目。無理してなさそうに見える自然なところがやはりいい。魅きつけられる。美しく自然で目が離せない。彼女を生かす映像。とても素敵。なぜこれを素敵と感じて今までの多くをあまりおもしろくなく見たか。最大限に生かすことを探す。そうじゃないものをこわしていく。何も残らなかったら。ゼロからつくる。できなかったら。頭で考えナイ。体に負わせる。

 

空のプールか、前歯に隙間がある。歌う人は珍しい。初めてだ。雲の中。ローラースケートする黒いシルクのスーツ。の男。ハプシュード。なぜ楽しいんだろう。扇子を持って踊ってる人がいる、剣に持ち替えた。ヴァネッサとからむように、からまず、からんで。画面に動きがあるのだろうか。行進してる、小さい子をおんぶしている。トロンボーンを歩きながら吹いている。ゆったりしたリズムと雲の上と青空と雲が流れる感じ、スーツの人のすべるスピードぴったり合ってる。おもしろ、気持ちいい。

「Just as long as」といっている。ノーブラでスケスケ、カッコイイ、なぜ。さらしているからわからない。やる気ねぇっていう感じかな。語り素敵、とても、とても。自然で、彼女で。一番素敵かもしれない。すごく素敵、映像ではわざとらしいんだ、ここで彼女は最も彼女らしい。楽しい。これがひとつの物語。

 

 

 

 

【ドアーズ】

 

22才、23才のパーカッション、こんなに若いのか。この中で世界に出て行くのか。何が違うのだろう。何があるのだろう。「ジム・モリソンは詩人だ」そか。「体制にはまらず、とぼうとしていた」とぶ。一緒にやってたメンバーがいう「今でも理解できないものがジム・モリソンにある」と。ジム・モリソンはいう「音楽の方で出てくる」と。一瞬にして降り立つのか。本能に。「ここでシャウトしようとしてシャウトするのではなく、身をゆだねていたらシャウトする。本能に任せている。」全ての曲を、そして一曲全部こうやって歌うのだろうか。そんなことあるか。練習はしないの。うまくなるというのはナシ。一つの曲で同じ歌は有り得ない。これってどういうことなんだろう。創るんじゃなくて。 降りてきたものを出す。そのまま。わかるようなわからない。見た人は「初めは魅力を感じなかった。でも、もう一度一応見てみようと思った。見たらよかった」なぜ彼はもう一度見てみようと思ったのか。そう思わせるものがあったのだろうか。

 

劇的とはどういうことだろう。こういうのか、そう思うのはどこを、どういうところをしてか。音楽に対して本物とは、取り組みが。出す物が。両方が。偽物もある訳だ。音楽に対して本物、偽物。借り物、つくり物じゃなくて本人の中から探し出してきた本人そのものの音楽という意味か。「芸術に完全燃焼している。本物ってこと。ステージも。何を本当に感じたか。ショーや演技じゃない。決まったグルーヴの音に自分のものを投げ出してくる。怖いけどすごい」そういうことか。感じた物しか出さないのか。すごいナ。なぜすごいと思うのか。恐くてできない。形から入っている。順序はまずそうだ。そこで体を動かしてみる。そして少しずつ感じていく。感じた物を形にしていく。少しずつだ。彼は瞬時にして全部をやるのだろうか。音楽の方で出てくるのは、待ち続けているのか。それとも、歌、音と一言でいうけれども出てくるまでのプロセスは各人各様違い、その違いの中にとても大事なことがある気がする。結局音楽を歌をどう考えているかが出る。その人が何を大事にしているかがそこに現れる。

 

ジム・モリソンの音は声の本能のそれ。できる人とできない人がいる、ということか。本物だと思うけれども、それを芸術というのか。芸術。自己満足じゃないもの。本能は自己満足じゃない。満足しようがしまいが自己だ。芸術もわからないままだ。ジム・モリソンは「ヘヴィ、気が重い。したいのは、もっと自然なフィーリング。」と。自然じゃないのか。どういう意味だろう。「同じステージは有り得ないだろう。いつもユニークであろうとした、新しくあろうとした、音楽的にも、態度にも」「壁があって越えようとしていた。酒を飲んでいなかった。覚醒剤で向こう側を見ようとした」と。何を見たい。なぜ見たい。向こう側って。壁を越えるため。壁って音楽の。何の壁。生きていく上でのこと。わからないことばかりだ。「人気は落ちてないけれども時代は確実に変わっている」何をどういうことを意味するのか。映像との出会い。

 

「絶望のふちで誰かに頼るのか」すごい歌詞だなあ。助けを求めることも頼ることになるだろうか。絶望か。頼れる状況と頼れない状況があるだろう。頼ることは悪か、頼らないことは善か。別にジム・モリソンがそういっている、という訳ではなくて。そこに問題を立てるよりむしろ、頼らないことが死につながらない。絶対に。そうあってほしい。でも通過点でも誰にもそれが死につながるとわかるだろう。誰にもわからないだろう。でも。想像力を持ちたい・そういう大事な想像力を持ちたい。そして、その動く判断力を持ちたい。そして自分の力が小さいことを知りたい。そして、自分一人の生命でないことを腹で知りたい。人と共に、苦しんでいる苦しみを持っている人と共に生きていることを知りたい。そしてまったく同じことを伝えたい。「アメリカでは詩人として食っていくのは難しい」

 

「ドアーズは詩的、そこに生きることへの賛美がある」ドアーズのステージと生きることの喜び、つながらない。両方持っているのだろう。「時代そのものだった」。すごいな。体はボロボロだろう。そんな気がする。やはり捧げるのだろうか、時代に。

「月光のドライブ」ロマンチック。詩だ。あたりまえだけど。不思議。違和感とも違う。何てロマンチックだろう。別の世界へ誘われる。「彼は本当に自然に出てくる人だ、ステージでの動きでも何でも。ものすごいパワー。合わせてドラムをたたくだけで情感が伝わってくる。」と。わかるか。空気を通して気迫が音楽の形で来るのだろうか。演劇的な側面も持っていた、と。深くむしろ暗く。暗い娯楽性。暗いと娯楽性は並びうる言葉なんだ。新鮮、でも落ち着いて考えればある。

 

エド・サリバンショー「ハートに火をつけて」本気で歌っちゃった。挑戦してる、音楽で。「やろうぜ、何を失うんだ」正面向かって叫んじゃってる。「正直に自分を出そう、とマジに考えた」と。一生のつき合いはパメラ・カーソンだけ。とても魅力的な女性。永遠の伴侶。愛と憎しみの関係。憎しみか。嫌いじゃない。憎むんだ。闘い。闘う。愛し合う男と女が。そう。憎みながら愛する、それもある限度までだろう。生涯の場合もあるか。程度に限度がある。

 

ジムとバム お互い本当に気が合っていた、ある時期まで。それがだんだんダメになっていった。ジムは24時間ギリギリの所に立っていた。一緒にいるのが大変。ジムは別に怖いからじゃなく人を試していた、と。グループの他のメンバーはステージを降りると普通に戻るが、ジムはそのまま。だから長いツアーに出られなかった、ジムが疲れるから。とにかくバンドは大変。それでも、もちろん一緒に演奏するのは一体感があった、と。身近に感じていた彼がだんだん破滅的になっていく。なぜ。詩人に戻った時は素晴らしいが、そうでない時は観客の期待に添えなくなっていく。しかしなんてロマンチックなんだろう。他の場面とのコントラストでそう思うのだろうか。イヤ、実に彼なんだ、と感じるのだ。そこにトキメクのだろう。その人がその人らしくある、というのは何にせよいいもんだ。

 

ツアーの最初は拘置所。その後、意識してイメージを変えようとしているのがわかった。詩の朗読。詩はおもしろい。全て同時に、歌も音楽もこのとき忘れていなかった。風呂場で音楽録音した「L.A.ウーマン」ここへ来てやることなくなってしまった。それでも。ロック・スター・ジム・モリソンからは逃れられない。スターってこんなに孤独かと感じる、と。27年間生きてきた。人々には何も求めず与えた。小心な俺達に与えてくれたその生き様。スーパースターはいつも人目にさらされている。我々はすぐその存在すら忘れてしまうが、当のスーパースターはそのうち自分までも失ってしまう。全てのスーパースターがそうなのか。自分を失っていないスーパースターはいないのか。いるだろう。その違いはどこなのか、何なのか。本人の問題か。それとも外見は違っても本質的には同じか。

 

 

 

 

【ボブ・ディラン】

 

超カッコイイのは、なぜ。この曲がこうなるのか、彼女の歌になってる。ギターの手、離しちゃった、いいたい、だから、いってる。手は他に使いたい、身振り手振り。最後「リリー(スト)」とはいわない。いわないからかえっていうことになるのか。

 

エリック・クラプトン ギター一音で、ジャランと弾いてもクラプトン。声と同じか。くしゃみと同じか。友達がくしゃみをする。雑踏の中でも距離が少し位あったってすぐそれとわかる。一音で「私」にならなくちゃならない。強さじゃなく、音色で。そしてなおかついいなあ、と思える音色にしなくちゃならない。歌は一曲あるからわからなくなっていくのだろうか。

 

ウィーアーザ・ワールド 一フレーズに参加した全ての歌手が賭けた。そこにその人が現れ、なおかつ感動した。全部やろうとするからできなくなる。何度もいわれてることだけど。人間は一言でも感動する。感動できる。それを作っていこうと思わなかったら、永遠に取り出せないだろう。この一言に賭ける、この一フレーズに賭ける。そういうことか。彼は二つの武器を持っているんだろうか。一音でクラプトン。声を絞って高い音。表現したいもの、どう音色として出すか。たとえばこういう形。伝えたいものから逆算して腹からこうなる。「ウィーン」として出すか「ウィウィウィーン」として出すか。

 

エリック・クラプトン こんなんだったのか。ひっぱってひっぱってひっぱってドッヒャーとおとす。ねちっこさ。

オージェイス この一曲でいい。たくさんいらない。わかったか、わかった、高音と低音のコーラス、ハーモニー。あの曲のあの高音ひびかせてヒゲナイ、ごまかさない、低音と同じでいく。腰直角だ。死んだって美しくない。整えない。それが美しい。打たれる。汗びっしょり。執念の高音。歌うことに生命を賭けてる。カッコ悪くたっていい、こうやって生まれてやる。圧倒的だ。伸びやかな声じゃない。それがどうした、俺はこれだ、こうやって生まれるんだ。歌い方がそういってる。こういうハーモニー、美しいんじゃなくて、何ていったらいいんだろう。こうしたいハーモニー。創り立てたハーモニー。

 

ザ・バンド とても楽しい音創り。アコーディオン、ギター、マンドリン、ごちゃごちゃしてる楽しさ。いかつい顔して楽しい音。おもしろい。彼らの感性が。ショーン・コルビーン、3人の女の人。なぜ3人なのだろう。ジョージ・ハリソン:これが彼の本来の声。自然。力んでないか。自然さをこわす力み。わからない。のれない。なぜだろう。わからない。

 

トム・ペティ・アンド・ザ・ハートブレイカーズ こんなにわくのか。どうして?色っぽい。

繰り返しだけれども少しずつ変わってる気がする。退屈じゃないもの。繰り返しだがきっと内容に応じて一回切ってる。どうして切ったのだろう。必然か。それか決まってみたらカッコよかった。わからない。でも、とにかく結果カッコイイ。ひきつけてるうえになおさらひきつけられる。曲の感じをまったく変えて次。歌詞の内容はまったくわからないのに、歌詞とメロディがあってる曲の様な気がする。そう思わせるのはなぜだろ。歌ってない、しゃべってる、旋律がついている。スニーカーだったのネ。

 

ロジャー(ザ・バーズの創始者)こういう声。やっぱりしゃべっている、愛らしい声、彼の音色。独特の音つくり。ボブ・ディラン:何ともいえない声、彼のスタイル。何て自由な声だろう。どうだっていく彼なりのまとめ方、つくり方、ベースはギターのリズム、ちょっとしたメロディ。広い海に連れ出された様な、聞き終わって漂う様な。不思議な力のある人だ。彼の精神が柔らかく漂っている、ということか。歌で集まってる。思わず息をのむ。

 

ニール・ヤング 腰で弾くギター。Yonger Than That Now。プレゼントの歌だ。内発する歌いたい以外では絶対歌わないディラン。同じフレーズ、一つのフレーズの繰り返しでこれだけやるか、やれるものか。あの小さい紫の花束がよく似合うディラン。不思議な人だ。他の人とまったく違う。あたりまえだけどやっぱりあたりまえじゃない。あれだけのメンバーの中にいてもなお薄まらない存在感。大げさな花束じゃないそれが似合う人。何が他の人と違うのだろう。謙虚さだろうか。恥じらいだろうか。わからない。彼にハーモニカがなかったら。

 

 

 

 

 

【サンレモ音楽祭】

 

ジリオラ・クテッティ 一音を大切に、心をこめて。愛らしい。惹かれるのは自然だからだ。わざとらしくない。そのまんま彼女。彼はどうしてあんまりひきつけられないのだろう。何が違うのだろう。シンプルなステージだ。歌がうまいかそうでないかだけ。イヤ、引きつけるか引きつけないかだけ。ごまかしがない。原点。こういう所では鍛えられるだろう。でも、「ステージ」として考えるとそうじゃない魅力で引きつけられる場合が多い。いい悪いじゃなく、その時歌はどうなる。ということだろう。歌は正直に出てくる。

 

ビルラ お化粧している。本番前。十字切ってる。歌ってる顔、苦悩の顔、叫び。こんなに柔らかく聞こえる歌をああいう表情で歌っているのか。これってどういうことだ。第一に歌をそのパッと聞こえで判断するということ。聞く時に耳をとにかく澄ます。そこでこの表情が、叫びが見てきたら、見えてきて始めて聞いた、ということになるのか。第二に雰囲気でとりに行かないことだ。何回指摘されてもやってる。やわらかく聞こえるからやわらかく歌う訳でなく、叫びすらあるのだから、とにかく自分にあてはめることか。できない。仕方がない。とにかく自分か。と疑いつづけることなのだろう。今の自分にできることは。曲の途中でもいいと思ったら拍手するんだ。はっきりしている。わかりやすい。ビルラがミッキーマウスのトレーナーを着てピアノの前にいた。

 

 

 

 

 

【ボブ・マーリー】

 

一流の人をみると、スピリッツが前に押し出てきて、「何か」が伝わってくる。やはり上辺だけじゃないのだ。気迫がにじみでてくる。彼の声はきれいじゃないけどいい声だと思う。魂が宿っている声というか、自然な、本来人間が太鼓の昔から持っている声、何の制約もされていない開放された声だと思う。多くの日本人が失ってしまった声だと思う。野性的な声、本当に我々に欠けている声だ。そして彼は自分の中にしっかりした信念をもった人だなぁと思う。

一流の人というのはしっかりした考えを一本強く持っている、何者にも屈しない強い自己を持っている。凄く羨ましく、また自分もそうなりたい。人にすぐ左右されてしまう自分を弱々しく思う。またボブ・マーリーが白人と黒人の間に生まれた人だと知って驚いた。白人と黒人のいい物を受け継いだ、音楽的に羨ましい人だなぁと思ってしまった。(よいことばかりじゃなかったと思うが)たぶん、推測だから、彼の音量はジャマイカの田舎町のごく普通の暮らしの中から自然に生まれてきたのだろう。歌・リズムが生活と結びついて自然に生じてきたのだろうと思う。そして1980年、おしくもジョン・レノンと同じ年に逝ってしまった。残念だ。どうして天才と呼ばれる人たちはみな短命なのだろうか。運命といえばそれまでだが。唯一の救いは、彼らの作品がCDやVTRで残っている点だが、それよりも彼らに影響された若い人たちが育っている事だろう。そして最後に彼の言葉で終わろう。SaySomething、彼はそう歌っていた。

 

歌をどんな風に意味づけてもいいが彼の歌は原点のような気がする。歌を商業的なものにしたのは歌っている人間ではなくそのまわりの人間で変化するのもまわりの人間。時代や環境に左右されないものを持っているからこそ残ってゆく。一人の人間の思いを何と多くの人々が支えていることか。考えてみると世の中には歌っている人間は本当に沢山いてその関わり方はそれぞれ違う。どんな人も心の中に歌を持っている。結局歌というのは一人の人間にこう生きたいという思いが形になったもののような気がする。世界のあらゆる音楽を知ることによって、その中で自分とは何か、何ができるのかということを考えていく必要がある。日本という国はあらゆる情報が入り乱れているがそれが全て真実といえるだろうか。汚いものは排除するという考えが情報にまで及んでいないだろうか。自分が問題意識を持たなければ本当の事は見えてこない。知ろうとしなければ何一つ見えないのだと思う。日本中心の考え方をしていればきっと盲目になってしまうだろう。私はやはり行動する中で考えていきたい。受け身の情報には満足できない。彼の国ジャマイカとこの国の違いは大きい。今日生きることを問題にしている人々と生きがいとは何かを問題にしている人々。

 

彼の歌は全て生きることを真っ直ぐ見つめたもので、その声も言葉も彼そのもの。歌を言葉の枠の中で押さえ込んで考えていられない。視野をもっと広げなくてはと思う。世界中で歌われている歌を聞くのではなく叫ばれている思いを聞かなくては。一人一人の人間は限りない可能性をもっているのに目を向けられずに死んでゆく音が沢山ある。それほど不幸なことはないと私は思う。声や体のことをやっているわけだが、なぜ必要なのかということは明確にしておかなければならないと思う。本当に必要と思うものしか身につかないものだから。日本ではなく世界を基準にするからこそ必要となる。どういう場を求めるかによって得られるものは確実に違ってくるだろう。自国を知る上でも外へ出てゆく必要がある。それと日本では強烈な意志をもたなければ声は身に付かないように思う。子供の頃からどんなことも自分で考え意見を述べるように訓練している人々と日本では大きな違いがある。自分自身その点に関してはまだまだ未熟さを感じる。人はそれぞれの立場で物をいう。

 

ボブ・マーリーは支配される側、弱者の立場から支配する者に対して叫び続けたわけだがある者にとっては勇気がある者にとっては耳をふさぎたくなるものであったに違いない。時代がどんなに変わろうと支配したい、権力を持ちたいと願う人間は後を断たないだろう。数人の権力者のために人生を台なしにする人々がいる。そういう者たちにとって生きている場は地獄だろうか。それともそういうことさえ疑問にもたないのだろうか。どうすることもできず人生を終える者のことを考えると何ともやりきれない気持ちになる。叫ぶ勇気のある人間は叫び続けなければならない。

 

 

 

 

【キューバの音楽史】

 

血液の流れるリズムを誇りに持つ民族。本場のリズムはこういうものなのか。日本の社交ダンスのイメージがあって、ルンバもマンボもチャチャチャもよさがわからなかったが、今日聞いた演奏は全部よかった。特にチャチャチャは全然違った。今までは、タッカラタッタズンチャチャチャだと思って、「だっせー」と思っていたが本物は、タッカの間に32拍数える感じで、速く何度も何度も回す感じ。それはまるで体の隅々にまで血液が流れるのを細胞単位で数え取るような感覚だ。全編を通じて、感じ取ったのはキューバの人々の民族的誇り高さ。本物だからゆずれないし、ラクな方にも流れないのだ。子供の時に聞き取ったリズムを再現しなければ納得がゆかず、練習を積んだキューバ男性が「自分は憧れたときからよく働いた。」という言葉を選んだ。よく働く。人間らしい言葉で、ズシンと心に響いた。

 

 

 

 

【ミンガス・ジャズ】

 

ミンガスの足のリズムのとり方、踊っている様。ピアノの人の指の動き、しなやかで力強い。鍵盤の上で跳ねて踊っている様な感じ。Saxソロのときのベースライン、面白かった。ドラムがバスドラとライドだけですごいノリを出している。突然リズム隊がぱっと変わるのだが、まったく違和感を感じなかった。ベースソロの合間に突然ドラムがフィルインしても流れが途切れない。バスクラのソロのときトランペットの人の顔の変化が面白かった。うなずいていたり、おやっと驚いたりしていた。曲の中に流れがあって、すごく優しくなる部分があったり、激しく荒々しくなったりする。できる人にはあたりまえのことなのだろうが、バスの弦を押さえるときに探らずにぱっと押さえられるのはすごい。曲の流れの中で次の展開はこういくのかなーと期待していると、ぱっと新鮮に心地よく裏切られたりする。短めにしようといってすぐにできるということは、構成だけが決めてあって、後はアドリブなのだろうか。ちょっとずれてダーンと入るピアノが心地よい。ピアノソロから全員が入ってくるところ、ため息をつくしかなかった。アンコールがかかっているのに鞄を持って出ていってしまう、クールだ。

 

 

 

 

【アダモ】

 

インタビューの中にどんなに真剣に取り組んでも難しい発音があって、悩まされたという話があった。アダモでさえ発音で難しいと感じるときがあるのだ。アダモの歌い方はけっして声を張り上げたりしていない。マイクを口に近づけて歌っているなと思った。首に力が入ったらあんなふうに揺らしては歌えないだろう。シャウトしたときに体から離れていない。兵士の行進の歌、詞の内容が興味深い、共感できた。曲もポップでよかった。言葉をいい放つように歌っている。

 

インタビューの中でアダモもインスピレーションを受けるために、映画を見たり、新聞、本を読んでいるといっていた。やはりそれなりの努力をしているのだ。声に関しては何でこんな声がいいのか、いまいち分からない。日本人の観客の反応は相変わらずいまいち。ラビアの丘という曲がよかった。詞が共感できないと感じることができない気がする。橋の向こうでという曲、とても悲しい曲、でもよかった。こういう反戦歌みたいな曲によわいのかもしれない。子供の心を持ったまま成長するのは、多くの能力を必要とする。アダモの座右の銘。子供たちという曲、鳥肌が立った。よかった。涙が出そうになった。メンバー紹介から始まった曲、アップテンポで楽しいっていう感じが伝わってきてよかった。日本語で歌ってても自然だな。

 

 

 

 

【ワールドカップサッカー チャンピオン列伝】

 

930年にあんなに大きな競技場、スケールが違う。戦争直前というフランス大会での決勝戦、観客の熱狂がすごい。ブラジル大会、20万人入るスタジアム、でかい。サッカーは何が起こるか分からない。だから観客もあれだけ熱中し、プレイヤーがそれに応えようと頑張るのだろう。勝利を確信したブラジルが負けるなんて。そしてそのことでショック死したり自殺する観客までいたなんて。一瞬の隙を突いたパス、鋭い。1トラップからのボレーシュート、ボールさばき、体のしなやかさがすごい。サッカーボールなんて重いものなのにそれを軽々と蹴っている。

これは自分が高校生のときにサッカー部の人との間にも感じたことだけど、世界のトップの人だとそれよりもっと筋力が強くて軽々と扱えるのだろう。ヴォーカルでも同じかも。自国のチームが負けても相手チームの勝利、素晴らしいプレーを讃える。ゴールでの喜びの表現、本当にうれしいというのが伝わってくる。ゴールに対する執念、何としてでもボールに食らいつき前へ前へと進もうとする。ソクラテスという選手が医師の免許を持っているというのには驚いた。いろんな人がいるものだ。ペレ、クライフ、マラドーナのことをサッカーのアーティストといっていた。ただボールを蹴って枠に入れるだけのことなのに、人をこれだけ熱狂させ、そのプレーを芸術とまでいわしめる。誰にでもできることではない。簡単ではないことだからこそ人は心を動かされるのか。

 

 

 

 

【千日回峰】

 

修行のノウハウが細かく構築されていることがすごいと思う。経験と精神で磨き上げられたシステム。自分の中で神仏に近付くくらいのシステムつくりをすること、その方法のひらめきを得、つかむために、より研ぎ澄まされた環境に自分を置くこと、それが修行。一人の人間が修行を成し遂げ生まれ変わっていくために、沢山の人がサポートしていた。

ここにこの研究所を見る。十年に一人を誕生させるために、その他全てがある感じ。

近頃、印を結ぶ意味が肉相的に分かってきた。どこか一部が接触している方が内的感覚がはっきりする。手で印を結びながらお経を唱えているシーンがあったが、そうする時心身が合致する感覚があるだろうと思う。この鋭い感覚を積み重ねていくことを極めるためには、あいまいじゃいけない。歩くとは、ただ歩くことで他に意味なんてないと思うが、歩く間に色々な考えが生まれることが私にもある。だから困ると私は歩く。するといろんなひらめきが訪れる。歩行禅はその延長かナと思う。「立禅」というものもあるが、これも実に豊かな感覚の気づきだ。乗り越えてある時点に到達するための経験を自分にさせていくこと。持続していくための理由を持つこと。状況は違っても私も同じレベルで考えなければいけない部分だ。

 

 

 

 

【旅役者座長大会】

 

『声のこと、心のこと』最初に圧倒されたのが、本編とは関係ないながら、村田英雄のナレーションの声だ。聞いていて全身に伝わってきた。響き、メリハリがすごい。そして座長の声は、普段の声と舞台での声がまったく同じこと。常に意識することの大切さに気づく。

それにしても、ここで出て来た人々の「誇り」「自信」はどこから来るのだろうか。演技や踊りに難クセをつければ、恐らくいくらでもいえよう。しかしそんな言葉を笑い飛ばしてしまえる強さがある。日々の生活と芸が一体になっている強さ、自分自身に対する誇り。そして何よりも、とても楽しそうに観ている客の顔。その顔をつくり出せるという自信から来るのだと思う。今の自分には、あの表情にさせるだけの力も自信もない。とにかく表面上のこと(これも不必要だとは思わないが)よりも、底力、地力が大切なのだと通説に感じた。

 

 

 

 

【ジョバンニの銀河】

 

『愕然』文章を10年間推敲し続ける。もういいだろうと簡単に思わない訳だ。もっといいもの、もっといいもの。これがもしかしてピアソラのいっていた「芸術」というものなのだろうか。自己満足で終わらせないもの。でもあくまでも「自分」であり続ける。「自分」じゃないものをいじくりまわすんじゃなくて。表現したいものが価値観が美意識が生きる意味が喜びが社会に対する思いがすぐ身の回りに対する思いがありとあらゆることに対する思いが愛情がギッシリ詰まっている。でなきゃ10年間も持っていられない。こうしたいものがどうひっくり返したって出て来ないもの。入ってないものは出て来ない、か。だからただひたすら入れ続け出し続けることになるのか。ただ出すんじゃなくて自分にして出す。でもとにかく入れないことには始まらない。そしてその時点で持ってるものゼーンブ出し切るから入って来れるのか、新しいものが。こりゃ大変だ。もう、踊ってしまえー。永遠に続く訳でしょ。推敲は任せて眠るのんきなブタ、だれもやっちゃあくれないよ。