一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 14533字  847

レッスン感想  847

 

 

フレーズを1つの音(もの)として握る。バラつかせない。まず、発声練習で「ドレミレド」(ラーラーラーラーラー)をとてもゆっくりと、レガートで。このとき、特に自分が出しやすい音域のあたりだと、ついつい1音ごとに最大の息を使って1つの「ラー」を完璧な音にしようと夢中になってしまうあまり、結果としてはブツ切り状態になりやすい。

「ドレミレド」の「ミ」をピークとするフレーズをつくることを意識してみる。そのためには最初から最後までひとつの息を流しておく。音のつなぎ目がまず難しいことに気づく。

 

私にとって難しかったのはピークのあとの処理。最後の「ド」でこのフレーズをまとめなくてはいけない、と考えるとピークまではどんどん前へ押す感じだったのものを再び自分のもとへ戻すのだというイメージができた。気持ち的に手前に引く感じ。そのために、どうしても息を前に吐けない。止めてしまっている、いやそれよりも吸ってしまっているのではと思うほど。つまり、前へ出すことは少し覚えたものの、収め方がまだわかっていないのか。

 

(ミルバの。capira)capiraのraのところで「にぎっている」のは聞いてよくわかった。capiは軽く前についているだけ、と理解して自分でやってみると「カッピラー」となってしまう。でも、ミルバの。capiraじゃcaとpiの間にも息が流れている。耳では聞けた。じゃあやってみようとすると、caとpiの間に息を流すためにはからだを使わなくてはいけないことがわかる。

私の場合はまだ肩や胸のあたりに力が入ってしまうだけだが。イメージは「からだに我慢を強いる」という感じか。どこを使ったらいいのかなあ。それからこの曲では。capiraが2回続き、2度目のcapiraは大きくしているのだが、今の私にはできない。1回目のcapiraのraで握ってしまったら息もからだも使い果たしてしまってまったく間に合わない。

 

(村上進の。おまえを)ミルバのところで、「聞けたら、それに少しでも近づくように努力できる。つまり聞けないものはどんどん通り過ぎている」ということを身を持って知った。トレーナーにいわれないと、あんな聞き方はできなかったから。ところで、村上進の。おまえを、は解説をきいても結局、耳ではよくわからなかった。「え」のところで握っているなんて。もしフレーズ練習で村上進を10回くらい聞いてからだとしても、順番が回ってきたら「おま」で少しからだを使って息を流してみて「えを」で抜く、という表現をすると思う。客観的に聞くときっと的外れな作品になっているのだ。きょう学んだ、「握る(バラつかせない)=息を入れる」というのは、わたしにとって今後の勉強の中でのキーワードになりそうです。(歌う場合も聞く場合も)

 

福島先生のあの一音に入る集中度は何だろう。あたりまえなんだろうなあ。違いすぎる。鋭利な刃物のようであるし、無のようでもあるし。月とスッポン。

 

「考えて息を吐いていますか、息を吐く理由って何ですか」と聞かれてハッとした。確かにこのときは、何も考えていなかったように思う。ウォーミングアップとして息吐きをするが、そのときにすでに、前の日にフレーズをやってみたが息が浅くてできなかった。だからもっと深くしてみようとか、息を深くしたい理由をしっかりもっていないと、ただ吐いているだけになってしまう。こうやって練習した気になってしまうのが、一番恐い気がする。息の出てくる場所のイメージとして、①口先②のど③胸④胃⑤腰⑥お尻の下と下に下げようとしたが、いわれたとおり胃から下にしようとしても、あまり変わらない。胃なんてイメージもまったくできなかった。

 

イの口で、すいかの切り口のような口の形で奥歯を上げてのどをあける。イの口で、息と声を前に出してみる。感覚をつかんだら、。アや。エにスライド。平べったい声になるということは奥歯が上がっていないから。響きがキンキンとすごかった。部屋や環境により共鳴はものすごく異なる。舞台ではやはり、リハーサルをして後ろで聞いてもらったり、モニターの返りを聞いたりしてから、共鳴も自分なりにコントロールすべきなのか。それともポイントだけつかんで、逆に気構えないで臨むべきなのか。歌の方々はどうしているのですか。

 

個人レッスンで見てもらえるなんて、いわゆる。超ラッキーなのではないのかなあ。ひどい調子でもトレーニング不足でも、それはその人の現実なのだし、それを。やって来なかったとか。できなかったなんて、先生方はみーんなお見通しだと思うのです。私も本当に情けないほどトレーニングしてないし何の為にここに来てるんだー。と反省していますが、幸いにして、いろいろと試すことができる仕事を一つ持っていて、仕事で勉強し、しかも実験してて、クライアントには大変申し訳ないけれども、ここで習ってきたことを実験して体の感覚とか共鳴とか試行しています。

でも、未だに全然伸びないのは、長年やってきた発声のクセが抜けないのだと最近つくづくイヤになっているし、一方で。イヤ、気づいたことは収穫だと思ってみたり。恐らく、まったくのビギナーの人が素直にトレーニングを積んだ方が長年のクセをとり、改良している私より修得が早いと思うのです。とても羨ましいことです。

 

 一流のアーティストの表現や声にどっぷりつかれて、18才から、この環境にいることは、とてもおばさんにとっては羨ましいです。しかし、私のように間違ったことをやってきたりしたから、ここに来て聞く話が分かりやすくなっている側面もあります

プロになればとんでもない状況でもやらなくちゃならないことがあるし、そこで思いがけない実力が出せてしまうこともあり、又どん底になってしまう場合もあり、どちらも現時点での自分であり、それを認識した上で、足してみてトレーニングなり何なりしないといつか私のように、不勉強を後悔する日が来るのです。経験者が語る説得力ある話です。老婆心でしょうか。

 

自分の中でフィードバックする。基準を高く持つこと。のんべんだらりと長時間トレーニングしても向上しない。質を高めていくこと。絶対的によいものだけがよい。そこにむかって「できること」を積み上げていく。大きな声を出そうとするのではなく、より強く表現しようとする心の動きに応じて声が大きくなるべき。イメージがパワーを制御するのが吉。力で押し切るのは弊害が出やすい。

 

「展開に幅をもたせる」というのはどういうことなのか。一つのフレーズに対して、処理の仕方を限定せずに柔軟に対応せよということだろうか。

よく福島先生が白板の歌詞に何重にも曲線を描き足しながら、「こういう線もこういう線もこういう線も…」とおっしゃっている。フレーズの捉え方を幾重にも準備して、歌に臨めということなのだろうか。

 

感覚、集中して捕まえたものを変化させてゆかなくてはいけない。だんだん甘くなってしまう。提示し続ける力を持つ。途中、へたになってゆく(できないこと、ところでの戦い)ただそこで間違ってゆかない、前は動かせていたところ、出せていたものが出なくなった時。何か取りにいってないことを気づく。つかみ直す前にきちんと価値のあることをやっていても自分から離れてしまって流してしまう。価値のあることを取り出し続ける。自分に問う。スピード、テンポの速さではない。先にゆけるということ。スピード感。タイム感。たらたら集中せず、常に動いている中での一撃であったり、Keepや動きでないと観客に追いつかれ追い抜かれる。(先を詰める)Popsは声の輝きでもごまかせるが、入り込みのところからのつかみで持ってゆかないといけない。

「ミゼレレ」ミの前のところで決まってしまう。感覚が甘いとジャマをしてしまう。自由度を得るということ、言葉の動かし方、練り込み、動き方、バイブレーション。フレーズの方向性に向かって集中する。おもしろいことがおこりそうな時、頭で考えてとどめてしまわないこと。気、集約されていない。結果として大きくなってしまう、頭で考えるのでなく、全力でやろうとしたとき、大きくなってしまい前に出ていってしまうのはよい。声の乱れ、精神的乱れ。先に勝っておく。最初は形をもってゆかない。動きに対して敏感に。かざり、つくらない。一番歌ったら死んでしまうようなトレーニングを。体の原理としてとらえて出す。ちゃんとやってゆかないと踏み込めなくなる。体のことをつけてゆかずごまかしてゆくと、収集がつかなくなる、バラバラになる。声としてつかみ体から前に出す。あとで発展しないシャウトや響きはだめ。力だけで出さない。、感覚を鋭いところに投与してゆく。フレーズ、息、声、固まってきたらこわす。一つにして投げる。絶対的によいもの以外はよくないという厳しさでやる。ジャマしている、複雑にしているところをとる。問題をはっきりさせ自分の課題になるところをやり、できたら次へゆく。、

 

♪ミゼレレ~マケミステロ、エラミヤヴィータ~♪音符の高低で取らない。ひとつにして前に出す。クセ声、未発達の声をニュートラルなところに持っていく。そこから感覚、表現を付けるのに、足りない体をさらに鍛えていく。自分が今、どの段階にいるかを知る。

「歌を流す前に、はじめにつかみ、その集約されたところから流す」要するに、どんな音とで出そうとも、体は決してさぼらず、体と息が離れないところでの表現は、生きるということだ。どんな小さな音でも、ただの息や響きに聞こえるような歌でも、一流の歌手は絶対に体がゆるんでない。その上での表現なので、説得性があり、どんな音色でも聞く人に、まっすぐ飛び込んでくる。乱暴にいうと、始めにつかみその延長線上に乗れれば、どんなことでも有りなんだなと思う。

 

日本人の歌の中で、ワンフレーズ、先生が悪い例としてリピートされた箇所がありました。いわゆる余計なことなんだと思うが、あのようなフレーズつくりは、私の好むところですが、この歌手には合わなかった。余計なことを、そう思わせるか、思わせないかは本人のセンスによるもので、このあたりは自分の声、持ち味、曲によって選択していくセンスを養わねばならない。ニュートラルな声を身につけるため、言葉をきちんといい切る。そのために、大量の息が必要であり、それを支えるからだが不可欠である。

 

最近新たにクローズアップされているのが、のどの開きだ。体と息を使ってますといっても、その準備ができて、最終的に声を発するところの寸前で、以外にのどが開いていないことに気づいた。のどを開こうとすると、さらにもう一段階体に負担がかかる。恐ろしく深いところにニュートラルな声は潜んでいるんだ…と驚愕した。しかし、このニュートラルな声を身につけないと、本当に不自由だ。全てにおいて。何もできないし、余計なことしかできない。それが自分でわかるようになってきてるので、さらにたちが悪い。二者択一しかないのだ。先生がいわれるとおり、できるか、できないか、どちらかだ。中途半端じゃ、手に入れられない。できていないこと、それが自分の耳、体が判断を知ってしまった以上、できるまでやるしかないのだ。ここまでわかってしまい、進んで行っていると、歌を歌いたいという以外の執念がくっついてくる。

 

体育会系の精神と音楽という伝統芸術の不思議な融合を感じている。私達がレッスンで勉強しているスタンダードは、昔の歌手はその位のものができていてあたりまえの世界。歌手としての仕事をしていない歌好きの人々もかなりレベルが高かったであろうと想像する。

最近、懐かしのポップス〜といった番組をよく見かけるが、結局スタンダードになると出演する人は決まってしまっている。大御所ばかりで、若い世代の歌手はスタンダードをこなせる人がとても少ないんだなと改めて思う。

上のクラスの人でさえ、しかし先生はまだ外に出せないから出さないといわれる。ここまでくると、本当に歌、声というものがまるで伝統芸能を勉強するような厳しさがあり、私は一芸を勉強しているという意識にまでなってきている。私よりも一回り以上年が上の方々は、スタンダードが日常だったのかもしれないが、私達世代にとっては、魔物だ。この差はどうしてできてしまったのか。けれど、このまま人間の声がライトになってゆく時代じゃ、もったいない。かつてスタンダードを歌ってきた方々も同じ人間。人間の肉体で歌っていた。それを忘れてはならない。

 

どの世界でも埋もれてしまっている人はいる。けれど、日々何かを創り出し、常に精進して動ける時を、息を潜めて狙っている。身につけた人、コレだというものを形にしていくと、きっと出ていこうとするんだと思う。残したい、これを出したいというものができたとき、自然に動いてしまうもののような気がする。その力は、回りを引き込んでしまうものなんだ。そんな力を身につけたい。私は。流行る、流行らないという次元の問題ではなく、こういうことをやってる人もいると納得させてしまう世界をつくりたい。こうやって書いていくと、依存心がかなり高かった私が、ああ、少しは主体性が出てきたのかなあと思う。

 

声を手に入れていくということは、自分の可能性をも広げてくれるものなんだ。だがしかし、やればやるほど、課題も増えていく。正解も、終点もないからこそ、自分の判断と行く方向をしっかり見据えなければならない。そんな線が自分には通っていて、それは何色なのか。自分が一貫して伝えたいテーマの曲群(組曲)を、どんな編成(歌唱、声)で演れば、自分は嬉しいか、人は喜ぶか

 

「一瞬が締まらないといけない」との言葉を噛みしめた。人前で表現する時は、流す所と締める所を意識して、ここで一番を締めることに全神経を集中しなければならない。緊張しても、失敗しても大切なポイントだけは締めるように持っていかなければ、と思った。

 

ノリを出すということは本当に難しい。自分なりにいろいろやっているのだが何か違う、はいっていけない。のれんに腕押しという感じ。「ダッダッ…」とイメージしてやってみるのだが「だぁ・だぁ…」となってしまう。「ダッ」の一声からして、もう違う。「ダッ」の一声だけでも先生がいうとノリのようなものを感じる。

バスケットボールを「ダンッ」とバウンドさせたような感じ。発音の問題も少しはあるのだろうけど、口先でリズムをつくり出しているはずはないから、やはり体からか。今、書いたバスケットボールのイメージはいいかもしれない。ドリブルされてるバスケットボールになったつもりでリズムを刻むトレーニングをしてみよう。どうやればノリが出るのか考えることも必要だが、わからないうちは正確にリズムを刻むトレーニングも平行してやっていこうと思う。

 

「病は気からリズムも気から」ということばをどこかで見たような気がするが乗りを出すには自分がノッてなきゃダメなんだ。今日は自分のカラを破ろうとしたが、なんだか一声ごとに失速してしまう感じになってしまった。「歌おうとせず言葉でいうように」と先生がいっていた。フレーズレッスンでも聞く言葉だが、意味することは同じのはず。今の自分の。歌うという感覚は体からそれた間違ったものだ。歌う禁止令を自らに課しそのところの感覚を早く変えていくようにする。

 

感じを出す。曲は悲しげで少し鬱状態が入った感じの声の表情だった。そんな感じを少しでも出せただろうか。一番最後でフレーズを回す時に他の人はサビの部分4行を全部やっていたが、私は。感じの出てないものをだらだらやっても意味がないと思い、一行(ワンフレーズ)だけにしぼってやってみた。少しは出せたかな。と思っているが、自分の気持ちだけ盛り上がっていて声には全然それが現れないことも多々あるのであやしいところだ。もし本当の表現ができていればその場の空気が変わるはずだが少しも変わらなかったのでまるで表現になっちゃいなかったということになる。ただ集中することはできたと思う。でも集中とかじゃなく、精神的にトリップしなければ、人に訴えかけられるほどの表現は出てこないんじゃないかと思う。トリップしつつも、その後ろで冷静に自分を見つめているもう一人の自分がいればベストだと思うが。空手家は体内のアドレナリンをコントロールして普段以上の破壊力をいざというときに出すという話を聞いたことがあるが、歌い手にもそういうことが必要なんだろう。火事場のバカ力を意図的に取り出す。一瞬にしてハイテンションにもちこめる、そういう能力を養うといってもどう養っていいんだかわからないが、少なくともそういう意識はもっておいた方がいい。ただ、感情を高ぶらせるだけではしょうがない。

 

気づいた点は、先生がいっていたことだが音声での感情表現ができているかということ。言葉がついていると頭でその言葉の意味までとらえて聞いてしまう。たとえば、悲しいよと歌ったときにそこ言葉を。あーでも。うーでもいいけど意味不明の言葉に置き換えても音声として悲しく聞こえるかということ。

こういうことが本当にできるのなら外国語の曲を歌う意味もでてくる。いや、音声として表現されているのなら、日本語でも外国語でも関係ないのか。言葉によってのりが変わってくることも考えられるにしても、じゃあ歌詞なんていらないんじゃないのか。

でもこれは考える順序が違ってくる。歌やことばにする前に(全人類共通ともいえる)心の動き、感情がある。で、黙ってちゃ相手にわからないから何らかの手段でアウトプットする。この場合言葉だ。その言葉のイントネーションや語感や語呂の気持ちよさなどそのときの気分(感情)と合わさって歌らしきものに発展したのだろう。

 

小学生の頃なんかに。○○くーんあっそびっましょ(うきうき気分で)だとか、いーけないんだいけないんだ。せーんせいにいってやろー(にくらしげに)などそういったところから歌っていうのは生まれてきたんだろう。なにが重要かというと、とにかく感情。ここから全てが始まっているし歌おうがそれがスキャットであろうが言葉をいおうが、言葉にならない声であろうがとにかく抜け落ちてはいけないのが感情。(だからスキャットだけでも芸として通用すればいいんだろう。スキャットマンなんてのもいたし。でも歌詞がないと、とりとめがなさ過ぎて難しいし、そんな制約のあることにわざわざ挑む理由もない。エチュードのトレーニングにはいいかもしれないが)

 

ミルバ、ミーナ、パバロッティ、ボッチェリ。オクターブで同じ感覚。同じ中でとらえている。歌の中、ゆだねるプロセスがはしっているべき。シビアな世界である。できるか。体の対応もあるが。複雑にしてはいけない。ウソ。、ごまかし。音楽と自分。見えないところでの自分。自己流と音楽が生じるものは違う。方向性⇔終点への動き。自分の中に生じたものを殺さない。構成、形成。海外からとってきている。かけひき。リピートオンしてゆく。きちんとしたところをつかむことがあるかないか。自分を知らない。わかっていない。歌の世界の中での錯覚でうごく。一つにとらえたらピークへ。動きが出てくる。横にひいてゆくと。動きが殺される。一つで。展開。物語。伝える心。音を動かす。プロの仕事。どれだけ動かせるか。動きの中でのゆれ。共鳴。ゆるされる。自分の中で動きたがっているものを止めない。行くために動きやすくしてやる。高いからではない。と考える(あらかじめ)と出ない。一つのものとしてとらえる。のどにくる。集中力が足りない。トレーニング。

自分の声の中に何が生じているのか聞きながらやってゆく。声量で強く出す。スピードとは入り方と加速。中途半端にやっていると、どんどん不透明になる。何が原因かわからなくなる。人前に立つときは、フレーズや声を出すときはどんな場合でも集中しようと思っていても、初めてレッスンに出始めた頃の脈が耳の奥で鳴るような集中力が持てているかというと疑問。余分な緊張がとれるというのはいいことかもしれないが、集中までとってどうする。自分でトレーニングしているときはどうか。前よりは基準は厳しくなっているかもしれない。ただ、それを実際に出すときの自分に課しきれているか。、

 

影のようにぴったりと~動きをつくる。予期する。ヴォーカル。力ある場合。Backが刻み過ぎるとかえって離れていってしまう。(動かす中で)計算違いではない音の世界を。セリフではない。体が動いていないとき。ムリヤリもってゆくようなことになっているとき。ミルバを観に行くので再プレスされたピアソラとの共演(エル・タンゴ)が出たので買った。ピアソラとミルバ、音と魂の密度にめまいがする。圧倒的に濃い。私の2つの耳を通して、殺す気かと思う程のものが流れ込んでくる。精神がまともではいられなくなる。途中、何度もヘッドフォンをはずす。大音量で身を任せて聞いていたら本当に死んでしまう。一度Key Of Lifeを聞いていて、似たような精神状態になったことがあるが、音はストレートに魂に届く。この容量を私は受け止め切れない。情報量や魂のエネルギー、空間の密度が(加減なしでは)私を打ち倒す凶器にもなる。魂を発する。弾をこめて撃つように息と体の動きに変換し、確実な音声として鮮やかに繰り出す。何もなければ何も出てこないのだ、と逆に思わせる声。驚くほど技巧的でありながら、ミルバの中の動きとしては驚くほど飾られていない。八百屋のおばちゃんが叫ぶように、恋人への恨み言をつぶやく女のように、絶望の沈黙のように、声とブレスが立ち現れる。これだけ集中して心が、音の世界が彼女の中で動いている。聴衆の拍手の音。どういう風に受けとめられたのかがよくわかる。なまりだらけの仏語で歌われようと、音声で伝わり、圧倒されている。魂にさわられている。、

 

今まで授業などで先生方の話す言葉がまったく理解できなくて、なぜわからないのだろう。これは一体どういう意味なのだろうと、その言葉自体を頭の中でグルグルと考え込んでいた。おそらく、そうじゃない。動かずにその言葉だけずっと考えていてもしかたないのだと思った。

先生方は必ずしもその言葉を伝えたいわけではなく、(それが一番いいたいことなのではなく)もっと奥にある感覚を伝えたい、伝えようとすると出てくる言葉なんじゃないかと思った。(スキだから直接スキだと言葉にしていうわけじゃなく、直接いってしまうことよりも、もっとその気持ちが伝わってくることがある。それは、開いての動作であったり、ほんの何気ない一言であったり。)

出席すると、したらしたで混乱するし、出席してなくても、混乱が生まれてくるが、出席して混乱してる方が、ムダがないのだと感じる。

 

フレーズに集中し切ることには、とても体力と気力がいる。1秒を濃く感じること、自分の出しているものがウソくさく思えたりもしたが、おっしゃっていた「責任」はきちんととっていきたい。そうでないと「この人」という信用が生まれない。初心になるのは難しい。もしかすると、初心になるには、時間がかかるものなのかもしれない。いろいろな道を通ってきて、「ああ、今やっと初心になれたな」と思うのだろうか。相手がどう受け取っているのかを判断できるようにしなければならない。「スキを見せない」というのを、もっとわかるようになりたい。イメージ通りにきちんとコースをたどっていくことだろうか。自分自身にぎこちなさがある。スキだらけ。福島先生の言葉がふっと頭に現れて「あっそうか」と思う瞬間が楽しい。

 

そうか、ワンフレーズにこだわればいいんだなと分かったふりが一番危ない。こだわるって一体どうこだわるのか、いってごらんなさいといわれても、すぐには応えられない。ワンフレーズでもたった一言でもトレーニングの土台にのせることの厳しさを知った。今までの自分のトレーニング。ステージ実習の課題曲など一応ワンフレーズに分けて練習してみたのだが、何のトレーニングにもなっていないことを今日思い知らされた。声を体でとらえることも感情、情感を込めることもとても重要なことだけど、それだけでは音楽にならない。

音楽が流れているか、音楽になっているかなどとよく先生方はいうが、抽象的でよく分からない言葉だ。だけど人の歌っているのを聞いてその判断はできる。今日の20数名のフレーズを聞いて音楽になりつつある人は何名かいた。客観的には判断できるのだから自分をチェックするときはテープに録音して聞いてみればいい。本来ならどう歌いたいのかイメージをはっきりさせておいた方がいいのだろうけど、そういう場合があるにしても、録音したのを聞いてみて自分のセンスで試行錯誤してみればいい。この取り組み自体は根気さえあれば難しいことじゃない。まずはこのレベルのトレーニングをしなくては。そこからさまざまな発見や問題点が出てくるのだろう。

 

ゆっくりのテンポの曲は、間延びしやすい。間延びしないように、入れたり、だからといって音楽として必要な間をはしょったりせずに、その間も空白でなく音楽、息が流れているようにしなければいけないので、テンポの速い曲とは違った集中力が必要。録音するなどして自分で間のびしていると思ったら、何が原因なのか、体と心の状態はどうなっているか、などに気づき確実にフィードバックしていくこと。「動かす」ということが、ずーっとわからなかったのだが、頭で考えていたからなのだと気づいた。前回でLet's stay togetherを伝えたいと思ったとき、伝えるために、ここで踏み込みたい、と自然に体が働いたとき、「動かす」ためには、まず、「こう歌いたい」とか「これを伝えたい」というイメージが先にないとダメだと思った。

 

私の場合、音のイメージだけでは全身で入りにくくて、言葉の背景にある気持ちのところまでイメージを拡げると音にも入り込みやすくなるようだ。歌詞は分からないのに。Non………と切実な思いを呼びかけているんだな、とか、。la vita mia(私の生命)という言葉まで出して相手に思いを伝えているんだ、とかイメージするだけで、それまでとは、フレーズ全体の捉え方が違ってきた。そういうイメージからこの言葉にこんな思いを込めたい、というものは自分の中に出てくるので、それを伝えられるようにひとフレーズにこだわって何度も練習することをやっていきたい。もう一つ上のレベルで「動かす」というと、完全に握ってから、それを音の線として動かす、とか、離してまた入れることを自在に音の世界の中で楽しめる、というような段階もあるのだろうが、それをやるには、私はもっと確実に握れるようにならないと無理かもしれない。とにかく、ひとフレーズに何かを込めるために、言葉や伴奏からくるイメージも最大に膨らませて取り組んでいきたい。

 

母音だけで歌う歌手の曲をラジオで聞いたが、ものすごく訴えかけてくるものを感じた。歌詞がなくても心地よいリズムや流れで充分伝えられるのだ。先生が「ピアノをいつも強く弾いているわけではなく、微妙にタッチを使い分けて弾いているんですよ。」といって実際にピアノを弾いてみたときに、歌詞のないピアノで全部強く弾いたら、これは本当に何も伝わらないと感じました。もちろん強化トレーニングとしては、そういうものも有り、とは思うが、人前に聞かせるときは、トレーニングを聞かせるのではなく、もっと伝わる「歌」を聞かせねばならないと自覚した。

 

いろいろと先生に出会って学ぶことは多かったけれど、何よりもyu先生の在り方、音楽をしている人としての在り方に感化された。先生のアドバイスは、その人の最高なもの、声・表現が出せるようなアドバイスをしてくれた。その人の中の楽器を大事にして、その人なりのものを出せるように。私はとてもないものねだりをしていたような気がした。自分の持っているものを大切に育てるというよりかは「もっとよくなるんじゃないか…」というふうに、こういう欲も必要だけれども、自分のいい所を見失ってしまいそうになる。もっと自分の音(声)を愛してあげて、自分から出てきたメロディー、音楽を粗末に扱わないことゆみ子先生にレッスンを受けた2日間はとっても楽しかった。なんだかいつも自分を自分の音楽をおさえてしまっている気がした。他にもたくさん先生に感化されたことがあったような気がする。とにかく会えてよかった。

 

なじめない歌を材料(学習)としてどう使うか。まだ答えは見つからない。わたしなりに考えていたことは、1.キーワードは「めぐり来る」だ。2.「めぐり来る」のリズムは体中で指揮者のようにまわす能動的に3.「おさなき乙女一人…ばら色のほほに…初めてキスした日の…おののき」の…の所は、緊張感を伝える。写真を撮るように。4.実家の近くのりんご畑を思い出す。しかし庭に桜もりんごもあるとはどういうおうちなんだろう。きっと金持ちだ。と、ひがむクセを直したい。声にバラ付きがあり細い。「乙女一人…」の緊張感は出せたと思う。それは乙女のけがれなさを歌うに値する人間かどうか、私自身のずるさ、汚さ、だらしなさや男性関係の匂いが出てしまわないかどうか、本気で緊張して歌ったからだと思う

 

全身の神経を目覚めさせて、常に自分の状態を感じ取って動くこと。間違った方向に偏りそうになったら取り組むポイントを変えていくこと。子音と母音の関係を大切にしながら発声していくと、力がかなり効率よく使えてくる。空間の中からのポジションの取り方、上下、左右、前後の神経が開かれていれば自ずとポジションが決まる。力ではなく気を込める。

 

フレーズのある部分で深く入ろうとした場合、その前でしっかり息を吐ききっておくと、その反動でガッと入れる気がする。込められているもの、表現が大きいのと、声が大きいのはまったく別。今はやっぱり声が大きいだけになってしまう。言葉としてまず伝わるかということ。音程にとらわれると、伝わらなくなる。曲に合わせて、音を伸ばすとベタッとなってしまうのは、それだけ音を伸ばして伝えるのが難しいから。「輝く星に」が言葉としては伝わる。この部分だけやったら、ちょっと変わった気がした。でも、「輝く星に、心込めて、祈ればいつか、叶うでしょう」ここまでやると祈ればの「い」で意識がどこかへとんでいってしまう。曲を聞いて感じたイメージ(この曲の場合、夜の海の砂浜にたたずんでいる感じだったのだが)それをできるだけ出すこととして行かなくてはいけない。精一杯これでもかというぐらいやって、やっと音楽的になる。ちょっと伝わる。基本は基本として、あせらずじっくりとやって、こういう込める練習をもっと急いでやった方がいいかもしれない。

 

感情のまま声をはりあげてもそれは伝えることとは違う。曲を聞き感じたままに出すうまく出なくてもその繰り返しをしていくこと。それとからだでしっかりととらえること。見本の表面だけ口先で真似てうたってしまわないようにする。自分のからだの動きを知ることそれが見本と違ってもいいまずはトライしてみること。そこから自分のフレーズがうまれてくるはず。

 

Let it beの4回の繰り返しをどう構成するか。頭で考えて計算してるのがみえるものはまったく伝わらない。私の場合とらえたはいいけど、それをどうするんだといった状態でここに込めたいんだという一点がでてこない。試みたが変化なく一本調子。Let it beがみな同じように聞こえる。リズムは回転しているという言葉はずっと気になっていることなのだがよくわからないでいる。他の人のものをきいてSさんが「リズムは回転していてちょうどその上のところにこのあたりがきているようにきこえます。」というようなことをいっていっていた。

 

私の声の出し方とかフレーズの取り方というのは強と弱しかなく、それも直線だけ、そんなんじゃないとプロの歌を聞いて思うのだが自分でやってみるとよくわからない。だけどこのリズムというものを少しずつからだが感じ始めている気がするので様子をみてみようと思う。イメージと言葉、音色がどう関係しているのかは目にみえないからわかりにくいが大きな影響があるのだと思う。これは自分で何度もイメージして出してみるしかない。録音して聞いてみる、聞き手になっていては進歩なし。自分のものを出さなくては。いろんなことに敏感になっていなくてはだめで一時間が流れてしまわないように。真剣に向き合っていないと何も見えなくなってしまう。課題:体でとらえたものをどう動かしていくか、どうつなげていくか。息の量足らない、ぶつぎれ。

 

 

ステージに一回立ったら「何曲も歌うのは大変だ」とか「緊張しています」とかいう言葉は自分は禁じたい、と思う。好みの問題だけでなく、大事なことのような気がする。

kさんは全て聞き終わって、そのさわやかさ(あたたかさの裏付けを感じる)が残った。すごいことだと思う。何かを聞き手に残させる、ということは。3人は何を考え歌をうたったのだろう。何を伝えたい、と思って歌ったのだろう。きっと、あったんだと思う。

kさんのさわやかさ、温かさを伝えたいと思って歌ったのであれば、それは文字通りそのまま伝わった訳で。もしそうだとしたらすごい人だと思う。できない。伝えることが。それから全部ひっくるめて、自分にとっても。歌うとは何なのだろう、ということを聞きながら考えてしまった。そしてステージとは。これほどにひきつけ続けるステージは至難の技だ、ということだ。

「うまい人、上手な人なんかたくさんいます」この言葉が刻みついている。本当にそうだと思う。うまく歌おう、上手に歌おうを第一に立てる、と間違う、ということだろうか。

 

私はどこか、私はどれだけ、これが私だを第一に立てて、そこに立ったうえでその時点のかなりの音程、リズムを伝えたいものが阻害されないところでの二次的なものとして考える。そういう順序に自ずとなるのだろうか。いつも思う。歌は生き方みたいだと。うまく生きるんじゃない、形を整えて生きるんじゃない。そうでなくて、よく訳のわからない自分を今の力のままで生きればいいと。

では、なぜその自然な自分を必死こいて見つけ出し、一人でオー。見つけた。楽しい。とやらないで他者の前で歌うのか、ということだ。ぶつけたい。何を。自分を。刻みつけたい。なぜ。「伝える」「伝えたい」。なぜ伝えたいのか。いいたいことがある。いってどうする。いってどうしたい。ものによる。苦しんでいることに対してなら、もし自分も苦しんでいるなら自分も同じだよと伝えたい。

悲しみなら、その悲しみは背負うべきでないと思うなら解放してあげたい。歌うなかで、その時間の中で、共に生きたいのじゃないだろうか。共に生きるのに大事なことは、とりつくろわず、私が私を出して相手と向き合うことなのだろう。

 

聞き手はいつもこちらを聞いてそこにいてくれている。とりつくろって自分を出せないで結局向き合わないままそこに立ったまま終わるのは自分。トレーニングも結局は明日ない、と思う感度なのだろうか。

時間の多い少ないではなくて今持っている感覚総動員ギリギリということでいくと。そして普通人が集中できる時間はせいぜい15分。kさんの笑顔はいつ見ても気持ちいいものだ。やるべきことを積み重ねた顔なのだろうか。お手本だ。MCを味方にする。長すぎるよりもうチョットほしいなあ、と思わせるところで切る勇気。投げかける、反応が返ってこようがかえってこまいがそこの「間」を待てる忍耐。MCでこけて歌に入りにくくなったようにみえた人はいなかった。3人共私より数段偉い。