一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

投稿・おすすめアーカイブ 12792字  848

 

投稿   848

 

 

「第一声」その意味をかみしめたい。

 

伝わるということがわかっていないから伝わらない。伝わるということがわからないのに伝えようとするのはどういうことか。伝えるということはどういうことなのか。伝えたいというのはどういうことか。音楽が私に与えてくれたとき、それは伝わったからなのか。どう伝わったのか。、

 

「創造的であるためには、名人芸をみせるのがすべてじゃない。何を語るかの問題だ。どう語るかじゃない。」(パコ・デ・ルシア)

 

断定していることに自覚を持ち、断定があたかも事実であるかのようないい方を避け、他の選択もできるようにひらかれた姿勢をとること。このような姿勢はコミュニケーションと理解が育つ土壌を肥やすだけでなく私達ひとりひとりをもっと魅力的な人間とすることでしょう。(ジョン・コンドン)

自分の書いてること、いってることに疑問を持ったときに出会った文章。

 

劇団四季の『オペラ座の怪人』を観ましたが、印象としてはあまりにも豪華なセット・音楽に対して演じる人たちがあまりにも小さくまとまりすぎていて、大人の衣装を着た子供のようだと思ってしまいました。特に歌は、オリジナル・ロンドン版のCDではこんな風ではなかったと思う。すごく異質なものになっていました。特にヒロインは、かわいらしいつくり声で、きれいにメロディを歌っている感じがして、ことばが伝わってこない。感情の動きがことばとなり、メロディを超えてダイレクトに伝わってくるようなロンドン版と全然違う。もともと英語のものを日本語に訳して歌うのは大変なことなのだろう、とは思いつつ、歌に対しての考え方が全然違うのかもしれない、そういうきれいな歌い方がみんな好きだから、そういう歌い方になるのだろう、と思いました。

 

映像の中でおもしろいものとおもしろくないものの差が激しいのはなぜか。最初の方だけ見て後見るのやめるかもしれない。商品として困る。ステージとして考えるとゾッとする。聞き手が思う「よくこんな下手くそな、おもしろくない歌聞かせるナ」。やはりあるライン以上でないと、一番自分が聞いてもらいたい歌の時、もうそこにいなくなるだろう。でもやっぱり1曲から始まる。ここを大事にできなかったら始まらないし、ここに滞まっていても始まらない

 

話をする時、たとえば「好きよ」と相手に伝える時、繰り返しこの言葉をいうとしたら、やっぱり一つ一つの意味は違ってくるだろう。いつも想ってるの「好き」、夜も眠れないの「好き」、その手に触れたいの「好き」いてくれるだけで嬉しいの「好き」、こんなに心乱されて苦しいけど好きの「好き」、その相手と自分がつくり出す間のさまざまな場面でのさまざまな心に応じた数限りないその人にしかない、自分の中にしかない「好き」がある。それなのに歌になると一気に型にはまる。考えただけでもつまらない。でも、このつまらなさにメロディがつくと気が付かない。なぜだろう。疑わないからか。なぜ疑わないのだろう。なぜそこにとまるのだろう。自分の伝えたいものをまず見つめていないのだろうか。そこを見つめていればこれで伝わるだろうか、これで伝わっただろうか、が自ずと出てくるはずで。でも見つめて、伝わったかどうか見つめたら、それが自分のものかどうか確かめることにイコールになるだろうか。わからない。ああ、風にさらってもらいたくなる。重いから無理だ。せめて風よ吹け。わかることは疑う、ところまでだ。

 

早川義夫は決して明るくない。ただ、娯楽性。暗いのが好きな人もいる。本当はあたりまえの話。ダ・ヴィンチに傾倒していた時もある、と。いつも本を読んでいた、と。そして教養だけなじゃなく光るものがあって、か。どうやって手に入れたのだろう。元々あった。でも磨いた。「最期はいつかわからない」か。思っていても口にする人、口にしない人がいる。何を考え口にせず、何を考え口にする。なぜ彼はこの年齢で、若くしてこういうことを考えることができたのだろう。考えずに過ぎることがある。

生涯。生涯私が気づかずに終わることは星の数ほどある。それはわかっている。自分にひきつけて考える、それを維持できるか、でいないか。持ち続ける。続ける。どうやって。素敵だ、

 

 

私が言葉にしようとした時に、気持ちや体の抵抗を感じるのは、ただ単に力を入れるくせが取れていないのか。それとも真摯に言葉と向き合っていないからなのか。私のイマジネィションをみせるのではなく、聞き手のイマジネイションを喚起させる言葉、表現。それは同一のもの。ただ単に自己の押し付けだろうか。伝えたい思いはどこへ行ってしまうのだろう。今まで正解だと思っていた。私の思いの出発点がすでに違うのかもしれない。世界を創るのは私じゃなく、受け手側なのだろうか。オリジナルであれば自分が色濃く現れるだろう。となると、聞き手が共感を得られるものであるかどうかが重要なのだろうか。それは、言葉を超えて人間の普遍的なものなのかもしれない。理屈ではなく、はるか昔から私にいたるまで受け継がれてきた、本能に近い感覚だろうか。

 

 

 

 

おすすめ

 

 

グラミー賞授賞式

子供が弾いている。子供が会場にいるのか。

ケルシーグラスー 司会のコメディ俳優。楽しませることが考えることの一番。好感の持てる自慢の仕方。嫌味にならない。でも、クビになった話や売れないレコードも話もする。バランスだろか。「白いケツ」わざと使う、お高くとまらない。具体的に親近感を提示していく。

ウィル・スミス 笑わせてひきつけてから大事な話をしていく。人は笑うと心が柔らかくなるのだろう。受け入れやすい体制になるのか。ひとつのセンテンス、聞かせたい内容をいい終わったあと、こんなに、と思うほど「間」を持つ。待っている。だいたいはあの時間を耐えられなくなり、お客さんとの間の呼吸が合わなくなり、お客さんを置き去りにして一人で突っ走ることになる。失敗しても、コケてもコケたなりに待たないと、本当にリズムが崩れる。もの凄く苦しいところだが、なぜそんなに苦しいと感じるのか。予定通り、ここは笑ってとか考えていて、その通りいかせよういかせようという思いが強いのだろうか。気持ちはわかるけれどもこれは無理だ。ライブだから。その通りに行くこともあるだろうけども、むしろ偶然。その通りいかないと思って、その気持ちでいくことと、笑わなかったらどうするかを大ざっぱに考えておく位のつもりでいかないと、どんどん難しくなってしまう。

 

リーリャ・イヤウッド

クッションがない。ストレートすぎる、お客さんに受けない。出発点が本人が楽しもうとしていないのだろうか。エリカ・バドゥ:司会の人とかけ合いをする。「才能をくれた神様に感謝します。」か。

ポーラ・コール:不思議な歌声。一枚紗をかけた様な。エリカ・バトゥとギターの人:緊張を解く二人の歌、そして楽しませる。

 

ショーン・コルヴィン

やっぱり笑顔だ、見ているだけで嬉しくなる。舞台に飛び込んできた人がいる。ハプニング、そのハプニングも話題に入れてしまう。お客さんは喜んでいる。臨場感が刺激されるんだろうか。二人せっかくいるのに一人でどんどん紹介してしまう。かみ合わない二人。何のために二人いるのか。

 

ジャミロクワイ

すごい地道、時間かけて動き回っていた、という。10代と20代が同じ土俵で競う。日本での何にあたるだろ。

 

R・ケリー

「I  Bellen I Fly」心にしみ入る歌。イメージだ。悠然と飛んでいる。白い衣装の30名のゴスペルの人々がうごめいている。祈りをこめて歌っている。信じさせてくれるステージ。曲の歌の圧倒的な存在。なぜこの人に歌にだけそういうものを感じるのか。大小のコントラスト。楽しい二人。演出。「受賞は祈りが通じたというより神様からの贈り物」一気にここまでいってしまうか。ステージの余韻があるので説得力があって笑いがなくてもそれはそれで完結。

 

ティム・マクグロウ

フェイスヒルのデュエット:二人がいる意味、雰囲気がふんわりする、余韻の中にいる。話の中にやっぱり笑いがあると俄然生き生きする。

 

セリーヌ・ディオン

「最近うまくなりましたね」か。維持じゃない。うまくなる。維持じゃない。うまくなる。きのうよりうまくなる。ならなくてもなることを考える。そのことだけを考える。そのことだけをする。何てのびやかな声だろう。気高い声ってこういう声のことか。天に伸びていく声、でもこんなに力強く歌っているのか最優秀アルバム「Time Out of Mind」

 

ボブ・ディラン

「ディランを聴いて絶対つくりたいと思った」か。出会っている。受賞しない人も、(そっちの人の方がそうだ)この会場に参加する、この場に参加することを楽しむ度量がある、という。なぜか楽しめる。この場で何を大事だと思うから楽しめるのだろう。

 

 

松田ブルース

まず思うことは、とにかく「基本」なのだということ。

松田さんの生音はものすごく素直でクリア。キーンと通っている。

まずは1音をにごりなく吹けるまで訓練。(となりの音を吹かない)①「ドレド」「ドレミレド」「ドレミファミレド」と徐々に幅を広げていく②「ドレミファソラシド」をにごり、ズレなくなめらかに吹く③「ド~レ~ミ」と一音一音に波を入れる。(気を込める)

のどを開けて、口ではなく腹と全身で吹く。1、2、3穴は初心者にはなかなかいい音が出ない。強く吹き吸いしてもいけないし、弱くてもダメ。これが上を向いて吹くと出やすい。のどが開くのだ。のどもとをさまたげずに素直に腹で吹くとこの音が出るのだ。このへんは歌にも共通することかもしれない。

ぺンドやフェイクなど、音色を作ろうとするところでは口元の動きを利用するが、確実にいえることは絶えず息が流れていないと音が保てない、という点。ついつい興味本位で目先の変わった難しい技ばかりやりたくなってしまうが、まずは最初の一音。そして「ドレミ~」をしっかりやる。つまりこの「ドレミ~」こそ「ハイ」「ララ」「アオイ」なんだな。そして「基本」と同格に大切なのが「フィーリング」だ。リズムの中ではしゃぐ、おどる、泣く。そこにいろんないたずらをしかけていくのだ。

 

ジョニー・アダムス

ギターと声で会話している。軽い音のドラムだ。音、バランス全体の中であって入るだろうか。演奏始まると特に感じないのだが。知らず知らずのうちに体が動く。しかし聞いている人の体特に動いていない。イヤ動いている人もいるし、そうでない人もいる。これだけのリズムでこうか。このステージを何で楽しませる、大事な柱じゃないのか。この音楽にとっては。枠をとっぱらって考えてみる。何の問題もない。Jazzの歴史の中で新しすぎて踊っているのは歌い手だけ、お客さんは別に、を思い出す。これがそういう場面なのかどうか、わからない。お客さんのノリは客観的に見れないと駄目だ。自分のやりたいことに引きつけて。そして本当の批評する人がやはり必要だろう。繰り返しているうちに高揚してくる。人間の体はそういう風につくられているのか。とても楽しい。繰り返す楽しさ。

 

チャーリー・ブラウン

同じ名前の何かが誰かがいたような気がするが。星がキラめくようなピアノ。でも、そのフレーズの終わりは崩す。楽しい。いい顔。それとピアノのアンバランス。包む様な声。ギターの人が入っている、でも冷静に。いい、フレーズが。おもしろいピアノ、これ以上動けないくらい動き倒す。動き方はまったく違うがエラ・フィッツジェラルドはどうしてそんなに動くの。動かすの。の歌声を思い出す。歌は、このピアノほど特徴を感じない。

「ズンチャズンチャチャー」が基本、「チャラララーン」。このギター、シャボン玉ホリデーの最後に流れたのに似てるんだ。途中でワン・フレーズ調子を変える、戻る、また変える、ドキドキする、楽しいナ。ピアノ澄刺としている。弾く人が澄刺としているからか。澄刺とした声と感じながら歌声をきいたことあるか。ナイ。きっと聞き損ねている。よく音の動きとピアノ。よく動くギターには手堅いドラムが必要なのだろうか。確実にとっていってる。低音いい声優しくささやく様な感じだろうか。言葉ナシ。「フーム、ンーム」だけ。それで充分。ギターと会話している。楽しい人柄だろう。

 

ブルースハープフェスティバル

みたいなものを観にいった。松田幸一、妹尾隆一郎をはじめ日本を代表するプレイヤーが技をぶつけあった。生音が聞ける程近かったため、プレイヤーの呼吸や表情まで感じられた。その音は口や肺や横隔膜、というより魂(ソウル)と肉体(ボディ)からしぼり出されていた。何が何でも出したいという気持ちがその音を創っているんだ。魂(ソウル)と肉体(ボディ)でうたえ。

 

Albertアイラー(T.sax)

アメリカのFree Jazz全盛の時の人。ESPレーベルとかでおもしろいのいっぱい出てる。中でも「GHOST」は本当にいい曲。音を狂うほど多く羅列して音に溶ける、ムダな音を恐れずソウルを出してる。

 

野村蔓斎

彼の私生活を含め活動を追う番組だった。話をきいていると、「なるほどすごい人だ」と何度も思ったが、印象に残ったセリフは「その場のテンションと空気の流れを感じとることが必要だ。ストーリーやセリフの決まっている舞台でも、それでも毎回違うものになる」ということ。自分がその場の空気を変えるには、まず感じることを意識しなければならないのだと思った。

 

コッコの「クムイウタ」

Jhackケルアックの「路上」(本)

ロバートジョンソンのコンプリートレコーディングス

これは本当にすべてのギターもってうたう奴が聴くべきCD。「カモン イン My キッチン」は十字、それを聞く人は皆涙を流して聞いたそうだ。ぼくも22の頃、必死にギターをコピーした。

 

Misia(ミーシャ)

日本の女性ヴォーカリストが曲、サウンド、声、歌の抑揚なども含めて今一番好きです。R&Bやソウルミュージックに影響を多大に受けているとは思うのですが、歌の中での声のコントロールが抜群にうまいのには本当に感動しています。たとえば、フレーズの語尾をブルーノートを引っかけながら転がしていく所など

 

キャロル・キング「TAPESTRY」

この間の3人ライブで「I FEEL THE EARTH MOVE」を聞いた。以前きいたときはちっともいいと思えなかった(なぜか…)のだが今回あらためてきいてみてこのビート感、飾りのない声、思いがストレートに伝わってくる歌、何度きいてもあきない。最近はこういうことが多い。やはりなんでもあきらめずきくことだ。

 

ゾマーさん

ことジュースキント、挿し絵も文も。

 

W杯の日本戦(対ジャマイカ)

前の2戦は生中継で観ることができなかったので楽しみにしていたが、何だろうあの日本チームの気負いのなさは。前半は特にひどかった。中田なんか歯みせて笑っていたし(リラックスムードをつくりたかったのか。)技術云々よりもまず何が何でも点を取りにいってやるぞという意気込みが大事だと思った。若手のメンバーの頭の片隅に4年後もあるさという気持ちがほんの少しでもあったんじゃないだろうか。スタジオのゲスト解説者のラモス氏の憤りの気持ちに共感した。それと騒ぎに便乗してるだけのサポーターもどきのバカ者達。本当に腹が立つ。ドラえもんの独裁スイッチがあったらこういう奴等から消してやりたいと思う。必死の形相でゴールを守っていた川口選手と骨折しながらも1点決めた中山選手の表情が忘れられない。戦う男の顔つきだ。

 

エリック・ジョンソン

彼のギターは前ノリでリズム体をガンガン引っ張って弾いている。これが言葉でいい表せないほどカッコいい。これを聞いて、歌もこうあるべきじゃないかと思いました。今までの私は、リズムに合わせてジャストのタイミングで歌おうとしていることが多かった。しかし、本当のヴォーカリストなら、前ノリでぐんぐん引っ張るとか、後ノリのもっとも自分らしいノリに引き込むとか、ノリそのものを創り出すくらいのものが必要ではないかと思いました。

 

ポンタ

日本人で一番すごいと思うドラマー。スポーツは大好きだが、使う筋肉が違うのでセーブしているとのこと。プロ根性を感じる。B'zのベスト版。Alone「いつかいなくなるようなそんな気がしてたけど、時代がまわり、また君を見つけるだろう。Alone僕らはそれぞれの花を抱いて生まれ巡り逢うために

You're goneいつまでも歌い続ける声はどこまで届くだろう。今君に逢いたい。」

背景にその人の歴史を感じた。

 

キャロル・キング「TAPESTRY」

感想としては、全曲を通じて一見、こぢんまりとした印象を受けてしまったのだが、よく聞くと大きな間違いで、いくつかはすごく大きな内容を歌っているのに、語りかけるようでいてパワーに溢れたヴォーカルが全然負けていない気がした。いい意味で内省的だと思った。

いちばん感動した曲は「Way Over Yonder。」これから勉強してゆくうちに、こういったアルバムをもっと深いところで感じとれることを身につけたい。

 

カエターノ・ヴェローゾ&ガル・コスタ

ブラジルもののCD大量発売の中で、最も楽しみにしていた日本初CD化作品は、何といってもカエターノ・ヴェローゾ&ガル・コスタの「ドミンゴ」である。カエターノにとってもガルにとっても記念すべきレコード・デビューであったにもかかわらず、どこまでも内省的なボッサ・アルバムである。が、そこが何ともたまらない魅力でもある。当時25歳のカエターノの鬼才ぶり(特に「ケン・ミ・デーラ」。)も当時22歳のガルの美声ぶり(特に「マリア・ジョアナ」。)も、これはこれでまあ素敵ではあるものの、やはり、現在55歳のカエターノの鬼才ぶりと現在52歳のガルの美声ぶりの方が、ずっと完成されているし、そしてずっと若々しい、というのが興味深い。

 

TV「知ってるつもり。」

初代・高橋竹山さんの人生。よかった、かろうじて最初から観ることができた。観終える。やはりあの竹山さんの津軽三味線の壮絶さって、自らの人生の壮絶さから来るものであったのだなあと。壮絶の一語である。TVでは竹山さんのお弟子さんも登場していて、竹山先生には「着飾るな。」とか「いい格好をするな。」とかみたいな意味のこと(だったと思う)をよくいわれたという。「着飾るな。」「いい格好をするな。」これは歌の場合でも、変なものあるいは余分なものを入れてしまったり作ってしまったりするな。っていうことであると思う。

 

バーデン・パウエル&ヴィニシウス・ヂ・モライスの「アフロ・サンバ」

ものすごくいい。ヴィニシウスの文字通りアフロで原始的なヴォーカルとクアルテート・エン・シーの神秘的なコーラスを野性的に彩るバーデンのガット・ギター本当に。アフロ・サンバとはいい得て妙である。

 

エドゥ・ロボ&トム・ジョビン

「エドゥ&トム、トム&エドゥ」まるで親子のように相性のいい2人である。ゴンザギーシャ、カエターノ・ヴェローゾ、イヴァン・リンス、そしてミルトン・ナシメントの似顔絵ジャケットも微笑ましいクアルテート・エン・シーの「砂の岬=ゴンザギーシャ、カエターノ、イヴァン、ミルトンを歌う」ヴィム・ヴェンダース監督の映画のように形容すると正に「バイーア 天使の詩」といった趣である(ちなみに「砂の岬」はミルトンの名曲中の名曲である。)。

 

中田英寿選手

「中田語録」も読んだで。とかく物議を醸すことも異端児扱いされることも多い中田選手けれども、よう読んでみたら何やほんまは真っ当なものの考え方をするナイスガイやないか。って僕は思うてしもたで。「世界の中で自分がどの位置にいるのか、確かめたい」中田選手ぐらいサッカーができたらこれぐらい思うのは当然やし「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」なんてほんまに真っ当なものの考え方やと思うで。しかも「基本があれば、1を100にすることだってできる」って基本も大事にしてるしな。僕が一番感心したのは49ページに載ってた写真=あのジョホールバルでのイランとのアジア地区第3代表決定戦、延長後半13分のVゴールの後、歓喜の輪に加わらなかった中田選手は、何とイラン・ベンチ前でビエラ監督と握手を交してたんやな。これはなかなかできることやない礼儀正しい態度やで。「過去のプレーを褒められても喜べない。もしも、過去のプレーを褒められることに満足するようなことがあったら、俺はその日にサッカーやめますね」っていうプロ意識も見習わなあかんやろな。「ワールドカップに優勝する可能性だって、ゼロじゃない」その通りや。ほんま楽しみにしてるで、中田選手、そして日本代表‥‥)。

 

山本純ノ介

「モーツァルトに似た天才」という現代音楽家・山本純ノ介さんの話が興味深いのでかいつまんで書き留めてみたい「尾崎豊って天才系だと思う。自分流で突っ走って、力尽きて死んじゃった。音楽性は違うけど、クラシックならモーツァルトに近いんじゃないかな。天才は自分の『引き出し』しか頼らない。『白い服』と一度決めたら、たとえ『白い服は、もう流行らない』などと周囲に忠告されても、ずっと着続ける。それで勝負できるから、天才なんです。でも、天才もたいてい、いつかは行き詰まる。そこであらたな境地を切り開くためには、ふつうは自己変革が必要になる。その際、過去を見つめ直さざるを得なくなる。『未来』のヒントは『過去』の中にあるものなんです。ベートーベンやブラームスは常に過去に学んでいた。マーラーは晩年、中国の漢詩にまでヒントを求め、『大地の歌』を書き上げた。ポップスだって同じ。自分の作品をコピーし続けて、しかも売れ続けている『職人』のような人、いるでしょう。尾崎豊って、まず詞だと思うんです。でも最後には、言葉が見つからなくなっちゃったんじゃないのかな。自分流だけで通せる期間って、短いんです。それでも歌をつくり続けて稼がなくちゃいけない。そのうち何のために作っているのか、わからなくなる。音楽業界の被害者であると思いますね」天才=音楽業界の被害者になるぐらいであったら、職人=プロフェッショナルの方がいいな。

 

カルトーラ

ブラジル音楽史上にそびえ立つ巨人中の巨人カルトーラの2LPin1CD「愛するマンゲイラ~詩人の涙」晩年の巨人が歌う人生讃歌=正にサンバの真髄である。そして今や伝説となりつつあるブラジル音楽史上に輝き続ける歌姫エリス・レジーナの「或る女」アップ・テンポなナンバー1曲目「サンバに夢中」(バーデン・パウエルの作曲か。原曲聞きたいな)の飛ばしぶりも本当に最高であるけれども、基本的にはミディアム、スローなナンバーが多いアルバムである。ミディアム、スローなナンバーが多いからこそ、歌の上手さには本当に惚れ惚れしてしまう。

 

アントニオ・カルロス・ジョビン

名作「波」「潮流」を購入する。赤地にキリンのジャケットがよく分からない(なぜキリンなのか。)「波」と、青地にコルコヴァードのキリスト像のジャケットは分かりやすい「潮流」という2枚、ジョビン版「赤盤」「青盤」と呼んでおきたい。そしてジョアン・ジルベルトの「三月の水」も購入する。これは予想以上に素晴らしい。1~2分台のボサノヴァを美しいストリングスをバックに弾き語る「伝説」とは対照的に、5分台というのも少なくないボサノヴァをハイハット1本のみをバックに弾き語るジョアン。並外れた集中力と表現力とヴォーカル・コントロールを聞かせるジョアン。そうか、よく、ジョビンは歌が上手くないけれども、ジルベルトは歌が上手いといわれる訳が、やっと分かったぞ。ジョビンはただ単に小さくて浅い声だけれども、ジルベルトは小さいけれども深い(もっというと奥が深い)声なのであると(ただしジョビンは作曲家としては今世紀最高最大の作曲家の一人ではあるのですよ、念のためいっておきますが)、そしてジルベルトの小さい声は一切の不純物も贅肉も削ぎ落とした結果小さくなった本物の声なのであると、思ったのですがどうでしょう。 まあ少なくとも力任せに大声を張り上げてるだけの声よりかは本物だと、思うのですがどうでしょう。 まあそんなことはどうでもいいですか。とりあえずはジョビン作「三月の水」(あるいは「三月の雨」という邦題で呼ばれることも)も、カエターノ・ヴェローゾにインスパイアを与えたアリ・バホーゾ作「バイア(靴屋の坂道で)」も、そのカエターノ作「夜明けのベランダ」も、そしてジルベルト・ジル作の名曲「バイア生まれ」も、すべて最高なジョアン・ジルベルト(自身の作品も2曲。これも最高)の「三月の水」である。が、ジョビンの「波」「潮流」も、ジルベルトの「三月の水」も、余りの心地よさに、速攻で眠りに入ってしまいそうだなあ

 

ーセフ・シャヒーン監督

エジプト映画の巨匠 権力とテロを告発」中世アラブ世界を舞台に不寛容な現代を照射。歌と踊りは、権力の支配から人間を救い得るかという。「歌も踊りもできない哲学者なんてありえるかね。」「歌と踊りは、権力の支配と戦いうる」といい切るエジプト映画界の巨匠ユーセフ・シャヒーン監督。渋いな。

 

米良美一

いったい人間の声帯というのはどういう器官なんでしょうねと尋ねられて「案外、性器なのかもしれませんよ」などと答えるあたり、さすがは何億人にひとりという天性の声帯を持つカウンターテナーである。

 

「コメンタリー 21世紀を読む」

MTVネットワークス・インターナショナル社長ウィリアム・ローディが語る

「MTV 東京は世界の若者文化のリーダー格、マドンナ級のスターが生まれる可能性も」これは読まない訳にはいかない。かいつまんで書き留めておく

「ここ十年、世界はテレビの影響で革命的に小さくなりました。人々の娯楽の楽しみ方が似てきたのです。MTVはその最先端にいる。世界で一番多くの視聴者を持っていることと、特に若者を惹きつけていることが大きい。音楽そのものもMTVの影響で変化しました。ここ数年ポピュラー音楽が多様化している背景には、MTVが世界の音楽を流していることもあるでしょう。何らかの意味でクリエイティヴな映像があれば、音楽そのものの成功に貢献できる。更には(コンサートに行かなくても動く姿を観ることができるから)アーティストへのアクセスもしやすくなった。だから世界に共通するようなテーマがなくても、広い影響力を持つアーティストが出るようになった。つまり、世界のいろいろな国から、多種多様な音楽が世界へ流れ出すようになった。今や音楽は映画より多様です。昔はアメリカやイギリスの音楽が世界中で重要だったのですが、今は南米やヨーロッパの音楽が世界で流行したりする。次はインドから国際的なスターが出てもおかしくない。トーキョーからマドンナやマライア・キャリー級のスターが出ればいいな、と思っています。

世界には、若者文化の発信地になっている都市がいくつかあります。ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリがそうです。その中でも、トーキョーは今やトップの位置にある。音楽はそれほどでもないかもないかもしれないが、ファッションや文化では欧米への発信地になっている。

たとえば、消費財、ファッション、スシなど日本食。世界の若者はトーキョーの若者を文化リーダーだと見なしているのです。(世界へ発信するためにも)番組を現地化(ローカライズ)して現地の視聴者の嗜好に合わせる戦略を取っています。十年前までは『音楽は世界の共通の言語であり、世界に通用するもの』だったが、今では現地の嗜好と世界共通の嗜好をいかにバランスよく提示するかがテーマになった。

 

「ミュージック・マガジン」6月号

特集は。フュージョンはお嫌いですか。という訳で「いま再びフュージョニストを目指せ。」という。そして「いったいフュージョンの何がイヤだったんだろう。」という記事まであるように何年か前までフュージョンというジャンルにマイナス・イメージを抱く人が(僕も含めて)少なくなかったのだけれども、それが90年代前半アシッド・ジャズ、ジャズ・ファンクの流行でファンク系フュージョンが見直され(僕も見直しました)、そして90年代後半=つまり現在テクノ、ハウス、ドラムン・ベースの隆盛で今度はプログレ系フュージョン(プログレッシヴ・フュージョン)が見直されてきているという。実は僕もちょっと前(もっというと今年2月=記録にある通りです)にフュージョンばかり聞いていた時期があったので「あ、やっぱ。INだったんだ」と思ってしまったし、ものすごくフュージナルなライヴ・アルバムを出したインテンスというドラムン・ベース・ユニットのメンバーのダン・ダンカンの「僕たちはフュージョンのマッドな面に影響を受けている。チャールズ・ミンガス、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスはもちろん、ウェザー・リポートだって狂ってるよ。

デイヴィッド・サンボーンはまるっきりイージーリスニングにも聞こえるけど、ときどきブッ壊れるんだよね、だからサンボーンも好きだ。そういう意味でいちばん影響を受けたのはジャコ・パストリアスかな」という発言にも「分かる分かる」と思ってしまったのである(ミンガスやトレーンのことをフュージョンといってるのも面白いな)。

 

フュージョン

マイルス・デイヴィス「ジャック・ジョンソン」

ウェザー・リポート「Mr.ゴーン」

オーネット・コールマン「ヴァージン・ビューティー」

 

「人生、熱く生きなければ価値がない」

 

 

この本(A・L・ウィリアムズ著)を読み終えこそしなかったものの7~8割は読む(今夜突然、後輩が数年ぶりに訪ねに来てくれて、読書中断、明日にでも読み終えたい)。「危険」という詩が印象的だったので、自己を啓発する意味でも書き留めておこう。 笑えば、愚か者と思われるかもしれない。泣けば、めめしい奴だと思われるかもしれない。他人に手を差し伸べれば、厄介事に巻き込まれるかもしれない。喜怒哀楽を表わせば、自分の本性までさらしかねない。夢を語れば、他人にもみくちゃにされてはかなく消えかねない。愛することには、失恋の危険がつきまとう。生きることには、死の危険が、求めることには、失望の危険が、挑戦することには、失敗の危険がつきまとう。しかし危険は冒さなければならない。人生最大の悲惨は、何一つとして危険を冒さないことにある。危険を冒さぬ人は、何も成し得ず、何も手に入れられず、何もない人生を送る。 危険に身をさらさなければ、苦しみや憂いは避け得ても、学び、変革し、成長し、愛し、生きていくことができない。危険に対して及び腰でいる人は、自由を剥奪された奴隷のようなものだ。 危険を冒す者だけが、自由に人生を生きられる。それからも。危険(ていうかまあ少なくとも。冒険かな。)は冒し続けないとね。

 

 

ブラジル音楽

・ジョアン・ジルベルト「ジョアン・ジルベルトの伝説」

バーデン・パウエル&ヴィニシウス・ヂ・モライス「アフロ・サンバ」

アントニオ・カルロス・ジョビン&エリス・レジーナ「ばらに降る雨」

ジルベルト・ジル&ジョルジ・ベン「ブラジリアン ホット・デュオ」

カルトーラ「愛するマンゲイラ~詩人の涙」

ミルトン・ナシメント「ミルトンス」

セルジオ・メンデス「ブラジレイロ」

ネイ・ロペス「ズンビの300年」

ガル・コスタ「アクースチコ~アンプラグド・ライヴ」

カエターノ・ヴェローゾ「リーヴロ」