レッスン 853
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【構成】「バラはあこがれ」
【プロソディ】
「兵隊が戦争に行くとき」
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【構成】
○感覚の変化で構成する
歌では、音色を通じての構成をだす、ということが求められます。つまり、曲が一つの舞台ですから、何かを盛り上げ(おとしこみ)おわらせなくてはならないのです。ことばでも音でも声でもよいから、そこで一つのドラマのピークを生じさせるのです。
できたら、音の世界で伝えることをめざしたいものです。歌のところから音楽、あるいはことばから歌になるというのでもよいですが、感覚的に何か変える必要があります。それが難しいのです。
あいまいなひびきで歌わないことです。表現をキープした音をそのままとってみてください。
「ラ」でも「ア」でもよいでしょう。構成をわかりやすくするためになるだけことばはずしていきます。
「バラはあこがれ」
はっきりいった方がいいやすいです。これをみるときに「ダダダダダダダーン」と捉えないで、「ダーア アーン」とまとめていくことです。
頭の音と最後の音だけとっていくというようなことです。コードのなかであっていたら、よいでしょう。強拍のところを押さえます。1行だけやってみましょう。
あんまり細かくしない方がやりやすいと思います。これをほとんどの人は9つとっていっていますが、これを単純にします。「ラララララララララ」とやっていたら構成がみえにくくなります。「ラーアァー」だけでよいです。
奥行き、キープ感を保ち、音色を出して、音を動かしていきます。それで時間と空間を自分が動かすということです。「タタタタタタタタタ」これはのせているだけです。フレーズの基本は、それを一つにしていく。9つのものを3つか4つにして一つに感じる。
今は実際の長さは1/3か1/4にする。そうでないと4つ歌わなくてはいけなくなります。この長さのなかに音を入れ、寸法を短くするわけです。「タ-アァ ターアァ ターアァー」そうするとフレーズのなかでの構成がわかりやすくなります。
わかりにくい人はベース音をコードでひろえばよいと思います。2倍長くなったら何にもならないのです。自分で短くしてください。
たとえば今の1・2を加減してであと3・4の分まで余力を残すという必要はなく、2フレーズなら2フレーズで力尽きても完結させることです。濃縮された十全なる表現を優先させることです。これを薄めてバランスよく伸ばすことばかりやっているから、身につかないのです。
そのために、自分のなかで呼吸がまわっていないといけないし、音をどうおいていって次の音はこう入るのか、どこから入るのか。あるいはここではなくてこう入るのかというイメージ、感覚と体の動きが一致しないといけない。
配分するという考え方でない。音を動かしたところで自分の体と呼吸と一致させたら、そんなに何パターンもできないのです。その人のくせもでてしまいます。くせがあるのはよいが、それが作品の可能性や表現力を妨げないことです。他の人と全然違うやり方でできる場合もあります。
3フレーズ目までやっていきます。「ターアァ ターアァ ターアァ」自分の呼吸を「タタタタ タタタター」と一つのフレーズにします。
日本人の感覚というのは、歌詞が4倍になったら4倍の長さをとるわけです。むこうは一呼吸に声をおくという感覚ですから、これを4つ呼吸とらないとできないのではなくて、4つのものをここに圧縮するという感じです。
「ター」をここで大きくして、クレシェンドかけていく。これは気を吐いていくということです。そのあとに深いところに踏み込んで、同時に「アー」とひびきの方もひろがるわけです。そのポイントのところにくるのがリズムです。
「ターァ」と、ここまでのことがきちんとみえていたら音楽にのるわけです。このときにまだ呼吸がこないのに、いきなり強くダンと入ったり、すでにすぎているのに音をうつと流れがくずれるわけです。
4つあると頭で考えるとわかれてしまうのです。
うまい人のは、こういう中でつながってそれで一つに聞こえます。一つに聞こえるのですが、どこかにピークのポイントみたいなのがあります。それはことばで決まってくる場合もあるのですが、自分の体の方から考えることです。そこまで呼吸であわせておくということです。
同じようなのが、次のフレーズにも続きます。次は3フレーズ目に入るために、今の1・2・3・4が第1のところで、次は第2ステップのところで第3のところに入るためにちょっと変わります。
何回も同じようなことをやっていたら、こういきたいとか、こうおとしたいという方向性がでてくるのです。これは音楽ということに関わらず、もっと体を使いたくなってきたり、つかれたから休みたいとか日常の呼吸にもリズムがあるでしょう。
このテーマにいきたいために2番目の最後が変化するわけです。さきほどは4つあわせて1フレーズで捉えましたが、今度は5番目から8番目をあわせて2フレーズです。
このときに気をつけないといけないのは、ここは次の動きをだすためにあるわけです。だから次の動きを念頭におかないといけないのです。踏み込むところのポイントを、自分の呼吸と一致させていかないと聞き心地が悪くなります。5番目から8番目のところです。ポイントは7番目、8番目です。
ここのところで次につなげるから、そこで1回おわらせておかないと次の音に入れません。同じ音色と同じ感覚のところで9番目の音をだしても展開しないのです。転じなくなってしまい、また戻ってしまうからです。そうすると構成がうまく続かなくなってしまいます。
1番から4番は一つで捉える、次の5番から8番のところを一つで捉える。一つで捉えるというのは、次の展開も意図していながらきちんと終わらせて、次に入ってくるところへの方向をきちんとだしていかないといけないからです。
長いフレーズを短く、あるいはことばや、リズムで捉えていくというのはポップスの特徴の一つです。たとえば、音の流れだけをきちんとつないでいくというのであれば、ドレミファソを一つで捉えて、ラシドレミこれでもう一つあがってミレド、この3つの差がきちんとうちだしていけるかということです。
こういうふうに使えている人はほとんどいないですが、本当はそれを感じていかないとならないのです。これは舟歌的に揺れていますから、のりにくいのかもしれませんが、旋律はそんなに難しくないはずです。
実際の場でできなくても頭のなかでイメージをなるだけ単純にします。ポップスの場合は音を正しくとっていても歌にならないので、先にイメージをつくっておくことです。こういうのを勉強するときにはイメージをよみこんでいって、そのイメージにイメージがないところで音がでしゃばっているところを自分のなかで理解していくことでしょう。
あまり飾ることを考えるとどんどんと呼吸が小さくなってきます。生命感が乏しくなるのはよくありません。こういうふうにイメージをとばす歌い方は私は好きではないのですが、ただ同じ材料、あるいは同じ声、声域しかない場合に、それを大きくみせるということは歌い手として考えるべきことです。
相当な飾り、マイクとかリバーヴとかいろんな操作も入っていますが、それも覚えないといけないことです。ただ、最初から頼ってはいけないということです。
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○才能のレベル
イメージを自分のものと一致させてだすのは、難しいことです。その人のイメージは何人もみているとわかるのですが、しっかりとできたときというのは予想外の展開をするのです。そこに人をうならす才能が現れます。それがこちらで予想できてしまうと、それだけのものにしかすぎないわけです。だからといってそれを無理に自分の体の原理とか、音楽性からはみでたところでいくらつくってみても、これは聞くに耐えないものになってしまいます。だから、練習で実験しておくことです。
ギリギリのところで調整していくというよりは、自分がそのときに得たものを感じて、その価値を自分でつくっていくしかないです。こういうのは頭で考えてもできません。作曲者がこういうふうに歌うだろうと思ってつくっても、他の人が歌ってもこういうふうに歌えない、その歌い方が、その人にしかできない歌い方となると伝わるのです。
フレーズには、共通の正解はないのです。ただ、そこでことばが聞こえる、音が聞こえる、イメージが聞こえる、全部まとまって一つにだせる。それがそのヴォーカリストと一致しているといったら、誰も文句ははさめなくなるわけです。それだけの強い打ち出し方が必要です。
○オリジナルに戻るということ
国や言語が違っても、何か感じるものがあったら、それにさかのぼることです。どうして、そういうふうに曲が変化しているのか、どうしてそのリズムなのか、どうして間奏でこういうふうに使い分けているのか。それが正しいとは限らないのですが、それをよみこんでいくことです。
最初に楽譜があったり、音楽があって、それからヴォーカリストがついてきたわけではなく、誰かが口ずさんだり、作曲家がそれを頭のなかで考えてみて、それが脚色され、最終的に曲の形になったのです。最後の完成形から入ろうとするからややこしいわけです。
そういう表面で受け止めて、人のまねをするということは意味のないことです。そうではなく、最初のところに戻るわけです。原点に戻って、完成までのプロセスを変えたいのなら変えてもかまわない。ただ、いい加減に変えてばかりいたら練習になりません。変えるには理由がいります。そうすると何でこの音がこういうふうに動くのだとかというところへ行き着くはずです。
参考になるのは楽器の演奏の部分とか間奏の部分です。間奏のトランペットを吹いているように歌いたいというので、次に歌に入るわけです。そのトランペットが聞き取れればその歌がわかるわけです。
もう少し曲と対話して、このおわり方は何かいやだな、なら自分たちではのばしてみようとか、自分だったらもう少しぱっといい切ってみようとか、3度上を歌ってみようとか、それを全部やった上でもう一度曲に入っていく。全部をつくったらよいのではなく、そのなかに全部入ることが1回必要です。それからまたでてくる。でてきてやってみたときにどうすればよいかでしょう。
今は、この曲がつくられている背景と違うわけですから、新しいものが当然でてきてほしい。このとおり歌えた人がここにいても、私は、ただうまいとしか思わないでしょう。心は動かされない。
そこで取り出してみて、価値のあるような要素とやってしまうがために価値がなくなってしまう、元の歌までこわれてしまうこととを見分けて、それを自分で何回もだしては今のよい、今のだめと選んでいくことです。
それは難しいことですが、これができてはじめて、今、できることのなかでもっとできるようになるのです。それが音楽性とか自分とかがまだわかっていない部分で、逆にいうと声がなくとも、そういうことがわかっている人は案外歌えてしまうものです。
あるいはここにくる前というのは、そんなことを関係なしでやっていたから、思いっきりだしていたら何か通用するところがあったでしょう。それはそれで大切なものなのです。声のことをやるのは、声を重い武器とするなら、使えるまでは歌えないと逃げるのでなく、動かしていく。そして力が足らないところをはっきりとさせるのです。
正しくとれていないと、どうしても不快感というのは残ります。それを、逃げで解消してはいけません。ただ、今度は自分でやっていくというときにそれをどういう評価でみるかです。迷う時期はあってもよいのですが、まだできないという考えよりも、今の力でどこまで作品の完成度を問えるかということもやっていないといけません。声が楽になったら、あまり考えないで、単純に捉えるようになってくると思います。逆にいうとそこまでの間にいろんなことを勉強しておいた方がよいと思います。
きれいに美的に歌うことではなく、きちんとしたものというのは、構成力があって美しく聞こえるわけです。そのセンスはもっていないといけないと思います。もう少し声を楽しんで使う練習をやってみてください。ぼけっとしていたら何にも宿りません。構成とか曲の動きは、そこで何がでてきて何でこうやるのだろうというところから、自分がやってみたらどう感じるのだというようなところから自分のルールになってくるのです。それがオリジナリティです。人によって正解が違うからポップスはおもしろいわけです。しかし、それは自分のなかで煮つめていかないとよくないです。
何回も真剣に試みていたらそのうち何かわかってきます。半オクターブしかない、しかも4フレーズか8フレーズぐらいしかだせない楽器と思ってください。だからといって演奏できないのかといったら、それでも充分なのです。歌一曲でも一つひとつ切ってみたら1オクターブもとんでいるところはたくさんはないのです。
長さがたとえプロの呼吸の半分しかもたないとしても、ギリギリでもっていれば、切迫感とか意志で伝わるのです。そういう部分は、かえってギリギリでやった方が大きく聞かせられます。今やっているようなことを自分のなかで聞いてみるのです。聞いてみたところが音楽性でのカバーであっても、自分が、その歌で伝えたいことを意志をもってとってみる。
それがたたき台です。それを自分のなかでおき換えたときに、自分だったら何を表現したいのか、どう表現したいのか、同じ旋律を使ってみてどう動かしたいのかをまず徹底して考えることです。頭で考えてもよくないです。何回もやらないとしかたないです。やっている中でこれよりこっちがよいと変わっていくのです。今の自分ではということでよいです。そうしたら半オクターブのなかで、もっといろんなことができると思うのです。
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【詩と詞】
今回の目的は、夏の合宿の主題に結びつけることです。もともと合宿のテーマというのはダンスや振りつけも入れて構成したミュージカルからはじまり、体の解放、心の解放に入りました。
今の参加者のレベルで仕上げられることは、ことばまでです。しかし、ことばを少しでも音楽的に処理して何とか表現のレベルにもっていきたいものです。1オクターブに広がり、音が入ってくると歌となるのです。
ステージ実習とライブ実習が一番わかりやすいのですが、マイクをもつとそれだけパワーアップするわけですから、本来は表現がもっと強調されないといけないのですが、マイクに頼り表現がひっこんでしまう人ばかりです。マイクをもつとき、声の他に音の世界がひきたって出てくるため、トークだけやアカペラでやるときよりも、歌がどんどんひいていくのです。これは、とてもおかしなことです。
日本人の場合は、声を出してそれをことばにしたときにひいて、さらに歌い上げたときにどんどんひいていく。本来、その逆のもので、ことばより伝えたいから歌、さらによく表現したいからマイクを使うのでしょう。徹底して歌なら声のところで高めた表現をしておいて、ひいてくるべきです。それを音におき換えていったり、バンドの方にまかせたり、間奏にまかせていったりするのは、効果を高めるためで、ヴォーカリストがさぼるためではありません。
今日は、そのいくつかをやりましょう。まず、ベースとしては、モノトークのやり直しをします。本当はステージ実習やライブ実習よりも、このことが表現となるところまで徹底すべきです。
そのあとに、どんな歌がこようと、聞きたいと思い聞いてしまうほどの魅力的なモノトークをしましょう。
ヴォーカリストは、MCの力も問われます。日本では、詩人は書くだけで朗読をしませんが、元は日本でも、他の国でも、詩人は必ず朗読します。
日本でもいくつかの試みはありますが、声を出すことが商売ではないだけに、本人の自演というだけの表現レベルのようです。声の技術が詞をつくる技術ほど伴っていないわけです。
詞の内容のない分、ことばのない分、伝えるのに足らない分を声や音声ということで補って歌になるわけです。それのいきつくところが、本来、ヴォーカリストであるぐらいで考えておけばよいと思います。
◯「ミラボー橋」
この詩をBGMつけていきます。
まだ文字を読んでいる感じで終わっていますが、間違っても構いません。音声表現では間違うということがないと思ってください。自分でいいにくければどんどん短くしても、途中で切っても構いません。
渡されたばかりの、他人の詩ですから、まだ自分の寸法に合っていません。
朗読を聞くときも、文字と合っているかチェックするのは、意味がありません。耳で聞いて、耳のなかで世界を構築します。それに合わせて出す必要もないですが、統合させていきましょう。
音楽は何をつけてもよいです。音楽を変えるとだいぶ、雰囲気も変わってきます。どんどん、はしょってかまわないです。自分でいいやすいようにしましょう。いいにくいものが入ると、そこで流れが止まってしまうからです。歌と同じです。一つひとつのフレーズを一字一字捉えていくという感覚より、自分に与えられた10行をまとめて一つという感覚でやっていきます。
DJ(BGM)は、私がやります。使うのは、バイオリンやチェロなどのクラシックです。
◯「叫ぶ詩人の会」
この歌詞は、一つの例です。ドリアン助川さんがそれほど声の技術をもっているとは思いません。しかし自分の型にもっていき、そんなに渋い声でも鋭い声でもないのですが、一つの表現として創り上げています。
そこがオリジナリティでしょう。表現がでればよいのです。しかし、それをまねするのではなく、そこにもってきているテンションや出てきている表現の一番深いところで捉えて、自分におき換えるとよいと思います。
「ラブアンドピース」これは区切り目がはっきりしています。一緒に読めば群読というのですが、今日はバラバラで読んでいきます。最後までいくまでに、起承転結があって、盛り上がって終わるということです。
モノトークが10行ぐらいに刻まれるのならそれでも構いません。
「東京聖夜」「ラブアンドピース」から、どこか一ヶ所選んで30秒ぐらいで読み上げてください。
表現自体が完結しなくても構いません。
それから、余裕があれば文字を意識せず、後ろで流れている音楽と自分の口から出てくる声を少し意識してください。声が出やすくなるでしょう。
本当は、もっと、その人の表現に合わせて伴奏を適当に変えていくともっとよいでしょう。表現が決まっていない場合は、器楽曲を使い、既製のものから感覚をとっていきます。ことばを音楽的にしていくということは、必ずしも声自体が深くなって、それにリズムがついてくるだけではありません。
感覚的なものが大切です。
食事時に、こういう音楽が流れているような国と、そうでないところの人生における積み重ねの差は、思っているより大きなものです。
まずは、自分のなかに音楽を流さないといけないでしょう。そのうち、音楽が流れてくるはずです。
そこにことばをどう当てはめてみてもよいでしょう。ことばの中身は、よいに越したことはないのですが、自分で直せばよいのです。
詩人の詞というのは、それなりに完全ですから、なかなか書き直せないのですが、書き直して構わないです。それで一番、入りやすいように、表現しやすいように作品をいくつかつくっていきます。
歌も同じです。みんな好きな歌ばかり歌っているのですが、好きな歌と自分が完全にこなせる歌、歌って自分の価値の出せる歌というのは、違います。価値の出せる歌から入って巻き込んでいくしかないわけです。仕事と同じです。好きなことをやりたくても、きちんと価値のだせることをやらないとだめなのです。
ことばから歌の生まれるときというので詞を使いました。モノトークをそんな感じでアレンジしていってください。
今のヴォーカリストというのはトータルのサウンドのなかで一つの役割としてつくられています。
バンドのことも疎かにできませんが、力をつけていく時点において、しっかりと自分の声や歌を創り上げるべきです。
力のあるヴォーカリストというのは、バンドにのまれません。これは、一番前に立つ以上、あたりまえだと思うのです。ヴォーカリストの力でバンドの力は決まってしまいます。ヴォーカリストはエースです。音楽を従えて自分が表現するような経験を積んでください。
これは教材として使ってください。ことば、それからことばに対しての音ということで、歌までいくための前提にあるものを学んでください。
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【プロソディ】
プロソディとは、ことばのうち、意味よりも情動を司る部分で、たとえば、私たちは物忘れしてもリズムとか音感は覚えているものです。情動を司っているところは、歌のなかでの泣きとかサビとかそういったものです。音色といっている人もいます。
ここに息とか声のためとかが全部入っているのです。それにことばがつくだけです。
歌い手の場合はこっちから捉える耳をもっていないと、音程とかリズムよりもっと大切なものが八割ありますが、それを見落としてしまいます。音程やリズムは誰でも評価しやすいから、学びやすいし教えやすいのです。人に教わるときには、これが中心になりがちですが、本当の基本は、もっと根本にある声の出し方と音の感覚です。この部分は正解がないから難しいのです。そこを捉えていく練習だと思ってください。
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「兵隊が戦争に行くとき」
「えりにはなごりのはな くちにはいくさのうた たいこをとどろかせて せんちにむかうへいし」
「えりには」の「り」のところにいれると、「なごり」の「な」のところで強できめなくてはいけないから、「うた」の「た」でとめないといけないでしょう。
歌のことばには、音程もリズムも両方あるのです。歌の場合、ゆらぎのなかで捉えていかないといけない部分があり、微妙になるところです。テンポをふまえリズムも入れ、ことばもはっきりということです。その入っているところをベースとして、その一つの波という決まりの上に、歌をどうのせていくか、ことばをどうつけていくかということが問われます。そうしてはじめて、自由になっていくのです。
自由になっていても、よりうまく伝えるためのルールがあります。そのルールをはずれたらセンスがないということになり、心も伝わらないわけです。ですから、その共通の部分は捉えないといけません。捉えた上で、つき離さないと、カラオケと同じになってしまいます。ベースとなる波はシャンソンから学ぶとよいと思います。音の感覚を捉えて、そこに自分のリズム感と自分の音感をのせていくことです。それは一般的に音感やリズム感といわれているものとは違います。ことばでまとめて、声のなかにことばと音程とリズムを中につめこんでいくことです。ある意味ではことばから自由になり、音楽という制約のなかでやるということです。
最初は、他の人から理解しがたいことをやっていた人が歴史に残っています。それはベースの部分で革新したからです。大体、すぐわかるようなものはオリジナルではない。新しいものほど、人にわかさせるにはパワーと完成度が必要なのです。
歌の根本的なところに結びついているという意味で、シャンソンに多い反戦歌はメッセージソングのトレーニングによいと思います。
ベースになるのは、息が流れて体がついている息と声とのバランスでいうと、どこかでつかまえてどこかで放す、そのキレのよさというか、ふっき切りでもたついてはいけません。隙が多くなります。トレーニングでは鋭く、ある程度ダイナミックにだしていってもよいと思います。音量そのものよりも表現の形態で大きく聞かせるのです。徹底的に体と神経を使い切って表現しつくすという感覚でやることです。
キレがないとリズムにのっていけないし、ついていけなくなってしまいます。どこでリズムをとっているのかはっきりしなくなります。そこにコントロールできて、やわらかさやしぜんなひびきがついていればよいわけです。コントロールできていればよいのです。どこで入っていて、どこで放している感覚を体のなかでつかんでおいて、そこのところで、にぎるものはにぎり、放すときは放す、これが心地よさになります。
ことばからフレーズに入っていくトレーニングで感覚を磨いていってください。日本の音楽をやっていくためにこそ、世界の一流といわれる歌を広く深く聞いて、それのベースとなる要素をきちんと抽出していくことです。
シャンソンを使ってみるとよいことは、ことばだけでもっていける部分が大きいから、入りやすいことです。一つの詩を音声で処理するときに、ことばと曲との間にいろんな要素が入っていきます。ことばというのはアナウンサーやナレーターに代表される、母音や子音を明瞭に発音して、意味を正しく伝えるという部分です。
この下にいろんなものがもぐっています。歌でも表面上にでてくるのは、音程やリズムです。日本人は表面だけで聞くのですが、肝心なのは表面に表れない非言語的な部分です。まさに声そのものといってもよいでしょう。ことばそのもののもつリズム、音感的なもの、音色とか、それから息、声のひっかけ、声と息のミックス、ためみたいなもの、強調といったすべての要素が入っています。これがことばを超えて国を越えて伝わる歌のもっとも大切な要素です。ヴォーカリストの歌うのは楽譜でなく、こういうところなのです。
ここでやっているヴォイストレーニングは、こういった非言語的な部分、プロソディの方をやっているのです。ことばの方ではありません。日本のヴォーカリストの歌にはこういう要素はとても弱いのです。この点では、見本になりません。リズムや音感も表面的にとれているだけで、声のなかに含まれていません。
そこで、高い音というのは強くだすようにいっています。
たとえば、「えりにはなごりのはな」の「り」と「ご」「な」と強くだす。こういう感覚は日本語にはでてこないのです。日本語は基本的に高低感覚があって、それの繰り返しです。フランス語ですと「り」のところで体が入ってひびき、そこにフレーズができるわけです。日本語は切れていくのです。
1オクターブを体のなかにいれないといけないというのも、彼らの場合は言語のなかにでていますから、高いところをとろうとすれば強くなるし、強くしようと思ったら高いところはとれているわけです。そうするとしっかりとした音質ができます。日本人の場合は体がついていないから高くしたときに薄く浅くなってしまうのです。それは日本人の感覚ですから、日本の歌としては正解なのですが、歌のもつ共通の基盤を身につけていこうとしたら、完全に欠けている部分です。そこを捉えないと歌になっていかないから、どんどん離れていきます。
世界の一流のヴォーカリストはこれを全部ふまえています。音の波を声でどういうスタイルにするかを考えているということです。歌い手のスタイルはそれぞれ違うわけです。ただその波を支える感覚というのは、捉えているわけです。それがでてこないといけないのです。それには鋭い感覚が必要です。よい歌を聞いたときに自分にいれていくことです。
私たちのリズムや音感はあまりにもワンパターンすぎるのです。世界中にはいろんなリズムがあります。日本語の感覚からやっていくとどうしても棒読みになってしまいます。そうではなくて体のなかにいれて、フレーズの感覚を捉えていく。少なくとも一つの音で捉えていくことです。すると、どんどんシンプルになっていくのです。
歌というのはいろいろあって一概にはいえないのですが、歌わないといけないところというのは二割ぐらいで、あとの八割はことばのたたみかけてあったり、フレーズをとったり、ひびきでもたせるものです。「歌ったらだめだ」というのも、歌うことで何にもそこにでてこないまま、ことばと音程とリズムがあっているというのでは通じないのです。
それをよみ込んでいかないときけないからです。そこに自分で波をつくっていく。そうしたらフレーズが全部、同じになることはないのです。波にべたっとくっついていると、動きが全然みえていません。ヴォーカリストがだしていかないといけない。そういうことを一流のヴォーカリストは鋭い感性としっかりした体でやっているわけです。
「でかけるそのむねには」
あまり「はー」と助詞のところは伸ばさないことです。フランス語だから伸ばせるので、日本語ではあまりまねしない方がよいです。特にシャンソンというのはそういう傾向があります。最後の音をひっぱるみたいな無理なビブラート、悪名高い、ちりめんビブラートです。それを日本語でやるとだらしなくなります。要はことばでいえているかどうかです。緊迫感とか緊張感がないといけません。どんな歌であっても、メッセージをきちんと伝えるという部分では、ことばで処理しないといけません。そこに音をつけてリズムをいれないと、メロディに流されてしまいます。音程とかリズムは捉えてもよいのですが、自分で消化していかないといけません。
「でかけるそのむねには きぼうがいっぱいだけど かえりのはいのうには よごれたしたぎばかり」
同じ音のなかでリズムを展開させていきます。音程がトレーナーい人や、音域がない人でもことばがきちんとよめればできてきます。その動きのなかにどう自分の心をいれていくのかを考えてください。のっかってはよくないです。足をとられているみたいなもので、溺れているのと同じものです。足はつけていないといけない。
自分でリズムをつけて、どこの部分をふくらませるか考えないといけません。相手に伝えようと思ったら、声から表現していかないと表現にならないのです。一つの動かし方があって、それが今できる、できないということよりも、どうしていくのかという耳を先につくっていって欲しいのです。耳ができるところまでしか歌えるものではありません。
そして、それは歌っているうちにどんどん変わっていきます。どれが正解というのはないのです。一つのフレーズのどこでつかんで、どこではなすかという流れみたいなものは、はっきりとあります。高いところが中心にあって、つかむところ、ゆるめるところを出していきます。ゆるめるといっても表現そのものが緊迫感はもたせないといけません。
シャンソンというのはよく聞いてみるほど、こういったことを本当に巧妙にやっているのです。たとえば、ある歌をフレーズで線を描いたときにそこからどれだけずれていて、どれだけ離れているかという部分がその人間の感性であり、オリジナルの部分なのです。何回もよんでいけば、どことどこがどうくっつくか、それをいかに音程やリズムにのせつつも、はなして表現するかという感覚がでてくるのです。それが、センス、歌い手に問われる本当の才能です。
どんどんはずして自分をだすのもよいが、のせるということで、音楽の共通の部分をキープすることをすべてをはなしてはいけない。一方でふっきらないといけないからです。メリハリがないと相手はひきつけられないわけです。三分間、相手をひきつけるには、どこかで新しいリズムを刻んでいたり、ことばでストレートに表現し、脅しかけるみたいな部分もないといけないです。安心させるところもないといけない。表現というのはその二つで成り立っているわけです。
体の呼吸です。根本的に捉えて欲しいところはそういうところです。いろんな表現がありますから、それは自分で考えていくしかないのですが、もっとよみこまないとだめなのです。本当に伝えようとしたら相当のものを入れておかないと伝わらないです。そこで歌にしようとしたら、それ以上のエネルギーをださないといけません。声がよいとか悪いとかの問題ではなく、表現として薄まってしまわないことです。それを濃くしたまま一曲をださないといけないのです。
それを助けるために、フレーズのパターンやリズムパターンがあったりしているわけです。そこで感情的なものをとっていくのです。一番やりやすい方法は、伴奏のリズムをとっていくことでしょう。当然それは、体に入っていないといけません。こういう一つのフレーズで共通のパターンを聞いて、そこのノウハウを学ぶのがトレーニングの目的です。その違いは何なのかを知ることです。形ばかりまねしても仕方がないのです。ただ、なぜ音楽や歌という形が成り立っているのかということを根本のところで捉えると、そこは自分の体とか呼吸と一致するはずなのです。
表現に凝らない分は、強化してつけなくてはなりません。本当にやる気になれば耳はわかるところまでつけれます。しかし、心を傾けてやらないと十年たってもできない人はできないでしょう。こういう聞き方ができないからです。表現というのはとても大切なのです。自分に表現する対象とその気持ちがなければでてこないからです。自分が歌っているときに流されているときは、それがわからないとよくないです。どこまでが伝わって、どこまでが裏切っているか、そこのかけひきが三分間でできないとだめなのです。
なるだけ形からは、つくらないでください。その形が先にみえてもそれにあわせようと歌ったら、そこから広がりません。気持ちよく歌うのは簡単なのですが、必ずしもそれが聞いている人に本当には伝わりません。一つのインパクトから入り、そのインパクトとすすめていくことです。
一番まずいのは、横の線だけで歌をつなげていくことです。日本語がそういうものなのです。長さと音の高さだけをとっていく言語ですから、仕方がないです。音楽的になりにくいのです。それに対し、インパクトというのは強弱のリズムを生み出すのです。強くだしたらインパクトになります。だしつづけるとインパクトばかりになりますから、うまくつなげないといけません。
たてと横の線をつなぐ。このたての線が日本人の歌には、あまりないのです。たてをきちんとつくって、そのつなぎをぎりぎりのところでうまくやっていくと、すぐれた歌となります。もしわかりにくければ、呼吸で捉えてみればよいのです。呼吸は均等に吐くわけではありません。表現するときにたくさん使います。それから体に入ってきます。そこの部分を自分でどれだけ歌の表現のなかにだせるかです。
形はつけていかないといけないのですが、その形を予期して計算してあわせていこうとすると、底がみえてしまいます。自分でわからないと加工できませんから、そこは自分でみつけないといけません。今、自分でやったときに何が自分のものであって、何が共通のベースであるのかをつかんでいって欲しいのです。インパクトをきちんとだすこと、そしてひっぱっていくこと、一ヶ所でよいので自分のなかで捉えていくことです。
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【フレーズ】
いつもは、できていることをふまえてやるのですが、フレーズに関しては限定しないでこういうことをやってみたら、どのくらい反応できるかとかいう意味合いでやってみましょう。
多くの人に欠けているのが、歌の感覚、日常と異なる時間と空間創出の感覚です。息と声の上に歌を表現していくときの感覚です。何らかの形を与えられないと、気づくのも難しいようです。これは、音のなかで感じられるリズムとか音感から、本物の曲を聞き込んで待つしかないわけです。本当に正しいことは、一流のものからしか学べないし、一流の人からしか学べないものがあることをここでのヴォイストレーニングによって気づいていくことでしょう。
聞いては自分で歌ってみて、それを何とか一つのフレーズにまで何千回と練り直してわかるようなものだと思います。本当の意味では、少しずつしかわからないと思うのですが、半分くらいは、トレーニングで近づけるでしょう。できているのと、できていないという区別をして、その先のことをできるように気づくことで早くなるのではないかと思っています。
音程やリズムは、私のトレーニングのなかで充分すぎるくらい入れているつもりです。リズムも発声練習のなかで刻んでいます。「ハイ ラオ ララ」は、音感や音程、フレーズの練習ともなります。ピアノをつけてやっていることを声でやり、音楽的になるのをイメージを与えて待ちます。セリフだけではなく、声そのものやことばから意図的に起こせるはずです。
歌として、根本的に欠けているところは、声楽家がみて欠けている部分です。それから、たぶんポップスのジャンルの人からみたら欠けているところがあります。それは、楽器の奏者なら、感じるところです。ベースの人やドラムの人がみたら、音の使い方に文句をつけるところです。トランペットやサキソフォンの演奏の感覚にも近いと思うのです。トランペットのプロとアマチュアの演奏の違いを学ぶとよいでしょう。
声と結びつけた部わからリズム、音感を強化していくことです。そこにコーラス、ハーモニーの感覚が必要です。これも、やはり全体の歌がみえてから歌わないと、何を歌っているか伝わらないのです。単に一つのフレーズのことが3分間になっているというような歌になるのではなく、トータルに捉えてやっていくことです。
リズムは、基本的に1・2・3・4と4つで、これに裏が入ると考えてください。裏の感覚をいつも意識してください。4分の4が基本で、これを8分音符でとっていくところから始め、大きくは、2分の2で切るようにしてください。そこが、ポップスの基本です。そのまま少し体を動かしてみてください。外国人はジャンピングでステップをとる場合が多いです。日本人の場合はすり足ではありませんが、横に動いたり前に動かしたり、平面的でしかも引く感覚です。地べたを押して跳ね上がるという感覚が、欠けています。跳躍がリズムです。日本のリズムは農村の田植えの感覚で1・2・1・2だといわれますが、強くステップを踏んで上下に立体的にリズムを捉えてください。最初は、体を動かしているという感じですが、体が動いてくる感じにしてください。前に左、右、後ろの左、右、それで4つ、踏んで、だんだんとリズムの中心を足から手、そして腰に移してください。最初は単に4つ、カウントして、1・2・3・4でよいです。あまり複雑なことをすると、その動きにとらわれてしまいます。動くのではなく、リズムを感じることが大切です。
メトロノームを80にします。これが普通です。人間のテンポの基準になる、80というテンポ感をもちましょう。1秒に一つというのは60ですが、難しいので80にします。ビートをキープして、二つでとりましょう。いわゆるテンポといわれる等間隔の上に、1と3を、それにのせて刻むわけです。パルスというメトロノームの刻みを感じ、これに呼吸、息を合わせてください。マラソンと同じに考え、1・2で吐いて、3・4で吸うとか、1・3で吐き、2・4で吸うというようにします。本当は、4で吸って1で吐くところから始めるとよいのです。
8ビートです。横の動きより、縦の動きを意識して立体的に足が動くのではなく、きちんと腰から入れてください。一体感をもつというのは、声と同じです。
ロック、ポップスの代表的なリズムは、アフタービートが、2拍目、4拍目に入ります。強く緊張して変化します。結びつきとしては、1・2・3・4よりも、4・1・2・3で、4、1が大きく揺れます。ダウンビートが1、3拍目、アフタービートが2、4拍目です。
シャッフルです。一つに感じて、三つに分けて三連で感じましょう。
スローロック、スイング、ボサノヴァです。これらも裏を含めて8つでとります。これがサンバです。これがチャチャチャ。次がルンバ。2小節単位の複合リズムとなります。そして、マーチです。
3拍子でも1、3拍目が大きくダウン・ダウン・アップの三角形です。ダンスの感覚でやりましょう。ワルツの3拍子も日本人には難しいです。ヴォイストレーニングをリズムに結びつけて、「ハイ」ダウンビート、「ララ」をアップビートに入れてみます。
まず4拍「ハイ ハイ ハイ ハイ」を息だけで吐いてみてください。きつい人は4拍目を休んでもよいです。それを、高低感覚におき換えて、高いところの音ほど息を吐いていきます。低い音は息をキープしていくように考えてください。
音の感覚としては、ピアノのまんなかの「ドレミファソラシド」で、女性はこの高さと同じ声を出し、男性は実際は1オクターブ低い音を出しています。できるだけ低く意識して欲しいのは「ドミソドソミド」などと捉えると、一つひとつの音を離していく感覚になってしまうからです。私の場合は1オクターブ下の音を伴奏につけて、低く太く均質であるイメージを与えています。基本のトレーニングにおいては、音色自体に差をつくらないことです。それが正しくとれていてはじめて、音色を化かすことができます。実際と出している音は違っても、感覚は変えないことです。のどがあがってしまうのは、声が出ないためと感覚的にずれているからです。女性でも太い感覚でとるべきです。地声の歌を聞き込みましょう。音が狂う大きな原因は、発声の問題です。ブレスに関しては、高いところは、それだけ体を使うし息を吐くという感覚でくずしていけばよいのです。
しかし、ほとんどの人は高くなると、息が引っ込みます。まったく息が吐けなくなります。従って声も小さくなります。低いところでやるときにも、大きく体を使って大きく出せないし、高くなったときにも息が使えなくなってしまうわけです。それも体の使い方、技術という以前に、イメージの部分で制限されているところが多いのです。こういうトレーニングにおいては、高くなるほど解放されると考えてください。オペラ歌手やロック、ジャズ、ゴスペルの一流の人の音に対する声色(音色)を聞いてみてください。すべて統一した上で出しているので、カン高く細く聞こえるようにはなっていないはずです。
息を4拍吐いてみてください。そこから半分に刻み、8拍にします。足らない人は、4倍にしてトレーニングしましょう。数をカウントしてください。英語でもフランス語でもよいでしょう。
「1-2-3-4-5-6-7-8-」体と声と息とがどのぐらい消耗するかを踏まえ、個人差や体調の差もふまえてやってください。まったく何もない空間のなかで自分がいることでリズムを感じて、そこから音の感覚もとっていくとよいのです。何かきっかけが与えられたら、このリズムが次のリズムがくるところまで入っていると考えましょう。何もなくても、心臓のリズムとか呼吸のリズムがあります。それは不確かなものですが、テンポをキープということのベースになります。何か基本のリズムが入っていればリズムを宿した声にとれます。最初は、歩く速度からとるとよいと思います。疲れているときと元気なときとは違ってはきますが、まず、感覚としてリズムを流しておくことです。
呼吸でリズムをとると、トレーニングがよほどできていないと段々、短くなってきます。体がもとに戻らず、息があがっていくため、声も乱れてしまいます。「ハー」と吐いているうちに、短くなったり、声たてがうまくいかなくなるのです。こういうときは、テンポをおとし、休みを長くします。メトロノームを意識して、そこにリズムを刻むことで呼吸と声を整えていくのもよいのですが、最初は、自分の呼吸をベースにすることです。パルスが狂ったとしても、自分の体がもとに戻ってきちんとポジションがとれて、そこで次の声を出せるというような余裕を与えるのです。そのなかで習得することです。その構成の仕方を体のベースにすべきなのに、伴奏者がついてきたり、リズムが優先される曲になったときに、リズムに合わせようとして体のリズムがはずれるのです。
そこまでのことをきちんとやってください。ため息から声にするエチュードや、合唱にも、呼吸、リズム、音感が入っています。体が解放されて、はじめて高いところの発声までできるのです。裏声やファルセットも、きちんと体が解放されていないと、ひびきをとりにいこうとするので、のどを使うか調整できない声になりがちです。これは、ベースとなる地の声でやることです。ハミングでも、上にひびきをとりにいくまえに、体全体に共鳴させて、より使えるようにする部わからやりましょう。深いため息は、人間の感情が息に宿っています。声と息と体の接点になります。
リズムは必ず、いつもどこかで感じていてください。息を流すなかにリズムがあって、それが歌のなかでのビブラートになってきます。それを支えていないといけません。その支えがないと方向が出せないのです。息を吐いているときに意識してみましょう。ため息は吐くときに、あまり意識してしまうと吐けなくなってしまうので、合わせないでやってみましょう。単に息を「ハー」と吐いていくと、日本人のなかでは難しいのですが、そのなかにひっかかってくる声があるのです。全部、解放すると、声になっているところがのどに直接こないで、もう少し下で声になるのです。これが声のきっかけになるところです。低い音にしたら出てきます。寝ころんでやるのもよいでしょう。無理に声をつくろうとはしないことです。だんだんフレーズを大きくしていって、少しずつ声にしてください。けものとか人でないような声になってきます。それでよいのです。私たちのなかに眠る「原始の声」です。
ただ、深いため息だと思ってください。女性でどうしても声にならない人は、少し高めにとってもよいのです。迫力のあるため息の方がよいですが、情けないため息からでもよいです。力を抜くというのが前提だからです。抜いても、一本、通っている線を意識します。息のきっかけから声にしていきます。息に声をよみ込んでいくのが最初です。自分の呼吸と流れを一致させることです。
なるだけ長くしていってください。10秒、15秒、20秒と、できたら耳を声に一体化させてください。声に、いろんなノイズが生じています。そのノイズにのせていくと、声は出やすくなります。誰かが声を出しているところには、波ができ、場が形成されているので声が出やすいのです。コーラスものせやすいわけです。そのときの発声の状態を自分でフィードバックしながら、他の人の声に少しずつのせていきましょう。より長く、少しずつ音にしていきます。もっと大きくしてよいです。ただ、声をつくらないことです。「あーぁ」という、ため息の感覚から抜けないまま、これを大きくしていく。これを2、3倍にして、あまり意図的にやらず、声がうねり出し、それにのっかって増幅していく感覚をつかむことです。「声のウエーブ」です。
自分の体の状態、息の状態、声の状態をこの場でつかむことを経験してください。何がどういう気づきになるかわからないので、いろんなとをやってみようと思います。特別な試みで、いつもこんな「ミサ」みたいなことをやっていられないのですが、考えてみれば宗教と歌の世界というのは似た世界です。よい宗教家になれば、きっとよい歌が歌えると思います。
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「ユダヤの力」といった本を読んでいて、こんなことが書いてありました。
「信じることと学ぶことの間に大きな距離がある。」
「ただ神に祈るだけでは実生活に活かせない。」
「ユダヤ人の教育は徹底した反復と復唱にあると。」
「もっとも効果的な方法は自分なりの疑問点をもつことだと。」
「疑うことが知性の入口だと。知れば知るほど疑うようになる。」
「教育とは学校で習ったことをすべて忘れてしまったあとに、自分のなかに残るもののことである。」
「教育とは他人から独立して思考することができる人間をつくるための訓練である。その力を社会が直面する高度な問題の解決に役立たせなければならない。」
「幼年期と少年期に学ぶのは新しい紙に字を書くようなものだが、老いてから学ぶのはしわがよった古紙に書き込もうとするのに等しい。」
これは年齢のことではなく、精神的にという意味で、いつも白い紙でいることというのは大変なことです。
「100回復習するのと101回復習するのと、その間に天地の差がある。何回も復習するうちに新しい発見がある。」
他人のことだと思って聞かないでください。何のためにこの貴重な時間を割いているのかというと、これで巻頭言を書かなくても済むかと思うからです。
「恥ずかしがる人はよい生徒になれない。」
「人は貪欲に守らなければならない。」
「もし、目前に天使が現われたら、虎のすべての教えを瞬時に身につけさせようといっても私は断ろうと。人にとって学ぶプロセスこそ、結果よりも重要だからだ。」
「体を前後に大きくゆっくりと揺らしながら、音読をすることが大切であると。」
それこそ歌にそのまま使えそうなことです。
「自分にとってもっともよい先生は自分だと。これほどよく生徒を知っており、これほど深く生徒に同情し、これほど強く生徒を励ます先生はいない。」
「画家が休みなく絵筆を動かして絵を描くことはありえない。ときには筆をとめて一体何をキャンパスに表現したいのか、画材となる対象をじっとながめると。人生も一つの芸術であることに変わりないと。安息日は絵筆をもつ手をしばし休めて、全体のビジョンを捉えるようにする時間にあてなければいけない。」
「自分の将来を憂えないものは、将来自分の過去を憂えるようになる。」
「自分のしたいことを必要以上に我慢してはならない。どこか無理をして成し遂げたものは長続きしないし、いつか破綻する。
さて、このコーラス(クラビノーバのコーラス音のこと)には、悪いバイブレーションがついているのですが、リズムということで考えるとここに波があります。テンポは同じなのですが、音色が変わってキィも少し揺れているわけです。これを自分でもっていこうとすると、声も自由にならないし、音楽的にもきつく、表現というよりも我だけしかあらわにならないので、これに身を任せるようにしてやってみましょう。
このコーラスは機械でつくっている声で、あまりよくはないので、この声に合わせなくてよいです。自分で「アー」と流した声のなかに感じていくように、キィはオクターブ上げても下げてもよいです。これを自分の意識的にリズムから、1・2・3・4といって「アー アー アー アー」とやると、のどもひっかかってきます。
それは息の流れのなかでしぜんに感じてやることです。最初はうまくできなくても、きちんとひびいてきたら、息のなかの「ハー」のなかに本当の声とリズムがあるのです。それを、とり出しましょう。
振動して共鳴していくわけです。音のなかでどこかのところで大きくなったり小さくなっていく。歌の世界というのは、自分で人工的に組んでいきますから、音楽の世界を知らないと、その流れが壊れがちなのです。本当にうまい歌い手はそれを微妙なところで変え、しぜんな流れにゆだねたり、変化をとり込んでも変わらないものです。
共鳴ということで捉えてもよいでしょう。無理に共鳴させたり、ひびかせたりしてはいけないのです。まず、その流れから自分の息を出して、単に「アー」と伸ばしているなかで自分で感じていきましょう。それを歌のなかでも使えるようにする。リズムが入ってきたら、自分の体のなかに入っているリズムが共鳴して感じられるようになります。内と外とのリズムを合わせる。
トランペットで同じ音を単に「ビー」と吹く人はいないわけです。そこでどういうふうにやるかでしょう。ピアノでもギターでも同じです。半音までは変えないで、ちょっとした差を創造するのです。それが無限の組みあわせを得て、独自の表現になってきます。
いろんな音によって変わってきます。高くなるほど揺れが大きくなってきます。半音ぐらい狂うのがあたりまえになってきます。低くなるほど、揺れなくなってきます。歌が高音になったら盛り上がるのは、揺れの大きさで感情が増幅されるからです。
ビブラートというのは、1秒間に6.5回くらいのパルスなのです。これが乱れると、トレモロといわれたり揺れ声といわれて、歌にならなくなるわけです。ただ、高い音でとるほど、音の揺れ幅が違ってくるわけです。だから、上にいけば上にいくほど、盛り上がるわけです。それを、ひびきに任せないでやっていくと、上にいってもつっぱったままの硬い声になってきます。だから、どこかで解放しないといけないのです。それをより活かすためです。
シャウトしたり、ことばに練り入れていくような歌い方をする人は、必ずしもそうではありませんが、声楽の場合は絶対にそれが必要になってきます。高い音で頭部にひびくというのは、こういうことです。
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【Q&A】
トレーニングでのどをこわす人がいます。ゴスペルをやっていた人たちが高いところで大きく無理に体で使ってだそうとしていたとき、それなりに表現もしていかないといけないから、こわした人が多くみられました。私の場合は、ハスキーであっても引き受けています。それを活かすのも直すのも、トレーニングです。
医者に行かなくてはいけない場合はすぐに行かせますが、それ以外はじっくりと時間をかけていくことをやっています。
最近の問題は、いくつかの新しい条件があるように思います。その一つは先生がていねいに教えるようになったために受け手が考えなくなった、そのために、間違いが起きてくるのでしょう。教えていることをそのまま自分にあてはめようとしても、あてはまらないのです。自分の感覚を大切にして欲しいのです。人それぞれのやり方も違います。ここのヴォイストレーニングのやり方があるわけではありません。叩き台です。自分のやり方をみつけ、つくるための一つの型としてあるだけです。
トレーニングさえ発声に関しても歌に関しても、それなりにできた体でないとできないということなのです。そこまでは、人それぞれ、やり方も違ってよいのです。
たとえば、腹式呼吸を意識的に使って実際に歌を歌うとか、声をだすことはあり得ないでしょう。それから高い音域で息がいるか、いらないかということでも、歌からいうとまったく考えられないでしょう。そこでシャウトしたり、がんばるということで音色をだしたときには体を使っていることもあります。それは、表現に体を練り込んで伝えていくためです。結果からいうと高い音に届かせるだけなら体を息も全然いらない。ただ、普通の人では確実には届かないです。
スポーツを考えるとよくわかると思います。誰が競技中に腹式を使ったり、体の部分的な筋力を使おうとして競技をやっているでしょうか。人間の体が一番うまく働くのは、一番リラックスできた状態です。どんなプレーも力でやっていたら失敗します。ましてや力をいれようなんて思ったらうまくいくわけがありません。全部の力が抜けていて、やっていないようにやれたときが結局、唯一できたときになるのです。そのために、日頃のトレーニングがあるのです。つまり、トレーニングのようにならないように、トレーニングするのです。
それで本当は、体のこと、息のこと、それから声のことと三つに分けないといけません。まして声のことと歌のことは違ってきます。声は基本プレー、歌はゲームです。(これが、トップレベルでは同じになります。しゃべることと歌うことというのは、相当、違います。しかし、私にとってはほぼ同じです。)体の調整とひびきのバランスを考えているだけで発声という形になるまでが大変です。それをどこの時点から、やっていくかということが難しいです。いつ基本プレーをゲームに応用するかということです。
このヴォイストレーニングでの、のどの問題というのは、ほとんど今までに息を強く吐いていない体からの息で声にしようとするところから、生じています。たとえば「ハー」と今まで吐いていない息をだそうとしたら、その息自体をコントロールし、確実に深いところで声にして、しかも力を抜いていなくてはなりません。はっきりいうと普通の人にはできないのです。
息を力一杯、声帯にあてると、のどのなかがカラカラになってしまうし、続けてやっていたらこわすのはあたりまえなのです。このヴォイストレーニングでは何で壊さないかというと、体ができるまで役者さんや劇団の人と同じように高い音を使わせないからです。高い音に届かせるよりも、深い声を通じて、正しく声にする感覚をマスターすることを優先しているからです。
たとえば、人によってはひびきから入ったり、音域でやっていく方がよい場合もあります。
しかし、基本となる体や声があります。体ばかりトレーニングして息を深くして、それを声にしてから音声イメージをつくって、それからまた歌を歌おうとすると、時間がかかるものです。
最初の半年、一年というのは、今まで体をつくったことがない人が体づくりをやれば、他のトレーニングと同じでそれだけあとでいろんなことがのってくる用意が整いやすいのです。逆に歌からはじめていくと、体はつかなくなってきます。何年も歌っている多くの日本のヴォーカリストをみればわかるでしょう。
声の支えとなる息を安定させていったり、声を体に定着させていくことが必要なのですが、歌のときに発声を考える人がいないのと同じように、発声のときに体を考えるということは本来はタブーなのです。それを混乱してやるから、のどに負担になるわけです。
だから、もし練習したあとに声がよくならなかったら、よい練習だとはいえないわけです。ヴォイストレーニングは声を出すのではなく、出せる状態を整えるトレーニングなのです。だから練習が正しくできるまでに二年もかかるというのです。
ときには声をださない方がよいかも知れない。次の日に影響が残るということであれば、なおさら悪いことです。ライブハウスにいったり、カラオケでのどをこわしているのとかわらないのは、正しいヴォイストレーニングとはいえません。一所懸命やればやるほど、それでのどを壊します。体を合理的に使っていく方向でないからです。ですから、トレーニングできるためのフォームづくりが大切なのです。
多くの人は、とても急ぐわけです。たとえば、息を深く吐くことと同時に、高い音域をとっていこうとします。そんなことが、もし仮に半年や一年でできるのなら、誰でもできていくわけです。確かに上達の早い人も遅い人もいるけれど、自分でチェックをして、実際にだした声で常にフィードバックしていかないといけないのです。
一年目に関しては、がんばるとしたら、今まで体力がなかった人は体力をつけたり、柔軟運動を徹底することです。今まで息を吐かないで声も出さずに、浅い息、少しの声で生活していた人は、息を吐き、声を出しまくる生活をするぐらいのつもりで変えていくことです。ただ、トレーニングが加わると、負担が大きすぎるでしょう。☆
力だけではのどを痛めます。そこに足らないのは音楽的なところの感覚、つまり音声のイメージです。息を吐いている、声でとるということが打楽器みたいなイメージになってくると、壊します。
そのときに、音声というのは最終的にどうなるのかを、一流の歌を聞き込むことで体と心に読み込んでいくことです。それが歌の世界とかひびきの世界なのです。
間違ってはいけないのは、大きく声を出すことです。ひびかせることが歌だと思って、発声でむやみやたらにカンカン・キンキンひびかせようとすることです。そういう人たちに対して、私はひびかせるのではない、そんな統一できないひびきなどあっても使いようがない。ですから、ベースのところで、ことばとして使えるところから、もう一度、やり直しなさいといってきたのです。
これまで、鐘のどまん中をつきなさいといっていたのです。☆
でも、最近は鐘がひびくこと自体がイメージできないようなのです。自分のなかで感じられないから、単に、叩けといったら、結局その先をみないで、叩いていく。叩いていったら壊れてしまうのです。そうならないために、音声イメージを獲得して欲しいのです。
ポップスの音声イメージは教えられません。共鳴での音声トレーニングは、普通の人の体のなかで最大限、ひびかせるためにはどうすればよいかということに終始します。歌の方には近づいているように思うわけです。そのまえにベースをどこにとるかというのはとても難しいのです。
歌にするために、すぐに共鳴をとるのなら、今ある声を前提にするしかありません。
私がやっているところというのは、そこから、かなりさかのぼっています。今の声を根本的によりよく使えるようにしないと結局、本当に歌うのは難しいという立場から、声づくりを主としています。
スポーツでいうと腕立てやランニングから柔軟、そして基本トレーニングの分野です。
そこのものは、すぐにそのままでは応用できないのです。感覚が必要です。できるところまでやるしかないのです。
高いところ、でにくいところになったときに自分でそれがトレーニングになっているのか、トレーニングの邪魔をしているのかという判断は大切です。それは、でた声でわかります。
声は息をたくさん使うというよりは、基本的には抵抗をつかみ、同時にはなすように考えていくことです。☆
それが表現です。息が鋭く流れる。はやく流れる。その速度に対して、その力に対して、声帯が強くしまる。強くしまっても、余計な力が入っていないから声として伸びるのです。
それを最初はギリギリのところでやるわけです。
スポーツと同じです。体からは思いっきり息を吐いても、この息が完全にコントロールできていないと、どう声帯を閉じても、うまく声にはならないのです。
笛と同じです。力一杯、吹いたら壊れてしまいます。壊れないように力を加減して、吹くのが技術です。この加減することに力と集中力が、単に力一杯、吹くことの数倍いるのです。
力は正しく使えてこそ、効果があるのです。一人で力をつけようという人が独りがちになるのは、正しく使うことを気づかないからです。
きちんとしぼり込んで、きちんと流すのですが、その通り道を一定にする。体という楽器の方でも余計な力がかからないようにそれを受けとめないといけない。それがあるから、声帯が緊張してもうまく使える高い音になるわけです。特に共鳴とかファルセットに入っていくと、そこで抜いていきます。
ただ、体でコントロールするということでは低音域、高音域ということで変わらないのです。むしろ色あいの出し方、バランスのとり方が問われます。高いところでどこにひびきの中心を捉えるかみたいなことが、音声イメージと相まって、センスやオリジナリティになってきます。
日本人の場合は、どうしても高い音というのはとるだけで精一杯なので、声から規制されてきます。そこで高音はこう発声しないといけないと決めつけたくなるのです。
海外のヴォーカリストは、同じ音を一つの歌のなかで多様に使いわけています。同じ音をだすのに曲によって音色やバランスを自由に変えているのが普通です。
完全に体でつかんで大きな音でだしても、息がつながっています。のどの方で直接、体にもっていくと、上の音域ではうまくいかなくなるのです。それをどこまでにぎっているかというのが、その人の体の強さです。
ポジショニングというのもそれによります。それをやろうとしたらやれるという状態でシャウトすることでトレーニングしている人もいれば、歌の方でもっと上の音にいってしまう人もいるわけです。
特に体でもっていく人は、ポピュラーに多いようです。
声楽の場合は共鳴が不可欠ですから、確実に共鳴させていきます。
多くの人は息を吐いて、それをそのまま強い声にしています。それはバランスを考えた方がよいと思います。