一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン録2 15482字  853

レッスン 

 

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【アモーレスクーザミ】

【日本の歌フレーズ】「青葉城恋唄」「氷の世界」「時代」ほか

 [フレーズ]

 [Q &A]

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【アモーレスクーザミ】

 

 最近、モティベートのなさが目立ちます。技術的にできないことは、ここはそのために学びにくるところなので、いうことはありません。しかし、ここでやっていることのレベルの高いうんぬんではなく、そのことに対するテンションの高さ、心構えの問題があります。レッスンも、一回一回が勝負の世界です。そこで、常に瞬間をつくり出せるかどうかで決まるのです。一回でできなかったら、もう一度というチャンスはないと思ってください。一回目でできなければ、終わりです。そのくり返しでつかんでいくのです。何回目かにできればよいのではありません。

 

 その瞬間を出せる人というのは、才能があるからということではありません。どのくらい、その瞬間に真剣に集中しているか、一音も聞きもらさないという覚悟で一回目から聞いてきているかなのです。そういう態度で聞いていなければ、できないのはあたりまえです。この曲を歌うために覚えるときは、100回でも1000回でも聞いて覚えればよいでしょう。ただ、その回数、聞くことがあたりまえだと思ったら大間違いです。一回で聞けることが、ヴォーカリストとしての最低条件だと思ってください。そういう姿勢でとり組まない限り、いつまでたってもできるようにはなりません。自分にいいわけをつくらないことです。

 

 大きな勝負をするために、そこに必要とされるだけの緊張感とモティベートを保ってトレーニングしなければいけません。そうしないと、トレーニングそのものが器を小さくしてしまいます。1年もたてば、この場にも慣れるでしょう。トレーニングは誰にでもできます。ただ一流になるためのトレーニングは、一流の人にしか、本物になるためのトレーニングで本物にしかできないのです。集中しないで行なうトレーニングなどは無意味です。少なくとも、本番と同じ集中度で感覚を鋭くし、息を吐き、体を使うことです。そのことに対して、すきがまったくないだけのトレーニングを積まなければいけません。

 

 

 本番はリラックスしてやるものです。トレーニングでそれ以上のものを出しておかないと、トレーニングが本番につながってこないのです。そうしないと、本番をだめにするトレーニングをしていることになります。

 トレーニングにすべてを準備して取り組めとはいいません。皆さんにとっては、日常の生活があって、そのなかでここにきていると思います。ただ、その場に立ったらどんなに具合が悪かろうが、やる気がなかろうが、切り換えなければいけないということです。

 

 今、声が出なかったり、歌が歌えないということでの気持ちもわかりますが、それを自分でいいわけとして認めてしまったら一生、歌えません。やっていける人というのは、今のレベルがどうであろうと、今の力をすべて出しきれる人のことです。すべてを出し切るから、逆に力がないことがわかり、今後の課題もいつもクリアにみえてくるのです。

 

 課題を一曲出したときに、その一曲で何時間もトレーニングできなくてはなりません。

 音楽の聞き方をもう少し勉強してください。一流と自分の差をわかり、つめていくことです。何ができないのか、何でできないのか。それは、トレーニングしていないというより、気づいていないからです。プロフェッショナルなヴォーカリストのトレーニングは、本当に厳しいものです。トレーニングがプロだから、彼らはプロなのです。そこに、ステージでの心構えがすべて入っているからです。

 

 

 たとえば「つめたい」(レミファミ)」という課題があるとき、一般の人は一つひとつあてはめて加工して「つ・め・た・い」とあてていきます。しかし、ヴォーカリストが楽譜にそう書いてあるからといって、そう歌うのではいけません。正しい音で歌えているというだけで、その歌を聞いて感動する人など誰もいません。これは、最低なレベルのこと、はずしてはいけないだけで、歌ではありません。そこから何をつくるのかということが表現ということです。勉強しなければいけないのは、そこまでのことではなく、その先のことです。その先のことのために、そこまでのことを伴わせているのです。

 「つ・め・た・い」となってしまうのは、歌っている人が「つめたい」というイメージをもって歌っていないからです。そうすると、「レ・ミ・ファ・ミ」と音程が聞こえてしまいます。声、体を使うトレーニング、表現の勉強をするには、一流のヴォーカリストのような感覚で捉えないといけないと考えた方が、声が出るようになるのです。

 

 基本では、声というのは「ハイ ラオ ララ」の部分に結びついていきますが、それはあくまで「型」であり、そのまま歌にあてはめようとするのは間違いです。あてはめたままでは、音楽から離れていきます。見本を聞き、どこで声をつかみ、離し、そしてどこで音楽を捉えているかを学ぶことです。

 「つめたいことばきいても」だけで、半オクターブあります。しかし、見本のヴォーカリストの半オクターブは、一つの音のなかでの展開くらいにしか聞こえません。どこも上がってないし下がっていない。高低イメージでは捉えてないからです。そういうところでの1オクターブの感覚がない人が、1オクターブの曲は歌えません。「つめたい」と一言、きちんといえるようになるのに時間がかかってもよいのです。このフレーズができるようになれば、半オクターブの歌が歌えるということです。しかし、このことまでが、いかに難しいかということです。

 

 音の世界、すでにメロディの処理が入っている外国のヴォーカリストは、「つめたい」とことばでいえば音楽になります。「レミファミ」と音はとっていても、そのまましゃべっているだけなのです。そういえるためには、「つ」「め」「た」「い」のことばがそろっていないといけません。それをコントロールするのは体であって、口先でコントロールしようとすれば、バラバラになります。そこまでのことができて、声のコントロールができるのです。ここまでが、声優、役者のレベルです。そこまでに口先で部分的な処理をするクセをつけてしまうと声、音域、声量をつくる妨げになります。のど声になってしまうのです。そうすると、のどを壊してしまいます。そのクセをはずすために、安やすに鼻先にひびかそうとして、のどを守るだけのくせをつくってしまうのです。根本的な解決方法は、のどを開けて体からコントロールすることしかありません。

 

 

 ここまでのことができたら、ヴォーカリストはそれにフレージング-自分の節をつけていかなければなりません。日本人の場合、浅い音色で出していきますが、声の技術がきちんとできているところで上のフレージングをつくるのが、一流のヴォーカリストです。自分の節をつくるのは、ジャズのヴォーカリストでなくても、ポピュラーのヴォーカリストなら、あたりまえのことです。体で音色を出していく。それがヴォーカリストとしての技術で、役者にはないところです。

 

 一流の見本の曲を聞くとき、発声の芯の部分-発声の前の声、息をことばにする技術の部分を聞いてください。音程より前の音そのものの動きです。一流の人の個性は、まねしても仕方がありません。なぜなら、オリジナル歌手と同じようにできたとしても、オリジナル歌手を上回ることはできないからです。あこがれることはよいことです。そのタッチは参考になります。ただ、トレーニングは歌ではなく、基本を学びやすい人から学んでいくことです。

 

 観客として終わるのであれば、ただ聞いて「よかった」でよいのですが、自分が学んでいき、人前に出てやっていきたいのであれば、それの何がよくて何が足りないのかという判断が自分でできなければなりません。その判断力、価値観が向上していかない限り、自分の活動、技術も向上していきません。

 ここにいたら、どうにかなるとは決して思わないことです。ここで自分が表現できれば、何かになると思ってください。また、トレーニングで伸びるということは、トレーニングをやらなければ伸びないと考えてください。毎日のトレーニングメニューについての質問がよくありますが、そういうことよりも、まずは意識の問題です。歌や声のことを24時間、考えていること、それ以上に、表現やステージのことを、さらに自分自身の世界を考えてください。体の面をいつも表現に対応できる体に整えておくことです。すべては、この2点から始まると思ってください。

 

 

 

 

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【日本の歌フレーズ】

 

 

「激しく高ぶる 夢をねむらせるな」

「ダイアモンドだね ああ いくつかの場面」

「Hold me tight  Hold me tight  my little girl」

「すてき こんなの初めてよ もう離さない二度と 1人にしないで何てこと」

「遠くをみる目に風がうつる いつかそんなこともあったね」

「Hold on me  my happiness  届けたい メロディ 私だけの贈り物」

「思い出は美しすぎて それは悲しいほどに」

「一夜に燃えおちて 甘い夢をみて 狂おしく抱きしめた あなた旅人」

「はなやいだ祭りのあと しずまる町を背に」

「星空の下のディスタンス 燃え上がれ愛のレジスタンス」

「あなたの空を飛びたい 誰より高く飛びたい」

 

 

○「青葉城恋唄」

 

 叙情歌や日本らしい歌で、フレーズをつくっていこうという前には、イメージで表現しておかないと、わけのわからない方向にいってしまうのです。

歌というものの本道があり、その動きの部分がみえます。

フレーズを聞いたときにそれがどう動いているかを考え、結局、アドリブ的な感覚が必要です。アドリブができるためにはそのルールを体のなかに入っていないといけません。

 

フレージングというのはそれをどう動かすかです。つけあわせのフレージングでは、丸ごとみえてしまうのです。それを突き破って出てこないといけない。日本人の場合、単純なものをゆるやかにします。ゆるやかだから、そこで歌をうまく出すのが本当に難しい。

音感、リズム感、それから歌の表情、音色、呼吸。

 

 

「ひろせがわ 流れる岸辺 思い出は かえらず」

 私は演歌の先生でも日本の歌の先生でもないから、どう直せとはいいませんが、まったく手のつけようがないというのは、おかしなことです。音がとれているとかとれていないという問題ではなく、たとえば声優や俳優が歌ったら、このぐらい歌えるといったら失礼ですが、そこで絶対いれるであろうものをみんながいれていないというのはおかしい。

 

ビブラートをつけるなどということではなくて、ことばに叙情ですから、心をいれないといけないです。

 おかしいと思わないと、多分ラオケ教室とかいったらもっと細かいところから徹底して直されると思います。何でそうなるのでしょう。

 

 音程がずれている人は別としてみても「ひろ せ がわ」になったり、「ひろせいがわ」になったり、「ひろせーがわ」になってしまったり、「きーしべ」とか。

これはもうイメージとか音の世界と関係のないところでの1人よがりです。

ここは弱くだせとか強くだせとか、そんな細かいところではみていないのですが、でだしでいったら日本人ではない。何でそういうふうにへんに「ひろ せ がわ」「ひろせい」とか。「ひろせ」といえばよいところを、こもったり不明瞭になったりするのでしょう。

 

 

「あの人は もう いない」

 だらだらと歌ってよいのではなくて、きっちり歌えばよいわけです。「あの人は」「もう」「いない」のところで、頭とか体しか動かない。心が動かない。そういう問題です。

別に日本の歌に限らず、「ひろせがわ」「ながれる」で歌になる働きかけがないから、当然「ひろせがわ」に対して「ながれる」どうなってくるか、そういう展開がみえないわけです。音の世界に変えないといけないのです。

 

「あ の 人 は ー」が同じように3回繰り返されている。これでは歌ではない。

 しかし1回目でおかしい。仮に「あの人は」はこれでよいかも知れない。しかし、「あの人は」といったときに「もーうー」。そうしたらもうここでおかしいわけです。結局、動きがない。

 それは練り込むとかということではなくて、オリジナルフレーズのなかの1つの要素にすぎず、すぱっといくのはすぱっといって、それは構わないと思います。最初はそれが基本です。

 

 それがきちんと定まっていない、呼吸もできてない、それから体のことから働きかけもない、頭で計算もしていない。それはまずい。ただでたときにはそこしかみえないとまずくなります。そのへんは日本語は日本語らしく「あの人は」とかとやったら、もっとおかしくなります。だから「あの人は」でよいのだけれど、早いから心の動きが間に合わないというのはおかしなことです。心の動きのところに音がついてくるわけだから、それをもっと自分のなかでまとめましょう。

 

 

 「ひろせがわ」でも同じです。「ひろせがわ ながれるきしべ」これは確かにいえているのですが、いえている以上に何にもないわけです。せっかく「タラララ タラララ」と入ってきて、それが「ひろ せ」のところで全部殺してしまっているわけです。

だからとけ込ませろとはいいませんが、もっと保たないといけない。pあるいはmpの入り方がわからない。別に強くだすのはよいのです。ここのフレーズだけだから。そのとき表現をだすのだけれど、ある意味では調和させなくてはいけなくて、そこの感覚です。自分のなかだけでまわってしまっている。要は単に弱くではないわけです。感情表現を弱くでもない。そこのところで違う感覚をもつわけです。

 

「ときは巡りまた夏がきて あの日と同じ流れの岸」

 焦点があっていない。目が右と左が違うところをみているような感じです。いろいろ考えているのはわかりますが、何か相手に伝えるときはばらばらだと伝わらない。

 とりあえず今までやった中で一番やりやすいのをやってみて下さい。方向性を自分で決めて、きちんと握ってやることとはなしてやることです。それをできている、できていないの判断をつける。あんまり細かいところでやっていてもしかたない。それができたらそこにのせていくのは2段階目です。

 

 歌いこなせるところまでしか目的にしていないからです。そうではなくて歌いこなせたあとに、どれだけちょっとした間があるか。それから最終的にことばによって音質が変わるときまでとはいいませんが、これを頭で考えるとまたうまくいかなくなるのですが、そのぎりぎりの一致のところを自分でみつけてこないといけないです。

 

 

 歌を1曲歌うというのはアイデア、発想がいるのです。だから高橋真梨子さんを聞いていたら、簡単そうにみえても、いろんなアイデアが入っているわけです。それが何なのかを少し学んでください。作曲者のアイデアは何なのか、作詞家のアイデアは何なのかをもっと深くよんでいくことです。

 

 今日みたいに1フレーズだと1つだせばよいようなものは、勢いでついていけるところありますが、投げ出していくことばっかりやっていてもよくないです。投げ出せない人はまず投げ出さないとしかたないですが。もっとそれを音の流れとか線の流れに。特にことばにもう少し敏感に反応できるように。それに反応していることが、基本的にライブも歌も変化ですから、その変化をつくりださないといけないのだけれど、それに頭がいって基本がくずれてしまったり、流れてしまったりするともっとおかしくなりますから。

 

 結局、そこの意識です。意識が外にむいていないといけない。だから、1回聞いたときにできるだけいれて、2回3回いれたときにそこの差をどうつくるかということをやってみる。1回やったときにいろんな人のを聞いてみたら、そこで大体、色はわかってくるはずです。

その色をさらに細かく自分で決めていかないとよくないです。そういう作業がオリジナルのフレーズのなかでやることです。順番をまってやっているだけではだめで、そこで変化していかないといけないです。実際には厳しく感覚的なものをとらえていったら、自分がやるたびに違うはずだし、それから違うようにだそうと動くはずなのです。

 

 

 長いフレーズが多いのですが、逆に長い方がそのへんがわかりやすいです。それで息が足らないとか、声量がでないとか、そんなことではなくて、特に日本の歌をやっているときには、そんなに声量とか声自体に関しては差がない。ただ、基本的に、音程音感が悪い分には歌い手というのは失格です。音感の悪い歌い手なんていません。

 

そのへんは、きちんとやっていこうとしたら、集中してそのことをやらなければ、いくら歌のレパートリーが増えてみてもよくないです。リズムはこういう中で覚えることができますが、音の感覚というのは普通の人が聞いてみても、きちんとできている人はうまく聞こえ、できない人は、はずされてしまいます。どんなに声がでても、どんなにフレーズができても、オリジナリティがなっても、音が取れないと全部とんでしまいます。

 

 オリジナルのフレーズをやっていたら直ってくるというのもそれは耳ができてくるから直ってくるわけで、そこを自分でみないで2年過ぎてきたら、どんなに一所懸命オリジナルのフレーズをやっても直りません。

 きちんととれている人が目立つほど音がおかしい。私はまだ声とかその人の個性でみているから許していますが、一般の人は歌をたどっていく感覚でみます。プロでない人ほどそこでみます。一般の人は2、3ヶ所のミスだけで、この人、音程悪い人だ、聞けないと思うから、致命的になるわけです。

 

 

 それは自分でわからないとよくないです。わかって直す努力しない限り直らないです。声はだまっていても、トレーニングをやっていたら伸びます。感情移入とかフレージングもできますが、音感だけは、基準があります。たとえば強弱とか声量の分野とかは基準がないわけです。どんなに小さくなっていてもそれなりにまとまっていたら、マイクで大きくすればそれですみます。ところが音というのは周波で決まって、音程というのも決まるわけです。

そこは厳しくしていかないと、こういう歌になったときは悪いとこばかりでてしまいます。それは入っていないとだめだし、いれていった方がよいと思います。

 

音大を受験しようと思っている人たちは、そこをクリアするわけです。それは10代でないと仕込めないことではありません。どこかで仕込まないと仕込めない。とれていないことがわからないということは、致命的になってくるのです。

 

 そうでない人は徹底してそのことから、やってもよいと思います。悪いくせがついては実際のライブとかでは直せません。声がでにくいから狂うというところのミスはよいと思います。体を使おうとしているからちょっとフラットするのもわかります。ことばはもう少しやらないと、ことばを練って歌っている人たちにかなわなくなってきます。

 ことばをやりながら発声をやっていたら、発声がなかなかのってこないとしても、何もかもやらないといけないのが確かなのです。

 

 

 

 今度は息とことばを連結させていきましょう。ことばは何でもよいのですが、日本の歌からとります。

 

 

「まどのそとでは りんごうり」

 

 自分の息のなかで入れてみてください。のどをしめないように体の力で流れをとります。ブレスを間に入れてもよいです。なるだけ深めに、あとで声に変えていきます。

 

 「まどのそと」のところは、つかみにくいし入りにくいという人もいると思います。唇の方に音がきます。課題として難しいので、「こえをからして りんごうり」で入ってみましょう。

 歌でも、オペラ歌手、特にソプラノ、テノールなどには話すことさえ、のどのロスと考える人が少なくありません。トレーニングも本番前は声を出さずに練習して、本番では声に変えて出すというようなことをやっています。

 

 これは、息で体を起こして、声との結びつきを確認し、動きやすくしていくことにあたります。息での柔軟体操で体を起こし、息で声を起こすわけです。自分の体で一番、使わないといけないところを、いきなり歌えないので、その前にそれだけ息を流して、体と結びつけてやるわけです。20年、30年選手でもそうですから、皆さんの場合はなおさら、結びつきを意識しないといけません。それで、ため息から起こしたり、ことばから起こすことをやります。

 

 

 「まどのそとでは」息で声のポジションまできちんとつかんでいきます。そこでいきなり「りんごうり」とことばで入れてみましょう。高いところでやると、難しいかもしれないです。ため息みたいに徐々に声にしていってもよいです。そのときに、声と息を体で使うことです。そして徐々に高いところでやっていきます。少しずつ高くすると、息がまわります。「り」からきれいに入るのは、やや難しいでしょう。

 

 逆にしてみましょう。

「りんごうりのまねをしているだけだろう」

「りんごうり」これが息の方です。「まねをしているのだろう」のどこかのところから声にしていくのです。「なんだろう」あたりは、声になりやすいところです。日常会話のなかで息を声にしていく。日本人は息を使いませんが、なるだけ息を使ってそのなかでことばを発していきましょう。

 

 

「いまは もう あき」「いまは こんなに かなしくて」

 

 どちらでもよいです。これはことばとしてはふみとどまりやすいでしょう。同じようにやってみて、どちらか体に入る方でやりましょう。音でのねばりと、ことばの表現とは、少し違うのですが、ことばのなかでの息が浅いと、どちらも難しくなります。たとえば、アナウンサーは口で歯切れよくことばを切るわけです。そうすると、一つひとつのことばというのは、「いまは」「もう」「あき」と、たたけるわけですが、ここからふくらませられないのです。

 

 アナウンサーでも、お腹から声が出ているのです。ただ、本当のお腹から、呼吸の流れのもたらす声でないので、歌のフレーズまでにできないのです。何で深い息を使うかというと、そこで自由自在に動いたり止まったりするためです。表現をおいていく“ため”をつくるためです。そういう点でいうと、歌はスポーツでいうと加速がついて走り始める短距離よりも、相手をかわしてゴールに入れるバスケットやサッカーの華麗な動きに似ているかもしれません。「いまは」の「は」で止まれるわけです。「いまは」「もう」「あき」とこうはならないわけです。「もう」のところでためて止まる。それで次に「あき」となる。そこではじめて、フレーズが出てくるわけです。

 

 

「こんなにかなしくて」

 

 日本語自体が無声化、促音、撥音、濁音などが多く、ことばになりにくいものです。それを歌のなかでことばにしているのですから、よほど一つにしっかりと捉えて、その上でもう一度、展開していかなくてはなりません。展開するときにフレーズをつけていく動きを出していかないといけません。これをどう出すかという動きのヒントがリズムと音の感覚です。何回も何回も読んでいたら、そこにリズムが入って音の感覚がついてくるものです。そのセンスが磨かれていたら、歌になっているのです。そこをメロディ、リズム、ことばを最低限、伝えるために、楽譜が書かれたと考えてください。

 

最初に楽譜があって、そこからとっていくのではなく、体から発せられた歌に戻すということです。どこで体を入れて、どこで抜くかというのが呼吸で、これは人によって違っています。もっと間をとって、間をとるためにふみ込む。こうして、歌を大きくしていきます。日本の場合は間といいますが、インパクトといった方がよいでしょう。しぜんに間をとるには、ふみ込むことが大切です。ふみ込まないと、間がトレーナーくなってきます。思いっきり「いまは」といったら、体が戻るまで空くだけです。「もう」というまでに時間がかかります。そのときに出る声というのは、一つの流れのなかに出ているはずです。

 

 

「いまは こんなに かなしくて」

 

 歌うまえにフレーズのできるところの動きを先に感じてつくっておくことです。そこから楽譜にのせていくと、もっと表現の伝わる曲になるはずです。ある程度、音にはあてていかないといけないのですが、心からの声を出してやってみてください。

 

 声の技術というのは、完成されてくると別に感情も何も入れない、ことばも何も入れない、それでも伝わるものです。たとえば外国人のヴォーカリストが日本にきて、譜面を見ながらローマ字をふって「イマハ モウ アキ」といっても、通用する部分があるのです。即興的にやっても、歌らしくなってしまうのです。トレーニングの目的の一つは、それを確立することにあります。

 

 ただそれは、声としてはよいのですが、伝えているものは何もないのです。表現の基礎であって、表現ではない。しかし、歌の意味とメロディ、リズムがあれば、どんなことばがついても、彼らは歌にできるでしょう。声というのは、あくまで一つのツールにしかすぎません。逆に歌い方の表面だけをまねてやると、カラオケの人が歌っているようなレベルになります。だから、それを体によみ込んで心を動かして出すといったときにどうなるかを考えてください。

 

 まず、発声が消え、それから音の雰囲気みたいなものも消えること。それで感情だけが伝わるような伝え方をめざしてください。これには正解は絶対にないわけですが、決まる表現、決まってくる表現はあるのです。だから、自分で計算してはよくないです。人をひきつけられても、全部、杓子定規になるわけです。しぜんのフレーズにならないわけです。

 

 

 「いまは」というのを、「ハイ」といった感覚で出します。「ハイ いまは」これで発声はとれるのです。そこに「いまは」ということばの感覚を少し入れて、音にとらわれないようにします。音程をとろうとするからだめなのです。音程は、歌の一つの要素で、しかも音と音が離れているのでなく、つながりとして、流れとしてトレーナーくてはいけません。音程は音と音との距離、つまり点と点を区別する感覚ですから、そこへ頭がいきすぎ、他のことが疎かになってはいけません。

 

 だから、トレーニングでは逆のことをやるべきです。「いまは」といっているなかで、「いま は」これのなかに音が生じてくるのを待つのです。音やリズムからとっていかない。「いまは」といっているなかで音をずらしていく、それからリズムをつけていく。本当は、ことばもなく、音だけで心、感情だけで表現のところまでやるとよいでしょう。表情があれば音をつけない、リズムをつけないで「いまは」といって、どちらを歌ったかわかるというところまでいきたいものです。「いまは こんなに」「いまは もう あき」では、表情も違ってくるし、思い浮かべるイメージも違ってくると思います。わかりにくい人は「いまは」というのだけを精一杯の感情を込めて出してください。

 

 「いまは」だけでやってみましょう。判断の基準はいつも単純です。ここでは、「いまは」と聞こえたかどうかということです。ことばでなく、心が、です。歌ってしまうと聞こえなくなってしまうのです。役者の養成学校に行くと、喜怒哀楽の表現練習というのが必ずあります。そこのところの先での声の使い方が大切です。ことばをとっても、その感情が声という音で伝わる。結局、声にした分だけ表情力が衰えてくるのなら、声にする意味がないわけです。これは、歌のなかでも同じことで、歌って表現力がなくなるなら、歌う意味がない。ポップスのヴォーカリストを見習って、ことばや音にとらわれないことです。

 

 

 時間がないときは、いつもメジャーなコードにのったフレーズでやっています。マイナーなコードのものは、とても弱いからです。音にもいろんなパターンがあります。3つの音だけでいろんな組み合わせがあります。音程が弱い人は、音の感覚を磨いてください。音からとっていくまえに感覚として捉えてください。

 

 感覚的にしっくりこないと、音もリズムも出てきません。今まで聞いた曲、自分の歌った曲のなかで「あの曲のあそこと同じだな」というのがいくつも浮かばない人は、もっといろんなジャンルのものをたくさん聞いてください。日本のだけではあまりに少ないので、世界中の音、リズムから学んでください。いろいろ聞いてくると、リズムにしろ音感にしろ、違うのがわかるでしょう。ピアノで弾くのを聞くのと、ヴォーカリストで聞いて覚えていくのとも違います。本物は、すべてが違うのです。だから、その人の作風が評価されるのです。まねても、こなしきれない人が三流、まねられる人が二流、新しくよいものをつくり出せる人が一流です。そして、不思議なことに、一流のもつものが働きかける力は、どれも大きく、音の世界も深さにおいて似ているのです。

 

 ことばもやってみましょう。「あなた」とあったら、どこかの歌詞で「あなた」というのをよみ込んでみます。20曲くらいの歌詞で「あなた」というのを、いろんな使い分けで徹底してトレーニングしていたら、「あなた」ということばが入っているから、他の曲に応用できてしまうのです。リズムに関しても、音の感覚にしても同じです。

 

 

 ことばをふくらましていきましょう。

 「な」と「ね」を使いましょう。「なぁ」「ねぇ」に半音の差をつけます。「なぁ」(シド)「ねぇ」(ミファ)のようにします。日本語のなかでは必要のないことですが、強アクセントをつけることです。「なー あー」と考えるのではなく、「なーあー」で、「あー」といいたいがために、「な」をつけるように感じるのです。

 

これが、アップビートです。「ナ」「ネ」は、母音より入りやすい人もいると思います。「がーあーあー」の半音を3つの音での半音と考えないで、ゆらぎで関係させていきます。「がー」といって、そのあとに「あー」のなかで、次の音をつくっておくのです。「あーあー」とのせないで、このなかに半音上の音もあるし、半音下の音もあるという感覚です。この次の音にいく準備を常にやっておき、ずり上げとずり下げにならないようにします。

 

 「がーあーあー」日本語の場合は二重母音といって、母音が重なります。いい換えないと、わかりにくいのですが、音楽のなかでは、それを利用して次の音につなげていきましょう。「がーげーごー」は、「がー」「げー」「ごー」とやるのではなく、「がぁー」この「ぁ」のなかで「げーごー」をつくっていく。腹話術みたいなものです。つないでいき、音の境目をわからなくします。基本の発声は変えないで、発音のところで調音していきます。リズムを「たったったっ」と考えるのではなく、「たーぁーぁー」ととり、そこに3つの音色があるわけです。これに合わせて「がーげーごー」ととっていく感じてやります。

 

 

 声のなかにリズム感、音感を入れていくことです。ピアノや、他の人と合わせなくてもよいです。「がーげーごー」を難しいと思う人は鼻濁音にして、腹話術みたいに口で発音せずに、ひびきだけでやるようにしてください。なるだけ、変えないで、3つの音がわかれないようにして、3つをいえているという感じです。

 

 音感的に「がー」「げー」「ごー」と出してしまうのではなく、呼吸を整えて出し、歌のなかには入らないといけないのです。「が」のところできちんとにぎっておいて、その声を「んーがー」にしていく。そのまま「んーがーげーごー」と、常にメリハリをつくる。だいたいの人は、単調、つっぱり、機械的で、固くなってしまいます。こうなると、後で展開していけなくなります。そういう発声は、ヴォリューム感を出したり高音の方にもっていったりできないのです。いつも、いろんな問題が生じます。

 

 入りにくい人のために「んーがー」にします。クレッシェンドだけ、かけていきます。「んーがー」と息を吐き切って止める。やりにくい人は「ご」でもよいでしょう。自分の一番やりやすい母音をみつけてください。基本的に、そこでクレッシェンドすると、おのずとデクレッシェンドに入るのです。ただ、あまり難しく考えないで、単に「んがー」といっていたらよいと思いましょう。自分の頭で計算しないで、「がー」と息を吐いたらなくなってきます。それをしぜんに活かします。意図的なことを、なるだけやめます。もう一度、息に戻す、体に戻してやる。

 

 

 まず一つが「ん」のところでふみ込むことです。「が」のところでふみ込むのは、難しいからです。「ん」「が」を1回、結びつけます。この場合、「が」で解放するわけです。胸のハミングですから、体が要ります。「がー」になったときに広がらないことです。抜くのとは違います。あくまで、息を吐くなかで声を宿していく感じです。その「が」を自分でコントロールするのです。自分の一つの流れのなかで、線からはずれてはいけないわけです。

 

もし大きくしたければ、この線を大きくつくらないといけないのです。それを支えているのが、体や息ですから、息の配分だけで全部やっていくということです。その上に、今度は音をとっていくというよりは、「たーたーたー」というリズムと、それから「たーあーあー」みたいな音感を感じていく。やりにくければやりにくいほど、「ん」のところでふみ込むことを忘れないことです。ややもすると流れてしまう場合があります。きちんととってから離して、また戻してやるということをやってみてください。体での感覚が基本となります。

 

 今までのことを全部まとめて応用してみましょう。

 

 

「わすれていたはずの こいなのに」(恋のジプシー)

 

 まず、ことばできちんとよみ込む、息でよみ込むことです。声で読んで、自分でフレーズをつくってみてください。楽譜からつくらないで、あとで音をつけます。すると、「わたしは なにもいえず あなたをみつめるの」というところが歌えるようになるでしょう。声や体に関することよりも、イメージの問題と、それから声のふみ込み方、使い方、リズム感、音感の差です。しかし、それを学ぶよりも体と心と表現を学ぶ方が大きく解決できるのです。頭で考えて頭でとっている人がやると、音をとるときにのどをしめていきます。

 

 こういうことばは独特のやり方であって、歌ってはいけないのです。どこかで間をとっていかないといけないのです。リズムを感じながら、それを動かしていくことです。「こいなのに」は「わすれて」がきちんといえないと、もちません。ことばで「わすれて」といって、なるだけ壊さないようにします。ことばでいってことばに浮かんだものをなるだけおいていくことです。ふみ込み方は「わすーれて」になります。やりにくいときは、「こんやは わすれて」とやった方がよいと思います。

 

どうしてもできない人は、ことばをどこかへよせてしまえばよいでしょう。強アクセントをつけるということです。できる人は、展開を自分のなかで意識してイメージをつくっていきましょう。どこかにアクセントをおかないといけません。ビートからは「わすーれて」の「れ」のところでおくのが一番よいのですが、つめてしまえば「わすれていた」の「いた」のところでもよいです。次の「はずの」には入れません。どこかで引いていけばよいわけです。1オクターブありますから、難しいのですが。

 

 

 それがまた、体力的にできない、声にできない人は、よみ込みをやることです。「わすれていた」と入っていけばよいわけです。曲を聞いてみて、そのままとっていくのではよくないです。いろんなとり方がありますが、とにかくそれが「わすれていた」と聞こえないとだめなのです。そのために、どこかのところで入れていかないといけない。息を深くしないといけないというのは、結局、音程差を感じさせないで表現として、強弱をつけていくために不可欠なのです。一番の違いは、出だしのところの息の深さの違いです。この深さがあれば、全部よみ込んでいけるわけです。その分だけきつくなってたところが、先のフレーズの部分です。

 

 今、音をつけたらできない人とか、フレーズがもたない人は、ことばでよみ込んで、ことばに息をよみ込んでいくことをやっていきましょう。そうすると、体がよみ込まれていきます。息が深い分、楽譜をみたら1オクターブあるのに、聞いてみると1オクターブに聞こえないわけです。1オクターブが一つに捉えられないで、どうしてそこで表現できるのでしょうか。その感覚で強弱をつけていかないと、上がった下がったとやっているから大変なのです。次のフレーズになったら、もっと大変になってきますから、1曲もつはずがありません。

 

 声がなければ息で処理することです。日本人にそういうイメージがないから、やはり柔らかく歌おうとしてしまいます。その方が伝わると思っていますから。しかし、これこそが最大の誤りなのです。

 

 

「よがあけたら いちばんはやいきしゃにのって」

 

 「よーが」このフレーズをつくるのはよいのですが、そのまえに「よが」が入っていないとよくないです。「よ」と入ったあとに「よーが」となるのはよいです。

 

 

「わかれのそのわけは はなしたくない なぜかさみしいだけ」

 

 構成からです。「わかれの」のところで「はなしたくない」だけに頭がいっているので全部とんでいます。「したくない」のところをふまえておいて、最初に「わかれの」のときに、そこは頭に入れておかないといけません。だからといって「わかれのそのわけ」を無視してよいのではありません。感覚的に音の転換をします。「そのわけは」を感じないとうまく出ないのです。

 サビのところは「はなし」のところで結びつけるのであれば、一つのフレーズのなかでインパクトとそこからの展開があるわけです。別に「い」を入れなくてもよいのですが、感じないといけない。それから「なーい」は「ないー」でもよいですが、いい終わったあとに「いー」とここまでいっておいて、「なぜか」