一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 31388字  854

ステージ実習コメント   854

【新入ステージ実習(1)(2)】

【ライブ実習③】

【Ei塾コメント】

【京都ステージ実習 一言コメント】

 

【新入ステージ実習】

(1)

 

 まず、本当に歌おうとしたら、ここですぐ歌えるわけでもないと思ってください。トレーニングするほど、これまでの歌の形はどんどんくずれていきます。今までにない声で歌う、体を使って歌おうとすると、それはこれまでの作品の完成度で問われているものではないのです。ステージ実習、ライブ実習と経て、自分で声からの音楽というものを捉えるのです。

 ライブというのは大きな概念です。その場でいろんなことが起こります。そのなかで臨機応変に対応して、作品を出し続けるということです。こういう考え方は慣れていないと思いますが、本来、音楽は時間と一緒に流れているものです。その時間と空間を一緒にしてその人が楽しむものです。それがたまたま商業的に発展して、レコードがプレスされて、普及にとても貢献したのです。

 作品としてまとめないと、プレスできません。ところが作品というのはアーティストにとってみたら、それは出したときに、すでに過去のものです。本当に作品に完全を追求したらいつまでも出せないわけです。ライブというのはそういう意味でいうと、プロセスそのものです。

 

 考え方としては、ここにはアーティストに集まって欲しいと思っていますから、一つの練習もそれからこの延長上にある発表も、どんなステージであってもすべてプロセスのなかにあるライヴと思ってください。トレーニングの期間ですから、プロセスのまたプロセスですが、少しでも手を抜くと上達しません。 実際の活動はお客さんを意識しないといけない。ステージもそうです。しかしここはそういう要素をはずして、自分の思うままに、いろんな意味で実験して欲しいのです。力がつくほど本質的な実験をしてください。ライブですと日本人のお客さんに対し、間違えないようにきれいに歌わないと文句をいわれるでしょう。表現より雰囲気が問われます。

 しかしここは、新しいものを評価する試みをしています。そもそもロック、ポピュラーも、今までのをそのままなぞってみてもまねにしかすぎません。それはトレーニングの目的として値しないでしょう。それだけのトレーニングをするなら、それこそ、その人しかできないものをそのなかからださないと困るわけです。

 

 そういうことでいうとここも特別な場ということではなくて、日頃の練習もライブです。そのなかで最大限の表現をしないといけない。できないと思ってできないのでは結果が残らないわけです。本当のアーティストが紛れ込んでいたら、一瞬にしてまわりの人を感動させることも心地よくさせることもできる。その力を問うて欲しいのです。

 ライブ実習になったら、ピアニストやバンドをつけます。今のライブハウスでの演奏形態が、完成された音楽とは思わないことです。先に生まれた人たちが、ああいう形をつくってきただけです。

 まず、そういった周辺の補助装置を全部はずすと、とてもわかりやすくなります。自分の体一つで、何をできるのかが問われます。その上で、いろんなものを利用していくべきなのです。それを一緒にしてしまうと、考え方が異なります。装置がよいところにいってやるのが力のない人には一番よいのよいわけです。

 

 

 力をつけるのではないというのなら、タレントやアイドルの方が有利です。違う土俵で勝負しないといけないのは不利です。自分の体のなかに宿ってきません。ですから、そういう意味でも、特別にこの場が練習から離れている意識をもたないことです。何が違うかというと、今まで五秒、十秒で一人ひとりまわしていたのが、二分、三分でまわしているのが歌だということです。

 

 それとともに、いろんな意味で人前でやることに慣れて欲しいのです。人前に立つことを商売としたいのならば、何か起こるかわかりません。大きいステージはそんなに怖くないのです。ところがこういうところでは、まるみえです。自分一人がとまったら、お客さんもとまります。すべての責任が自分にきます。ライブそのものの感覚です。別の意味でいうと厳しいところです。 

 

 ただ、そこで通用するようになることを一つの目標としてください。一年、二年といくに従って、まわりの人の聞く耳も肥えてきます。ここで励んでいる人たちは、耳がどんどん肥えていきます。そうしたらそれ以上のものを出せるか、出せないかです。日本の場合は簡単にライブをやることはできますが、お客さんをいれるとお客さんにあわせてレベルが低下します。ライブをやりたいというのはわかりますが、ここでも限定してしかやっていないというのは、お客さん自体も厳しくしないとだめだからです。

 

 

日本の場合はアーティストが甘えて育っていないです。カラオケがうまい人、のど自慢のうまい人、ちょっと目新しい試みをした人をうまいとか思う人ばかりです。新しい世界を築くプロセスにある人を、阻害する傾向がどうしてもあるのです。耳ができていない、本物をみない人がそういう客です。そうすると、この実験の場自体がそのへんのライブハウスと同じになってしまいます。なれ合いになってしまうと、このトレーニングの意味もなくなってしまいます。そういう意味でこの場を捉えて表現してください。

 

 きれいに仕上げようとか、うまくまとめようという必要はないです。間違えようがつっかえようが、平然として構わないです。それを含めてライブです。ヴォーカリストの場合は、間違いがあってはいけないわけです。それはミスしてはいけないということではなくて、ヴォーカリストですからその人がそこでやっていたら、はずしていようがそれで伝わらないといけない。そこまでもっていかないと、まともな舞台はできません。逆にいうと、力のある人に間違いはないと思えばよいです。自分が間違えたと認めると間違いになります。歌詞を忘れても誰も助けてくれないし、それをふまえてどうすればよいのかも問われます。そういうものも学んでいってください。

 

 日本のライブはお客さんとか知り合いがたくさんきて、何をしても同じくらいの拍手で、無難に終わって流れていくわけです。そのなかだと本人自体がわからないです。うまくなったのか、へたになったのかもわからない。それでは伸びていけません。

 皆さんの場合は、ここで来ただけのことをやってください。終わってからどれだけ気づくかです。あるいはこの場の他の人からどのぐらい気づけるかということです。

 

 

 トレーニングですから、ファームと同じで気づいたことをもとに次の一ヵ月の練習にどう活かすかです。それを忘れると困るのです。それでできなかったことを、その次の一ヵ月からやらないとトレーニングにならないのです。目的を間違えている人がいます。アートという場で、やったことの成果を見せるというのは当然です。ただ100パーセントはできないはずなのです。できないところが繰り越しなのです。

 

 それぞれの姿勢のなかで、それなりにこなしていくことになります。まわりがどれぐらいやっているから自分もこれぐらいだなどと考えないで、本当のお客さんが一万円払ってきていると思って、そのお客さんに対してだせるものをつけていってください。 

 

 もう一つは初心を忘れないという意味もあります。モノトークというのは大切です。いろんなことをやると歌の世界も自分も、ここにきた意味もみえなくなってくるときがあります。トレーニングをやっていることの意味さえ見失う場合もあります。歌ったり、書いたりして発表する姿勢は、アーティストになるための原点にして欲しいものです。アテンダンスシート一枚一枚が人生で上達へのプロセスなのです。ここにくる前にプロとして歌ってきた人も、もう一度、今からの二年を捉えたときに、自分にとって何が原点なのかを、半年後、一年後たったときに振り返るべきところとして、確認しておいてください。

 

 

 

 

 

(2)

 

 私自身がこのような研究所とライブをやっているのは、なるだけ感動できる場とか新鮮な驚きの得られる場を人生のなかにたくさんおいておきたいからです。自分でも人でもよいステージなら、よいのです。コミュニケーションだけが居心地のよいところもありますが、少なくとも人前にでていこうとするところでは、感動か新鮮さがともなっていないといけないと思っています。そのためには、厳しさも要求されるのです。しかし、世に出ていく人にとってはそれは心地よい刺激にすぎないはずです。早くそう感じられるようになってください。

 

 自分自身で考えてみてください。今日やったことが明日もう一回あるとしたら、それでお金を払ってでなさいといったときにきますか。うんざりでしょう。すでに、そこの部分でいろんな問題があると思います。基本的にいうと今日も「青年の主張」で終わってしまいました。何でそうなるのかというと、いかにも日本人らしい枠のなかに入って誰もはみださずに最後までいってしまったからです。

 

 内容については考えていると思います。皆さんはヴォーカリストになるのです。しゃべるときにも、歌ということをめざすなら同じ音声を使うのです。しゃべるように歌うために前提としてしぜんにしゃべるということでないといけないです。そこからまず考えてみましょう。内容は本当は大してなくてもよいのです。何もないものを声の力で伝えられたかということです。思い出して誰かがいったことがどのぐらい残っていますか。その人の顔が浮かぶほどのインパクトが与えられましたか。

 

 

 まず、自分のことばになっていないです。本心になっていない。それをもう一度勉強していないと歌うための原点にならないです。文章中ではよいこともいっています。ただし、結局そのことに対して抽象的なことば、ありきたりでいわれてきたこと、今までの人たちがいったことの羅列で終わっています。それと自分の生き方とか生きざま、体験とか生々しいものが結ばれていないのです。具体的でないからそこが伝わらないのです。

 

 何でこれだけ人間がいて、同じトーンの話し方なのでしょうか。声のトーンだけでも、もっと伝えられるのではないでしょうか。原稿の内容が課題だと思っているようですが、それはヴォーカリストの世界では歌詞のようなものです。九割は、今日ここで立ってどう伝えるかということです。それを間違ってはいけません。内容より、声でどう表現し、伝えるかということです。

 内容も噛み砕きが足らず、抽象的すぎるのです。たとえば、もっと具体的にどの曲を聞いて感動して自分がどうなったか、そこが全然、表われていないです。これだけヴォーカリストになりたいとか、好きだとか、いろんなことはやったとかいっても、一番肝心な部分が全然みえません。だから、どうして歌いたいのかがわからないのです。

 

 歌が好きなことと歌っていくことは違います。歌が好きだからといって、ヴォーカリストになる条件にはならないです。そのへんのところの捉え方も浅いと思います。その人がみえないのが一番残念です。同じ人ばかりがでてきたような気がします。何を語るかという課題はとても難しいのですが、心を動かされる部分というのは、誰にもあると思います。その違いが何なのかということを考えることです。音楽がわからない、歌ができない、声がでなくとも、話すことはできるわけです。ところがそれを意識的に消しているような感じがします。とてももったいないことです。

 

 

 歌というのはいろんな捉え方がありますけれど、トレーニングは一つひとつ積み重ねていくことができるかどうかです。そして大切なことは、前にでたときに何を伝えるかということです。自分のスタイルでやってください。努力してコツコツとやるとそれなりに才能はでてくるのですが、それさえ、恐れているような気がします。全力でぶつからないというのは、本人がしらけてしまっていては何も伝わりません。日本人はそういうところがあります。

 

 一所懸命やっていたらぶつからない方がおかしいのです。新しいということは誰かには不快で、表現されたことにはそれを好む人もいれば嫌う人もいます。歌を聞く人に退席する自由はあると思います。(私はないからコメントはしています。コメントしないといけないからみていないといけないのです。)

 ですからそういう場だと思ってください。声で伝えることを考えてください。声で伝えることをやっているのに作文の添削教室になるのはもったいないです。もっと自分の本心とか素直に感情でピュアなところ、その真実味のでるところでやることです。照れ隠しで、でないようです。こういうレベルで歌をやったらカラオケ以下になってしまいます。本心をださないと自分の歌にはならないです。

 

 BV座のアテンダンスシートに「先生が、一瞬目をはなしたと。悔しいと。今度は一瞬でも目をはなさせないぞと。」書いてきた人がいましたけれど、そのくらいの意気込みがないとだめなのです。

毎日、一所懸命、来ているだけではよくないです。

 意識は、入ったばかりとか、技術があるとか、そういうことは関係ないです。大人社会に入ったら年齢は関係ないでしょう。

 五分で表現ができるかできないかです。意識は高いところにあって、ただ技術が足らないのなら、その人は必ず上達します。ところが他のところは甘えてて、声の技術だけ身につけようとしても、それは歌にはならないです。声の技術だけ身についても歌にならないからもったいないのです。

 

 

 歌が枠にはまってくると一つの雰囲気はでます。しかし、その雰囲気が悪いと思ったら、破れないとよくないです。破る力があってこそ、さらによい表現になってくるわけです。皆さんで退屈することをやってどうなるでしょう。そういう場は嫌うことです。これから、どうすれば少なくても退屈させないですむのかを考えてください。一所懸命やっているのはわかります。しかし、全体的にそういう一所懸命さが伝わっているのではなく、へたに余力がでています。それは、自分の力を一つにして使えていないのです。何で余裕があるのか、それはよくないことです。

 

 研究所とか私にいろいろ気を使ってくれるのはありがたいですが、その余力があったら、声とか歌とか表現とかもっと自分自身を愛してください。ここのことをほめたりけなしたりする余裕があったら、1フレーズとか一つのことばに愛情を注いでください。ここの場は、その人間の本音がみえ、その人がみえてくるところです。それを期待します。

 二年いたのかどうかわからなくて終わってしまうのでは、よくないです。まずはアピールです。その場その場でアピールできない人が、二年たったら何かできるのかといったら、できないでしょう。全体的にそうなると、雰囲気がそうなってしまいますから、そのへんは気をつけてください。

 

 場は皆さんでよくするか駄目にするかです。駄目になると思うなら、自分で打ち破らないといけないと思います。そのなかに入って同じレベルでやっていたらだめだと思ってください。一人だけ残ればよいという世界です。他人の目とかそんなに気にしないでください。自分一人の力をつけて、自分一人で勝手にやって、すごい表現をここに残していく、存在感を残していくことを第一に考えてください。技術があるとか歌がうまいとかよりも、自分をアピールする力がないと声の技術が宿ってもよくないです。力がつけばまわりに優しくなります。笑顔一つでもまわりの人を幸せにできるのです。村社会のなかで気を使いながら生きて、よい人だといわれるのとアーティストの道とは異なります。

 

 

 基本のことはコツコツとやり、情熱で引っ張っていってください。人の十倍やったら二、三倍間違えて、五倍ぐらい直して、人より先にいきます。実力をつけようなんて考えるより、実力はやれば後からつきます。ここのノウハウは場を整えていること、材料を与えていることです。あとは皆さんの努力とか執念がそれを自らの作品にします。早くプロと同じ意識でトレーニングをやることです。最初だからとか、これからやろうなどと考えている人は永遠にそのままで終わってしまいます。すぐに今ここで何か表現していくことです。

 

 課題曲というのは古いものとか皆さんが知らないもの、時代おくれのものをあえてだしています。いわゆる音楽を中心とした装置とかサウンドといった、ヴォーカルの補助としてあるものを、一回とってみます。カンツォーネを使うのも、イタリア語の発声のなかに、声のベースなものがマスターできるからです。ポップスでそんなに深い声が必要でないとしても、声だけを考えたときに一番深いイメージとかをトレーニングの段階でいれておくことです。シャンソンにも、世界のリズムが入っています。全世界から入ってきてつくられているからです。日本の昔の歌も、音としては古いのですが、そこから蘇らせる力が問われるのです。

 

 日本語も音楽的にしていきます。日本人としてのベースは、日本語だからです。我々にも、演歌とか民謡にはあるとは思いますが、ポップスに根強いものがないから弱いのです。

 皆さんがワールドミュージックを聞いたとき、必ずその国のリズムに民族の血が騒ぐものがあります。それはエキゾチックのものであると同時に、普遍的なものです。声に関しても体で何か感じてもらえれば、歌のなかで伝えられるでしょう。一ヶ所でよいから、セリフでも、音声のなかの一つの表現でやっていきましょう。それができたらその一ヶ所のものを三分間やるだけです。

 

 

 ことばより、メロディのなかから血を一回よみがえらせるのです。心で感じたものとか、自分の血が騒がないものを伝えることこそ、難しいことなのです。嘘になるからです。純粋に自分が感動したものを純粋にとりだして、相手に渡せば成り立つのです。

 

 同じものをやってみて、自分を通すとまったく違うものが出てくるのがオリジナリティです。そのためには同じものをやるのが一番、わかりやすいのです。プロがそれぞれ、スタンダードナンバーをどれだけ歌い分けているかを聞いてみてもわかると思います。そこで自分が何を出せるかをやったほうが早いのです。表面的に違うことをやるから、自分がいつまでもよくわからないのです。

 

 上達しているのか、この世界で必要な価値を手に入れているのかは、常に100パーセントだして、それで足らないところを知っていってください。ださないことには自分の100パーセントもわからないし、それを自分でセーブしているとしたら、もったいないことなのです。100パーセントだしても足らないから習いにきているわけでしょう。100パーセントだせることをめざして、だせなかったときは悔やんでください。そしてそれを二倍、三倍にしていくようにしてください。

 

 

 いろんな人がいるのは、とても楽しいことです。それをなるだけ寛容に受けとめるようにしてください。日本の場合は、すぐに村をつくります。居心地のよい村で、誰も表向きでは悪くいわれないような村をつくるのです。批判とか指摘を嫌がる。

 芸ごとでの未熟を、すぐに人間性や人権にまで結びつけ、あたかも自分が否定されたごとく考える。“なあなあ”の場を求めるのです。嫌な人とか自立しているような人とつきあう方が、自分の力をつけるのにはよいわけです。いろんな人がいるのは楽しいのですが、その力をつけた人と力をつけていく人を中心に運営しています。これは、あたりまえのことで、一人で習得するしかないのです。皆さん一緒に伸びていくのではないのです。一人ひとりがレベルをあげたら、それは自分に、はねかえるし、自分も一つひとつ何か刺激になること、存在を示していくことです。これは歌う技術以前の段階だと思います。

 

 歌でいうと、気持ちが伝わればよいと単純に捉えてください。人を魅了させるとか感動させるとかより、気持ちを伝えることです。それを重ねていくと信用とか信頼になります。人からちやほやされることを期待しないで、表現で大きく裏切っていくように徹してください。

 それと、時間のなかで密度をだしていくことが大切です。だらだらになっているのは、自分のなかでどこか間違っているからです。表現ですからアピールし尽くして結果を問うものなのです。そういう人をみたら、まわりの人も助けたくなります。そこまでのことをやるかやらないかです。どんどん自滅していくような人もいますが、それでも人がみていられないということは、みてくれる人がいるわけです。そこまでのことを自分でだしていく。それはステージにでてきます。その力が一番大きいと思います。

 

 古い歌を使っていますがオリジナリティというなら、それを蘇らせる声とか歌をだしてください。聞いたものの本質を捉えて自分で加工していきます。その加工のところで間違ってはいけません。違ったことをしなさいというと違ったことだけする人がいますが、それでは駄目です。音楽というベースの線上にのっておくことは必要なのです。その上で声の技術で聞かせられてはじめて本物といえます。

 

 

 どんな人生であっても、皆さんの年まで生きてきたら伝えられるものはもっているわけです。それが伝わったかどうかもはっきりしています。皆さんも、聞いていてわかるわけです。その基準は、私と違わないです。私は感動したりいろいろ思うその心の動きと、皆さんのものがずれていたらレッスンはできないのですから。

 

 ただ、私は皆さんのように妥協しないだけです。プロとかアマチュアとかないです。表現を集中して特化してだしていけるかどうかです。風邪であっても、声がでなくても、体調が悪くても伝わるものは伝わるわけです。それは人間として伝わるわけです。そして、より本物として伝わるようにしていくのです。一声だしたらそれで人を動かすみたいな力を技術としてもっていくことです。

 

 人間一人の偉大さと可能性を信じ、絶対に情熱とかやる気では負けないことです。いろんなものがありますが材料ですから、皆さんがだしていくしかないと思います。自分で決まられなかったら歌えないのです。そこまでの自分の感性とか価値観を磨くことです。自分の心を動かすものを研究していきましょう。芸というのは一つの表現であって、人に喜びを与えられるのです。特化して集中して密度をだしていくことです。これから二年間、同じ時間をどう濃く過ごすかがすべてでしょう。

 

 

 

 

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【ライブ実習③】

 

 

 たまには何もいわないで、皆の感想文や評価をみた方がよいこともあるでしょう。私がいうとその場の成績づけのようになってしまいます。

 音にマイクがついた場合は、順番でも左右されますし、1番からやる場合と、最後の人から逆順にやる場合と変わってきます。本当は、そんなことも考えて構成すればよいのですが、ライブ実習までは、一応一人ひとりの舞台です。マイクとピアニストと会話しながら自分で全てやっていかなければいけないということです。

 

 個人的にも、全体的でも、同じような印象をうけました。今日、新入懇から②があって、②の前半はよかったです。④のイメージも全部通してみたという感じで、客観的に評価できるのではないかと思います。少しはここにいていろんなことを学んでいる人なので、基準をとっていうと、たぶん皆が聞いたのと同じだと思うのです。

 

④といえども、はっきりいうとそんなにうまくないわけです。声がかすれたり音がはずれたり、リズムがおかしくなったり、いろいろです。

聞いていると、最初は聞く人にバラの花を100本くらいを贈りたいと思ってか歌い始めていくのですが、歌の途中でバタバタ倒れていって、最後に一本、あるいは折れたのが一本、こちらに届くかどうかという感じです。いきおい、崩れても、気にならないし、声がかすれていても、届くものは届くのです。

 

 

 そこからみると③は、自分の家の飾りつけをしているだけなのです。

聞き手に届かない。聞く方の価値観もありますから、皆のなかで誰かの曲にすごく感動したとかいうこともあってもよいです。私がいうのが、正解ではありません。

自分のアテンダンスシートには自分が思った通り書けばよいのです。

 

ただ根本的に見ている世界が違うと感じます。ですが、それはそれでよいと思うのです。いろいろな世界をもち、いろいろな歌い方があってよいでしょう。

今日もいろんなアレンジを聞いて、何か違うというのをずっと感じました。誰が教えたのでしょう。そうでなければ、誰がアレンジをしたのでしょう。

私はそんな歌い方を伝えたつもりもないし、何年かぶりにここに帰ってきたら、こうなっていたというような異和感を覚えました。

 

たぶん、それは、誰かがやったのではなくて、その人がやったのでしょう。仮に誰かがやっていたとしても、ここの場合は音程やリズムやアレンジで歌い手の歌が左右されるわけではないです。伴奏やピアニストが変わったくらいで、歌が伝わらなくなるとかいうのでは、歌ではありません。それは、あくまで自分の責任なのです。

 

 

 皆が見ているところが全然、違うのは困ったことです。私が見たいのは、たとえば自分の絵をきちんと相手に届けるというようなことです。そこで、他人の絵を渡しても、すぐわかるわけです。

誰かに似ていると、アンバランスだとか、ウソがコロコロでてくるからです。それで通用すると感じているなら、おかしなことです。

 別に日本だから、外国だからとかいうことではありません。日本というのは水彩画のようなもので、私は水彩画で歌ったのですが、先生は油絵が好みなのですかという問題ではありません。

 

シンプルに何も伝わっていない。「命かけて」と、命をかけているように聞こえないし、「ちかった日」も誓っているようには聞こえない。「あのすばらしい愛をもう一度」というのにいたっては、何をもう一度欲しいのか、素晴らしい愛、とは、聞こえてこない。一体、何なのだろう。

 仮に音で伝わらなかったとしても、ことばはことばでよいのです。もちろん、私が聞いているのは、もっと音の世界なのですが、それはもし日本語として、体を成してなかったとしても問いません。

音の働きかけがあれば、そのなかで出会うということも、音声で表現するライブの場なので、ここの場では重視しています。

 

表情や姿勢のこと、マイクの使い方などのいろいろ細かいこともあるかもしれませんが、そんなもの全部、とっぱらって、あるいはそういうものは、あくまでプラスアルファで効果を出すために使うわけで、どちらにしても、その中心にあるものがなければだめなのです。

 

 

 よくダラダラ歌って人生送っていられるなと感じたわけです。歌というのはものすごく集約された世界で、普段ダラダラしている人が歌っても、そのときは精神的に緊張し、そこで出すものというのはなんらかの緊迫感をもって迫ってくるものです。

 それがイメージのなかにない人が半分です。何か仕事を一所懸命やっているときは、それは必死になって汗を流しているのに、ここでは「いーのーちー」のようになってしまう。そうしたら、歌のためにも仕事をやっていた方がよいのです。

 そんなことは、できない人はいません。もっとシンプルなことは、もっと音にできるはずなのです。

 マイク一つ渡して、ピアニストをつけてしまったら、ステージ実習のときにチョコチョコのぞく本質や真実みたいなものが全部、消えてしまってウソばかりが拡大されてしまう。だから、なかなかマイクを渡さないのです。

 

 本人がウソを歌いたいわけではなく、気づいていないわけです。それでは困ります。何のためにレッスンがあるのでしょう。

たとえば、レッスンのなかのわずか一ヶ所でも、あるいは2年間のなかのレッスンのなかでも、どこかで出して活かせたのでしょうか。どこかの素人さんのカラオケ大会に出て聞いているような感じです。少なくとも今日の歌には、レッスンは全然、活きていません。

結びつけなければいけないのです。レッスンで習ったように歌おうとか、そういう声の出し方をしようというのではなく、レッスンで、それなりに本質をきちんとみることをやっているのを、舞台で曇らせないことです。

 

こんな歌で一生、終わってよいのか考えてください。声が出るとか出ないとか、声量が足らないとか音程が難しいとか、そんな問題以前のことです。感覚の問題です。

 その感覚というのが伝わります。

まず、歌い手がウソをやっている。少なくとも1年以上みてきている人たちの歌に、その人自身のものが出ていない。どこかから借りたものを模写しています。

それから、私がピアノの音だけ聞いて、自分で頭のなかで歌っていたほど、歌に音楽も出てきていない。その二つが必要です。その二つを一緒に出すから、テンションと集中力がいるわけです。そうでなければ、歌なんて簡単なわけです。

 

 

 つくり出さなければいけません。本当のことをいうと、皆が見せたのは、逃げなのです。今から逃げてどうなるのかというような、頭で考えて、こうする方がうまくみえると、何もなく一曲まとまるアレンジをしています。アレンジの仕方が悪いとか声をひいた方がよいとか悪いとか、そんな細かな問題ではなく、もっと本質的なものです。どこかを伝えないといけません。逃げは歌のなかにあるわけではありません。あなたのなかにあるのです。

 

 どうしてそういうふうにして、ここで通用すると思ってしまうのか、甘すぎます。アイドル歌手にでもなりたいのでしたら、別です。本当に音符をつないで、その一本の線しかみえません。伴奏者も、その曲自体も、そのなかにいろいろな音が動き出して、それでいろんな魅力を出したいと思っているのです。それを引き出すのがヴォーカリストの役割です。それは自分自身が限定して体に閉じ込めています。

 

 待たなければいけないのは、発声の技術とか声自体をクリアにコントロールするという部分で、それが劣っているのはいいのです。それは、出したいのだけれど出せないということで伝わります。

 だから、④あたりになったら声がかすれて音に届かなくても、届いてくるわけです。ましてや、マイクがあるわけです。だから、それはそれ以前の問題なのです。音の世界をどう聞いてどう理解していくかというようなことです。

 

 

 昨日も音程、音感と、体の呼吸みたいなことをやったのですが、ロックも何かのベースの音で聞いているなかに、いろんな音楽が聞こえてこなければいけません。それはピアノでも十本の指で弾けるというようなことです。声だと一つひとつですが、一本指で弾く演奏ではないのです。ピアノでもそうですね。ピアニストの音を聞いていても、一本でドソソファミファソ、とやってたら、やはり演奏にはなりません。

 ヴォーカリストはそれを一つの声のなかでやるのですが、それを動かしていかなければいけません。

 

順調に伸びていく人もいますが、1年から1年半くらいは、また見えなくなってくる人も多いのでしょう。内側に入ってしまうからでしょう。体のなかの方でみてしまうのでしょうね。表現を出そうとしても全部、媚で、嘘になってしまい、本当のオリジナリティから遠ざかっていきます。

 それゆえオリジナリティは理解されないものですから、そのまま突き進むしかないわけです。それを、思いきり出そうとしたら、それはやはりパワーがいるわけです。理解されないものを理解させるわけですから。だから体の原理に基づかなくてはいけないのです。

 

 それを何か理解してもらおうとか、こんな音色にしてみたら音楽的に聞いている人にとっては心地よいだろうとか、そういうつくりというのでは、耳ざわりです。アイドル歌手の歌と同じだと思います。それがよいという人もいるし、そういう世界をつくろうとしている人もいます。

ただ、長い眼では深まっていないから、音での表現、音楽を獲得できていないのです。

 

 

自分が歌うことに対して、外に立ってみて自分をきちんとみるということです。自分のなかでみているのかもしれない。それから、まわりの人たちの目で見ているのかもしれません。でも、作品として、それが独立して動き出すということでは、みていないのです。それは、技術以前の問題です。

 音の世界に入る入らないというところでうろついていて、それをことばをどうこうしてひねってみたりアレンジをどうこうやってみても仕方がありません。だから、正攻法で勝負していかないといけません。

 

 アレンジはどう変えてもよいのです。それから、フレーズをどう動かしてもよいのですが、そのなかで、音がどう動きたくて、自分がそれをどう動かしたくて、といったかけひきが何もみられないから、ピアノでいうと、間違いなく楽譜を弾いたというだけで、とても平らです。平らでやっていたら、何か自分でもつまらないと思って、何かをそこで、パンと入れてみたり、速くやってみたりするでしょう。それをやるときのワクというのが、一つの音楽性です。

 

 マイク、伴奏の方に飲まれてしまっているだけです。最初の一フレーズがまともに入れた人、一人もいないです。「命かけて」のところです。伴奏がついても、それでアタフタしてしまう。アタフタしていないのかもしれないですが、結局そのときにピアノの先をいかず、あとからついている。遅れるのはあたりまえです。反射神経が必要です。オリジナルのフレージングなどもいつもの練習でやっていることです。音の世界で自分が歌いたい流れに身を浸してくることです。

 

 

 誰かがうまく歌ってから、それからその曲はものすごくよいから、それだけでやっていたら、皆さんの立場というのは、よい曲を、本当はプロの伴奏だけだったらよい曲を、自分の歌でおとしめてしまうことになるのです。それは、技術がないとかそういうことではなく、キィの設定から、もっというのでしたら選曲から、ほんの少し問題があると思います。

 歌いたい曲だったらよのでなく、その選曲に関しては、センスを問います。自分が知っている曲でなく自分を知っている曲、知らない曲をきちんとわかっている人は、自分が歌いたい曲より、歌って作品になる曲をもってきます。

 今のところ、いろいろな歌を冒険すればよいと思います。しかし、研ぎ澄まされたところで集約されていないとあなたの音は出てこないということです。どうしても、一見、プロの歌い手と同じようにやっているとみえるのかもしれませんが、そういう表現をとっても元気なのと雑なのが違うということです。

 

 歴史に残っていくロックのアーティストは、最初何をやっているのかわからないようでいても、そのなかで厳密なルールにのってっているわけです。だから、精神的に深いものとなって出します。崇高性があるくらいに高いものです。それを自分のなかで1枚くらいでまとめるのではなくて、100枚くらいにまとめて、99枚すてて1枚にしていく。そういうパワーで研ぎ澄まされてきたものでしか残りません。

 絵でよくたとえますが、デッサンというのは、そのものの形、本質の形をとるわけです。クロッキーでも線を1本、きちんと出すわけです。それが、まだみえていないのにそこに色を重ねてもよくないです。あまり重ねてないです。薄くぬって、それで、間違えないでぬれたというのは塗り絵の世界で、その構図は、自分で考えなければいけないし、色を自分で重ねていかなければいけません。

 そのなかに入っていかなければいけません。構成とか展開が全然、みえない。これも、日本人のとても苦手なところだと思います。ヘビメタを聞いてもパンクを聞いても、少なくとも人々が理解できるもの、媚びるのではなく、もっと別の意味で計算が立ち成り立っています。それがあるので、音楽のルールと自分と同時に成り立つのです。

 

 それにのっかってしまうのだったら、それにのりかえたやり方というのはあります。特に、日本のフォークの歌い方のようなくせのつけ方もあり、自分が引っ込んでしまうことで曲を共有する。自分の一番オリジナルなフレーズを、そのオリジナルな声を出すために、それだけ力がいるのです。

 皆のは音を伸ばしたり切ったりしているのはみえるし、音程がみえるのです。音楽が降りてくる状態をつくるのがヴォーカリストの役割です。

 自分のなかで、もっと声が高鳴り解放され、そういう流れのなかで一つになっていくことです。マイクがあると、もっとそのことを感じられ、出しやすいはずなのです。でも、それがやはりマイクに頼ってしまいます。そういう場合は、マイクは本当は使わない方がよいのです。、使いこなせない状態です。マイクに頼ったら、いろんなことができます。ただ、本質的なものをそこに入れ、それをより遠くに伝えたり効果的に伝えるために、マイクがあるわけです。

 

 

 歌というのは自分がうまくなっても仕方がないわけです。うまくなることよりも、それが伝わる方が大切です。伝わってなんぼのもので、だからといって媚びるわけではなく、きれいに声がのって、それだけで、終わってしまったのです。

 音との出会いというのは、難しいのですが、私は音と出会えるところというのは、ステージのなかだと思っています。1曲で出会えるというのは少ないです。ただところどころで、音声で表現する場で、その音が入っていればよいのです。だから、そのことと元気にパワフルにやるというのは、違うのでが、これが根本的なことだと思います。それだけの気(気持ちや思い)やパワーがないと、それはやはり伝わりません。前向きに、出していく力がなければだめでしょう。音楽が降りてくる、きちんと音楽にのっかっているというだけの調整力というのにも、バランスが必要です。

 

 スポーツでたとえると、その動き方というのは、初心者が飛び入りしたバスケットボールのゲームのように、走り回って一回もボールがこない。外からみて、それで何で点数が入らないのかを知ることで始まります。それで役割を果たしているのだったらよいのですが、全然関係ないところを走っていて疲れては意味がありません。

 

 そんなことが歌でも起きています。だから、それを統制するのが必要です。

一つのボールをメッセージにしたルールです。ボールがメッセージなわけです。誰から誰にボールを投げようというのは、感覚みたいなものです。

 そこで格闘することです。もっと裏にある大きなものと、それが何かみえない歌と妥協して、縛られて自分が何とか顔を出しているような気がしてなりません。鬼のようになってやれば、簡単に認められるものではないですが、きちんとしたものが伝わりえる集中度が必要です。

 

 

 逆にいうと、皆の歌というのは可能性がなくて、せいぜいこれで覚えられるとか、もう3音くらい深いところが出るようになって声量が3割くらい増しても、だからどうなるのだ、こんなものだろうと見切られてしまう歌い方です。それを今の時期にやっていてはだめなのです。

 確かにステージですから、それなりに整理してもたせるのはよいが、もたせた方の方向が全然違うのです。

 外に出るということは、とても難しいことなのです。自分を客観視するということ、批判性をもっていることが大切になります。

 たとえばここでやっていると、私もいろいろな人を知って、合宿などでも個人的な面もみえるときがある。それで、がんばっているのもわかる。ですが、がんばっているから、その人の歌に感動するということを許してしまうのは、内で聞くということです。外で聞くというのは、まったく知らない人に、そこで働きかける音声だけで、きちんと伝えていくということです。

 

 人情としては、やはり同じ出身地から出た人を応援したくなるものでしょうし、特に日本の場合はそうですが、よくありません。地元の市民が、同じ時期に育ったことで、歌い手を支えていくというようなこともあります。ですが、それを超えないのであれば、それ以上のことをやらないのであれば、体からどうこうやろうなんてことを考えないで、やはり最初からきれいな歌い方できれいに歌っていた方がよいでしょう。その方が苦労しないからです。

 

 

 歌も楽々身につくものではない。芸術的なものは、だいたい自分が苦しんでのり超えて出すから、人々はそれをみて安らぐのです。

 だから何か最近、「歌が楽しくないから何かもっと楽しいところでやって、それで歌の心を取り戻してみます」など、自分のカラにこもる人がいて、わかるのですがそこで背を向けたら歌でもないわけです。それを歌だというのなら、アマチュアのよさでも何でもなく、単なる妥協です。

 

 人前で出すものであれば、何か訴えなければいけないわけですから、その精神性において、こうやっていかなければいけないというのがある。だから、自分のを聞いてみたときに、何で働きかけないのか、聞き込んだら、その人が中で何をしようとしているのか、やっていることわかるはずです。肝心なところで、それを放してしまってはいけません。

 

 最後のところ、1、2、3、4のところで次に5のところに入れなければいけないところを4拍でフワーッと浮かせてみた、1、2といって3を休んだから次の4番の入り方を期待しているところを、そのきっかけを逃す。これは、楽譜が正しくないのではなく、そこでのなかで伝える伝えないというところの感覚です。

 何か情に訴えたり、そういう歌い方もありますが、ボヤいたり、ぼそぼそやっていて、舞台の上で伝わらないのです。

 

 

 ここに出てくるということは、当然ゲームに参加するわけですから、ボールがこなければよいというのではゲームのなかに入っていけないでしょう。

 それを受ける前にそのことは考えておかなければいけないし、受けたときには次に動いていなければいけません。その音がイメージのなかで、体のなかで流れていないと形の方にとらわれてしまうわけです。

 今日も名曲をやった人が多いのですが、そのスタンダードが何で名曲といわれるのか、そういうことを自分で歌って練習してわからないときに、ピアニストがどう弾いているのか、そのなかで、また感じ直すのも必要です。

 

 そういうことをとり込んでやらなければいけないのがライブの世界で、そこで勝負しなければいけません。正に勝負です。

 それまでに、自分のなかで何パターンもつくっておく、100くらいの可能性のなかで一つに絞り込んでこないとよくないです。単にうまいことをねらっているような歌が多くなるというのは、とても退屈なことです。

 

 皆の場合は、それ以上にうまさをみせようとかカラオケ得意のおじさん、おばさんみたいに「スゴイだろー」という優越感が、出てないからよいのです。でも、その方がかわいいかもしれません。

本当に淡々と歌っていてすごいとしたら、それは何なのかと、それはたぶん声量ではないし、声域でもない。その本質をきちんとみること。それは、自分のなかで出せるオリジナルのもの、声もスタイルも、つくり出す世界も同じです。

 それを出したときに、自分勝手に自分がこうだといっていても、それは通用しません。音楽と話し合ってこなければいけない、音の世界のなかで、それと出会ってこないと、それは我がままになる。しかし、それを貫くときに、格闘が起きるはずです。自分が出たときに音楽は引っ込んでしまって作品にならないし、音楽を出すとき今度は自分がどこかへいってしまって何やっているのだということになります。そのときに、自分の音色が生まれるわけです。

 

 

 フレーズを大きくとったり楽譜に書かれていないところでの音の感覚で、歌を大きい舞台にもできる。全世界と同じくらいの大きさにもできる。イマジネーションは無限です。

 それをとればとるほど、自分のオリジナルの声というのはとりにくくなるし、それから「自分のことばできちんといいたい」とか「感情を込めていいたい」ということは、のどがつくってくるから、その動きを妨げます。そのギリギリのところで出てくるのがポップスの音声です。

 

 これが出ている限りは、もっと力がついたら、体の力を使うとか息の吐く力がついて、もっと敏感になってきたら、そのことは直っていくだろうとみれるから、音程とかリズムとかはあとでよいのです。ところが少し学んできれいに歌おう、整えようと考え全部ひっこんでくると、通用しなくなります。

 本人はうまくなったと思い、まわりもそのようにいう。しかし基本からそれているだけです。基本をやらないからわかならいのです。ソロでは、絶対にもちません。それはその人自身ではないからです。だから、その二つのことをレッスンというのは、気づかせるためにやっているわけです。

 

 たぶん、歌を覚えたり自分のなかでこう歌おうと思うところでの格闘はあったと思います。そういう姿勢が伝わった人はいるのですが、もう一つ踏み込まないと、です。

そうでないと、手にきれいなバラをもっているだけのアイドルです。

手を伸ばしてバラ一本をとこちらに届けないと、こちらも受け取りようがない。この舞台のまえのところで自分だけでやっていると、勝手にやってください、となります。

 

 

 正直いって、もっと歌えるはずです。これでか、そう思わせてはいけません。リズムが刻まれ、ピアノがついたところで、もっと楽そうな歌い方ができたときに、ラクに歌えるほど、きちんと歌える人はそこで小さな声と同じで、もっとふんばらないと流れてしまうと、わかるはずです。一緒に流してしまっているのでは、ここではよくないです。

 

 いろんなタッチの仕方があります。それはそれでよいのですが、最後まで流れず、せめてどこか一ヶ所くらい踏ん張らないと心に残らないです。曲を、まず一つに捉えることです。

 課題曲の場合は、好き嫌いがあるでしょうが、どちらでもよいです。ことばでやっていくのだったら、そのことばで伝わらなければいけません。この曲の自分なりにいいたかったことが伝わっているのかどうかを自分なりに解釈してこなければいけません。

 

ことばはやりにくいからというので、音のフレーズや、音と音とのつながりで人の心を動かすことをねらうのではなく、結果的に動く。自分のことがきちんとできていて、そういうことは何なのかということをじっくり巻き込んでいってつくっていかないと、深まらないです。

 

 

 今日、できるくらいは皆、いつでもできることです。カラオケいってもできることで、ライブ実習のステージを使ってまでやる必要のないことです。だから、とても難しいです。

今日、他のことろでできないこととは何なのかというと、環境にもよりますが、少なくとも研ぎ澄まされたような空間のなかで感じたままで、そこでの音をうけて、それを自分でまた音としてつくり出していく。何が起きるのかわからないところを楽しんでもらえば、一番おもしろいことになるわけです。

 

 難しいことは難しいのです。「命かけて」と、二番からはじめた人もいますが、よくわかります。最初に入ろうとするのは難しいからです。そういうときはことばよりはフレーズなり音なりの方に、悪い意味ではなく逃げる、そちらに突っ込んでいった方が、もたせられるからです。

 そうでなければ最初くらいは、捨ててはいけないのです。だから、引いてはよくないです。どこか歌っていたら、人の体として、ひきたくなります。お客さんも、少しひいてくれという気持ちになります。そういうときに浮かせてみたり、高い方にフワーッともっていったりするから、実に効果が倍増します。どこもしっかりと抑えて立てないのにそれをやっては、バラバラという感じになってしまいます。

 

 歌も部分的に捉えてコピーしてくる人が多いのですが、それはその大きな動きのなかでしぜんに出てくる感覚の上で、「こんなのが出た」、「でもこっちの方がいいや」、としてきちんと歌うよりも感覚で選ばれてくるものです。

 先に正解をつくってやっていくと、歌は一つにまとまらなくなります。どうしても、そのつながりとか、それぞれのところはもしかすると正解らしい音色が出てくるのかもしれませんが、そういう全体のダイナミックさとかつながりとかみてたら、何かとってつけたみたいで、本当に2、3の接着剤でくっつけたようになります。もうバラバラです。

 

 

 それをその人がわかっていないことが一番、問題です。それが歌なんて思ったら、大変です。ものすごく複雑になって、いつまでたっても完成というか、深く入ってきてない。もう一度、ここでやっていることを考えてください。最初のスタンスと、本当に変わらないです。

 モノトークをやる。そのときの空間のなかで誓うこと。それにピアノがついてきて、これでバンドがついてきても、曲が増えても同じです。

 今日も気になったのは、何か形をとろうとしているということです。みえないのはよいのです。本当に、みえない結果、形が取れているのは、美しくてよいのです。しかし、みえているものをうつしている。

 

 そういうことをもう一度、音をきくということと、自分の音をみつけるということで、歌を一つにきちんとしてくることです。それをやってみてください。

 ステージ実習のときはまたそれなりにみえることもあるのです。マイクをもって消えてしまったら何もなりません。そんな印象をうけました。

 これだけは教えられないのです。その人のよいものというのはみえます。ただ、みえるのだけど、それを伸ばせないし、教えられないし、自分で通わせてくるしかない。その通った形に対して、方向性などは与えられるかもしれません。その方向まではきちんと自分で出してこないとよくないです。

 いろいろな批評、こうやった方がよいとかというアドバイスに左右されたようなハリボテみたいなものだと、それをどうこうできないのです。元に戻れとしかいいようがないです。

 

 最初の声だけ、あるいは音だけ、あるいは1つのメロディだけでもよい。通じさせることです。

 聞くところからもう一度、捉えなおすことだと思います。アレンジして自分なりの工夫をしてやるのはよいのですが、その工夫の仕方が自分を裏切っていたら何もならないです。

 難しい曲なので、このまま取りくむよりも変えた方がこなせるかもしれないと思うと、そこでもう負けているのです。自分で歌えないほどの大曲はない。そこに何をつくり出すかでしょう。この曲は素人の人でも歌っています。合唱団の人のように歌いたくないと思ったときに、どうするか。もう少し何かできると思うのです。

 課題曲、難しいのです。でも、全然こなせない曲ではないのに全部、歌おうとして、こなせていない。それが、今回の課題曲に対する結果です。

自由曲は、いろんな曲がありますので、一概にいえませんが、残るものがなかったような気がします。

昨日の②の前半の人の方がよほどリアリティに迫ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

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【Ei塾 コメント】

 

 いろんな感想があるのは、それはそれでよいと思います。刺激になるということでもよいし、あと、人が何をやっているかとか、自分のトレーニング法とかを発表しあってみたいなことでもよいでしょうし。意見のいいあいというのもそれはそれでよいと思います。

 ただ、そういうことをやったときにどうなるという結果がみえません。ディスカッションみたいなことの必要性は前からいわれているのですが、その、力量がない。やってみても、盛り上がってくるということは、ないでしょうね。それはわかるわけです。

 生きているとか生き方とかそれが正しいとか間違いということではなくて、そういうことというのは、そういう文化の背景がないとできないのです。職場でできないようなことが、ここでできるかといっても、これはある意味でいうと無理なのです。何で無理かというのは、そこで他の人に依存しているからです。

 

 私はいろんな人を動かしていろんなことをやってきました。それで、自分のことよりもいろんな人たちをみても、大きな物事というのは、たった1人の人の意志から動いていくことを知っています。

そのたった1人の人に対していろんな人たちが志を寄せてくるのです。

 そこを間違ったところでスタートしたものというのは、対等にいいあえる場なんてできないのです。

場を設けて合宿の3日間のように、一晩中話し合ったとか、いろんなことがあってもよいのですが、それでは退屈してしまう。そこでテーマがなかったとしたら、みんなで仕上げていくような目的がなかったとしたら、それを1つの意味ある時間にすることができるのでしょうか。

そう、人生にテーマをもっていないなら、、、。

 

 これはもう単純な話なのです。言葉はいくらでもいえるわけです。自分がどんなことをやった、あんなことをやった。私はそれをいわないで、その場でやってきた人間です。それが本当か嘘かは、やがてわかるわけです。それをミュージシャンというのは音であらわす。その音を聞けば本当か嘘かわかる。画家は絵であらわす。作品のある人たちはその作品であらわしていけばよいわけです。

 そんなところでもやもやいっていても仕方がない。作品をもっている人間がその作品を説明することを、求められたときに、気が向けばこんな考えで生きたとか、あるいはこんな思想でこれをあらわすためにやったのだということをつけ加えてもよいでしょう。小説家とかになってくると、これも言葉というよりはその世界です。

 

 

 討論もその1つの世界をだしているところにつくマニュアルなり、説明書です。その作品がない限り本当のことでいうと成り立たないのです。そうでなければそのへんの酒場のおじさんであろうが、高校生でも、みんなやっています。みんながいっているようなレベルの意見のいい合い、もしかするとその方が激しくやっているかも知れない。

 この場にきたら誰かが本音をいうほどバツの悪い思いをして帰っていくぐらいではよいのではないかと思います。その人は立派なわけですが、きっと無意味に人を傷つけていることを知り、やがてやめるでしょう。相手を受け手が大人でないところでは、ボールを投げても相手を傷つけるだけで楽しめないのです。

 これは別に日本の社会に限らないのですが、たくさん話す人が認められているような文化だと、それはそれでよいのかも知れないです。他の人のトレーニング法とか興味があるとかいうのも、ある意味で自分のことをいろいろというのも自信がないからいうわけです。

 

 これは価値観です。その生き方がよいとか悪いということではなくて、こういう何かをつくりあげようという人のなかで、もしそういうことでネットをつくったときに、やる人というのは、悪い群れなのです。

 だからあいさつをしあってお互いに心地よいと、こういうのはよいかも知れない。でもうそういう人たちが実際の場で生活もできていない、仕事もできていないとしたら、そのあいさつというのは洗脳されたあいさつで、とにかく人にあったら「おはようございます」といいなさいと強いられた、だから気持ちいいというのは誤解です。

 山に登っているとき、みんながあいさつするからいっているというのと同じです。

だから2回目ぐらいからはいきなり「あいさつ」だったら中級者か上級者になれます。それと同じでいくらそれをやっても、やっていることに心が動いていない以上、うわべだけになってしまうということなのです。

 

 

 これは難しい問題です。人一人がやっているのだということを自分におき換えてわからないと。逆にいうとその人が何人もいないといけないということです。皆さんも仕事でいろんなものをまかされているでしょう。それがどのレベルで任されているかということです。小学校の修学旅行の班長は立派そうですが、結局、先生が全部責任を負っているわけです。そういうところにおいてはできないということです。同じことがここのなかでもいえます。

 皆さんがそれぞれでいろんな会話をしたり、喫茶店に集まっていろんなことをやろうとするのは歓迎します。歓迎するけれど、あまりにそこで話されていることがくだらないことで、そういうのは、もうあきあきしていて、結局、ロビーや喫茶店で話す人というのは、自分が練習せず不安も感じているだけです。そうではない人はステージでみてもわかるし、話もいらないのです。そのために歌い手となる。

 

 でも声はできていないし、音楽の勉強ができていないから、私はそういうことで主張するのだとか、いろんないいわけがついてくるのです。はっきりいうと声ができていなくても歌ができていなくても、音楽わからなくてもステージはできるのです。その人がきちんとそのことで存在性があったらのことです。

 

 日本人だということで通用するのは、本当の意味では通用しない、もの珍しいだけです。結局、何かやっている人が歌っているというのと同じです。スポーツ選手が歌っているというのと同じです。これが日本人が海外で評判だなどと受けとめたりする。好意的なところだと、場が用意される。それは音楽で聞かれているわけでも、歌で聞かれているわけでもないわけです。そういうふうなことに対して、それを利用していくという方向もあります。結局、生き方とか価値観の違いということになってしまうのですが、それは違うと思うのです。

 

 

 自信もってほしいのというのは、人間1人の可能性というのはもっともっと大きいわけです。それが大きくならないというのは、自分が限定してしまっているわけです。歌以外のことで問うてはいけないということではないです。それは私もいろいろと問うているわけで、それはどちらがよいとか悪いとかという話ではないわけです。そのなかでどのレベルのことができているかということです。

 

 長くつきあっている人たちの音楽を聞かせられて、それで満足していく。あるいは満足してもらうという、世界もあります。村に帰ったら村の人気者でみんなが聞いてくれる。ただ、そのことと芸術性とか音楽とかを、一緒にしてはいけないということなのです。その人がへたな手品をしても喜んでくれるのかも知れないし、それは、同じ県の母校の甲子園野球を応援するのと同じです。本当は、その母校と関わっているわけでもない。ただ、同じところで生活し、同じ学びやでやったから、だから他のところよりも応援しようということだけです。

 

 本当に心を打たれているとか何かではなくて、それをもし音楽とか芸術というところでいうのであれば、プレーそのものとかそれで感動させないといけない。これはどちらがよいとか悪いではないのです。中途半端にしてはいけないということです。

 

 

 それをまわりの人たちとそういう形でやろうというのであれば、そういうやり方があるわけです。自分の地元に戻って、その地元の人たちと町をきれいにするようなことから含めて運動して、そのなかで愛されてその人が歌うことだったら、どんな歌でもよいから聞いてやろうという人がどんどんでてくるでしょう。そういう歌い手たくさんいます。それに対して音楽性がどうだとか、あの人の歌がへただといっても、まわりの人がそれだけの愛情をもって接しているのだからそれも価値なのです。

 

 ただ、その価値観でいうと、私はみんなのアテンダンスシートをみていますが、とても人様にだしてその人の思想とか、作品とか、ディスカッションできるレベルではないです。

 これはみんなができないということではなくて、だし方がわかっていないということです。だから今日の時間の使い方は、本当に試みです。もしそれがやりたいのであれば自分がやることです。ただ、間違ってはいけないのは、そういうことをきちんと目的をもって、それから持続させていかないと意味ないのです。

 

 自主活動とか自主練習というのは、どこでもそうです。ある意味でいうと、ここにこなくともみんなだけでできます。できますが、結局、1人の核がいなかったら、3年ももたないです。1年で多分誰もいなくなってしまうでしょう。ではそれが続いているかところの理由というのは何なのかということに踏み込んだときに、もう一つ深い芸術性であったり、あるいは思想であったり、いろんなものがあるわけです。

 

 

 そのへんはサラリーマンの会合でも一つの会社でも必ずそうです。ただ、その人がやれているということは、まわりの助けでやれているのです。私がいなくてもやれるでしょう。これはまわりの人たちが全部やっているわけです。そちらの方にどんどんひろげていけば、音楽から討論の会みたいになっていくようです。あれはあれで音楽よりも説得力があったり、客がおもしろいと集まるけれど、結局集まっている客のレベルがどうなのかです。

 

 何か著名な人がくるからとみにきているだけでは仕方がないのです。そうしたらそこででてくる発音、発声は、どのレベルかということです。それがためにマニュアルがある場合もあるのですが、結局そのシミュレーションを接するところから、そういう場にでたときに、ある意味では本音のレベルのところからはずれたところで、コミュニケートを目的にし始めるということがあるのです。

 

 そうしたらやっぱり1人でできていないといけない。だから何事かを成し遂げた人がぽろっとこぼす1つの言葉の方がわかる人にはわかるのですが、大きいということだと思うのです。それに対してトレーニングというのは、人間を知っていくようなものだと思います。最初はそのことしかみえなくてもよいでしょう。

 

 

 ボクシングでも柔道でも空手でも、中には強いだけというのもいますが、基本的に本当に強くなるということは、昔の「柔よく剛を制す」ではないけれど、力ではない。力ではないところで本当の人間の力が働くということがあるわけです。

 入ったばかりの人たちが自分のトレーニング法はこうだとかああだとかいっていても、これが聞いた方でも、材料が少し増えるということです。どれも、口にすれば違うだけだと思うのです。ある意味でいうとその人がものになっていないものをうんぬんしてもしかたない知識は一流の人に聞けないから、あるいは経験者に聞けないから、そういうことはゼミのなかで先輩に聞こうとか、そういうことでもよいのです。その方が楽ですから。何も大先生に聞いたり、技術の最先端の人に聞かなくても、まわりで扱っている人に聞けばよいのです。そうではない場合というのは、大体それで終わってしまうのです。そこで聞いて勉強できた程度で終わってしまう。だから勉強する目的が違うのです。

 

 発声の勉強しにきたのだったら、それはそれでよいでしょう。その代わり発声しかできないということなのです。発声ができたら何かできるなんてものではないし、逆にいうと歌ができなかろうが、発声ができなかろうが、声量がなかろうがステージはできるのです。本当のことでいうと誰でも歌は歌えるのです。それをそうではなくてさせているところは何なのだと。そういうことでいうと、アイドルとかタレントから勉強すべきことは、もっとたくさんあるはずなのです。ただ、ああはなりたくないと、もし思うとしたら自分のスタイルをそこでつくればよい話です。それも何もないところでやっていくと、迷えるのだったらよいのですが、迷いにもならないことが多いです。

 

 ここでも簡単なことでいうと、2年3年先やっている人たちの歌を聞いてみたり、そんな機会を活かそうとしてもよいでしょう。結局今できているということが、2年後にもその延長上にあると思えない人たちが多いわけです。もちろん、この人はきっと一生このことを高めていけると思わせる人もいます。本当に少しですが、学べている人たちがいます。そういうところでの接点が必要でしょう。それ以外のところから学べるようなものであれば、それこそカラオケの先生とか、作曲していた人とか、そんな人のところにでもいってみて学んだ方がよいでしょう。その道20年30年やっているわけですから、友達から学ぶよりも同じ時間だったら、そういう人に学のがよいと思うのです。

 

 

 シンセサイザーでもいろんな可能性がある。しかし、現代音楽というのはまた少し別の分野になり、結局、その五線譜の方にシンセサイザーだっていろんな音階がありながら、あわせた音楽しかつくれなくなってしまう。基本的に五線譜の楽譜だけになっています。

 ということは音楽というのは我々が聞いていたら歌と同じようにそういうものだと思って、それ以外のものは音楽だと認めないわけです。そういう実験というのは西欧だといろんなものがやられております。音、環境ということです。

 

 音とビジュアルするということも難しい話で、ビジュアルが完全に扱える人がどのぐらいいるかということです。劇団の演出をやっていたとか、映画の制作をやっていたということだったらよいのですが、私もそういう能力は欲しいのですが。いろんなものをみるので精一杯のところで、自分までかみあうまでまわってこない。センスがある人とセンスがない人います。だからいろいろやってみる分にはよいのではないかと思います。ただ、ここもいろんなサークルや、いろんな自主練習グループができたり、ゴスペルとかいろいろやってみていえることは、本質的なものからそれがわかっていない人がそういうものをやると、結局その世界が居心地よくなる。みんなで声だして一つのことを合唱でもやると、気持ちよいです。音楽が楽しい。そこから勉強できるということは多いです。

 

 ただし、多いけれど、しょせんアメリカ人の佐渡おけさと変わらないわけですよ。本質がいつまでたっても身につかないどころか、のっとられたようになってむこうと同じようなことをやる。それをやめた理由は、かなう可能性もないのです。完全に発声とかがむこうにあわせたような形になって伸びっこないのです。

 動きとか表情とかそんなものはよくなってくるかも知れない。それが楽しい人はそういうところでやるとよい。それはそれでよいと思うのです。

 こちらがあまりにたくさん用意してしまうがために、新しく入ってきた人まで受け身がよいと勘違いさせてはいけないという過保護なところがあります。本来であればアーティストが集まる場ですから、無礼講でよいのです。ただ、それで成り立っている場というのは、日本の場合サロンにしろクラブにしろ、あまりないのです。

 

 

 ただ、一つの条件があってクローズというのをつける。何かの基準であるレベル以上の意識の人だけにする。そうしたらそういう場というのは、できるのです。本当にそういう人たちだけが集まっている場にする。ただ、それはそういう人たちだけでないと入れない。くずれていくのは、面白そうだからこの人も連れたきたといろんな紹介者が入ってくる。そうしたら紹介されてしかくる人というのは、そのレベルより上の人をもっとすごいことをやっている人に限ります。

 日本の社会の場合はそうならないのです。「連れてってくれるよ」とか一般の人が入ってきたら、意見が聞けるとかいいますが、そんなのはもう嘘っぱちです。それは違う意味で何か勉強になるかも知れないけれど、そのなかでいったら結局初歩的な質問しかでてこないのです。はじめて入ってくる人にミルバやピアフをかけてみたって何ともいえないでしょう。そういうものというのはどこかで限定しておかないとわからないということです。

 それが型ということです。自由にわがままにやってみたら、その人の個性があらわれてきて、それが芸術になるというのは嘘っぱちです。美術もみてくれはよく、本当に天才的にデッサンも基礎も何もやらないでできた人はいます。ただ、よく調べてみると、一流となった人は、どこかの時期に、誰かにぶつけられて徹底して基本をやっているのです。踊りでもダンスでも武道でもです。別にクラシックやらないとダンサーになれないということではないけれど、その代わりのことを必ずどこかの時点でやっています。それが型です。

 

 それにはめられて、それをきちんとでるというようなところで、自分のところで対話してこなかったら、こういう場で時間をうまく使うことは難しい。それを一人一人が用意してこないとだめでしょう。

 だから意見をいいあい、活性化していくというのはこれは一つのやり方ですが、収拾がつかないと思うのです。これが仕事なら、半年後に一つのステージがあるとか、合宿みたいに3日後に絶対にアウトプットしないといけないという出口があってはじめて価値判断がでてくるのです。ここでも同じです。

 価値判断しないのは、みんなのステージが半年後か2年後、5年後かわからないところであります。座をやるのに対しては、アドバイスを厳しくできるわけです。それは何でかというと、その場の状況と客とそれからやりたいことと、すべてが明確に主張されていて、ぶつかるからです。

 それぞれいいぶんもある。こっちのいいぶんもあるというようなことで、全員が全部違う考え方になるかも知れない。ただ、少なくともその日がやってくると、それからそこでやらないといけない。それに対してできないことはいえない。今あるものをどこまで使ってやっていくかというようなことになるのです。

 

 そういうことがはっきりしないと、このディスカッションは難しいです。収拾もつかなくなって朝までどこかで酒でも飲みながら、10人ぐらいでいってたむろするパワーがあれば、そうしたらやればよいと思います。そうでないとこの2時間のなかでマイクお互いにもっていていいあっても、情けない終わり方をすると思います。

 まずテーマを定めること、しぼりこみというのが大切です。

 自由というのは型があって自由ですから、拘束があっての自由だし、自由で自由というのはないのです。それを考えればもう少しはっきりして何かできるかも知れないです。

 一つはそういう人の話を聞いてほしいということ。それからそれを1人でラジオで聞いているのではなくて、ここで聞いてみたときに何が自分のなかで思ったり、生じるかをもう少し楽しんでほしいと。話はわからなくてもよいわけです。そのあとにもう一つ違う形をとれるかです。

 

 

 テーマを時事問題としてやって、どのぐらいできるでしょう。だからみえている人とみえていない人の一番の違いは、自分の発言というのはどういうふうに場に影響を及ぼすか、そこまで考える必要はないのですが、それがある人にとってよかれと思うことが、他の人たちにとってよくない場合がある。それから今はよいということが、将来に対して考えてみたら悪くなってしまう場合もある。もしグループを組んで自主的に勉強するということであれば、はっきりいうと誰かが発したことに対して、具体的にそれを提示していかないといけないです。本来音楽で、もっとディスカッションできないとおかしな話なのです。

 これを全部みていてやるレベルの人たちと、まったくみないで論じる人たちの違いみたいなものです。いろんなものが頭のなかに入っているので、それをうまくひきだせるように場をかけてみれば、それはできるかも知れないです。

 

 今日みたいな中途半端な感じではなくて、ビートルズだったらビートルズだけについて、そのなかにかなりテーマを細かくいれて限定するのです。そうすると相当の勉強がそれに対して必要になってきてます。それまで組んできて全部やっていこうというのだったら、そういう提案があってもよいと思います。

 要はみんなでやることが楽しいというレベルと、1人でやれる人というのは1人でやっていますから、かみあわない。まずそれを何で自分は示していくかということだと思います。だから、それぞれ自分のスタイルというのが、でてこないと難しいです。

 テレビにでている人たちでもスタイルがあってアーティストと思う人たちと面とむかって話すときに、自分は何がいえるのかと、あるいは何を示せるのかということがわかっています。そこから何かださないといけない、それが何のかを徹底して煮詰めていくことが必要です。いろんな動きがみんなの方からでてくるのはよいと思います。吸収するということより、だしていくことが必要です。こういうわからない場にくるというのは、とてもよいことだと思う。アドバイザー囲んででもよいでしょう。

 

 そのときに判断しないといけないのは、その群れのレベルなり、そのなかでやられていることです。結局、自分に対してどうつっかかってくるか。思いっきりお前の歌はへただというような人がいた方が伸びるのです。そういう競争原理が働かないところではよくないです。それを働かせようとしたら、やっぱりその当人がそれだけのものをもっていないと、結局なあなあになってしまうのです。

 文化というのはきれいにしてしまうとだめなので清濁、ここにインチキな人もいて犯罪人もいて、いろんな人たちがいて、何人か知らないけれど、バチバチ火花が飛び交っている、そんなところでないとでてこない。ところが、それを日本の環境のなかでは求めるのは難しいです。そういう場になると一派が残って、一派が逃げていく。ここを公平、平等に扱っているというのは難しいことなのです。ここからもいろんなことを覚えていけばよいのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

【京都ステージ実習 一言コメント】

 

1.入り込み コツ 曲が進行してない。ことばで止まっている。ことばをフレーズにする。あるいは、フレーズから、歌にしていくこと。サビから歌になっている。途中のことば処理に問題。

 

2.手はあてないこと。フレーズ3つ平坦。体の動き。顔の表情ほしい。声のすなおさ、表情ある。2番から、やや同じに聞こえる。後半のサビ、テーマ、やや押しすぎ。解放させること。戻る「ブロック」があり、それに対する構成、段落。リピートオン、求め→とり出し「いきてゆく おまえ」のフレーズよいが、もっとできる。

 

3.リズム、フレーズこまかすぎる。大きな構成。姿勢、「オーネスティ」(音程、ぶつぎり)2番、入り方よい。高いところ、テンポ(スピード)半完成でも先に進む動きを重視。マイク、平行に使う(場合によって)。3番おちてきている。

 

4.上のフレーズ進行、よしあし、わからない。切っていくべき。下の音の支え(音感)、体で息を切る。バンドつけないとわからない。声の伸ばし方-好き嫌い、支えるべきでは? 最後の1コーラスよい。

 

5.こまぎれ、低音での練り込み。サビ(上昇)。後半、テンポ、メリハリ送れる。ややスピード難。呼吸、流れないところある。2コーラス、サビ1つよかった。

 

6.「におい」のあとで切る、気持ちを切る。ことばの構成。サビ、何か表現の変化「ここサビだよ」気持ちの切りかえ、焦点のもっていき方「ここにいる『わあー』」抜かない、きちんとしめる。体の動き、芝居を入れること。歌の世界、拡げること。狭くなっている。

 

7.入り方、テンポ感、スピード、もたつき。「きせつなの」音程。「はーげーしーいー」点を打っているだけ。「残すーため」決める。<アティテューション、態度形成、自信、スタンス>の問題。

 

8.音楽が聞こえてこない、ことば、フレーズ。上下の動きで拡大するのでない。ひびき、フレーズ処理よい。出口がない、示されていない。解放されず、ねりまわされている。

 

9.「しずかに眠る~」おとす、エンディングのおとし方。「忘れてしまいたいことや」雑。少しことばがつながっていない。サビ 力→2割抜いて、そこで伝える。テンポ感、速度、呼吸変える。

 

10.ノンブレス(やや長いのでは、もっと短く切る)、もっと早く吸えること。早く聞こえないようにゆっくり感じる。もう少し感じながら出す余裕。切る音、しっかり。(のど声)「Again」よくない。

 

11.入り方、イメージ、声悪、カタカナ伊語、ci sei tu。声出しているだけ。伸ばしているだけ。de la vi ta~(下線、発声のよいところ)。歌詞をよむ。何を伝えたいか。音の構成について。完全コピー。のどにひっかかる。

 

12.前、向こう。手のフリ、下に向いたまま。キィもう少し高く。声はよいが、使い方、構成。何かを起こして、おとす(ジャン)(ピーク)。パフォーマンス、舞台感覚。

 

13.表情、明るく(ミラートレーニング)。好感度。全身で語ること、気を声に入れること。よいフレーズである。それを下にもってくること。低音、ことば、だめ。トレーニング、苦しさを表に出さないこと。スポーツ、負け顔みせたら負け。客から眼をはなさせないこと。伝える努力。みせること。一人ひとりにきいているかと。

 

14.もっと集約できないか。「どれだけたばこを…」抜けている。サビ以外、抜くのでなく、より伝える努力。遊ぶところ。自分自身の解放。キャラクター設定、もっとハードヤクザに。タフガイでない。“トシ”入りすぎ→客に渡すこと。

 

15.ことばの走らせ方-もっと厳しく。思いが愛を超えること、「こと」をていねいに。ファルセット、差をつける。音楽が走っている。エンディング。きちんと気分的におわらせる、1番で一度、死ぬこと。サビ + ことば + サビ のことばが大切。

 

○つまらない。もっとうまいヤツがやっている、出ている。それは何でだろう。

○出続けること。