一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

迷いと光明(自立とアーティスト精神) 6228字 861

 

迷いと光明(自立とアーティスト精神) 861

 

 ステージの上を楽しむには力がいる。

力のないものは、ステージでさらに孤独である。

その力は、一人で身につけるしかない。

力を身につけていくには、この孤独が必要である。

(力がつくと、ステージ以外では孤独となる)

 どちらの孤独を選ぶか。

 

 それは、他の誰よりもやった分しか通じない。

 守られて育ち、ここでも守られていたら、どこでもやっていけない。

それなのに、どうして守られることを期待するのだろう。

 

 自由には、責任もリスクもつきものだ。

自由にやらせているところで、自由を使い切れないから、

自由でなくしてくれと、君はいうのか。

 

 

 レッスンへの不満について、

世のなかの先生や生徒さんには、

自分の居場所を平然と批判する人もいる。

 

提案できない人に、否定する権利はない。

自分がそう思うなら、自分がいるなら、変えればよいではないか、

自分の力で。

 

どこかに属していることで守られている。

それを隠れミノに、ぐちしかいえないなら、黙って、力をつけよう。

 

 

 どうも、いわれたことしかやらず(いわれたことの何分の1もやらず)、

いわれるのを期待している節がある。

いわれたらやるでは、いったい誰のために力をつけるのか。

 

 力をつけるのには、一流をみよといっている。

 百年たったら、何が残るのか。

他の国の一流とよばれている人がきたら、君は何をみせられるのか。

 そんなところから、考えてみることだ。

 

 そして、今、ここで、まわりの人に自分が何ができているのかをみる。

あなたにとっての目標とトレーニングとは何なのか。

 

 

 以前「ここでは甘えることも許されないのか」といった研究生がいた。

それをいえてしまう状況がどんなに甘いことなのか、

と唖然としたが(甘えることが許されないところでは、そんな発言はできないだろう)、

今では、それさえ懐かしい気もする。

つまり、甘えたくなるほど厳しいことさえ、やっていないように感じる。

 

 要は、努力とか厳しいとかいうことを強いられたり、そんなことで自虐的になるのではなく、

単に自分がどうなりたいのかということなのだ。

そのためには、自分がどうありたいのかがわからなくてはならぬ。

 

 そしたらあとは、そのために利用できるあらゆるものを

最大限、利用するということが明確になるはずだ。

 身につくかどうか、さらにやっていけるかどうかは、人間性による。

それがないなら、考え方で克服する。

 

 

 やれることもやらずに「できない」という、成人した“子供”が多くなった。

 今こそ、かつての芸人やプロに学ぶべきではないだろうか。

表面でなく、本質を学ぶために、どう学ぶのかを学ぶために。

表面しかみえず、ことば尻やことばのあやに翻弄される人に何ができる。

 

 人生も同じだが、舞台では、同じことは決して起こらない。

どんな状況にも対応できる力をつける。

 それを人やモノのせいにしたり、嘘を(自分に)ついたりしても、

すべては結果として、自分に、はねかえってくる。

 天に向かって唾しているのは、自分の人生への冒とくである。

 

 

 何か事が起きたとき(ハプニング)、常にそれを最大に生かして乗り超えていける力を学ぶことだ。

 上達しないのは、その覚悟がなく逃げ場をつくりすぎるためだろう。

ステージに逃げ場はない。ステージから逃げるかどうかだけだ。

また、人生に、人から与えられる特別な時間などない。

それは、自分がそう意識するかどうかだけだ。

 

 

 「待たされた」で文句をいえる人は、待たされないように

心地よくすごせるように求めているお客さんだ。

力をつけるのにレッスンよりも大切なことがあるのを知らない甘ちゃん。

だから、レッスンも身につかない。

 

 一人で学ぶことのできない、というより、

学ぶ姿勢のないもの、自分で自分を処し、おもしろくできない無芸もの。

誰かにいわれないと頭のなかで何も考えず、やろうとしない他人依存もの。

いつも、守られていることを欲する赤ン坊。

……どうして、歌えると思うのか。

 

 だから、やっていけない。やっていけた人とは違う。

プロの世界は、そうでない世界とは違い、その人のもつものを相手に与え、投じたお金や時間以上の満足を返さないと、続かない。

それは、続いていること(量)で証されることが多い。

が、実は内容(質)である。

 

 

 研究所を去る人の多くは、ここから旅立つつもりで、結果として、あきらめる道を進む。

自立の精神を得ずして、進む行き先は閉ざされるだけなのを、

これほどわかりやすくしているところでさえ、学べなかったのだから。

それは、その人にとって決して悪いことではない。

でも、世界の損失。

 

 一つの事があれば、そこで考えよ。

 それはどうしてなのか、

 そして他の人とは違う行動をとれ。

 何よりも自分のためになる処し方は、何なのかを考えよ。

 あなたの芸に、あなたの生き方に、それより何が優先するのだろうか。

 

 いつも迷い、迷い道をめぐるだけで、人生の多くは費やされる。

多くの人は、自分の居場所、ステージを定めたがらない。

会社、学校、家庭、研究所、それが何だというのだ。

それが砂のようなものだとしても。

 

 

 もし、そこが意味をもつとしたら、そこであなたが何をやっているか、

どんな意味をつくっているのか、だろう。

人生は、その意味が、価値をおびるまで待てるかなのだ。

 

 いつか、どこかではなく、大切なものは、ここにいつもあるだろう。

それがみえないなら、目を開き、聞こえないなら、耳を開くことだ。

 あなたのステージは、どこなのだ。

 

 

 そんなものを超えて、足跡を残そうではないか。

 地上に、人の心に。

 

 

 

 

 

 

○無防備でいること

 

 横尾忠則さんが直観やヒラメキで感じたことを絵で伝えるとき、次のようなことを述べていた。

 

 自分の考え(コンセプト)から自分のアイデンティティを証明するために使うのは、自分には役立つが、相手の意識や魂の進化に必要ない。理解したところでおわるような芸術は、何日ももたない。ただの欲。

 ところが、直観やヒラメキで肉体で表現されたものは、ことばや論理を超えた力が働く。それには、子供のように無心、無我夢中になることが必要。それで本人がまず解放される。

「上手に」とか「人に影響を」というまえに、「自分は何か」を問う。

 感性を磨くには、観察、よくみることから始めることだ。

 体で描いたものは、絵の息や墨にのりうつっている。

 そのエネルギー、パワーを感じることが、見ることであり、感じること。

偉人の字には、パワーがある。

 見つめているうちに、相手やその相手が、体でつくったものとの間に交流ができ、情報が伝わってくる。これを返して交流する。これは、ことばを超えた思い、情念のようなもの、そしてそのものの実体や全体がみえてくる。それが感じること。

 無防備でいること、ですべてのものが聞こえ、すべてのものがみえる。何かにとらわれていると、他の音が聞こえない。それができないのは、恐れがあるから。常識、一般の通念の拘束、それから解放され、肩の力を抜くこと。好き嫌いは単に感情、欲得、値段、他人の評価などで決めていることが多い。

 見られたくないものをどれだけ吐き出せるか、である。

宇宙と一つになって絵とともに活かされていること

心が体を動かすようになる。

 

 

 

この秋は、雨か嵐か知らねども、今日のつとめの田草とるなり(二宮翁)

 

 

Q&A

 

 

Q&Aコーナー

 

Q1 伸び悩んでいる

Q2 理解しにくい

Q3 いつできるのか、教えて欲しい

 

 これは、ごく一部の人の質問ですが、わかりやすいことが、親切だと思われている世間の風潮のなか、誰しも思っていることなので、あえて取りあげました。

私は、外よりも中で、ここで、より多くの闘いを強いられる。それは、外で知り合う人の大半は、私に限っていえば、大人で自立しており、中の人はそうではない人が多いためです。

 もちろん、ここが特別ということではなく、世の中はそういうものです。

私は外では人を選び、ここでは人を隔てず受け入れているためです。こんな質問は、外の人には答えることさえしません。

 私がいえることは、私も常に伸び悩み、理解できず、だからこそ、今もこうして歩んでいるということです。ただあなた方よりも、そういう年月を少し長く“生きてきた”ということだけです。

 だから私ができて、あなた方ができないことがあるとしたら、ただ、そう“生きた”ことの結果でしかありません。

 結果は、求めて得るものでなく、それにふさわしいプロセス(時間と情熱と、手間ひまをかけたこと)のあとについてくるとしかいえません。

 絶壁の底に真実の光はみえるのであり、超えることを楽しむために、問いもあるのです。

 

 本来、時間をかけて浸透していくべきレッスンが表面的な効果でしか判断されない現況は、困ったことです。大きくなりたければ、大きくものを捉えられるようになって欲しいと、願うしかありません。何年も人をみてくると、こういう世界は、結果として効率を求めた人から破れ去っていくように思えます。

もともと、理屈で考えたら、「どうしてやらなくてはいけないの」という世界でしょう。そういう人は、わかりやすいとか上達している気になるものばかりを独りよがりな基準で選び、もっと大きなものを育てることの必要を感じられなくなっていくからです。

 せこせこと対すると、せこくしか得られないものです。まさに、芸ごとの上達は、おのれの鏡といえます。

 いったいあなたにとって、歌とは何ですか。

 もっと、今、ここでやることを楽しみましょう。

私は、いつも楽しかったし、今も楽しいですよ。

きっとこれからも。生きていくほど楽しく、昔に戻りたいなど思いもしません。

「いつまでいるのかなぁ」と思ってやっています。

 

 

(参考までに、偉大なる野球人、王貞治氏の解説を再び掲げておきます)。

 

 <バッティング、ピッチング、あるいはフィールディング、キャッチングを野球の技術とするなら、もちろん他にもいろいろあろうが、この技術とプレイヤーである選手は、必ずいつか向かい合うことがある。技術と対峙するときである。

 「このままでいいのか」「このやり方ではこのレベルが限界だ」と思うときである。プレイヤーとしてレベルアップするときといってもよい。

 しかし、容易には解決できない。いろいろ試行錯誤していくなかで、本当に大切なことは何かという真理にふれることがある。ひらめきといったり、目の前の霧が晴れるように、といったりする。こういう経験を積み重ねていくことで、一つの考え方にとらわれない自由で柔軟な生き方を学ぶ。スポーツのよさの原点は、ここにある。

 野球に興味を覚え始めた少年の頃、少しでも上手になりたい。もっとうまく打てるようになりたい。もっと速い球が投げられるようになりたい。なかには、数センチ先をころがっていくボールを何としても捕りたい、と思うときがある。私自身もそう思うことの連続だった。

 そして少しうまくなると、もっと遠くへ、もっと力強くと、ますます野球のおもしろさに引き込まれていく。いつの間にか、野球が自分自身と切り離せない、かけがえのないものになる。勝利と敗北を重ねながら、野球を通して野球以上に大切なことを学んでいく。「フォア・ザ・チーム」の精神であり、真理と巡り会う瞬間である。

 この「フォア・ザ・チーム」が野球選手一人ひとりを極限の練習に駆り立てる。自分に課した厳しい練習が、強い心を鍛えてくれる。やがてプロ野球選手になったときに、他人が成しえなかった記録への挑戦が始まる。この挑戦をとおして、むしろプロ野球選手になっていくといってもよい。

 そして、容易なことではないにしても、壁のようにそそり立つ目標はやがて乗り越えられ、前人未到と思われた記録も、一人の選手の能力と努力によって、塗り替えられていく。それが数限りなく語り継がれる男たちの伝説になり、プロ野球の発展につながっていく。

 困難と挫折にもてる能力の限りを奮って目標に立ち向かい勇敢に克服していく。全編を貫くこのテーマが、とりわけ野球人と野球ファンを熱くさせる。まぎれもなくそこには、野球の劇的で感動的な魅力が底流にある。>

王貞治新巨人の星」4巻解説より)

 

 

 

 

【Q&A】

 

Q:(前略)どうして、福島先生はそう強く生きられるのですか。

 

A:私などがそうみえるなら、まだ世の中のほんの少ししか知らないということだと思います。私に限らず、そういう人は、きっと、他の人よりも弱いからでしょう。そして、死ぬことがわかっているからでしょう。

 簡単に希望をあきらめていく人、自分の可能性を放棄する人に、ここでは、まず何かをする前提として人間の意志の強さがどれほどのことを可能にするのかから示さなくてはならないようだからです(思うにそれが、芸ごとの上達の根本なのです)。

 その一つひとつの行動が、いつも歴史を動かしてきました。不可能を可能にしてきたのです。それは、いつも、たった一人の人間からです。

 

 私は一人の人間の可能性の大きさを信じています。幾多の先人の偉業に敬意を払うのは、人間、そのものへの信頼が自分を支えるからです。

ただ、それを実現するのは、簡単なことではありません。

そのため、そうみえるような役割を今しばらくは、ここでは演じさせられているのでしょう(きゅうくつなことです)。

 

 戦わない人にいてもらわないのは、“一緒に”やっていくことが強制にならぬように、です。

また、新鮮な気持ちで戦おうと入ってきた人の邪魔をして欲しくないからです。踏みとどまらなくては、何ごとも成し得ません。

 その意志をまげたとき、もう人間は死んでいるのです。

自分への信頼をもてぬとき、自分をあきらめたとき、それは権力者のどれいとなっているのです。

それは、歴史上で多くの人が私たちに与えるがために命の代償に得た“自由”の放棄です。

 

 そんな人に、歌って欲しくないと思うまでもなく、そんな人は歌えないのです。

ステージに立つとは、他人の生きている一生に一度の、その一瞬という時間を預かることなのですから。

 自分を自分として歩ませようと努力せず、他人の前に立てますか。

 

 レッスンは自分の闘いを自分で引き受けることであり、その自明のこと、自分の人生を歩むために、人は再び生まれなくてはいけないのです。

ことば、音に出会って、それをとりこみ、自らの意志で発するまでに―。

そのために、研鑽するのは、人前にさらされて生きることを選ぶものの義務です。

うまくここを使ってください。

 

 

Q:レッスン時に気づいたことや先生のアドバイスは1時間で無限にあり、その時だけではとうていノートに書くことができない。しかもすぐに忘れてしまうことがある。また後から振り返ったときに、その時のレッスンでの他人のフレーズや自分のフレーズを繰り返し聞くことでいろんなことがわかるはず。どうか録音を認めて下さい。

P.S.ここのオリジナルCDを作って販売するのはどうでしょう。

 

A:メモは頭に入れるもので、音は体にいれるものです。忘れてしまうのは忘れてしまえるくらいのものだから、それでよいのです。

録音は他の人の耳の迷惑になるので、認めていません。

それに頼る心が、ライブであるレッスンをぶち壊します。

メモするより、耳と心を開く方が大切でしょう。

ことばでとらえるために、ことばから出られなくなる。

いつも、一期一会です。