一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

トレーナーレッスン☆ 9090字  865

 

 

トレーナーレッスン 865

 

【リズム感を養う】Iトレーナー

 

「はじめに」

 歌を歌う人、楽器を演奏する人にかかわらず、音楽をやる人にとって、リズムはとても大切な要素の一つです。そして、ヴォーカリストは歌のなかでそれを表現しなければなりません。リズム感のある人は、もちろん手拍子でリズムを繰り出すこともできますが、いくら手で打てても歌のなかでできなければ何にもなりません。また、単に楽譜通りにできても、グルーヴをだしていくことができなければ人を魅了することはできません。

 どうしたら、「リズム感」といわれるものが自分に身に付くのか、「リズムの考え方」について、お話ししていきたいと思います。

 

「リズムは曲線のイメージ」

 リズムのイメージとしては、ギザギザした直線ではなくスイスイと前へ進んでいくような曲線のイメージをもっとよいでしょう。直線だと、固く、途中で止まってしまうかのような流れのないリズムになりがちです。なめらかに連続して流れていくためには、永遠に続いていくような、回転する円運動のイメージを思い描きながらリズムをとっていくことが理想的です。声のフレーズのイメージで、直線ではなくなめらかな曲線でとらえていくことと同じです。それでは、実際にどのようなやり方でリズムのトレーニングをするのでしょうか。

 

「リズムは体の中心から」

 実際、声でリズムをとる前に、体を動かしてみましょう。体の力がうまく抜けず固くなっていると、リズムも固くなってしまいますので、ウォーミングアップのつもりでやってください。

 まず、自分の前で曲線を描くなわとびをイメージしてみてください。イメージが浮かべられたら、体の中心である腰をそのなわとびと同じように動かしてみてください。なわが離れたら上体をのばし、なわが手前にきたら上体をしずめる感じです。なるべく、体がガクガクと直線的な動きにならないよう、なめらかに動くよう注意しましょう。

 

 もし、腰を思うように動かすことができない場合は、あごを中心として顔で円を描いてみてください。たて長の、だ円をあごで描くイメージです。

 はじめはうまくできないかもしれませんが、あせらずに、ゆっくりと円のイメージを描きながら回してみてください、この段階では体を柔軟に動かすことに専念したいので、メトロノームなどのガイドに合わせたり、曲のリズムに合わせなくても構いません。

 

 まずは、スムーズに体が動くようにしましょう。自分で違和感なく回せるよう体が動いてきたら、こういったガイドに合わせてみてもよいでしょう。

 いろいろなリズムを実践していくにあたり、「体のローリング」を覚えておくと、細かいリズムや難しいリズムになっても体の感覚が反応してくれるようになるので、最初から意識していくことです。

 また、初めは意識的に大きい動作でやってください。体のローリングが体の中心でイメージできるようになると、だんだん動きを小さくしてもローリングが感じられるようになります。

 

 

「発音器官のトレーニング」

 体のウォーミングアップのあとは、発音器官であるくちびるや舌の運動もしてみましょう。なぜなら、体のなかからリズム感を感じられても、くちびるや舌の反応が鈍いと、思うようにコントロールできないためにリズムが遅れてしまったり、均等にできなかったりするからです。

 

 まず、くちびるで、オートバイのエンジン音のまねをしてみます。くちびるの力を抜いてくちびるに息を持続して送ると、くちびるが振動してふるえます。それを、息が続くまで振動を止めずに続けられますか。振動がすぐに止まってしまう人はくちびるの力を抜くようにしてください。

 

 それから、ぶるん、ぶるん、ぶるん、(Brn、Brn…という感じで)ぶるるるる…(Brrrrr…)と声にだしていってみましょう。

 

 うまくできましたか。

 次に、舌でるるるる…(rrrr…)と連続させて振動させます。イタリア語などの発音で用いられるRの発音を持続させる感じです。この場合も、舌に力が入っていると振動が止まってしまうので、力を抜くようにしましょう。もし、まったくできない場合は、るる、るる、と2回いうつもりで根気よくやり続けてみてください。だんだん舌が浮いてきて、できるようになります。

 

 次は、以下の言葉を連続していい続けてみましょう。

「タカチキ、タカチキ…」

「ダカドコ、ダカドコ…」

「タッチ、タッチ…」

「ズクドコ、ズクドコ…」

「チキチキタカチキ…」「パカパカピキポコ…」など。

 他にも自分でいろいろとメニューを作って練習してみまししょう。

 

「まとめ」

 私はつねに「イメージ、イメージ」といってますが、音楽の音色、リズム、そして体のなかの感覚はみなさんも知っている通り、目で見て確認することができません。また、手で触ってみることもできません。その部分が体得する上で難しいところですが、頭のなかに絵を描くようにイメージすることで補っていくことができると思います。

 逆にいえば、イメージすることなく感覚をつかもうとすることは、迷路のなかで出口がわからずやみくもに走っているようなものです。つねに、到達すべき目標を見据えて、まっすぐ走っていくためには、イメージすることが必要です。

 

 今回は、「なわとび」をリズムの円運動を視覚的にとらえるイメージとして取り上げましたが、もし、みなさんがリズムをとらえる上でわかりやすいものがあれば、それをイメージしてもらってかまいません。自分の感覚が取り出せるようなイメージを、いろいろ描きながら取り組んでみてください。

 

 とにかく、トレーニングやレッスンの時は、気持ちを前へもっていくよう積極的に取り組みましょう。できなくても間違えても恐れずに思いきってトライしてください。やったもの勝ちです。気持ちが後ろに下がってしまうとできるものもできなくなりますし、リズムもどんどん後ろに下がってしまいます。前へ前へ一歩一歩進んで行きましょう。

 次回は、基本のリズムや拍、グルーヴやノリについて述べたいと思います。

 

 

 

 

 

【ポピュラーミュージックの聞き方(1)】 Tトレーナー

 

 自分の耳が変わった、声が変わった、歌が変わったと感じた瞬間というのは鮮明に覚えているものだよね。もちろん、日付は定かではないが、そうそう、あのときだ、っていうのを特定できる。私の場合その瞬間というのは、ピキーンとかいう類の音がして、体と意識にインプットされる。そしてそれ(それら)を、私は歌うとき、音楽を奏でるとき、聞くときに、必ずその感覚を再現しようとする。

 

 で、そのわかる瞬間というのはそうそう訪れるものではない。私もなんだかんだといって何年もだらだらと音楽と関わってきたけれど、それらは両手で数えても指があまるぐらいだ。

 私は主にそれをもとに、レッスンを組み立てている。それは、説明、解説の言葉だけではなく、舌足らずの自分を弁護するわけではないが、アーティストや曲やフレーズの選択にも表わしているつもりである。 

 教えるというわけではない。いわば材料の提供だ。それを形にしたり、そのまま咀嚼するのも、選択するのも受け手側の自由に委ねられる。レッスンの場、トレーニングの場は自由なのだ。

 その自由な空間から見つけだしたものが基本、前提だ。基本は音楽のなかに存在する。レッスンでもテキストでもそのことは取り出されている。

 

 我々は幸せなのだ。それらのことが目に見える。聞ける。記憶できる。信じることだ。信じられなければ、だまされたと思ってやってみればいい。しかも、全力で。全力でやってみてから疑うことだ。わからないのは、自分に力がないことが原因ということは多い。力は出さないとついていかない。そのことがわかるのも大変だ。

 

 ここでは、私はいやでも自分が何をやってきて何をやってこなかったかということを具体的に検討せざるをえない。力がついたなと具体的に実感できるもの、それが、わかった瞬間の話にもつながるわけだ。

 私は、主に大学の音楽サークルで、年に5回のライブがあった。一回のライブで覚え、歌わなければならない曲は10曲、単純計算で年に50曲で、4年間で200曲歌ったと考えられる。

 ほとんど英語の曲で私はそれらの歌のなかの言葉、音程、リズム、タイミング等、形上まるまるコピーしていた。ahだのohだの、つぶやいたりシャウトしたり、ライブ盤ならば、お客にしゃべっているようなところもコピーしていた(歌詞があるものも、ないものはコピーして)。

 そこにはおそらく、日本人が英語で歌うことのコンプレックスがあったのだろうが、単に私は人より英語がうまいんだという空しいアピールであったともいえる。そのコピーの結果、私には数多くのくせとアーティストまねが刻みこまれてしまった。そして、まねのくせにそれがあたかもオリジナリティーと勘違いしてしまっていたりね。

 

 だが冷静に考えると、リズムや音の感覚が何一つ組み込まれていない状態では、たとえば稚拙なリズムパターンしか出せないだろう。こういうことがあった。あるステージで歌った曲に関して、サークルの先輩にそれは違うよといわれた。今思うとそれは、語尾を動かしてしまう日本人的な歌い方についていっていたのだと思う。 

 ちょうどそのころはブラック・ミュージックを聞き始めたばかりのころで、皆にうまいとかいわれて有頂天だった私はそれを<稚拙な自分の感覚>で歌ってしまっていたのだ。自分の感覚だけでは、絶対になにもおこせない。いまならそう思うことができるが、当時は、もっと正確にコピーしようというぐらいしか思わなかった。そこからスタートしてコピーして録音したものを聞いて直して、という作業の繰り返しだ。それは今の歌をつくりこんで行く作業とは違う質を持つものだが、必要な作業ではあったのだろう。

 

 いつからか、英語の歌詞を原曲とは違う動かしかたをしてもあまりはずれなくなった。それに気づいたのは、ここのレッスンでGeorgia On My Mindをやった際、誰かがあるフレーズを動かしたとき、それは違うよ、と感じたときだと思う。そういうちょっと違うよ、と思うことをなんとしてもしないようにという意識が働き始めたとき、ああ、変わったとのだなと認識できる。

 認識した時点から、それは今までのレベルでのやりかたをさらに超えてスタートしていくのだ。簡単なことだ。わかるまでやる。わかったらもっとやる。もっとやればまたわからなくなり、新たにわかったら、それまで、わかっていたと思っていたことを潔く捨てられるかどうか。そういうプロセスのなかで、とりあえずやってみて、出そうとしてみて、歌ったときに、体、声、表現に一致して出きたものだけが、身についている、ということなら、その次はそれをいつでも確実にできるようにしていき、加えて、新たな発見の旅に出発すればよいだけのことだ。

 こんな簡単なことなのに、どうして私たちはそこで止まってしまうことが多いのだろう。結局、気力と体力の問題なのかもしれない。そう考えると答えはいたってシンプルだ。わかることも、わからないことも、つまりは簡潔にまとめておけばよいのだ。どちらにしろ、歌うときには、体をつぎこむことと、その体の動きが心を伴っていること、すなわち一致していることだもの。複雑にするから難しいんだよね。聞く、そしてやる。身に付ける。それだけ。

 

 ところで、popularという単語を調べてみた。多くの人々が愛し、尊敬し、楽むということと、大衆の好みに合っていること。(開拓社・OALD参照)ちょうどこれを書いている最中に、長者番付が発表されたのだが、日本で昨年もっともpopularだったのは小室哲哉ってこと。別に私は愛してないぞ。好みにも合っていない。

 でもよく考えたら私はそんな判断を下せるほど、彼の音楽について知らない。知ろうともしていない。きっと嫌いなところばかりじゃないはずだ。普通に考えて、全面的に嫌いなんてことはありえない。嫌いなイメージというのは、なんとなくのことが多い。思い込みとかね。わずかなことが、全体を支配してしまう。他人、権威に左右されることもある。

 私なんてロックなんか大嫌いだったのだが、ついこの前いいと思った。自分にとって、新しい音が聞こえてきたのだ。具体的にいうと、それはギターの音だ。とある経験から、ギターの音の、ギターの弦がピックとこすれ合う音にちょっとした快感を覚えたのだ。その音は以前ならば嫌いな原因だったのだが、その音を気持ちいい、かっこいい、と思えた。そういうことがあるのだ。

 

 ならばそれは好きなものであっても同じことだ。全面的に好きなことなんてありえない。おそらく好きな曲はいいと思わせるところが突出していてそこが好きなんだよな、という箇所が具体的に指摘できるのだ。それは、人間が共通に所有しているところをうまくついている、あるいは、持っているのだけれど、自分ではわからない新しい感覚を呼び覚ましてくれていたり、真のアーティストだけが踏み込める領域であったり。いずれにしても、アーティストは具体的に音として私たちに与えているのだから、それについて探ってみてはいかがでしょう。

 胸を張って探っているよ、とはいえないはずだ。ここにいるだれも福島英のように読み込めていない。ただの一声一音も、同じレベルでは。世界の基準が具体的な形で提示されている私たちは幸せなのだ。彼にいわれて、へえ、そうなんだと思った瞬間にお客さんになってしまう。ああ、あれはそう解釈できるんだ、と思ってようやくスタート地点。

 だから探ろう。わかるようになろう。曲でいったらこの部分、歌のこの部分、自分の体と息と精神が突き動かされる理由を知ることだ。身のまわりにテキストはあふれかえっている。あなたの、いま聞いているものから純粋な一滴をとりだしてみよう。

 まず、さっきのpopularの意味のように、愛し、尊敬し、楽しんでみればいいのだ。多くの、とか、大衆の、という言葉は誤解しやすいが、大衆も、結局は個人に帰結する。日本はともかく、欧米の個は強烈だよね、きっと。なにせ革命とか、宗教改革とかを通っているからね。三世紀にわたってその実践と、反動とを繰り返している土壌で生まれ育った人が、選びとったpopular musicだからこそ学ぶ価値が出てくる。またそういう人達を突き動かしている突出した人がアーティストなんだよな。ああ、書いていてちょっと寒気がしてきたので、この次(つづく)

 

 

 

 

 

【初心者へのポップスの聞き方】Sトレーナー

 

 わからないときには効率なんかどうでもよく、わからない1フレーズをわしづかみにして聞き続けるだけだ。聞いたからといってわかるものでもない。そのことがどうしても欲しいから聞く。ほかに理由はない。音楽を聞いていい気分になったり慰められたりホロリとしたりしたことはあっても、胸が痛むような思いをしたことがなかった私は、とにかくそういう思いをしてみたかった。

 要するになにも知らなかったのだけど、知らないからこそ、歌を「愛する」とか、歌っていると幸せでたまらないと人がいうのを聞くと「けっ」と疑っていた。気分に浸ることくらい誰にだってできる。私が知りたいのはもらい泣き程度のことじゃない、歌を聞いて死にたくなったり生きようと思ったり、そういう烈しいことが実際に私の身体のなかで起こることを知りたいと思っていたのだった。

 「聞き方」はその必要があるからで、耳が肥えるということは、この場合、深く聞けることで、また好きでたまらなくて聞くのとヴォーカリストになるため(つまり自分で音楽を生み出すため)に聞くのとでは違う。どちらも聞きたいから聞くのであるが、他人(つまりそのミュージシャン)の感覚が自分に心地よいということと、音が自分でそれを創り出すための糧になり魂や身体と直結することとは違う。

 同じ感動でもやはり舞台の上を想定するのと、観客席で聞くのとは別世界なのだ。そして舞台の上に立とうとして聞くとき、その必要があるとき、一切の感傷は排除され、饒舌さよりも一見ぶっきらぼうな響きや切り捨てるみたいな明解さを身体のなかに冷静に感じようとするようになる。耳の目盛りはなかなか細かくなってくれないが、接し方は変わってくる。

 

 「そんなふうに音楽を聞いて楽しいのか」といわれることがある。いらいらしながらきちがいのようにテープをピーピー戻していたらそう見えるだろう。音楽はそういうものじゃない、それじゃあただのオタクだといわれる。どうもスマートではないらしい。でも明らかに私にとって音楽は「そういうもの」であるし、そうやって求めるものだ。いらいらするのは欲しいのになかなか手に入らないからであって、べつに苦痛を忍んでいるわけではない。

 楽しい。その一音が身体に欲しいときは努力と忍耐がいるけど、それはなにも悲愴感を持つとか,こうあるべきだとかいうことじゃないのだ。どんなにうまくなりたいと思ったって、反省したりなにか掲げるだけでは音は身内にやってこない。取りに行くのは自分、見なければいけないのは自分のなか。何をしてもいいのだ。

 

 私のはおもちゃ屋で泣き喚く子供と同じで「だって欲しいんだもん」というだけのことなのだろう。それをおかあさんとか先生にじゃなく自分にいってるだけで。普通「欲しいんだもん」と喚くとおかあさんに叱られ、我慢しなさいといわれる。お金がないという理由と同時に、人はそういうふうに欲望をむき出してはいけないからだ。かっこわるい。みっともない。

 その部分において、やりたいことを好きなだけやるというのは極楽なだけにね。世阿弥の時代、能楽神宿る神社などで行われた。それにもかかわらず能役者が賎しい身分とされたのは、民の欲望の解放(能やお祭りは人々にとって本当にそういうものだったので)にブレーキをかけるためだったそうだが、うなづける話だ。

 私はヒステリーも起こすし、しまいには自己表現だの音楽性だの感動だの、そんなもの知るかと思ってしまう。わかんないのがいやなんだ私は...単に性格の問題であるような気もしてきた。なんだっていいさ。私は正しい聞き方なんてわからない。欲求をむき出しにして外から苦しそうに見えようと、スゴイ努力家に見えようと、どうだっていいんだから。

 

 初めて音に出会ったときの、あの叫びだしたい状況を人に伝えようと思うと、自分がまわり道した分もっとこうしたほうがいいのかもしれないとか、考える余地はあるだろう。でもまわり道することは悪いことではない。というより、実はやることなすことのほとんどはまわり道&無駄骨だといっても過言ではない。人から見たら暇だなとかくだらないと思うようなことでもやる。知りたいという思いしかない。

 そして出逢う、たった1音、たった一言。その駆け出していってその辺のおじさんをつかまえて、がくがく肩を揺さぶりたくなるような衝撃と痛いくらいのうれしさのため、一瞬にして無駄骨は宝石に変わるのである。

 好きなら、わからないことに飽きたりはしない。そこでいくら聞き込んでみてもわからないものはわからない。実際、聞いてもわからない。それでもいつも、宝探しのように、探し当てて自分の内臓が声を上げるまではピーピーとテープを戻し、これがわかるならのどなんかつぶれたっていいと思って、フレーズを繰り返してみる。(そんなことをしてはいけません)気分に浸ってるだけではないか、わかったつもりになってズルをしていないかどうか、わかるとはなんだとか、くどいほど考える。

 「つもり」は、いらない。本当のことが知りたい。ごくしぜんな欲求だと思う。それというのも、聞こえるというあの瞬間のため。後になるとその聞こえ方も「浅い」ものだとわかってしまう。でもその体験をすることは唯一の支えになり、自分を信じる糧にもなる。まわり道の間に少しずつ心身の細胞が変わる。

 

 間違っているかもしれないと、考えてはいけないというよりも、考える暇もなくていいと思う。大体、惚れた男がいたら、その人のことをわかりやすく教えてもらってからアタックしようなどと思うだろうかわかんないから、じゃあいいや、とは思わないでしょう。泣いたり落ち込んだり歯ぎしりしたりうぬぼれたりを繰り返す。繰り返すんです、ホントにいやというほど。でも惚れてたら無駄骨は問題にならないはず。軽やかに歌えず、自分をどんくさく感じるのはいやだ。それでもそのなかで最短距離を狙い最大限を尽くす。みんなそういうことしているのだ。

 歌を愛する、それがないと生きていけない、それなら延々と探しまわり読みまくり聞きまくる。情熱の度合い。もし面倒ならばそのことは、あってもなくても差し支えない程度のもの、でしょう。

 問題なのは自分がそれを生み出さなくてはいけないこと。どうやって。この、どうやってがきたときに必要なのが、感傷を排除し聞えないものを聞き取ろうとする忍耐だ。よい作品に触れ続けると、それまで感じなかったことが感じられるようになり感動できるようになる。嫌いなものでもよさがわかったりする。人はなぜ感動するかを知り芸術品のパワーに触れ、涙を流す。感じたことを書きまくる。そういうことで理解は深まる。大事なところだ。

 でもその先がある。舞台と客席の間にある一線。いいものに感動する心があっても、それが音として身体のなかに生まれない限り舞台側に立てない。つまりその作品の素晴らしさをわかるのと同時に自分をわからなければ意味がない。この歌はこうだから素晴らしい。でも自分はこうなんだということ。その違いを、観念や言葉ではなく、実際の音としてはっきりと違えられるためには、一度歌の素晴らしさに酔った状態からさめなければいけなくなる。作品として出たもののよさとはべつに、その音の意味、色、この人の線、自分の線、なんでそうなるのか、歌いすぎるとはどういうことか、嘘とはどういうことか、音に触るようにそれが感覚できなければ。

 するとBGM的にたくさん聞いてもだめだと感じはじめる。1フレーズに執着するのはそのためだ。感動させられるのは誰だって気分がいいから求められるが、こういう「作業」に近いことは、自分でもやるんだと思っていない限りやっていられないと思う。そこに辿り着くまでに時間がかかる。私はそこで初めて1フレーズを何度も聞けるようになった。

 それまでははっきりいって面倒くさかったし、好きじゃない曲は眠気をもよおす。概してそんなことまでして聞くのか、音楽はもっと心で聞くものだとかいうことに終始してしまうものだ。本当に聞こえる人はいいけど、そうじゃなければ仕方がない。好きな音楽を楽しむことだけで表現になるなら誰も苦心しないさ。それに,忍耐といったって,辛いわけじゃなくて,時間がかかってしまうという意味だし、面白いことには時間を長くは感じない。がんばるというのは何のことだろう。こうやって歌いたいということで充分だ。

 この前テレビに大リーグのバッターですごいらしい人が出ていた。(野球のことは知りませんので)例のごとくキャスターが「あんなにすごいホームランを打つにはコツとか秘訣があると思うのですが教えてくれませんか」と尋ねるとその外国人が「ボールが飛んできたら思い切りバットを振るんです」と答えたので私は爆笑してしまった。そうでしょうとも。

 そのとき私は長いこと落ち込んでおり、疲れ切っていた。答えた内容がおかしかったのではなくて、きづくとキャスターのまぬけな質問と同じことを考えている自分だ。ボールが飛んできたら思い切り振るそうなるまでの過程にいるのに、秘訣を聞こうなんて。聞いたってこんな体じゃわかりゃしない。わからずに止まっていてもなにもやってこないことは、このわずかな経験のなかでわかっている。コツや方法じゃなくて、一音を求めているか。求めるなら粘れ。そのなかにしかコツはない。かくて「そんなことまでして」音を聞く。なんでって、好きだからだよ、もちろん。