レッスン感想 867
まだ大きく動かすということをよくわかっていない自分がいる。声量でもない、そこを、もっと聞いていかなくてはいけない。あと、ことばを自由に動かせるようにしておく、ということがどういうことなのか、今まで何度もレッスンで先生がいっていたことが、やっとわかった。まだ、自分でこういうことだ、とつくり出せてはいないが、余分なものを一切はぶき、固めすぎずへたに響かせすぎず、次に続くように自由にさせておく、ということが先生の見本を聞いて余計なもののついたものとそうでない違いが聞こえた。
すると、フレーズをまわしたとき、多くが固まっていて、たまに変に響かせすぎがあり、1回ぐらい自由に動きそうなのがあった。自分はかちこちにぶつ切れたり、離そうと思うと、すごい響いたりしてしまうのがわかった。でも、こうわかってしまうというか、頭で考えてしまうということはフレーズに入り込んでいないということだ。あと、やはりフレーズは自分でつくり上げていくものだ、ということ。どこに重きをおき自分のフレーズにしていくか、それは何千回とフレーズを聞いたり歌っていくときに入ってきたもの、動いていくものを取り上げていく。
一日中夢のなかみたい。研究所へ向かう電車のなかも終わった後の帰り途もぼんやりと間が抜けていた。やたらとあくびが出た。下半身がもろく、すぐ疲れた。すごくのど声。ひとりひとり声のチェック。「イーエーアー」・口をしっかり開いて(奥歯)・口先で作らない・歌う感覚で「アーエーイー」・アの時舌根が息の邪魔をしている・全部同じポイントから出す・声を奥にしまい込まない。声をもっと前に出す。奥歯をさらに開く。それを意識すればするほどのど声になる。のどの先端になっていく。口を開くことに慣れぬうちはそうなるかも、というような先生の言葉。
音とリズムをイメージして取り入れることには慣れてきつつある。でもまだまだ自分のリズムやグルーヴを加えるゆとりはない。全体に精一杯大声で歌ってしまい、ボリュームを抑えるとうことが苦手。少音のところのがより気を配る集中力が必要になってくる。
基本として、メロディが登る部分は徐々に声を大きく、下がる部分は徐々に小さくしてみるのもよい。
とぎれとぎれにならぬように、できるだけ全体の流れをイメージして歌う。
今日先生がコードの組み合わせを変えて演奏してくえたことがとても面白かった。常々一緒に演っているギタリストから「曲はメロディからつくれ」といわれてた。確かに私が使う(知っている)コードは少なく、自分のキーの問題もあって似たようなコードで進行になることが増えてきて立ち止まっている。その答えの一例をまのあたりにした。
横に口を開いて奥から発音する。
縦に開く感じ、hotorock,positive(英語の発音をするときにリズム、拍を感じながら発声する、みんな同じ)口のなかでつくりすぎない。体重をかけるように、しっかり出してから舌を上げる。
.f/…下唇を軽くかむ、最初の方にfがある場合は、力をかけ長めに息を出す。後ろの方にfがつく場合にあまり意識しないで、小さく出す。子音から母音にいくときのフレーズをしっかりつなげる。
.V/…声帯を使う、息の音をしっかり出す。ブーがしっかりと聞こえるように。
.θ/…舌をかむ時間を長くして息の音を充分楽しんでから出す。音を出す前が長い。7
∂/…舌を引っ込めすぎず、出しすぎず、息をしっかり前に前に意識して。
単語一つ一つに意識しすぎて、不自然になってしまった。言葉の意味を伝えながら発音するとスピード感が出ていいやすかった。気持ちもポジティブになって外国人になると、けっこう自信をもってできるような気がする。“あ”の発音が全部苦手なので、繰り返し練習する。舌をかむのは、大袈裟ぐらいにやらないと息やよめている感じが伝わらないのでもっと強くいうようにする。
今まで何度も注意され、解ったつもりであったことも時間がたつとこうも忘れてしまうものか。1時間かけてゆっくりと一つひとつ記憶を拾い集めた。(先生が並べて見せてくれた)。
棒読み・棒歌いをしない。
感情・テンションが歌にとどかないと発声器官が動かない。音色が出ない。
ことばでいってみて感情が入らない状態のまま、歌って感情がのるはずがない。
口先の技術だけで作られた歌は聞きたくない。なら、そういう風に歌うな。
とにかくなりきる。歌の感情になりきる。
演じようとしない。マネは難しい。自分をその場面、状況に置いてみる。考える前に感じるはずだ。
その歌の、詩の行のどの部分を伝えたいのか。
ガー・ガー・ガーと毎回切れるが、全体を一つにつなぐ(感じさせる)グルーヴを持たせる。
全部をいい切るために息を少なくしない。音を出すことが目的ではなく、さらに強く息を出すのが目的。そして自分の力不足を知ることが大切。
声をきれいに出す必要はなく、乱れてもいいから今の声にさらに多くの息を流し込むにはどうするか、その接点をさぐる。音程や音色を意識するとき、息の量を調節しているのがわかる、たしかに首や肩のあたりに力が入っているかも。
声を前にとばす。投げつける。どうものど声になる。
「ウ」「オ」身体にひびきにくい。低音で前に出すのが難しい。中高音で息のスピードがある時に印象的な音が出せるが、私はまだのどをしめて出しているのかも。腹からの息の強化。「ア」「イ」「エ」身体に響きやすいし、音にしやすいかたちだと思うが、低・高音でのどにかかりやすい。「音が出ている」と調子にのっていると、のどを痛めることが多い。
「アエイ」エイでさらに口を開くイメージ。奥歯を5cm開くイメージ「イ」は特に上あごの奥歯に響かせる感じで。「イエア」エアでさらに口を開くイメージ。正逆のイメージで。
「サァスィセェ」サ、スィ、セ。口の先に充分なスピードで発音し、母音をぐーんとのばしつつ息を声に。声と息の何かがすごく見えた気がした。笑う方向に開口。
『「ア」しっかり開口→「エ」ベロ上げない→「イ」よこに開いて、上アゴ奥歯』アエイ・イエアの際、細かな注意を受け、あ、これかという瞬間は確かにあった。しっかり判断でき、探りあてるのにはまだ時間がかかりそうだ。なぜだか心が静かに澄んでいて透明度がある日で、ことばにはできないがいろんなものが聞こえたし、みえた気がした。ずっと言葉面だけで理解しようとして解らなかったものが、言葉じゃなくもっと深い部分で感覚的に身体が気づいた気がした。今、それを思いだし再現しろといわれたらできないけど、次に同じ場面がきたらきっときづける、ある感覚。ジャンルを超えて、すべての音楽に共通するであろう感覚。
テンション高く、割といい状態。身体もあたたまり、適度に緊張している。(たとえばもっと静かな曲でもこのテンションが必要なんだ)フレーズの入り際、切り際に集中力。歌ってはいけない。響かせ過ぎない。へんにのばさない。大声で広げるのでなく、もっと深く差し、スパッ断つ。絞り込む。余韻で表現する。沈黙は無音ではない。スピードとノリ。感情が支配するスピードとノリ。グルーヴ自分の呼吸、その回転から外れぬよう注意。
どうも「日本人がリズム感がない」というのは、もともとないのではなくて、人間全てが持つ根源的なところに迫れていない、そういうものを引き出せていないだけだと最近感じる。それを引き出していく一つの手段は重心を腰に持っていくことなのではないだろうか。重心が変われば姿勢維持や動作時の筋肉の使い方も当然変わるであろう。筋肉は脳への求心性の神経が存在し、常に身体の状態を脳に送っているから、姿勢により思考が左右されるという説がある。そういえば、姿勢と筋肉の気質との相関が精神医学の領域で語られている。少々飛躍したが、ここでやっていることは、人間の感覚を、体を変えることによって、四つ足動物のころの躍動感のあるものに変えていくことなのではないかとも思う。欧米人は感覚が日本人より動物に近いのではないか。自分で練習しながら、重心を下げていく(これは声のためにも)→その上で、一流アーティストと呼ばれる人たちのリズムの取り方等からその感覚に迫る(Beatles時代のポール・マッカートニーのベースを弾くときの腰をクネクネと流す感じとか)、というプロセスを踏んでいくことだろう。
リズムは回転しているとよくいうがそのことが自分の体を通して感じられたことが大きな収穫だった。Darling you~のling youにかけて回ってゆく感じがとても気持ちよいと思った。リズムは歌い手と客を結びつける上で大切なものだ。今までそういうふうには考えられなかったのだが、他の人のフレーズを聞いていてそう思った。歌い手の感じているリズム=呼吸を聞いている方も感じている。そのリズムが崩れてしまうと聞く気がしなくなるというのもよくわかる。
ひたれないヴォーカルとはいっていけない客の間にはコミュニケーションが成り立たない。最初体や息を中途半端に使っていてこれではだめだと思いとにかく使いきろうと試みた。そうしたらかなり大変ではあったが呼吸のリズムというものがつかめた。ねばるから次に素早く入るとか強く踏み込んだから跳ね返ってくるとか、頭でどうこう考えやることではなく、体が勝手に動いてゆくんだということを知った。私の感じているところはプロに比べたらずっと浅いのかもしれないが、こんな風にリズムというものを体の奥の方で感じたことがなかったので新しい感覚としてみていきたい。それとつかむ、離すという感覚も知った。
「At first I thought it was in fatuation」のフレーズはほとんどの人ができずこの私も同じようにできなかった。表面的にコピーしようとすればまとまるだろうが、そこには息が入っていないため何の印象もないただ流れて終わりというフレーズになってしまう。Atを1拍目として強く踏み込んでる人がいたがそうすると見本とまったく逆の呼吸をすることになってこれまたおかしくなる。Atでまずおいて、first Iでつかみ、thought it was inで踏み込む。そういう呼吸でやるとやりやすかった。多分もっと息がしっかりと流れより強く出すところを意識すればまとまったフレーズになるのだと思う。私の場合呼吸のなかでというより単語ひとつひとつが独立してしまいぎこちない(聞き苦しい)フレーズになっていた。
呼吸を止めないということが大切だと思った。のどを開いたまま体で声を切る。聞いている方は今のどを閉めたなんていわないだろうが、わかるものだと思う。ワンフレーズが完結しているというのではなく切れてしまっているように聞こえると思う。自分自身ものどを閉めてしまうと次につなげていくとき新たな気持ちで始めなくてはいけないから集中力も落ちてしまう。サビの感覚で出だしも始めるということは最近ずっとひっかかっていたことなのだが、少しずつこういうことかな、というものが見えてきた。私の順番の前の人のフレーズがピークで終わっていたのでそれを利用して(一緒に心のなかで歌って)自分のフレーズをはじめたらとてもやりやすかった。本当は自分一人のイメージでやるのだが、大きな呼吸のなかではじめるとどうなるかということがわかってよかった。
リズムが途中で感じられなくなってしまうのはなぜか。言葉ところしか感じていないからだと思う。前奏もフレーズとフレーズのつなぎの部分も同じことだと思う。音を常に流し続けられていないと言葉だけ切り取ったような歌い方になってしまう。見本の歌は軽やかだけど引き締まっている。自分のものはすごく重くていろんなものをひきずっている感じ。その違いは何か。基本的なことでいえば深いポジションがないから踏み込みが鋭くならない。それと全てをいおうとして固まってしまっている。引き締まっていることとは違う。一番伝えたいところに体と息を惜しまなければ引き締まると思う。
今日やったことはトレーニングならいいが歌うときにこんなことをやってたらもたないし、誰も聞きたいと思わないだろう。これからは伝えたいところをもっと絞り込みそのためにそれ以外のところをどうするかということも考えなくてはと思う。そのときに弱いところをつくると考えるのではなくより強調したいところを前に出していく意識が必要だ。こんな出し方ではまだまだ足らないと思う。
今までは胸で統一された声を使っていたのだが最近はもう少し深いところにはまるようになった。やはりポジションが深ければ深いほど動かしやすくなる。鋭くもなるしスピード感も出る。口先だけでは決していえないような音のつながりもいえるようになる。その声を取り出すとなると確実にはできていない。どういうとき取り出せないかというと表面的にうつしかえることばかりに目がいっているとき。感情の高まりと一緒にポジションが浅くなってしまう。支えているという感覚を確実にしていくこと。それとまだかなり力の入った声の出し方をしている。力まかせではなくもっと楽にひびくところがあるはずなので以前の感覚を再現できるよう探してみようと思う。
音程はとるものというより呼吸のなかに入っているもの。のどがひらいて腰でささえるということができてくるほど大きなフレーズでとるようにしないとからだの動きが止まってしまう。はっきりいって表に出ているものはまったくよくない。だがからだのなかで感じるものがある。リズムは表面的にとるものではなく、体のなかに入っていて呼吸で回っていくということ。その回転するところに乗りたいのに頭が邪魔をする。
感覚や体が変わったら何か出てくるかといえば大きく足らないものがある。音楽が入っていない。私が聞いてきたものなどたかが知れている。本当に足らなさすぎる。外国語を習得しようとする人は(本気で)食事するときも風呂に入るときもいつでもどこでも耳に音声を流しておく。音楽に出会って感動することは大切だけどどのくらいの量が入っているかは後々出てくることと思う。リズムというのも体のなかに入ってなければ自分のものになっているとはいえない。外国人が何の苦労もなく生まれてから少しずつ繰り返し体に染み込ませてきたものをいれていかなきゃならない。同じように20年かけていれていけばいいのかもしれないけれど、そうはいってられない。いぜんボブ・マーリーの映像をみた時彼のママが何気なくリズムをとっていた手の動きがやはり日本人のものとは違っていた。全身で受け止めていかないとステージで動けないヴォーカルになってしまう。まあそういう人はヴォーカルに離れないだろう。
音楽的な環境を自分でどうつくていくかこれは本当に大切なことだ。時間の使い方と集中力がこの先の自分をつくる。ジプシー・キングスのjobi jobaを表面的にコピーしようとしても絶対に無理だということがわかる。彼らの呼吸がわからなければリズムにのることもできないし歌うことなどできない。一緒に歌ってみるとわかるが、ものすごい息を吐ききっている。同じようにやったら私のからだはもどらない。このリズムにはついていけない。彼らの体は何の考えもなしに動いてしまうのだと思う。表現だけに集中できる体、声を得るには遠い道のりだが繰り返しやってゆくしかない。
いつももっとひきしまらないものかと考えていたが、最近少しずつその感覚に出会うことがある。自分の体がどのくらい使えるかということは常に試していかなくてはと思っている。ギリギリでやること。その繰り返しでしか凝縮されたものは出てこない。彼らの拍手を聞いていて思うことは音に何のすきもなく近付いたらはじき飛ばされそうだということ。私はあの密度で手がたたけるだろうか。全て感覚の違いで彼らにとってはあたり前のことなのだ。感覚を変え体を変え試すこのことについて最近思うことは長期間トレーニングすればできるというものではないということ。
日本人の表現は外国人のものとは明らかに違う。テンションの高さも全然違う。世界に通用する声、体を身につけてもそれに慣れていない客のなかで活動しつづけることは大変なことだと思う。結局客に合わせるようになってゆくのだと思う。自分が本当に心から叫びたいことを持っていなければ身につかないと思う。必要がないからあるレベル以上はいかないだろう。外国にいって外国人のなかでひとり歌うぐらいな気力がないと身につかない。だから10年に一人出るか出ないかっていわれるのだろう。私は考える。あんたはどうしたい、必要か。
<発声>奥歯の方まで広げる。頬を引き上げる。上アゴに声を引き寄せる。イから同じ形でエアと持ってくる。下アゴは緊張して固くならないように、動きやすくしておく。息を口のなかの上にあてて、イエアと引っ張る感覚で出す。“口のなかに握り拳が入っててそれをかむような感じ”という説明がとてもわかりやすい。確かに、そのような感じになる。今までもかなり体を使っていたつもりだが、最近の先生のレッスンは、このような(統一のレッスンなのか)トレーニング。さらに体のまだ使っていない力を使ったらしく、次の日、背中が痛かった。少し前の時期は、のどの開きをトレーニングしていて、かなり体を使うことを実感していたが、のどばかり開いていても、その声を外に出すための、口のなかの開きというものもあってそれによって、最終的に外に聞こえる声の音色が全然違うことが録音をして試してみてわかった。それにはさらに体が使われること、それは、出すための力もあるが、統一させるため、制御作用も働いているからものすごい力がいるのだ。
プロの歌手や、声楽の人の歌う、サビの部分など、大きな声のハズなのに、うるさく聞こえず、ひとつの固まりに聞こえる。その感覚のトレーニングなのかなと考えるが、とにかく、下にズルズルいきやすい私たちの声(歌)を、上へと引き上げる感覚を身につけるように工夫された内容がとてもうれしい。この口のなかの上に意識を持って歌うトレーニングをしていると、ポジションがはっきりとつかめていないと動かせないことがわかる。なぜなら、自分のポジション(軸)を中心に、声は上と下への引っ張り合いだからだ。軸がなければ固定されず、声はあちこちへ広がって戻ってこれなくなる。
私は最初に下へ向かってトレーニングしていた。上に行く方法がわからず悩んでいてある日上に少し行けるようになったからなんとかよかったが、そのクセがまだあって上と下という区別がまだ歌に出てしまう。けれど、この引っ張り合いがあってこそ、声の力が出て、それをコントロールすることを覚えていくのかなと思うようになってきた。特に、口のなかの上に息を当てて上下に声を動かしてトレーニングしていくと以前より何となく区別が少なくなってきたように思う。というのは、のどを開けていても、最終的にのどから出た声を支えるものが体しかなくて、体の固定だけでは不安定だ。
けれど、その声を最後に、口のなかの上に当てられた息で支えると、とても歌いやすい。支えるというより、バウンドされて声を飛ばしてくれるというか。とにかく、うまくいえないが、安定するのだ。コントロールしやすいのだ。それに、音色も断然よい。特に、低音や中域でのソフトに歌う部分など、息に乗りやすくて、そのままサビにいっても、力次第でポジションを変えずにいける。私はまだそこで引っかかるが、それは言葉の処理がうまくいってないから。始めに書いたイエオのような統一トレーニングができてないから、いい換えてしまうところで引っかかる。母音の、この統一の処理を課題にしたい。というより、これができるようになれば、歌えてしまうだろう。
最近またカンツォーネをよく聞いている。歌い方どうこうよりも、カンツォーネ歌手の声はとてもシンプルで、自分の耳もそのシンプルな音に慣れてきて、その音を一つの見本として、(基本として)残せるので、そういう意味でカンツォーネがわかりやすい。キレイな母音があって、言葉が乗るのだから。言葉が難しい。歌が難しくなっているというより、シンプルになってきているから、言葉が浮き彫りになる。その言葉がいえないから難しい。そしてその言葉の置き方こそ、オリジナル・フレーズに欠かせないものだからだ。その言葉の置き方は、自分のブレスと兼ね合いがある。その辺は、歌の練習で、自分のブレスのコントロールを知って、それを詰めていくこと。まず、歌のなかでいろいろなことを試して、足りないことを別にトレーニングすること。別トレーニングも必ずやらなければならないが、まず、歌うことに慣れること。歌ってみて、できないところをトレーニングすること。そして、自分の“異変”に気づくこと。自分の歌、声、変化してきているかを敏感に感じとれなければ上達はしない。自分がしていること、詰めをもっとチェックすること。最近では、自分の声、歌を録音したものを、とりあえず冷静に聞けるようになった。
映像はまだイヤなものですが、音は自分でこういう声を出しているんだなとだいたいわかるようになった。マイクの使い方はまだわからないことが多くて、逆にアカペラより歌いづらいことがある。モニターが聞こえすぎると、声を躊躇してしまって声を伸ばす(広く)ことができなかったりするので、中途半端になる。コントロールができていないのでアカペラの力をそのままマイクに持っていかないと今の私の歌のベストは出ないので、マイクにも慣れないと。ただ、自分の声に慣れたといっても発表会の映像を観ましたが、もう絶対観たくない(聞きたくない)という感じ。たかだか2ヶ月くらい前の自分のしたことだが、凄くイヤな声を出している。人が聞けば、その時も今も変わりがさしてないことなんだと思うが、自分では少しの変化も大きく感じるのだ。けれど、そこが問題で、人が聞いても大きく変化したと感じさせなければならないんだな。それは、自分にとってみたら、大革命を起こさなければ人の耳には大したことに写らないんだな。声は確かに出るようになる。が、自分の勝負となる自分の声の音色を見つけるために、まだまだ、使われてない、試していないトレーニングはあるようだ。そして、まだまだ体力は必要なのだ。最近のなかで感じることは、偏見や好き嫌いを問わず、よいものを聞く、そのもの(音)に慣れるということは、とても重要なことなんだなと改めて感じる。
「声そのものを聞くのではなく声の裏にあるものを聞く」というのは何回きいても感覚でつかむことだと思った。とにかく一流のヴォーカリストを何回も何回も聞いてつかんでいくしかない。プロのフレーズを聞いて歌おうとするとどうしてもものまねになってしまう。これでは意味がない。どうすれば自分のものを出せるのか、それが課題だ。今の歌じゃカラオケの場で歌っているのと変わらない。ステージの歌になっていない。その差は何なのか、これも課題だ。トレーナーの人が「今まで180度違った感覚を身につけていかないと伸びていかない」といっていたがそれは何なのか。少なくともカラオケで歌っている感覚の延長で歌うのではなくまったく別の次元の感覚なのだろう。とにかく毎日の練習でつかむしかない。
レッスンは、常に私を戒める。何かをつかんだ、と思って喜んでいると、次のレッスンでみごとに打ちのめされる。一つのことが少しつかめると、うれしいから、そればっかりに気がいって他が学べなくなってしまっている。一つのことがわかったら、それに気を使わなくてすむはずなのに。各レッスンの中身を自分で薄めてしまっている。フレーズに対しての集中力も最近欠けていると感じる。声に気をとられて充分にフレーズに入れない以前の方が体でフレーズを感じて出そうとしていたと思う。フレーズに入るまでにやっていた、リズムを体で感じることは、きちんと意志を以て音のを置いていくためのものだったのに、フレーズに入ったらそんなの全てとんでしまって、声のことばかりになってしまっていた。
ただ体から声を出すということだけに集中しそしてまわりの人たちの声を聞いているうちに、全身が感覚になったようになってきた。そのなかで私は精一杯誰かに自分の存在を呼びかけているのだが誰も気づいてくれず、もしくは皆私と同じように自分の存在を呼びかけるのに私が(気づいてはいるが)理解できない。そのことが人間の宿命のような気がしてきて、とても寂しく悲しくなってきた。私は混ざり合い、溶け合ってしまいたい。だけど他者とは永遠ある断絶がある。混沌と孤独。涙が流れそうになった。私はその時、理性を持ち出し言葉を頭のなかに並べ自分を客観視し、自分の立場・状況を論じることによって、涙を止めた。その一方でそんなことはやめて涙でも何でもさらけ出してしまいたい。という強い思いを感じていた。私は何なんだろう。私は私を許すことができない。だけどあなたと触れ合えたらいいと思う。
高い音出すときのあける場所(ドレド)
奥歯息を吐くのが先になる(吐くのではなく流れる)支えて始める出そうとしすぎる一音目乱暴すぎる(息の支え・ひびくあてる場所)先生の声は前に行って、私の声はそこにとどまっているアー<アーアーあけて息は下がる(ラミラ)前に突進するつもりで体で出す。体とつながりがあればいい。先生がつながっているのはわかる。1回つながった感じのがあったが、どうやって出せたか思い出せない。歌の時の「んー」で抜かないって何だろう。わからない。わかった。たとえば筆禍得手動かす感じか。
Yo先生にも何回か指摘されてわからなかったところだ。引っかけて動かすんじゃなく全部出す。全部支えのもとに出す。歌の時「声が浮く」って腹から出てないっていうことか。どんどん、最初からあがっている。腹より高いところ支えられてないところで出しているということか。声と体がバラバラか。でも、そうだとしたら、読むことに戻って、ラララに戻ったらそこで一致したらすすめても一致するんじゃないか。最初がバラバラだ、ということか。歌への入り方は2つあるのか。発声から表現からと。
「抜く」というのがどういうことをいわれたのがわかったことは、とてもよかった。これで具体的に気をつけることができる。声が浮くのは嫌だ。前に飛んでくる声がいい。息を抜こうとして抜けるようになりたい。一音目の乱暴な声は嫌だ。声が流れ出てくるのがいい。自分のなかでからまわりしない聞く一に飛んでいく声がいい。自分が気がつけることが、より気づけることが理想だけれでも指摘してもらえることは本当にありがたい。量が足りないんだ。いっぺんにやっても集中できない。自分をサラにして何回でも耳をダンボにしてやってみる。今の自分のとっても大事な課題。身につけたい。難しくても、時間がかかっても。
今感覚している「息を吸う、支えながら吐いていく」そのプロセスのどこかに余計な力が入って不自然な部分があるのだ。この苦しさはおかしい。支えるのに必要な力以外の不必要な力をどこかに入れてしまっている。維持するのに必要な力、支えるのに必要な力以外のところに力が入ってしまって余計な疲れをつくり出してしまっている。息を吐く、吸うのプロセスはもっと気持ちのいいもののような気がする。息をしているときは「吐こう」としていないのに、「出そう」とすごくしている。そこに力が入っている自然に流れ出ていくのをときに応じて必要に応じてコントロールしていく。
「とにかく、音楽の聞き方を変えること。素直に聞くこと。勢い。」といわれた。素直にフレーズに身体を入れて歌うと、動いたフレーズとして聞こえる。聞き方、感じ方、身体と、そのなかに通る神経への移し方を体感した18日/私の今の課題は、息があって声が乗っている、いわば勢いで出す声から息にのせる声をめざしている。特に歌になると、自分が息をきちんと意識しながら出せる声(音域)より上の音になると、まるでほんとにギアがガクンとしたように突出した声になってしまうからだ。もちろん声が出ているから息も出しているんだと思うが、まるで息が見えなくて声の一直線のような歌になってしまう。なので発声練習では、なるべく、息の線を感じようと努力する。すると、息を見ようと意識をすると、身体が突然重くなる。腹筋というか、支えが見えてくる。まさに、身体の支えと息の密接な関係を感じる。支えが足りなくなると、そこで息が見えなくなる。一瞬のできごとだ。
発声練習では、自分ではそれらのことを四苦八苦しながらやっていたが、先生はよく皆の声を聞いて「声は無理矢理出すのではなく、ポジションのところで流れる息に耳を傾ける(感じる)こと。」というアドバイスをくれた。私は秘かに「うぉーそうなんだよそうなんだよ」と喜んだ。これは数をこなすか、時間を費やすしかない。時間がかかる理由は、自分の息の流れが感じられなくなる音域のところで、まず「ハイ」のポジションで入れなければならないことから始めなければならないからだ。それがないと響きだけになってしまう。響きに頼るのは決して悪いことではないが、その、今、私がハイで入れない音域は他の人から見たら決して高くはない音域(Gの音より上)で、GABあたりの音ですでに響きに逃げていたら、たいした歌にはならないからだ。Bまでくると響きが混じってくるのは、その歌をどう聞かせるかにもよるので今は響きとうまく混じわる声になればいいなと考えているが、GとAに関しては確実にしたい。
発声「イ」…上あごに響かせて上あごから頭に響きぬけるように
「イとア」の注意点…イに対してアといったとき…アの音が奥に引っ込まないように
「ア」…アが引っ込まない。イと同じ、前に響き出す
「スタカート」…あたるところが同じであること、あてる箇所に:上あご
なるべく地声を使わずファルセットで行う
細かい音の動かしやすくする方法…「ン」…n(に)の発音を入れる
声出しすぎて、出てくる人と出なくなる人とタイプがある
力で押さない。鋭さだけで柔らかさがなくなる←これは芯ではない。力だけど、いきみで出さない。へんな響きになる。
細かいところを刻む時…必ずお腹使用。のどで刻まない。
地声ではない
作ったこもったオペラ歌手声違う
ポジションが上、頭声・口を大きくあける、上に笑うように、頬上げる。得られること
声が聞ける
理論が聞ける。
声を発してみないとどう出るかわからない、というのはまだあるが、たいてい1秒以内に「うまくいく」「ちょっとダメだ」という判断を自分でしている。「うまくいく」ときはその流れに乗っていけばいいし、精神的ゆとりがでいるためか身体も対応できてイメージにそって動かせる瞬間もある。「ちょっとダメ」な流れを変えることが難しい。次々にぶら下がって失速したり、タマ突き状態になる。妙な計算が働いていくようだ。心のゆとりがなくなり、身体がかたまっていく。歌のなかでサビや2番への切れ目を見つけて建て直しをはかることもあるが、強い精神力が必要である。
今の自分の状態じゃアテンダンスシートに学んだこと何て書いても意味がないばかりか害になる。書いて満足してしまっているし、自分の意欲のほどを担当の先生に示そうとしている面もある。学び方自体も含めて自分にとってよい方法を自分で気がついていかなくてはいけない。今は先生方のいうことを「ふむふむなるほど」とノートに書き写し、それに自分の考えらしきものをくっつけて終わりにしてしまっている。それで学んだ気になっている。たとえば自分の好み以外のジャンルの音楽もたくさん聞いた方がいいというアドバイスがあったとしても、そんな必要ないと思うならそうしなけりゃいい。だけど何年かしたら考えが変わるかもしれない。それに気づいたときに後悔するかもしれない。でもそれでいいと思う。やっぱり必要性を感じなければ、本当の意味で学べないし、恐いのは、ものわかりの悪い奴だなと思われたくないあまり先生方のありがたいことばをたやすく受け入れてしまうことだ。受け入れてしまうゆえに理解していることと、していないことの区別があやふやになってしまう。もっと自分の勘や感覚に頼った方がいいと思うし、本来そういうものなんだろう。頼りの勘が的外れで、まったくの遠まわりをしてしまうかもしれないし、ひょっとしたらそれで人生棒にふってしまうようなことになりかもしれない。それはそれでしょうがない。そこまでの人間だったってことだし、使わない勘は錆びる一方だろう。
ここが自分の活動の一部であればいいのだが、そうなっていない。また近頃トレーニングが目的になってきてしまっている。本来自分のやりたい音楽(歌)をトレーニングのなかやここに通っているんだという妙な安心感のなかで見失ってしまう。単純に好きな歌を歌うのは楽しいが、本来自分がやりたいのは詩・曲を自作し、歌うことだ。そのことを忘れちゃいけないし、それがなければとっくに音楽をやめている。まあ、こんなことを考えるのも今回限り。それと、努力だとか信念、根性、自分に負けるな、ハイテンション、ハングリー精神などの前向きな言葉は全部捨てよう。モチベートづけに関するお話しも今はいらない。それらの言葉というのは実は客観的なもののようあ気がする。今、道を行こうとしている主人公が使うことばじゃない。人それぞれ言葉の解釈の違いはあるだろうが、自らが努力してがんばらなくてはなんていってるようじゃダメだ。そんな無理することならやることないじゃん。特に、好きな音楽であれば。
会報で合宿での「地の声・天の声」の箇所を読んだことはあったが、さっぱり書面ではイメージはわいてこなかった。今日もはじめの方、いや最後の1、2回でやっとあぁなるほどとみえてきた。はじめの方では、ただ人の声の波に自分の声をのせていっただけだった。人の声にのせるだけでは何にもならないのだとあとでわかった。何か真暗なくらやみに放り出された感じで、なにがなんだかわかんない空間を体験できてとってもおもしろかったです。最後に班に分かれて「悲しみ…怒り…喜び」の表現をしたけれど、こういう風な表現は初体験だったのですごくおもしろかったし、(はじめはまったくわからなかったのでおもしろくなかったのですが、だんだんわかってくるとおもしろくなりました。)はっきりと自分の表現もわかるものなのだと思った。人と一緒につくっているのだけどまったく個人の力、個人の表現。ただ1人じゃない分プラスにもなるし、マイナスにもなる。いいものが集まれば相乗効果でどんどんすごいところまでいくし、そうでなければいいものもかき消されることもある。悲しみから怒りというのはとってもわかりやすいし、誰にでもできるんだなと思った。それを超えたところで喜びを出すというのがなかなか難しいものなのだ。先生が「喜びが先にあるのをわかってて、とりあえず悲しみ、怒ってみる感じ」というようなことをいわれたけど、なるほどとそのときみえた気がした。でも自分の出した「喜び」はもっと強く出すべきだったかな(ちょっとあいまいさもあった)…と思った。みんなはまだ怒りモードが残ってうごめいていたから。
発声練習では、自分が課題としていることを明確にして、それに沿って行うこと。ただ、声を出すという感じにしか聞こえないと指摘を受けた。そして伸ばしたいもの-自分の課題としているところは、完全にする気持ちで取り組みこと。たとえば、発声練習のなかで、ある音より上になると、頭声になってくる部分とかがあるが、ならば、それはそれで使えるように鍛え上げること。偶然や、勢いのままにせず、部分部分、自分の声を知り、確実にすること。
ーー
課題曲レッスン
エディット・ピアフ「padam padam padam」
三段跳びみたいだ。3つだが遠目には一つに見えるように。考えもしなかったが、均等ではない。1回目のpadamの“pa”の入り方がものすごくするどくて、深い。そのためか2回目はやや流しているがそれは3回目のpada~mで完結している。と感じた。アタックする焦点を(ふみこむ)さらに絞り込む。精密にする。それを強調するべく挑戦したが、まったく駄目だった。自分のキーに合わせようとして音を高くしたらフレーズのイメージを見失ってしまった。何回やってもだめだった。
中島みゆき「ひとりでもわたしは生きられるけど でもだれかとならば 人生ははるかに違う~」
単純ではないメロディだと思うが、私にはすごくすんなり入ってきた。(イメージできた。)なんだかおどろいた。日本のニューミュージックの「型」みたいなものがあるのか、彼女のメロディのくせが自分にインプットされているからなのか。すんなり移調できる、たとえばレゲエや演歌のメロディの動きは割と想像がつくが、ブラックコンテンポラリーやファンクの動きは予想外で、短いフレーズでもなかなかおぼえられない。
「そうさ君に伝えよう こらえきれぬ熱い想い ただひとりの女のえがおが 忘れられず高まる胸を」
流さないフレーズと、言葉尻を流さずにグッと切る。止める。リズムが見えてくる。つぶがきわだち、メリハリが出る。ファンクの気持ちよさ、あのブリブリッとした感じ。
ダッダーラッダッダッ、ダッダーラッ、ダッダーラッダッダ・ダーラッしっかり切れている。×ダーダーラーダーダーではあののりが出ない。×ダンダーラダーダンでもちょっとちがう。あの小さい「ッ」がミソなのだ。
「わすッれッらッれッず」は一番わかりやすいポイントだ。・踏み込んだ後の流す(うかべる)あたりはさして重要ではない。言葉の意味が伝わるようにまとめ、それらが大きな流れのなかでひとつになるように。歌を大きくひとまとめにとらえる。その歌のポイント(伝えたいところ)はどこか。フレーズのポイントはどこか。今日は先生の実演が多く、それがものすごく解りやすかった。
中でも「ただーではなくただ」の解説はなるほどだった。ここのところまったく歌ってなかった。そのかわり毎日2Km程度走っていることで歌い出してみると身体が反応した。身体を入れる(使う)息をしっかり入れるという先生の実演もすごく感じられた。ライブの、私の自由曲へのヒントがたくさん盛り込まれていた。本当に価値ある時間だった。
「ただ一人の女の笑顔が」聞いたとき、大きいフレーズだったので、自分もそうやっていこう、と思ってやったけど、ただ声をはりあげてしまい、「ただ」の「だ」に大きくアクセントがいって、ことばとして聞くこともできなくなってしまった。声量ではなくハイの基本からあまりとびださないように、そう指摘され、今度は頭で考えすぎて体も固まってしまい、出てこなかった。
わすれられず…スタッカートのサビも全部均等に打つのではなくグルーヴ、うねりを意識する。
むねNe(え)を~、むmu(う)ねを~…踏み込む場所をかえるだけでフレーズのイメージはかなりかわる。母音を利用してなめらかに処理する例。やりすぎるとくどい。
イメージがないまま歌い出したら何も動かない。何も残らない。
その歌ごとに対する自分の呼吸があると思うが、この歌はしっかりイメージできたと思う。しっぽはつかまえられたようだ。それを追いかけて、1時間引きずられっぱなしで終わっちゃう日もある。心のこりだ。以前にトレーナーさんが、歌に関するイメージの話のなかで「自分の腰に犬のロープをつけて、一ヶ所でふんばる感じ」というようなものがあった。歌のイメージがしっかりみえていると、さあ来いと腰を落としてまわりを見渡せるようなゆとりがわいた。気持ちの持ちようも、声を出す感覚も。「当てにいかない(いってはいけない)」という意味がわかる。
ジャニスの曲の頭の、「Cr~y」のなかに、リズムが入っているとは、以前に何度も聞いたことがあったのに、今まできづかなかった。ちなみに同じような例として、Beatles のRevolution(シングル)の頭のギターが、三つずつの固まりで回転していることにきづいた。今までただの雑音というか、SEのようにしか聞こえなかったのに。もっと自分で探してみよう。おそらく「何でこの人はここをこんなに伸ばすんだろう」、とか「分からない」と自分が思うところに、これからの課題があるのだと思う。最終的には、「分からない」→「わかる」→「わかるけど私ならこうする」→「自分でつくる」ことが目的。
♪I shall never never forget youあなたに♪の部分。まずリズムどおりにneとneとforと あ を強調してみる。でもこれだけではもちろんだめ。他の人のを見ていて思ったのだが、もちろんリズムをとることは大事。だけど聞いている人にリズムをとっていることをわかれてしまうと、次にどう来るかが完全にわかってしまうからつまらない。まずI shallの入り方でこの部分の呼吸の流れを決めなくてはならない。頭で考えたフレーズだとI shall neのところで、 shall は8部音符にして、neでためるというのがかっこよさそうなのでやってみると、自分の呼吸にあわない。 shall →neverに山を作って入っていくやり方が、しっくりくる。ここで、頭で考えたフレーズを無理矢理呼吸に合わせようとすると失敗してしまう。気をつけなければいけないところは、無理矢理あわせているのにそうとは気づかずに嘘の流れを作ってしまうこと。そうすると次から次へと平気で嘘をやってしまうのだ。
「ある日恋のおわりが」ジョルジュ・ムスタキ、大塚博堂
いつかこの恋は終わる時がくる
愛しあうのはこのひとときよ<><>…
ひと夏の恋人に想いをのこして<<<<~
もう冬がくる忘れたいのに<><>~
曲に自分の感覚・色を込めていく。和洋バージョンの対比がとてもわかりやすかった。日本語は言葉の意味に忠実にまとめたらなるほど大塚さんの歌い方はとても正しいと思った。でも音楽として感じるならオリジナルのがおもしろい。やはりおもしろいが、そのまま日本語をはめるとわかりにくい。音楽・流れを壊さずにメロディ・フレーズを動かすことは難しく、どうしても基本型にはまってしまうのが悔しい。言葉の一つひとつをどのように形つくるかでも全体のイメージは変わるようだ。最後に通して歌ったときに、今日やっと自分らしい(納得のいく)フレーズに近づけた気がした。他の人の歌を聞いたとき、声を聞いただけでその人がどのような姿勢で発しているのかがわかった。よく見えた気がする。
「愛の讃歌」フレージング。気がたるんでたわけではないのだが、まったく歌のテンションに追いつけなかった。わかっているつもりではいるんだが、ともかく大声で歌うことしかでいなかった。自分が興奮しなければ、興奮を伝えることはできない。ミルバの歌にはゾッとした。思わず身体が動いてしまう、動かされてしまうようなパワー。それを支えるバランス。あれほどのダイナミックな演奏を従えてしまうちから。わからなくなったらメロディ・言葉に戻る。150kmの球が打てないなら、ともかく150Kmの球を見る努力。自分のなかのキラキラを凝縮して出す。外へ出す。歌い出しで引きつける。いかにきづき、守勢していくか。
バリトンの完全に体を使いきった音色。つかんだところを離さずに出していっている音色。方法や、覚えるとうことでなく、体に置き換える→体でやること。考えきる。
考えきってから捨てる。考えを捨ててその後に湧き出してきた時に体と出したいものが一致する。、
ポイントを置いて深さを出す。そうしないとさらっとただ流されてしまうだけになる。動きが見えていないといけない。そこにしっかりと体が使われていることが感じとれるように。同じ言葉を繰り返しているところがいくつかあるが、繰り返す意味を考える。その言葉をどんな音色でリズムで打ち出していくか、どうしたら伝わるのか。曲の流れから見ても同じように歌ってはいない。一聴するとどうしても軽く歌っているように感じてしまうこの曲。でもその感じたままで歌ってしまったらぜったいこんな感じは出せない。こののりを出すのはとても難しい。また、深さを出すということも難しい。大きな声を出すことでもなく、重々しい感じでない深さとは。
“What's going on~”と繰り返すところはより立体的に自分のなかできちんとイメージでいていないと単調になったり、とってつけたような違和感を感じさせてしまうかもしれない。先へ先じぇTP読んでいくことももちろん必要だ。自分がどこへ行きたいのかをはっきりさせておく。テーマは重いのだがこんな風にのりのよい曲に仕上げられていることにセンスの違いを感じる。この曲で感じるのはそんな重いテーマでありながらも聞いていて暗い気持ちにならないというか希望がみえるような力を与えてくれるような感じを受ける。(と私が勝手に思っているだけですが)それはこういう曲調だからという理由だけでなく、マービン・ゲイがそういう気持ちを込めているからなのかなと思ったり。何をどう表現したいのかを自分でもはっきりと見せたいと思う。そうするためにはするべきことは山ほどある。
Ther:' something in your eyes. That tell me somethings in the air. And I would simply die. If you would say bye-bye.※雪村いづみを聞いて気づいたこと、感じたこと、思ったこと。・学びやすい人・全部浮かさない・声伸ばす感じのところ→少しバーブラストライサンドに似た感じ・楽譜通りに近い歌い方・アレンジなるべくしない感じの・リズム・声動かし方の人。So tells me that cha-cha comin outt-tonight.That cha-cha meetin that cha-cha kissin'met-tonight met-tonight bye bee.Ain't cha-cha commin' t-tonight meetin-sweetee-shooga'h.チャチャでキスだチャチャでお日様ご機嫌だ365日。あけてもくれてもチャチャベイビー
ホリデイズ オー ホリデイズ(休日・休暇)
1.人はなぜかしら、いつも何かを求めすぎて疲れているholidays 2.私は空を飛び、ガラスのような青い海をみつけたのholidays 3.私の住む街はとても小さくて見えないのholidays 4.私はこの街で夢を探して恋をしてたholidays 5.いつか再び、全てを捨てて飛び立つのあの空へholidays
役立つこと:量の効果。おはようマルセリーノお目々をさませ おひさまお空で笑ってみてる マルセリーノマルセリーノかわいい天使 一日おもてで子馬のように マルセリーノマルセリーノ走っておいで 課題:こういうやる方法の意味を考えること(フレーズトレ)(目的)→ワンフレーズにこだわる、1音にこだわる。
R&B、バリトンなど久しぶりに多ジャンルの歌に触れ、素直に新鮮だと感じた。それぞれ音色もフレーズの持ち味も違うが、みなそれぞれのスタイルを確立している。日本の歌の対比は特に正反対で興味深かった。
石川さゆり…玄関や庭がきれいに整頓された家。ときにはスープかなんか奥から運んできて、白いテーブルでおしゃれにいただく。
世良公則…奥の茶の間で賑やかなパーティをやっていて、ドアや雨戸まで閉め切っていても音が近所に聞こえ、家全体が揺れている。
ヨイトマケの歌がアレンジ次第であれほどおしゃれになるのかと思った。
男が女を愛するときは演奏の足踏みとヴォーカルの足踏みが一致しないようになってて、すごく世界が広げられていると思った。
フレージング(岸洋子)いつかわすれたけどある日目がさめると
(強引な曲線)4コマまんがをいくつも並べて、さらにその大きな流れもしっかりとストーリー性をもっているような歌。アレンジがうまく引きつけ、スパッと視点を変えたりと、すごくうまい。すんなりと流されないこしゃくなメロディ。でもいい歌。そういえばこの曲ずっとコードが同じなんだろうか。少しずつ転調してたかな。フレーズ全体をしっかりイメージしてつかんでいればそれを手放すことはないと思えた。逆にイメージのないフレーズは恐く感じるようになってきた。
フレーズ練習「ラ・ノヴィア」ではかなり収穫があった。1回目のフレーズ回しが終わったあと、ポイントがどこにもなく、フレーズの動きがないということで、そのあと何回かまた曲を聞いた。要するにアクセント、踏み込みがないので、動きがなく単調になってしまう。自分で考えている以上にプロは大袈裟に入れている。それで普通に聞こえる。しかも、スローに感じるが、実はさらっと、スカッと歌っている。改めてフレーズ回しが行われたが、他の人もそこに気を入れたらしく、初めより動きが見えた。ぶっきら棒に聞こえたが、うねりみたいなものは感じられた。少しの時間と、曲の聞き方ひとつでこれだけ変わるのかと思った。
フレーズ練習「Only you」では曲を身体に入れながら聞いてみた。今まで何回も聞いたことのある曲だったが、自分で歌おうとして聞くと、こんなにさらっとした曲なのに、すごいことをしているんだなあと思った。まず初めのOnlyで凄く入れていて、そこで引き込んでyouで優しく離している(歌の内容、感情表現として)が、次に止まる間もなくcan do makeと入っていく。2回目のOnlyではさらに入れている。でもよく考えてみると、大袈裟に、大きくとらえて大きくある部分を入れて表現するだけで凄く「歌」に聞こえるんだなと思った。そしてなりきってしまうこと。なりきってもできない力を埋めていくこと。「リズムを強く感じて、ポイントを絶対押さえること。呼吸が合わないところはどこなのか、イメージを作っておいて、実際自分でできる力と折り合いをつけていくこと」というアドバイスがあり、凄く納得しました。先生が「Only you~」と歌ったとき、「you~」の出し方が裏声でもなく、ミックス・ヴォイスというのでしょうか、わからないが、欲しいと思った声を出していて、その声を聞けたことが今日の収穫でした。難しいフレーズだったが、おもしろかった。
メロディ構成を最初聞いたときにわかること。何度もやらないとわからなかった。どう聞いているかによって出てくるものがまったく違ってくる。自分なりにやっているものというのは大抵見当違いのことが多い。どう入ってどう終わっているか全体を捉えること、見本はどう息をつないで、どこで入れて離しているかできなくても体で聞けるようにする。今回のようにスローテンポの曲のとき見本と同じテンポでやれば確実に間延びしてしまうことがわかる。
自分の表現がベストで出せるキー、手のPでやること。For all~For、 allとわけずに一呼吸のなかに<For all>を入れること。For allと均等に置かず、一つに捉えられればスピードも出る。Forでしっかりとつかみallで入れ込み理図卯を作ってゆくこと。出だしでどう出るかでそのあとのリズムも決まっていく。私の場合<For all we know>を一つのイメージで捉えられていないので、For allとwe Knowが別のものになっている。気持ちが続いていないのでFor allとwe Knowのつながりがなく、変な間になっている。
他のレッスン生が私のキライな感じの声をお出しになるのでうざかった。何事にも動揺しない。をめざそう。