投稿
ロンドンとパリへ行くことができたので感じたことを書いてみます。ロンドンではストリートの大道芸人たちが多くて、ぎギターの弾き語りや、パントマイムやらいろいろなことをやっていた。でも、その人たちもすごく芸人根性があって、芸に入る前の話術がすごい上手。すごく期待をさせておいて、そこで期待通りまたはそれ以上のものを出す。また、話しながら何の前触れもなくパッと芸を出す。「間」の取り方とか絶妙だった。すごい集中力を持っていて、ずっと見ていても飽きない人たちがいっぱいだった。ライブハウスなんかも入ってみるとけっこう年をとっている人とかもいて、一緒になって若者とロックを聞いている。日本のライブハウスではあまり見られな光景だなと思った。ロンドンもそうだったけれど、パリは特に自国の文化を残しているところだと思った。シャンゼリゼに新しい店がいっぱいできたり、新凱旋門のようなものができても、しっかり残すものは残している。
「fnac:」という大きなレコード店に入って驚いたのは、シャルル・アズナブールやバルバラなど昔のシャンソンのCDが「売れているCD」の棚に置かれていて試聴できるようになっていたこと。ハードコアやテクノ、ダンス音楽などもあったけれど、日本ではオジサン、オバサンしか聞かないような音楽が今も売れているということはどういうことなんだろうと思った。あと外国人の人たちの声はやっぱり力強い。フランス語の方が自分では比較的上手に発音できた気がするけれど、それはたぶんフランス語はけっこう口先で加工すること(巻き舌など)が多くてそれらしくできたからだと思う。ファストフードの店などでも日本では「いらっしゃいませ~」と軽い声でニコニコと迎えてくれるけれど、フランスでもロンドンでもあっちの人は「何にします」という感じで迫力がある。レストラン(高級なところではない)ではノリのいい音楽がかかるとウェイターやウェイトレスが踊りながら食べ物を運んじゃうし。大きくなってから外国へ行ったことが全然なかったので、今回行ってきて本当に日本とは違うんだという部分を肌で感じることができ、とても刺激になった。別に外国が全てよいとか、日本はダメだとかいうつもりは全然ないけれど、音楽をやる上で有利な条件があっちの人はベースの部分に流れていると感じました。
人それぞれ音色が違っておもしろかった。こんなに皆違うのに歌になると同じになるのはおかしいと思った。表現を考えるとどうしてもきついもの鋭いものになりがちだが、もっといろんなものを自分に入れ込んで自由さもつくる必要があると思う。楽器と同じ音色を出してみるということをやったのだが口先だと音自体が凝縮されず線にも緊張感がない。雰囲気らしいものは出せても何か違うと思う。最近はこの音色というものに関心がいくようになったので、今日のようなレッスンはもっと受けたいと思う。自分なりに歌のなかでの音色を考えていきたい。今までの私の歌い方はただ言葉を叫んでいればいいというようにかなり雑なものでからだから声を出したいという目的以外では通用しないものだった。まだしばらくこのことにこだわっていくつもりだが、そのなかでも伝える、伝わるというのはどういうことかみていかなくてはと思う。誰もが意識しなくても音色に感じる心をもっている。感じれば出せるというわけではない常に出す試みをしていくこと。いろんなヴォーカル、楽器の音を聞きどんな音色があるのか自分に染み込ませていく。そして自分はどういうものを出せるのかレッスンの場でやってみる。一の体は楽器と考えるなら口先で音を加工することはあり得ない。(意図的にやることはあっても)ハーモニカ、トランペット、サックスなどの吹奏楽器は腹からしっかりとした息を送らなくてはまともな音にならない。強弱も音色でもない。だから、歌うことも同じと考えること。歌うというより音を奏でるという感覚がベースにあった方がいいと思う。今日聞いたハーモニカの音は「ホワ~ン」という音のなかにいくつもの色があったと思う。それを自分なりに探してみるのはとても楽しかった。普段制限してしまっている声とか感覚がひらいた感じ。
「感性と一般にいわれているものは実はパターン認識の反復で体得される(理論で解明できる)」「小説=一種の思考実験。現実に体験するものよりも小説が力を持つことがありうる→人間の行動は言葉に支配されるから。概念、イメージの提出によって常識を変えることも可能」「文学というものはつまずきから出発する。→誰もがつまずくところでつまずくとあまりおもしろくない。→パターンでとらえてはいけない。パターンはあくまでパターンである。そこに人間の顔が見えない。」「つくり手はパターンを超えるべき」「情報に伴う感覚的なものが必要」「感性だけでとらえると好きだ、嫌いだの話になる」「解釈というのは既存のパターンをあてはめること」文学の基本1.世界はどうなっているか2.わたしとはなにか3.世界と私との関わりとは何か(三田誠広)
「読者にこびると実に敏感に(媚びたことが)読者に伝わる」「努力をしないといいものはわからない。器を広げないとこぼれる。わからないのは自分が悪い」(赤川次郎)
「技術とは偶然性をあやつれること」「意識を無意識化するか無意識を意識化することが必要(橋本治)『べ平連』の運動の『三原則』(小田実)1.(自分の)したいことをする。2.いい出しっぺがまずする。3.人のすることに文句をいわない(嫌なら自分でする)
「…要するに以前の忌野清志郎は、さだまさし的な顔をまだ捨て切れてなかった。だからフォークの文脈にしか清志郎がいなかったときにはやはり人には伝わらなかったんですね。それはプロデュースの問題ではなくてとても本質的な問題で、さだまさしのような歌い方を選ぶか選ばないかというのは作詞する、作曲する以上に大事なことなんじゃないかとそういうことなんです。」(糸井重里)
エレファントカシマシ「生活」4枚目のアルバム。圧巻。身につまされる。「エレファントカシマシⅡ」の流れをさらに強烈に表現しすぎて、音楽ではないか。いやいやここまで行けるのが音楽だ
①映像でのストップモーション②マンガでの大きなコマわり③文章でのカギかっこやイタリックや有る程度難易度の高いことば。これは歌でいえば「止めている」のではないか。流れてしまうことを包括する。止めることで刻み込む。
橋本治は絵、図、的にものを考えるらしい。赤川次郎は小説の授業で映画をみせて「映像の文法」をまず最初に教えるらしい。糸井重里はコピーの学校でマンガのなかから読みとれる情報や意味についてみんなで考える、という授業をしているらしい。→どこまで映像としての想像力があるかが歌にも必要ではないか。「どれだけ音楽を学べるか」と「どれだけ音楽以外から学べるか」「どれだけ耳を鍛えられるか」と「どれだけ自分を深められるか」「どれだけ想いをへらさず出せるか」と「どれだけの想いを満たせるか」
最近思うこと。「1番表現に適した声、今持っている最高の声は体にあるのではない。空気中か足のウラにある。」それをつかめるか。
三代目魚節武の詩①夢を叶える前にやってみる問いことをかなえるんだ。わかるかい。やってみるということを叶えろ。②今君がたとえ夢を持ってなくても、落ち込むことはないぜ。心配することもない。ペーパードリーマーよりはマシ。語る夢はあっても語るだけで満足してかなえるつもりの夢はないペーパードリーマーよりはマシ。
橋本治の本より。「見かけは単純で意味がぎゅーっと凝縮して込められてくると、凝縮して込められなきゃならないくらいに「周囲」というものがあったということが忘れられちゃう。その凝縮のまわりにあるものを全部掘り起こしていく作業がリアリティーの掘り起こし」
最近思うこと。歌詞を写す。何度も書。日をおいてまた写す。それが練習。歌うよりも練習になる。練習する。ギター1本でインスとしてアレンジした曲でストーリーをやる予定、8曲。歌なしでやるのが楽しみ。ギタリストとして燃える自分がいる。
「いろもん」お笑いの人同士での会話にテンションの高さを感じる。つねにうまくキャッチボールしているわけではない。わざと捕らなかったりする。戦いながら番組の質を高めていく。自分で練習した録音を聞く。条件として数え上げればまぁクリアしているように思う。しかし何かが足りない。よくいわれている通りである、自分のベストというだけではダメだ。「ステージに要求されるレベル」における基準を考え直さなくては。
自分の身体と心をOPENしてそれを息・声として発散・具体化する.これが歌の原点であるように思った。私は今回、なかなかみんなの呼吸の輪に入れなかった。外から見・聞きしていると、何ともいえない上昇していくPowerのようなものがほんの少しだけれど感じられた気がした。私は“みんなで”よりも一人でやった方が入り込める気がする。それはまだ自分をさらけだす勇気がなく、さらけ出せていないからだと思う。もっと自己というものを見つめ直し、構築する必要があると思う。それによって、自分に自信をつけるために。とても楽しく不思議な空間・時間でした。今度はそんな空間つくりにもっと自分も参加したいと思います。
ライブなどでヴォーカルが「thank you very much」とよくいうが、その<very>のveがものすごい息とともに膨らんでるのをきき、驚く。でも同じようにできると思う。日本人には無理でも人間にはできること。
トレイシーチャップマンを久しぶりに聞いた。やっぱりすごい声の持ち主だ。デビュー当時は男性の声かと思ったが、やはり彼女のオリジナルの声はすごい。とても力強い。
声を体感する~自分はどれだけ自分の声を感じているだろう。どういう風に感じているのだろう。音声で表現するにあたって自分の声を知ることは必須条件だ。客観的に自分の声を何度も聞いてみても、どういう視点でそれを捉えているのか、どの部分で感じているのか(もしくはまったく感じていないかもしれない)伸びているとか響いているとか、かすれているとかそんなことの前にもっと素にならなければいけないのではないか。本当に心の部分で聞けているのか、自分にいい聞かせないといけないと思う。1つの音の表情が感じられるか。原点を見つめていく。
息から声にしていく。とても自然なことだ。地面のところでうごめているような感じ。深いイメージ。それは息の時点でとても深いイメージをもっていよう。地面から伝わるエネルギーが体を通して空気中に放たれるイメージ。なにもまとっていない素の声を感じてみる。出してみる。とても自然なことなのに不自然になってしまうのなら何かによっておおわれてしまったものをとりはらってみる必要がある。音声で表現をする。感情をむき出しにすることとは違う。表現するものに対してどれだけのイメージが広げられるか、この時点でかなり決まってきてしまうのではないか。外に出せるものは自分が思っている中のほんの何%くらいだろう。自分の身のまわりにある音に常に耳を傾け、それに対して何か心が動かない限り広がってはいかない。どんな音に対しても。常にそのような状態であること。それに対して心が開かれていて、対応できる体を持つこと。最初にかかっていた女性の声がとても心に残った。天にしなやかに舞う美しい衣のようでゆるやかに舞っているのだが決してヤワではなきやみのない強さが感じられる。楽器を聞いている…という感じだった。
“悲→怒→嬉”一連のフレーズの時、心が働くというよりも頭が働いていたように今思い返してみるとそうなっていたように思う。意図はあるのだがそれが表面に出てしまってはいけない。本当はあふれ出たものでありたい。たとえば“悲”一つを取ってみてももっといろいろな音があってもいいはずなのに、イメージが貧困であまり思い浮かんでいなかったように思う。“悲→怒”の部分は比較的いきやすいように思えたのだけれど(結局はただ怒鳴っているだけで終わってしまった)怒→嬉はどういったらよいのかという迷いがあった。特に“怒”の部分ではまってしまうほど抜けられない。他の人がやっているのを聞いていてもやはりそのような感じを受けた。ピークの部分が長くなってしまうとやっている方も大変だが聞いている方も緊張が保てなくなってしまう。一番の見せ場“ハイライト”もそれがずっと続いていくと“ハイライト”でなくなってしまいかえってぼやけてしまう。1つのフレーズとして捉えた時にイメージが湧いてこないといけないし、それが取り出せるようにしていかないといけない。
とてもおもしろかった。声の原点、発声だと、音が上がるとかまえてぶつけにかかるが、上がりたくて上がる感じがつかめ(多少の自分の意志はあるが)こうだすべきなんだと思った。妙に自然でおかしく感じたことも確かだ。あとは、あれを個人に縮小・凝縮できればと思う。場の力でなく、自分が場を盛り上げる、静めるんだと、自分の呼吸に合わせて、今そう思う。
全体からグループへの縮小段階で見事に崩れた。まったく、呼吸が合わずバラけた。人のグループを聞いているうちに、ある音に対し、その後からまたある音が重なり、それが何倍もの力になり、そして美しい表現であることに気づいた。今度は方針にそれを狙っていった。がまったく通用しなかった。呼吸と高鳴り、そして声、その一致が一度だけつかめたこと。
福島先生の高鳴っている叫びが聞こえた。自分とはケタ外れ。パワー、私は静かになりかけたのに、通った後また高鳴った。パワーの力とは、これか。時にはトレーニングを忘れ、自分の声を試すこと。今回は何も得られなかったがいつか何か得られると思う。
今はあせらず。
きっと音楽はもっと自由なハズだ。
なぜ歌うの、何を伝えたいの。
頭で歌うな、身体におとしこむのだ。
弾力
耳をこらし、耳をすまそ。
先生のことばに「五合目まできたらそこからずっと大変なんだけど降りることを考えなくなる―だからのぼれるんだよ」とありましたが(前の会報で)これからも大変なんだろうけどのぼっていきたいです。
先生がおっしゃったことのなかで、「ステージ表現には2年もかからない。今日いって、今日気づいて今日考えてすぐ変わらなければ変わらないといってもいい。2年かかるのは別にある。」ということばをかみしてめていきます。
ーー
おすすめ
運動神経がよくなる本
(KAPPA BOOKS):スポーツができるようになるまでのこと、体の使い方の習得のことが書いてある。読んでいると、歌をやっている私も、なぜか「そー、そー」とうなづきたくなることが、たくさん書いてある。「できないことがやっとできるようになった日は、とてもめでたい。赤飯でも炊いて祝うべきだ、しかし次の段階がすぐに待っている」なんて、まさに「そー、そー」だよね。
KORNの3rd Album
歌ではなくノイズに近い。(ここで聞く音楽に比べれば)がしかし、米国であれだけブレイクするのもうなずけるPOWERがある。2ndよりも曲らしくなっている。ヴォーカルはうなり、叫んで、ささやいて、歌うことをしない。しかし詩を読めばあまりにも痛々しく(自分の内面をさらけだしすぎているから)日本のうん百もある詩よりもすごい。ちょっといいすぎかな。決して歌わないヴォーカリスト。でもこれをまねできる人物ははたしてこの世にいるだろうかと思うくらいTension高し。
山下達郎のニューアルバム「COZY」
どの曲もいいが8曲目の“夏のコラージュ”という曲の出だし。CMでも使われているが“笑って笑って”という言葉のインパクトの強さ。自分にはできない。山下達郎さんはCDセールスとライブの収入だけで暮らしているそうです。CMに出れば、1本でCD60万枚分くらいのお金になるそうですが、アーティストとしてのポリシーで絶対出ないそうです。自分にとって音楽とは何であるのか、それをまた考えさせられます。
CD「エレーナ・ペイジ・アンコール」
イギリスで買ったもの。彼女の演じたピアフの曲やミュージカルの曲を集めたもの。エレーナ・ペイジは私の尊敬する女優です。
「Newton」
科学、歴史、文化をイラストや写真をたくさん取り入れてわかりやすく紹介している。今月号の特集は「脳が語る心の一生」で人間が生まれてから成長していく過程でどう変化していくのかをとてもわかりやすく説明している。Newtonは面白いし、ためになるし、自分の感性を磨く上でも役に立つと思う。
アーティストというのは何か一つのことを追及していこうとすると、時にはあの人は変わっているとか変人だとかいわれてしまう。しかしそういう部分と要素も(何かを追及していく結果としての話だが)必要であることを確認できる番組だ。面白いと思う。
ウクレレの名手として知られているハーブ・オータという人の「アイランズ・フォエヴァー」ハワイアンのスタンダードを集めたものだが、とにかくもう極楽サウンド。
「ひばりとカラス」原田悠里
そのなかにひばりさんがどれだけいつも音楽のこと歌のことを考えていたかというくだりがある。「ひばりはゴルフを楽しむくらいで他には何の遊びも楽しみもなかった。24時間“歌”のことを考えていた。ということは朝も昼も夜もないということである。午前3時に電話があるのもあたりまえのことだったという。女王の時計は眠ることを知らない。相手は年中遊ばないで考えているんですからとても太刀打ちできない。ひばりは自らの身体をいたわって前進を止めることなど決して選ばなかった。」。、
香川有見さん。
ファドを主なレパートリーにする日本人のヴォーカリスト。ダイナミックなフレージング・緊張感・深い音色。日本人でこんな素晴らしいヴォーカリストがいることは奇跡だと思う。各地でコンサートを行ったり、シャンソニエに出演したりしている。
「ゲッツ・ジルベルト」
(POCJ-1802)スタン・ゲッツが吹くテナー・サックスとボサ・ノヴァのリズムが見事に溶け合っている。なお、ピアノを弾いているのはボサ・ノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビン。
(ルイ・アームストロング)のしわがれ声を一節聞いただけで“ぽっ”と胸に灯がともった。こんな人と共演できたらなんて幸せだろう。この“ぽっ”は何なのか追求していく。