トレーナーレッスン 875
俗、ぞくなこと Sトレーナー
レッスンでやっていたスティービー・ワンダーの「Isn't SheLovely」(可愛いアイシャ)。親ばかの歌。ジョン・レノンの「Beautiful Boy」も同じで自分の息子のことをなんて美しい子、ああ美しい美しい、うちの坊や、といいまくっている。顔が浮かんでくるみたいだ。
グロリア・エステファンの「Song For Emily」、ローラ・ニーロ「To A Child」数えてもきりがない。日本でこんな歌を歌ったらさぞ「あいつは売れているからっていい気になっている」とかいじめのネタになってしまうのだろうな。
谷村新司さんが「マイ・ボーイ」という曲を歌っている。おまえが生まれた日の美しい空を忘れないよとか、いつかはばたいて行ってしまうときは黙っておゆきとか、傷つくことを恐れてはいけないよ、辛くなったら空の青さを信じなさい、とかetc。それは美しげな歌詞がついている。自分の子供のことなのかはわからない。
大意としては「可愛いアイシャ」と同じで子供に対する愛情なのだろう。民族性なのか言語のせいか、少なくとも「マイ・ボーイ」ならば「この親ばかめ」といじめられないですむ。
しかしつい私の悪い癖で、どうしようこれ、課題曲だったらと考えてみてしまう。
谷村さんはあの語り口調でソフトにやっている。これを自分が気恥ずかしくなく歌うとしたら、相当に鬼気迫る勢いで、たとえば余命あとわずかで幼い子供を残して死ぬのだ、というふうな強引な解釈をしないと私できない...と思ってしまうのだった。それでは苦しすぎる。やはり単純なものは強い。
欧米諸国では国中の人に「見て見て、可愛いでしょう、すっごく可愛いよね、うちのお嬢」っていってもいいんですね。そしてそういう俗っぽい親の気持ち=人間があふれるこの曲は、光り輝くような力に満ちている。
曲もそうだが歌はどうなんだろう。私は俗っぽい歌はよくないけど、本当にすごいと思う歌を歌う人は俗っぽいような気がする。なんていっていいのかわからないけど、それは大切なことだと思う。高尚な作品などをめざすところに名作ができるはずないと。お飾りがついてしまうもの。もっと自分に近いところでいうと、私はうまく歌おうとしてしまうことがある。だから歌自体が俗っぽいのと歌い手が俗っぽくいられることは別のことなんだと思う。正反対である。
歌詞の意味は読めば明瞭だけど、音はさらに感覚的なものだ。歌い手が自分を飾ってしまうとそれは真実ではないから、そんなことで人は動かない。歌のなかでは粋な音さばきみたいなものもあろう。でもそれを歌う人間がどうしてもその音を選んだというのでなく、粋をねらってそう歌うとすると、確かに粋にもおしゃれにもなるのかもしれないが、芸術にはならないという気がする。
なぜそう思うか。どうしてもっていうものでないなら、それはどうでもいいものだから。ああ、うまくいえない。どちらだって同じじゃないかと思ってみても、その辺はそう甘いもんじゃないと感じる。甘いもんならもっと簡単に歌える。こういうものがいいものなんだという頭デッカチの知識が自分を歪めてしまう危険。そこをめざすことで自分は安心できる、満足できる、でもそこには格闘がない。これは決定的なことだ。大抵、ホントにこの音でいいのかなんて考えない。それは面倒臭いし、そこまでしなくても歌は歌えてしまうから。いくらでも自分でOKできる。形を整えるのはそれだけなら簡単だ。でもあるフレーズについて執ように探っていくことは、自分の中身を冷静にほじくることだ。自分じゃないことをやったときそのことがわからなければ、感性があるとはいえない。いやだと思ってもそらせないし、それをそらしてしまったときの耐えられない気分の悪さ、そんなことをするくらいならやめてしまえ、という声が聞こえて耳を塞ぎ悶々としなければならないけれど。正面きって自分に向かい、これが自分だといえるまでとりくむことは体力も気力も消耗する。しかも体内にある音楽が足りなすぎて、どうしていいかわからなくなる。足りないからって、明日100曲聞けば身体に入るというものではないし、お客さんはその場はごまかせても自分にはごまかしがきかないから苦しい。ごまかしてしまった...というのは普通人にはわからないから黙っているけど自分で恥ずかしい、自分を埋めてしまいたい。
歌はそんなものではないという人もいるが、そこをなにも思わないならそれは自己表現ではない。私にとって歌は娯楽や趣味じゃない。ほかでは嘘もつくしお世辞もいうしアイソ笑いもするけれども、歌でそれをするくらいなら誰がへろへろになって息吐きなんかするもんか。そう思うからまた、ごまかしちゃったときに自分につばをひっかけたいほどになる。自分になるってなんてしんどいの。...きっとこんなふうに思うのはまったく力がないから。一流の人には一流の人のレベルの産みの苦しみがあるだろうけど、本来の自分を貫いていて、すでにそれが日常なんだ。自分であること、人間であることが。私はまだかっこつけようとしているってことがわかる。
いままで何度となく、へたに勉強することの怖さを感じた。音楽は素晴らしい、人間も素晴らしい、そして芸術の恩恵をうけ、自分もそれに打ち込めることを幸せに感じる。でもそういう理解力はリスナーであるときにはよくても、歌を歌うときに自分を簡単にゆがめてしまう。素晴らしいものに近づこうとしてしまう。表現者なら自分に近づくべきであって、他人の素晴らしさは自分とは関係がないのに、何かに気づき、自分を諌め、素晴らしい人を讃えることで解決してしまう。それは自分を飾りたているのと同じだ。安易な道を選んでしまうということだ。こんなにやっているとか思ってしまうことも似ている。凡人は芸術に憧れ、プロは徹底的に俗であると思う。
歌そのものが俗っぽいということは単に人まねであることだ。これは人のを見れば自分がわかる。どこかで誰かがやったことをちょっともってくること、それははやくいえば誰にでもできる楽なことだ。自分と格闘する必要などなく、手っ取り早く雰囲気が出せる気がする。おお、これだって気がする。音を選ぶとか音を待つ、どうやったらもっと確実に強く届くだろうということを煮詰めるには時間がかかるし、きっとその必要を感じない人にとってはたまらなくしらける作業でもあるだろう。それよりも、記憶の中のフィーリングが合いそうなものをちょいと借りて気分を出して歌ったほうが気持ちいいもの。でも誰でもできるっていうところがポイントだ。だから俗な歌になるわけだ。
逆に歌い手が徹底して俗っぽくあることはその人にしかできない。でもその通俗性は、同じ人間であるなら誰もがわかること、共通の部分。普通の人なら自分をよく見せたい。できれば俗でありたくない。悪いことだというのではなくそれが普通。アーティストは反対でどこまでも自分である。俗っぽい。特別でもなんでもない。正直にそのことを正視しなければいけない。きっと気持ちがいいどころか見たくないし不快なことが多いだろう。そこを正直にすることは闘いなのだ。誰かに闘えよといわれているわけじゃないのに、自分がそれを選ぶこと。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせるのに。そうやって生きている人には性格にかかわらずある種の毒がある。
どんなに言葉や知識で上塗りしても、闘い抜きにしてその毒は得られない。毒とは魅力の裏返しだもの。毒の深みが本当の作品を生み出すんだと思う。映像なんか見ると、制作の必要上そのアーティストを言葉の上で美化してしまうけど、冷静に見れば究極にわがままなやつばっかり。それを美しくさせているのは、天に誓って自分に正直に闘い、見えないところでは人の何十倍も、正面から傷を受けているからだと思うのである。結局そんなことは普通はできない。そういう生き方がいいから作品がいいっていうんじゃない。俗でない人に人間のことはわからないもの。ホントは人間だからわかるんだけど、かっこつけてしまう時点で目が曇る。
「わたしは不器用な人間です」なんて簡単に人にいえることがいかに気楽なことか。嘘をつくなよ嘘を、と思ってしまう。不器用だけど一所懸命生きています、ということにしておきたいだけだ。そういってれば決して人から責められはしないんだから。みごとに器用ではないか。媚びである。それで他人の安易な共感は得られても自分の作品は得られない。一般の人が毎日一所懸命生きている大変さとごっちゃにしてはならない。勝手に自分が選んでいるのだ。だからリスクも堂々と引き受けなければならない。格闘の跡がないものには自分を美化する心地悪さがあり、不遜にさえみえる。
自己満足と、そうでないものの違い。だから誠実に練習しなければいけない。誰よりも徹底的に。自分で自分を突っ込み、声を出し、冷静に点検するのみ。これが私だ、と叩きつけたい、投げつけたいものを真の意味で大切にするべきだ。大切にしようと思ったら必然的に借り物ですますことは許せなくなる。たやすいことではなくてもそこで格闘しなければならない。俗っぽさやいやらしさのかたまりになってそれを執拗なまでに人に伝えるということ。きっとそこに私が出現して、いいたいことを全部いうのだ。きれいなものはきれいでいい、心地いいものが必要ならそれを求めればいい。だけど私がほしいのは自分だけだ。
『的外れと戦う』 TNトレーナー
音楽を聞き、勉強している人ならば、誰でも経験があるだろう。アーティストに関して、アルバムに関して、曲(メロディー、歌詞、音色、アレンジなど)に関して、演奏に関して、歌、フレーズに関して、時代、ジャンル、スタイルなど、数多い要素に対して、なぜそうなのか、なぜそういわれているのか、何がよいのか、何が悪いのか、なぜそういうことが大事なのかどうしてもわからないということが。
この手のことは、外在的要因(人から説明を受けるなど)で、気付かされることはあっても、すべてに対して答えが与えられることはないので、やはりさまざまなことに関して自分で気付かなければならない。ある音、音楽に出会ったとき、ただ、漠然と数分間が流れる、あるいは、霧がかかっいるように見えにくい、ごちゃごちゃして複雑に聞こえる、などの症状が現われ、好きか嫌いかしか判断できずに(それもできればよいほうだ)、終わってしまうことが多いのであれば、それはとても残念なことだ。その音や音楽はもしかしたらもう二度と聞けないものかもしれないし、もしライブだとすれば、それは絶対に再び聞くことはできない。それよりもその場を徹底的に楽しむことができないのは不幸なことだ。
わからないものは、楽しめないというより、つまらない。苦痛である。音楽をやっている以上、どんな曲でも楽しめるようになりたいものだ。楽しめるようになるためには、私たちは、日々、的外れと戦わなければならないのだ。
音楽は、感覚や感性の世界である。だから、一概にこれが正しいとか間違っているとかはいえない。しかし同時に感性や感覚は、曲に使われている技術や構成、パターンなどの中に具体的に現われているものだ。たとえばあなたは、数小節聞いただけで、その曲の今後の展開が見えてきますか。もちろん正確に一字一句間違えずに、というわけにはいかないが、曲全体の構成、たとえばAメロ、Bメロ、サビ、展開部があって、どういうパターンが何小節続き、おおまかにでもコードがどう進行していくのかなどでについてである。
曲は具体的に形として、存在する。そしてそれはとても規則的であるのだ。私たち人間は、実は不安定なものを一般的には好まない。ある程度、規則的な行動、運動、状態を欲しているのだと思う。それはあたりまえで、心臓の鼓動をはじめとして、体の中がそうなっているし、自然のサイクルがそうなのだから、しょうがないのだ。ただ規則的過ぎても飽きてしまうので、ときどき外れていたり、裏切られたいという欲求もあるのだが、それは、規則的なものがあってこそありえることである。
また規則的なことが永遠に持続するかのように、何度も何度も繰り返されると、別の高揚感が訪れる場合も多い。あるパターンが繰り返され、先のことが想像できる。それに加え、意外性もなければならない。音楽はまさにそうでしょう。的外れ、すなわち、ある音楽、音の本質、大事なことが読み込めない状態はこの原理を理解できていない、さらに体に染み着いていないことによって引き起こされる状態である。曲の構成が見えていないと、行き当たりばったりで聞くことになってしまう。
どういうことかというと、たとえばフレーズのことや、声の状態、体の動きなど、歌のことを主に聞き取らなければならないのに、すべての要素を同じぐらいの力加減で聞いていたら、一瞬で本質を捉えるのは難しすぎる。つまり、これらのことは具体的な構成が見えていなければ、理解できないということです。曲の構成やら、パターンやらはWのレッスンなどで勉強しているのだから、それを体に身につけ、身に付いた状態が普通の状態にしていこう。
行き当たりばったりの状態は歌っているときにも出てくる。構成、歌詞、メロディーを頭で覚えていても、体の中に染み着いていないと、先が見えない。突発的に歌詞なんかが抜けてしまうのはしょうがないことであって、実際に歌っているところをみると、どうも突発的ではなく、単にそれらのことがどうも自分の体に染み着いていないケースが多いようにみえる。
自分自身が先が見えないのに、どうして聞き手に先を想像させることができるだろうか。行き当たりばったりだいろいろなことが遅れ、結果的に規則性、永続性が保てなくなる。音楽に入り込むことや、表現に十分な力がかけられず、曲の持つ規則性と意外性に負けてしまったり、自分の呼吸にあわなくなる。それで不安定な要素の割合が増え、聞き手は心地よさ得ることができない。
ここには、練習不足という言葉ではカバーしきれないものが存在しているような気がしてならないが、その中にはかなりの度合で的外れが含まれているような気がする。
要するに、的外れは規則や型を軽視することから生じる。ただ音楽も奥が深いので的外れがあるのは、どうしても避けられないことだ。しかし、それが、耐えられるレベルであるか、また、それに対して敢然と挑んで、時間がかかっても捉えられるまで続けられるかという問題なのだ。なんとなくで済ませていると、いつまでたっても次の段階に行けない。
私たちは、音楽を本質的に楽しむために、戦わなければならない。つまり、わからない自分を受け入れることが必要だ。もちろん、歌い続けていれば、経験も増え、それなりにわかってくるのだろうけど、それではロスが大きい。
もし、2年で本当に何とかしたいのならば、構成などで迷っている暇はないのではないか。耳が肥えてくれば、多くのことが聞き取れ、それを具体的に歌に生かそうとするはずだ。やろうとしなければ歌には反映しないし、十分にやったとしても何十パーセントかは削られてしまうのだから。
それでは、的外れと戦ってみよう。的外れの反対は的を射ているということ、すなわち、ポイントが絞り切れているということで、曲やフレーズの中で、それは、強調しているところと、それを引き立ているために抑えているところを判断することが第一段階だ。
要するに、目立つところ、気になるところ、体の動くところ、心が動くところを探し出すことだ。そして、それらが、曲の構成のどこの部分を構築しているかを見極めることだ。具体的にリズムパターンなどを書き出せればなおいい。
当然その部分はそこだけで存在しているわけではないので、そうすることによって全体像を見ることもできるわけだ。曲を部分に分けて考えつつ、全体としても考えること。それを体に染み着くまで、自然に音楽に体と心が動く状態にすること。素直に、いつも新鮮な感覚を持ていることが理想だ。
これらのことは、はあまりにも基本的過ぎることなのだが、こだわってほしい。一曲は何度でも違うことが勉強できる。わからなくなったり、飽きてしまったら、寝かせておいて、あとでまた聞いてみればいい。その他の方法として、評論や解説をうまく利用することだ。とくに、何がよいのかわからないときは、ここがよい、ここが特徴だ、といわれていることを参考にして、そう思い込んで聞いてみれば見えてくることもある。
ただし、ここで気をつけなければならないことは、そういった言葉での知識があるということを勘違いして、自分のものになっていると思わないことだ。結局人の感覚は人のものでしかなく、自分でわかって初めてわかるものだから、人のいうことを潔く捨てられるかどうかもポイントになる。自分は今一応本当にわかるために、思い込むという方法を採っているのだよということを意識しないと言葉に振り回されてしまうので気をつけよう。
とにかく、自分にはわからないから、とか、自分はもうわかっているからというないで、がんばってください。自分の好きな音楽、アーティストのことさえ本当に楽しめていないのではないかという疑問を持ってください。そして、聞き取ったことは、必ず、自分の音楽に具体的に生かしてください。
アート
アートとは純粋な直進的エネルギーという感じがする。しかし価値観の違う人間から見ると、それはバカげたエネルギーといい直すことができる。そう、アートの源となるのはこのバカげたエネルギーだと私は思う。なぜバカげているかというと、まわりの人間から見て、はじめっからとても価値あるエネルギーなら、それはもうすでに新しいものではないということだからだ。何かを切り開き残してきた人間は決まってはじめはバカにされていたという話をよく耳にする。音楽や絵画なんかは比較的わかりやすいかもしれないが、中にはなかなか理解されにくい分野のものもある。
たとえば大きなガラクタを集めてきて、並べてそれをアートだといい張る人がいる。まわりの人間から見ればただのガラクタだが、その人にとってはとても価値あるものなのだろう。それをたとえ誰一人理解する人がいなくても、その人がそこに大きなガラクタを運んできたそのエネルギーそのものがアートなのだと私は思う。そしてその作品を考え、壊しまた新たにアートを生み出す。声や歌にしても同じことがいえるだろう。まわりが何といおうと自分がそこに価値を見出したら、それに向かって直進すべきだろう。
先生がよく「誰よりも高いレッスン料を払って学んでいる」といっているが、そこに価値を見出し、エネルギーを放出していることを考えると、このヴォイストレーニング自体が先生にとって巨大なアートなのではないだろうかとまた勝手に思う。アートは人間の本質を揃えていなければならない。「本質」とは何か。それは自然の原理に基ずくもの。無意識の世界に訴えかけるもの。常識、倫理を越えたもの。頭より体、体より心、心より魂、深く深く宇宙を感じさせるもの。日本人の声は確かにこれらのものから遠ざかりつつある。しかし現代において日本のみならず世界を含めいろんな意味で自然から遠ざかっていることは否定できない。生活環境、教育、医学すべてにおいて自然から遠ざかっているように私は思う。
たとえば医学には大きく2つに分けて、西洋医学と呼ばれるものと東洋医学と呼ばれるものがある。西洋医学というのはとても科学的で現代的という感じがする。それに対して東洋医学、いわゆる漢方は人間の自然の原理に基づいている気がする。両者はもちろんどちらも人間にとって必要だし、私もどちらにも世話になってきた。しかし東洋の医学は即効性という意味では西洋にかなり劣っている。だからこのクソ忙しい現代を生きる人間にとっては西洋を優先させざるを得ないのもしかたのないことだろう。そしていつの間にか病院と呼ばれるところは、西洋医学を用いるのがあたりまえになって、病気だ何だ、具合が悪いとなればすぐに薬を飲み、皮膚に異常が出れば薬剤を塗る、それが常識となった。症状がすぐにおさまるので確かに便利だが、そもそも症状というものは、何か原因があってそれが形となって出ているわけで、その原因は無視して症状だけを抑えるのは自然の原理から外れているといえる。
しかし現代において、その即効性が必要なケースがいろんな意味であまりにも多いために東洋医学は少しおいてけぼりをくらったのではないだろうか。確かに漢方といっても、確実に効く薬などはなく、人間の本来持っている自然治癒力の手助けをする程度で問題は本人次第なので、大切なのは漢方薬の効き目よりも、むしろその考え方にあるといえる。病気というのは体のどこかのバランスが崩れることによってほとんどの場合起こるので、内臓の機能低下などが原因となることが多い。これには現代人に多い不規則な生活などが挙げられるが、これは個人差があるというよりは、一人ひとり人間というのはまったく違うものなので、確実にいえることは一つもないだろう。そう考えると自分の体や命を守るために何をすべきなのか。医者にかかるよりも薬を買うよりも先にまず自分の体や自分の心のことをよく知らなければならない。専門知識もないのにムチャクチャだと思うかも知れないが、本当はそれが正しい道なのだと思う。
ヴォイストレーニングも自分を知ることから始まる。内面的なことはもちろんだが体の機能的なことも確実に知る必要がある。病気を治すのもこれとまったく同じではないだろか。病気も心が影響する場合も多い。ということは自分の性格や内面的なことを知ることも治療の一つだといえる。皮肉にも自然を壊すことによって発展し、情報をこんなにお手軽に吸収できる時代になったのだから、今度は逆にそれを利用できるだけ利用して、本気で自分の体のこと(具体的な内臓の働きや、血液の流れ、自分のクセ、生活環境、好き嫌いなど)を知る努力をしてはどうだろうか。
これは、決して無理な理想論ではないと思う。どんなに優秀な医者であっても他人のことをすべて理解することなど不可能なのだから、自分を守るために、必死で自分を研究するのである。そのためにはかなりの時間が必要だ。これもヴォイストレーニングと同じだろう。
という意味で、このヴォイストレーニングの考え方は、自然の原理に基づく漢方に近いのではないかとまたまた勝手に思う。教育においても同じことがいえるだろ。時間のかからない簡単な方へ流れて行ってしまっては、時間を生きている意味がない。大人も子供も自分を知ることが何よりも大切だ。そのために頭を柔らかくする必要がある。もっともっと宇宙を感じなければならない。現代を生き抜くために固まりきった頭を爆破するようなイメージ。そんな歌をそんなステージを私はやりたい。そのために自分の頭を何度も何度も爆破するしかない。「芸術は爆発だ」と誰かがいった。そう、アートは爆発、そして人生もまたバクハツだ。
Q:ブレストレーニングの横腹や背中の筋肉を動かすのが、納得できるまでレッスンを先に進めるべきじゃないのでしょうか。
A:レッスンは常に進んで戻ればよいでしょう。
Q:ブレストレーニングで「横腹や背中の筋肉が出る」というのは、全てのトレーニングで共通することですか。横や背の筋肉はさわると動いているのはわかるけど、鏡で見るとあまり変わらない気がします。
A:しっかりとやれば、3~5年で変わってきます。
Q:のど、胸、お腹、それぞれを使って出る声の違いが自分でやってみてもわからず、息の吐き方についてもどの姿勢での吐き方が一番わかりやすいのかなど、本を読むと描いてあるが、それもわからないのです。
A:1.音の世界へのアプローチ、2音とともに体を覚えていく、深めていく
Q:日常の練習について、どのような練習の仕方をすればよいのか。(一つのテーマを決めるのか、いろいろのテーマをやるのか)どのテキストに沿って練習すればよいのか。声について、大きな声を出すとのどが痛くなる。のどを開くという感覚がよくわからない。あまり多くのレッスンを受けられない場合にはどのようにレッスンを活用していけばよいのか。
A:1つのレッスンから多くを学んでください。鑑賞/先生を聞いて移しかえる
。1.原理 2.それをじゃましているもの 3.条件、感覚、体を知る、4.判断をフィードバックしていく。
Q:日常の中(例:仕事の接客時、カラオケ)で意識して声を出そうとするとき、その直前に首のまわりが凝り固まっている感じで、すでにのどがしまっているときがよくあります。こういったことを事前に防ぐにはどういった対処法があるでしょうか。仕事やカラオケで、意識して、大きな声を自分なりに整えて出しているつもりが、他の人に「不快に聞こえる」といわれることがあります。これはどう対処すればよいでしょうか。
A:意識しない方がよい。意識するとそこに力が入る。判断して、正しく勉強していく。きづくことでつくっていく、ことばや音からできない・できるを見極め、直感で、1.快い2.先につながることを。
Q:アの発音がオの発音に近いと指摘されたことがあります。それはアの音が響きすぎているということなのですか。声質が暗いのでしょうか。滑舌がよくないのを自覚しています。普段から早口になりやすいのが、はっきりしない原因でしょうか。改善の方法はないものでしょうか。
A:1.判断基準が甘くならないように 2.ことばが会話になるように 3.条件を引き受けていくしかない 毎日、100回やってみましょう
Q:体を使って息を吐くことを中心にトレーニングしています。歌うときにも体が使えていなければならない、と指導されてますが、意識していると歌のコントロールができません。(変に力が入ってしまう)どうすれば体を使って(コントロールして)歌えるようになるのでしょうか。
A:それぞれできているかどうかでなく、程度・問題です。感覚の切り替えも必要です。ここでやっているのは、
0.息・体から吐く
1.その息を声にする
2.その声を歌の一部分でも出せるようにする
3.一流の歌を聞きその感覚をコピーする。
そのときに無意識に0~2が満たされていること(これが難しい)で、体に入っていないと出てきません。
1.声…部分に意識、意図的につかみ、取り出す
2.歌…とれている声をフレーズにつなげる
3.ステージ…表現したいことに声、体がついている。
*1:ここに脚注を書きます