鑑賞レポート 876
【アンドレア ボチェッリ】
「風に吹かれたとき、どこに立ち何を歌う」
何ということなのない広場。日本ならどこだろう。なかなかないのでは。石だたみの歩くところがないのか。神社。仏閣の中だろうか。チョット何かやろうと思ってできる。屋外でも屋内でも。そういうのは豊かさ。でも、何のために元々はこのスペース、あるのだろう。立ち向かうような歌う姿。どうしてそう感じる。目をつぶって歌っているけれども、こっちを見てとは思わない。目はつぶっているけれども、コッチを見ている、こっちを見つめて歌ってくれているからだ。すぐ目をつぶってしまう自分。あけりゃいいんだけれども、感情と目をあける、つぶるが関連して、今うまくいかない。とにかくつぶりっ放しの自分はまったくいただけない。何て、柔らかそうな口まわり。あご付近。横で歌っているのを聞けば神様みたいに感じるんだろうナ。神様の声どうやって手に入れた。とにかく彼は手に入れた。インパクトのいい眼鏡だ。みんな俳優みたいな顔している。イタリアだから。受け取る私の問題。
リラックスして、コントロールして、集中して、そうやって神様と一体になる。クラリネットの悲しい音色との交錯。乱暴に息使わない。こらえてこらえて大事に。そうか。こらえている。そしてイメージする力。豊かな日常がやっぱり支えているんだナ。家族、友人、馬とのふれあい。デュエット、少しだけ腕を組んだ。高音でのばすところ息ピッタリ。何て美しいんだろう。何が。2人が。2人創り出す音色が。2人に感動する涙する。彼女の声はカワイらしく堂々としている。2つ同時に成り立つのか。でも女の人は何ていっているか言葉聞き取れない。
ボチェッリは違う。どこからくる。ボチェッリの何と余裕のある歌い方であることか。何て緩やかな日常。何て緩やかな息子と父のとき。豊かな時間。バイオリン弾く女の人も美しいワ。すごい、あれだけ高い音あれだけのばして1ミリも乱れずごく普通の音域を歌っているみたい。すごいなあ。眉毛が表情なんだナ、歌っているときは。
「オー・ソレミヨ」浄化されていく、何て素晴らしい。彼を支える人々。普通に戻れている。自分を取り戻している。なかなかできないのではないだろうか。なぜかそんな感じがする。そして彼はなぜそれができているように見えるのだろう。その中の何が大事なのだろ。最大のポイントは何だろう。こんな有名になってこんな普通でいられるためのものは。
デュエット「Viveve」だろうか。そう、この曲はイタリアの歴史、風、流れる雲、全てを知っている石畳、その中から生まれてきた歌。それがわかった。全てが甦ってくる。家の中に、CDの中に言葉を歌を閉じこめてはいけない。外へ出してやる音楽を、自分を。自然の中へ。まったく違う。気づかなかった顔を見せてくれる。私はどこに立っていて、私の中に何があり、何を歌うのだろう。知りたい。
「Con Te Partiro」一体になっている。客席と一体になっている。そう思って歌っているの。コントロールしつくす。普通の立ち姿で。すごい。歌いながら途中で笑う。何かが見えているんだ。イメージの中にいてその中で笑っている気がする。いや、ふと歌える喜び、そして今生きているという感覚がおりてきたんじゃないだろうか。生きていることの喜びが歌を歌うことの中で呼び覚まされる。歌ってすごい。気づかなかったいろんなものを見せてくれる。もったいないくあい。喜びも悲しみも生まれること全てを。感謝、何に、誰に、人間に。自然に。神に。先人立ちに。そして自分のあとには人はつらなっている。それが一番大事なのだろう。1つの音のばす中に~豊かな表情がある。それは豊かなイメージが支えているのだろうか。
ほっといてくれる囲り、普通でていてくれる囲り、幸せな時間。グラスの中のオレンジの飲みものは何だろう。おじちゃん、何か旨そうなもの食べてた、がよく見えなかった。何だろう。気になる。彼は選んだ、こういうスタイルを。そして今の技術がこう、何年か後もって伸びるだろう。バーで歌っていたときだって、こんなに凄くはあるまい。少しずつ積み重ねていったんだろう。コツコツと。伝統、オペラ、オペラのレッスンに行ったの。しかししつこい柄の壁。男性デュエットだ。スタイルまったく違う。でも素敵。2人で歌いながら喜んでいる、楽しんでいる。生かし合う2人。打ち上げ。食べる、飲む、話す。少年は眠っちまった。そりゃそうだろ。
この映像、“Unique”という言葉が何度出てきたのだろう。画期的という言葉も、私はやるからには是非ともそういわれるものをやっていきたいと常に思っている。この映像、そしてアルバムを効くと、それが具体化されていることがわかる。で、自分の中で、この程度か、とも思う。だから自分でやろうとしている。それにしてもこのアルバムに二年半かけていたとは知らなかった。このことで驚いている。一つは二年半もの間、しかも四日置きに寝る、というほどの時間、何に費やしていたのだろうか、ということ。
もう一つは、あのスティーヴィー・ワンダーが、ということ。当然だが自分では何年かけたってあのアルバムは作れやしない。しかし、あのスティーヴィーがという思いである。今の自分にはイメージすらとれない世界である。ここでは面白い話がいくつも聞けた。
シンセのポリフォニック。今ではとりたててすごいというわけではないポリフォニックが。「それでアレンジの世界が拡がった」という。その楽器、音の持つ将来の可能性までもイメージできる力がすごい。ポリフォニックは今ではメジャーになったが、果たしてスティーヴィーがこのとき感じた将来の可能性にどこまで近づいているか、使いこなせているかというと心もとない。声、アメリカンミュージックアワードのシーン。他の人の声の中からバーンと抜け出して気こる。間違えっこない。これはスティーヴィーだと思わせる。百人いや千人の中に混じってもしっかり聞こえるのではないかと思わせる。「シンセで生の音に近づけるのではなく、(機械音のままでも)生かし切る。」これでこそ“生々しい”スティーヴィーの声が生きるのではないだろうか。自分をよく知っているのだろう。また、逆にいうならこのバックをやるには、この“人間臭い”声が重要なのだとも思う。“Unique”の原因の一つでもあるはずだ。リズム。声でやるドラム。
I先生のレッスンでもやっているが、スティーヴィーのは全然違う。ノリが違う。そしてこのノリが体の中にあって、その上で歌っているのだろう。キーボードを弾いている最中、「今のは走った」。スティーヴィーのライブではときどき走っているなと感じることはままあるが、これはよくわからない。2つ目の音がちょっと突っ込んでいたか。そんなことではないのか。ものすごい正確さなのだ、ということ、しかも自分で演奏しながら。熱いHeartと冷静な頭。すごい。で、こんなスティーヴィーが2年半もの間、2枚組とはいえ、一体何をしていたのだろうということである。今の自分には想像もつかない。「2年半。なるほどね」といえるようになるにはどのくらいかかるのだろうか。とても面白い問題だと思う。
【モータウン25周年記念ライブ】
ステージに登場してくるアーティストや司会者あるいは作曲家もみんな、声が太く大きく魅力的だ。表情も生き生きしている。ステージを楽しんでいる。特に印象に残ったのは、何人かの作曲家が集まって、ピアノを弾きながら曲を歌うシーンだ。みんな本当に楽しそうに話している。そしてテンションが上がってくるといつの間にか歌い出して、自然に手拍子が入り、ピアノの演奏が始まっているという感じだった。そしてみんなパワフルで生命力を感じる。本来それが音楽だよと思い知らされた気がした。譜面を片手にピアノにくばりつき、深刻そうな顔をしてやったって人の心を打ているものができるわけなじゃにと思った。もっともっと普段から話しことや音楽をきくことを楽しんでもいいのではないのか、もちろん楽しいだけじゃないけれども。
【THE LADIES SING THE BLUES】
「これがみんなブルース」ベッシー・スミス。酒飲んで歌う、設定。それとも。しかし何か本当に酔っぱらってそうだ。ベッドサイドはビールジョッキ。余程好きでなければビールジョッキ持ち上げながら歌うのは無理だ、神経がいかない、重い。でも意外といるか、トム・ウェイツもそうではなかったか。実際ステージで水割りを飲んでいた。彼の声は独特にしわがれている。それがどういう理由なのかはわからない。でもベッシー・スミスはそいう声には聞こえなかった。どういうことなのだろう。カウンターで歌ってお客さんまるではもるように歌っている。あんなことあり得るだろうか。でも客席で歌ってない人もいる。飲みながら歌っているとしたら、彼女にとって歌うことは何なのだろ。飲まずにいれない歌わずにいれない。そんな生理的なものを感じさせる人だ。なぜ飲まずにいれない。なぜ歌わずにいれない。彼女の中の何が。彼女の拝啓の何が彼女をつき動かすのか。「理屈で歌わない」それがそのままその姿となっている人。太かろうが細いかろうが腹の底から出すんじゃなく出てくる。いい声とか悪い声とか判断する間もなく聞く方はひっつかまれる。 映画の場面。高い子を出したくなる体の状態とは、そう、ああだった。あれが自然。舌がピタッと平らで力入っていなそうで、のどちんこが見えそうで。発声練習を特別なものにしてしまう。歌と離してしまう。なぜそうなるのだろう。息が流れる息が入り出ていく喜びをすぐ忘れる。耳を澄ませながら、体を感じながら「ア」という歌。「イ」という歌。気持ちいいことをしている、という感覚。これを失くすとできることもできなくなる。自然にできたときは自然に自然な形になっていく。曲にもよるだろうが思わず手を広げたくなったり。ただやるトレーニングからの収穫は少ない。高音の顔が姿勢がそのことを私に思い出させる。マイクから50cmくらいも離れている。何の問題もない。余裕。聞いている人立っちゃった。どこがそんなにいいのかわからない。
ビリー・ホリディ:さまざまな楽器とやり取りしながらうれしそうに笑う。どういうとき。うなずく。何に。少女のような目、美しい目、幸せそうな表情。ここには彼女の生い立ちの厳しさも生きることの厳しさもみじんも見えない。音楽の力だ。音楽が彼女の苦しみ悲しみから解放している。この一曲の中で彼女は自由だ。音楽というのはこういうものか。彼女を音楽が支えたか。彼女に音楽が失かったら。考えられない。音楽支えられた彼女の歌が多くの人を支える、不思議、循環。体という楽器で他の楽器と会話している。やはり彼女も腹から出てくる。人は伝えたいものを持てば自ずと腹から出るのだろうか。しかしなだらかな流れをつくる人だ。心地よく引っ張られる。姿勢いい、顔は少し上向き。5本の指広げて左右に揺らす、人差し指一本立てて繰り返す反動で指さす。体がピタッと動かないでいるから一見平凡なしぐさが際立つ。充分豊かな表情になっている。のどの奥が見える。聞ける大きさじゃない。水平からの角度だ。よく動く表情、顔、そして手振り。しかし黒人と何かが違う。たまたまか。それとも何か理由があるのか。何とかもんどの助のような髪型、ポイントはもみあげだ。こういうのあるんだ。まつ毛下ほう重点のマスカラが効果をあげてしまっている。不思議。もみあげひとつ、目の化粧ひとつで侍になるか。顔、どこかでつながっているからこういうことがおこるのか。顔、私の顔はどこから来るのだろう。顔からも何かがわかる。多くを語る顔。私が知らないままで終わろうとも私の中に積み重ねられてある過去からの、膨大な過去からの蓄積。出会ってみたい。今自分の中で出会いを私との出会いを待ってくれているような気がする。私は私ひとりじゃない。静かな喜び。眠っていた細胞が少しずつ開いてくるような。支えてもらっている喜びのような、ここまでつないでくれた人々への感謝の喜びのような。自分を少し距離をおいて静かに見るような。ゆったりした気持ち。面白い声の使い方。するひと。フレーズじゃなくて。声の使い方のような気がするが。また聞いてみたい人。みんな、のどちんこが見えている。習ったから。そうじゃないだろう。歌うとき、歌えば自然にああなるか。歌う楽しさが伝わってくる人だ。どこかかわいらしい声。いくつだろう。40、50。笑う表情は歌っている。楽しい。なぜ白人はもの足りないのだろう。何が違う。横に動くけど縦にほらない、ほる必要ない生活している。ビリー・ホリディだったらどう歌うだろう。これがみんなブルース。ブルースって何だ。全てに共通してたものがあるわけか。わからない。腹の底からピタッとした静かな叫び。決して声高じゃない。はっきりとした「わたしの言葉」。でも白人の人の歌には感じることができなかった。
【ガリーナ・メェンツュワ バレエ・クラス初級】
「技術を手に入れることは自由を手に入れること、レッスンは本番で」
まわる、まわる、目はまわらないんだろうか。でも必ず正面で1回止まっている。世界のバレエ界のスター、そしてバレエ界への貢献。スターになると自動的に貢献することになるのか、それとも貢献は意図したものか。芸の存在感と表現。芸の存在感。芸として確かに存在する感じ。そう意識できたことはない。この言葉にならないものは体の中に入っている、刻まれている気がするのだが。つながらない。そして教育法。教育に「法」というのがあるのか。自分で自分を教育するにも方法がある、ということだナ。ということは今の自分のやり方でも成果があがらないのは自分がどのこうのというより、その方法自体に問題があるかもしれない、ということか。総量が足りないのか、やりっ放しがいけないのか。もっと別の方法がいいのか。面倒なもんだ。手つくり。自分を自分の手で作っていくのか。こういう形にしたい、というものに。そか。結局やってもやらなくても、やらない、という手の下し方で自ら作っていっているんだナ自分を。正直だ。ワガノワは、ロシア人の誇り、日本人の誇りは。吉田松陰、司馬遼太郎。もっともっともっともっといる気がする。知らなすぎる。これでは異国の人と話もできない。つまらん人だ。250年のバレエ教育の伝統を西欧で伝えていく必要がある。なぜ西欧。なぜ何のために伝えていく。しかし250年か。一体どれだけの人がつないでいったんだろう。演目で規定されているクラシック・バレエ。そうなのか。白鳥の湖、ジゼル、眠れる森の美女、最も難しいのがパドゥトゥ。4部による芸術の詩。1部、何て美しい女性の動き、2部、男性のみ、うっとり優雅、3部、女性のヴァリエーション完璧、4部、コーダ素晴らしい、静と動、動⇔止まる、。その練習の仕方は、メニューは体系的で理にかない科学的裏付けがあり生理学的にも本来のあるべきものにそったものであると。そう、行き当たりばったりじゃない、ということ。アレグロの動きでも、ジャンプの要素を分析し、細部を徐々に教えていく。そうしてジャンプを克服していく。練習の量、順序、期間も理にかなったものがある、と。
たとえば足をあげる動作にしても90度で最初はとめる。積み重ねていくために。科学的医学的に行わなければならない。積み上げていくために。ジャンプ、時間のかかるプロセス、アダージョスローモーションによるジャンプ。1つのポーズから無限の組み合わせが生まれる。わかる。まだ頭、でも頭でもわからない。おいておく。急に頭抜かして体でわかることもある。おもしろいところ。3人。顔、表情もポーズの一部、全て一体。連動している、指一本まで、まぶたまで、6本の腕の動き。背中の下部を支える筋肉の力が上の柔らかさを支えている、と。確かに美しい。ほんわかしている。次の段階の基礎となるので重要。安定性と力を養わなければならない。だから毎日練習する。確実にさせる。この課題修得に9ヶ月かかる、という。自由に自己表現していくための課題。くせが伝わると個性発揮できないから。完璧なコントロールで自由に自分を表現できるようになる。技量は磨かれていく。脚をきたえるだけでなく、ひいては美しい脚をつくることになる。そして精神を高めようとさせること。全て自由になるため。もの凄く不自由な今。自由になりたかったら。急にはなれない。まるで後戻りしているように見える今日の中だけにある。今日の中だけ。今日の中にしかない。でも今日の中にはある。ただ、ただ今日をつかむ。つかめない。なぜ。焦点がずれている。あまりおおげさに考えない。1mmでもつかめばいい。つかみ続けていればきっと見えてくるから、いろんなことが、必ず。必ず。
「彼女は天才だけど教育を受けなかったら今のようになれていたかわからない。」教育。でも彼女はそれを自分の血とし、肉とした。1.まず身体を緩める。2.ひざを開いて一番深く沈むのが彼女だ。そんきょ。決して無理をしない。勢いでやらない。理解、意識持ちながら一つひとつ確実に。ていねい。ていねいに生きたい。今のように雑でなく。ていねいに咲く花達。お手本。誰も何もいわなくてもひっそりとゆったりとたっぷりと己として確かに咲く花達。花も迷うことがあるのだろうか。迷って選んであんなに見事に咲くのだろうか。結果オーライ。すごい花達。あなた達は素晴らしい。こうやって生きてごらん、って見せてくれているのね。だからそばにいてくれるのか。
私がバラバラなの知っているのか。千里眼があるの。そして神の配剤。ありがとうございます、だ。ピアノ生演奏だろうか、バレエ踊れる人だろうか。形でやっているんじゃない。じゃあ、何。レッスンだけど演技、舞台みたい。美しい足。無駄な動き、余分な動きがまったくない。背中にひびいてこない。全て丹田で完結しているのか。上半身まったく動かない。身体の全てに神経が行っている。気の遠くなるような地味な練習。いつも背筋をピン。上半身まっすぐいつでも沈み方深い。深く沈むのはたぶん難しい。薄いオレンジのトウシューズか、ああいう色のがあるのか。なぜ彼女の背中はえぐれているのだろう。つま先を浮かしているのか。どこの筋肉が鍛えられるとああいう芸当ができるようになるのか。
一つひとつの動きが無駄なく、生き生きしている。レッスンなのに。ある意味では本番と思ってやっているのだろうか。片足45度微動だにしない。プロセス確実。後ろに片足あげる、微動だにしない。バーの力はかりない。ちょっとさわるだけ。沈むの3人のうちで一番深い。高さが全然違う、つま先立ちの。イヤ、よく見るとあまり変わらない、なぜそういう印象をうけるのか。高低差か。でもやっぱり少し違う。足のびるときそこだけがのびるのでなく全身がのびて、たまたま足が焦点あててのびている、という感じ。そういうもんか、人間の身体というのは。
ということは、息はたまたま鼻や口から吸い、入ってくるが全身で息を吸い全身で息を吐く、ということか。60兆の細胞でか。「私」なんかぶっとんでしまいそうだ。60兆、想像できるか。できない。目の高さ、視線が違う。ゆだねないで意識300%持って(全身に)、演技しているときと同じ顔。他の2人はおこった表情だ。ああいう顔で演技はしまい。鏡を見ながら練習したんだ、自分がどうなっているのか、完璧に知っている。首のチョットした傾き、舞台に立っているときと同じじゃないだろうか、そう感じさせる。鍛えると人間の足はああいう風にあるものなのか、まるで彫刻刀でそぎ落とした断面のような直線の筋ができあがっている、なぜそうなる。
他の2人の方が動きが早い。床にもバーにも必要以上に頼らない。美しい立姿。胸はり。何かにすぐれるとたたずまいだけで美しいのか。目の焦点本番と一緒。この人は自分の目もどうすればどうなるか知っているのか。人間の2本の腕はああも美しく動くものか。こう動かしたいと思って腕なんか生まれてこの方自分は動かしたことないもんナ。不思議。頭上にきたときのイチベツの優雅さよ。「レィディ。ドゥ。プラシオン。」「準備できましたか。はい、ではやってみましょう」いい音だナ。ジャンプ。正しい飛び方と着地の練習。他の2人とまったく違う。1ミリも乱れない。ああいう力があれば本当に自由が手に入る。あれがバレリーナの足か。いや、しかし、美しい。
【リラクティブ呼吸編】
「呼吸ってすごい」
①「まず息を吐く、その余韻を味わう、そして体を戻しながら息を満たし、そこで止める。」吐いた後の余韻を味わう、というのが新鮮でいい。呼吸。吐くことを味わう吸うことを味わう。無意識にやっていることを意識してみる。やってみれば確かに味わえる、確認する、というか。では、「吐く」とは何か。自分を大地に返していく。ひょっとして一呼吸ごとに細胞は生まれ変わっているのだろうか。体中から古い細胞を出し切り、新しい細胞を取り入れる。新しい命が入ってくる。4拍ずつ繰り返してみる。余韻を味わい息を満たす、とイメージすることによって呼吸が深まって心地よい。
「自分の腹をゆるませ、手でリズミカルに弾くことによって息を吐いてみる。」吐く息がなくなってくるとゆるんでいた腹に力が少しずつ入っていく。力が入る前に捨ているのか。何かもの凄くひっかかるのだけれども、つなげられない。
「自分の呼吸を映像の方へ投げてみる。キャッチボールをする。」音楽の波動をしっかり受け止めながら。楽しい。呼吸のキャッチボールか。できるのか、こういうことが。体中に受けとった息が広がっていく、体が喜んでいる。気持ちいい。優しくおくりたくなる、そっとおくってほしくなる。バックの流れる音とても気持ちいい。体の中にあの音がある。宇宙とのやりとりだろうか。
「腹筋を縮めるようにして、まっすぐに長く吐いて下さい。リズムに合わせ。指向的呼吸。」リズムに合わせるのか。呼吸の中に音楽の波動がありリズムがあるのだろうか。単にやりやすさのためだろうか。リズムのないものが波動のないものなどあるだろうか。気が付かないだけのことなのじゃないだろうか。とすると、呼吸はこんなに奥深く表情に富み体を解放し喜ばすものか。今、気づかなかった“呼吸”と出会っている。体がどんどん溶けてく。
「人間も地球も同じように呼吸しながら生きている。海と同じように水からできていて、森のように大気を吸い、花を抱いて、石のように大地を踏みしめて。」人間と地球が同じか。そう、そいえば、ほとんどが人間は見た目はそうは見えないけれども水からできていたナ。そして大気を取り入れている、そう樹々たちと同じだ。花を抱くのはなぜ。何かわけがあるのだろう。そして、そう足の裏だけが人間は大地とつながっている。そう、石のようであるか。とても不思議な感じ。地球と仲間のようである、何だかんだいったって、ただ呼吸している。ただ全てのものが生きている、その全ての中のたまたまの一つにすぎないのだと認識するような。多くのことを、力及ばぬ多くのことを神に素直に委ねたくなるような。全てのものが、本当に全てのものが生きている。何か大きなうねりがある。宇宙のうねりだろうか。
この言葉で、段階を踏み、もう“私”はなくなった。ないままである。私はどこにいる。どこにでもいる。呼吸ってものすごい。いろんなものにまだまだ出会わせてくれる感じがする。リラックスした呼吸と方向付けすることを意識して呼吸法に役立たせる。リラックスと意識。何にしても大事なんだナ。瞑想の「瞑」の字の冥は1.奥深いこと2.目に見えない神仏の働きについていう、という意味があるのか。地球瞑想か。まだ、とば口なんだろうな。実におもしろい。しかしどうして「六」という字が含まれているのだろう。
【ラジオ体操】
「ラジオ体操は急激な体の変化を避けるように体の生理・原理に見合って作られ、なおかつ徐々にクールダウンしていくようにもなっている」
一緒にやってみる。あんなにパキパキしているのか。すごい。何が。考えた人が、そして今目の前でやって見せてくれているその人が。ハードだ。そう、中学のときの体育の先生が「深呼吸だけだって本当にやろうと思ったら大変ですよ」とラジオ体操のことをいっていたなあて。合点がいかなかったのを覚えている。やり終えて汗ばむ。
第一体操の中の間違えやすいところ。
動作②手の交差。かかと床につけたままではなく、しっかりあげる。出っ尻にならない。よい見本と悪い見本2人並べて同時に進めていくのは、とてもわかりやすい。ああやって見せてもらうと自分がその動作やっていることがわかる。言葉だけでなく目の前で形として示していく。ん。歌と同じか。聞いてくれる人の前にイメージを提示する。歌だけでなく。
動作④で腕交差させてあごひいて腹を出さない。手で自らをひっぱりあげる気持ちで。手の平がかえるとよい、か。動作⑤腕で耳をおさえるように。前かがみにならない。脇がよくのびるように。
動作⑦体ねじる。両足しっかり床に踏みつけておいて巻き付ける。
動作⑧ギュッと手を引き寄せる。広げてはいけない。前かがみもよくない。まっすぐ上。体から手を離さない。
動作⑨斜め前へ、ひざはのばして足の両側に手がくるように。だいたい2本そろって足の内側にきてしまう。正面に向き直って胸はる。ぐるっと回す運動。後ろでひじゆるめない。まっすぐのまま。足ゆるめない。腹出さない。これを踏まえてもう一度やってみる。過激じゃなかろうか。お手本やってくれる女の人たち可愛い。何だろ、きびきびしたかわいらしさだろうか、でもハード。注意された通りにやると今までやりにくかったところの動きがスムースになる。いいもんだ。今までのはただやっていただけ。意識することはスムースさにつながるのか。
意識することは楽しい。不思議。意識してないことが山ほどあるような気がする。ごっつう楽しみだニャー。そして汗ばむ。心地よい。第二体操の中の間違いやすいところ。のびあがって力持ちするあの楽しく懐かしい動作。かかとしっかりあげること。腰ひかない。足と手のタイミング合わせる。悪い見本の人のこと、ひあがった蛙みたい、といわなかったか。表現がうまい。でも、少しかわいそう。フォローなしだ。いう必要が伝えたいことを伝えるためにあるだろうか。映像として充分足りているような気がする。
動作⑤片方の手はしっかり脇の下に確実に。脇でつっかえ棒するように脇の下にくつける。体斜め前倒しにしない。振り降ろしてブランブランの動作。首の力抜いてブランブラン。後ろにいく途中で息とめない。頭を誘導物として下げる。すると体もそれについていって曲がる。できるだけ大きく輪を書くつもりで。
動作⑦ねじる。指先を見るように。重心はあくまでもまんなか。足動かさないように。正面向いたまま巻き付ける。
動作⑧から踏みをして、それを反動として動作始める。斜め前へ倒し後ろぐるり通って反対の斜め前へ、の動作。2で方向かえる。横から上向きにスッと変えてしまう。こういうことだったのか。これでうん十年のやりにくさが氷塊した。起こしながら反対方向へスッ。しかし、今までだれも教えてくれなかったと思う。気が付かなかっただけか。わかっていただろうか。体育の先生たち。イヤ、とにかくこういう説明受けたことない。全然意味が違ってくる。何が違う。今感じることは、はるかにやり易いことだ。楽。ただ歌うことと、意識して歌うことの違いは。無駄が省けやりやすく、楽なのだろう。トレーニングの一つの大きな目的はそれ。トレーニングがイヤになったら思い出せばいい。もう少しがんばれば歌うとき今より楽だよ、楽になるよ、と。体くの字にして腕ふりあげる動作。まず両手を後ろにスッと伸ばす。第一も第二も反動をもの凄く利用する。それをうまく生かせればもっと動きは大きく、同じ動作で効果がより大きくなるだろう。でも感覚としてはあまり動つけたくない、TP働く。反動で腰を痛めた記憶が体に残っている。私の場合は、ほどほどにだ。ラジオ体操は奥深く楽しい。一つの形として創った人の気持ちがほんわり今日たちのぼってきた。初めてラジオ体操に出会った、という感じだろうか。出会えてうれしい。
【藤山寛美】
藤山寛美の声、聞き取りやすい、のびやか、長いせりふでもリズムがある。体でしゃべる。せりふとピッタリの手振り。表情柔らかい。あごに力入ってない。ダランダラン、もちろんはずれているわけじゃない。聞いててまったく息苦しくない。せりふにもフレーズがある。「あーネ」。まろやか。とてもやわらかでおいしいものを食べたときのよう。たった一言なのに。南都八景8つの名所を語るだけでなくジェスチャーでも見せる。
「まあ」首を横にかしげる。「すまんな」というときの息づかい。体から出てくる声。発声としても表現としても。体にピッタリフィットするまでいってみるのか。何度でも。嘘を見逃さないで。きのうは嘘じゃなくてもゼロから。ゼロ。こんなこと余程体の中にいろんなものがもの凄く入ってないと終わってしまう作業だ。ああ、何と尽きないプロセスだろう。生きることと同じ。これでいいというものはない。そう、尽きないからおもしろい。尽きたらそこまで。
世界はおもしろい。宇宙はおもしろい。自然はおもしろい。そして何より人間がおもしろい。滑稽で愛らしくて何だかよくわからなくて、どうしようもなくて、阿呆で、凄くて素晴らしいもの。中川氏の声。平べったい。違いはどこから来るのか。練習量。耳。意識。自分の声はなかなかわからないものだ。録音にとってですら。なぜか。甘くなるのだ。そしてやっぱり耳。そしてどうありたいのか設定。揺らそうと意図してでなく声が揺れる。まずその揺れを、ああそうなってしまっているナ、と自分で認識できるかどうか。そしてそれをどうしたいのか。その揺れよりも他のことに今は専念するのか。それとも変えていきたいのか。
自分で決める。変えていくことにしたら絶えず意識をおく。変えたいと。変えようと。そうしているうちにその方法、工夫が自ずと出てくる。求め続けていさえすれば。いわれて、指摘してもらってボーっとしていて変われるわけがない(自分のこと)。絶えなる意識。声だけで腰の低い商人と感じさせる。声だけで大棚の女主人らしい声。番頭らしい声。「その人」になる。「その人」が子を出す。できないことはできない。身の丈にあわせて「その人」になる。「やっぱりなあ」息たっぷり、息の音聞こえる。それがいい。なぜ息の音聞こえるのをいいと感じるのか。息の語源は魂。その人の魂に触れる。なぜ魂に触れたいのだろう。なぜ触れたときに感動が生まれるのか。フレーズの中にバランスは感情の表れ、「あとも見ずに」頭をかくしぐさをしながら。「久しぶりやなあ」急に晴れやかな声。場面が展開したこと声を聞けばわかる。音色。音の色。暗い色なのか明るい色なのか。どういうニュアンスの暗さなのか。とういうニュアンスの明るさなのか。イメージする。イメージしてから出す。のっぺりさせない。一色なら濃淡、筆の勢い。タッチ。色使うとき、ゴチャゴチャさせない。たくさん色使えばいいってもんじゃない。むしろ引き算でいいのかもしれない。やりすぎたときの方が難しい、収拾がつかなくなる。焦点がぼやけていく。少なくとも弁当はそうだ。そのためにはどこを焦点とするかがはっきり見えてなければ駄目。どこだけは絶対ゆずらないのか。メインとなるおかず、というのがある。他のおかずと調和し、いかしあい思わぬ効果が生まれることがある。テーマがはっきりしているときにあるかもしれない。今回の弁当は「お疲れ休みでいこう」とか。「春の風」でいこう、とか。イメージ。イメージして意識して動く。ああ、また意識か。意識を使いきったときに無意識にいけるのか。無意識とは何だ。しかし今も耳を離れない藤山寛美の声が。その間、緩急、イントネーション、全て。リズム。ひっつかまれてどこまでもひっぱっていってくれる。その心地よさ。もっとひっぱられていたい、と思わせる。せりふも歌も同じ。なぜだ。からだから出た声。体から出ていさえすればひっぱられるか。否。でもまずひきつけられる。その後は。ただひきつけたいのか、それともこうありたい、と思うのか、どうか。藤山寛美はお客さんに喜んでもらいたい、という強烈な意志。プレスリーと同じ。まず、意志。後は自ずとついていくのだろうか。意志を持つことの大事さ。初めのイッーポ。でもとても大事な一歩。
【布施明 他】
“Yesterday ,When I was Young”を歌った女性。聞いていて厭な気分になった。よくよく聞いてみると、声や曲のせいではなく、歌い方ではないかと感じた。フレーズ全体(最初の音か)がおくれているようだ。それが気持ち悪く感じた原因だと思う。自分自身も最初の音あるいはロングトーンが、拍子通りにトンと入れず遅れていて厭だ厭だと思っていたせいだろう。とても明らかに聞こえた。また、フレーズ全体を前にワッているところも、そのせいか、不自然でしかもおくれているのがさらに前面に出てしまっているように感じた。
布施明。“この胸のときめきよ”。盛り上がらないのはなぜなのか。透明な声できれいであり、いい声だと思う。なのに盛り上がってこない。村上進さんのを聞いたときのスケールの大きさが、同じ曲なのに感じられない。理由はよくわからなかった。外国語の発音だけではないように思う。
遅れてきて、ちょうど最初にやっていたのがアコギ(クラシックギター)を持って弾き語りをしていた人だった。名前も曲名もわからないが、そんなこと関係なしに聞き入った。声が深くて伸びやかで、力を入れているわけではないだろうに力強く、またリズムも正確ではないが心地よいズレ方(というより“流れ”というべきか)をしていた。
バーバラ・ストライザンド。あんなに早くしゃべれたらいいな、とポカンと見ていた。それと、口がスティーヴン・タイラーになっていたのにはびっくりした。きれいな女性があんなワニみたいな口をする。しかもわざと大きく開けているのではなく、ごく自然そうに大きく開けている。口を開ける(ノドを開ける)レッスンを思い出し、納得した。
【シノザキ・システム演技術】
「人間はリズム」一緒にやってみる。手旗信号のように手を動かしながら「ダゾデザドザ」。見事にできない。できなさの1000乗くらい。神経を複雑に使いながら発声の練習をする課題、か。1つの瞬間に1つの動作にそんなに人間は神経を使っているものだろうか。でもそうかもしれない。1つだけというのは考えにくい。でも混乱せずに自動的に瞬時に切り替えながらやっている。そういう素晴らしい自然な体。超能力のような人間の体。でも、いざ取り出してやろうとするともうできない。目標は無意識にできるようになるまで意識してやる。発音自体は口でやらないこと。腹でやることだ。太極拳、やったことある動作に見えたが違う。全然違う。思えば大きな玉を抱える動作だってやったことないし、やっているうちに大きさは変わっていくし。腰を安定させながら左右45度に踏み出す。ふくらはぎ肉離れおこしそうだ。見た目の静かさと裏腹なハードさ。一点に集中せざるを得ない動き。質的に過激。でも、中国の公園なんかの映像では普通の人が死にそうな顔でやっている。自分の今の体のレベルがかなり低い、ということかもしれない。
まず歩くことから。5・6・7・8:やっていて踏み出していく感じがとても気持ちよかった。大地の一歩を自分で自分の足で獲得しながら突き進んでいくような。大地との一体感もあるし。ところが5で止まれない。そして止まれないから。振り返れない。止まらないから次の動作ができない。重要なのは5歩目で正確に呼吸を止めること、か。私はもちろん止めてなかった。止めてやってみる。止めたことにより体が急に止められて収集つかなくなり、何かを生み出す体制になっている。反動みたいなもの。その原理は感じる。でも振り返る必然が自分の中で起きない。理屈で振り返っている。できるだけ、さっきより遠くに踏み出してみる。それだけでも反動の必要性が強くなってくる。しかし振り返りの鈍さよ。自分で不愉快。演じている人が1秒だとしたら1000時間くらいに感じる。あれは振り返るといえない。だんだんに後ろを見ていく。それくらい違う。
普段しない動作ではある。頭も重い、体も重い、心も重くなってきた。しかし、これはどういうことなのだろ。できるだけ遠くに踏み出すこと、リズムを正確に刻むこと、特に第一歩目を遅れないようにすること、空気をかき分けて進む気持ちで、この条件のもとにいき呼吸を止めシャープに振り返る。キレ。「呼吸を止め」は歌で何にあたるだろう。吐ききることか。動いているときだってそこで急に息をのみこむわけじゃない。やっぱり「ハッ」と吐き切っている。動きだと吐ききるときに踏み込んでる。ここに私の知りたい何かがある気がする。影は見えども姿は見えず、ホンにお前は。んーじれじれする。でも気のせいかもしれない。でも猫は踏み込みあるように見えないのにセ静止していても一瞬にして振り向く。柔らかそうだ。そしてそうしなければならない理由がありそうだ。ゆっくり見ていくのでなくシャープに振り向けるようになりたい。何かが必ず違ってくる気がする。
バランス:よくどしんとお尻つかないものだ。相手に呼吸を合わせて肉体の限界でバラバラとるようにこころがけていけばそうなるものか。でもそうかもしれない。心から抱き合えたときは自ずとそうなるかもしれない。相手の心を察知してゆっくりと。そうか、呼吸があっているのか。
2人でつくり出す世界。ワルツ:これは2人でやってみたかった。しかし実にしんどそうだ。あの激しい動きの中で目線は合わせたままではなくてはならない。その中でこそ肉体に「ウソ」をついていける。目と目を合わせる、握手する、腕を組む。疲れているのに笑顔をつくり必死で相手を楽しませようとする。でも、相手が楽しそうにしたときは完全に疲労がどこかへぶっ飛ぶ。そういう状況をつくり出すトレーニングか。おもしろい。しかし意志の集中をしていると、いつの間にか心は純粋になっていくのか。純粋。子供になれる。意志を集中することによって柔らかな心になれるのか。プロセスを踏めば柔らかな心になれるのか。
「笑顔の疲労を感じなくなったら大変喜ばしい」ことか。ステージで笑顔を大事にしようという意識が欠けている。「相手を信頼し、そしてお互いに気持ちの交流がおこなわれるとはじめて力が発揮できる。決して自分ひとりの気持ちの解放ではない。」「ステージで自分の考えや気持ちだけを出せばよいと考えていると本当の演じる姿に近付くことはできない」「魂のキャッチボール。強く投げれば受け手もしっかり捕球しなければならないし、ゴロを投げればバウンドを計算して受けなければならない」か。「キャッチボールのリズムの音は演じる側と演じられる側でつくっている」か。こういうことを意識してステージに立ったことがない。一瞬感動しかかるけれども、でもこれはいきる場面の話と同じだ。誰しも仏頂面よりも笑顔を好む。緊張が溶ける。そしてその笑顔が信頼に基づいていたものであるとき、お互いの気持ちの交流が生まれる。生まれたとき相手の、自分の新しい面を互いに発見できたりする。認めたくなる、がんばってみたくなる。最初笑顔を差し出した人間一人だけが解放されていくわけでなく、心を通わす、通わせる者同志の間で世界に一つしかない瞬間を創り出していく。どんなとるに足らないものだろうがゼロから創り出していく。その瞬間のその2人にしか創り出せないものを。2人だけのリズムを創り出している。ステージはある意味で特別の場所。
でも、その基本は、むしろ根源的なこと「生きる」こと。人とどう生きていきたいか。生臭い場所。でも、人と友に生きることを楽しむ、そこで何が起きようが共にそれすらも楽しむ。生きていることが楽しい、ステージでの生きていることも楽しい、そういうことか。そこだけが特別にあるわけじゃない。基本にあるものは以外と平凡なものだったか。平凡ということがいかに凄く難しくだからすごいか、ということか。でも、得体の知れないものでなく、こういうことかもしれないと勘違いかもしれないけれど思わせてもらえる今の感触は、もういいようもなくニタニタしてうれしい、有り難い、どんでん返しは。マットでも100枚くらい敷いておけばいい、大体敷くの忘れるけど。
クルクル:手首が円運動の中心になるよう心がけても勝手な思いつくままの円運動のつもり運動になっている。円を描くのって難しい。意識しているからか。それにひじも動いてしまう。同ときに頭を回す。普段の頭だけ動かしているような動きにならない。断続的な動き、つながらない。そしてゆっくりとしゃがんでいく。全てが雑になる。一つの神経が二つの神経に増える瞬間が人間は最も弱いのか。待ち構えて今までの神経が止まりつまらなくなるのか。どうすればよいか。新しい神経の前に使っている神経を大事にして、自分の心の中を充分満たすように心がける、か。一つの神経を使っているときに二つ使う神経へのタイミングは心の中から追い出す、すると逆に自然に必然として二つ目神経にいく。無理に二つ目に入る必要などない。最初に大きな流れに乗れば、その流れに体ごと入っていれば最後まで動かさずとも動いていってしまう、か。考えるとこで終わるからクサくなる。ブチブチ切れる。私が歌がブチブチ切れるのは大きな流れが体の中にできていないから。身も心もひたっていないから。なぜ流れができないのだろう。もっと感じること。考えることも大事なんだけれども、それは感じるための手助け。体で感じたことだけが体から出ていける。
恋人同志になる。もっと会う。もっと話をする。ただ黙ってそばにいる。一緒にごはんを食べる。いつも一緒。すると相手に抱いていたイメージが一人よがりのものだと気づかせてくれたり、もっと好きにならせてくれたり。一緒に生きる。愛をもって。ギリギリになって首根っこひっつかまえて、前に座らせて根掘り葉掘り聞いたって目を白黒させるだけ。それでこの歌は難しい、なんて。まったく違う。間違っている。でも間違っているったって結局そんな風にしか求めたい、と思っていないってことなんじゃなかろうか、だから当然の結果として今のようになっているんじゃないか。本当に出会いたいと思っているか。思っているなら出会える方法をとらなければ出会えない。出会える方法の中には時間の使い方も、もちろん入ってくる。今のやり方で駄目ならやり方を変えていかなければならない。結果は欲しいけど100%完璧を求めない。それでうまくいかなかったら、また変えていこう。そうすればいい。
ジャズダンス:これは楽しい。少しの動きで大きさを感じさせてくれる。なぜ。シャープだから。鋭さって何だ。美しさ。よく研がれた包丁で切った切り口は輝く。本当。そのものの持っている美しさを取り出してくれる。それが鋭さ。ふんわりとした仕上がりの弁当。でも切り口は見ると鮮やか。両方成り立つ。鋭さがあればどうにでもなれるか。とても大事なもの。しかし人間の動作にとってもっとも重要なのは、助骨(胸の開き)、骨盤、背筋と腹筋か。しかしなぜ骨盤なんだろう。丹田があるから。筋肉の解放:筋肉に必要なだけの緊張を与え、すぐ解放する。余分な力は入れないのか。普段こういうこと人間自然にやっているわけだ。しかし、自然とは何てこうすごいんだろう。コンピューターよりすごい。何よりすごい。そういう凄さを全ての人が内包している。何ということはない、という顔しながら。人間て凄くつくられているんだナ。なぜだろう。楽しく生きてごらん、といわれているようだ。どういうふうに使っても自分の人生。自分で決めればいい。脱力するときはスピードを大事にするのか。なぜ。自然がそういうものだから。
パンチング:こういう動作経験あるだろうか。小学校のときだなあ、全て覚えているなあ。10年前のことぐらい鮮明に覚えているものか。どういう風景は自分の中に残りどういう風景は残らないのだろう。少しでも<間>を入れるとこの場合は心理的<間>となるか。行動から行動に移れば生理的<間>。生理的<間>にしたければ痛さをおさえようとせずに痛さを感じたままにして痛がり、突然に相手をたたけばよく、心理的<間>にするためには、呼吸をつめてしまえば、すぐに心理的<間>となる、か。この辺は言うはやすくだ。実際試してみることだ。ルコック:筋肉の緊張と解放の繰り返しがリズムをつくる、というトレーニングか。リズムが出ないならば筋肉がゆるみ切っていない状態なのか。ひじに力が入っていたり。必要なとき、必要なだけの筋肉、これが動き全ての鉄則。そうなのか。踏み込みとつき離し、その繰り返しが歌のリズムをつくる。歌に自分のリズムが出ていないならば、体がまだほぐれていなかったり心に力が入っていたり、か。踏み込み、つき離しも自分にとって必要な分だけ。これが鉄則か。自然だ。
呼吸:太極拳でクールダウン。全ての中にあった「リズム」。正確に、遅れないように、リズムを刻んで。人間の体とリズム。人間そのもののようだ。自分のリズムを聞くか。見えてきにくいときはつくり出していく。
【カラオケ】
「堂々とやれよ」通っているからには、鼻であしらってやらねばならん、と思う人が大多数だと思うが、私の今の目標は『人並みに歌えるようになる』ことなので、得ることも多かったのである。しかしながら、カラオケでやってはいけないこと、というのを学生時代はさんざんやっていたなと冷や冷やした。しかしその後にまた行こうよと誘われるので、まあ人徳のなせる技かと。ここ数年、カラオケには行っていない。もともとカラオケは嫌い。だって他人に聞かす力はないから→そこでチェックが入った。『堂々とやれ、照れるな』である。
考えすぎるとうまくいかない。反省は歌い終わってから、というのもあった。大声で怒鳴ればいいというものではない、というのも。全部、見事に今の自分に当てはまっている。気づいているのに直せないものばかりだ。息をすいすぎない、というのも。
ただ最後に出てきたカラオケ指導者には困ってしまった。恐らく自分と彼とを比べてどちらがいいといえば100人中100人が彼を挙げるだろうが、くやしくない。彼の歌は気持ち悪いビブラートを含め、厭である。だったらなんでそんなレベルで目標を立ているんだ、と思うがきっと『カラオケで人並みに歌える=歌を誰かに聞かせるライセンス』と考えているのだろうと思う。
ま、早いところ追いついて追い越してしまおう。3日でうまくなるコツというのがあった。前に書いたこともそうだが、それ以外には『ハ行、サ行』は息もれしやすいので母音であるいは『カ行・ハ行・パ行』は強くなりすぎるので弱く歌うという2つのことがあった。とても面白いと思うし、自分にも症状があるのでよくよく考えてみた。前者は今やっていることに関係する。『ハ行・サ行』をいうためにトレーニングをしている。そいつを母音にしてしまえば、そうだ。ところがそれは決してオリジナルにならないものだと思う。
『広い砂漠』を『いろいあばく』と歌っておかしく感じられないのなら、それはオリジナルに依存しているだけである。オリジナルで『広い砂漠』と歌っているから『いろいあばく』でも通用する。聞く人はオリジナルを頭に入れたまま聞くのであろう。
こんなことより、『ハ行・サ行』をいえるようになればいい話だ。後者は考え方を逆にすべきだろ。『カ行・ハ行・パ行』が強くいえるのなら他もそれだけ強くいえるようになればいいのではないだろうか。今トレーニングしているのはそういうことだと思っているからだ。これらが結局のところ必要になる時期が来るのかも知れないが、とにかく今は逆の方へ向かっている。そのようにトレーニングしているつもりなので、今は考えないでおこう。