レッスン感想 877
少人数でひとつひとつ確認していくレッスンがとてもありがたかった。自分を観察してみると、象徴的でいかにもポイントだろうなと思えるようなフレーズは、強いイメージを描こうとするために案外憶えられるようだが、自分の感覚に片寄って「ここはこうなるのが自然だ」みたいなイメージを作ってしまうとそれに邪魔されて楽譜の音を見失ってしまう。つまり、数少ない自分のテンプレートの穴からメロディをのぞき見ている感じ。確かにこのテンプレートが私のガイド役を果たすことが多いので、できる限りその場、その瞬間にこしらえられるように心がけよう。常に粘土みたいに柔らかくしておきたいもんだ。リズム読みに関しても、ともかく数多く触れることだ。
「NORWEGIAN WOOD」ビートルズの中で特に好きなタイプの曲。インド風味でアコースティックなサウンドがものすごくいい。すごく楽しく歌えた。キーも合ってたし。意識して英語の発音をすると、普段より深い太めの声が出てくる。この響きがけっこう気持ちいい。できるだけ腹から口までを直通にしている。この響きを自作曲にうまく混ぜていけたらと思う。心地よい重い、心地よい粘り、心地よいうねり言葉のリズムもすごく気持ちいい。歌っているときに身体がうまく機能しているとすごく気持ちのいいものだ。今日は心と身体がひとつになっている気がした。
日本のヒット曲を聞き、フレージング。以前よりは声をより深く感じられる自分に気付いた。
①わかりはじめたマイレボリューションあしたを乱すことさ 渡辺美里:たしかに声が一本貫いてよく出ていると思った。ちょっとエコーかけすぎ。
②愛が全てさ今こそちかうよ ハウンドドック:たしかにすごく深いところから声が出ている。キーが高すぎる。音程あやうい。
③行儀よく真面目なんてできやしなかった 尾崎豊:すごく言葉とフレーズへのこだわりを感じる。選び方、はめこみ方、ふくらませ方。
④もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対 槇原敬之:この人ずいぶん鼻声なんだな。歌うまい人だなと思ったが、よく聞くとそれほどでないかも。ファルセットへの切り替え、使い方がスムーズ。いいメロディ。トレーニングしていく過程で自分の声に違和感を持って当然。むしろもっと感じていくべき。
「TELL ME WHAT YOU SEE」ビートルズにしてはすごく薄味な曲だなと思った。が、今日はコーラスをよく感じることができて面白かった。対極にある2人の女性の声について考えた。
Iさん:すごくなめらかに、サラリと流れる歌。反面、厚み。深みに欠けるが、しっかりこの人の身体を通して出ているし、意志が通っているので心地よく聞ける。たとえるとフィギュアスケート。
Eさん:ふところのあるバネ・パンチ・アクセル・スピード、申し分ないと思える。ただ、ある意味優等生すぎてすごく「あたりまえ」に聞こえてしまう。たとえるとバスケットボール。
そう、特に外国のヴォーカル(ミルバ、イヴァ・ザ・ニッキ等)はすごく「あたりまえ」に聞こえてしまう。「ものまね」でつかむような特徴が少ない。「ものまね」声まねをする場合、ほとんどは口先とのどの開け具合で超越するんだと思う。日本人の多くのヴォーカルはそこで他との差異をはかる傾向にあるので割とマネしやすい。外国人の多くはその人の肉体(カラダ)で勝負している。その人の肉体でなければ出せない音色で勝負している人たちの声はちょっとマネできない。口先の技術は「新しさ」とか「めずらしさ」等のとりあえずの商品イメージをつくるぶんにはいいが、てっとり早く消費されてしまう。花火みたいなものか。それを裏打ちできる力があればいい。熱があればいい。奥行きがあればいい。形の面白さで勝負するか、大きさで勝負するか、自分の花火をドカンと打ち上げたら、聞き手のちょうちんにどれだけの灯りをともせるかが勝負だ。
言葉読みのときに「これ、いいんじゃないか」というような声が出た。一切の計算がじゃましない、直線にスパーッと飛ぶ声。まるで自分が透明になるような感覚。全部足しても10秒くらいのもんだったが、確かに聞いたと思う。音階練習はなかなかなめらかにできない。低音を下向きにふせて出さないこと。一定方向に高音から低音まで同じ角度で出せるようにする。
体がなっている、体が歌っている、体から声が出ている、こういう言葉の形容が当てはまると思う。これが逆になると、のどがなっている、のどで声が出ている、口先が歌っているというようになる。芯をつかむトレーニングを中心に話すときからもしっかりと声を出すようにしていく。オリジナルな声について考える。外国の一流ヴォーカリストから発せられた声は全てがそれである。この人だから、この体格だから、この骨格だから、その人独特の声が出るんだということを強く感じる。いわゆる理にかなった発声。だから不自然な感じが一切しない。しかし私を含め殆どの日本のヴォーカリストの声は何かが違う。加工されている。早い話がその人の本来の声ではない。似たような声ばかりというのからそれが解る。私は思うに、本当の声というのは“体の声”という言葉が当てはまるんじゃないのかと思う。
「ギターよ静かに」とにかくしつこく歌った。具体的に型を試すのでなく、大きくとらえて、それを一曲ぶん保つことを繰り返した。やっているうちに、大してきばらなくても声の張りを持続できるようになってきた。初めは言葉の当て方を憶えるためもあり、かなり和バージョンの影響を受けた。「別のことをやろ」とは考えなかった。単純に不自然と感じる者を取り除こうとしたようだ。私にとっては、やたらとフレーズの終わりをのばすのが不自然で、やろうとしてもきれいに処理できなかっただけ。「自分の言葉」に戻ったら、こんな型にはまったような歌にはならない。(歌ってみると型から抜けられなかったりするが)
(ギターよ)の歌い出しがまず難しい。ギター、もしくは天に語りかけることを考えた。洋バージョンはすごく素直に語りかけているように感じた。和は歌っていて、洋は語っている。
①ギターよ~②はたけに~③みずべには~と3回同じ展開をしているわけだが、私の感覚なら2回でサビに入ると思う。じゃ、よく考えると真夜中にひとりギターをつま弾いてあれこれ想ううちに激情してしまうまでの経過をたどるならやはり3回分の時間を必要とするわけか。洋は本当にひとりつぶやくところから叫んじゃうところまでの展開が面白い。3回目はさすがにアレンジも色を加えてくるが、同時に歌もステップを一段上げている。さて、自分はどうかというと3回とも同レベルで張っていってしまう。初めから力こめるからさらにその上のステップに上がるのが困難で、サビに至ってはもう叫ぶばかり。前半の力を抜いてみた。フレーズを保つのが難しい。弱々しくなるようで。「力を抜く」という考え方は違うんだな。気の張り方、息の量は変化させず、なんだろう手段というか感覚を変えているのか。すごくお気に入りのフレーズがある。(調べの波間を)のところ。し→らべ(ん)の(お) な・み(ん)まをーカッコ内のひらがなは感じるか感じないかくらい鋭くふむ。ギタリストが弦を弾く、まさにその瞬間に左手指がフレットの間を「くいっ」とすべる、あの感じなんだな。
福島先生の「人がいる、人を置いていることがここの財産・価値だ」という言葉がピンときた。「ああ、この人」と思った。先生方がいるということがレッスンになる。体の中に音楽が流れている存在というのは、こういうことなんやな。「1カ月に1回会えるか会えないか」というのを真剣に考えなければならない。全ての先生方と本当に出会うために、日々しっかり準備すること。そうしないともったいなさすぎる。最近、ほんの少し、1回1回のレッスンは、そのときにしか訪れない出会いであり。もう次はないのだなと考えるようになった。今まで「そんな風」に生きてきたから、この先、「そんな風」に生きていくとはつらい。
「こんな深いところから声にするんかい」という言葉が頭に浮かんだ。こんな声を動かしていくのにはとんでもない時間がかかる。今まで、ポンと外にばかり放り投げてたので、しっかり声を体の中に入れてからそれをすべきだなあ。どの音でも「ハイ」でもっと息を吐く、低音で今まではのどをしめていたようなので、とにかく息を吐く、息を吐いているつもりだったけれど、それはお腹を力ませていただけで、体が固まっていた。もっと柔らかくするイメージ。
トレーナーの声は前と後ろの真上に圧力が感じられる。特に上がすごい。自分の中では、「なに、このくらいできるさ」とおもうようにやってみるが(そう思わないと気持ちが萎えてしまう)、口の辺りだけでモゴモゴしているだけ。ずっと、この差はどこから来るのだろうと頭で考えていたがいまだにわからない。ただ、先生の話の中で「何でこういう声が出るのか、一つひとつの器官がどうで、というようにわかっているわけではない」というのがあった。体の感覚なのだろうと思う。頭で考える=不器用というのはよくわかった。自然に呼吸すること、声を発すること、自然体であることに逆らわないようにすること。これが重要。ただし、今の自分の声には自信が持てない。自然に逆らっていることもあるだろうが、それに加えて自己愛のようなものに欠けているかも。
ものすごく暗い曲でした。音量を小さくして聞いたら、たぶん淡々とした曲に聞こえるんじゃないかと思えた。正直いって、今日の先生の話は自分にはさっぱり見当がつかないというぐらいに理解できなかった。イメージというか、想像でもとらえられなかった。イメージや想像でとらえて、間違ってまたやり直すことを繰り返してきているけど、今日の「ゆさぶる」ということは、どうしているのか解らなかった。
でも、先生が1度フレーズを出したとき、揺さぶるように聞こえた。こっちに飛び込んでくる強さがあったと思う。そこまでゆさぶらないとならないのかとも感じはしたけど。解りやすいように強く揺さぶってくれたのだろうか。それと、音符は感じさせなかった。自分のは音符が見えるようなフレーズだったけど、先生のは違ってほかの何かに引っ張られているように音符は感じなかった。
一つに取れた、と思えたものがほとんどなかった。一つあるかないか。場や空気を人に作ってもらわないと入れないのか。自分で場を作れない。時間の始めに曲をかけるのも、場をつくるため、テンションをつくるためのものなのに曲が止まると、全部とんでしまう。まったく別の空気に自分でしてしまっている。さらにそんな状態でフレーズをやるから、後の人皆に悪い影響を与えてしまった。入門①人よりは、少しは“たてに入る”とか“一つに取る”ということができるのだから、何か気付いてもらえるぐらいのフレーズを出さなければいけないのに、何もできなかった。
常に体で、声で示せなければヴォーカルとしてやっていけない。その重さを感じた。「この前は、昨日はできたのに」なんて通用しない。自分の言葉で、自分の口調で出すことが第一。プロの人たち、先生のような体も声もないのだから、同じようには出せないし、同じようにやることに意味はない。自分の心と体から話さないところでやりつつ、そこに体を使おうとすれば、自わから離れていってしまうのは、今の自分にはしょうがないこと。そこで落ち込んでしまっている。そこからきっと学ぶべきことがあるはずだ。自分でどんどんテンションを落としていっている。フレーズの中に曲が見えてこない。“あさ”であろうと“のあさ”でも同じ。体と結びついたところでできたとか、そういうこととは別の問題。何のために1つnフレーズのさらに一部分のひとことを練習するのか。それが歌の延長線上にあることを忘れ、何の意味もないものを平気で出していた。
「のあさ」の「の」の中に「わかれ」を入れる。「あさ」の中にその後のフレーズを入れていく。そういわれてそれに気が付いた。フレーズに入っていけないのは技術的なことではなく、いかに歌で伝えようとしているか、それがわかった。言葉を伝えられないでいる。自分の口調で伝えることが、ただのいい方の問題で止まってしまっていて、自分の中にも一度入れて消化することができていない。だから結局、言葉に自分が入っていない。メロディを捨てて言葉でもっていくというのは、言葉で伝えるという点ではすぐれているが、音楽的には成り得ないのではないかと思っていた。音楽的というのは、リズムやメロディを優先していくということだと思っていたから。でも、言葉でもっていっていても、しっかりとタテに踏み込んで動きが出せれば音楽として成り立っていくことがわかった。ミュージックフェアで越路吹雪さんの愛の讃歌の映像が流れていたが、昔の自分だったら、どうしてああいう歌い方をするのかわからなかったが、今はわかる。言葉で伝えようとすれば、1つの言葉の中の音の高低は最低限になるし、楽譜通りになるはずがない。
Se piangiの<Se>は軽く置いているように見えて深いところの一点をスピードを持って置いている。瞬間的に息が吐けないとこういう置き方はできない。間延びしてしまってSe~piangi~と伸びて終わりといったところか。呼吸を大きくした中でスピードを持って一点をとらえるトレーニングをすること深いところできっちりつかめば次につながっていける。Seとおいた深さを保ったままpiangiにつなげていくこと。発声練習の中で感じたことなのだが、完全に腰まわりで支えるということがまだでいなくてもこういう感覚か、というのが見えてきた。
最終的には腰まわり以外のところにはまったく力が入らず声を出すようになると思うが、まだこの感覚に慣れていないため、変な感じがする。ひとつ気付いたものに対しては何度も何度も試してみるに尽きる。それがいい、悪いということではなく、いろんな感覚を知り自分に呼吸していくことが必要と思う。音色と結びつけて自分の声、体を見ていきたい。
以前(何カ月も前)この課題をやったときと比べて何か違っていたか。声が安定してきたということもあるが、押さえるべきところをつかめるようになってきてまとまりをもって出せるようになったこと、音の高低に振り回されにくくなってきたこと。ポイントがわかるとそこに自分の凝縮した息をはっことに集中できる。一点に対してどれだけ強い息が吐けるかで歌がしまってくるのだと思う。全部をがんばらなくても押さえるべきところをしっかりと押さえられればもつのだと思う。
特にこういうスローテンポの曲はしっかりと踏み込んでいかないと流れてゆるんでしまう。今の自分の体で表現がゆるまないテンポを意識すること。見本にあわせるのではなく、自分のものとして出すこと。今までも自分をもち声を発してきたつもりだが、声で何かを伝えるということはもっと強烈に自分の意志を持たなくてはだめだと思った。こんなものではなく私はこうやるんだという強い意思。
楽しむことだ。
気持ちのいい音楽。そうでなきゃ。
言葉の、選び方、はめこみ方、ふくらませ方
私だからこそできること。
私の中にも、宝物は確かにある。
もっと面白くなる。
最近、益々、声への関心が高くなってきている。日本の一流の役者(特に50歳以上)の声の大きさ、深さに興味をもっている。その声は深く低い。そして大きい(これはただ大きいというのではない)。注意して聞くと全ての言葉がきちんと発せられている。口はあまり開けているというイメージはないし、どちらかというと、口から出ているというイメージじゃなく、体がなっているという感じである。これは何十年のトレーニングの中で生まれたものに違いない。他にもこの世代の人は素晴らしい声の持ち主が多い。役者は演技と言葉がある。言葉と声で自在に扱えるということは、それだけでものすごい表現(演技)になる。いまになってやっと一流の役者、外国人からだされる声を聞けということの意味を本当に必要に感じている。
【自分の基準をつけるために】(プレBV座)
人とのコミュニケーションの取り方がそれぞれ違っていた。どういうスタンスで客に向き合うかはその人の考えによるのかもしれないが私はアーティストとしてそこに立つことを望む。
Iさんという人がどういう人なのかというのはステージではわからなかったが一番説得性があった。彼女のできることを歌の中で全力でやっていたのが見えたから。見る人によってはつきはなしすぎて冷たいと思うかもしれないが、あのぐらいのスタンスでやらないと中だけで終わってしまうと思う。
内輪で好感をもたれたとしても外でやるのならもっと厳しさが見えた方がいいと思った。
選曲と彼が結びつかないいろんな思いを持っているのだろうが、なぜ、その曲を歌うんだと疑問に思ってしまうことが多い。自分を伝えるためだけの歌でなくてもどこかしらに彼が存在してほしい。歌には拍手できるけど彼に拍手を送るのは考えてしまう。
ひとりの人としてそこに立ってほしかった。客の視線から常に逃げようとしているのが見えてしまいあれではそれなら私がやるといわれてもしようがないと思う。それぞれの基本の力。マイクがはいると惑わされてしまうということが後になってわかった。
声は太く響きを持っているけれどきちんと深いところでつかんでいるのかはわからなかった。その後のレッスンで彼の声を聞いたとき彼の体がみえた。フレーズの最初の入り方でその人がどのくらいの深さをとらえているかというのはアカペラでないとわかりにく(私の耳がまだまだということだろうか)声が太いため、体が強いため歌をまとめる力があるため、納得してしまったりするが基本を考えたときやはり違うと思う。オリジナルの声でないと音色がでないといいきっていいのかわからないのだが表面的な声だとどこまでも加工するという道しかないように思う。
呼吸が感じられなかった。その問題は私自身感じていることだが最初の入りまで自分の体と心をどうつくるかにかかっている。小さくまとまったところではじめてしまうとその後が動いていかない。小さく出すとか大きく出すとかそういう問題ではなく大きな呼吸の中でどうコントロールして一音目を出せるかということ、その一音で聞いている人をひきつけられるかどうか決まってくる。あれだけ集中して聞こうとしている客の前ではそれ以上の集中力、慎重さ、思い切りのよさが必要なのだと思う。実際ステージに立てば思っている異常に小さくまとまってしまうと思う。それをどう破っていくかは自分にかかっている。強さが必要。
かなり積み重ねてきたというのがわかる。「Let it be」は自分で音をつかんでいるというのがみえてドキドキした。彼女の内にむかう集中力と表にでるパワーのバランスに引き込まれた。自分の中に入り込みながら外に打ち出してゆくということがどういうことなのか今までよくわからないでいたが、彼女の体を通して少しだけ先の見えるきっかけになった気がする。あれだけつきはなしてもいいんだなと思えるものがあった。基本を応用にどう結びつけていくか。考えなくてはいけないことやらなくてはいけないことが沢山ある。
皆、選曲と自分を出すということはとことん考えると思う。曲の紹介ではなく自分の存在を示すための歌、ここで歌う人は外国の曲を歌うことが多い。これは私の本当に個人的な感想だが、そらされている気がしてしようがない。日本人として生まれ日本語を話す私達。20年以上つかってきた母国語の歌を一曲も歌わない人というのは何か理由があるのだろうか。私は他の人を否定しているわけではなく自分が何にこだわって歌っていきたいかということを探しているのだと思う。自分にとって日本語は大切なもので、一つの言葉にいろんな思い出が詰まっている。I love youというのとあなたを愛していますというのとでは気持ちの入り方が違う。
私はもっといろんな国をみてそこで生きている人と出会いたい。その国に行ったらその国の言葉で歌えばいいと思う。でも自分の核はやはり日本語だ。私の考えは片寄っているだろうか。ひとつの言葉の重さを感じ大切にしたい。音楽にはすぐならないかもしれないけど、さっと通り過ぎてしまいたくない。人に対する感じ方というのは全て自分て何だということにつながっていると思う。人と自分との違いを見続けていくこと。
【福島特別】
『天の声、地の声』何も考えなかったわけではなく、“感じている”ことに集中していた(と思う)が、どちらに向けたらどうしてやったらこの“感じている”ものを動き出せ、すべり出せてやれるのかな、勝手にのびてゆけるようにできるのかなとさぐっていた。それは感情を入れるとか、大声を出すということでなく、声や息が自動運転になってしまうくらい動き出すようにという感覚だったと思う。
最初は少し意識してそうしてみたいとやっていたが“そうしてみたいこと自体”は、走り出す犬の引き綱を握っているかのようになった。“声・息・自分の体”という浮かび出さない風船を軽く軽く風船の重みだけで手の平の上でぽおんとはずませる。一瞬宙でふふふと止まるが、また手の平に落ちてくる。が、あせる気持ちにはならない。少しずつ滞空の感覚が出てくるまでいつまでも待ている。手の平に落ちてくる少し前、吸う息に合わせて手の平をそのリズムで沈める。ほんのわずか。いや呼吸(ブレス)=手の平だったのかなと思う。出したいだけ、出てくるだけ、出して、入ってくる分だけ呼気となる。一人一人でやっていたとき、本当に自分の体とは思えないくらい、自分はミイラなんじゃないかと思うくらい声が出てこない。感覚だけになればなるほど出てこなかった。発声器官全体がかすかすの網になってしまったか、マヒしてしまったかのようだった。
ああ、本当の私の“今”なのだと思った。本当の私の声はこんなところで死にかけのようになっている。大きく出したり、気持ちを切り換えてあおることはできただろ。ただ私はどうしてだかはわからないが、わずかに呼吸している。その小さな火のゆらめきをしゃがみ込んで見つめていた。ムリやり吸った息を吹くとその火(声)は消えてしまうような気がした。火おこしのときのように、そっと長く深くでも静かな息で息を送ってやっていた。
今思えばあの声の渦の中で、自分も渦の中に確かにいながらずいぶん静かな瞬間があったように思う。少し浮き始め火の姿が見えたとき、声の渦の中に戻っていた。意図的な感情の声や作った大声、ただ取り乱しているだけの声、高さに頼る声、そういうものは息が通わない。自分の声の火が酸欠になりそうな感じがする。だが、声(音)を受け、呼吸に任された声の響きは動き出しやすくしてくれる。浮くかな、自分で燃え出すかも、と思っても他の音声のエネルギーを失うと凧はすうと落ちてきてしまう。ふーんと思う。ただもう無理やり何かを起こすことをやりたいと思えないのでただ静かに生きるための呼吸をしていた。出した分しか息は入ってこないはずなのだからムリに思いきり息を吸って炎にするのはあの瞬間の自分にはできなかった。
今思うと順が違うように感じていた。①「出た分だけ空気入ってくる」②「大きく吸って大きく出す」②は今はそぐわない感覚だった。②は炎がぼんぼん燃えているときにふいごのようにあおってやって、どんどんいけるということがあるがあのときにはできなかったし、やりたくないという感じだった。
グループになったとき音に対して一人一人がきちんと反応してくるメンバー同士でバンド練習の仕上げをしているときのようだと感じた。シナリオをみんなで描いてそれを通ってゆくという方法はやるべきではないし、そんな必要がないメンバーだったように思う。息と声が聞こえ、それぞれの声が火おこしのこよりやふいごになる。「エネルギー=息・声の熱もでない質量でもない、なんだろうエネルギーそのものみたいな厚みが流れ出してくる→各々が受ける→受けた分呼気に違うものも流れ込んでくる→次の声が生まれる」という繰り返しの中で密度が上がったり、動いてゆく。
しかし、1分は短い。“地”を煮つめてゆくのは、比較的やり易いが“解放(天)”が見えない。(あのメンバーでもしあと何時間かまたは合宿みたいなものができたら、できるのではないかと思った。甘いか)他のグループを聞いていて後から気づいたことがある。とても単純で物理的なことでそんなことかと、やってみないとわからないのだが。→天の声に移るというのは地の声がもう何十倍もの密度までいけて、だーんっと撃ち出された後でないとムリなのではないかなということ。それも声つめてゆくような方向での密度でなくもっと深さを持った声で。(そう思ったとき、クラビノーバが鳴るようにすぽーんとしたフォルムで、でも地鳴りのするような声を出していた福島先生の姿が浮かんできた)“地”が中途半端では行けないのだ。たぶん。→音程→声を出し続けていると、呼吸に合わせて出していると「あ(A)~あ(B)」AとBの音程差がどうもマイナーコードになってしまう(みんなそうだったようなので、体ってそうなのか)→物理的に“天”(喜・嬉)などには行きづらい。もしかしたらばーっと“地”の怒までのぼりつめ、それを弾丸化したら、発射でも爆発でもよいから空に打ち上げてしまう。一瞬声をブレスで全員空白に、いや呼吸と呼吸のほんのその間分でよいから切る。空から落ちてくる破片を見上げながらの一瞬。(自分がその破片なのかもしれないが)少し違った呼吸が生まれやすい気がする。降りてくるのだろうか別の声が。ムチャクチャ単純に音声としてもその間が必要な気がする。もっと高度な人たちは、もと瞬間的な変換ででき、そんなことは必要ないかもしれないが、私たちがまず一度でも出すためには試してみる価値はある。
ただ難しいのは「切る」と思って切ったのではたぶん違うことになってしまうということ。「切る」というより打ち上がるまでのぼりつめてゆく勝手にそのあとは打ち上げられ必然的にブレス。そんなこと。はじめ、怒にゆこうとしたとき、ホワイトボードの「あがってゆく図」が各々の頭をよぎり、声の応酬やエネルギーのかたまりでなく、ある意味で意図的にうすく、あがっていってしまった。各々の中ではそれなりの高揚があったかもしれないが「音声のかたまりの空間」という意味ではうすく密度を感じないものになったような気がしてエネルギーを感じられなかったのでそれをいってみた。「するどくのぼる」(たぶん1分の中で、ということも含めていって下さったのだと思う)という意見が出たが私はムリヤリの“するどさ”は模型のようになってしまう(今の段階では)気がした。
作品にするのであれば“天”まで行けなくても行けるところまで原始の音声のかたまりの純度(後付けで言葉にするとなんだか複雑だが、現場の感覚としてはとても単純な感覚)を大切にしたいように感じていた。2回目の発表で着地したとき、輪の中に小さな幽かな息のエネルギーの球が残った。天には行けなかったが、声による何か。錯覚か、と思ったら他の人が「きたよね。さっきより」といった。そのことじゃなかったかもしれないけど、さっきとは違ったものが出てきていた、受けた、のは確かだった。錯覚とか思いこみとか、そんなものなのかもしれない。まだ自分たちの中から出られるようなところになっていなかったし、ステージ実習でいえば「夢中で必死にやって、たった一瞬ひらめくものが出るかどうか」に似たようなことになってしまったとも思う。ただ“「そこ」をとっぱらっても作品の形だけはつくるという”ことのできる「そこ」ではなかったし、それは歌でも同じだろう。声でも。
あれから考えていることがある。「赤ん坊の泣き声や人の泣き声は短調かな。つられて笑っちゃうような赤ん坊の笑い声って長調かな。子供におしえるとき“短調は悲しい感じ”とかいうよな。竹中直人の“笑いながら怒る人”はすごくおかしいよな。なんか絶対そっちがまず先で音楽がそれを表しているんだよな。あたりまえだけど、そういうことなんだな。」とってつけたようなことで、考えたことがなかったわけではないが、人が声に呼応して動いてゆくのを聞いていると、新鮮にそう思えた。、