〇大晦日から新年〜もしくはロスからパリの間で考えること
チャンスはいつも一度であり、それをものにするかどうかは、日頃、それにそなえ、どれだけ待っていたか、準備していたか、覚悟していたかで決まる。
道を切り拓く人は決してそれを逃さず、わずかな兆から嗅ぎとって、自分を確実に活かしていく。
しかし、多くの人はチャンスの訪れさえ気づかない。臆病で保身ばかりで、自分が変わる勇気、そして活かす自分をもてない。
ことに日本には、自分で自分の人生を、自分のところで切り拓こうとせず、他の人や他のところに任せてしまう人があまりに多い。それどころか自分でやらなかったこと(やれなかったのでなく、やらなかったから、やれなかった)で人をうらやむ。ひがみ、ねたみ、そねみ、引きずり落とそうとさえする。
なぜ、好きなことを好きなようにやって生きないのだろう。
できないといったら何でもできないのだし、どうであっても苦労するのが人生なのだから、
好きなことで苦しむことを楽しんだ方がよいのに······。
とにかくすべては、シンプルなものである。
それは、使命と自覚がないからだ。ということは、
日頃、接している歌や芸術から何も学べていないのである。
歌まねよりも、もっと大きなものを先に学ぶ必要さえ学べなかったのだ。
だから、いつまでも時間に、場に、自分に人に、そしてやるべきことに、甘い。
慣れ合った人間関係のなかでの才能を殺していく。
その鈍感さ。
いつも、“今”しかない。今を活かせない人に、明日はない。
今を活かさなければ、“今”はそのまま過去になる。
過去に生きるより、先にある未来に生きることだ。
その“とき”は必ずくるのだから、先にある夢は必ず、現実となるものだ。
歳とともに動けなくなり、死んでいく。誰もがそうだ。
しかし、自分で自分を殺してどうするのだろう。
誰が、何もなさなかった死体をみにくるというのだ。
ステージは、自分の生きざま、そして生き場であるとともに、死に場である。
そのステージを、あなたはいつ、どこにもってくる気なのだろうか。
これであなたの生命はよいのか、生きたのか、輝いたのか。
時間や空間を越えられないでいる、あなたたち―。
時間や金がないのではない。
勇気と覚悟がないのである。
私は、異国で感謝する。歴史を汗と涙と血で変えてきた無名の人々に。
日本のしっかりと働いてきた人々に。
こうして、何の差別もなく安全にランチを食べられることを。
そして、それをその何倍もの苦労と喜び、もしくは無念の思いのなかで先導した、
数多くのアーティストやアスリートたちに。
その、過酷なる戦いに。
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Q&A 歌の本質について
Q.ここでは、何をどのように身につけだらよいのでしょうか。
A.自分で考えてください。何よりも、あなた自身のために。
そのことに迷い、悩み、問い、得たもの表現活動の滋養なのです。
以下、回答に替え、昔の私の文章を載せておきます。
あなたがたは、ものが豊かなところで生まれ、必要なものはすでにあって、与えられつづけて育った。
そのためにどこかへ行けば、すべて(答え)が用意されているユートピア(正しい外側の客観的世界)があると思っている。
そして、自分の外の情報のとり入れと消化ばかりにやっきになり、目移りしていく。
そしてここに来た。そしたら、自分の感性など、どこにも発揮しなくてよくなる。
どうでもよいから、出てこない。
あなたがたは、そうやって育ち、そのことのおかしさに気づいている。
それなのに、そこを掘り下げず、ここでもまた、与えられたものだけを与えられたときだけ、
接していくのだろうか。
人間はいつも、何かを欲しくて、求めて求めて、それでもなくて苦心してつくり出していった、
だから、それが人々に受け入れられた。
そういうものなのに
Q、音楽、歌の本質とは。音を動かすとは。音と出会うとは。
A.少しは、“学ぶ”ということを考えてみてはどうでしょう。
私には、こういう問いは、音楽を聞かず、歌にも触れずにきた人のことばの暴力としか思えません。
ことば一つでも、心に感じ、その意味において、ことばを使ってきた人は、こんな問いを他人にしないでしょう。小学生のインタビュアでも、もう少し気がきくでしょう。
もちろん、ここの2年間ではこういう器も認めているつもりです。
問うのはよい。
私や研究所の反応を楽しんでみるくらいで、ね。
「歌手生活も自分でつかめというのか」という脅迫めいた質問もあったのですが、
私よりも他の人に聞いてみたらどうでしょう。
まともな人は、こたえない、こたえられないと思います。
レクチャーレベルの質問が出るのは、まだ、あなたがそういうところにいるからです。
「そうだ、何もわからないからここにきた、何とかしてくれ」という魂の叫びはわかります。
しかし、再三、本当に再三くり返している通り、歌や芸術は、幼児教育とは違うのです。
それを引き受けるのは、あなたです。
他人に何かを伝えるためには、自分から目をそむけてはなりません。
そういうあなたを、他人はみているのですから。
他人の視線にさらされる自分を、誰よりも自分が心の眼でみなくてはなりません。
自分に問いを向けられないうちは、自分の答えもみつかりません。
どこへいっても。
(もちろん、それを与えてくれる教祖もいるでしょうが、私はそんなお目出たくは生まれつけなかったから、該当しません。)
私には、自発的な衝動であるアーティスト活動が、それをやめさせようとする圧力との闘いはあっても、それをやることを強いる概念にとりつかれたような、今の貴兄に同情を禁じ得ません。
まるで、右手と左手がけんかしている。おかしなことです。
音楽、歌の本質なんて、どうでもよいのではないでしょうか。
私にとって、音楽や歌は自分の命を削ってでも、一日の食を栄養失調ギリギリまでの生活を強いられても、必要不可欠なものです。
それゆえ、まさにそうした生活のなかで一秒を惜しんで触れ得られてきたものです。
というのも、音楽は大切で愛すべき友であり、何よりも自分の命や精神を支え続けてくれた大である親だからです。ただひたすら、アーティストとその作品に感謝しています。
音楽がなければ自分は立つことも解放されることもなかった。
この場に立つのも、歌のたった1フレーズを粗末に扱わないのも、それは私の魂に入り込んでいるものとしてあるからです。
楽しいからやっているのです。
あなたにとっては、どうしてもそういうものでなさそうなので、求めすぎてつらいなら、やめてみたらよいように思います。受験勉強や資格習得のようなレベルでとりくんでも、音楽はおりてこないでしょう。
キツネとバラの花の話(「星の王子さま」合宿の資料参考)をしてわかることが、あなたにわかるのに何年もかかることでしょう。100回読んでわからなければ、1年たってまた読んでください。
心に感じられぬ人に、人の心に感じさせることはできません。
今の私の力では、これが精一杯の回答です。
私は評論家でも研究者でもなく、本質を研究するのでなく、それを生きようとしてまた、そして生きていこうとしている人間です。なので、本質論などについて、他の人と論を交えるつもりはありません。
声や歌や音楽があり、人前に出る場があるので、そこでそれでいつも示しているつもりです。
こういう問いがでてくるのは、私の力不足というほか、ありません。
ただ、これだけは忘れないでください。
できないということは、そこまでやっていないということであり、そういうことに過ぎない。
どこまでどのようにやるかが自由だから、素晴らしいのです。
厳しいようですが、理屈では、何事も動かないのです。
ー
大通夜(ボツネタ供養)
昨年出会った関係者で、思い出すに、印象に残ったのは二人。一人は関西へ在籍2ヵ月で「ここは本物でない」と殴り書きした手紙を突きつけて、やめた人である。ここへ土足で入り込んでお金だけおいて出ていった泥棒みたいなもので、何が起きたのか、あっけにとられてしまった。
要は私が歌って、それをまねて、悪いところを直したら、すぐに同じようにできるようなものがレッスンだと信じていたらしい。もし、それが可能なら、ここでもそうやっているし、一流アーティストの作品1本買えばよいはずだ。
もう一人は、東京の特別講座にいきなり参加した一般の人で、待ち時間にかけていたフレディ・マーキュリーに発声上の悪口を手紙で匿名で書いてきて、
私が「ここでは歌は教えていない」といったのを、「それなら意味ない」と皮肉たっぷりに書いてきた。
世の中には、こちらが求めてもいないのに、どうしてほとんど見知らぬ間柄なのに、いろいろとここまで勝手に決めつけて判断できてしまうのか、理解に苦しむことが少なくない。
また言ってどうにもならぬことがわかっているのに、そうしてしまうのも、わからない。
その自制心のなさをみるにつけ、幼さにあきれるばかりだ。
もちろん、きっとその人なりに思い込んで期待してくれているのを裏切ったのだろうと、こちらの命も相当、傷つくのであるが、当人たちも、何か一つ、失ってしまったわけで、おたがいよくないことだ。(安っぽい人間は、すぐお金を損したというが、こちらはそんなに安く、命を売っているつもりはない。同じときに他の人の送ってきた礼状やアンケートも添えたい。自分が他の人よりもできると思っているから学べない。というより、学ぶ必要もないなら何しにくるのだろう。)
こういう正義をふりかざした“いじめ”を弱者という立場を逆手にとって行なう消費者気分の人がこれから多くなると思うと、やり切れないところもある。
つまり、学んで欲しくておいている場で、学べないことを証明して何が楽しいのかということだ。
やって欲しいことがあれば私に直接、言えばよい。こちらに弁明さえ与えないおき手紙をしても意味がない。
私は、こうして表現もする代わりに、それがもたらすどんな嫌なことも、できるかぎり受けとめて返しているつもりである。結局、かわいそうな手紙を葬るために、年末に私が思い出してこのように供養しなくてはいけなくなる。
世の中すべて、やりたいことがやれるようにうまくいくようにできているのであって、それを邪魔しているのはすべて自分なのである。
だから、ここでも、技術のまえに精神やものの考えを述べている。
歌のうまい人は、この世にいくらでもいる。そのことと歌で人の心に伝えること、そして世の中を渡ることとはまた違う。そうしていきたいのなら、人に認められる力をつけなくてはいけない。歌がうまくなるのはその一つの要素にすぎない。
それなのに、こういう人は、人との関係をつくるところで、自分の世界を一人よがりにゆがめて、悦に入っているだけでしかないことをアピールしてしまう。
生まれか育ちか、何のせいか知らないが、でも二十歳すぎたらすべて自分のせいである。
だいたい、大きく学ぶためには、頭も心も白紙にしなくては何も入らないこともわかっていない。
頭がよく、いろんなことを知っていても、耳や感性が死んでいるところに、何が学べるのか、何が創り出せよう。
誰が聞いても1フレーズともたない歌しか歌えないのに、学ぼうとしないから学べない。
学びたいと思ってきたのに、学びの心がなければ学べない。
ここは声を売っている商店ではない。
私は、声という世界共通のものを世界のどの国にいっても、相手がそれなりの人であれば、瞬時にその力を理解してもらえるだけのものにしたいと願い、そう歩んできた。
次に一般の人にも理解してもらえるように、かみくだいてきたつもりだった。
だから、こういう輩に遭遇すると、自分の力不足を知る。声量などをわざわざみせて、力づくで納得させるような不自然なことは、20年前ならともかく、今となるとあまりに安易なやり方であり、私の美学に反する。
感性の耳をふさいでいるような人に、こちらも感性を殺して対するわけにもいかない。
どうすればよいのかは、わかる。
こういう人は、メディアや誰かのおつきや学会などの権威にとても弱い。
私が本を出しているから、来たのでしょう。
タレントなら、そういうものもついでに利用すればよいだそうが、私の人生の優先順位に、それらは今のところ入っていない。
あなたたちには一応、この会報を送る。ここや私がどうであっても、外タレがどうでも、あなたがよければよいではないか。
歌うのはあなたである。あなたに何ができるのかーということだろう。
たとえばこのステージ(ここでなくてもよい)で、誰もがすごいと思うように歌うのなら(もちろん、何年先でもよい)、何をいってもよいし、何とでもしよう。(しかし、そういうことをいうのは、だいたいここのメンバーの足もとにさえ及ばないような人ばかりなのだ)。
そうでなければ、まず自分の力をつけることである。
学ぶというのは、自分が学べないこと、知らないことがどれだけあるのかを知るところから始まる。
いったい、3時間や1〜2ヵ月で、ここの何を知ったといえるのか。