一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート トレーナーレポート 12952字 886

 

鑑賞レポート

 

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トレーナーレポート 885

 

 

「千僧音曼陀羅

 

声明や高橋竹山の三味線。でもとにかく声明や三味線というジャンルを歌いたいわけではないので、うまく説明がつかなくて困る。「好きなジャンルは」「久保田一竹の着物とかです」になってしまう。ジャンルなんてやっぱりCD屋の店員さんが使宜上使うようなものなんだ。

よい音楽は、それが日本のであろうと海外のであろうとどちらでもいい。私が気になるのは私のなかに重なる部分のことだ。「千偽」のお経を聞くまでそのことには気づかなかった。日本では仏教イコール葬式という感覚だから「千僧音曼陀羅」もお坊さん千人集めたことが圧巻でおもしろいのかと思った。お経なんて辛気臭い。ところが聞いてみるとそうじゃなかった。静かに静かに始まり、高まっていき、怒涛のようにエネルギーが噴き出して巻き込まれてしまうのである。なんだこの情熱的な音の空間は。昔、ゴスペルを聞いたときにはその声や背にある思いのパワーがあふれていてすごいなあと思った。日本にはこういうのが欠けている、こういうのがないんだ、だからよくないのだと思った。

でも、言葉で書いても説明調になってしまうが、向こうのものにパワーがあふれているとしたら、こっちには「炸裂」とでもいいたいような爆発があるのだ。

カンツォーネをはじめ、からだごとウワーッとあふれるように表現するものに対し、そのすごさはわかるし伝わってくる。音楽は国境をこえるからである。その意味では区別する必要ない。私がいいたいのは私のなかにそれがあるかということだ。厳密に甘って、ない。人間の共通の部分と正反対に、民族として絶対的に違ってしまう部分、技術や力ではなくオリジナリティの部分でもなく、もっと奥のDNAレベルでずれているもの。逆に力のある外国人の歌い手がどんなに声明に憧れ研究して感動的にできても、体内にもともとないから出せない部分。ややこしいですね。

 

 

高橋竹山の三味線

 

そこには、それがある。私は津軽育ちではないし厳しい自然も知らないし、まして竹山さんのように戦争や貧困、見えない目のための苦労も知らない。竹山さんはそういうものをすべて音に込めることができる人だが、私がいいたいのはその辺のことでもない。竹山さんの三味線は日本人だから津軽の空気が伝わるというような狭いものではない。三味線だから日本的というのは意味のない区別だ。むしろ「千僧」にしても竹山さんの三味線にしても世界に共通するなにかがある。日本のことなど全然知らない外国人が聞いても伝わるものをもっている。日本的だからというめずらしさではない。ジャズをいいというひとだって、アメリカ的であるという観光土産っぽい部分できくわけではないだろう。国境を超える音楽の基本、人類でみたとき共通できるもの。だから通じる。そこには竹山さん自身の個人的体験、人間的に深い部分が当然含まれているのだが、私はそれさえも取り払ったときに残る何かのことをいいたのだ。

じょんがら中節がどんなに激しくてもパワーがあっても、それは私のイメージのなかではガーッと放出されるものではなくて、陰気で暗くてこもっていてそこから突然炸裂する津波のようなものだ。パワーの形が違うのだ。

 

 

久保田一竹

 

そのきものを見たときに受けた、私にもやらせてっていうような脊髄が疼く情熱。きものがたまたま日本のものであるだけで、きものだからってことではない。きものが作ってみたくなったわけでもない。一竹さんの辻が花の印象を言葉にすれば自然の雄大さ、宇宙的で壮大なのパワー、華やかな色彩などということができる。にもかかわらず私にとっては暗くて強気な、一点から噴き出すなにかなのだ。からだに取り込もうとする必要がない。すでにあるんだ。でも、それを取り出せない。どうやっていいかわからない。

取り出すために使う曲が必ずしも日本民謡や日本語の歌である必要はないという気がする。ただ、日本語のほうが、言語自体にもしかしてそういうものがありはしないかと思ってしまう。その辺はまだ勉強が足りなくて、シンプルに説明できない。これが民族のものだなんていっていいのかもわからない。重要なのは自分のなかに確実にあるということだ。そのことが気になりだしてから、いろんなものを聞いてみた。日本の歌にはみんなそれがあるのかと思ったのだが、そうとはいえない。歌のうまい人でもそこまでのものはなかなか見つからない。却って楽器の方が出会えた。

林英哲さんの和太鼓はまさにそのものである。和太鼓がひとごろ流行って、いろんなひとたちがいるのだが、私が感じる炸裂の波を持つのは林さんだけだ。ソロではレナード衛藤さんが裸にペイントをして派手なアクションで叩きまくる。ジャズやロックのひとたちと競演したりしているが、何といっても軽やかすぎる。和太鼓、というイメージをうまくいかして雰囲気を作っているだけだ。それこそ外国人がみたら単純に喜ぶだろうと思われる。ショーとしては楽しい。でも日本人である私がみたらべつに珍しくないよというものだ。

 

 

鬼太鼓座

 

林英哲さんももともとはここにいたのである。林さんがいた頃に一緒だったひとたちが抜けて、鼓童というグループになった。いまの鬼太鼓座のほうは女の子を座長に仕立て、黒人にふんどしをはかせ、見た目はなんだかかっこいい。でもそのかっこよさも、走族が風神雷神の刺繍をめぐらすみたいな雰囲気的なものにすぎない。演奏自体も見せ場をづくり技術も確かでそれなりにまとまっているのだが芯がない。わかりやすくていいけど、わかりやすいものにありがちな、中身の薄さが感じられてしまう。こうしたらかっこいいだろっていうのが見えるのだ。

猿のほうはもう少し精神的なものが感じられる。めざすところもわかる。でも、初期の鬼太鼓座にあったような迫力はまったくない。自分達でやろうと独立したのだろうが、やはりむずかしいのかもしれない。「やっぱり少しはわかりやすくしなくちゃだめかな」って感じで折れてしまっている気弱さを感じる。

その点、林英哲さんの太鼓には世界があ林さんがいる。アルバムやライブではバリエーションをつけるためにこちらが入りやすいものもやるのだが、それが妥協でく中心を決してはずさないところでサービスしている。音に対して忠実だ。たまた和太鼓であるだけで、いかにも和太鼓だよっていうよけいな説明は必要ないのだろう。自分の世界があるのだから。和太鼓のソロなど退屈だろうなとはじめは思った。の生演奏を聞き音の世界ってこういうものだと知った。林さんの真摯な生き方が見えるようだがやはり暗い世界、ものすごくこもっている。そこから一気に炸裂する音の波。となりにいた太った金髪のおじさんがしきりに涙をぬぐっていたのを思い出す。私もからだが震えた。

 

 

近藤等則

 

トランペットの人がいる。生でなくエレクトリックな音を出す人だ。悲鳴のような音、切り裂くように鋭い音が独特である。慣れない人には雑音にしか聞こえないだろう。顔をしかめる人が多い。近藤さんはおもに海外で活動している。CD屋にいくと日本人のジャズのところに分類されている。しかし演奏自体はジャズもへったくれもあるかといいたげだ。キレている。日本調の音階を使っているわけでないしジャズに違いないのだが、最初から最後まで炸裂しまくる人である。こちらはあからさまに激しい。しかし私の音の世界のなかではやはり暗い。押さえつけられたものが爆発している。とにかくマイルス・デイビスと比べればその陰気さは一目瞭然だ。近藤さんの場合、炸裂の波を意識しているように感じる。ジャズに詳しくない私なので自信をもっていえないが内心では妙に確信がある。この人は自分が日本人であること、だから炸裂の波を持つことをはっきりわかっていて、それを音にするすべを知っているのではないだろうか。どうだ、これが爆発というものだといわんばかりに箸を扱っている。惹かれるというよりさきに巻き込まれる。

 

 

大野一雄

 

舞踏家がいる。土方とともに暗黒舞踏の世界を確立した人だ。もう90歳をすぎている。この人の踊りがまた炸裂の波なのだ。踊りが激しいのではない。エネルギーが激しいのだ。私のいう炸裂とはぜんぶそういう意味である。大野さんの舞台もすごかった。印象的だったのはカーテンコールで出てきたとき、大きな拍手と花束を受けた大野さんが、舞踏家らしく言葉でなく動きで気持ちを表した。光栄です、みなさんありがとう、みなさんの気持ちがこんなに届いてつぶれそうです、とでもいうようなものだった。それはうれしさによるしぐさでなく明らかに舞踏家としての動きなのだが、それをするのに全身全霊を使っている、その動きさえなにかが炸裂し空間を制する強いものだった。

 

一体こういうものからなにを取り出せばいいのか炸裂の正体が見えない今、考え続けている。いろいろな歌をきいてみたが、パワーはあっても炸裂のところまでいかない。その手前で終わっているのだ。民謡にそういうものがあるかと思ったが、ほとんどのものはパワーさえ感じない。形や技術やうまさはあるしそれなりによさもわかってはきたが、やはり歌い手によるのだろう。(江差追分を歌うアマチュアの名人のおじいさんが炸裂するのを見たことがあるが、TVだったし以後お目にかかっていない。残念だ。)

日本人にパワーがないのではない、音という世界でパワーが必要とされなかったのかもしれない。それはとても大きいことだ。ジャンルはまったく関係がない。“ある一線”を超えたものにしか爆発は感じられない。日本人がなにかをそこまで追及し出し切ったたときに、それはそういう形になって噴き出すのではないだろうか。

村上進さんの歌にはややそれを感じる部分がある。でも「炸裂」ということだけでいうとどこかに迷いのようなものを感じてしまう。私の想像に過ぎないが、日本人であることを否定的には思っていなくとも、イタリア人との圧倒的な差や、自分の力をそのまま日本で出しても求められないというようなことについて考え続けていたに違いない。もしもそういうことからまったく離れたならきっとこの人は炸裂することができる人だったのではないかと感じる。

それを思うと特に歌のことでは、日本の客が人間の本質的なパワーよりも雰囲気を求めてしまう状況は歌い手にとって不幸かもしれない。私には「炸裂」のところまでいったら必ず日本人の歌は世界に通用するという確信がある。もし本当にそんなことができるなら、日本人が英語の歌を歌うということについても問題は解決する。そういう曲を選んだだけだ。ネイティブ並みかどうかなど問題でなくなる。

 

日本人はおとなしいという。協調性を大切にする民族。でも、はみ出したら村八分にされるという制圧があたりまえである中で生きていたら、自己表現するときにそれが一気に噴出することは納得できるのだ。現代だってそれは変わらない。おさえられているからこそ激しい。欧米のように表現することが生活そのものである人達とは確かに違うが、本質的に人間は同じだとすれば、炸裂の波こそ日本人の原点だ。だからこそ通じるはずなのだ。陰気な情熱。おとなしくなんかない。その強さは決して欧米のものに劣りはしない。問題はどうやってそれを音にしたらいいかということ。これは陰気だろうと陽気だろうと、自分が情熱的であればいいというのではない。一線を超えるにはそれこそ0.1秒のなかの音の動きさえ感じられるようなこと、ほかのことは見えなくても音の世界ならいくらでも見えるというレベルの感覚が必要だと思う。それを自分の世界に確実に絞り込んで取り出せなければいけない。自分のなかに存在する、炸裂の津波、陰気な情熱。棟方志巧、土方巽宮沢賢治岡本太郎、あらゆる分野で確実にその波を取り出し、この土壌と闘いながら表現してきた人達がいる。POPSでもできるはずだ。取り出し叩きつけるために今日もお経を聞き太鼓の音にまみれ声を上げる。

 

 

 

【楽器を聞く】☆☆

 

練習でわざわざ楽器の音を聞くのは、声よりも音楽の波動や繊細な部分ががわかりやすいからである。聞く耳や感じる体があれば声であれ楽器であれ同じことなのだが、腹立たしいことに頭が邪魔をして、トレーニングしているというのに声と音楽を勝手に分離してしまうことがいつでも起きる。どんなに繊細な声を聞いても、体現しようとする瞬間にそれは「声を出そう」に変換されて気張ってしまう。体の感覚を表現と混同してしまう。逆に自分の体を楽器として捉えられない分だけ、楽器の音は突き放して聞くことができるように感じる。ひとつの音のその豊かさに驚く。なぜそんな音が出せるのだろうと思う。まして声は体から出る音なのにそこになにも含まないとしたら、声が出る出ないではなく、音の世界の出来事に気づかないからだと。この声で常に「これ音楽にしたいという観点から、常に「これと同じフレーズ(表現)を自分の声でやるとしたら」と考えると、インストールメンタルの曲はなじめないという人でもいろんな発見ができるはずである。

 

 

「Soul Of The Tango」(ヨー・ヨー・マ)リベルタンゴ

 

チェロの音色は人間の肉声にもっとも近いといわれている。ピアソラの曲を集めたこのアルバムでは、テンションが高く切れのいいタンゴのリズムのおかげもあって、自分では気づきにくい入り方の遅れも感覚しやすいのでお勧めできる。美しいフレーズが多いから、気に入ったところを数小節取り出して一緒に歌ってみる。このとき、楽器とのアンサンブルを絶対に乱してはいけないというところで歌わなければ意味がないだろう。好きなように歌っていてもリズムについていけない。ついていけなくてもしかたないのだが、そのことに無感覚になってしまうのが恐ろしいことなので。まずやってみるだけでアテンダンスシートの3~4枚は軽く埋まるくらいの発見があるはず。

まず1曲目の、最初に入ってくるチェロのフレーズ4小節分に注目してよく聞いてみる。気になるのは入り方だ。これを声でやってみよう。言葉はなんでもかまわない。私の場合はラを使うと1音ずつぶつぶつ切れてしまうため、最初は聞こえてくるままに取ってイメージを入れてから、あとから苦手なラできちんとつなげるようにしている。(この場合母音ならうまくいくかもしれない)ゆっくり立ち上がってくるような入り方だが、支えていないとフレーズの先端に向かってヴォリュームをつけることができない。だから力を抜いた小声では入れない。聞いているときには大きな波のようにゆったりしたフレーズなのに、実際声にしてみると、そのゆったり感を出すためには相当な速度を持ってリズムの先を行かなければならないことがわかる。ゆったり聞いたそのままにやっても、あっというまに取り残される。次のフレーズの間にブレスができない。途端に曲を速く感じる。ぐいぐいと息を吐けることやコントロールが、体のなかでどう不足しているのかがリアルに感じとれる。同時に、伝えたい感覚をきっちり外に出すには、聞こえた感触のままに声を発していては呑気すぎることがわかる。いつも聞き手より前に前にいてアクションを起こし続けていないと完全に遅れる。ここは必死で声を張り上げていても気づけない部分である。音符にも掛けない、音の一瞬手前のところ、そこで準備万端整っている、常に軽い続けるということは、ただ聞いてリズムをとっているという自分の状態とは恐ろしいほど速度の差がある。どうやってそんな一瞬に入ったらいいのか途方に暮れるが、今は入れなくても、その一瞬があると感じるだけで感動する(音が急に立体的に感じられる)とともに、しつこい線習をすることに可能性が見えてくる。

 私はやってみて、この出だしのタッチがどうやってもできないことに愕然とした。というより、こういうことにまったく気づかないでべたっと音を置いていたんだとハッキリわかったのだった。感情を入れているつもりが、ちっとも外にそんなふうには出ていないということだった。録音で聞けば、なんて押しつけがましい歌なのかと感じるのだが、私はそれを漠然と声の出し方が悪いと思っていた。もちろん出し方の問題ではあるが、そのことが音の世界に対する感覚の鈍さからきているとは夢にも思わなかった。単に発声の仕方に問題があるとおおざっぱに考えていたのである。このチェロのフレーズ通りに出だしをとろうとしても、力が入るばかりでその先に動いていけないことはやってみたらすぐわかる。でもそれを直したからといって、こんなふうにできるわけではないということにはなかなか至らない。音のイメージ、こうやって入る理由、その音についてどれくらいのことを感じているのか、などが感覚として体のなかにない限り無理だ。

 そのことから逆に、毎度発声練習で1音目を注意されて、自分でもそうだなと思うのに一向に修正できないわけがわかった。リラックスして発声するなどというい問題ではなかった。いくら必死で声を出していても感覚は眠っている、ということが有り得るのを知った。甘かった。初心者の人なら出だしの入り方をするよりも、このフレーズの最後の音、伸ばしている1音の部分を試してみる方がいい。フレーズ全体だと音域が広すぎて振り回されるからだ。この1音の部分だけでも、よくよく聞くと音の初めと終りではものすごい芸があることがわかる。同じ音であって同じではない。この「差」はなにか。これはもう「伸ばして」いるんではない、と気づく。

 さらに自分で歌ってみると、どうやら音量で調節するのでもないぞとわかる。これが様のヴォリュームということだ。声でやるときに「深さ」が求められる。「深い声」といわれてもイメージがわかないという人は、このような部分を繰り返し聞き続けるべきである。そして必ずやってみること。恐る恐るとか自分なりにとかいうありふれたやり方ではなく、バックの楽器とともに演奏しているという真剣な設定が必要となる。これは相当に重要なことなので、練習中何度も自分を確認してほしい。

 初心者のときに難しいのは腹式呼吸のなんたらではなくて、この練習状況を真剣に設定することにある。それができると徐々に、自分がどう遅れているとかはずれているか感覚できるし、こういう練習がなんで「ハイ」とか「アオイ」になるのかが痛快なまでに感じられる。

 まだ初心者だからというスタンスだと、この音を出そうとしても声帯が機械的に効くだけで感覚が働かない。また、自分が遅れたりはずれるのは気持ちが悪いことだから、つい音だけ当てて気持ちよく歌ってしまうことも起きる。それが蓄積されると鈍くなるので、その点要注意である。また初心者でなくても、この伸ばした1音をコピーすることはお勧めできる。ボジションだけとれていても、息をコントロールして流し切らないと大きな線にはならないなど、自分の基礎の弱点がとてもわかりやすい。(ここでは音は音伸ばすけれども、そのときそこで終わらずに必ず次のフレーズに入るための音の出ていない部分まで行うこと。全体を呼吸のなかで捉えるためです)出だしと最後のこのヴォリューム差を出すには今の息の使い方ではよくないということやヴォリュームというものが実際なにを伝えるのかなど、それまでは意識できなかったようなことが降って湧いてくる。ぼろぼろ来る。「ハイ」の基準を上げざるを得ない状況に勝手になってくれる。基本に戻るというのは理屈では理解できても実際は面倒なことであるが、ここまではっきりやることが見えるとそれは大きな喜びにもなる。

 次に、この伸ばしている音の色に注目する。どんなにがんばってもただ眉間にシワが寄るばかりでこういう表情がでないので、投げ出したくなってくる。でもこういう部分では、結局操作で音色が出るわけではなく、その状態になったら勝手にそうなるのだということがわかれが充分だと思う。それが出せているのか、それともそんな気がしているだけなのか、自分に対する判断ができればいい。初心者の人で、こういう部分を聞いて、音色ってなによと思うときは、極端に考え「ハイ」といってその音声で「悲しい」「うれしい」「切ない」などを甘い分けるとしたらどうするかをやってみよう。

 最初にテキストを読んだとき、「悲しそうに」とか「怒って」などの言葉の練習というメニュを見て、見なかったことにした経験があるでしょう。なんでそんなことしなくちゃいけないのかよくわからないからパスというメニュの代表選手じゃないだろうか。是非この機会に騙されたと思って挑戦していほしい。そして、グループレッスンに出るときに他の人の声、フレーズを、この観点から聞いてみよう。嘘って何かとかしぜんふしぜんの違いも,徐々にわかってくるはず。

 以上、ほんの一部分になってしまったが、切り口はどうでもよいのである。気づいたことに対してできることをやり尽くしてみよう。また、その後コピーから離れてやってみることが大切だ。息など続かなくてもいいから、このフレーズが表現しているところの何かを今の自分の声でそれに劣らず出すとしたらサイズをどう縮めたらいいか、どの方向に伸ばすのがいいか。徹底的に挑戦するのである。

 「私だったら」をはっきり知るために、私にとってその音は、その入り方は、伸ばし方は何を意味するのかを感じとるまで聞き続ける。これが歌だとCDの歌い方から離れられないで形を変えるだけに留まってしまいやすい。結局歌い回しでどうにでもなってしまうし、個性スタイル、どうとでもいえる部分なのだから。その点は自分がどこまで何にこだわるかによるので、どうでもよければどうでもいいことである。

 とにかく楽器の音だとつられない。逃げられない気がする。声にするとき、輪郭自体を完全に自分でイメージしなければならない。別に結論を出さなければいけないようなことではない永久の課題ではあるが、3ヵ月くらいの間でも、しつこく粘るといろんな点でヒントが得られるだろう。私がこの曲で一番感じたのは、自分の音に対する感覚、扱いがいかに雑で狭いかということだった。狭いと感じるってことは、広い空間を目にすることでもあった。こういうとき胸が痛い。うれしいのと悔しいのときと。次回はラッパの音を聞く。

 

 

 

鑑賞レポート

 

ビル・エヴァンス

 

「ユニバーサル・マインド・オブ・ビル・エヴァンス」ジャズを本気でやろうとしたら自分で自分に教えるしかない彼はいったが、結局教えられるものではないということなのだろう。ヒントを与えることはできるが、後は自分でつかむしかない。何を身につけるにせよ、そこは同じなんだなあと思った。その人のピアノのタッチから引き出される世界は、その人独自のものであり、それは人が教えられるものではなく、自分が育てていくものなのだろ。自分の感覚やニュアンスが、何よりも問われる。

 

 

レイ・チャールズ ザ・ジニアス・オブ・ソウル】

 

“天才レイ・チャールズ”とありましたが、ものすごい才能と思われるパワーがもって生まれたものも、もちろんあるのでしょうが、生まれ育った環境や境遇により出てくるものだということをとても強く感じました。一番心に残ったのは、彼の“盲人には皆やたら同情的で親切だが、何も変わらない”“五体満足でも何もできない奴はいくらでもいる”という言葉でした。自分で何でもできるように育てた彼の母親もとても偉大だと思ったし、“若いときの苦労がすごいパワーの源なのだろうな、でもその苦労もあたりまえと受け止めてプラスに変えていったから天才といわれる人になったのだろうな”と思いました。

 

 

We are the world

 

すごいパワーだ。伝わってくる。全身全霊の力。スケールの大きさ。しかもそれが歌い手によって全然違う形で表れている。引き込まれるというか、もみくちゃにされるというか。普段私はいろんなことで悩んでたりしているけど、そんなことは本当に小さなこと。もっと本当に絶対に大きな問題があって、そのことにこそ眼を向けなければならない。こういうのは一歩間違えると、どこか胡散臭さが出てくる場合があるが、そんなものを感じさせないパワー、意志、芸術的な完成度だと思う。ときどき見て聞いて、歌の持っている力の凄さを忘れないようにしたい。

 

 

ジャニス・ジョプリン

 

一言でアーティストといってもいろいろな形があると思う。人を楽しませようという人、何かを伝えたいというメッセージ性が強いものなどだ。これはメッセージ性の強いものだなと感じた。何かを伝えたいといってもいろいろ手段があるが、彼女は歌で伝えた。歌で伝えるためには、やはり歌がうまくないと人は聞いてくれない。安定している声、シャウトしてもた耐えられる体、歌のメリハリなど数え切れないほど持っている。しかし最もすごいと思ったのが、その集中力である。3分もしくは5分のドラマを緊張感を切らすことなく歌いきる。そしてそれを2時間も続けるというのはすごいとしかいえない。彼女のインタビューで印象的なセリフがあった。インタビュアーが「1曲歌うのにすごい体力を使うでしょう。」という質問に彼女は、「疲れないわ。1曲歌うともっと歌いたくなるの。」と答えた。気持ちというのも歌を左右するものだと感じた。

 

彼女をみていてヴォーカルって何なのだろうと考えてしまった。ひとついえることは普通ではないということ。この普通という言葉自体謎だけれどもまともな社会生活を送っている人からみたら異質な人間。結局人間はこの社会から他の人間から離れては生きていけないんだと思ったら妙に悲しくなった。自由になりたい思いと人とつながっていたい重いの間で揺れ動く心。彼女が強烈に輝いたのは3年。その期間を短いとは思わない。人は早死にすることを不幸というけれど死ぬ前一度も輝けなかったことを不幸とはいわない。これは価値観の問題だから他人にどうこういうことではないと思うけれど命ってもっと輝くものだと思う。ステージというのは別世界で本当に必要としている人しか立ち続けることはできないだろう。歌を歌いたいというよりこの世界でしか生きられない人しか。

日々の生活で問題もなく葛藤もない人はステージに立つ理由などないと思う。心が満たされている人は歌以外に自分をいかせるものが沢山あると思う。ここに入ったときは好きなことをやりたいという重いが強かったけれど最近はそういうレベルの問題ではないと思うようになった。

人は皆幸せになるために生まれてきたというけれど私は幸せになりたいとは思っていない気がする。多分、何もかも満たされた状態に居心地の悪さを感じてしまうのだと思う。だからいつも自分から壊してしまう。壊すにはいろんな葛藤があるけれど私はそいう選択をしている。歌っていうのは自分の心のなかにあるものだと思わずにはいられない。日々感じていること、考えていること、傷ついたこと、うれしかったこと全て私の歌だ。そうでなければ歌う意味などない気がする。何をしようがときは流れていくし人は死ぬ。本当にあっけないくらい日々過ぎていく。分かり切っていることだけど忘れたくない。誰もが自分の顔でいるときはほとんどないというような時代のなかで私は自分の顔でいたい。

 

 

【エンゲルベルト・フンパーティング】

 

とてもアメリカンなショーだと思った。冒頭の司会。司会者の日本人との発声の違いというのが、ときに歌手以上にはっきりするように思う。そして管弦、コーラスを含む大編成のバンド。出演者全員が一流の腕前の持ち主だという感じだ。フンバーティングの歌で最も印象を受けた点は、ビートに対してとても余裕のあるゆったりとしたノリ方をするということ。それは早いテンポの曲でも変わらない。「重心が低い」という感じがしてとても心地がよい。リズムに対してついハシってしまう私などは是非身につけたいと思うポイント。もう一つ気付いたのは、歌い出しがとても安定しているということ。歌いだしの上手い人でも不安定になりがちなものだと思うが、彼の安定感は抜群だと思う。「ホーク」と呼ばれていた音楽監督にしてバンドリーダーが、フンパーティングの様子を伺いながら歌いやすいようにバンドを指揮していたのも印象的。

 

以前は声の凄さに圧倒されただけだった。しかし今回は、少し冷静に聞けたと思う。その間に聞いてきた音楽で耳が鍛えられたのだと思う。余談だが、これを観終わった後、街頭でMNの曲を耳にした。歌詞、曲ともによい。大好きではないが、よいなと思っていた人だった。ところが、声が“ぬるい”ような気がして、一気に厭になってしまった。他人に対して厳しくなってもしかたないので、これを自分に生かしていこう。

歌い方は、トレーナーがレッスン中習っていたように(この人に限らず、洋楽全般の話だったが) “吐き捨てる”ような歌い方だ。語尾や、あるいはタンゴひとつでも日本人の歌手がやっているように「滑らかに、スムーズにしよう」という気はないようだ。ところがこれで音楽になっている。滑らかにすることは必要条件ではないということだ。では何か。なぜか。今日気づいたのは、リズムに関してだった。曲の基本のリズムに乗っかる(歌でもリズムを引っ張ってもいる)ことが、重要なのではないだろうか。どうしたらそうできるのかまでは思いつかないが、そう感じた。

 

ドラムがとても重く感じた。しかしピアニストが指揮しているのに外れていない。正確に聞いてみると、ドラムはほぼジャストのようだ。つまり歌が前にグイグイと引っ張っているのだ。(ただし、このドラムの人、バスドラが少々送れ気味のような気もしないではないが)。バラバラになってしまうはずなのに、そうならないのはこの人の歌の力か。(ただドラム・ベースのリズム隊が合わせるようにすれば、もっと曲がよくなる気も)。ところが、「表現」というリズムなんかよりもっと重要と思われる部分は未だ感じられなかった。まだまだ耳が未熟。脳の問題でもあり、なるほど、音楽が入っていないというのはこういうことかと思う。

 

 

 

【クラプトン・アンプラグド】

 

「クラプトンの歌(声)が変わったときのこと」1曲目のインスト。バックの強力さ。そしてライ・クーパーを発見。この人はいつ観てもいい。期待する。そのまま最後まで押し切った。途中でクラプトンがタンバリンを叩きまくるライ・クーパーをたしなめる一幕も。しかしその目は暖かく、非難ではなくむしろミュージシャン同士の敬意さえ感じられた。観客に対して一甘いいたい。あの曲で、リズムに合わせて手拍子するんではない。しかしそこはやはり曲の凄みからか途中で拍手が止んでいるのに気づく。そして止んだ手拍子の音量を埋めるどころかさらにそれ以上のノリを出すリズム隊。だから拍手なんかやめろって。バラバラの拍手より数倍もすごいんだから。からだかしてなさいって。

 

Layla」のアレンジにはびっくりした。噂では聞いていたが、イントロのタラララララーがほとんどなくなっていた。で、しかも全体的にアレンジを変更。転調のところにも変化までつけている。オリジナルもいいが、こっちもいい。しかし、ホントの実力者たちでなければ、今回のこのよさは出せないだろう。きっと曲全体がベタッとしてしまうはず。

クラプトンが歌いだしたとき、ものすごく線が細くて、ヨタヨタっとした感じだったと思う。別人でなければ、昔聞いたあの声はクラプトンだったはずだ。それがDerecのときに“Layla”で出している声、そして“Tears in Heaven”の枯れた味わい深い声を出せるになった。もともとこういう声が出せるのに、おっかなびっくりしていたため、あんなヨタヨタ声だったのか。それとも訓練の成果か。声質さえまるで違って聞こえる。このことにはとても興味がある。