一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 8350字  887

レッスン感想  887

 

 

 

個人的にはリズムを馬のようなものとして捉えている。馬の背に腰かけるようなイメージで曲に「乗って」いく。手綱をひいているは確かに自分だが、馬の機嫌を損ねては先に進まない。どんなに乗りこなしているつもりでも、最終的な行き先は馬が決め手12/ているのかもしれない。

 

フレーズのポイントを押さえて流れを踏んでいればズレても心地よい。一度流れを止めてしまうと修正がきかなくなる。ポイントを見据えてそこに好きな絵を描く。日本語で凄く難しいというかやりにくかったんだけど、英語のフレーズ感でそこに日本語を乗せているようにやっている人がいてかっこいいなと思った。

 

世良さんのこのことばがビンビン飛んでくるのは何事かと思った。そんなにパッと聞いた感じよりも全然歌ってないのに歌詞が突き刺さってくる感じがした。あと6/8のシャッフルに心地よくのっていた見事だと思った。世良さんがこの曲をこういう形で出しているのを初めて聞いたんだけど、彼ほどの人ならこんな有名な曲でなくてもマニアックな曲を山ほど歌うだろうにあえてやるってのはチャレンジしているのか。単に好きなだけなのだろうか。

 

 

以前にも“ポップスは歌によって声の対応ができるように”とのお話がありましたが、今日は改めて同じことをいわれ、“そういうことだったのか”と思いました。1曲のなかでもプロは何十通りもの歌い方のイメージがあるという話に大変感動しました。私はまだ一通りの歌い方も基本のなかでできませんが、何十通りもの歌い方ができるためのトレーニングだったら今日から必死でやろうと思いました。いろいろなイメージがどんどんわいてきて、どんどんトライできるようになってきたらどんなに楽しいだろうかと思います。“発声の段階からその人のセンスが出る”ということも今の私には驚天動地でした。

 

「フレージング:リリー・マルレーン

1.ガラス窓に灯がともり今日も街に夜がくる。いつもの酒場で陽気にさわいでいるリリーリリー・マルレーン2.男たちにかこまれて熱い胸をおどらせる気ままな娘よみんなのあこがれリリーリリ・マルレーン「ひとつにとる」「歌い出しの大切さ」をすごく感じとることができた。1ガラスまどに2おまえのあかい、この2フレーズの歌いわけ(感じわけ)がすごく面白いと思った。入る瞬間の呼吸も流れも違うものだ。たとえば(ガラスまどに)と(男たちに)だと同じ形でいける。戦争とリズム感覚の変化。こんな遊びもできるのか。このフレーズが入ることで聞き手のなかに戦場の風景を広げ世界を広げて一言で語りきれないほどの内容を含ませている。見事。

 

「自分の呼吸」「フレーズの動かし方」「イメージをふくらませる」「別れの朝」2バージョンの解答がされた。なるほど、こういうことだったのか。聞きくらべてみて、高橋真梨子のするどさ、イマジネーションの豊かさを感じとった。後から入って追い抜くするどさ。(なぐさめは~)ゴムを断ち切るようで、パッと拡がるイメージがある。

 

「フレージング:うでに赤い花を抱いて、吹きすさぶ木枯らしのなか、つかれはてて帰る私、もういないあんただもの、恋のなげきつぶやいてはただひとりむせび泣く、暗い日曜日~」本当に構成がわかりやすい。積み木みたいだ。(もういない)のところまで落とす感覚、その発見が新鮮。オリジナルのテンポで歌うには相当の体力・集中力がいると思った。均等にリズムに当てると何か、もたつく。おおいかぶさるように重ねるイメージを持った。「お、来るね、そね、来たね、はあーい」ではなく「うぁ、来た、うあー、やめ(て)ガブッ(この時間差)」という感じ。人喰サメが喰らいつく感じ。「赤い花」をイメージできるか、本当に「吹きすさ」んでいるか、力なく「帰って」いるか、その部屋にひとりきりか、その気持ちの色が伝わるか。本当にさびしい日曜日だな。明るく月曜日はもっとつらいだろうな。いや、バリバリ働いて忘れられるかな。なんとなくLを境に視界が広がった気がする。

 

そういえば私にとってここでのライブは、何らかのポイントになってきた。自分が本当に集中した瞬間の限界を見に行ける、貴重な場なんだ。たとえばそういう場を年間100日体験できたら、どうだろう。そりゃあもう···自分次第だな。

 

「レナウト・カラウラ」:声が低いのでなく、太いということがなるほどわかる気がする。「アウレリオ・フィエロ』何だかこの人の呼吸は心地いい。なんなんだろう。「笑いの歌」はしっかりとリズムにはまってて面白い。すごいな。でも毎日笑うのつらいだろうな。

 

「Gステファーノ」:「カタリ」すごい。よくわからないが、すごい。すごい奥行き。動きがみえる。大きなフレーズ、小さなフレーズどこでもしっかり聞かせる。ファルセットまで。息をスパンと切った瞬間の弾け方が違う。すかさず鋭い(ものすごい)踏み込み。殺されそうである。

 

ルイ・アームストロングレ:太い・深い・あったかい・楽しい。すごく自由だ。この人の歌にはあらためて大きなヒントを感じた。音楽だなって思う。大胆なグルーヴを支える、繊細なフレーズ処理。2・3章に感じられる歌だ。

 

「フレージング:「あなたにくちづけを」あなたの手にバラのくちづけもえある恋の火をしずめて」:あなたの手に、確かにここはポイントだが、そこばかりに気がいかぬように。(あ~に)大きくとらえる。(もえあがる)で本当にもえあがっているか。ふくらんでいるか、もえあが~る(→ふくらます。がーるだけ強調させない)、こ(ぉ)(→ここに感情が入る。音色を印象づけられる)〜いの(つ)(→ここでちょっと流れを切ると次の「ひ」が光ることばも自然に伝わる)ひをしずめ(→ひとつにとってサラリと流したい。)て~メロディーと相性がよかったのか、すぐに明確な「こうしたいイメージ」がわいた。

 

加藤登紀子」:(チェルノーブイリー)息がすごく素直に声になっていると感じた。真っ直ぐに飛んでくる。だからこの歌が毅然とした命を持つ。このサビの連呼をもたせる(保つ)のは詞の内容からしてもすごく難しそうだ。

 

サラ・ヴォーン:枯葉。すんごくたくさんのフレーズが入っているんだ。この人に。それを瞬時に選び、撃ち出せるするどさ。マネしようとすると、言葉(音)がどんどん口先へ逃げていく。こぼれおちる。遠くへ飛ばすためには、ぐっと引く力が必要だ。発した反動ですばやく反射準備に戻っている。リズムはメロディよりもダイレクトに人を動かす。一番原始的な本能を連動させる。リズムが基本だ。

 

「伊藤ゆかり」:Diocometiamo。曲の小節数を思うままに変えてしまっている。こういうのもアリなのか。それでいて不自然には感じない。なんて自由な歌なんだろう。そういえばミュージカルってそういうもんだったかな。言葉が呼吸に乗る、歌になる。こうして歌は作られたんだろう。

 

iBaliスカルマグン」:コード進行だとか、リズムだとか考えさせない。もっと本能的な感覚でつくり、歌われているんだろう。こうありたいなと思う域である。声だけで、音楽が満ちている。サッチモにも共通する何かを感じるのだが、これはなんだろう。今日のフレージングに関しては、特に書けることがない。花咲かせるフレーズ、

 

ARRIVEDERCIROMA(アルベデルチローマ)、においまでひろげるフレーズ、またくる日まで、咲かずに落ちるフレーズ。たとえ異郷の空とおく(フレーズしめぎわの処理)、なぜもっと自由になれないんだろ。こよい離れてゆこうと(フレーズしめぎわの処理)、話す以上に不自由になるなんて、夢はよごとかよう君がもと。

 

テキストのなかに“悩みをカテとせよ”との言葉があり、年中悩んでばかりいる私としてはなんとむごいことが書いてあるのかと思いましたが、“いったいどうすればという思いばかりしてやっていく”ものだというお話しを聞き、このテキストの言葉の意味が少しわかったような気がしました。悩んでるのは自分だけではないのか~というホッとした思いとか悩まなければ進歩もないのか~とかわからないままやっていくものなのか〜とか、いろいろ思うところがありました。

“そのとき、そのとき注意されたことはみな正しい”“あまり考えすぎて小さくならないように”今後レッスンを受けていく上で、絶対忘れないようにしようと思いました。ブレーズの練習で個人的に今の状態でずっと続けていけばいつか“あっ、これは”と思うときがくるから、逃さないようにいわれたので、それがどういうことなのかわかるまでとにかくやってみようと思います。

 

1.「1番何を気を付けて弾くか。」という意識を持つことの大事さ。「1番いたいことはここなの」という意識を持つことの大事さ。いつも、いつでも2.1つの和音を構成する音のどこを主旋律に対してとっていくかは、その小節のなかで使われている音とだぶらせない、もっと音の重なりを楽しんでいく、という発想で選ばれる選び抜かれた音がそこにある。音には理由がある。3.止まらないで弾くことは大事4.始まりのカウントの仕方にも限度がある。5.fの中の強弱、それは音符が示してくれている、音の長さが示してくれている。6.空気を入れてあげる、流れをつくってあげる、結局それが疲れず、聞いていて歌になる。7.考え方ここだけは絶対やる、というところを一つ、それが暗譜。ここは譲らない。

そして次が(赤とんぼ、故郷)弾くこと。こういう考え方。漠然と、でなくはっきり見てやっていく。目の前で示されて一緒に行くのはとても勉強になります。<疑問>暗譜したときに内側から出てくるものがある、というのはなぜだろ。<気付いたこと>かなり強調したいところ、バァーンと強調しないと聞いていて伝わらない。

 

音楽スクールを見学してきた。今の自分、これからの自分、研究所、日本といろんなことを客観的にみてみたかった。そこのスクールのトレーナーは皆プロとして活動しているそうだ。ひとりの先生がJAZZは全て地声で発声しなくてはだめだといって2オクターブ(自称太い声)出してくれた。そこでうまいといわれる女性ヴォーカリストの歌を聞いた。アカペラでJAZZの曲を歌っていた。うまいといわれる歌がこんなに退屈だとは。

ここに来る人は2つのタイプにわかれると思う。音楽的センスのある人、外で活動している人、まったくの初心者、

初心者(私もそうだが)は考えがあまい(全てとはいわないけれど)活動していく、音楽をとおして表現していくという気みたいなものがあまり感じられない。活動している人たちは結局活動できるということが主のような気がする。世界と日本の間にはあまりにも厚い壁があるから日本で満足するしかないのか。日本だけみていればヴォイストレーニングの必要性もなくなるのか。

 

床を例に挙げた声の出し方の説明はよくわかった。体ががんばって抵抗した上で出ていく。グーッと体に負担がかかっていって、あるところで息に声が乗る。でも頭ではわかっていて、わろうとしているんだけど、できていないんだと思う。

続けてやっていると、首や肩に異常に力が入って痛くなってくるから。背中の筋肉や横腹の筋肉の動きは息とつながっていると感じるし、負担もある。以前のように、筋肉の動きが息の量に対して大きすぎるようなこともない。でも、前にトレーナーにいわれたように、胸の息を“ウッ”と出すことで、そのいきみでお腹の筋肉が動いているだけなのかもしれない。普段の息はきでは、お腹から吐けていると思うのだが、より深くしようとすると、そうなってしまう。どういうことだろう。私のなかの“深く”という感覚、イメージが間違っているんだろう。一杯にお腹に息を吸ってそれを支えることで、意識を胸からはずそうとしてみた。でも胸から出てしまう。胸を動かさないでできたと思えば、今度は抵抗感の全然感じられないものになってしまう。もしかしたら、私が感じている抵抗感と先生のものは全然違うものなのかもしれない。自分は、先生に質問できるほどトレーニングをしていないと感じる。やることもやり切っていないのに人に助けを求めている感じがして情けない。先生に聞くことで、その課題に対するモチベーションを自分で落としているんだと思った。一種の安心感みたいなものを感じて、「なにがなんでも」というテンションを下げてしまっている。

 

 

特に日本人のヴォーカルを聞いていて当てはまる話なのだが、複数の間に共通する点を見つけたとしても、それが本質的な部分だとは限らない。モトネタが同じだったり、日本人特有のクセだったりするからだ。それをどう見分けるか。たくさん外国のものを聞くこと、そして自分の体にきくこと。そして一流のモノを聞く際に重要なのはテンションを学ぶことだ。

最近は「この人のフレージングはどうか」など考える必要はないように思う。ほっといてもすごいモノには線が見えるし、その線の見え方をより正確にすることも重要ではあるが、それよりも数倍大切なのは聞くことによってテンションの限界をあげていくことだ。日々高めていくべきだ。おそらく体づくのりを怠ってなければ、一流のモノを聞いてそれと同じテンションを得られれば持つことができれば)、自分のフレーズは生まれるはず。(練られてないかもしれないが)とにかく意識を高めまくって無意識的に出たものを意識して分析して、よいところをコピーしていく。自分で自分が出したものをコピーする。そのときの判断をあやまらないようにいろんなものを聞く。

 

声を出すことはそれ自体が気持ちいい。音楽的でなくても表現でなくてもただ単に大声だしたら体が感じる心地よさがある。それと同じことが最近ギターを弾いていて、起こってきた。別にいいプレイをしたわけでもないのにピッキングして弦にふれ、弦をはじた指が気持ちいいのだ。「あっ声を出したときと似ている。」と思った。声が楽器に近づくだけでなく、楽器弾くときも体で感じることができれば、相互によい影響が生まれると思う。「弾くように歌い、歌うように弾け」と自分でいっている。

 

このごろ、ブレスヴォイストレーニングが生まれた順序について考える。最初に基本講座などを読んだときは、声→言葉→フプレーズ→歌みたいな図式でブレスヴォイストレーニングをみていたのだが、最近痛感する図式は、歌(それを成り立たせるために必要なもの)→フレーズ(それを成り立たせるために必要なもの)→言葉(それを成り立たせるために必要なもの)→声である。

これはギターでいえば、「よいプレイ→技術(スケールなど)→ビッキング(=音色)」という図式に大まかにいって似ている。☆

 

コピーライターが書いていたことなのだが、つくることより選ぶことが難しいらしい。初心者は自分が作ったコピーを選べない。一番いいものをごみ箱に捨ててしまう。読んでて怖かった。

 

“ラララ”をフレーズにする。“ラララ”で人に何か伝えていく。人のために歌いたい。だから、人のため、人への“ラララ”でなければいけない。歌は言葉を使う点で他の楽器とは違うけれど、音とで伝えていくのは一緒。言葉に頼らない。“ラララ”でできないことは、言葉をつけでもできない。SUN3。どうやって流れを使っていけばいいか分からない。リズムが取れない。だからどこに入れていったらいいかわからない。無理矢理アフタービートで取ろうとしたけど、音が順番に下りてきているのと合わなかった。トレーナーにいわれて初めて、これが2拍3連なんだ、と思ったが、へんなリズムであることしかわからなかった。“サン”2文字の言葉に対して、一つでにぎる意識に欠けていた。だから、“ハイ”をにぎるということがいかにできていないかがバレてしまった。言葉をにぎりながら入れて流れを出していくことが両立できない。言葉を握ることを意識するとブツブツと流れが切れてしまう。本当の意味での“にぎる”ということがわかっていないのだと思う。きっと、にぎることで流れが生まれてくるようでなくてはいけないのだと思う。

 

なんでここでSAXの曲を出したのか。気付かせないことが何なのかはわかったが、何となく奥の手のような気がして、その前に、できれば“ラララ”のところで気付いて出していきたかった。楽器の音のフレーズに入るときには、どだけ入れるかがはっきり出る。言葉が突いていると、知らない間に無意識に言葉のひびきに頼ってしまっているのだな。それは、器のなかの水を指でピチャピチャとしているようなもので、息でフレーズの流れを使っていくというのは、うつわごと動かしていくことなんだなと思った。

 

「時代」中島みゆきさんの歌は、一つの音への入り方がすごいことはわかるが、できない。彼女はどうやってその表現を培ってきたのか。その音に対する感覚、説得力は伝えたいという思いから来るのか。やはりそれだけ音楽が入っているということなのか。私は彼女がどういう道のりを経て今の彼女の活動に至っているのか知らないが、プロの人(特に日本の人)というのは、やはり、あびるように音楽を聞くことから皆、その音楽的感覚を身につけたのか。それとも、表現したいという思いが強まって大きくなっていくことでも、そういう力を付けているのか。でも私には、そのどちらも全然足りていないことは間違いない。

 

近藤房之助のライブのCD

コレがなかなかカッコイイ。走るとき用に20分テープにロバータ・フラックシャンソンとともにそれらの後に録音して聞いてたら、なぜかよくないのである。この並びできくと薄っぺらだし、強く感じる。声の問題ではないように思う。声が強いわけではない。バックバンドの問題もあるだろ。ブルースやりズムアンドブルースは日本人はまだ地に足がついた形ではやれないのか。ハデではない音楽の厚さ、深みこのへんは研究したい。話はかわって、歌いだしのインパクト、それを何種類も欲しい。ワンパターンではインパクトはマンネリになる。どうしたらよいか。

アマリア・ロドリゲス、世界のアコーディオンアンソロジー世良正則ベスト、マドンナベスト、などなどもともと好きなのと勉強的に好きなの両方から。表現に使える声って、へそのあたりや足のウラにあると思う。このことは前にも書いたけど、最近発見したのは、頭の上何メートル先かにもある。それをとる、つかむために全身を使う。太陽をつかむ感じ。一瞬でクタクタになる。一声で地球をひっくり返したい。

 

 

【ステージ実習】

 

今日は最悪だった。始まる前に福島先生が「何かありますか」なんていつもいわないことをいったとき、ヤバイと思った。場の空気がそういわせたのだと思う。私は今日始まる前から恐れにとりつかれていて、こうなるんじゃないかと思った通りになり、逃げられなかった。いつもの高揚感がなく体の準備をする気にもなれなかった。Oさんですこし破れそうだったが、その後も重苦しく、Iさんでようやくホッと息がつけた。苦しかった。自分もその苦しさの原因を作っているひとりであるが、早く終わらないかなんて思ったのは初めてだった。技術的な課題はいたとおりだが、もと重要なことがある。自分の内なる衝動、中で動いているもの、それがまずあってそれが声となって出てきて、それが適切にコントロールされていること、それがなくてただコントロールしてみたところで、何もならない。

 

今回私のなかには息の流れの図式があって、それにそって声を出すことをやっていた。歌った後、私はこの歌に愛情がないなと思った。その通り指摘されてしまった。歌い手が、自分が愛情もてない歌をただうまく歌おうとしてみたところで何も観客に与えはしない。今日は本当に聞いてくれた人たちに対して申し訳ない気持ちだった。ステージで歌っているときは全て忘れてもいいが。両立が自然にできる時がくるのだろうか。とにか今は突き破りたい。それだけ。

それから先生は、プロは自分の勝負できるところだけを見せて、あとは見せないといっていたが、そういえば自分の勝負できぶるところなんて考えたことなかった。ただいつも全身で全力でやっているというあたりまえのことで、なんかわめきちらしているだけで押しつけがましくて、音楽性まったくない、聞き苦しいものなんじゃないかと思っていた「ここだけ」なんて取り出すことはできない。自分に最も合うものを選ぶということか。でも、それも自分の思い込みかもしれない。でも、自分の「歌いたいという衝動」のあるもの、それだけは確かなものだと思う。