レクチャー1
最初にヴォイストレーニングの考え方、方法、それからここの紹介をします。ヴオーカル志願の人はいい加減な人も多く、入ってもすぐやめてしまうようなので、東京は2年制にしています。
高校生から年配の人まで目的を聞いて、一般コースとプロコースと二段構えでいくつもりです。
ここにくればなんとかなるだろうと思っている人には、主体性をもつよう促します。
ここでできることとできないことをはっきり示しています。
できることに対して目的を持った人が使い切るというスタンスがあって、初めて活かされるものです。
そういう意味でいうと、あえて人を採ろう、増やそう、ということはしていません。
何年もいる人がいますが、基本的に2年単位で区切っています。
京都は全体で50人弱です。そのうち京都も2年制にしたいと思っています。
最初の1年でさえもたないでは困ります。ここのやっていることは素掘りのようなものだからです。
歌も教えていません。ここにくるとみるみる歌がうまくなる、そんな養成所は世界のどこを探してもありません。
東京では、世界に視野を拡げる試みをいろいろな音声を使ってしていますので、是非、いらしてください。
〇理屈から感性へ
ヴォイストレーニングで一番多い質問は、腹式呼吸や発声法のことです。
最近、私はあまりこういう用語にこだわって考えないように、と述べています。
本は、暗記するほど徹底して読んで一時、忘れてしまうことです。
やっているうちに思いあたることを大切にするのが、本を活かす最高の方法です。
気づいたことをノートしていくようにしてください。そのノートが、あなたに役立つ本です。☆
発声法、歌唱法、腹式呼吸がある、腹筋を鍛えないといけないなどと考えてしまうと、そこに入ってしまって出てこられなくなってしまうのです。要は、表現すること、歌うことなのです。
まず、人前で何か価値を出せる人は、当たり前のことではないのです。
その1つは、感覚の違いです。ヴォーカリストの場合、これは音の世界のなかの感覚です。
もう1つはそれを支えている体です。
その2つをプロのレベルに特化していくのが、真のヴォイストレーニングです。
一言でいうなら、ヴォイストレーニングとは、感覚を磨いていくことと
それに対応できる体、体現できる体にしていくことです。☆
身体をつくっていくことは楽器作りです。これは巷のヴォイストレーニングのなかでは、あまり行われていないのですが、ピアノなら、ピアノの演奏に耐えうる完成品を作っていくということです。あの弦の張力に耐えうるのは、並の木材では無理なのです。
それから音を調律しないと演奏になりません。つまり、歌えません。これはヴォイスコントロールという分野です。調整ですから、プロの人なら、調子が悪くなって調整すれば元に戻ります。
ところがそうでない人たちがいくらリラックスして声を出してみても、大した声が出てくるはずはないです。
感覚や体に条件が満たされず楽器にもなっていないわけですから、おもちゃのピアノで弾いているようなものです。いくら心があっても、音楽にはなりません。
その上に演奏があります。これもしっかりと勉強できている人は、声ではほとんどいません。
これはトランペットの音がでたら、どう吹くかということです。
音の世界のなかで声をどの音色でどう出して重ねていけば、その作品が相手に伝わり、より高く評価されるものになるかということです。
ここでは歌を教えていないといっています。デビュー前の人やアイドル予備軍などもいろいろときます。
目前の舞台が目標という人は、調整することしかできないです。
タレントが素人よりもましに形を整えて出そうとすることには、それで充分、いや、根本的には変えられません。
テレビドラマに出ることがメインで、歌は、その付加にすぎないからです。そういうのをやりたいのならそういうプロダクションに所属し、プロデュースしてもらうことです。
ここの実績は、入ったら、わかってくるはずです。
声ひとつ、歌のひとフレーズでの違い、そこがメインですから、わかりやすいでしょう。
有名人のいることではないのです。
タレントを売名行為に使いたければ、プロダクションに私がOKすれば、誰でもくるわけです。
元より、今の日本の芸能界を目標に、ここを設けたのではありません。
それを掲げることによって、それにつられてくる人が多くなることは避けたいのです。
専門学校で、経営上安定しても、人材が育たない例はたくさんあります。
有名人を講師にして、広告に金をかけるのは、学校でなくビジネスです。
自分の耳で、全部、判断して、勘でやっていく。
もともとアーティストの世界というのはそういう世界ですから、そういうことができるようになることが目的です。
そうした考え方で臨むように勧めています。
ここのことをお話しするのは、誤解のないように、間違っていらっらないようにするためです。
東京は、このスタジオで、ライブができるようにしています。
カリキュラムは365日、自分で組みます。たくさんレッスンに出たい人は専門学校や大学みたいに使えます。
受ける気になれば1日にたくさん受けられます。
北海道や沖縄、九州から通っている人もいますが、そういう人は1日に目一杯出ています。
近くに住んだり、働いている人は毎日1、2時間でしょうか。
ここの考え方としては、できることをより確実にやれるようにしていきます。
いや、できていると思っていることがまったくできていないことに気づかせていきます。☆
できないことに対しては、こちらから適切と思われる材料を与えていくようにしています。
ここという「場」にレッスンを置いてあります。
歌は教えない、といっても、それに必要な基準を示していきます。
私もトレーナーも、研究生も、全部、材料という考え方をしています。本も教材も材料です。何でも材料は、たくさんあった方がいい。
それを自分で使ってメニューを組んでいかなければいけません。
そのメニューを組める力をレッスンで身につけていこうということです。
ヴォーカルの本のメニューだけを使ってもまったくたらないわけです。
全部覚えた上で全部捨てて、自分のメニューをつくらなければいけません。
ヴォイストレーニングができるということは基準、材料、がある場で自分でつくれるようになるということす。
私は集まってやることは好きではないのですが、今のところ、共通のことをグループを中心にレッスンして、足りないところを個人でフォローする形にしています。
スタンスとしては、そこで何かができるというより、やっていく上で自分だけでは絶対にできないことを勉強していくのに使っているのです。
たとえば自分の将来的な声がどうなるかということは、わからないわけです。私にもわからないことがたくさんあります。一緒に学んでいく場なのです。
2年くらいで、大体見当はついてくるわけです。
この世界で毎年、何百人もみていますから、何かしら直感が働いてくるからです。
だからそのことを与えるというよりも、そういう見方をしている人がいるということです。
そこをヒントに各人が自分の声を判断し、ベストの声をめざしてやっていくのです。
「トレーニングは効果がありますか」と聞かれますが、効果のないトレーニングとはなんなのでしょうか。
トレーニングというのは、効果を出すために行います。
何かの目的を持たなければいけません。目的に対してやるものですから、妫果があるとか、ないということではないのです。
どんなトレーニングであれ、目的に近づくためにやるからトレーニングであって、必ず効果がでるものです。
もしそれが他の学校や指導者のところに行って、効果がなかったとしたら、その指導者や本人が間違っているというより、目的のとり方やその関係が違っているのです。
ヴォイストレーニングに関しては、基準がなく、そもそもまったくトレーニングになっていなかったという場合が多いようです。歌のレッスンも似たようなものです。どこかでうまくなったつもりできた人のほとんどは、私からみたらなんら基本的なことが身についていません。だから、いらっしゃるのであり、身についているなら、それでよいはずでしょう。
よく、「自分の声の出し方が合っているか、間違っているか」と聞かれます。はっきりいうと、迷うくらいなら全部間違っています。正しければ絶対に迷わず確信できるものです。
それはだれかが決めつけるものではありません。私に「これがいいよ」といわれて「これがいいのですか、僕は絶対違うと思うけれど」という矛盾は、起きません。
熟練したトレーナーであれば、「この人のこの声がいいこととしよう」とか、「悪いこととしよう」という、ようなことは相談して決めなくとも黙っていてもレッスンをやっていたら勝手に正されていくものです。
どういうヴォーカルが好きとか嫌いとか、好き嫌いはあってよい。
それからどこから、どういう動機で入ってきてもいいです。へたなヴォーカルを聞いても、すごいと思ったら、ずっと信仰していてもよい。ファンであれば自由です。いろいろなファンがいて、ステージに立てている人は、それでよいと思っています。
しかし、トレーニングでもっと上達しようとするなら、すぐれているものとそうでないものを判断できないといけません。ヴォイストレーニングもトレーニングは何のためにやるのかというと、声だけのためでなく、ステージをやったり歌をやったりするために行うわけです。
ステージができている人ならば、別に声があろうがなかろうがよいわけです。これは私個人の考えです。
アーティストは皆がんばっているし、その時間、何かを誰かに与えているという実績で認めています。与え続けないかぎり、活動が成り立たないからです。お金を出したのにひどかったとなるとファンはいなくなっていきます。長くやれているのは、立派なわけです。
ただ、この代表としての立場をとるなら、話を聞きに来る人、あるいはここに来ている人は、もっと学ぼうとしています。学ぼうとするのならば学びやすいように見本をとり、学べるようなカリキュラムでやらなければいけません。ステージで憧れてきたヴォーカリストが、それにふさわしいかというのは、まったく別だということです。むしろ、それでできていたら、それでよいのに、そういう人もいるのに、そうでないなら、考え方を変えることでしょう。☆
プロでやれている人は、いろいろな要因でやれています。そこに学びたいなら、どこがプロかというのを見なければいけません。たとえば、ビジュアル系のバンドを気に入ったからといって、彼等の声をまねて、ヴォイストレーニングをやって、同じ声が出たり、彼らより歌えるようになっても、それでは世には出られないでしょう。
ビジュアル系なのだからビジュアルの勉強をしなければいけないわけです。
その辺を間違えてしまうことが多いのです。作詞作曲の力が素晴しい。そういうことで出るのなら声の勉強をするまえに作詞作曲の力をつけなければいけません。さらに難しいのは、楽器と違い、声はすでにあなた独自のもので限定されているということです。ビジュアル系もメイクアップで限度があるように、それに適している人とそうでない人もいるということです。楽器プレーヤーと比べ物にならないほど自由度もあり、また限定、制限もされているということ。つまり、自分自身を知らなくてはならないということです。☆
アーティストの評価というのは、とても難しいのですが、プロは、どこかがプロであればいいわけです。
学ぶ方からいうと、そこでもっともすぐれているところを学ばなければいけないということです。
ステージとして成り立っていればよいのですから、他人がとやかくいうこともないし、彼らがいわれる筋合いもないわけです。お互い勝手です。そこは間違えないでください。私は日本のプロヴォーカルになんら文句はありません。聞くのも、優れているからとも限りません。
そうではなくここで学ぼうというは、どう考えていけばよいのかということです。学べるものから学ぶ、そのために私も好きな歌手とか歌でなく、学ぶプロセスがみえやすい、あるいは、気づきやすい材料を選んでいます。このあたりは、ヴォーカルやヴォイストレーナーに欠けていることが多いのです。自分の好きな歌やたくさん歌ってきた歌で教えたいし習いたがるからです。☆☆
ここで述べるのは「学び方」の学び方です。
私はCD付の本と「ヴォイストレーニングの学び方」を出したら、後は自分で本を出していこうと思っています。
ここの会報は毎月、本1冊くらいの分量があるのです。
本当のノウハウなので、一般の人は読んでもわかりません。
一般に市販するものは中高生が読んで間違えてはいけない、わかりやすくなくてはいけない、疑問が出てきてはいけないというので、限定されてしまうのです。昔の曲で説明しても、その曲を知らないからと省かれて、最近のヒット曲に置き換えられてしまいます。市場原理が働いてしまうのです。
トレーニングをするときに一番大切なのは、まず自分がどこにいるのかを知らなければいけません。たとえばピアノを始めようとするなら、全然できない、片手だけとか、ちょっとくらい弾けるなど、レベルがわかるので、指導者は、次に何をやればよいかが明確にわかるのです。しかも自分の習得プロセスをそのまま使えます。
ところが声の基準というのはとてもわかりにくいものです。声が出る人、全然出ない人、うまく歌える人歌えない人というのは、スタートで大きな差があります。
さらに声の場合、歌のように上手下手でなく、個人差を含んでいるから、判定不能に近いです。
一人で、今、どこにいるかを知るのは至難の業です。
単純にいうのなら「今からこの歌を歌いましょう」、といえば、誰でも歌えるわけです。音程やリズムがちょっとくらい悪くても、一時間もあれば、最後まで歌えるようになります。だから何をもって基準かというのがとても難しいのです。
まず、このあいまいさに対しては、学ぶのなら目標を一番高くとることです。すると迷わなくなります。どう考えても自分が出しているのと一流のプロが出しているのが、一、二フレーズだけ、聞き比べても違うのです。
そこにいろいろと学ぶ要素があることがはっきりとわかるのです。
最初に間違ってしまうのは、あるヴォーカルに憧れるがあまり、そのヴォーカルに近づこうとするやり方です。これは、大体が駄目です。
日本の場合、先生と同じように歌えるようになる、そういう人がひとクラスに一人いたとします。
で、そうなったとしてもポップスの場合はどこにも出ていけないのです。
声は個性、歌もオリジナリティが第一だからです。
憧れのアーティストにはなれないし、なってもやっていけないのです。サザンオールスターズの桑田さんやB‘s稲葉さんのそっくりさんを何十人と、見てきました。
一人くらい本物を超す人もいるのではと見ていたのですが、まったくモノになっていない。器用に歌えているだけです。この世界、オリジナルが1人いたら、後は全部いらないのです。
大学あたりでうまく歌えているといって、紹介されて来ていた人も「あのパターンをまねたようなものだな」と思うことが多いのです。結局オリジナリティがないから人に理解されやすいだけです。わかりやすい人ほどやっていけないのです。
特にロックなどで考えたときにはこれは当たり前のことです。そうでないところから出てくるものでなければ通用しない。
これが外国の曲などになると、もっと極端になって、外国のプロの歌唱に似ていくことが上達することだと思っている。それも違います。同じになれても意味がないし、ましてなれないわけです。
そのまえになる必要もない。(そうなってしまうのは、日本人は、聞く人も海外のプロに似ているのがうまいと思っているからです)
ポップスの場合は、どういう声で歌うかなどという難しいことはいいません。パッと一瞬聞いて「すごい」と思うような部分、それだけで第一歩。そうつくられているような歌を歌えるような人たちから学びつつ、一曲仕上げていきます。
下手でも、他のプロの人たちが絶対にできないことでやるほうが可能性があるのです。ここでも私やトレーナーが絶対にまねできないようなことをやれることが、その人のオリジナリティです。
そもそも、ヴォイストレーナーや作曲家が同じように歌って、その方がうまいというのなら、意味はないですね。
そこは基本のベースにヴォーカルとしての個性とかキャラクターとか才能と結びついたところです。
だからビジュアル系はビジュアル系で、よいわけです。それを音声で判断する方がおかしいわけです。テレビやステージで見ればよいのです。
ここでできることとできないことがあります。たとえばここは2年間で基本を身につけていくところです。それを半年で完成させるとしたら、やり方が違ってしまうわけです。表向きだけまとめてしまうこととなります。それでよい人もいますので、対応もしています。
これは何事でも同じです。皆が水泳をやるのに一週間で泳げるようにしてくださいといわれるのが、2年経ったらなんとか基本がきちんとできるように、というのでは、同じ指導者でもやり方が違ってきます。
ここの目的は音声で表現する舞台ということにしています。
今のところ、ヴォーカルは6割くらい、一般の人が1、2割。他は職業柄、声を使う人、俳優、声優などです。
こういう人たちがくるのは、なぜでしょう。
他のところで教えられていることは、生きた言葉、声というよりも業界の用語や発音、アクセントなどです。
実際に現場に行ったら、どこもやり方が違うのです。
私も声優の仕事をやりましたが、人に合わせることは大変だと思いました。私は自分の呼吸本位で声を使ってきていますから、プロフェッショナルとしての分野が違います。声優、あれはあれでプロだなと見直しましたが、彼らの仕事が私にくるのは、なぜでしょう。なんとか対応できるのは、それだけの声に対する柔軟力があるからです。音の感覚があることと、それに反応できる体があれば対応できます。
現場で大切なことは他のベテランと張り合って、「お前もっと声を出せ」といわれたら出せる、「もっと抑えろ」といわれたら抑えられる、そのイメージに音声で対応できる力が必要なわけです。そのようことは学校では教えてくれません。
ここではプロもアマチュアも区別していません。いらしたプロが、ここでもうまいとは限りません。歌ということになると器用だし何となくみせられてしまう。でも、それができてしまうがために、本当の基本がいつまでも身につかなかったり、一流のヴォーカリストと並ぶと吹っ飛んでしまったりするくらいの声にしかならなかったりするわけです。そこは基準のとり方です。
音声の世界というのは、私がこうやってしゃべっているのを聞いていてもこれは半分はビジュアルの世界です。これを真っ暗に、要は目をつぶったに働きかけてくる力です。
役者はしぐさでも表現するから、何をやるのかよくわかるのですが、そういうのをここは認めていません。
たとえば何か歌を歌って、手が前に出たとします。こうなったとき、この動きはみませんが、この動きから出てくる声の変化を認めるということです。だから全身を使って歌わなければいけないのは、確かなのです。ただし、振り付けが声の流れを邪魔することが多く、それは、ここではタブーです。
顔の表情によって音色も変わります。音声に反映されていなければ、それは関係ないとするわけです。
そういうふうな基準をとらず、たとえばヴォーカルというものをステージということで考えたら、かっこよいとかわいい、スタイルがよい、ダンスがうまい、ファッションが魅力的など、、
ルックスよいのと悪いのとではよい方がよいに決まっています。
現実は、歌が少々、よくても、パフォーマンスが評価されます。顔がだめならだめ、それにかっこよい奴は絶対かっこよいし、ステージはそれでもってしまうのです。はっきりいうと、有名な人を見たいということです。
歌は本当は音声の世界のものなのに、お客さんはそんなものは期待しなくなってきた。詞やメロディで気にいるなら、作詞作曲力でしょう。
それを受け入れてしまうと、ヴォイストレーニングというなら、目的が曖昧になってしまいます。
だからこそ音声だけで基準をとります。
その人がどんな顔をしていても、そこから出てくる音色がかわいいとかクールか、若く聞こえたのなら若いと思うし、つまり音声イメージのなかで判断しているということです。
これはとても大切なことです。
ここを曖昧にするから、トレーニングというのが成り立たなくなるのです。
スクールでは全部を取り入れてしまいますね。ステージ本位だからです。歌えない人のなかでは評価される上手な歌い手が目的でしょう。それは、ここのように歌える人のなかでは、もっとも埋もれてしまう、印象にも残れないタイプです。
どれもやらせていて、どれもしっかりと身につかないのです。
プロデューサーが全部プロデュースしている、デビューしても、プロデューサー一の力が偉大なのでづ。
するとプロデューサーと出会うことが目的になります。そういう勉強ではいけないわけです。タレントスクールと似てきます。どうすれば出会えるかということを考え、研究しなければいけないわけです。
いろいろな出方があってよいと思うのですが、ここは、そういう道を取らない人、あるいは取れない人がいるくらいに思うとよいでしょう。「音声」で判断というのは、そういうことです。
「表現」するというのは、こうやって私が話しているのも、すべて音声で表現しているのです。会場も暗めにしています。本当は暗闇にするとよいのですが、まあ、一般用のレクチャーですから。
声で相手に働きかけるということです。それが好かれようが嫌われようが働きかければよいわけです。100人の人に好かれよう、100人に受け入れられるようとしてはいません。そうするには、1人1人におべっか使って「いいところありますよ」とかいっていたらよいでしょう。たまに外部の慰問などでそうします。元気づけが目的だからです。
ここでは、それはしません。いくら嫌われようが、こいつのところでやりたいという人に入ってもらうためです。
甘いことばで集めても、ここがだめになってしまいます。ここは、私でなく、みなさんが主人公である場だからです。
基準は、人に働きかければいいのです。皆がこの話を聞いて、「よかった」と思おうが「よくこんなに話すな」と思おうが構わないのです。何も思わないのが一番困るわけです。だから、あなたはどうするかです。
表現とは、何か新しいことを起こすわけです。
起こした以上、誰かはいいと思うけれど誰かはいや、と思うのはあたりまえです。
それを怖がらないことです。日本の場合、大体皆に受け入れられようとやさしくするので、表現力、つまり、パワー薄めてしまいます。
すると、表現が、いかにも非日常的なものになります。
表現力を高めるのに、日常のテンションを高めて生きることです。☆
こういうことがとても大切なのは、音声を使ったり声を使うことに、直結しているからです。
なぜ外国人はしゃべったように歌えるのか、日本人の場合はしゃべっても声が飛ばないから、歌うとなると大変に仰々しいものになります。そういう差は、日常の言語生活のなかにあるのです。
今20歳だとしたら、この20年間、日本では、悪いヴォイストレーニング、悪い環境に置かれてきたのです。
政治家や教師も声がよくない。声を使う人でさえ、あんなひどい声です。
向こうはエアロビクスのインストラクターでさえも惚れ惚れする声をしています。
すると声がよいというのは何もヴォイストレーニングにあるのではなく、それ以前のところにあるわけです。
もう1つは「舞台」ということです。こういう舞台に関しては、音は時間のなかで問うていきますから、たとえば1秒や0.1秒のなかにどれだけのものが見えるかという世界です。それに反応して何を創れるかということをやっていきます。
だから集中力も体力もいります。
3分間の歌というのは海外ではボクシングと同じようなものです。日本人は当然のことながらそんな感覚はありません。多くの場合、だらーっと歌ってお客さんもだらーっと聞いています。クリエイティブやパワーがないです。
ヴォイストレーニングもあたりまえのことですが、絶対に確実なものを取り出すためにトレーニングするのです。
あとで私が例を示しますが、一回でも間違えたら終わりです。ヴォーカルと同じです。
なぜなら、私は、この前、ある往年の歌手の本当に1フレーズだけを聞きたくて見に行ってきたわけです。そこで「外した」となってはたまらないでしょう。そんな人は、一流になってはいませんが。
ヴォーカルというのは、それだけの責任を持たなければいけません。
たとえば彫刻や絵であれば、悪いものは全部捨ててしまって一番よいものだけを人前に持ってくればよいでしょう。もちろん、一流にもいろんなタイプはいそうですが、、。
ところがヴォーカルの場合というのは、自分の一番調子の悪い時間帯であろうが、体調が悪かろうが、何であろうが仕事が入っていたら、そこに行ってそこで最高のものを見せなければいけない。生の舞台です。
それができるためにヴォイストレーニングで基本をきちんとやっておくということです。
トレーニングだけが独立してあるようには考えないことです。
多くの人は、声が出るようになれば自分はもっと歌えるようになるとか、高いところがとれるようになれば歌がうまくなるとか、そのレベルで考えているわけですね。
それは調律としてのことで、演奏とは、関係がないです。
楽譜をもらって、初見でピアノが弾けたからといって、プロの音にはならないでしょう。
プロのピアニストの初見の演奏に、私がその曲を10時間練習してもかなわないでしょう。それがプロの演奏ということです。ヴォーカルもそういうような練習していないと、ということです。
最初にスタンスとして取らなければいけないことはたくさんあります。自分がどこにいるのかがわかるということとそれが見える眼、評価観があることです。すると次にどこに行けばいいのかがわかってきます。そこにギャップがあるから、トレーニングが成り立ちます。
あとで私がいろいろなことをやってみますが、ほとんどの人が絶対にできないはずです。できたら、即、ここのトレーナーです。
最初は、その理由どころか、自分ができていないことさえわからないでしょう。そのギャップが見えたらそれをメニューで埋めていく。そのメニューもカリキュラムとか誰かの書いたものではなくて、こちらは材料を与えるからそのなかで、自分の一番いいものを組み立ててそこに辿りつく、この繰り返しです。
どうでもよければ誰でもすぐに歌えるわけです。この評価観や基準が上がって行かなければ上達しません。そこでそれを持ち磨かなければいけません。だから伸びる人というのは基準に、とても厳しい人です。
自分に対してとても厳しく、曖昧なことでは満足しない。最初は、そのちょっとした違いが大きな違いだと知ってこそ勉強できるのです。
その基準を得ていくのに歌曲となるととてもわかりにくいので、
ブレスヴォイストレーニングでは「ハイ」「ライ」「ララ」からスタートしているのです。
たとえば「ハイ、ハイ、ハイ」と百回やり、一回でも狂ったら駄目です。
こんなことやっても歌えるわけはないのですが、あるレベル以上で歌っている人は百パーセントできます。
そこで狂うのであれば2オクターブにわたって3分間の曲なんて出せないのです。
今の日本のヴォーカルであれば、大半は最初から狂います。最初から出せないのです。
初心者であれば、前に出ただけで普通の状態ではなくなってしまいます。
今、グループ制でやっているのも、なるだけ人の交じりあったところで自分の表現を出し、そこで何かを出せなければ、通じなければ、ステージに出ても大したことは起こせないと考えているからです。
そういう意味で、1年半くらいまではマイクを使っていません。マイクとピアニストを入れて、2年目くらいからリハ入りでライブを入れています。これでも早いと思うくらい、ゆっくりと進めています。
だからカラオケ教室とはまったく教え方が違います。
ヴォーカルにもいろいろな目的で来ている人がいるのですが、私はプロとアマチュアの練習の仕方に区別はないと思っています、たとえ、リトルリーグでも、やり方はプロのものを参考に取り入れているでしょう。
アマチュアというのは、プロの練習の仕方で、どこまでできるかというところでプロのレベルまではできない人です。それは心構えとか覚悟の問題から、身体的条件と思っています。
基本的にやり方が違うわけではありません。
ほとんどの人がサッカーを観て感動し「ああ面白い、私もやりたい」といっているのと同じです。そうしたら仲間同士でやるのが一番楽しくてよいわけです。
プロとやれば、まったく楽しめないでしょう。ボールにさわれません。
プロの一人ひとりの選手がどれだけのことをやってきているかというと全然違うわけです。まず、走っても違うのにシュートの練習をしてもしかたないわけです。
考え方や体の条件には、厳しくいっています。「高校生は、とりあえず武道やスポーツでもやった方がわかるよ」と。スポーツはどれだけ体で覚えることが大変で、覚えたと思っても覚えていなくて、実際できないのだということを結果でフィードバックできます。
20歳を過ぎている人というのは、なかなかゼロからできません。「ドミソドソミド」とか先生にいわれた通りにやっていたら何か身につくという段階から出られないのです。カラオケとかでも同じです。
形からは入るのは10歳くらいだったらよいのでしょう。
ところが20歳過ぎて、ゼロからやるのはら今までの経験を全部活かしていくしかありません。唯一、救いなのは、声帯は20歳過ぎてからしか完成しない楽器です。10代のときにどんなにトレーニングしていても、そのままでは活かせません。だから、情操教育、情感として演奏の部分を入れておくのです。
親が歌い手であったとか、幼い頃から、いろいろは音楽を聞いていたとかいうことは、豊かな経験でよいでしょう。そこはなかなか取り戻せないものです。センスがないと思うなら、ここをやらなくてはいけません。
とにかく毎日音楽を何時間も聞いて、いろいろなものを自分で判断して感想文でも書いていくように勉強しないと体があったとしても何もできません。
日本人の場合、音楽と音声があまり入っていないのです。
体のない人の場合は、体の方が大切です。音大生などは、まさにそうです。
昔、私が声楽の教科書を見て「なんでこんなに体のことをやらなければいけないのか、なぜ、こんなに集中力がいわれるのか」と思いました。
水泳やバスケットなどスポーツをやっていたら、瞬間的に体で反応しなければいけないことはわかります。
それはそういうもので助けられているわけです。
だから人を教える身になってわかってきたのは、自分がヴォイストレーニングだと思ってやっていなかったところが大きく影響しているのだということです。
だから、それが皆さんにあるのであれば、今日の話もそうですね。
何か自分で「あ、あのことか」とイメージを膨らませて思いつくことで得てもらえばいいと思います。
それで話も本も同じことを繰り返しているわけです。
歌では、難しいので、スポーツなどがよいでしょう。武道、絵画など芸術でたとえて説明します。
問題なのは、そこのなかで何を気づくかということです。
「あ、このことか」と気づいたところしか、ノウハウにならないということです。
ほとんどの人が「ノウハウをください」とくるのですが、買い物ではないです。
自分で手間暇かけて創っていかなければならない。それを楽しまなければならない。そういうものです。
「ハイ」というのも、それを聞いて取り出せるということは、技術としての1つの基準です。声楽の指導は必ずしもそのままポピュラーへもちこめるものではありませんが、声楽の基本も共通するものだからです。
私は日本では声楽の一部にしかそれを見つけられなかったからです。
ポップスのスクールでは、声そのものでは、低レベルかつ、うさんくさく、それで声楽に頼ったわけです。
最初は必要ないと思っていましたけれど、コールユーブンゲンやコンコーネ50など、発声のためにも、いろいろな方法があります。いろいろな材料があった方がよいという意味で使いました。
スクールでは、やり方でなく、人の問題です。同じ教材でも使い方のレベルの違いです。
90パーセントのスクールは、教材をこなすだけ、歌を歌えるようにするだけです。そんな人は習わない人のなかでも、歌ならいくらでもいます。
ここに来て、声を出してもらえばわかります。1フレーズだけ歌ってもらうと、実力がわかります。
ここに在籍している人の方がましです。
当然のことながら実力はついていないのですね。
ここの生徒には、プロとして歌ってきているような人もいるわけです。
そういうことでいうと、日本の声楽というのも、98パーセントは、まだまだです。
三大テノールを聞けばよいと思うのですです。ああいうふうに声を出せないのは嘘だと思えばいいのです。もちろん、一曲は無理でしょう。でも、ひとフレーズも接点がつかないなら、追いつきようもないでしょう。そこまで2年はかかるということです。
聞いていて、なんだかかったるいとか退屈するような発声は、おかしいわけです。本物と偽物というのは、外にあるわけではないのです。
よく「先生の声は本物ですか」と聞かれます。そんなことは人のことだからどうでもよいわけです。あなたが聞いて、思うままが、答えです。
なによりも自分のなかで、自分にとっての本物、どう本物が出てくるかが大切なのです。
舞台とか絵などで評価するのなら、「立体的に見えて生命力がそこに入っている」ということです。
岡本太郎の言葉でいうと、美しい、きれい、上手なものは、芸術でないということです。爆発していないとね。
それに反するようなものを勉強して、それが何か「自分が上達するためのものになっている」と勘違いしないことですね。
私はそういう悪い見本も見せられます。
そういうものを見せるとき、私は気を抜いて集中力を欠いた顔をします。
するとどこかに部分的に力が入り、そういう声になるのです。
それを何かを叫ぶ声のように思って勉強している人が多いのです。それっぽいでしょう。だから偽物、つくり声なのです。わかりやすいでしょう。
自分でヴォイストレーニングの本を書いていて、ヴォイストレーニングを批判するようで申し訳ないのですが、正解はありません。正しくするのでなく、表現するのです。
自分のものを創らないと無価値です。
そのヒントとして、ここがあるわけです。
ここに来れば皆が上達するということではありません。
声楽と似ているのは、1回、日本人の感党を切るということです。
私たちは、日常レベルで、同じ年代の外国人ほどに声が出ません。
この国では、それだけしゃべっていないし、音量も意思もさして必要とされていない。
それだけでなく、日本語そのものの問題や風土の影響がとても大きいのです。
これを変えるだけで、ある程度の、ベテラン役者並みの声になることがベースです。
ここで、作詞作曲、コンピュータやアレンジ、ビジュアル系といったものを、表面的にさらうような勉強をしないのは、声を中心に絞り込んでいるからです。
そういうものはもっと才能のある10、20年やっている人には追いつけないからです。
でも体はやった分だけ近づけます。そこから作詞作曲アレンジの勉強になっているはずです。☆
日本人は音声表現に対しほとんど体を使ってきていません。
感覚も音声を表現するところから勉強をしてきていません。
だからこそ、そこはトレーニングでやった分だけ、身につきます。
外国人や役者、彼等に近づくというのは、トレーニングで可能なのです。
そこはやっていないからできなかったことだからです。
彼等が当り前にできていることくらいは、私たちは努力したら得られるということです。
そここそが、トレーニングなので、声は伸びるのです。ただ、歌の問題は、その先にあります。
ここには、どんな人が入ってくるのかわからない、クラスで一番声が小さい人もいる。その小さな声ではどうしても不利だから、そういう人たちが体から声を使えるようにしていきます。
それで初めて、ここの価値があるわけです。
うまい人が入って器用になるだけだったら意味がないです。そういう部分はかなりの程度、ここでは確立していると思います。
日本人の感覚を一回捨て、外国人の感覚で考えていきます。
洋モノがよいということではなくて、今、ロックやJPOPをやりたいとなったら、全て向こうの感覚に基づいてつくられています。向こうから入って来ているものの上に乗っていますから、洋モノを歌わなくても、向こうの感覚のヴォーカリストの力を捉えるのが、基本なのです。
16ビートのダンスミュージックは、正にそういう類のものです。
日本の場合は、ソフトとの力のなさをハードの技術力でカバーしています。
照明を当て、数百台のスピーカーを並べて、光と音のマジックショーと化すのです。
向こうの人たちだと、こういうところでポッときて歌えることを、あれだけお金をかけてなければ保てないのです。
ここでそうやらないのは、器用にやれる人やところが別にたくさんあるのと、とてもそんなことにお金をかけられないからです。そういうものをめざす人は、そういう事務所にオーディションを受けていくことです。
アイドルやタレントをめざす人には、音声を本当に学ぶ気がなければ向いていません。
でも、音声に興味ある人は勉強してみればよいと思います。
声優やミュージカルの役者も来ています。
それは音声を自分で研究しようという人です。
邦楽のプロの人も一緒に勉強しています。
ここのなかにはいろいろな声があります。
それを聞きながらはじめて人の音声や自分のことがわかってくるということです。
本当のところ、ほとんどの日本人は音声をしっかりと聞いたことがないのです。
皆が音楽を聞いているようなつもりで、本当の意味で音を読み込んでそれをどういうふうに重ねてあるかなどという聞き込みをやっていません。
欧米人は生まれたときから、大体、両親の声がよいですから、心地よく聞いています。
それでスペルと発音が合わないので、何回も発音を発声して覚えていくのです。
耳から何回も音を入れて自分で出して、それで直されていくのです。
日本人の場合は読み書きで目から覚えていきます。
日本語はひらがなですから、一度覚えたら後は象形文字の漢字で勝手に見書きできます。
中学生になって初めて英語の発音ということで音声に入ります。
「ア」でも発音がいろいろ違うということがわかっても先生にしっかりと教わっていないでしょう。
そういうトレーニングは、全然していない。向こうの方は、最初からそういうことをやっています。
フランスでは国立劇場の役者が声の標準で、先生方も詩の朗読などを通して声をどう使うかということまで勉強した上で生徒に読ませます。
日本の場合、読み方が間違っていなければよい。向こうはそこに表現力がなければ「ダメ」。
アメリカでは、教会でゴスペルを聞いて、育ちます。そこから違うわけです。
少なくとも彼らは耳で聞いています。体で反応して、声を出します。
なんであれ多民族の社会では、音声で表現しないとわかりあえません。
日本の場合は音声で表現することは嫌われます。
たとえば私はレクチャーで、こういう立場だから話せるわけです。
喫茶店などでこんなふうにしゃべっていたら、白い眼で見られるでしょう。
説教しているように思われるでしょう。
今しゃべっているしゃべり方はパブリックなスピーキングですから、日本では友達同士でこういうしゃべり方はしません。こんなふうにしゃべっていたら「レクチャーしているの」「何を怒っているの」ということになるでしょう。日本での強い音声は、怒るとき以外に出てきません。
しかし外国で友達としゃべるときは、ほぼ、こういう形です。
声を使ってしっかり話さないといけません。
向こうは少しでも聞こえないことに関しては、とにかく何回も聞き直してきます。
日本人みたいに、よく聞こえていなくても、うなずいて流してくれることはありません。
言いたいことが伝わるまで、一方的に論じ切らなくてはならないのです。
お客さんも目的を持たないでは、動くことのない人たちです。
自分の満足のためにステージを見にくるのですから、要求レベルも高いのです。
そういうことでいうと、音声の力というのはとても大きいのです。音声の使い方1つで敵になったり味方になったりします。自分で常に考えて表現していかないかぎり、存在さえ認められないのです。
無視されるどころか、敵意を持たれるのです。
フリーズがわからず、前に出ただけで、射殺されます。
それだけ音声のコミュニケーションというのが中心にあるのです。
日本の場合は逆ですね。もし日本の女性が外国のロックヴォーカリストのような声でテレビに出ていたら、「あの人威張っている」「あの人は何を怒っているのだ」と、そんなふうにいわれてしまいます。それは文化の違いです。
女性の場合は特に大きな差があります。日本ではまわりから表現しないように圧迫されているわけです。それがしゃべり方のなかに出てくるわけです。
今、私がしゃべっているこのスピードの切り出しでは、日本人は音声に入れません。対応できないのです。
音楽はもっと鋭いですね。「タッ」このくらいで入らなければいけません。
彼らは日常のなかで既にこのくらいで入っています。ここでパッと、体でいい切ります。
これは英語でもその他の言語でも同じでしょう。
しかし、日本語の場合は、そんな切り方はしません。そんな切り方をしていたら、まわりは驚きます。
ことばで荒たげない音声が文化になっています。
これは、何かを起こすために音声を使う国とはまったく違います。
演歌でも「ンわーたしは」と尻上がりで、「WA」と急には入らないですね。ところがロックなんかになってきたら「わ」というときには「A」となって子音の「W」の方は前に出ているのです。
これだけ感覚が違う。
どちらがいいのかというより、要はヴォーカル、あるいは音声を綴っていくということは、欧米の文化なのです。
その時間のなかで体が自分の感覚に反応していかなければいけないわけです。
そこで日本人は、尚さらそういうものに対して鋭くなることをヴォイストレーニングのなかで覚えていかなければいけないのです。
一方で、複雑にヴォイストレーニングというものを考えてはいけません。
たとえば、向こうからよい音楽が聞こえてきた、その聞こえてきたものが何であるかを自分の心のなかできちんと捉えられることからスタートです。
「よいところだな」と思うところ、「ここはちょっとよくない」と思うことを分析してみましょう。
自分だったらこう直したいと思うことが出てきて、「絶対にこうじゃないと許せない」というのが出てきたら、そのように歌えばよいわけです。
そのイメージと感覚が合ったときに、体が対応できていないと、そういう声がうまく出てこないわけです。そこでヴォイストレーニングをやるのです。すると、目的がはっきりとするわけです。
ところが日本のヴォイストレーニングでは、「ドミソドソミド」、ピアノでいうと単に音を高く、小指で上の方で叩くというだけのためのことです。ピアノを少し弾くレベルになるために、ヴォーカリストは何年も努力して何にもなっていないわけです。目的レベルの設定が違うのです。
私のようにピアノを演奏に使っていないなら別です。その条件が必然でないからです。
自己流で指の使い方がわからない。その音を次にどう結びつけたらいいのかわからない。
「ドレ」という2音だけでの練習を1、2時間もできるという感覚での評価基準がない。
つまり、求める音のイメージ、自分の音がない。
致命的なのは、一流のピアニストが弾いてきた曲をピアニストほど感動して聞いてきた経験がない。
ピアノとかバイオリンの場合はその人の姿が見えなくても全部、音の世界で判断されますから、ヴォーカルよりも音に関しては厳しいです。音楽性が絶対的です。その点、ヴォーカリストほど、ごまかせる、いや、カモフラージュできる職もないでしょう。
ヴォーカルはキャラクターやルックス、パフォーマンスでももちます。
ここの場合はそこを抜かして、日本ではあまり行われていませんが、音声のなかで差がつけるのがヴォーカルである、という定義でしきっているわけです。
最近ヴォーカルに限らず、声優や役者が多くなったのは、ヴォーカルが必ずしもそういうものを必要としなくなってきたからでしょう。もちろん、本当なのです。日本だけ、その条件が著しく落ちでしまいました。
他の国は、昔ほど歌い上げたりだけで聞かせたりすることはなくなっていますが、やっている人たちは音声で自由に自分の世界を表現できる条件を持っています。アイドルといわれる人でも、私の述べた基本的な条件を持たないでやっている人はいないです。一般の人でも日本のプロよりも持っている人が多いのです。行商のおばさんや浮浪者みたいな人も、案外とすごい声をしているのです。
そこまでのことはトレーニングでやれるのだから、やっておいた方がよいということです。
なぜヴォーカルは役者と違って声を出すことを間違えてしまうのかというと、表現力から考えないからです。
ともかく高い声を出すことやくせ声での雰囲気にひたって口ずさむことが歌で、そのためにやるのがヴォイストレーニングだと思っているからです。
高い声は歌いたいときに歌のところで必要性があれば、やればよいのです。少なくとも他人の曲を聞いてみたり楽譜にその音があるからといって出そうとするのは、そこですぐに出せない人には大きな間違いです。
自分が表現したい、その表現したいもののイメージがその高さで伝わるということで、初めてその音が使われるのです。
それをただ他の人が出しているのを出せないからとまねしようとしているから、おかしくなるのです。
他人の歌をずっとまねてっていくのであれば別ですが、ほとんどの人が今のカラオケのように高めで歌って、リヴァーブを掛けた音響装置で加工した効果と同じことをアカペラで出そうとしています。それは無理です。
現に彼らを連れてきてアカペラで歌わせでも、大してうまくは歌えないのです。
いろいろな音響操作をしているから、ああいうふうに歌えるのです。
そういうものを使える人たちには、そういうやり方があるということです。
これはヴォイストレーニングの必要もないので、何にもならない結果でおわるだけです。
そういう人は、生まれつき声が高かったり、器用なだけです。
トレーニングで鍛えられたり、磨かれたのではありません。
現に2、3回ライブが、つづくと、のどを痛めています。
ヴォーカリストもプロになってもトレーニングをするのですが、その前に日常の生活のなかでトレーニングができていることが必要です。それが一番大きく違うことです。
そこで楽器を創るということをやっていきます。
私が今、しゃべっているのは全p、腰を中心に使って下半身の支えでしゃべっているわけです。声が体から湧き出てきているものを口で加工しているだけです。
だから基本的に体から息、息から声、が結びついています。
この声をだんだん小さくしていっても一番遠く方まで聞こえているはずです。
遠くまで聞こえるのは共鳴がよいからです。
それは、体でとっているからです。
大きな声を出すより、よほど力が必要なのです。
表向きで直してはいけないというのは、基本が身につくのを妨げるからです。
たとえば、音程が外れている、低くなっている、それをある歌でここの音だと覚えたとしても、今後も同じことはいくらでも起こるわけです。
それは口先で整えてわざと低く出しているからで、感覚と体で直っていないのです。
たとえば、音やリズムがとれないというのは、それだけ、それらがその人のなかに入っていないわけです。
その直し方というのは、その感覚を入れるしかないのです。
要は入れていないものは出てこないのです。
人に無理に直されて合わせても、魂までは入りません。
表現の宿らない声で歌うなら、伝わることはないでしょう。
音感や音程が悪いというよりも、それだけ音のなかの対話をやってきていないわけです。
演奏するということに関して、いうのであれば、それをやっていくのがトレーニングとして必要なことです。
たとえば「ドミソミド」は簡単でも「ドbミ♯ファソ#ファbミド」になると、ちょっとでも難しいと思ったらそれだけ音の世界に慣れていないのです。
歌える歌えない、上手下手ということより、それだけやった人よりやっていないのです。
才能の有無の問題ではないのです。慣れの問題、そこは時間と量で、限界まで早くいきつくことでしょう。☆
ここにいるうまい人をみて「どうしてあの人はあんなに歌えるのだろう。
それに比べると私は歌えないのだろう」と思う人も多くいますが、大体は、その人の百分の一の量もやっていないのです。
その人に聞いたら「この200曲がよい」という、
あなたも200曲上げてみて、といっても10曲くらいしか上がらないわけです。
そうしたらかなうわけない。
質の前に、最低の量さえ、やっていないという問題がある。
リズムも同じです。「ドッドッドッドド」はとれる。
けれども、「ドドドッドドードドド」これはとれないし、難しいと思ったら、それだけそういうものが入っていないわけです。
プロの人には最初にいっているのは、プ口としてやれているのならそれでやればよい。でも何か足りないと思ってここに来るのなら、それこそ白紙で、今までのやり方を全部改めないと、大して何にもならないということです。
ここではサンバもボサノヴァもファドもやる、「ロックを歌っている」というけど、ロックとは何なのか。
聞いてみます。仮に、リズムがファドやサンバに変わったくらいで対応できなくなるくらいの甘い感覚では、ロックにも鈍すぎるのです。
サンバやボサノヴァを演奏するために勉強をするのではなくて、学び方としてそのくらいのリズムに簡単に対応できる感覚とか体にならないかぎり、本当の意味でロックのリズムはとれない、ということです。
そういうことからやっていくのは、基本の勉強の一つの方法です。それを段階に応じて学びやすいもので材料も与えていきます。だから、オールデイズ、カンツォーネ、シャンソンで、クラウディオ・ビルラ、エディット・ピアフなど、その国の女王、キングの作品も使います。
最近はシャンソンも加えてきました。イタリア語を理解できるようになってくると、発音を覚えて頭で理解するわけです。本当に聞くべきことは、音の世界で何をいっているのかよくわからないのです。
伝わるところを聞いて、それに反応できる体を創っていくことです。
語学を勉強をするのも大切ですが、まずはその音の世界を読み込めるように自分の感度を磨いて、それに対応できる体にすることです。体で読み込んでいかなければいけません。そこに語りのシャンソンの声は、きっかけにしやすいのです。ことばが音楽、つまり、歌として一致しやすいからです。☆☆
一流のヴォーカリストと同じことができないというのは、彼らのなかで声がどう共鳴していてどこで音を捉えていて、どのイメージで次に展開しているのかが読み取れないからです。
声が出ないのでなく声をコントロールしたり、展開する感覚がとれないのです。
天才といわれる人になると、一般の人にはまったく読み取れない。
その国のなかでもほとんどの人が読み取れないのでしょう。
読みとっても実現できない。だから天才といわれるほどすごいものが出せるわけです。
そこまでのレベルのことは、ここのヴォイストレーニングでは求めていません。
それは演奏のなかでの才能です。
ヴォイストレーニングでは、発声でプロとひけのとらない声が出ること、
基本の音だけを並べていったらほとんど同じくらいの声のヴォリュームとかコントロール力があることです。
そこを勘違いしてはいけないということです。
体を読み込むというのは、たとえばプロのバッターが空振りしたとします。
そうしたらプロで往年、一流でならした解説者がそれを見ると「肘が少し落ちていましたね」などいいます。
そんなのは目で見たら見えるわけがありません。
でも、そこに自分がバッターボックスに立ったイメージを入れて感覚を置き換えてみれば、ピッチャーがああ投げてバットがこう待って、あちらに打球が飛んだということはこうなっていたとなるわけです。
私たちの仕事もそれに似ています。
何もいわなくとも、その人の体を読み込んで、自分の体で聞いていきます。
だから2、3年経つと声も体調も全部わかってきます。
2、3カ月でヴォイストレーニングが成り立つわけはないのです。
先入観をもたず、わからないところからスタートします。
こうして出会っても、それは音のなかの出会いではありません。
ですから、これから、あなたの声で、音の世界の作品で、出会わせてほしいということです。