○ベストの声、ベターな声
ベターな声というのは、たとえば、今、ここに立って声を出してください、といっても大してよい声は出ないでしょう。座っていて体も息も動いていないからです。
30分くらい体をほぐしたり、その辺を走ってリラックスして、面白い映画でも観て、テンションを高めて、それでパッと立ってもらった方が、出る声もよいでしょう。
この1年間のなかでそういう状態があったとしたら、そこに着目すべきです。
声が楽に出ているなと、思ったときがあれば、そのときの声が、ベターな声です。
たとえば、空手の先生が来て「この瓦を割ってごらん」といわれ、割れない。姿勢をちょっと直されて「割れた」というような感じです。
これは今の体のなかで百回やってみて一回くらいできたというレベルでの一番よいものです。
だから確実に取り出せないし、忠実に再現できません。
だから、使えないし、プロレベルにはならないでしょう。いつ出てくるのかわからないわけですから。
ではベストの声というのは何でしょうか。空手を習ったら、皆、姿勢、型やコツばかりを勉強するのでなく、腕立てをしたり柔軟をしたりして、そのまわりの条件を普通の人と違うところまで鍛えていきます。
バスケットボールでも素人でもシュートは入れられるでしょう。でも、10本続けて入らないでしょう。
いや、彼らとはぶつかりで負けてしまう。ボールに触れないでしょう。
ぶつかるのにも耐えれるような筋肉をつけ、そういうことも含めて体をつくるということが必要です。
スポーツによって、使う筋肉の使い方も違うので、それぞれに特別なメニューや練習法があります。
水泳をやっている人は、そういうトレーニングで肩が大きく回るようになります。それが肩がここまでしか上がらない人が同じことをできるわけないのです。そこで、すでに一般の人と違うわけです。そのうち体型まで上半身、三角形になります。
歌も同じで、ベターなものを今のなかでは一番よいものとして使いながら、トレーニングでより完全な楽器としての体をつくっていきます。
初心者は1年で何回かよいものが出ても、そのあと出なくなったりします。
それはどれがよくて悪いのかが、はっきりとわからないからです。
わかっても、それを確実に出せるようにできないからです。
基準を知っていくことが先決です。そのために、他の人をみるのが、とても参考になります。
トレーニングでくせをつけることも多いのです。歌っていけば歌っていくほど、声を出せば出すほど、のどが疲れていくのはよくありません。
そういうことは避けて、身になるトレーニングにしていくのが、レッスンの役割です。
声量も声域も、多くの人が目指しているのは、当てているだけ、届かせているだけのものです。カラオケの点数なら、それでOKだからでしょう。聞いている人も音が外れていないなら、歌えていると思うのです。
これは「誰でも2オクターブ、出ます。高いところを伸ばしましょう。」というような基準で甘すぎます。
使える声ということは、声だけでも、伝わらなくてはいけません。
向こうの一流の人と比べて、2オクターブどころか一音もないのにその先ができるわけがありません。
では「ハイ」を1つ、体からきちんといえることからやりましょう。
「一音もないのに1オクターブ以上歌えるというのはおかしい」というところからやります。
基準を明確にして、はじめて深さが出ます。声の深さとともに、基準の深さです。☆
それをやっていくうちに、体力、感覚が変わるからトレーニングなのです。
それにより、確実に100パーセント思ったままの声が再現できるから、基本であり、技術なのです。
先の空手などが一番わかりやすい例ですが、たとえば、ただの女の人と私が取っ組み合いしたら、たぶん私の方が勝つと思います。ところが空手をやってきた女性と、板を割るということをやったら、私が割れなくても、その人は割れるでしょう。
それは自分の体である一瞬、ある一点に対して最大の力を働かせるというコツを覚えたからです。
ヴォイストレーニングも正にそういうものです。
ベストの声とは声の原理に基づいたものであることが大切なのです。
人間の体というのは、大きな力を働かせるときには必ずコツがあるのです。ところが素人はまったく逆のことをやってしまいます。部分的に力を入れます。
たとえば初めて、スケートですべろうと思ったら、脚に力を使います。だから脚が疲れます。
ボーリングであれば手を使う。手が痛くなる。
野球で速く投げたら腕が痛くなります。
これらは、全部間違っているというより、その条件が整っていないのです。
部分的なところを使っているからです。
しっかりとやれている人というのは、どれも必ず腰を中心に全身を使うということを覚えます。
歌だけが違うということはありません。踊りも同じです。
人を見たら腰が全然定まっていないからすぐわかってしまいます。
だからヴォイストレーニングも腰を中心にやっていきます。
それで取り出せたものがベストの声であり、そこでとれる声量や声域がベストのものです。
声量や声域は、自分の体の原理に使って、それでできるところまででよいのです。
他の人と比べるものではありません。
完全にコントロールできることが条件だからです。
声量が他の人よりもなかったとしても、大きく聞かせることはコントロールの力でできるわけです。
それが肝心なことです。声域も同じです。コントロールできなかったら、いくら、その音にあたってても意味がないわけです。単に高い声というのは、誰でもそれなりに出るわけです。かなり出ますが、音楽表現に使えないなら無用です。
基本に忠実にとっていたら、声量や声城もあるところまで伸びるのです。
ただ、日本人の声域の判断というのは、あまりにもいい加減です。
ともかくその音に当てたらよいことにしています。
本当には歌えていないところ、表現できていないところなのです。
しっかりと深くとると、声域が狭くなったと考える人もいます。
トレーニングしたら狭くなるのではありません。元々、使えるところではなかった、出せるだけのピッチですから、歌唱に使えないのです。
ヴォイストレーニングというのは、あくまでも可能性を拡げていくものです。
ヴォーカルとして、このように歌いたいという感じになったときに、その声がバッと取り出せるようでなくてはなりません。ステージをやって、のどが疲れたというときでも、ヴォイストレーニングをやることによって、戻せなければいけないわけです。
だから、試合であるステージとトレーニングを一緒にしてはいけません。
ステージは客に伝えることが目的です。ここで自分の感覚とか声が出ているとか声量が出ないとか、そんなことは意識しないのです。そこでピッチやリズムを正しくとろうとか、そこで腹式呼吸を使おうとか、姿勢を正して歌おうなど考えたら、駄目です。
そんなスポーツ選手はいませんね。全てに動けるようにリラックスして臨むだけです。
一方、トレーニングは実際にやってみたらうまくいかなかった、もっとうまくなりたいというときに立ち返ってやるところです。
たとえば、打てなかったのは、腕の力が弱いからだというなら腕立てをやって腕の力を強くすることにします。腕立てをやっているときは、腕が痛くなります。これは強化トレーニングとして部分的に鍛えるのです。
やれないことをやるのですから疲れます。とても不自然な状態です。腕がまわりにくいなら、柔軟でしょう。これは、強化よりは調整ですが、完全に区別されるものではありません。
それを一緒にするという考え方は、腕立てふせをやって、すぐに打ちにいくのと同じです。そんなことをしたら今まで打てていたものまで打てなくなってしまいます。
だから基本のトレーニングは別にあるのです。
わからなくなったら、こじょようにスポーツを考えてください。
水泳でも泳ぎが自己流にうまいというのとトレーナーが見てうまいのとは全然違います。
トレーナーにフォームを直されたら、素人は泳ぎにくくなります。
一人で泳いでいた方が体も使えているし、実際タイムを見ても速いはずです。
それをなぜ直されるかと習うと、より伸びるためです。より速く、より遠く、より楽に、などの目的です。
体の原理を正しく使っていかないと、それ以上伸びないことがわかっているからです。
だから一流の選手でも「一流だから一人でやればよい」「一流だから練習をしないで試合ばかりをやっていたらもっとよくなる」と思ったり、絶対にそんなことはしません。必ずコーチをつけて正していくのです。
基本というものは、同じことは繰り返せるということです。
「ハイ」もそうです。それが正しく戻せないとしたら、それはのどを消耗させているだけです。
これが、おかしなトレーニングということがあるはずがありません。
日常生活でも、返事に使うし、歌のなかにも出てくることがあるでしょう。☆
ヴォイストレーニングは、声を出すことと考えていること自体が浅いのです。声を出すのは歌うときにやることです。人前で伝えるときに使えばよいのです。
ヴォイストレーニングの一目的というのは、声を出せる状態にしていくことです。
どんなときでもベストの声をパッともってこられるように常にしておくことを体で覚えるために行うのです。
声を出していることで、一途に練習しているつもりの人は、私からみると声を消耗させているだけのことが多いです。何もわからないまま、慣れない声で、その場まかせの声で、一喜一憂でやっていたら、どんどんと声は悪くなっていきます。たまにそれで天然でうまくいく人もいるのですが。
人に伝えようと芝居でもしていた方が、本能的に間違いを回避できます。
トレーニングで声を壊している人も多いのです。
ただでさえ声を使わない日本人が、トレーニングという名だけで、何もわからず高い声を大きく出していたらこわれるのがあたりまえです。徹夜でカラオケを歌っているのと変わりません。
とはいえ、壊すのも一つの体験です。ただおすすめはしません。
外側の筋肉と違って喉の筋肉というのは、壊して強くなっていくものではないのです。
その辺がスポーツと違います。スポーツは体まかせにやっているうちに、力が抜け「いいフォームができる」ということもあります。喉の場合は、音声として、共鳴するもので、笛みたいなものですから、無理すると、楽器が壊れてしまいます。内部に対する厳しい感覚が問われます。
こんなところが序論です。後は、実際のヴォイストレーニングと調整について述べます。
毎日やっておくことは、心や体の状態を声を出すのに、ふさわしい状態にしておくことです。
昔は入った人に「走れ」といっていたのですが、最近、走る人も多くなってきました。
そこで「2週間後に400m泳ぐ試合があったら、今日からどんなメニューを組み立てるか」を考えるようにといっています。
こうすると、少なくとも具体的に目標を意識にはおけますね。途中で溺れるのはかっこ悪いですしね。
当日起きて、そのまま試合に出る人はいないですね。早く起きて体を動かして、そういう状態をつくっていきます。
ヴォイストレーニングも似たところがあります。
朝のうちに人としゃべったり電話かけたりしても声が疲れます。ヴォイストレーニングを夕方にするとしても、そこで何か出しているうちに、ちょっと調子よくなったところで終わります。すると、一日のなかで実際に練習しているのは30分です。
朝に自分の一番調子のよい状態を自分の体を動かしたり息を吐くことでつくっておけば、それだけ午前中ののど疲れとかマイナスになることが少なくなります。マイナスを消すというのもトレーニングです。
まず第一に声への意識を持っていなければいけません。演奏ということであったら音の世界で聞いていくことです。スティービー・ワンダーやレイ・チャールズを持ち出すこともなく、眼をつぶるだけでも、音の世界が変わります。音楽とは、音の世界で勝負していく人で、ヴォーカルも、そうなのです。
ベーシストでもギタリストでも正しく弾けるからプ口だという人はいないですね。どう自分のサウンドは人と違うかということを耳で聞いて知って、それを創り出せます。そのくらいの判断力と創造力を持っていなければいけません。
日本のヴォーカルというのは、バンドのチューニングが狂っていてもわからない人も珍しくありません。勉強やトレーニングではなく、自分の快、不快でわかってくるはずです。音の世界でのことです。
たとえば音程が「ミレド」、メロディがついているから「ミレド」ではなくて、ここで「タララ」といい替えて「タララ」と、こんな音程だったらおかしいと思うでしょう。自分もおかしいと思うし、聞いている人もなんか不快だと思う。そういうことで正されていかなければいけないものなのです。
ピアノの平均律は、ヴォーカルの音感とは違います。伝えることに対して、声を使うのであったら音の共鳴での感覚を磨いていかなければいけません。
日本のヴォーカリストで誰がよい発声かというのは、厳しいのですが、声をコントロールする側からいうと美空ひばりさんでしょう。江利チエミ、雪村いずみ、中尾ミエくらいまでさかのぼると、レベルは高いです。弘田三枝子も俊逸です。今のポップスの歌手と一緒に歌っているときもありますが、独自の音色があるでしょう。その人の音色がないとヴォーカルとはいわないのです。
オリジナルの声というのはその人独自の声です。たとえば外国人のヴォーカリストも、話す声も歌の出だしも変わらず、その人の声だということがわかります。
日本人の場合は、最近、皆、似てきていますよね。話す声は素人同然です。ファンの人にとっては、違うということになるのかもしれませんが、大きく括ると似ています。
声の音色、フレーズのオリジナリティ(というより、本当はくせなのですが)はあります。
ヴォ―カルの節回しというのは、ポップスの場合、独自のものです。そこでやれている人がプロとよばれているのです。その人のステージの色に対して、その声が合っていれば、声のよしはしはあまり関係ないのです。
日本ではメロディと言葉で歌を持っていくのですが、外国人は、リズムに音色がついていれば歌でシンプルなものです。彼等の場合、単純に捉え、簡単に歌えて、それで高いレベルの作品になっています。
日本人が同じ歌を歌ったら、大きく盛り上げないと歌として成り立ちにくようです。声のない分、歌唱は複雑に難しくもなるのでしょう。
ジャズやシャンソンなどは、向こうは吐き出すように語っていたら歌になってしまう。それが体でコントロールしている人と口先でやっている人との差です。どちらがよいかというのではなく、文化の問題です。
日本にもよい歌い手はたくさんいたと思いますが、見本にはとりにくいのです。
しかし、日本人としては、「同じ日本人でもここまでできる」とか、「音感はよい」とか、「日本人のジャズの感覚」とか、聞き比べるのは、よい勉強になります。昭和30年代まではラジオとレコード中心で、今ほどビジュアル先行の時代ではないからです。
もうビジュアルの世界ですから、ビジュアルでやれる人はやっていけばよいと思います。
ステージパフォーマンスもセンスよく、ルックスなども考えるべきだと思います。
ただここでは、それはそれぞれの人がステージでやるというくらいで、音声のことを中心にやっています。
ここからの問題がヴォイス・コントロールです。
楽器、演奏、調律ということでいうと、たとえば言葉、体を使うということは、シンプルにしなければいけないわけです。私が声を出して言葉にしているのも、実際に言葉を一音ずついっているのでありません。
声が出てきているものを自分のイメージで音声に換えているわけです。
その日によって話も違うわけです。
たとえば「ことば」というときに、滑舌とか早口言葉のトレーニングというのは、口を早く回します。アナウンサーやファーストフードの店員さんでも同じです。言葉を伝えるのですが、表現でありません。ただの伝達です。
あらゆる人に正しく内容を伝えるための伝え方です。だから働きかけはしない。
特にあまり個性的に働きかけてしまうとよくないですね。なにより、誰かに嫌われたら困りまず。
向こうでは、キャスター個人の説得力が、ニュースの信頼性を左右します。男女とも、しっかりした太い声を使っています。日本のアナウンサーの一番低い人の声がCNNの一番高い人の声よりもさらに高いそうです。
サッチャーさんも「首相になったら声を低くした」とありました。
信用あることや大なことを相手に伝えるのに甲高い声で早くしゃべる人はいないわけです。
日本の場合そういう音声表現での働きかけの感覚が磨かれていないのです。
かつて、声が低くてアナウンサーを降ろされた女性もいたそうです。
視聴者から「あのアナウンサーは威張っているようでイメージが悪い」ということで、日本はそういう文化の国です。
今からやっていくことは、実際どういうトレーニングをやっていけばよいのかということです。
たとえば「ハイ」と声を出すときには、体がつきやすいのです。「ハ」というのは日本人でも大きな声が出せます。声を深く太くとるのは難しいのです。
日本語の「あ」や「え」は浅くとっています。まして「い」「う」は日本人のロックをみればわかるように口内でつくり、余計に出せなくなってしまうのです。
そういう発音でも高い音域を歌えている人たちは、ともかく、そうでない人たちがまねしていくと、どんどんのどを荒らしていってしまうということです。同じことがたまにできても彼等のようには安定してできないから、まねていく分、損だということです。それがわかったら基本から戻ってやることです。
昭和30年代くらいに戻り、日本の歌い手を聞くと、基本がわかりやすいです。尾崎紀世彦、カルメン・マキさんらは「イ」や「ウ」の音が響きます。演歌歌手もですね。
「イ」の方が高い音もとりやすくなるのです。
声楽家でも同じです。声道が広くなるからです。詰めた発声では「イ」や「ウ」は、うまくとれないのです。
基本がしっかりとしている人は声がきちんと前に出ます。
声の発生点で捉えているところが違うわけです。
たとえば私が今捉えているところ(声たて)は、音楽的日本語といっているところです。つまり、ふつうの「日本語ではない」といっているのです。
こういう「イ」「ウ」というのは日本語にはありません。
フランス語や英語では、母音だけでも20個以上あり、そのなかで深いのを歌に使っています。
日本語は浅い5つの母音しかないですね。体を全然使わなくてもいえてしまう、それで使えないのです。
つまり、私たちは体から声を出すことにまったく慣れていないのです。
そこでそれをトレーニングで深めていきます。
一昔前の役者はそれをやっていました。時代劇などでは深い声は欠かせません。
役者や向こうの人たちが発しているような感覚になってきたら、声はしぜんによくなります。
その人たちの感覚を勉強した方が早いということです。
入っていないものは出てこないのと同じように、聞こえていないものはいうことができません。
たとえば外国人が“yes children"といったのをまねて「イエス」「チルドレン」といったら伝わらなくなります。
強弱のアクセントがついていないし、ひらがなのようにぶつぶつに切れてしまっているからです。
日本語の音声というのは、同じように点の羅列になります。俳句でも5.7.5と数えられます。
向こうの人だったら「古池や」とあったら、686、さらに888と8ビートの強拍のないものとして捉えます。
聞こえていないところを間も含めて息の音で聴きます。強弱とリズム感が中心にあります。
そしてことばのメリハリを1つの拍のなかで捉えます。
日本語というのはそういうものがなく、どこで切ってもよいし、逆にどこかを伸ばしたら伸びます。
「ふー」と2拍分伸ばしたら「ふーるーいーけーやー」とすべて均等に伸びてしまうのです。
それだけリズムや切れに対してルーズなのです。
向こうの人は先に息を流し、その一つの働き(一フレーズ)に言語が乗っているのです。
言語習得の過程で腹式呼吸で体を使うことをやっています。
スクールなどで式をやってお腹が少しくらい動く程度のことを習ったとしてもそう変わるものではないのです。
トレーニングは同じです。プロの人なら10分間吐いていても疲れないのに、普通の人であれば息があがり疲れます。そうしたら、そこで出てくる声も声で同じことができるというのは、おかしいと思えばいいのです。
楽器として備えている条件が違うわけです。
だからそこはやっていくしかないのです。毎日何をやればいいのかといえば、メニューに書いてあることです。
メニューがその人に適切かどうか、最終的に身につくような方法でやらなければなりません。
呼吸法や腹式呼吸という言葉をいろいろな人が、使っていますが、それを教えている先生もさしてできていない。
なので、私は勘違いされないように、最近は「深い息」といっています。
「深い息」とは、その息が少しでも狂うと歌も成り立たないという息です。体からの完全にコントロールできるものです。声楽の場合だったら強くなると、ひびきも高音もとれなくなるのです。高いところで弱く出したり低いところで強くできません。
ビブラートの問題も、日本人のビブラートは、音が聞き手に盛り上がって伝わらないから、最後は出すというようなものが多いのですが、そんな必要はないのです。
聞く方にそれだけの力がないから、その説明を歌い手がしてあげなければいけない。そういう中で成り立っているので、音声の表現を問うことはとても難しいのです。
言葉の統一に入ります。
「ことば」というときに「ことば」というのではありません。
「ハイ」と同じで、「ハイ」のなかに「ことば」とか「あおい」を入れていくのです。
三音でなく、ひとフレーズです。そういうふうに使ってください。
「青い空」と体を使って息を吐いていたら、それが言葉として、音声表現になっているようにしていくのです。「あ・お・い・そ・ら」では、音楽の世界についていけないのです。
ことばと歌とは、違うことと思っているかもしれませんが、向こうのヴォーカルというのはまったく同じレベルでステージでやっているのです。
つまり「話し、語るように歌い」「歌うように語る」わけです。
「Oh」といったら声が出て音楽になっているのです。
日本人なら、そこで喉にひっかかっています。それは体の使い方と感覚が違うからです。言葉一つでもそういう問題がたくさんあります。全て自分の体で呼吸のコントロールをすることです。
向こうだと「Pick」「it」「at」が「ビキッ」で聞こえ、いえるのです。
日本人だと全部カタカナで分解しないと聞けないわけです。そういう感覚を彼らは持っていて、私たちは持っていません。彼らの言葉は子音が中心に組み立てられているのです。「atatat」といっていたら日本人には「ta」と聞こえます。日本語は母音で終わるからです。
母音というのは、アタックしない言葉、ノン・アタック音です。響かせていく言葉です。
だから共鳴として美しい部分もあるのですが、逆にいうと体を使わなくて済む。
彼らは子音で、そこで「t」や「s」でバッを切らなければいけない。必ず体でキープして窓を強く吐いて言語にしていきます。ラップなど正にいっているだけでリズムに乗せていきます。
だから「歌も歌わないように」といわれます。
たとえば「あの」といったら「あの」、でよいわけです。「ハイ」、「ハイ」、これで音楽なのです。
それが言葉のフレーズからメロディを処理していくところであとでまた述べます。
最初に言葉、次に音の高さです。
「ハイハイハイ」で1オクターブ半で上の「ド」まで、同じ音色、太さです。私の声は日本人には低く聞こえます。でも太いのです。音色が違うのです。
多くの人は音域をドミソドソミドと、こんなふうにいかにも高くあがるように出しています。
それぞれ異なる発声でやっているのです。
コーラスをやっていた人もそうだと思います。「ドレミファソ」で「ソラ」になってくると歌えなくなってくるから、口内の上を開けて「ソラ」とつくり響かせていきます。
初期条件がないところにいろいろな応用条件を作ろうとするから発声そのものが変わってくるのです。それから日本人はそういういかにも響いているような声の方が好きなのです。
私は日本のシャンソンの歌い方は、和洋折で、ときに気持ち悪いと思うことも多いのですが、声楽からポップスに入った人たちの影響もあります。藤山一郎さんあたりから、均等の長さによって音色を変えないようにしています。音をつないでいます。そういう人たちは美声だからよいのです。声を聞かせ.ています。
ポップスやロックというのはポンポン言葉を投げ込んでいかなければいけません。そうすると無理がきます。「ドミ
「ソド」というのと「ハイハイハイハイ」(ドミソド)は同じ音です。
「ドソミド」「ハイハイハイハイ」も同じです。
1オクターブ違うのではなく、同じ音で、音色が違うのです。
どちらが体を使うか、どちらが集中してやらなければいけないか、それから、どちらの方が声域が広くとれ、声量が出てくるか、というのははっきりとしています。
日本人は声が強いので音が上がっても、浅いままのひびきで上までとれるのです。
しかしここで本当の表現できるかということです。ほとんどできないでしょう。
音楽的な表現というよりそこに響かせるだけというのはできます。合唱などはそういうところで表現させているところが多いようですが、向こうのゴスペルと全然迫力が違いますね。
音の高さに感覚が左右されすぎているのです。
たとえば外国人とヴォイストレーニングすると、彼らは息が深いから「ハイハイハイ」となり、息声になります。わかりにくければトム・ウェイツやジャニス・ジョプリン、ルイ・アームストロングなどを聞いて、自分で声を合わせて歌ってみてください。
録音して聞いて、同じ音がどれくらい自分がカン高くなり、彼らは楽に腹から太く出ているのか、を比べてください。これは個性の差でなく声の捉えるポジションの差です。
体を使えば使うほど声になり、息と声が結びついても声になるところを持っているのです。声を遠くに飛ばすために上を響かせる方法があります。それからもう1つは体に入れることもできます。
たとえば役者の2、3年目は、いかにも発声らしい発声です。これも体と声を1つにつなげていく1つの方法です。声をよくすることと伝えることというのは違います。
私はよい声でなく伝わる声で話しています。本当に体の原理のまま、とり出したよい声で話しているのでは、ありません。日本人に対しては、大きくひびく声でいっていたら、耳をふさいでしまいます。聞こえるか聞こえないかくらいの方がよいのでしょう。息が入っていなければいけないということです。
たとえば「あなた」を声でいうのと息をまぜていうのでは、実際マイクを入れると息を入れた方がしぜんに感情移入されて説得力を持つということが多いです。
ポップスでも外国の歌というのは息が入っています。ハスキーな声の方が一般的でしょう。
日本の場合、歌ではそれを嫌います。指導者も、声楽出身の人は「息など聞こえてはいけない。全部ひびく声にしなさい。」と強制します。声楽では全部、声にしなければこんな人はポピュラーをしかたないのです。
聞いたことはないのでしょうが、たとえば「kiss」でも「kisu」としないと遠くまで聞こえません。マイクがないからです。ポップスの場合は「kiss」でもマイクがあれば聞こえるのです。
ポップスは日常のことばでできます。いや、それでやるべきなのです。そのために音の高さによらず音色を揃えるということです。
日本人で同じ音色でオクターブ持っている人というのはほとんどいません。外国人は一流の人は持っています。1オクターブというのは「ハイハイハイ(ドレミ)」を全部同じところで替えるということです。
普通の場合は変わってしまいます。体がそれだけ弱くそこで声を握っていないからです。
役者でも仲代達也レベルになってくると1オクターブくらい掘っているようです。声の質を「太く使いたいのではない」と思う人もいますが、太く使えるからこそ細く使えるのです。どちらがよいかでなくどちらもできた方がよいということです。
当然、音域も広いというのは狭くも使える。強く使えることで弱くも使えるでしょう。
ヴォイストレーニングで考えなければならないのは、可能性を大きくすることです。
向こうの人たちが弱く出したようにみえるものを、口先でまねて弱く歌っても弱さという意味が違うのです。
彼らは強く出せるものを弱く凝縮しているから、弱い声でも強い表現力をもちます。私が声を小さく出したのと同じです。そこに凝縮される表現と小さくしか出せないから小さく歌っている人とでは、声量が同じでも全然詰め込めるものが違うのです。体を使っていなければリズムも音もしっかりとれません。小さく弱くするほどそうなります。
再三いうようですが、ポップスの場合は声城や声量があればいいというのでありません。コントロールできるところできちんとつくっていくことです。これが外国人と日本人の違いです。
三つ目はメロディの処理法での違いです。たとえば「冷たい」という言葉があって「レミファミ」という音程がついていたとします。すると日本人の場合、必ず「雨」と「飴」を聞きわける耳ですから高低でとります。
「レミファミ」も「上がった下がった」というようにとるので、歌うときも「つめたい(レミファミ)」となりますね。これで歌えていると思って先に進めていくわけです。
でも考えてみたら「冷たい」と回ったときにはストレートに聞こえたのに、「つめたい(レミファミ)」となったとたんに聞こえなくなっています。本来、表現力を高めるための音楽や歌が言葉だけのところより表現力が落ちてしまうのはおかしいのではなでしょうか。
最初はほとんど言葉で体からいうことが中心です。言葉ではっきり替えるというところにフレーズが出て音に化けていて、音楽がついてくるものです。そこを日本人というのはわけて考えてしまうのです。
日常の声が表現力をもたないため、歌声というのがなにか特別にあるように考えて「つめたーい」と歌いあげます。こんなのは気持ち悪くて聞いていられません。そういう声を出すことが上達だとかヴォイストレーニングの目的だと思ってしまうのです。真っ当なポップスのヴォーカリストでそんな発声をしている人は絶対にいないはずです。これは歌わされているだけです。メロディをなでているだけで表現は死んでいます。
シンプルに「冷たい」といったら「つめたい」、これだけです。
そこで言葉をいっているだけで、それに音がついている、それで歌となりますが、日本人にはこれでさえ難しいことです。
彼らがどうしてしぜんにできるかというと、彼らは「つめたい」を表現するときに日本人のように「つめ・た・い」とは考えないのです。皆でもそうですね、本当に冷たいときには「つめ・た・い」などとはいいません。しっかりと一息一フレーズで捉えるはずです。
さらに彼らの場合は、特に強弱を意識し強調します。強弱アクセントがないときには無理にでもつけます。大体後ろから2番目あたりにつきますから「た」につくわけです。「たい」といい切りそこに「つめ」がついているという感じです。それは1つで捉えられるのです。それを単に音にのせていく。
高低アクセントというのは音程アクセント、メロディアクセントということです。それよりも彼らは強弱アクセントの方が優先されるのです。
だから「つめた「い」でも高くして低くするという感覚ではなく、「つめたい」、これを「たい」で強くいい、そちらが優先されるので、音がついたときにも「冷たい」となるわけです。
だから彼らの歌と皆の歌を聞き比べたときに、日本人の場合はそこに大きく、感じとしての音程差が出てくるのです。しかも高いところと低いところで発声が変わります。
彼らの場合は高いところでも、あまり高いところを歌っていることを聞かせないし、低いところになったということもわからせないで強弱で動かしているのです。
高低を歌いわけるのが目的ではなく、感情を伝えることが目的です。つまり、表現力や感情を失ってまで音楽にする必要はないのです。それならラップでやっていた方がよいわけです。ここまでのことがメロディ処理です。
ヴォイストレーニングでどんどん声をつくって声で歌うことを覚えてしまうと、かえって、よくなくなってしまう人が多いのです。そういうことは禁じるべきです。
「つめたいことばきいても」、これは声だけが出ていて、何も体も息も使っていないのです。「レミファミミレレドド♭シシ」で半オクターブです。そのなかでは「冷たい言葉聞いても」といい切っていた方がよほど伝わります。
音の世界でも表現であるのなら、全部はいわない。全部いおうとするだけ、聞き手のイマジネーションを妨げてしまいます。
そこまでが単純にいうと、役者や外国レベルのことです。
ヴォーカルが、なぜこんなことをやらなければいけないのかというと、声をフレーズして動かしていくのがヴォーカルの醍醐味だからです。
「冷たい」、これが言葉で、1つめたい」、これに音がついているのがメロディの処理です。その後に「つーめたい」「つめたい」とか「つめたーい」とが、それを自分のイメージしたとおりに、音として動かしていきます。
これはあくまでもフレーズの基本の練習です。
しかし、ここで表現力をもってはなりません。あとは自分で考えて構成すればよいのです。こういうことができる条件、こういう条件があったら自分も歌えるのではないか、と思う人にはここまで与えられます。
これをいかにセンスよくやるかというレベルになると、これは演奏の才能です。
そこはその人の個性や性格などで違ってきます。音楽や演奏の勉強が必要です。日本では、演奏のまねごとのセンスで通じるので、音楽的なセンスのある人ほど楽器づくりをやらず、できているつもりでおわってしまいます。両方もっている人は、とても少ないようです。
ことばにメロディをつけただけの声を歌だと思わないことです。何も伝わらない、バーンと聞こえてこない、だからお客さんは退屈してしまうのです。4フレーズを聞いたら最後までどう歌うかわかってしまうのです。フレージング、メロディ処理は一番わかりにくいところです。実演を見にきてください。
共通していっていることは、体を使うことはシンプルに捉えなければいけません。
打つにも腕のところで力を入れてもボールは飛ばない、ということです。タイミングよく腰を使ったらヴィーッと飛ぶわけです。それを口先でくせ声をつける練習ばかりしていたら、どんどんおかしくなり、フォームまで崩してしまいます。どんな状態のときでも繰り返しができなければ、それは基本ではないのです。
だから姿勢というのがあります。図のように6ヵ所もチェックして、それで声を出そうとしてもガチガチになって声は出ません。そういうものも感覚で覚えていくしかないのです。
何かやるときに、中の感覚が正しければいいのです。そのためにはかなりの集中力がいります。体も鍛えていなければいけません。
私は30分間のステージをやるときに8時間は立てることが条件といっています。人前に立つ仕事をする者として当然のことですが、いつも立っています。そういうことが基本の基本で、後は本を読んで補えると思います。
黒人にもいろいろとあります。白人の声よりももっとニュートラルで柔らかい声もあります。体のつくりや筋肉のつき方などによっても声は違うように思います。力強い声よりも中性的は声というのは難しいと思います。
日本人がやっても、いやらしくなり、あまりかっこよくならないものです。彼らがやるからかっこいいというのもあります。
でも音声に対する考え方と音に対する貴任感、もっといえば必要性の違いというのは日常のなかから大きな差があるということです。少なくともヴォーカルになる人はそれを持っていかないと変わっていかないでしょう。
だから内容を全て与えるような指導などありえないのです。
最終的には自分の勘でやっていくものです。手取り足取りやられてもものにならないでしょう。そして、10、20年と経っていくのです。どこかに行ってお金を出せば何かノウハウが入るのではありません。
育った人は死に物狂いで、すごいところまでやっています。
そうでなくては一声出して、「あ、こいつうな、プロだな」と思わせることはできません。
またその人の顔に出ません。それだけの自信もできないでしょう。
プロになって才能のある人のなかでやっていくためには、基本がいるのです。
私もレクチャーには声楽を何十年も指導しているような人がいるわけです。仮に自分の力がなくても、あなたよりやったところはあるというところを見せなければ通じません。表現というのはある意味ではストレートにわかるわけです。だから、反面、楽なことでもあります。
歌でしかもポピュラーというのならわからないまま引き受けていかねければいけない世界です。私もわからないところがたくさんあります。だから面白い。それを結果から認めていくしかないのです。何でこの人はこんな歌を歌えてしまうのだとわからなさもあるし、逆に何でこんなにやっても歌えないのだろうということもあります。少なくとも知識の世界ではないということです。
つまり、ある条件下のなかで正しいとか正しくないとかいわれることではないのです。その条件さえ変わるのです。ここでも私が理解できるものはしょせん大したものではないと考えています。
もっと新しいもの、面白いものが出てくるべきです。
ここでのライブを世間に対してやらないのは、今の時代でなく、先の時代をめざすからです。
なんか似ている、というならよくない、発声がこういうものだとわかってしまう、それでは、面白くない。ヴォーカルなのに、こんなのもありか、こんな声もあるのか、こいつの喉はおかしいのではないか、といわれるような人がいろいろいなくてはなりません。
もちろんただ、音楽市場の人気は、中高生が主導権を握っているので難しいのです。
お客さんのレベルがある程度高くないとわからないというのでは、それもいけないでしょう。
売れているのは、よいのですが、あまり一つに片より他の分野がないのが問題です。
売れる分野がヴォーカルの理想的な形で、これしかないと思われることはよくないのです。いろいろな歌い方もスタンスもあります。その人のオリジナルのもの、その人が体に持っているものが感覚によって出てくるのが一番よいという視点が必要です。
音程、音感をトレーニングするには、一番簡単なのは声楽という分野でコンコーネ50やコールユーブンゲン、ソルフェージュなどをやる方法でしょう。簡単というのは、音大生やそこの出身者がたくさんいて、共通してそれをやっているからです。できたかどうかの基準があるからです。
ただ、音程音感をやるのであり、高音の発声をやるわけではないのに、皆高い声が出ないから、そこで無理な発声を強いることになってしまうのです。原調でやらせるのはとんでもないことです。トレーニングを分けなければよくないのです。
音程、音感をやるのであれば、一番やりやすい声域でコントロールしましょう。声も難しいし音をとるところも難しいと思うところで同時にできるわけがありません。皆、安易に進めすぎてしまうので
す。
あまり慣れていない人は楽器から始めた方がよいと思います。若干遠回りかもしれませんが、声の教材を使うより楽器のCDを聞いて「あ、こんなリズムがあるな」「こういうふうにウォーキングベースは進むのか」「これとこれがぶつかったらこういう音になる」とかいうことを体に入れていく方がよいでしょう。
音に対しては鋭くなります。
日本の場合、私はヴォーカルを教えている人よりも楽器を教えている人の方を評価しています。彼らは音の世界で聞いてアドバイスしています。
Q:ヴォイストレーニングは、一日のどの時間が効果的か。
最初は起きてから5、6時間経ってからでないと難しいと思います。人によって違います。
何を食べたらよいとか何をしたらよいという問題は、健康法と同じです。
自分で知っていくしかありません。本は参考にはなるかもしれませんが、それはそう考える人もいるということでうのみにしない方がよいということです。皆、違います。食べてはいけないもの、やってはいけないことなど考えたら何もできなくなってしまいます。
たばこ、酒ダメ、1日8時間寝なければいけない、ステーキを食べるなど、好き勝手に書いてあります。
それで自分にとってどうなのかは、自分で知っていきましょう。クラシックの場合はともかく、私たちの場合はプロになればなるほど悪条件になります。ポップスの場合は、体のコンディションが最悪のときに何ができるかというのが力だといえるほどです。
寝なくてどのくらいできるか、風邪をひいてどのくらいできるか、そのときにできないものは使えないとまではいわないまでも舞台には出てやらなければいけないのです。
Q:普段の会話のときにも気をつけた方がよいのか。
体を使って声を出そうなどといろいろなことを考えるとコミュニケーションでおかしくなります。相手に気を使わせたりどうしたのと思わせたりしたら、精神的にまいってくるので、耳は敏感になっても声はわけておいた方がよいと思います。
歌のなかの声がプロとして変わってきたら日常の声もよくなっていくか。
それが多くの人のパターンです。なぜなら、よほど身につけている人以外はかなり高いテンションで扱わないと、声はコントロールできないからです。
日常の声がよくなってきたら歌もよくなるというよりは、歌は集約された舞台で特殊な場として与えられます。そこで思いっきり集中して体を使うことを覚えて、それが日常にしぜんと通じてくる方がよいでしょう。
日常で人と話すときに腹式呼吸を使ってなどと考えていると、一日がんばれないような気がします。かえって声に対して嫌悪感を抱くのではないかと思います。
Q:どんな感じでレッスンをしているか。
会報を見てください。2年でできていくにも10年分の苦労がいるものです。
どんな分野でも2年を深くやって、あと前後で10年でしょう。
そうでなくてできた人というのは私は知りません。マライアキャリーでも安室さんもしっかり10年以上は積んでいます。その辺は才能とか繋質ではないのです。大体の人はそれと同じもやっていないのに比べようとしてします。
Q:一回のレッスンはどのくらいの時間か。
グループは1時間です。個人レッスンは、そのグループのなかで悪かったことをチェックます。追加なら10、20分と短いです。
Q:経験の有無
初心者、プロというのは、まったく問うていないです。
どこで何をやっていようが有名であろうがなかろうが関係ありません。
Q:プロダクション
属していることは話してくださいといっています。
人前に出てはいけないとか、権利の問題で写真や録音にとられてはまずいこともあるようです。
ここでは、全ての舞台は、その人の作です。
無許可で外に出すことはしていないです。
Q:作詞・作曲の方法
学べなくはないのですが、それを専門としている人に学んだ方がよいと思います。
作曲のために必要なコードの理論などは、おいています。
ピアニストが、弾き語りする人などに、ピアノや理論は教えています。
作詞や作曲も学ぶべきものは方法よりも、歌のなかでフレーズをどのようにより伝わる音声にしていくかという点では、ここのヴォイストレーニングに含まれているつもりです。
Q:ハ行サ行の発音について。
発音に関しては私は同じだといっています。複雑に考えると外国語などで歌うときにも覚えていかなければいけないです。だから耳で入った通りに体が反応するというところでよいのです。
当然ネイティブでないので、聞きとれないことには正確にできないでしょう。
それは、向こうの人に指導を受けるときもあります。
少なくとも日本語の発声に関しては「アイウエオカキクケコ」と全部同じです。
「s」だから「サ」、「t」だから「た」というような使いわけをするようにはしていません。
たまたまその音に決まっただけで音でも、たとえば「悲しい」と音がとれていても「悲しい」と聞こえなかったら、音を狂わせてでも「悲しい」と聞こえた方がよいわけです。かなり、柔軟な考えです。
Q:音楽のルール
そういうのはありますが、誰が決めたわけでもないから、そのルールを使うことで効果が上がるのだったらそれを使った方がよい。循環コードや終止の仕方を知っていた方がよい。でも効果が上がらないのなら使わない必要がないという考えをしています。もっとクリエイティブにやっていくべきだと思っていきます。
Q:一本調子になってしまう
それはほとんどの場合、集中力とテンションがないということ、次に技術、声のコントロールカの不足です。
たとえば「ハイ」一つ出すときでも、このときに私は集中しているわけです。
ところが集中していない人は、どこかに力が入って声がひずみます。
だからヴォイストレーニングは集中した状態でやる必要があります。
長くダラダラやるのでなく、本当は正しいことだけをやっていった方がよいでしょう。
その正しいことを導き出すためにいろいろとやるのです。
Q:「理論や考え方を学ぶことで表現が片寄ったものになるということはないのでしょうか」
私のところは歌いたいようにやらせています。
そこをどうすればよいですかと、人の表現を押しつけられたがっているのは、むしろ、習おうとする人のように思います。
そこで日本人には、ていねいに教えて食える先生が評判がよいのですが、そういう人に教えられるから片よっていくのだと思います。
私も理屈や思想をいっているみたいですが、ここで述べるのは、レッスンでいいたくないからです。
誰でも人間である以上、生きてきて何かやるということは、思想ができていくことです。
そういうものはたくさん知っていた方がよいでしょう。
選ぶのは本人の自由です。
そこから自分のものを自分で創っていくということです。
そういうものを押しつけられるくらいで、自分の個性がなくなってしまうとか、歌い方が変わるなどというのだったら、もともと表現ということに対してのポリシーも個性などないわけです。
まったくの自由な場でやれる表現などありません。どのように制限を活かしていくかということだからです。
よいものは取り入れて自分で大きくしていけばいいわけです。
皆、気持ちよいところでリラックスしてやりたいと思っているようですが、本当に育とうと思ったら、気持ちのよくないところで刺激を受け「何くそ」とか「見ていろよ」といった方が伸びるのです。
ヴォーカルというのはコンプレックスや意地みたいなもので成り上がっていくものでしょう。
伸びた人に、金持ちのお坊っちゃんお嬢さんで練習時間もお金もあって、という人はいないです。
自分をさらしていく商売ですから、それなりの覚悟がいります。
Q:シャウトが喉を締めるか
本当のシャウトというのは「ハイ」とやったあと、「ラーラ」とやっても、すぐに普通の声に戻せるものです。シャウトしたあとバラードで歌っても、喉をやられないところでないと駄目なのです。
その分ものすごく体を使います。それで上に響かさないのですが、高い音になるとそれが響いてくる場合もあります。