一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー テキスト34 30824字 902

レクチャー   902

 

 

【ヴォイストレーニング34のポイント】

 

 

(1)ブレスヴォイストレーニングのメソッド

 

 

1-1 体で声のとりやすい音から始める

(深い声のポジションを得る)

 

EX1

「ガーガーガー」

「ゲーゲーゲー」

「ゴーゴーゴー」

「ガーゲーギー」

「ガーゲーギーゴーグー」

「ゲーガーギー」「ゲーゴーグー]

「ガーゲーギー」

「ガーベーダー」

「ヤーダーヤー」

「ハッハッハッ」

「ハイラララ」

「ハイラララ」

「あまい」

「あおい」

 

「ガゲギゴグ」で練習してみましょう。これは比較的、深いところで声になりやすく深いポジションがとりやすいためです。この場合は、鼻濁音にしない方がよいでしょう。

「ハイ」や「ガゲギゴグ」というのは胸に入りやすいことばのようです。「ガ」「ヤ」「ダ」を使うのもよいでしょう。ことばとして瞬間的に体から出やすいのです。

 

「ハッ」というかけ声でも構いません。のど声よりも深いところで、生の声をはずします。「ハツ」で勢いが強くて、のどをつめるようなら「ハイ」と「イ」をつけてみましょう(「イ」に関しては最後まで問題になることが多いので、できたら「ハ」と一緒に「イ」を習得するとよいでしょう)。「イ」が難しければ、「ハオ」「ハエ」「ハア」などから、深い声をみつけましょう。

 

同じような意味あいをもたせたのが「ガゲギゴグ」です。これは深いポジションをキープしつつレガートにしていきます。ブレスヴォイストレーニングの基本です。

要はポジションを深くとって、そのままいかにレガートの方に呼吸でもっていけるかということです。

 

 

次の段階は、「ガゲギゴグ」を少しずつ伸ばして「ガーゲーギーゴーグー」と一音に2秒くらいのペースでやれるようにしていきます。これは、声の線をつくっているのです。次に、「アエイオウ」「カケキコク」と各行をやってみましょう。

難しいのは、カ行サ行タ行イ列やウ列です。ことばでいうと「ふたりの」「いのちに」「きみに」「こころを」「しっている」などです。

 

ことばのフレーズは、ある程度、強くしていくことでマスターできます。強くやっていくと、胸に入って「ハイララ」と大きな声を出せます。しかし、ぶつ切れのままは、流れの出てくる方向にはいかないわけです。力がしぜんに抜けないからです。つまり、強く入れたときにフレーズにもっていけないという問題が起こります。それを避けるために、ひびきで音楽的に流れをとろうとするのが、日本人好みの発声法ですが、それでは、ひびきだけ浮いてしまって、声の芯がまったくつかないという状態になるわけです。それを解決するためのトレーニングが、この「ガゲギゴグ」です。

 

発声練習でよく使われる「ラ」「マ」「ナ」行や「ア」「エ」は日本人の場合は浅い声のままひびかせるので、浮いてしまうのです。ヴォリュームやメリハリといった表現力のパワーをすべて犠牲にすることになります。それに対して「ガ」とか「ゲ」とかは、まだ芯を捉えてやりやすいのです。

スタッカートの深さでレガートを導くわけです。

 

(ここで使っているトレーニングというのは、必ずしもすべての人にあてはまるわけではないのですが、多くの人に効果的だったので、述べています。ですから、自分なりにメニューを変えて、もっとも深い声の出やすい音を選んでください。たとえば「ハッ」を「ハイ」にしたり、「ラララ」を「ハイ、ララ」にしたり、ことばで「あまい」「あおい」などでも構いません。イメージの問題もありますが、理屈抜きに結果として出している声がよければ、問題ないのです。中には「ラ」の方が入りやすいとか、高いところからの方が出やすいという人も少数います。)

 

 

 

1-2 声を出すことで体をつくるトレーニン

 

のどにかからないよう、できるだけ大きな声でいってみましょう。

 

EX1

「なんて」

「あおい」

「じっと」

「ひたすら」

 

ヴォイストレーニングの目的は、イメージをつくって、それを伝えるにふさわしい音声を出していくことです。しかし、基本のトレーニングは、声を出すことで同時に体をつくっていくようにしていきます。私自身の声にはすでに体と深い息がついています。話をするときに、ヴォイストレーニングも同時にやれているわけです。そういう結びつきをつけていくのです。

 

技量のまえに、声を出す楽器としての体が必要です。そのために、体づくりを声を出すことによって、つくっていく。声を自由自在に出せる体を想定し、それに近づけていくのです。

 

声を自由に出すということは、大変なことです。声が体に身についていないと声を出しても体に負担がかからず、鍛えようがないのです。だからトレーニングにならないのです。

そこで、息やことばで声と体を結びつけ、体の方に必ず負担がくるようにして、体を鍛えていきます。トレーニングである限り、確実に変わるところに基本をおくことが必要です。それは体であり、そのために感覚が必要です。

 

 

 

1-3 高低を強弱におきかえフレージングをつくる

 

EX1

「ラ」でドレミレドの音階を歌います。

たとえば「ドレミレド」は、低いところから高くなってまた低くおります。このトレーニングの感覚をフレージングとしては、弱いところから強くして弱くするというイメージに置き換えるのです。

日本語以外の多くの言語なら、強弱リズムがついていますから、強く出すところは決まっています。ことばも強く出そうとすると、やや高くなり、相手に伝わるわけです。だから、強く出すときは、ほぼ同時に高く出しているわけです。ですから高い音を高く出すことでなく強く出すことでマスターしていくわけです。

 

多くの人は、数のなかで高く出そうと考えると、しぜんに細くしてしまいます。それを強く出して、太く高い音をとるイメージに変えるのです。イメージのわかない人は、外国人ヴォーカリストのキィに左右されない声質、音色の深さをよく聞いてください。

 

日本語の高低アクセントというのは、声そのものは変えないで音の高さだけを変えます。そのため、高く出すところは声が表現力も弱くなって音色も変わってしまいます。ポジションを変え、音色を変えているわけです。

多くの場合、その状態のまま日本の歌は歌われているのです。これが、トレーニングの基本を学ぶのにはデメリットになってしまうわけです。体からしっかりと声をつかみ出す段階では、そんな複雑なことをやってはいけません。音の高さを点としてとる(あてる、届かせる)のは、音程トレーニングであって、発声のトレーニングではありません(本当は、正しい発声でないから音程トレーニングにもならないのです)。

 

 

息も声も体で支えて、長く出すことによって体の強さもついてきます。レガートのなかにも、ある程度の強さ、つまりメリハリを入れていきたいのです。

仮に10の体の力があったとき、「ハイ」だけなら、それに10すべてを使えるから表現力も10ある。しかし、メロディや長さがつくと、そのぶん力が分散される。そうではなく、「ハイ」を3回いうときのパワー30を身につけ、それでこなせるまで、トレーニングするということで、長さも同じです。

 

ここまでしか伸ばせない人は強さにするとこれぐらいしかできないかもしれない。ここまで伸ばせる人は強さにすると一瞬にしてこのぐらい吐けるかもしれない。ここまで伸ばせるようになると、このぐらいの器ができるだろうというように、考えるのです。

 

ですから、単に音を長く伸ばすことが目的ではないのです。長くもたせようと息を率的に声にして吐くことでコントロールしていきます。バランスをとりながら、無理やり強制的にやらないようにイメージを使いつつ、声と体とをうまく結びつけていくことです。

 

EX2

「ラララララ(ドレミレド)

 

 

 

1-4 日本語のピッチとことばをはずす

 

ピッチとことばの感覚というのは、日本語の場合、歌うと必ず音楽的にならないようについてしまうことが多いようです。ことばを歌うときに日本語は音を均等の長さに、そのまま伸ばしていく特性があります。これでよければ、簡単なのですが、本当の表現は必ず違うものだからです。

 

「わたし」というときに、どこかで「わ」が長くなって「た」が短くなって「し」がその間ぐらいでと、長さが違ってくる場合もあるし、どこかが大きく強く、どこかが小さく弱くなる場合もあります。

「わーたーしーはー」と均等にあくと、音楽になりにくいのです。こういうときは、音感頼りのフレージングでことばをおくように処理します。

 

楽譜に記されたように、同じ長さということはありません。

この文章をカナで読むときでも、一時ずつ、印字のように同じ長さにならないでしょう。うまい人が歌っているのを聞けば、よくわかります(仮にそれが同じ長さだとしたら、違うものをメロディックにするためにつかんだ後、均等に配しているとみるべきです)。

 

日本語の場合、この均等性が壊れにくいのです。どう歌っても楽譜から抜けて表現しにくいのです。口先であててつくらなくでは伝わりにくいことばともいえます。

それに対し、外国語は、ことばの強拍を中心としたリズムフレーズが入っていますからすでに長さの等しさは壊れているわけです。楽譜どおりにはならないのです。

日本語は、声が浅いので浮いてしまい、ほとんど同じになります。Yesを「イエス」というのが日本語です。

 

 

 

1-5 心地よいズレをつくる

 

ピッチの問題も同じで、平均律のピアノと違って、ソのフラットというのとファのシャープというのは違います。ピアノは、移調にも対応できるように調整されたものですが、声は、揺れています。ピッチが低い音のときは、1秒間に5、6回くらいの振動があって、その周期は変わらないわけです。高くなってくると揺れが大きくなりますが、周期は変わりません。そのようにキープしているとき、声をコントロールできるというわけです。

 

これが乱れるとトレモロや、揺れ声となります。演歌をカラオケで歌う人たちの多くに見られます高い音ほど、ピッチでみると、揺れの幅が半音ぐらい違ってきます。半音というのは違う音になるのですが、聞いている人にはわかりません。というより、結局そのズレが心地よいかどうかということです。

 

ぴたっとあたっているだけで、まったく動かない声や意図的な動きがみえすぎてしまうふしぜんな声は心地よいはずがありません。これは、音にとらわれ、その音にあてることしか頭がいかず、あたっていれば安心してしまうからです。ピッチのとりやすい声の出し方をよい発声としてくせをつけて覚えることになってしまいます。

 

とりにくい音はこういう発声だと決めつけて、スケールをつくっていくのです。これでは正確でも、本当に歌える声が出せなくなります。正確さは大切ですが、表現に優先することではありません。コンピュータがヴォーカリストには代われないというのはこういうところです。

 

その乱れの部分はとても微妙で、狂うことは、問題ないのです。狂うという考え方自体が、おかしいので、それで新たなものを創り出すのです。ただ、感覚上のルールがあります。

声は、揺れのなかの働きで音をとっていく、すると音が揺れに入ってくるのです。そこで、すでに体に入っている音程やリズムが、結果として正しく出せていなくてはなりません。

 

 

 

1-6 揺れとビブラート

 

キィが高いところであれば、声がとおるわけではありません。高いところの方が動きがつくから強く伝わってくるのです。声自体がいくら大きくなっても、浅くのっぺらとなっていては聞けません。外人の声を聞いてみると、上にいけばいくほど自由度が出てきます。かなり太いままキープしています。だから味がでています。しかし、体がなければ、それをコントロールすることはできないのです。

 

高いところから、低いところに急に下がったとき、声になりにくいのは、呼吸でコントロールしていないからです。上がりきらなかったとか、下がりきらなかったというのも、結局、音を固定してあてているような歌い方をしているから、すぐ耳につくのです。

揺れのなかに音をとっていたら、笹通の人が聞いても音の移動はほとんど気づかないはずです(あまりに音感が悪いと別です)。心地よくくずして保てるのは、誰も歌を音程で聞こうとしていないからです。

 

高音のスケールも同じです。「ドレミレド」の間のピッチの差、音の差を表面上なくすことです。(これは、声楽は徹底しています。ひびきと揺れがないかぎり、遠くの人たちにまで聞こえませんから、それが絶対的な条件です。)

ポピュラーの場合は、息の音がでてもがマイクがあり、それも表現手段です。音にぴたっと合わせて、ひっぱりすぎるとよくない場合があります。

 

ビブラートのつけすぎというのは、シャンソンでは目立ちます。しっかりとしたビブラートをつけると音をもっていくときに楽だからです。だからといって、必ずしもよいわけではありません。

C(ハイCの1オクターブ下)のテノールバリトン、バスの声の太さを聞こう

 

 

 

1-7 耳の鍛え方

 

最初に耳があり、そこで声を得たという順です。すると、声がしぜんに出せるようになるだけで声イメージを出したら歌になるまでのことはできるのです。そこでゼロなのです。ここまでは誰でも確実に努力でできるところだからこそ、トレーニングが成り立つのです。

 

耳というのは、その人独自の音やリズム感であったりするわけです。声に何も出てこないのは、ワンパターンのものしか聞いてきいていないからです。世界中のリズムやメロディックなものを聞いて口ずさんでいたら、どんなリズムや音程をやっても、すぐにできるはずです。

 

ちょっと変化したコードになるとできないのは、それだけの音楽を聞いていないからです。結局、慣れていないわけです。それを音程とかリズムトレーニングで学ぶ方法もありますが、声がないと却ってのどを閉めることになり、マイナスとなります。

 

むこうのヴォーカリストは、必ずしも楽誰をみて歌っているわけではありません。そのかわり、いろんなものを小さい頃から数倍、聞いています。聞いていたらどのパターンか頭ではわからなくとも、体が反応して、すぐにリズムや音程がとれるのです。

そのために多くのジャンルのステージをみてください。

いろんな曲を歌ってください。最初は好き嫌いせずに世界の一流のステージの音を体に入れるのです。

 

 

 

1-8 声のなかに、音感、リズム感、感情すべてを入れる

 

日本の場合は、音程、リズムというと、まず読譜力が問われます。しかし、楽譜がなくても10フレーズぐらいならばっと聞いて、とれなくてはなりません。それは才能というよりも、これまでにどのくらい体に音楽が入っているかどうかです。鑑賞を勧めたり、レッスンに変わったメロディやリズムを使っているのは、感覚対応力を少しでも広げるためです。

 

フレーズ中心の大きな曲を使うのは、体に「これと同じように歌おうとしたら、これだけ体を使わないといけない」ことをわからせるためです。それにはカンツォーネなどダイナミックな曲がよいし、声やことばの発せられる深いポジションを理解するには、シャンソンがよいでしょう。ジャズ、ゴスペルは声の深さとひびき、呼吸やイメージのお手本です。昔の歌いたい曲は、そのベースをもった上で歌われているのです。

 

できるだけ、ダイナミックな曲からトレーニングにはいるとよいでしょう。若いときにはなるだけダイナミックでスケールの大きくて音域も広くてと、とにかく体が張れるものがよいのです。そこで、声を逃がさないで歌うことです。

 

 

それとともに、もう一つ、自分のあわない曲や初めて聞くリズムというのは、最初、自分におちないわけです。嫌悪感があって、やろうとしてもどうしてもやりにくいものです。ところがサンバならサンバをずっと聞いていると、その曲に抵抗がなくなってきます。よいとか悪いとかではなくて、いろんなパターンがたくさん入っていた方がやはり得なのです。

 

いろんな面でよいもの、人間が承け継いできたものをたくさん取り入れることです。そういうものは長い時間、何回もきちんと聞いていると、自分が表現したときに出てくるわけです。一番単純なのは、声の音色のなかにリズムも音程も感情もすべて、いれてしまうことです。

 

結局、これが全部入ったものが呼吸です。歌を呼吸でつかんでいく、あるいは息でつかんでいくということです。ここまでになれば声とか歌とかあまり複雑に考えなくてよいわけです。話していることに間をつけてみたり、強調してみたりしているうちに、表現の技術になってきます。ささやくこと、嘆くことため息をつくことなど、豊かな感情表現がそのまま歌の表情につながります。

 

 

 

1-9 マイナスの声とプラスの声

 

今の声をそのまま使うよりも、今の声を深めていくことにある程度、集中してトレーニングすることです。それはまったく別の声と考えてもよいでしょう。日本人の大多数の浅い子供っぽい声から、国際的に通じる大人の声になること、真の変声期をおくのです。詞、曲、声それぞれにそれぞれの真実があります。このうち、どれが一番、大切かではなく、どれから先にやるべきかということなのです。

 

たとえば最初は、ドの音だったらドの音だけが深くでるようになります。ところがこのことと、今まで使っていた1オクターブ半ほどの声とはまったく、一致しないわけです。

そこまでは日本人の場合、ほとんど、ただ音域をとるためにつくってきたマイナスの声です。あるいは長く伸ばせることを優先してつくってきた声なのです。この声は歌いやすい反面、歌うときには、この声しか使えなくなるのです。

 

それを私は、日本人特有のつくられた「歌声」と呼んでいます。この、つくられた歌声では、いくらやっても強く出せない、タッチや声の表情が出せないのです。しぜんな表現を求めるなら、この声は使えないことは、自明なのです。音程、リズムを指先で正しく押さえて、曲を弾いたといっている小学生のピアノの音と同じです。

このことがわからないプロが、日本にはたくさんいます。自分にはその声しかないと思っています。使いやすいが、本当には使えない声のまま歌っているから、変わりようがないのです。

 

ブレスヴォイストレーニングは、3音から半オクターブの声が使えるようになるまで、声と声を扱う感覚を覚えていきます。すると、少しずつ、声の習得のプロセスの感覚がわかります。

もちろん、これが作品として完全に使えるまでになるには、まだまったく足りないのです。しかし、そこであきらめないで、本当の声をしっかりと自分で見極めてトレーニングしていくことが、何よりも大切なのです。

 

 

 

1-10 ヴォイストレーニングの必要性

 

その人のめざすところが日本であれば、必ずしもヴォイストレーニングできちんと出せる声が求められるわけではありません。トレーニングなどしなくとも、カラオケのような歌唱指導でもやっていける人もいるでしょう。プロのヴォーカリストとしてやっていける条件は、声のほかにも、さまざまにあります。しかし、声以外はどれも他人任せ運任せの部分が大きく、お勧めできないのです。

 

たとえば、ある売れっ子シンガーは、唯一の大ヒット曲はある程度、うまく歌えていました。しかし、その他の曲に関しては、全部口先で流れていて、ことばも、まったく表現力のない歌い方でした。ただ彼らはお客を集められるし、整えられた装置のなかではそれなりに自分を出して聞かせられる小手先の技術をもっているわけです。

 

そうしたらその条件は何かと考え自分にその条件が与えられるかどうかを考えれば、多くの人にはそんなものは、永遠にこないことがわかるはずです。所詮、他人の土俵でやろうとしているところが間違いなのです。

 

 

アーティストなら、自分の絶対的価値を高めてから世に問うべきです。そうであれば、いくら時間がかかっても確実に自分で力をつけていきたいと思うはずでしょう。他の条件などなくとも、通じるだけのすごいヴォーカリストになりたいと思うのなら、声を体でひきうけるしかないのです。

 

教えるという立場では、少しでも早く歌いたいと思っている相手に、基本をつくる時間を充分にとらなくてはいけないことをわからせるのは、容易ではないでしょう。どうしてもわかりやすい音程、リズム中心のチェックと、それをカバーする小手先の技術の指導で慣れ合いになりやすいのです。

 

しかし、本気でやれば体は変わります。他の人とやっただけの差がはっきり出せるからトレーニングといえるのです。ヴォーカリストとして、体の芯から声を出すことをたかだか1オクターブまで粘れる人はとても少ないのが現状です。めざす歌の世界がはっきりとみえ、その先をやろうと思わないかぎり、これは日本人にとっては、大変なことなのでしょう。

 

 

たとえば、下のドから上のドまで出そうとしたときに、ミファソラ(女性はドレミファ)のあたりで声が強くなってきます。ところが、そこで粘ることで体が強くなっていくのです。とにかく地声で均質な音声で出せるところを、1オクターブまでつくります。一流の歌い手は、それを上のミとかファとかのところまでもっています。

 

日本人でも単に高い音に声を届かせることはできる人はたくさんいますが、そこでヴォリュームを出すことがまったくできないのです。向こうの人の1/3もできないのに、歌っていくための基本的な声はできていると思って先に進めていくのです。一声、聞けば、その違いは明らかなのに、その一声の差を知り、極めようとしないからです。

 

 

 

1-11 声のバランス

 

発声でよくいわれる頭声区へのチェンジというのは、上の方を1オクターブとるために、頭声の方にバランスをもっていくことですが、特にポピュラーでは安易にこのことばが使われています。女性は、レからファぐらいで声区をチェンジして、さらに上で声区をチェンジしてみるような考え方でやっています。

出ない声を出そうとせず、小手先の技術で音域だけとっているのです。それでは結局、か細い声の線上から出られず、その結果、声に音量が伴わないのです。いつまでたっても、できるようにならないトレーニングでは、仕方がありません。

 

歌のなかで、発声のバランスは自由に変わってもよいのですが、そのためには最初にきちんと1オクターブとれる深さをもって、その上でもっていくことです。

声を、どう使うかというのは曲によって決まることです。自分の歌い方によって決めるのです。それが高くなると、薄くひびくだけになっているようではどうにもできません。

外人のヴォーカリストの歌が、高いところで弱く表面的にならしているように聞こえるもので、日本人はその音声イメージやフレーズだけを口先でまねるのです。彼らはやろうと思えば、そこでいきなりシャウトしたり、低い音ですごいヴォリューム感を出すことができます。

 

10の体をもっている人が、その10分の3の3のひびきでやっていることをまねても、1の体なら、0.3のひびきしか出せません。それをマイクで10倍にすれば、それらしく聞こえるようですが、そのなかにこめられた表現が、密度がまったく違うのです。敬としではまとまると、それらしく聞こえるだけです。こういう歌が評価されるから困るのです。

本当にそれだけのことがやりたいなら、まずは、3倍、5倍の体をつくらなくてはならないはずです。彼らは声の底とひびきとを両方もっています。それをしぜんと、バランスで使いわけているのです。そうなるためには、それだけの器をつくらないといけないわけです。

 

 

体が使えない人が体を使おうとすると、息が大きくもれたり、声を押しつけて切ったりしますから、歌のすべらかな処理ができなくなります。そこで歌と離れてしまうのです。しかし、そうであれば、歌にのっかってく出すみたいなことをしなくてはいけなくなります。

歌らしくしたければ、確実にドのところをレのところまでもっていくことです(大体男性はシとかファ、女性だとそれより2音ぐらい低いと思ってください)。

 

1オクターブの正しく使える声をもった上で、中間の「ラ」のところで完全にバランスを変えるような声区のチェンジをすることです。これで、ほぼ2オクターブに届きます。

日本の場合は、1オクターブ半もある曲というのはほとんどないでしょう。全体として1オクターブ半あってもたまに低いソがでてきたりラがでてくるだけで、ほぼ1オクターブでできています。むこうの歌というのは、ことばの部分で下の1オクターブ張らないといけないサビの部分は違う1オクターブでできているものも少なくありません。それで1オクターブ半から2オクターブ近くの歌になります。

 

ベースの声にひびきの声をのせるのです。それに対応するためのベースの声づくりは、半オクターブでよいでしょう。これに下ができれば大体、歌唱ベースで1オクターブになります。これが安定していたら、いつもそんなにくずれないで伸びていくのです。このあたりが安定しないうちにラシドあたりをそろえるのは、かなり難しい問題です。そろったり、そろわなかったりしているようで.は、技術とはいえません。

 

 

 

1-12 1オクターブを同じ音質で歌う離しさ

 

ヴォイストレーナーは、ヴォーカリストとそのとき出した声がどうなのかというマップをつくって与えていきます。今の声はどこでだしているかという位置づけをしていくことで、ヴォーカリストに声とその使い方を理解させていきます。これも単にトレーナーの声をまねるのではなく、イメージで捉えるのです。

 

そうでないとトレーナーと同じ声になってしまいます。トレーナーと同じということは、トレーナーよりへたになっていくということです。トレーナーが自分の体に忠実な声であればあるほど、そのヴォーカリストにとっては忠実でない声になっていきます。

 

だからこそ、自分の感覚でとらえ、自分で答えを出していかなければいけません。正しいヴォイストレーニングは、そういったものです。ポピュラーで自分の世界をつくっていくのであれば、なおさらです。誰一人同じ歌い方、同じ歌ではありません。もしそれが同じ歌い方になったら、何の価値がないことになります。歌う意味がありません。

 

 

 

1-13 マイナスの声をとるために、のどを開くこと

 

ブレスヴォイストレーニングでマイナスから0に戻すノウハウというのは、一言でいうと、のどを開いた状態で声を出すということです。それが完全にできるようになるまで、かなりの期間がかかります。

そして、

1.お腹から体・息と直結した声がもてる 

2.のどに負担をかけずくり返しに耐える声 

3.高度にイメージ通りに声を使える可能性が出てくる声、

 

そこまでのことができれば、役者や外国人と同じように、声に関して一つのベースができたといえます。1オクターブ以上にわたって歌わない方がよいのは、結局、中途半端な発声のところで、のどをしめるくせがつくからです。しめてしまうと、そこから可能性が出てこないからです。

 

歌の世界でも、10年、20年やっている人もいるわけです。どんなヴォーカリストもがんばっていない人はいません。それなのに日本で、たとえば100人のヴォーカリストのうち、なぜ、わずか2~3人、しっかりと声のある人がいないのかと単純に考えてみればよいわけです。

 

 

向こうではアマチュアでも、もっとすごい声で歌えるのに、そういう基本さえできないのはなぜでしょうか。それは、日本人が声をしっかりと捉えていないままに歌い出しているということに行きつくのです。

 

ですから、2年でたとえ0になっても、プラスマイナス0のニュートラルな状態から踏み出せるのなら確実な前進なのです。とりあえず原点に戻したらいろんなものがそこから開けてくるというわけです。それまでの間、急がず地道にトレーニングをやりつつ、一方で、音楽面を中心にいろんな刺激をうけていくとよいと思います。

 

 

 

2-1 ブレスヴォイストレーニングの本質

 

時代によって歌にも表現のスタイルの違いはありますが、新しい声、古い声という考え方はあまりないでしょう。まったく新しい声をトレーニングでつくっていくという人もいますが、多くの場合、勘違いしています。

 

私の研究所では、私がやってきたプロセスを、参考に人に与え、そこで効果を出したものを残していきます。もちろん、必ずしもそれにとらわれず自分一人でやっていけばよいのです。ところが唯一、私が今も自分だけではできなかったと認めていることがあります。それは普通の日本人ならよほど恵まれた環境下でないとできないだろうと思われるところです。

 

外国人のヴォイストレーナーについても、うまく効果が出ないのは、外国人にはあまり問題にならないところであるために、彼らも気づかないところだからです。彼らは、気づかなくともできているので、気づく必要もないのです。ブレスヴォイストレーニングの本質の部分です。

 

 

それはとても厳しいことなのですが、文化、生活にまで逆上っていきます。普通、どんな分野でも勉強していくのに、スタートラインは0、つまりニュートラルで入れます。ここからどこまでいけるか、たとえば3くらいまでいけば人前に出て、5ぐらいでプロとなって、10ぐらいになると天才といわれるとします。

 

ところが日本人の場合は残念なことながら、声に限ってはマイナスから出発しなければいけないのです。つまり、最大の秘訣というのは、声そのものを結局マイナスから0のところまで戻すことが基本のまえに必要なのです。

とりあえずニュートラルのところまでトレーニングするにも、2年間で足らないのです。そこまでにかなりの労力がさかれるのが、日本人の声です。声一つで国際的に通じるところまでにベースをもってきたのがブレスヴォイストレーニングです。

 

 

2-2真実の声を評価すること

 

歌のよしあしを決めるのに、離しいのは歌、メロディ、詞とそれぞれについて、裏実というのがあることです。声にも真実があります。

たとえば、日本の歌い手が声がないから歌もだめかというわけではありません。それを超える他の要素があるば、トータルとして一つの世界が築け、プロといわれるのです。

 

そのなかでも、日本人の場合は、声に対する評価がとても弱いということです。まともにプロとしての声をもち声を使えるヴォーカリストが少ないのです。再三述べたように、センスのよい人ほど、勝手に口先の方でつくって、なかなかこれに気づかないのです。そして声がないことに気づいてきても、人種が違うとか、自分は自分などと片づけてしまうのです。

 

マイナスの声でも、よい曲と、それにピッタリとあったような感性で歌い方のスタイルを確立したら、それなりのことはできるわけです。真実というのは全部が声にあるわけではありません。それを他の要素で捕えることもあります。しかし、それを知った上で、やはり私は声にこだわりたいのです。ヴォーカリストで各国の歴史に残っている人や天才といわれている人は、まずその声のなかに真実をきちんと出しているからです。声や声の使い方に魅力があってこそ、ヴォーカリストと思うからです。

 

もちろん、声の力などまったくなくても、顔の表情だけで3分間もつ人だっているわけです。

ただし、私のいいたいことは、そのよしあしよりも、そういう部分に関しては教えにくいし、学びにくいものだということです。先天的な要素も大きいために、トレーニングとしてうまくやっていけるような部分に思えないのです。確実にトレーニングできるところとして、声と体をベースにおくのです。

 

根本的に声をやらないといけないかというと、本当の歌と真実を出していこうとしたら声がベースであるべきだからです。それが、その人のヴォーカリストとしての可能性を最も大きく変えていく本質的なものだからです。

 

 

 

2-3 声の真実を評価すること

 

確かに歌でも詞でも日本にも、数多くの名曲が生まれているのは確かですが、やはり海外の一流といわれる一連の作品からみでも、レベルはおちてしまっているのは否めません。彼らは魅力的な声のなかで何回も何回もその曲をこなしていくなかで、さらに新しい曲をつくっているわけです。日常生活の豊かな声で、そのまま自分の思いをたくして、歌えるのです。

 

端的にいうと、日本というのは結局、形があってその形を整えたところに歌い手をもってきて歌わせるスタイルです。わかりやすく加工しないと、お客もわからないから、そうするのです。これなら、ヴォーカリストは誰でもよいわけです。アイドルの歌というのはまさにそうでしょう。スタッフが優秀で、かわいい子を人前に90分間、出して、いかにお金とって時間をもたせるかと考えられているのです。歌が使われているのですから、当然、その人がだめになったら次の人がくればよいわけです。これでは歌も人も本当に育ちません。

 

オペラの世界とか日本も昔はそうだったのでしょうが、一人の人間がいて、その人間のために歌を書き歌うのです。この人間というのは、こういう声をしている、こういう感情がある、そうしたら、そのために歌が生まれます。

本人が作詞作曲もやれば一番早いわけですが、あくまで、そのヴォーカリスト本意に考えていくのが、トレーニングにおいては本当は正しいはずです。

 

 

 

2-4 ひと声でわかるヴォーカリスト

 

ですから私の研究所では、ひと声を聞いたら、誰であるかがわかるヴォーカリストをめざすようにしています。共通のカリキュラムやメニューはなく、自分でつくっていきます。基準というのは、最終的にいうとその声ひと声聞いて誰だかわかるヴォーカリストになることです。というのも、一流のヴォーカリストはみんな、ぱっと出だしの1フレーズ聞けば、誰かわかります。その声は2つとありえません。そこには、声の魅力や声の音色ということと、歌い方のスタイルが含まれます。1曲のどこをとっても、テンションが欠けることはありません。

 

本来、ヴォーカリストにとっての最低限の、2つの条件が備わっている人は、残念ながら今の若い日本のヴォーカリストでは、ほとんど見当たらないのです。よく聞いてみたら区別ができても、ほとんど表面的なところで似ていて何を歌っても同じように聞こえます。もちろん、声以外に曲の創り方、詞の創り方にも問題はあります。総じて大曲ができなくなり、それを歌う力量のあるヴォーカリストもいらなくなったのです。それは、ヴォイストレーニングをやっていく人には、よい手本がないし、刺激されないことで不幸なことです。

 

 

 

2-5 声を出した歌になる

 

基本的には今の声そのものをより深く磨いていくことです。体のなかに正解があります。今までマイナスの発声で声を使っていた分を、正しく戻すことです。日本人でも、声そのものが育っているなかでマイナスの環境にあったと知り、それを0にするところまでがんばったら、あとは1、2、3と、順につくっていくという部分に入れます。

ここから必要とされる要素も声をマイナス10からにする間に学んでいくことです。声が自由になったときには歌えるのです。歌は、そんなに難しいものではありません。

 

 

 

2-6トレーニングの環境に留意し、出ている声で判断する

 

体の一部分が痛くなるなら、ほぐしましょう。特にのどのように病気(ポリープ、声帯結節など)に結びつくような場所はよくありません。頭が痛くなるとかめまいがするというのは、慣れによって解消することもあります。できるだけきれいな空気のなかで、トレーニングをやりましょう。道路のわきやスモッグのあるようなところでやるのは、よくありません。

 

体を使ったり、痛めたりすることをトレーニングだとは思わないことです。確かにトレーニングは、負荷を与えることによって身につくこともあります。ただ、それが快感になってきたり、いじめることで何かが身についていると思うようだったら、結果はよくはないし、意味がないでしょう。そこは少しスポーツとは違います。スポーツは、とにかく、くたくたになって死ぬ思いのことをずっと続けていったら、限界が破れ何かが身につきます。しかし、声の場合は違います。のどをつぶしたら、元も子もありません。

 

やはり出ている声で判断していくのが一番です。出ている声がよければよいのです。体が疲れない感じがしても、トレーニングになってないようでも、声で決めていく判断基準をもつことです。声に体を使うと体を使わないときより、1日を終えたという感じがします。何かやったという感じがしますが、それが何になっているかを厳しくチェックしましょう。

 

そのときはてに効果が出ない時期もあるし、わけがわからなくてやっている時期もあるでしょう。2年目に入ってきたら、当然、1年目より体が使えていますから、体を使うことはあたりまえになってきます。体がいくら使えても、世界中で一番、体が使えるヴォーカリストなどでは何の意味もないわけです。

歌っていて全身が痛くなるヴォーカリストとは何なのでしょう。勘違い以外の何者でもありません。世の中への出方はいろいろありますが、すべて結果オーライの世界です。声については声が出るということであればよいのです。

 

 

 

2-7時間をかける

 

レーニングは、目的を遂げるためにやるのですから、いくらやってもそれが結果として出てこなければ、やったことは認められません。完全な形として出せるところまでやらなくてはいけない、常に結果に出すことが問われる厳しい世界です。つまり、結果が出るところまで粘っていくしかないということです。そこは自分の直感とか本能的なもので判断していくしかありません。

 

声に関しても同じです。誰でも毎日、少しでも歌が完成していく方をとりたいと思うでしょう。そういう人は、今の声を深めるより、歌いやすい声を選んでしまいます。器用さとルックスで通じるなら、それもよいでしょう。必ずしも、声を得ていくことにかけた努力が報われるだけの市場が今の日本にあるとはいえないからです。口先で歌えることが早道かもしれないと思うのも仕方ありません。

 

しかし、歌には声という基本がある、基本なくして芸は成り立たないというのが、本当でしょう。自分のなかに、その真実をもってなければ、トレーニングなどやめればよいのです。私は、自分の得た真実を皆に押しつけようとは思っていません。他人のものでないもの、自分が望んで得たもの、それが真実だからです。

ただ、トレーニングや成果の出るプロセスには個人差があるので、時間を充分にかけて欲しいのです。そうすれば、それに必ずこたえてくれる世界だといっておきましょう。

 

 

2年で歌い手になりたいというのなら、カラオケの上級者コースや、歌い方を教えるのがうまい先生についた方がよいでしょう。ただ結局、本当のヴォーカリストは体がついていますから、そういう人たちのとなりにいくと一緒にやれなくなってしまうということです。同じ人間なのに一生、賭けてやっていくものが、それでは情けないでしょう。

 

これから日本がどう変わっていくかはわからないですが、本物が求められる時代になっていくような気がします。豊かになってきて若い人が何でもできるようになってきました。自由というのはワクがなくなるということですから、いろんなことが選べるようになるわけです。すると人間というのは不安になります。

それを引き受けなくてはなりません。出世や結婚というレールがひかれて安定して、とにかくそこにのっかったら死ぬまで一つの方向性がとれていた今までの日本という村社会は、それなりによかったのですが、もうくずれています。

 

自分で自分のワクをつくらなくてはならない、そのワクがその人の真実、誠です。

自由というと、いかにもよいもののようですが、今後、犯罪など、その悪い面も含めて、日本もアメリカみたいな世の中になっていくでしょう。

そうなったときに人間が聞きたい音楽というのは、上っ面の音楽(何も磨かれていない浅い生声での歌ということ)ではないと思います。今、音楽の市場を支えているのは、10代です。

 

しかし、日本も成熟していきます。そういうところを、これからヴォーカリストをめざす人にはどこかで感じてもらえたらと思います。早熟さ、早さを競う勝負ではないのです。結局は、本人が満足できるか、満足できないかというこだわりです。それを音楽にもち、それと同じくらい、ヴォーカリストなら声にもって欲しいのです。

 

あとは舞台で生きているということを、実感できればその人は、いつまでも歌うこと、そのためのトレーニングをやめないと思います。そこまでのものにしてトレーニングを楽しんでもらえたらうれしく思います。

 

 

 

2-8 体の理と柔軟性

 

発声も基本的に体を使うものですから、筋力とか肺活量も含めて、息を吐いたり、コントロールするのに力が必要です。さらに、それを力で出すのではなく、より、うまく働くように体の状態を保つことが必要です。柔軟性というのもその一つでしょう。スポーツの選手と同じで、発声も歌も力を入れる部分と抜く部分とのバランスのとり方が大切になってくるわけです。

 

レーニングでやったことが身について、無意識でしぜんにできるようになってはじめて、一つのことができます。体の使い方のコツというのはそういうものでしょう。柔軟性があれば楽によりよくでき、疲れが残らないということもあるでしょう。柔軟性があるから歌えるということではありませんが、うまく声を出すというのは、体の効率的な使い方からですから、かなり関係してくるはずです。

 

体を使うということに関しては、体操もよいでしょう。ラジオ体操は、日本人が農民としてがに股で、まっすぐに走れなかったので、軍隊として負けてしまうからと正式に取り入れられたものでした。今、私は声で外人に負けているなら、声のためのもっと新しい体操をと、考えているところです。

 

 

たとえば姿勢でも呼吸法でも正解はないのです。最初の教え方はありますが、3カ月、半年たったら、外見はあまり注意しません。本当にその人がものにしていったら、どんな形であれ、体のなかで働いているバランスの方が大切だからです。

大リーグのバッターでも、ホームラン王の王貞治さんも決して教科書どおりのフォームで打っているわけではないでしょう。ただ自分の体に特化するまで、トレーニングを課して、修正していくと、独自のものが正解になるのです。スポーツでさえそうですから、声や歌は、もっと一人ひとり違っていてあたりまえでしょう。

 

体の理から考えてみたらそこで働いている体のバランスや使い方というのは、最もよい声が出ているときに、正しいのです。

それは、神の創ったプログラムに近づいているからです。教科書のフォームより正しいものがあるのです。それは、その人にあっていればよいということで、誰かをまねてやってやればよいのではありません。

 

大リーグの選手や王さん、落合さんのフォームを、高校生がまねてもだめなのと同じです。その人のなかでバランスや声のタイミングがあっていたら、それはよい声として出てくるのです。すると、どんな姿勢をしていようが寝ころんでいようが座っていようが、関係なくなります。

 

ヴォーカリストも、どんな格好をしても歌えるのです。力がついてくると、見かけの姿勢などあまり関係ないのです。体から歌えているというのは、その人が自分のフォームをもっているということです。

歌というのは、時間で展開するのですから、反射神経とか運動神経も問われてきます。人前で一つの即興的な芸をやるわけです。さらに体とともに、頭の柔軟性みたいなものも問われます。

 

 

 

2-9 インパクトとリピート

 

聞いている人を感動させるために最も重要なことを述べましょう。いろんな要素がありますが、まずはインパクトです。これは、すぐれた芸術に対して共通することでしょう。とにかく何かの衝撃を与えないと始まりません。「芸術は爆発だ!(岡本太郎)」は至言です。

 

簡単なことでいえば、一瞬、大声で「わっ」といってもよいのです。それで相手は振り向きます。これがインパクトです。最近の日本人の歌に決定的に欠けているものです。それは、第一に声にインバクトがないからです。音楽の場合は、その後の時間を保たないといけないから、さらに大変です。それを何回も繰り返して、退屈にならず一つの心地よさになってきたら音楽として動き出すわけです。

 

「わっ」というのも、3回ぐらい続いたらみんなはあきるわけです。あの調子でいくのかとわかってしまうと見切られます。人を魅きつけ、長く足を止めさせるためには、どうすればよいでしょうか。大道芸人でもみていた方が勉強になるわけです。

まず、きちんとひきこむにはどうすればよいかを考えましょう。次にキープ、通り過ぎた人を振り返らせることはできても、その後すぐに見離されるものです。その足をとめるものが、あなたの価値です。みんな逃げていってしまうのはなぜなのかを知ることです。多くの場合は、次に期待されるものがないからです。それでは一枚ずつ抜いでいくストリッパーにも勝てません。

 

 

別に音楽に限らず、芸事でもみんなそうです。人を飽きさせないための場づくりや構成があります。バンドの見せ方から照明、衣装を含め、ヴィジュアル面での効果に負うことが多くなってきました。

そういうものでカバーできない街頭ライブは、ものすごくきびしいものです。本当にその人自身かやっていることに魅力があるかどうかが問われるからです。なければ本当にひまな人しかそこにとどまらないからです。

 

日本の劇場やライブは、お客を心理的に固定します。よくも悪くも終わるまで出られないセットのなかでやり、お客も大して表現など求めていません。日本では、ブーイングも起きません。街の体育館で歯にキヌをきせぬおじいちゃん、おばあちゃん相手にやる方が勉強になるでしょう。

 

発表会でも、振り向かせもしないで終わってしまうのは論外です。歌ったのに「いたの」とか「でてたの」と印象に残らない人も多いのです。そこで印象づけることが最初の原点です。とにかくまずは、1回は振り向かせなくてはいけないのです。それを音楽、歌、声といった音声で問えるところまでいく人は、ほとんどいません。

存在を示すこと、それが黙ってできるようになれば、存在感となります。それができるようになったら、それを自分の演奏中、持続させることを考えましょう。それがアーティストに必要なサービス精神、お客をもてなす心です。

 

 

 

2-10 自分の世界を現出する

 

でも、3分間、お客をもたせるだけ歌えていないと思うなら、1フレーズからスタートです。1フレーズで感動させて(少なくとも飽きさせずにつないで)はじめて次のフレーズがあります。本来、作品はお寄さんが飽きる前に終わらないといけないのです。客が望むから次を演じられるわけです。すべてが1曲でみえるヴォーカリストは、次にお客をよべません。

 

感動させることは、難しいことです。お客さんの質ではなく、関係があうのかどうかということも関わってきます。話一つでも、相手の精神状態によって受け方が違うわけです。

誰にどう受けるかというのは、アーティスト側の責任ではないのですが、一般的に芸事のレベルになっているかということは問われるべきでしょう。芸の形がそこにみえるか、みえないかということは、その人図でないとできない世界がそこに一つできているかどうかだと思います。一つの世界が、そこにその人が中心としてつくりだされているかどうかということです。

 

それができているなら、自分が思うままに助けばよいのです。時間がかかりますが、長く活動できます。そして、お客に合わせようと考えなくてもよいと思います。徹底的に自己を深め、その世界を深めていけば、いろんな人たちがそこにまきこまれていきます。

本当のことでいうと、声を宿すまでは、あんまり安易に歌わない方がよいのです。私は、声という本当の武器を得てから生きるものだからです。

 

 

 

3-1 日本のライブでは伸びない

 

2年間、トレーニングと歌をわけて専念してやるというのも、プロの活動をしている人にはとりあえず歌う場合の歌い方と、ここでやることは最初は、完全にわけた方がよいといっています。結果的に同じことだと思います。

と体を充分に使って歌おうとしても、最初は歌になりません。お客さんにひんしゅくをかうでしょう。リズムがのってこない、音程がフラットしたりこもってしまう。

 

それから音声イメージ、フレージング、すなわち音楽的なものが伝わらなくなります。これは声の真実ではなく、歌の真実の方が薄れてしまうからです。日本のお客さんの多くは声の真実など聞いていません。そうすると歌の真実が欠けた分だけ減点法でとられます。リズムや音程が狂ってへただと思われるのです。そうなるとカラオケで歌えるぐらいに歌っといた方がよいわけです。だから、ヴォーカリストが伸びないのは、結果は、前項の日本の環境と、日本のお客さんの問題が大きいのです。

 

日本人は自分が予測できないことが起こるのを嫌います。冒険、実験、新しいもの、理解できないものを楽しむのでなく、拒絶します。ステージというのは本来、ライブという以上、ハプニングを楽しむのです。しかし、そうでないところでやらないといけないというのが現状です。すべてがセットアップされ、音でなく出てくることに拍手の用意をしているお客、待っているのはミュージシャンでなく、タレントです。

 

普通の人があたりまえのように歌っていて、おもしろいはずがありません。お客さんのいるところでどう歌った方がよいかというまえに、人に聞かせつけようという歌い方もあるのです。そういうパワフルな表現をめざすと、すごい声だけど、歌はへたとなります。しかし、自ら信じるもののために、恐れないでください。

 

歴代のヴォーカリストも最初はそうだった人が多いのです。もしかすると日本の場合は拍手ではなく、降りてくれといわれるかもしれません。所詮、歌をBGM的に使おうという国で、インパクトより心地よさが求められるのです。しかし、音より見た目の華やかさをとるところで、やらないことです。迫力、パワー、情熱という表現の核心よりも、形だけこなれた聞き心地、耳あたりのよさしか求めないところでやらないことです。

少なくとも、ロックやジャズ、ポピュラーをやっていきたい人なら。

 

 

 

3-2自ら感じ、気づいたものしか身にならない

 

感性を高めることが必要ですが、それは自ら敏感になっていくしかないです。結局、感覚の世界ですから、理屈をつけてみてもしかたないのです。自分がやって気づいたことしか身になりません。やってない人がいくら聞いても、意味はわからないのです。意味はわからなくとも、くり返していると身に入って出てくるだろうと思って述べています。何か信じられるものが出てきたらよいのです。

 

こういう世界に長くいることによって敏感になっていく人と鈍感になっていく人がいます。当然、どんどん勘がよくならないと困ります。一つのことを通して、いろんなものを自分でみつけて、それを材料に自分をつくっていくのです。日々、敏感になってうてばひびくようになっていくには、努力が必要です。

 

ライブとか音楽というのはまさに時間との世界ですから、鈍感であったらどうしようもないのです。それこそ、崖っぷちに立った気持ちでやることです。死ぬような経験をしたときは敏感になります。感性は高まります。毎日、死ぬ気になってやれば、みえてくるもの、聞こえてくるものが違ってきます。

無防備になると、気づくことも多いと思います。

 

 

どんなことにも、とにかく自分で自分の答えを出していくことです。他の人がワクワクと聞いてみたくなることを体験してみることです。自分の狭い視野で、これまで見聞してきた世界だけに住んでしまっていませんか。そこは安定して居心地がよいがゆえに、あなたはだめになります。仕事に慣れてきてだめになるのと同じで、挑戦が必要です。違うものをやる、あるいは、同じものを違う感覚でやれば、そのときに刺激がくるのです。

長く続けることと身近な場を変えていくこととのよいところをとればよいのに、ただ転々として何にも身についていかない人も多いのです。目移りせずに、アーティックな生活を心がけるべきでしょう。

 

少々難しくても高望みをして難しいものわけのわからないものをたくさん聞いてみればよいと思います。自分は、まだ理解できなくても世界の人々が評価してきたもの、歴史に、20年、30年といわず、50年、100年と残っていたものに接することです。世の中は100年単位で残っているものもあるわけです。そこには必ず人間の心が入っています。それが、人をして語らしめ、残さしめてきたのです。音楽だけに限りません。

 

無理にでも接してみると、やはり変わってくると思います。そういうことに豊かな人とつきあってみることです。

人と違う体験をするというのはよいことです。どうせ体験するのであれば、高いレベルのものを高望みして、今の自分には似つかわしくないというものでも、無理に聞いてみてください。高い次元の自分を引き出していくのです。嫌いなら嫌いという答えを出していけばよいのです。自ら動き、試してみて、その判断を自分で知っていけばよいのです。

 

レーニングも、すべての人がプロのヴォーカリストになるというのではなく、歌は自分は向いていなかったとか、他の世界の方がこれだけ努力するならもっとすごいことができるとか、いろんな考える場とすればよいのです。ただ、何事も中途半端にやっているのとよくないのです。「習ったら何とかなるだろう」というのでは、何ともなりません。

しかし、声がよくなること、それだけでも人生に大きくプラスになるはずでしょう。

 

 

 

3-3 表現欲とパワー

 

上達は、高いレベルでの表現欲をその先にもてるか問われてきます。最初は、有名になりたい、歌が好き、人前で何かをやりたいというような理由で歌の世界に入ってくるわけです。動機は、何でもよいでしょう。そのなかで少しずつでも自分を高めたいという欲が多くでれば、高いところにいけます。本当に欲すると、その人のできるところまでの努力が伴ってしまうわけで、それが一つの性(サガ)とか菜とかだと思います。その国盟を強くもち、それが鬼になって声になって扱われていくまで待てるかどうかです。

 

私は、息づかいにその人が出ているかを見ます。生きてきた人生の集約が、歌となります。それを伝える呼吸というのは大切です。呼吸ができてくれば歌おうと思わなくとも歌になります。

それと一人の人間としての表現力の強さです。身につくには、パワーが必要です。表現したくて表現したくてたまらないとか、人前に出たくてたまらないというのでも構いません。

 

最初の段階では、自分の歌は聞かしつけるものです。お客さんの関心をひこうとうけを狙おうとか、売れようなどと考えると、だんだんアーティストらしくなくなってきます。感性や体が、うまく働かなくなります。一面で華やかな歌の世界ですが、闘い続ける強さは、もち続けることです。何よりも歌は、自分との闘いです。

 

こういう世界にでていくときは特に、どうしても相手に理解してもらいたければ、踏み込まないといけないです。まわりの人に、才能や技よりも志とパワーを伝えないと、道は開けません。これは、日本の風土のなかではあまり歓迎されないことです。だからインパクトがあり、人の心に踏み込めるような歌とか、音楽をつくっていくべきだと思います。こういうことがその人の輝きとして、音声のなかに出てくるかどうかでしょう。

 

 

 

3-4 音楽観とプロデュースカ

 

日本の人は、海外のアーティストに影響されて、向こうの人に近いことができたら一流だと思っているところがあります。そうするとヴォーカリストは、あまりにも不利です。ギターやピアノなどの楽器は同じものが手に入っても、体や声は向こうの人間ではないからです。

 

ヴォーカリストというのは、ことばや育った土に大きく影響されます。ですから、ことばも歌の条件も、声に関しても不利です。しかも、これまで述べたように、声をしっかりと使えるまでには、相応の期間がかかります。

そこでヴォーカリストであれば、自分を中心にバンドを先導できるぐらいのトータルプロデュースをする力や自分なりの音楽観がないといけないと思います。

 

プロデューサーがいて、まわりのスタッフが優秀で、アイドルみたいに、そこにおかれていればよいというのであれば別ですが、自らの歌をひっさげて出ていこうとしたら、何よりも自分自身のプロデュースカが必要になってきます。自分のヴォーカリストとしての価値をバンドに伝えてバンドを動かしていくのです。そして、自らの力で目の前のお客の心を動かしていくことです。昔から本当のヴォーカリストは皆そうやってきたはずです。

 

 

 

3-5 アーティスト精神とスタイル

 

雰囲気とかセンスとかいったものは、つけようと思ってつくものではありません。いくら、外側につけても仕方ありません。そういうことも、表現をしていくことのこだわりのなかに出てくると思うのです。やはりトータルとして、一つのステージができるには、その人の雰囲気なり人柄なり、いろんな要素が含まれてきます。そういったものを総合的にひとかたまりにして見せていくのですから。

 

普段からアーティスト精神をもって生きていなければ、当日にどんなによい衣装をつけても、衣装に当人が負けてしまいます。そういうバンドやヴォーカリストばかりになりました。

また、人を頼って、何かができると思ったり、組んでやろうなどと思っていては、よくないです。劇団ならみんな、もまれているうちに考えさせられ、まわりが助けてくれて、自分の役割もわかります。しかし、一人でやらなくてはいけないのです。ヴォーカリストなら、まず、どういう役割やスタイルがあっているかは、よいステージをたくさんみながら、そこに自分をあてはめて、つきつめていく勉強をやらなくてはなりません。

 

声できちんと伝えていくところは、音楽だけでなく歌のベースである体を使うもの、役者さんの舞台での表現方法も参考になります。歌で価値づけていくということは、声で見せるということです。

 

 

 

3-6自分自身のノウハウをつくる

 

わけがわからなくて、とにかく量をやっていくしかない時期もあります。私のところではあまり間違えないように、判断の基準や考え方をしっかりと伝えているつもりですが、一所懸命やると間違う方が正しいといえるかもしれません。間違う方が正しいというのは変な話ですけれど、人より早くたくさんやろうとしたら、間違えるものです。ときには、声を痛めることもあるでしょう。しかし、それを怖がっていたら何にもできなくなります。大事をとるということも焦っているときには無理でしょう。間違わないような育て方もあるでしょうが、どんどんと間違って気づいて正していくことが大切です。

 

やり方があると、信じるよりも短い期間にやるというのは、難しいことです。私のところでは、2年間で1クール、最短です。やれば、やはり間違うわけです。しかし、それ以上やったら、大体あってくるわけです。10倍やれば、人の2倍くらいになる、そういう世界です。

 

しかし、ただやればよいのではない、どうやるかです。そういう試みが、自分のなかでことばや表現となって捉えられてきます。身のまわりのすべてを材料として自分に取り入れます。

本当のアーティストは、まわりの人もモノも、おのずと巻き込む力をもつのです。テキストを正しく、ノウハウを学んでいくのではなくて、テキストをもとにこれが1割になるくらいに自分で考えて、自分のテキストをつくっていくことが学ぶことです。

 

日本の場合、歌だけうまい子どもみたいな人が多いですから、どうしてもプロデューサーが必要とされるわけですが、プロデューサーというのも、日本には声についてわかる、しっかりした人物がいないのですから、困ったものです。

まず自分の表現をしっかりとさせていくことです。若い人も、向こうでは大人の歌を大人のレベルで歌っているわけです。音楽に関しての大人の世界をつかんでいくようなことは、少しでも早くてよいのではないかという気がします。

 

 

 

3-7 継承と新しい表現

 

何を受け継いで、何を出していくかというのは、これも、とても難しいことです。今の日本だから、さらに難しいのです。イタリアにはカンツォーネナポリターナ、オペラがあり、アメリカにはゴスペルやジャズがあります。日本の場合は受け継いでいるかいないかわからないみたいなものしかありません。歌謡曲、演歌、民謡よりは、声明などの方に私は本当の声の世界を感じます。民族的なものを受け継いでいく方法は確かです。私たちの体に流れている血が、受け継がれているからです。

 

人や芸の育つ土壌があるところから、新しい時代の日本にあてはめていくことができたらと思います。

これに近いことを数のパワーでやっているのが劇団です。大勢の人数で一つの世界の雰囲気を出して、そこに個人をはめていますから、何となくやりやすい、つまり学びやすいわけです。一人の場面でも、すでにつくられている世界があるから、その雰囲気もだしやすいのです。ところがヴォーカリストは自分一人が全てである分、離しいです。

 

ですから、一つは受け継いだ形に対して自分の魂を入れていくこと。もう一つは逆に魂の方を受け継いで、そういうものが新しい形に開花するのを育てることです。これには、制限はありません。亡くなった人からでも、受け継げるものは無限にあります。何か昔のものでも、まったく違う国のものでも、自分が掘り起こせるものであればそういうものでよいでしょう。

ここでもいろんな試みをしていますが、昔のまま出すというのは違います。伝統や精神はくんでも、やはり今の時代を生きているわけですから、自分の手で革新しなくてはなりません。むしろ未来に対して打ち出す方向でやるべきだと思います。

 

 

 

3-8 自分の世界をつくるには

 

私の研究所でもいろんな歌をとりあげています。それは、歌い方を知るのでなくあくまで声や歌の材料として、どう自分でこなせるかを問い、そこで出せた作品から自分の世界を知っていくための習作として、です。ことばやメロディ、リズムからそういったもののうしろにあるものを学び、そこから自らの感性でフレーズとしてつくり出すことから、さらに学んでいく。同時に、民族とか時代、文化を学んでいくこともできるからです。

 

そういうものをたくさん、深く知っておくことです。どこか一つの国でもよいし、古いものでもよいから、一つのことを徹底的に知っていれば、自分の強みになります。今、流行している歌をそのまま歌っても、要はカラオケの人たちが知っていることの同じことをやることだけでは、まねにしかなりません。流行に遅れてのっているだけで逆に出ていけないのです。自分の武器にも個性にもならないからです。

 

確かに今、うけるのは、今という時代に合っているということなのです。しかし、あっているというのは、すでにつくられたものですから、古いのです。大切なのは、そのなかにある人の心を捉える要素や感覚であり、その表に出た歌や音ではありません。

次の時代へ感性を働かせ、新しい表現を試みることです。自分なりのことば、リズム感、スタイルをもつことが大切です。

 

 

ことばは特に大切です。自分のことばを伝えようと心から語れば、情感が出てきます。そうすると一つのフレーズとなり、その人独自の世界になってきます。

ヴォイストレーニングも、声で何を出していくかというのが、結局、問われるところであり、一番おもしろいところなのです。自分以外に誰もやらないことをやればよいわけです。

歌を表現するテクニックは教わって習得しようなどと考えない方がよいと思います。必要があれば、身についてきます。

 

好き嫌いだけの世界です。自分がそれを好きだといえるもの、それなら10年やりたい、20年やりたい、死ぬまでやりたいというものならよいのです。あるいはそれがあると、生きる支えになるとか、元気が出るとかいうのも前提でしょう。そういう世界をつくることを、人を元気にさせようとか人前に出ようとかいう前に考え励むべきです。

自分がそれに接していて自分が望むことに対して力が及ばないというのは、トレーニングすればよいのです。

そうではないのに、トレーニングもいやだとなると単に音楽の形がかっこよくてやっているだけということになります。音楽がかっこよいのでなく、やっている人がかっこよいのです。深めるか、あきらめるか、それだけのことでしょう。

 

時代と日本は考えないといけないと思います。好んで今の音楽業界のなかの歯車になる必要などないと思います。主動力になってください。もっと今を広げてみてもよいし、今みんなが生きている他の世界も、他の生き方をしている人たちを含めて考えてみましょう。むしろ3年後、5年後あるいは、今後どういうふうになっていくかを考えて、未来に対して問うていきましょう。それが若さというものでしょう。

 

 

 

3-9 いつから活動するか

 

誰でも一所懸命、生きています。どう生きろなんてアドバイスはできません。ただ、自分のなかに深める部分をもっておくとよいと思います。これは目に見えないものです。あなたのなかに何があって、何を深めていけばよいのか、それは人から与えられるものではなく、欲するものを深めていくしかないからです。人によって、その段階も違います。

 

今は何でもよいから真っ白にして、いろんなものをもう一度、ゼロから拾い集めてみるのが大切な時期の人もいます。ある程度、声も宿ってきたからそれをどういう形に出せばよいのかを、徹底的に考えていかなくてはいけない人もいます。歌をやろうとすると、なかなか音楽以外のものに関心がいかないのですが、最初は少しでも舞台で一人で芸をもって何かやっている人たちを見に行って刺激を得て学んでください。

 

そういう人たちの生き方に触れ何が価値なのか、人に与える価値をどのようにそこに出せているかを知り、それを自分に問いましょう自分のなかで、いくら価値が高まっている気がしても、それを人に出したときに価値になるかならないかのところで問わないとよくないです。

 

 

活動時期をどこからとるかは、難しい問題です。本当のことをいうと、出るだけ出ていってから足らないことに気づき、本質を極めるやり方がよいでしょう。アウトプットしている時期とインプットしている期というのは、どこかで一本になっていくのが一番よいのです。ただ、それだけのものが、時代や環境が求めていない平和ボケしたところでは、自分自身に闘いを呼び込まなければいけない分、大変です。それが、一体化になっているものが必要とされず、売れるための作品と深めるための作品を分けなくてはいけないからです。

 

また、アウトプットしつつ、インプットできるためには基本がないと同時にならないのです。基本がないままアウトプットしていると消耗していきます。どこかで充電期間としてインプットしないといけないです。

今の日本のアーティストのすぐれている人などには、やはりステージと充電期間をわけている人がたくさんいます。

 

アウトプットは、活動の必要経費と割り切っているのです。ある意味では商売、ある意味では売名的な意味で切り離し、自分たちのバンドの音を次につなげておかないといけないからです。しかし、自分の作品を本当に深めるステージとか舞台は、まったく別のところでもっていればよいでしょう。

私は、どんな人のステージや作品よりも自分のものがよいと思えるようになったとき、あるいは他人よりも自分自身から最も刺激を得られるようになったときに、世に問うべきだと思っています。

 

 

 

3-10 自分の客をつくる

 

研究所から出るとここで声でやっていたことが荒くなって、客受けする形をとるようになっていく人が多いのは、とても残念です。本当に客の心を捉えているのなら、よいのですが、芸のないのを裸で補うのと同じようで、歌に妥協していくのはみじめでもあります。反発する姿勢を失い、目のまえの客にこび、つなごうとするように、若くなくなれば終わりです。わかりやすくて人に受けることは、真実ではありません。

 

当然のことながら、自分が絶対的な価値をもっていて、客を変えるところまでやらなくてはいけないわけです。その結果、多くの客は離れていくかもしれません。そこで、客を変え、絶対的に自分のファンにしてしまう部分をもつことです。そのための、絶対的に強い武器が自分の個性、作品の世界です。

 

客に媚びて歌うのなら、何もあなたでなくて別のヴォーカリストでも構わなくなります。若くてルックスがよく、親しくできるタレントの方にお客さんは逃げてしまいます。そんなお客を相手にしていてもしかたないでしょう。

私のところでは、声や歌の真実が問えるところを大切にしています。お客さんの前まで問うまえに、多くのヴォーカリストの前で問うてもらっています。

ステージはステージとして、緊張感の上に心地よい部分をもたせないといけないのです。厳しい客の眼の前で、どこまで作品を高められるかを問う、その場があることに、最高の価値があるのです。

 

 

 

3-11直観と自信

 

これまでの話もまとめてみると、マイナスから0までのことをきちんとやっていくことと、後はなるだけシンプルに捉えていくということです。本物というのは、実にシンプルなものです。複雑と思ったら何かうさんくさいと思うことです。体が一つにまとまってくるのはよいですが、節々が痛むとか、声や歌が複雑になってきたら、どこかおかしなことをやっている、間違った方向に傾きすぎているのではないかと疑うことです。

正しいものは、まったく同じように(これが型、フォームというわけです)ピタッと一つに定まります。だから、自由に応用できるのです。

 

こういうバランス感覚というのは大切です。芸事で一所懸命やって、がんばっているのに芽が出ないというのは、視野が狭くなっていることが多いのです。そういう時期があってもよいと思うのですが、そうなったときにもう1回、形を壊してみる勇気を出すのです。がんばってきた人ほどこれまでやったことを捨てたくないから、どうしても自分がいままでやったことを守りたくなります。そのために、上達は止まり、おちていきます。たとえば声でも前にやっていたような体の感覚が欲しいとか、そうでないとしっくりしないとなってしまうのです。しかし、判断すべきは出された声によってでしょう。

 

だから2年目3年目とますます、一所懸命やらないといけないわけです。もっと一所懸命やっていたら、壊すのを恐れなくなります。1年目に一所懸命やっていて、2年目ぐらいで少し中だるみすると、前の感覚に戻るのです。もうそれは体が違うのですから、昨年の正解でも今年の間違いとなるのです。前の感覚でやろうとするのでは退歩です。

腕立て30回できついといっているときから、トレーニングして50回やってきつくなくなっても、30回目がこのぐらいきつい方が練習をやった気がすると、わざときつくしているみたいなもので、何の意味もないのです。そういうことをやっている人はいます。

 

 

それを逃れるためには、1年目やったことよりも、体だけでなく音声イメージや表現について、より大きなところから厳しい判断基準をもち、研究することです。せっかく30回できたのにすぐに、さぼってまたできなくなるようなことを繰り返している人は、猛省してください。本当に身についているものはいくら壊そうと、その最も大切なところは決して離れないのです。

マイナスを0にして、のどを開くことをきちんと覚えたら、後は一流の作品にたくさん接して、自分の直感を信じればよいのです。自分に自信をもつということです。私がいっていることよりも自分のやっていることを信じられるぐらいにならなくてはいけません。そこではじめて、トレーニングがその人のなかで完遂できると思います。他人を信じるより自分を信じるのはとても難しいことです。信じられるだけやったというものがないと信じられないからです。効果が出るだけの努力をしないから、効果が出ないだけです。そういうことでいうと、やはりできるまでやらないとしかたないのです。

 

私よりやって初めて、私より自分が信じられるようになります。すると、絶対によいヴォーカリストになれます。それが活かせるようになるでしょう。私は、より多くの人をみている経験と、長年つづけてきたところで磨いてきた感性で、アドバイスします。

ヴォーカリストでありながら、最終的に自分が信じられなかったらどうするのでしょう。アーティストでありながら自分がやっていることを信じられない、あるいは自分の将来に対して信じられなかったら続かないでしょう。人前に立ち続けられないでしょう。信じられる自分をつくっていくこととともに、それだけのことを自分に課していくことです。人の10倍やっていたら信じられるようになってくると思います。努力しないで身につく分野はありません。

他の人から何をいわれても、「でも自分はこれだけのことをやっているのだから違うのだ」「後で芽が出るのだ」「大器晩成なんだ」と思うことです。

 

もちろん、そういえるだけのものを聞いて、自分を突き放し客観的に判断する耳が必要です。

大切なことは、独りでしか学べません。力のない人がいくら集まっても何もできません。力のある人の、一人から多くを学び、力がないから群れたがる仲間と決別すべきです。どの時期、誰を選ぶかも才能です。

才能とか環境とかは、誰でもあるのです。ただ、力をつけるために甘ったれた仲間と離れ、孤独に創造を楽しめるかどうかです。

力がつくと孤独になります。それがいやなら、最初から趣味として楽しむことです。個人として、力のない人に他の人がいつまでもお金を払ってくれるほど、世の中は甘くありません。

 

 

とりあえず体で勝負できるところにもってくるのです。作詞や作曲の世界でいうと、メロディがつけられ、ことばで1曲をつくれる、それは難しいことではありません。その質を問わなければ、日本語が書けて辞典の使い方がわかれば誰でもできます。そのレベルがゼロです。そこまでいくのに、ヴォーカリストはマイナスからやるということなのです。作詞の世界や作曲の世界は0から歩めます。ヴォーカリストのところで0からスタートできる人は滅多にいないわけですから、日本であれば、0までいったら強いということです。

 

あたりまえのことをあたりまえに歌えて、自分の歌っている声がバンドを抜けて通ればうまいといわれる日本です。世界中探しても、これほど、声に貧しい国はないでしょう。大きなチャンスなのです。あたりまえのことはあたりまえにできてあたりまえです。ヴォーカリストが聴衆を感動させるというのはあたりまえの話で、ヴォーカリストになる人が感動させるとかさせないとかはそういうレベルで考えてはいないはずです。

日本がこれだけ遅れているから、あなたはゆっくりとやっても、しっかりとやっていけば認められると考えればよいと思います。

 

他の国だと、本当に大変です。ほとんどの人が今の年齢からやっても、どうにもならないはずです。隣のおじさんおばさんでも、それ以上、歌えるのですから。まさに、才能だけの世界といえます。

ということになれば、本当は、日本人でしかできないことを特化してやっていって欲しい気持ちがあります。向こうの影響を受けて、そこから入っていくのはよいのですがやはり5年、10年の長いスタンスで、歌を考え、日本語を大切にしてほしいと思います。歌と自分を愛し、信じるところからスタートしてみてください。

 

(特別レクチャーより 360213)