レッスン録1 913
【京都レッスン1】
【京都レッスン2】
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【京都レッスン1】
私は昔から考えたとおりでやっていて、基本的なことで大きく変わったことはあまりないのですが、ここ2~3年、日本人の声を改めて見直し始めています。
バンドブームの頃“たま”を聞いて、のど声でやっていく作品のつくり方もあると捉えました。そのときに初めて、のど声というのを、アーティストでいうと「たま」のような形で、その音色自体を日本の感性に基づかせていくやり方に気づいたからです。
クラッシックで「さよなら人類」を歌っても面白くも何ともないわけです。演歌と民謡の世界も学ぶとずいぶんと理解しやすくなりました。
◯男女の差
男女の差というのは、声の太さや強さでは、男性よりも女性の方がやや遅れています。特に日本人の女性の声は浅いです。
人によっては1年ぐらい遅れるかもしれません。たとえば半オクターブがきちんと統一するまででとるのも、人によって、かなり差があります。
男性の方がそれまでにそれほど無理せず地声を使って、声に関してはあまり制限を受けてきていません。
女性の方が高い声で話したり、声での説得力や表現力をもつことをまわりから嫌がられてそれをさけ、つくらされてきたという環境のせいです。
欧米の女性の声は、日本人より低く太いものです。ハスキーに使っていても、何のコンプレックスもありません。日本人でそういう声を出していたら、自分の声は悪いとほとんど女性は思ってしまうでしょう。
音楽やマスコミの業界に近づくほど、かわいい声を求められるのは困ったことです。それは主張のない声です。
どちらがよいとか悪いとかではなく、体の原理から反しているということで、私にはとても不自然で不快な声です。それは個のない声だからです。
インターナショナルな見地でも、外国人は「日本人の女性というのは何であんな子供みたいな声を出すのだ。何もいわず、考えずしっかり生きていないのではないか。これでよいと思っているだろうか」と、思っているわけです。ー確かに声も生き方の反映ですから、そういう生き方なのかもしれません。
しかし、これは女性ではなく、それを求める男性の方にも大いに問題があります。つまり、大人の女性を求めていないわけです。それはしっかり生きていない点では同じになります。
女性にはカリスマ的なヴォーカリストがいます。各国に女王というヴォーカリストはいても、王様といわれるヴォーカリストがいる国というのは少ないものです。
日本でも女王は美空ひばりといわれましたが、それに並ぶ王様は誰でしょう。森進一や北島三郎でしょうか。
歌をものにしていった人、感覚的な意味で全世界をみても声がでるとか、パワフルに歌えるという人はいます。ところがメルセデス・ソーサとかアマリア・ロドリゲスとかピアフやミルバとか、そういう形で身体に宿していく声から音の世界を、体内の展開からもってくるようなことができている人というのは、男性のなかでも少ないような気がします。それは多分、女性が巫女的な役割を果たしたことと無関係ではないでしょう。また、母胎というようなこともあるのでしょう。
女性はまじめにやるので、きちんとあるレベルまでは習得するということはいわれています。日本から世界にでていったプリマドンナは何人かいます。中丸三千檜さんなどは、世界的なコンクールで優勝しています。男性はそのレベルでいったらそんなにでていないですが、デノールは通用した人もいました。
それを一概に文化の差かというと、男性の場合、同じ能力があっても、日本では音楽に進まない可能性も多いからです。音大に入る男性は、かなり制限されています。小さいときの環境も日本の場合、ピアノとかで音楽を習っているのは女性の方が多くて男性の方が少ないでしょう。
メディアも同じです。同じ歌のレベルで歌えるとしたら、私がプロデューサーでも日本のお客には女性を使います。グラビアクイーンやレースクイーンはあっても、キングやジャックなどはありません。(ミスコンを批判するのでなく、ミスターコンをつくるのが筋です。)
女性のもつ華やかさをイベントにそえているものだからです。男性であれば同じぐらいに歌えたとしても出番はないでしょう。イメージが弱いのです。カラオケでさえ女性ならもってしまう場で、男性が歌ってしまうとしらけてしまうというのはあるわけです。
いまだ、決定権をもつのは、男性が多いのは確かですが。男性のヴォーカリストは、かなりかっこよいかうまくないとよくないです。女性の場合ちょっとうまければよくみえるというようなことはあります。歌の魅力がルックスやスタイルでおきかえられます。
声も、1オクターブ高いから、声量がそれほどなくても抜けやすいし聞こえやすいためです。同じものを男性が歌って、特に日本人ののど声であればことばがはっきりしません。そういう意味ではハンディキャップはあります。
もともと男性が音楽をやるというのは、人並みはずれてできてないと認められにくいものです。男性のほうが一人で競争社会でやっていき、女性の方は男性がもり立てていく力が働くというように、いろいろ社会的な要因があるようです。これはどこの国でも同じです。同じ素人であれば女性の方が使いやすいのです。ステージも接客業です。これは他のものでもそうでしょう。コンパニオンとかナレーターとかアナウンサーの世界でも同じです。
○身体的欠陥も個性、音声はみるものでなく聞くものだ
歯並びが悪いとか、舌が短い、あごの形がおかしいといった身体的な障害ということではない程度には、いろんなマイナス面をそれぞれがもっています。体のことも精神的なものも含めて、それ自体のよしあしはありません。
躁鬱、拒食症、自閉症、自律神経失調なども経験して、それを含めて自分をとらえるかであり、その自分に対して音楽をどうやっていくということです。ステージに表れるのは、音楽なのですから。
声楽家であれば声帯が損なわれていると致命的です。声楽家の道はあきらめないといけません。スポーツ選手でいうと腕がないのは大きなハンディキャップです。健康な体を磨きあげたところで問われてきたからです。ただ、パラがあります。
ポップスの場合は、全てありでトータルで判断されます。自分の体が他の人と違っていたら、違っていることを汲み上げていけばよいでしょう。もしかすると人より努力しないといけない部分も必要となるでしょう。しかし、逆にその欠点が味になったりオリジナリティにもなるのです。
声も同じです。他の人と違うから難しいと考えるか、他の人と違うからそれをつきつめていけば、もっと有利になるもの、すなわち自分がでてくると考えるかなのです。
ポップスの場合は違うものをきちんと伸ばしていくというのが基本の考え方です。これには誰よりも自分の心と体と付きあうしかないです。
直したらよければ直せばよいが、それが直らないということであれば、その条件を踏まえていくことです。歯並びは矯正ができるというように、改良の方法があれば、試みてみるとよいでしょう。
それがもう直らないとか、変わらないということであれば、その現実を受け入れて、他により武器となるものを汲み上げていくのです。
他の人より医学的な勉強をしたり、整体とかマッサージとかそういう分野もやらないといけないかもしれません。何が必要になってくるかはわかりません。しかし、それがチャンスなのです。場合に応じて対処していくことです。
痛みがくるのは困ります。悪いイメージが加わるからです。
しかし、病を抱えて、ステージをやってきた人はいくらでもいます。不治の病の人も生きることよりステージを選んだ人も。
すぐに腰が痛くなるというようなものは、スポーツ選手と同じで治療していかないといけません。人並み以上の活動をするには、人並み以上のことをやるわけですから、どこかに人に知れない痛みというのはくるのです。
スポーツ選手も同じです。こわして注射をうちながらやっている人もいます。
しかし、それは全部受け入れたときに、どうやれば一番自分のベストがでるかということと、長く続けられるかということと考えることです。その場しのぎでやって、こわれてしまったらよくありません。
スポーツ選手とかは短期で勝負するものです。5年、10年と待っていたらなんとかなるとはならないからです。
しかし、アーティストはもう少し長期でみていけるはずです。
○感じ方について
背中や頭とかに関しては、ひびきの感じ方で、その人にまかせるしかないです。
声楽でもいろんな先生がいろんなイメージで教えています。
ここのヴォイストレーニングのなかで、細かく述べていないのは、そのイメージ、たとえば声をあてるという感覚そのものも人によっては違ってくるものだからです。
声をだしているというときの感覚自体も違ってきます。
体が違うだけでなく感じ方も違うからです。
声楽家とか一流のことを成しえた人たちが、普通の人は感じなくとも、みんながそういっているということは、何となく正しいのだと、先入観をもってそう感じるようにしていくからそう感じるのです。
そうではない人もいるかもしれないのに、こうでなければいけないといわれるからです。
本当は自分の身をもって確かめていくしかありません。
そうでない人のは、まねごとですから、伝わりません。
参考になるのは本能的な直観です。
人間の体は、実際にどう動くのかということは、スポーツで人並み以上の力をだしたことの経験などがあれば、どんなスポーツでも共通ことから、芸事でも、歌でもそうなのではないかというふうに仮説をたて確認していくのです。それを助けるのが、第三者として適切な判断を与える人の存在です。
ことばではなく存在なのです。そこから読みとるのです。
歌というのは試合で舞台ですから、そればかり何回もやっていたらうまくなるわけではありません。それは、基本の力があってはじめて、経験がものをいうことで、ただ応用しているうちに直るものではないのです。
プロ野球で強打者でも試合ばかりやっているのではありません。
そういう人たちは基本のキープと補強の部分で絶え間なくトレーニングしています。
トレーニングというのは部分です。部分ということは、いろんな部分があるわけです。いろんなイメージもあるわけです。
腕立てする、腹筋する、ランニングする、柔軟体操する。そういうのも部分強化のためのトレーニングです。
腕立てしたから打てるわけではない。今、打てるわけではないが、将来的に打つときに何かが統合されて、より大きく働くようになるためにやります。そのためには、打つことばかりやっているのでなく腕の力をつけるでしょう。
トレーニングと実際の発表の場である歌というのは違います。イメージに関しても、トレーニングに関しても、たくさんの種類のものがあり、その材料から組み立てたものがメニューとなるのです。
要はその人が組み立てる能力がなければなりません。
トレーナーというのは、それを客観的にみて、メニュを組立てたり、修正する人です。
歌の場合というのはその組立そのものも、自分が歌いたい世界がはっきりしていないとわかりません。やりたいようにやれなくて、はじめて何がたらないのかというのがわかるのです。
そこのところまでいかないと、結局トレーナーもメニューさえ組めないということです。
そこで最初は一般的なメニューを使うのです。これはどこの世界でも同じです。
つまり、それを使っているうちは初心者なのです。
一本足打法を開発して打ち立てるとしたら、それに相当する独自のメニューというのは、当然でてくるわけです。こういう特殊なメニューで、他の人と同じことでない方がよいなど、独自の方法論ができてきます。
メニュー、トレーニングこそ、考えて、独自につくりだすものなのです。
○あてるということ
「あたっている」という感覚を声楽では、「ここにあてなさい」とか「ここに集めなさい」と部分的に指示します。できた人からいえても、初心者にはそういうことはわからないのです。
できた人が調整するときにはそれでよいのですが、できない人ができない期間にそういうことができるかというと、それがわからないから、同じことができないわけです。
一方、できている人も同じイメージでいつもやっているかというと、必ずしもそうでありません。そのときによってあたるところが違ってくる場合もあるわけです。むしろ、その声の使い方とか表現によってあたっている感覚が違ってくると思った方がよいです。
ところがマニュアルとか練習というのは、どうしてもことばで固定してしまうのです。
一度覚えたことばで決めつけてしまう。
ここにあたっている方がよいと先生にいわれたら、ここにあたっているのが正しいのだと、実はここにあたってなくてもここにあたっているのだという、思いこみですすんでいくのです。
だから、多くの人はうまく伸びなくなるのです。
難しいことは誰でも、確かに教わって習得していくわけですが、そういうメニューしか使われていないとしたら、それが本当に正しいのか、もっともよいものがあるのかというのは誰にもわからないということです。
自分で感じて取り入れていくしかないということです。
特にポップスの場合はなおさらそうでしょう。
先にやった人と同じことをやらないようにするわけですから、いろんな考え方、流派がでてくるのでしょう。
〇ことばの限界
たとえば、呼吸は、鼻から吸い口からだすと教えられたら、そうなります。
でも実際に全て鼻から吸っているのかといったら、鼻がつまって歌っている人もいるのです。
だからといって口から吸う練習をしてきたのではありません。日頃からしぜんに吸ってもいるわけです。
ただ、トレーニングということになれば、やや過度に使うのだから、健康上、鼻から吸うことを心がける。
トレーニングは、何回も意識的にやるので、そのときに、のどが乾いたり異物(汚れ)が入ると困るから、そのようにやっておくのです。
よく「鼻から吸うのですか、口から吸うのですか」と聞かれます。教えられた人は鼻から吸っていると思っているし、そう聞かれたら、そう教えるしかないのです。実際は口からも入るけど、吸っているのではないということです。☆
ことばを使った時点で、ことばというのは区別していきますから、たとえば7:3でそういうふうに使われていたとしても、その人が鼻から吸っていると思ったら、鼻から吸っているになってしまうのです。
先生の教えがそうなっていたら、仮にその先生がそうやっていなくても、そのことばだけが歩んでいってしまうのです。
また、トレーニングとなれば変わってくることもあるのです。腹式と胸式を分けて教えているなどの例も、同じことです。本当は区別できるものではないのです。
だからといって間違いではないわけです。
それはことばの限界なのです。だから体で覚えていくのです。
一流のものをみたり、そこで感じたところで受け止め、体に促すことです。
ことばで限定してしまうとよくないです。
トレーナーが難しいのは、lそこなのです。どんなにできる人が教えても、教え方が離しいのは、結局、本人が自ら気づいたことしか、その人のものにならないからです。
ことばで全部伝えて、全部受け取ってできるのなら、これを読んでいればよいのです。
そこでトレーナーは決めつけて教えるのではなく、気づかせて材料を与え、本人が判断できるようにまつというように気の遠くなることにしているのです。
お腹とか背中の使い方も、その人のイメージだと思います。ヴォイストレーニングによっては、「のどの使い方を変えなさい」とか、「のどをこういうふうに使いなさい」という人もいます。
ただ、一般的にそれは日本人にとったら、そうしがちなことなのです。
のどの使い方を意識して練習していくまえに、順番からいうと感覚と体をステップアップすることです。
外国人のトレーナーが日本人にそういう教え方をして、失敗しているのもよくわかります。
外国人同士では伝わることが、日本人に伝わっていないことは、それを実際に克服してきた我々の方がわかるわけです。日本人では、もともと、のど声でやっていたからです。
幼い頃から、音楽親しんでいた人は、音がはずれる人をチェックはできても、どう直すかはわからないものです。学ぶためには、一流の人よりも一流の人から学んで成果を得てきた人に聞くことです。もっとも学んでいるのが、一流の人ともいえますが、その方がよいです。プロの野球の監督をみてもわかります。
ことばで説明するのはことばで教えるためでなく、多くの人が学んでいくのに、一つひとつ、イメージをことばとして認識していくのですが、そこでは、ことばで間違うことも多いです。そのために、ことばを捨てさせることも必要です。つまり、ことばは受けつぐのでなく、自分が発見しつくり出し、そして、実感しながら使わなくてはいけないのです。
男女の差に関しては、女性の方がわっと声がでてこないとか、パワフルででてこないとかというのは、これは日本人の声しか聞いていないからです。外国いったらそんなことはまったくありません。男性以上に女性の方が体が小さくても、すごい声をだしています。実際に聞いてみてください。
男女差というのはあまりないはずです。もしあるとしたら体が違うということは、男女の役割が違いますから、それぞれのメリット、デメリットがあります。女性の方がコントロールするのに大変な人もいます。男性は同じような波があってもあまり意識していない人が多いようです。しかし、自分の体に注意深くなれる方がよいといえます。
自分を知っているというのは何分にもよいことです。体が弱いとかうまくいかないというのは、そういうことに気づく要因になります。のどの弱い人の方が悩み、高い技術を得ることも少なくありません。時間がかかっても、人より大きな壁を超えると得たものはすばらしいものとなります。スポーツをやっていたらバイオリズムみたいなものも調子もなんとなくわかってきます。それ以外はあんまり考えない方がよいと思います。
腹式呼吸、胸部共鳴をあまり使っていない女性の場合に少しハンディキャップがあるということです。楽器としては実際男性の方が大きいし、肺活量もありますから、数倍の歌が歌えてよいはずなのに、スポーツと違い歌は5分5分です。神様がつくられたとしかいいようがないぐらいコーラスやデュエットでも、互角でしょう。パパロッティのような声量がなくても彼と5分にわたれるわけです。ポップスの分野になってきたら、マイクがあり、声量だけの勝負ではなくなってくるからです。歌のなかでは気迫とかテンションの高め方に男女という差はないと思います。スポーツでは、体重が重い方が有利なら、体重別クラスになります。
ことばの上に音をのせていくようにして、声楽の条件をくずしています。劇団に教えにくる声楽の先生には、10年、20年もやっている人がたくさんいるわけです。日本に限っていうとそういう人たちの話している声とか、セリフの声よりも、そこで入って劇団員として2年3年本舞台をやっている人たちの方が太く大きくひびくようです。
声があっても、歌かがうまいのとは違いますが歌がうまいなら、声がもっとあった方がよいから、声が出る人は歌もうまくなりやすいのは確かです。何も高い音をきれいにひびかせるような技術が獲得できなくても、逆にそういうものを獲得しようとして普通の舞台の声が弱くなってしまうようにいわれているのは、声楽家がよくないのでなく、その人が未熟なだけです。
のどがかわくというのは、私もたくさん話すときは水分をとることもありますが、あまり勧めません。若いときに何かに頼っていくというのは、それが常習になってしまうからです。飲んだら楽でも今度はのどがかわきやすくなりそれを飲んで状態を整えるということがあたりまえになります。何事も頼ることはよいことではないのです。
実際飲めないときや場というのはでてきます。やはり、自分の唾液がきちんと分泌するようにしておくことです。たとえばウーロン茶は水分を奪ってしまうと、避ける人は多い。
しかし他のものも外から水分を与えるということは、のどのしぜんな水分をとってしまうわけです。人間の体の機能を一番高めたところに歌が成り立っているとしたら、唾液の方がよいはずです。水を飲んでしめらせるよりも、人間の体の元にあるものの方がよいのです。そう思ってなるだけ頼らない方がよいと思います。
トローチを使うのもそれに体がならされてしまいます。今度は逆にそれを常用しないと、のどが保てなくなってしまうとハンディになります。特にポップスの場合はいろんな状態で歌わないといけないものです。もちろん悪い条件で、のどがどうしても痛むとか荒れているときなどは別です。
高音になるとひらべったくなるというのは、これは初心者にはあたりまえです。普通の発声というのは上で、がなっていったり、たくさんだせばだすほど外に広がっていきます。特に日本人の発声というのはもともと浅いですから早く広がっていくわけです。それは体で支えようがありません。中間音ぐらいで芯がとれていると、高音というのはこの芯を縦にしてまとめるような感覚なのです。私は縦の線といっています。体のなかにあるものが外にでてくる出方の違いです。
私は“歌”という特殊な分野での声のよさや発声コントロールの確からしさよりも、日常での人を動かす力、表現力の高まった歌として歌をみています。
「わぁー」とやれば歌だという感覚は荒すぎます。声の芯をしっかり捉えたものが、しぜんと最高の形をとり、ひびきそれが、音楽性(音楽的感性)に裏づけられたら歌となります。1音ずつ上にあがるのに体と感覚をより集中して使わないといけません。上の方のひびきを使うと、きちんとまとまってくるので、クラシックでもみんながそういうイメージを思い浮かべるというのは、一理あります。より効率よく音か2音を出しそこで力がつくために、それだけ体を使わないといけません。それをそれだけ使わないでできるようになり、その力で次の音にできるようになるので待ちます。
学び方というのは、今できていることを少しずつ応用していく。そうしたらそのことによって次の音がどのぐらいにできるかがわかる。そこで力がつくと効率化して余力を他のところに使えるというような形で高めていくわけです。
1つできることを元にそこによりいろんなことを入れていくという形です。そのときに最初の条件がくずれるなら、基本の乱れであり、やり直しです。
声が平べったくなるのは、深くなるまで待つしかないのです。平たいのは荒っぽいまま、力でもっていくだけで、絞り込んで使えていないからです。そのことを知って直そうとするのは、イメージです。
その延長上に声ができてくると知ったら、今の10倍も20倍も力がないと2、3音先もできないというのでは、よくないことがわかります。
平べったくなっているのを深く縦の線にして、もっと効率的に使えば、今の力でもう3音ぐらいまで楽に扱えるのです。体がついてきたら、それで半オクターブいけるのです。のどが邪魔するのをさけられるからです。
声が前にでていないというのも、体を使おうとムリをしたら、当然前にでないのです。体が一番理想的に使えているのは、無意識の状態です。そこで集中します。
たとえば弾き語りでギターの演奏をやりながら歌っていたら、歌もギターもバラバラになるという人がいます。歌えないのは、ギターが無意識にできるほどうまく弾けないからです。
それから声も無意識に歌えるほど、きちんと体に入っていないから、バラバラになるわけです。
それはステージでの問題ではなくて、それぞれにそれだけの条件ができていないのです。本来であったら人前にでてはいけないというだけです。無意識にできるところまで、そのことをやっておかないといけないのです。
ステージで声の通り道をイメージして歌っている人なんていないでしょう。
それは試合、本番だからです。
まったく意識しないでやっていたときに、通り道ができているという形に結果としてなっていなければいけないのです。
声帯にも限界があります。これは楽器である以上、ピアノでもトランペットと同じです。そこまで鍛えられるし、使い方にもいろんな方法があるということです。
中途半端に使ってきた声でここにくるまで2オクターブで歌っていたのに、トレーニングした結果、1オクターブしか歌えなくなってよいのです。問題は、本当に歌えているか、どうかです。
2オクターブで歌えていたのが何で3オクターブにならないのかといっても、その2オクターブというのが表現できるレベルになければ、半オクターブでも確実なものになっていた方があとに可能性がある分、ましなのです。音が聞けないから、音域でしか判断できないのです。
体にも限界があります。歌はまとめるな、声もなるだけだしていくようにといっているのは、人間の体の限界になったらまとまってくるからです。そこまでやるかどうかです。その働きに任せればよいのです。
スポーツと同じように、とにかく体一つにつかまえているという感覚をきちんととるということ。つかまえているから放せます。体で動くということは、歌であれば心も動かないとよくないです。
心が体を動かします。その両方が動いて、そのギリギリのところででてくるもの、それが歌になるべきベースのところです。だから感情、ことばというのを思い切りだすことです。それから音の世界、イメージの世界というのもあります。
これらが最初はバラバラです。これを体を本当に使ったら、思いっきり使って前にいこうとしたら、そうしたらギリギリで指抗する点というのがあるわけです。そこにでてきたものがはじめてことばをともなった歌になる条件をもっているということです。
ほとんどの人は、発声しても体が動かないのです。全身が動かないわけです。だからフレーズを耳でコピーして歌ってみても、本当の意味では歌になっていないのです。
一番大切なことは全身が働いている感覚です。全身が動くためには心が動いていないといけないし、その上に音楽をのせていかないといけないということです。それがとても難しいわけです。
だから2通りの取り組み方をお勧めします。とにかく馬鹿みたいに体に繰り返し、叩き込んで、無意識で声がどの道を通っていようと、とにかく体が動くように声がでるようにならしていくということ。全身がしぜんに動くということが難しいのは、踊りをみたらわかります。
ミュージカルをやるにも、誰でも3日間やれば形だけの振り付けくらいできるわけです。でもプロの人がみたら何て下手なのだ、形にもなっていないということになります。みんなは形ができているとそのつもりになっても、要は体が正しく動いていないわけです。形だけが動いているわけで、映像でみると自分の無様さにあきれます。実が形をとるのにそれがないのです。
声でも同じです。そこになるまでは練り込まないといけないということです。
それでは「ハイ」だけでまわしてみましょう。
このとき、自分の抱く音声のイメージが声として出せるかどうかです。
それができるためには、どう準備してやっていかないといけないかということが体の条件です。
あまり重くイメージを浮かべると変になってしまいます。変になるというのもおかしいわけです。そういう意味でとにかく前に出さないといけないということです。
多くの人はイメージのところで迷っています。これは一流の作品を聞いて、感覚から体で正すしかないのです。
〇レッスン以前
何で受け身になるのかわからないのですが、レッスン以前の問題です。まったく真剣味が違います。誰かがやれといったからとか怒られたからやるのではなくて、誰のためにやっているのか考えてください。
いつも同じで、レッスンをやってそれで1ヶ月たつと全部忘れています。そのままでずっと1年間だからレッスンがレベルアップしないのです。
全体の責任ではありません。やっている人はやっているし、だしている人はだしているし、考えている人は考えている。まわりがやるからやっている人もいます。結局、残っていく人はまわりがやめてもやっている人だけです。これは習だけではなくて、そういったことに関する姿勢で問われます。
毎日トレーニングのこと、音楽のこと、歌のことを考えないで、月に何回か研究所に接しても伸びていかないのはあたりまえです。トレーニングですから毎日毎日そのことを考えてやっているのがあたりまえで、それはいうまでもないことです。その上にいろんな問題がでてくるのです。
前任のトレーナーはここに6年間いたのですが、初回のレッスンのときから必ずレッスンにくるまえに、3時間の発声を自分でやっていました。その毎日の姿勢、心構えが6年間変わらなかったのです。そこでどのぐらいの差になるでしょうか。半年でも、大きな差になるわけです。それは気迫なりその人の表情でもわかってきます。1年半ぐらいは誰でも学べるのです。しかし、せっかく何かものになってくるところで鈍くなってくる人が多いのは、志がないからでしょう。ここにも5、6年以上いる人もでてきました。年月でなく、ここで、この外で何をなしたかです。
素質も大切ですが、努力も含めて才能を伸ばすことです。
体とトレーニングにおっていることは、他の人の10倍やれば10倍伸びるとまではいわないのですが、少なくとも2倍か3倍にはなっていくのです。
ただ、人によっては苦手であったり、スタートラインでの差があり、それを克服するのに2年も4年もかかる場合もあります。しかし、正しくやっていくと落ちることはないのです。
バランスがくずれると完成されたものができないです。
一時、試合がある方が下手になるということはあります。基本的なところの力をつけることが先です。
メニューも、研究所の与えているものもあなたも主体的に生かそうという取り組みをしていかないと、何にもなりません。歌も声もできてこないのです。
全体的にいえるのは、体がまったく死んで、心も死んでいる、動いてない。それなりの準備が必要です。自分で目的を立て、それをクリアしていかなければいけません。
「2年目からは1レッスンで30も50もメニューがひらめく。練習よりもそれをかきとめるのが大変だと」と先のトレーナーがいっていました。
それを書きとめて、次の1週間、1ヶ月いろいろ試してみるわけです。それだけ時間の密度とか空間の密度というのを自分で感じて、続けていかなければ元より悪くなります。
入ったばかりというのは、やる気みちていますから、ここでやってやろうという気迫があるのですが、その初心を持ち続けないといけません。同じくらいに持ち続ける度合いでは足らなくて、息とか体が鍛えられてきたら、それを使い切るだけの強い意志が必要になってくるのです。入ったときよりもやる気にみちていなければおかしいのです。
プロダクションの人たちのモチベートややる気に負けていたら、毎回きていることさえ、よくなくなってしまいます。これは本当に気をつけないといけないことです。
ここにきて1日たったらトレーニングで何か身についているだろうと思っても、そんなに早く何も身につかないものです。量をやるのはあたりまえ、それがわからないから、レッスンだけでやっているつもりになるのです。
知らないうちに身につくというようなことですから、休まずやらないといけません。
きたときに自分がどれだけやってきたかを確認し、確認を続けないといけません。
起きたてで来て、体も動かないうちにレッスンがおわってしまうのではレッスンになっていないのです。1番やっている人もさることながら、質によって差がついているのです。
そういう人を目標にして、それ以上やることを考えましょう。
あなたの意志、経験、自信、これまでの生き方全てが問われていくのです。
でも、こんなにおもしろいことはありません。
これは体と声のことだけではありません。音楽を1つ聞くのも同じです。
音楽を聞く耳をもって全神経集中させて、それで全身で受けとめて、一段階です。
最初は、それだけでもうぐったりとなるはずです。
どれほど大変なことかわかれば曲を聞いても疲れるのです。それを今度は自分の体で取り出さないといけないのですから、もっと大変なことです。
そこまでのことをしたらトレーニングは間違いがないのです。
間違うのは自分への甘さからですが、何が甘いのかを知るためにレッスンがあるのです。
思いっきり自分の体から1つのものを1つにきちんととらえて、1つのものを前に出そうとしたら、どこかでつっかかります。そうでなければ一流の作品として出ているはずです。
そのつっかかるところが課題なのです。
それはつっかかってもよいというより、つっかかるから、課題となるのです。つっかかっていないのは、一流に足るテンションと、そこまでの動きのなかでそのことを目一杯やっていないということです。
エネルギーを最大にして、つっかかりを突愛すべきです。
つっかからないようにセーブして歌にまとめていくからいい加減になるのです。
自分の歌のレベルがわからないから上達しない多くの人はこういうタイプです。
ここは素振りをやるところだとはいったのですが、ただ振って素振りをやっているつもりでいるのではなんともなりません。1回1回、思いっきり精魂こめて振って、その感触を自分に得ていかないといけません。思いっきり振ってみたら、どこかおかしいというのは本能的にわかってくるわけです。
次にどこがおかしいかがわかります。
トレーナーのアドバイスは、参考意見です。いろんなイメージがあり、ことばを使えば、そのことばを使ったところで間違えてしまいます。自分で判断していくのが大切です。自分が表現したいということを煮詰めて、それに体をぶつけ動きをとっていったときに、足が動かなかったとか、手が違う方にいったとかいうようなことからわかってくるからです。
必死になっている感覚のところから、どうしてもずれてしまうところを正していきます。
同じように音楽のなかでも歌えたとしても、何か違うということを、自分のなかでフィードバックします。とにかく音楽を宿らせないといけないのです。
もともと音楽宿っている人がとても少ないのです。まして、それを自分のイメージに忠実にとり出せる人はもっと少ないのです。作品にならないのは、まず入っているものが出てこないことです。
それは本当に一瞬のことでわかります。
その密度をきちんとつかんでいないといけません。そして、そこに自分の表現を入れていくことです。
日本の場合は歌い手でも現役で最後までやっていく人は少ないわけです。現役でもやっていける人というのは、ステージが生き場所=死に場所になっている。
音楽はステージですから、ステージの場の自分と日常の自分というのは、当初、違うわけです。
現役で一生やるということは、日常がむしろそれに近くなってくるわけです。そういう密度とか感覚で生きるようになってくればトレーニングも呼吸のように自然になってくるわけです。
ただ、社会生活というのは、必ずしも芸術的な活動と直結していません。
だから自分でその空間とか時間を大切にしないといけません。そのためにここもあります。
歌に接するときに単に自分が気持ちよく歌うのだったら、そのへんのカラオケで歌って元気になって仕事をやっているサラリーマンと同じでしょう。歌えれば歌手といったら皆、歌手なわけです。こういうところにレッスンをしにきているのは、それ以上の表現を追求するためでしょう。
その時間を本当に大切にして生きていたら、そのことが、ことばの端々とか顔とかと同じようにフレーズとか息1つ吐く中でも表れてくるわけです。ところがそういうものをまったく意識していないと何一つ、ものにはできないでしょう。それでは、半年ごとに発表会やコンクールがあるようなところでやっている人やバンドをやっている人たちにも負けてしまうわけです。
そういう人は、勢いとパワーだけでやっているので、すぐにつづかなくなります。
それは環境が悪いということではありません。本人の自覚が必要なのです。
本当に指先まで音を感じられるような神経を張りめぐらして、そのことにすぐに対応できるような体をもとうとしたときに、欠けている条件はヴォイストレーニング以前になくて、そこでのイメージや感覚、それを支える密度と気迫などです。それを得ていくことです。
あまりに多くて、いくらことばでいってみても伝えられません。何回も違うことばでいわないとわからないものですし、それ以前の人にはどんなにいってもわからないから、トレーニングが成り立たないのでしょう。
そういうときは、ただひたすら、トレーニングに没頭してください。
自分で判断できることはたくさんあります。今、出せる声のなかではこれが一番正しいだろうということ、多分この声を使っていたら将来的に正しい声になっていくだろう、あるいはより可能性が広まっていくだろうというようなことへの直感が欠かせません。
それがくもっていたら芸といったらものは宿ってこない。本質でしか判断できない。それをくもらせないための努力というのは大切です。自分の鏡をきちんと磨いていかないといけない。それがくもっていると10年たっても20年たっても上達しないのです。
全身で感じる、全身で表現する、それが原点だといわれたらわかるでしょう。
一流のアーティストの映像をみていてもわかる気にはなります。
でも自分がそこでたっている意識と責任がないとしたら、朝起きて歯みがいているような感じで、「ドミソドソミド」とやっているのがレッスンだと思っていたら、何ら進歩しません。
音楽とか歌以前の問題はとても多いのです。
音楽や歌というのは何も精神的なことを高めて、がんばらないとできないことではありません。声のことをとにかく単純に無心に繰り返しているところで気づいていけばよいわけです。自分と声を本当に愛して大切に育めばよいのです。
精神的に深まったとかというようなことよりも、声がでるようになったということが明らかにその人1つの確かな技術です。体が変わってくるのですから、そこからいろいろやれる可能性がでてくるわけです。しかし、そこから伸びないからレッスンが必要なのです。
トレーニングの期間中だからといって、そのトレーニングを単にトレーニングだと思ってしまったら、いつまでたってもトレーニングです。トレーニングからも、でれなくなってしまいます。ここで問うていることは、グループでも、1つの表現を与えられたらそこで目一杯自分をだしきってみることです。
だしきってみて足らないところこそ学べるところです。それがだしきれないまま2年とたってしまうのでは困ります。だしきれなかったことを悔しいとも思わず、まして出きていないということもわかっていないとしたら、それはその人が考えて、求めている、表現の度合いが低いからなのです。いったい、一人の人間が10秒でどこまで表現できるのかを知ることから始めてください。
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日本の場合、早々に引退しタレント化するのは、歌い手の技量と必要性がないだけと思っています。
それだけの客をきちんと育てていないわけです。
これからは新しい形でどんどん試んでいけばよいと思っています。
なぜ若い人が業界にあこがれるのか、きっとアーティストでなくファンでいたい人も多いのでしょう
日本でやっていることが、ここにいても世界でやっているといえるようになりたいものです。
トレーニングを何のためにやっているのかいうことを、自分で意味づけておきましょう。そうしないと、音楽が自分の生活のなかにとりこめません。歌もいつまでたっても遠のくばかりでしょう。
トレーニングというのはそれを取り組むために必要という理屈から近づけないのです。トレーニングそのものが音楽とはいいませんが、少なく、それは接点としてあるわけです。だから絶対に自分の身に入れ、自分からの価値としてださないといけない。そこまではっきりしているものなのです。
まず自分のテンションをきちんと整えることです。音楽に対峙するときに本当に全身でそれを受けとめるようにする、そしてそういう生活を送る。聞き流して鼻歌で歌っているような生活では学べないでしょう。楽しめばよいのならお客さんをやっていればよいわけです。それが一番、楽で、一番よい楽しみ方です。
本格的に学びはじめたら、同じレベルでは楽しめなくなってしまいます。それを楽しめるためには体が自由に動き心が自由に働くというようなところまでつめこんでいくのです。目一杯、過剰に捉える時期が必要です。
表現というのは、自分のなかで飢えたところに、集中やテンション、意志が過剰にならないとでてこないものです。ハングリーなときにパワーでだせると、作品的にだめであっても、ライブはもちます。
どんなものでも聞いている人が元気になれば何か与えられたということです。
それならやっている人が最高に元気だったらそれだけでもよいわけです。もちろん、10代の人に対していっていることでこれだけでは、芸でも歌でもありません。しかし、このレベルさえクリアできないのが多くの人です。
トレーニングも自分でやっているときや、ここにくると元気でなくなるということでは、困ります。ただ、それをより高めて、ここにくるとプレッシャーがかかってだせないというのであれば、それはまたステージのプレッシャーと同じで使いようがあります。
本当に自分の力を変えていくために、声があって、体があって、息があるわけです。だから、その時間を大切にとることです。自分の1日の生活のなかでも、音楽に接しているなら、わずかな時間でも徹底的に疲れるような聞き方をすることです。疲れるというのは精神的にですが、それと同じことを10分間、徹底してやれば体も疲れるはずです。
それだけ大変なものであるということを理解して、その大変さを受けとめて乗り超えていくことをしていきましょう。その大変さがあたりまえになり、心地よさになったころ、あなたに歌は入ってくるでしょう。
○客観視する
音楽が簡単なもの、歌は簡単なもの、声でら楽にでると思ったらそれまでのものです。楽観的には考えましょう。
条件は続けていくほど有利になってくるのです。
それが有利になってこないから、いきづまって止まる、先がみえないというようなことは、先をみていないという場合に多いのです。そうしたら、そこで考えることです。
私がノートを書きなさいというのは、問題がはっきりとしてこないからです。書いたものというのは客観的なものです。自分の頭のなかで考えているつもりのことを書いてみたらまったく違うという場合もあります。書き出されたものをみて自分を判断すればよいわけです。
これは音楽でも同じで、自分でイメージして、歌ってみる。まったく違う。でも人が判断するのは、そこで歌われてでてしまった装現、作品だけです。
それを写し出してみる、自分はこういうふうになったから、こんなやつなのだろうと自分の思っているのと違ってくるわけです。それを客観視して直していかないといけない。
そういう努力をしていない多くの歌い手は、タレント性やキャラクターに負っています。人間的魅力や精神的深みがないアーティストとは呼びがたいのも、そういう自分や時代との葛藤を経てきていないからです。
もつ歌い手ともたない歌い手、時代で消えてしまうという人との違いは、自分を客観視できるかどうかです。
天才的な人には、好き勝手やってみたら全部できていくという人もいるようです。それでも、そこに出ている自分をみている自分がどこかにいるわけです。ある時期、徹底して一流のものをたくさん聞いているのです。
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計算どおりに動いてしまうと平凡な演技になるわけですから、いつも創り出す努力を惜しまない。
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そこでは自分の現実に生活しているのと違う世界をつくる、
一般の人の日常の生活そのものがそういうステージにあってはいけない。
リアリティがないと普遍的にならない。つまり一般の人にも伝わらないから、増幅されない。
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3分間のものを1つにとらえるというのは難しいことです。
特別ライブ実習のオーディションでは、通った人だけ歌わせて、20曲、歌としてもった人が1人、ステージとしてもった人が1人だけです。3分間、総力あげて集中できた人は2曲だけであとは何もできなかった。
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そのデッサンからどうして作品となるものがうまれたのかというところを、きちんとプロセスとしてたどるというのがトレーニングであり、学ぶことです。
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実習をやりましょう。まず体をほぐしましょう。ヴォーカリストというのは体からです。その状態がよくないときは体をと戻していかなくてはなりません。トレーニングをやっていても、体はどこか硬直してくることがあります。すると意識も硬直してくるのです。そこで心地よく歌えるはずがないので心をほぐすのです。
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イメージのなかで深呼吸をして、自分の一番心地のよいところにきちんと意識と命をおけるようにします。
さらに動きは前にでること。それから上下、跳躍することです。
日本人はすり足の文化ですから、急にはどうしようもないところはあります。自分のなかで体を1つにするのに一番簡単なのはとんでみることです。
音楽がかかると、とびたくなったことはありませんか。音楽を聞いて立ち上がりたい、立ち上がって拍手したくなるというようなのもそういう縦の動きです。
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自分の全身を1つにするということをやってみましょう。体をほぐしてください。声をだすのはもう少しあとからにしましょう。リズムから入ります。表で1.2.34ととってください。軽くゆれるような感じでよいです。実際に歩くのもよいでしょう。腰でとってください。
4拍単位でいきましょう。強弱中強弱と感じてください。4で大きくあがって1でおりてきます。リズムの感覚というのは1でダウンビートで入り、ここでにぎります。「ハイ」と、声をにぎるのと同じです。すると、2は浮いてきます。1というのはそんなに動かさずそこで入らないとよくないです。
この入り方が遅いのです。すぐ入らないといけません。日本人が一番弱いのは4です。4をもってくるのが弱くだんだん小さくなってしまうのです。1と3はダウンビートでそんなに動かさずリラックスしておとし、アフタービートにくる24でひっぱるのがリズムの基本です。英語はこの4ビートにのっている言語です。
自分のなかでカウントしてください。日本人の感覚というのは、均等に1·2·3·4ですが、1というのは落とすような感覚でとらえます。落ちていけば、下の方が加速度がついて速いわけです。そこから跳ね返るからこのときが一番勢いが弱いわけです。4・1のスピードと2・3のスピードが違うわけです。そしてどんどん大きく速くなってくるわけです。
リズムというのは必ずしも均等ではなくて、お風呂のお湯をかきまわすみたいに遠くまで大きくいってそこからぐっといれて、強く小さくまわすようなメリハリが感覚のなかにあるわけです。
そこでリズムがとんだり、そこにいろんなビートがついている。
ワルツとかボサバも、日本人の1・234のカウンだととれないのです。全部が動いているわけです。日本人のリズムのとり方は点で、1.2.3.4、2・2・3・4という形です。そうではな.く、線があってその線が動いている。その緑の肝心なところだけをにぎっておけばよいのです。
にぎっておくのに、一番確実なところは、ダウンビートの最初、1拍目で、バースが入るところです。あとのところは歌でも大きく変化します。どんなに自由に歌ってもよいといっても、そういう感覚が入っている人にとってみたら、くずせるところというのはアフタービートのところにもってくるか、シンコペーションをかけていくかでしょう。とんでみると実際そういう感覚になるはずです。
とぶというのは当然上にいったら遅くなります。それからおちてきて速くなって、ここが一番強いわけです。こういうアタックの仕方です。アフタービートでもいろんな説明の仕方ありますが、なわとびでいうと1拍目、自分が大きくとびます。そのあとにコンと小さくはねます。同じように打たないでしょう。それに近いような感覚だというのが、今まで聞いたなかで、わかりやすい説明です。
ピアノでも、何か伝えようと動かしたときに、どこかにメリハリをつけます。そこの拍の力というのは強いわけです。強い力でなく、打鍵のスピードが速いのです。そこの1拍目のところの前のところまで、意識がかなり集中していないとよくありません。心の集中密度がテンションです。
そこから歌おうとしても、体が起きていないと入りきれません。4拍の前に体の準備ができて、そこのイメージができていてこそ全力でふみだせます。そういう感覚が特に日本人の場合は欠如しています。違うということさえわからないぐらい欠如していますから、必要です。ドラムの勉強をするのもそういう意味ではよいと思います。そういう中でリズムと体とあわせることを知り、同時に呼吸もあわせるわけです。日本人は歌のリズムと体のリズムとが結びついていません。
トレーニングに入る前にも、なるだけ体の諸機能を統一しておくことです。2週間後に水泳のレースがあると考えて下さい。2週間前からの生活を組み、当日それだけの体力を集中して使うために、いつも体が動くようにしておくはずです。そこでネックになるようなこと、そこでスポーツに入れないようなことを自分のなかで解決しておくことです。
トレーニングは解決された体であたらないと、何にもならないどころか、逆に悪くなってしまうことが多いです。過度に体を使おうと思うとのどを痛めます。その人の感覚が鈍いと事故が起きてしまうわけです。発声はいそいでやることはできません。
他人に頼らなければ自分の体でできる以上の事故は起きないのです。だから、よくわかっていないトレーナーについてはいけないのです。息がそんなに吐けない人がいきなり声でのどをこわすということもできません。体が統合されてくるとこれ以上はやってはいけないとか、ここでやめておくべきだとか、あるいはここはこうやったらもっとよいとか、いろんなものがそのなかで自分でわかってくるはずです。そのへんに対して鋭くなるためにやるのが、トレーニングということです。
息を2回だしたあと、2回、「ハイ」「ハ」「ラ」何でもよいから、出してみましょう。心が固まってきたとか体が動かなくなってきたと思ったら、すぐに自分でほぐすことです。レッスンで体がこったり足がつっぱったりしますが、それはトレーニングをやる状態もくずしているわけです。
トレーニングというのを形だけで杓子定規にやるからです。自分の体でおかしいと思ったら修正しないといけません。自分のなかできちんと自分のベストの状態をとりだせるように、体を保っておくことです。そのためには、心もそのようにしておくことです。そのなかでやっていくようにするのが一番大切なことです。
レッスン中に自分で何か固まってきたと思ったら、声をだすよりもっと大切なことをやらないといけないのです。足をつってしまうなどというのは論外です。仮につったら、まずつった足を直そうとするでしょう。つったからよくないのでなく、それだけ体に偏って力が入ってしまっていることが問題です。力が入るのを下半身できちんと安定させないといけません。声がでればでるほど下半身で支えられなくなってきます。
そういう状態が起きるのはよいのです。しかし、そのままでは支えられません。だから自分で支えをきちんともっておくことが必要となります。そういうことでできてくるのをフォームといいます。
子供でもでんぐり返りをうまくできる子とできない子には違いがあります。ことばでしか理解できない子というのは、うまくできないわけです。よくわからなくとも、とにかく先に体が動いてしまう子はできてきます。そういう子は全身で考えているから全身で働けるのです。肝心なところをよくみているのです。それは、体を動かすことが好きで、いつも自分がやる姿勢でいるからです。
そうではない人が段々多くなっています。大人になってくるにしたがって頭が働いてしまい自分の身を出し惜しんでしまうのです。みんなの世代はあまり動かない方が得みたいな考え方になってきています。子供の頃からそうだった人もいます。しかし、動かないとよくないのです。ちょっとした機会をみつけて動いていることが大切です。なぜなら音楽というのは常に動いているわけです。踊りながら歌えばよいということではくとも、心も踊っていないと入れません。
心と体が動いていてその感覚のなかでとらえていくことだと考えればよいのです。
外国人などはみんなそうでしょう。特に黒人などは、じっとしていることができず、体がいつも音楽の動きのようになっています。だから音楽に入るときにまったく敷居がなく入れます。日頃から助いてそういうリズムをとっていれば、歌になったときに体が動けなくなっていきづまるわけがないのです。
そういう自分の体そのものが本来もっている働きを、学校にいったり社会生活を送ったりしているうちに阻害されてしまうわけです。おちつきのない子どもだといわれないように自分でそのようにしているのですから、自分でそうではない状態にすることです。近いのはスポーツをやるときのような状態です。スポーツは全身が動かないとうまくいかないからです。その状態をトレーニングのなかでキープするのは難しいことです。
体ということから、音に関して、1つの音に対して集中してそれに取り組めるようにします。この音が「ド」だから「ドー」とだせるのではなくて、その音そのものが入ってくる世界のなかに自分が入るのです。そのなかに呼吸も入っているし、波動が音の世界です。
そういうものと一体になるようなところにとらえていくのが、自分の体とか声をもっとも自然に使えるところなのです。もちろんそのままで作品にはなりません。そこは違います。作品とするにはもう一つ、客観視してつきはなしていく眼が必要です。
しかし、今考えてほしいのは体のなかの音をとりだす、それを自分の呼吸で自然にとりだすことです。それがわからないときに変に形をつけたりしないということです。一度戻してやるということです。オリジナルに戻るということ自分の原型に戻る。そこがゼロ、始点です。
呼吸から声にします。もう少し違う形でやってみましょう。息で「ハイハイ」3目だけ声で「ハイ」とします。やりにくい人は3音目も息にしてみてください。3音とも声にしてもかまいません。
息からそのまま声にしようとすると、大体声が浅くなってしまったり、息があがってきたりします。それを同じポジションでやっていくということです。
トレーニングでやっていることというのは、いろんなメニューがあるのですが、メニューにあわせていろんな課題を設定するのではなくて、どんなメニューがきても同じように取り組んでいきましょう。そういう力をつけていくことです。だからメニューが複雑になってくると、力のない人はコントロールできず段々とばらばらになってしまうわけです。ばらばらになるようにメニューをやるのでは何にもなりません。レッスンでも使わない方がよいほどです。しかし、応用は基本の大切さ、できていないことを知るのにやるということです。だから、いい加減、その場しのぎでやってはいけません。
そうでなければ1つだけ「ハイ」とやっていた方がよいでしょう。いつまでも「ハイ」だけ「ハイハイ」とやっていると、そのこと自体の意味がよくわからず気づかなくなります。だから応用のメニューもやった方がよいのです。応用で試してできないなら、基本の習得度が浅いということで、それをより深くします。それでまた応用でやってみます。調子のよいときにたまにできても調子悪ければできないのなら本当にものにはなっていないわけです。そうしたらまた基本をやるのです。
応用のなかでよりできる率と高めていくこと、それは単純です。単純なことをやるのに何が一番難しいかというと、その基準をどこにとるかということです。誰でもできるといったらできるし、誰もできないといったらできないというレベルでとっていたらよくないです。その基準自体をあげていくことが上達です。
最初は、音に対して聞き取れないからだせないのです。ところが聞きもしないで出すことばかりがんばっているのではよくないです。
先の子供の例では、話も聞かずやりたがる子供、これもうまくできません。グループでやるとよいのは他の人をみるとわかりやすいからです。そのことを書いてみると-もっとわかりやすいでしょう。自分のなかでの声というのは音の世界ですが、音というのは録音でも、時間の動きのなかでどこに何が入っているかよくわからないのです。
それを書き出すと少しわかりやすくなるわけです。絵だと一目でわかるのでしょう。そういう感じで声のマップをつくります。自分のなかでイメージして、地図はその人が自分で考えた地図でよいわけです。そういうマップみたいなものをつくって、このへんだとか、ずれているとか、ぴったりだけどここが弱いとか、そういうものをイメージとして自分のなかでつくっていくのです。イメージで1つに捉えられたものしコントロールできないからです。
結局、歌も声も、自分に都合よいようにしかつくれないのです。都合がよいようにつくったものなので、客観的に判断してみて狂っている場合もあります。それをトレーナーと直していくのです。
直していくときの一番の基準になるものは、繰り返し耐えうるかどうかということです。また強靭に使用して耐えるかかということです。また生理的にそのことがすっきりしていて、シンプルなのかどうか、気持ちよいのかです。
複雑なものは間違い、偽物だと思ってよいのです。音楽になった場合は複雑に声を使う場合もありますが、それはシンプルな線があり、声があるからできるのです。
わからなくなったときには、自分の体で1つにとらえられると思うようなことをやればよいでしょう。それはある人にとってはスポーツで、ある人にとってみたら芸ごとかもしれません。表現は違うことでも、深めると本質的に通じることがあります。イメージの世界は奥深いものです。
「ハイ」だけにしましょう。「ハイハイハイ」(ミレド)と今度はメロディの方からもってきます。その前に「ハイ」だけまわしてみましょう。第一声、それを聞いて、その人の声の状態とか、体が動いているか、働いていないかを直感的に判断します。
こういう場にきて1回だけやるというのは苦手な人もいますが、きちんとしたものをいつでもだせるようにならないといけません。それを確実に取り出さないとならないのです。1回で正しい1回を取り出さないといけません。もちろん最初は何回かやっている間にでてくるようで構いません。どれがよいのかわかるようになることです。グループの練習の場であれば、他の人の声をどのぐらい読みとれるかということが勉強になります。
よい、悪いというのは直感的にわかってくるはずです。よい、悪いというのは声そのものがよい声とか悪い声ということではなく、その人の体が正しくついているのかと、つまり肉がついている声なのかどうかです。単に口先だけからでている声ではいけません。無限の可能性を感じさせる声、肉声であることです。つまり制限を感じさせない声が正しい発声です。
そして使い方です。思いっきりやってはずした声とか、単に「ハイ」と口先でいっているだけの声などがあるわけです。
1つの声をきっかけに全体のなかでそれをどういうふうに捉えているのかということ、それとともに自分がどういう声をだしていたのかを知ってください。「ハイ」と聞いて「はあい」といっているのではよくないです。表現としてそこで伝わらないといけません。伝わるのが歌、音楽です。
もう一度やってみてください。のど声になっても、正しくなくてもよいから、とにかく全身が一体となって1つに一瞬のなかにまとまってだしているイメージになることです。するのではなく、なることです。声のなかで体が動くということです。体がとまっていて声だけ働くということでは、でいないのです。
「ハイ」がいえても、それを押しつけてしまうと、どん詰まりになり、気持ちよく解放されません。しかし楽にすると空振りでおわってしまいます。真芯でとらえてもっていく、まさに素振りと同じです。体全体の力がその声に、体中の力がその一点に集まるというような感覚をつかんで、それが「ハイ」になっているかどうかです。
体がきちんと共鳴していて、ここに空気振動が一番ビリビリと起きるような状態をめざすということです。できる人には結果としてとても単純なことです。楽器として耐えうる体にして、物理的な力のもっとも効率よく働く振動体とするのです。そこまでは表現が宿っているとか、こんなこといいたいのだろうとかいうことばくみ取れなくとも、人に伝わるものとして、単に音波としての伝わってくる量をだすために増幅させるポンプみたいに考えてください。
まずは発声器官としての機能を十全に使い切るのです。それで目一杯使うとばっとでるというような感じでとらえてみてください。
これがいずれ歌としての表現を宿してくるのです。ただのトレーニングになっていたらよくありません。ここでいうただのトレーニングとはその人のなかで、何かトレーニングっぽくなっているということです。トレーニングでは、基本を感じさせる安定度が必要です。
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【京都レッスン2】
「じっと胸に」
これは、オクターブありますからできないのはよいのですが、課題になっていないのは困ります。1オクターブは難しいです。それを簡単に統一しないといけないから離しいわけです。そのために表現力が3割ぐらいになるのではまったくできていないということです。
「胸にこめた」
音楽的にとるというのは「じっと」というのなら、「ターアァ」この線のなかで動かすということです。体と息を使うのです。「こめた」でも、イメージがひいてしまったら声が前にでません。そこで「胸に」と前にでられないと、練習の土台にのっていかないです。それだけ体が賛成されないわけです。
「こめた」を「こめた」とならないように、線でとって、それから、点におきます。フレーズは1つにとらえることです。声からいうと「ハイ」というのと同じです。「こめた」これで1つです。それを歌にするときは「ハイこめた」、「こめーた」と自分のなかでそれをフレーズとしてつくり直せばよいわけです。ただ、今は1つにとって1つにだすことをやってください。音程が聞こえるとよくないというのは、ばらばらで音符が聞こえるからです。言葉で「こめた」といって、その感覚でそのまま入ってください。
お互いに聞き合えばよいと思うのです。間違っているのがわかるというのは課題になるし、そこで足らないというのがわかるからよいのです。それ以外はほとんどイメージの勘違いです。どこへいこうとしているのが、何をやろうとしているのかさえみえない。それでは練習になっていないということです。そんなところのイメージで悩んでいるのだったら、歌を原点から考え直した方がよいです。何を表現するのか、どう伝えたいのかをこの曲に関してとかこのフレーズに関してということではなくて、日頃そんなところで何も考えていなければ「こーめーたー」でもよいわけです。
ここまでできるだけでも2年ぐらいはかかります。でもそれができたからって10年たっても何の歌にもならないかもしれません。お互いに聞いていてもひどいでしょう。このひどささえ感じなくなるのであれば、研究所にこない方がよいでしょう。
鈍い人とやっていても鈍くならないのが、才能です。他人にあわせていこうと考えないことです。
そんなところで差があるわけではありません。入ってくるのは無条件ですから、そのなかでそまらないようにやるのが、自分の身を守ることです。
グループというのはよい意味で働いているときにはよいのですが、悪い意味で働きはじめると、こんなことでさえ練習だと思ってしまうほど愚かな集団になってしまいます。
日本人の集団、組織は特に創造的なことに関してはそうなりがちなのでよほどの注意が必要です。何の意志もない、何の体もでていない。10代のアイドルやっている子たちの方がよほどまだ表現しようという、何かのしあがろうという気迫が感じられます。
しかし、それがいつものあなた方の日常だし、音楽に対する態度だし、歌とのつきあい方なのです。そこをかえない限り声ができてくるとか、音楽が何か進展するということは絶対にありません。
それを自分で変えないといけません。前の人まではそうであっても、「それは絶対におかしよ」、「表現するのだ」というのを自らつきつけないとよくないです。ほんの数名でも表現しようとする人がいるのは救いですが、まだ技術的にいうとよくないです。しかし、技術的なものというのは続けていけばあとで直せるのです。
今日以外の日にはもっとうまくできていたというのから、直します。「こーめーたー」とか「こめたー」を表現だと思っているとしたら、これは直すという問題ではなく要はその人が勘違いしているだけなのです。
それはまわりの影響でなったのではないでしょうか。ここではそういう伝え方は絶対にしていないはずです。他のところのそういうのをみて、指摘してきたつもりです。そこを自分でおかしいと思わない感覚を直さないといけません。
「マリーという娘と」
日本人の感覚でいうと、「むすめと」いくのですが、「めと」きちんと入れたいものです。これで半オクターブで、日本語のポジションはくずれてしまいがちです。高橋真梨子さんもそう重ねています。「むすめと」すると体が1つになって、「むすめ」と聞こえるわけです。大切なことは「むすめと」と音程が聞こえるとリズムも声の勢いも殺してしまいます。
「マリーと」を「マリーと」と1つにとらえておく。最初から音楽的には考えなくてもよいです。「マリー-」と大声で呼んでみて、そこまでに音が入っているぐらいで考えてみてください。体がどんどん死んで感覚がまひしているなら、それを戻してやることです。
音楽というのはもっとプリミティブなものです。作品として発表するときに少し形を整えるだけです。みんなはいつもまとめすぎてしまうのです。まとめないでやっていたら、体が使えるところまでまとまってきます。初歩の練習はまとめなくてよいのです。表現を過剰にだせばよいわけです。
自分の歌を吹きこんでみると、どんなに聞いても、プロと比べると、なんかたるんでいるとか、一本調子だとか、なんかたらたらしているとか、直感的にわかると思うのです。その二は今の部分でも同じようにみられます。それは技術の問題ではありません。声がなくとももっとハリをもたせて、前にだせるということはそんなに難しくありません。気の力問題とそれからとらえ方の問題です。それなら、大きなイメージのまま声にして「マリー」ととらえればよいわけです。「マリーと」こういうふうにとらえます。
私がレクチャーや本で述べている問題が、ここにきても解決されないままずっとひきずってしまうのは、よくありません。解決しにきたわけでしょう。解決しないのは勝手ですが、そのことを自分で気づかないとよくないです。いたら直るのではないです。自分が主体的になってその意志をもって、そこに表現をださない限り、正されないです。何回も何回も聞いていたら覚えられるというものではないのです。やったときに違うとわかって、それを直していくことをやらないといけません。その上でより高いところができる人とか、もっと長く伸ばせる人とかもいます。そのイメージをどんどんつくっていくのに、体というのが必要です。
たとえば日本の音楽でいうと(高橋真梨子さんは違いますが)、「マリーというなのーむすめとー」というような感覚です。これは全て点なのです。何も盛り込めてない、音をとっているというだけです。だから動いていないわけです。体が働いていない、心が動いていないのです。音は動いていても心から動いているという意味ではないのです。それを歌おうとしたときになぜでとか、吐く力みたいなのが必要になるのかというと、それが一つにならないからです。一つにならないと、表現がのらないのです。今では5つにも7つにもわかれてしまいます。
「マリーと」だけでも3つにわかれてしまいます「マリーと」が1つ。ここで「と」が別にかすれてもよいわけです。練り込んだ上でいろんな変化をするのを楽しみましょう。とらえないといけないことは、「つめたい」や、「イエス」というのと同じく、そこの線のところです。「タァータァァータァァァー」これをどうおくかということです。「マリー」というのを、「ハイ」とか「ララ」といっているところできちんととるということです。
要は基本はなるだけ違うことをやらないということです。そこからオリジナルのフレーズを自分で使っていくということです。「タララララララララララ」それを1つでとらないと自分の呼吸で動いてこないのです。
嘘か本当かというのは言葉一つ、声1つでもわかります。ましてや音楽といったらそこに総合されてでてくるわけです。ここでできるのは技術のところまでです。そこに感性が宿るためにも、まず声がでないといけません。それを感性的にあるいは日本人が聞きやすく高橋真梨子さんは工夫しています。そういうところから勉強するのもよいと思います。ただ、それを先にやるより、下の線をきちんと使う。体が働いているところをつかんでいくことです。あとはテキストをみて動かし方みたいなのを覚えてください。
「マリー」で入れられなければ「あいい あおいあー」でもよいです。「あおいあおいあおいあ」こういう感覚にしていくことです。同じところでとる、音そのものよりも音の動きの方を中心にとることです。
日本語をつけないでやってみましょう。「イェリシー」をそのまま覚えてください。イタリア語と考えないで、聞こえたままにします。日本語にしてしまうと日本語にすることが歌と思うので、最初ははずしています。とにかくわからないから「イェリシー-」ととるしかありません。このなかでいろんなことがおきているわけです。
日本語でそれができないは、むこうは「クアンド」と一音節でいうのに、日本語だと「クアウンド」と5の音節になってしまうからです。それを1つにとらえることが表現のなかで必要なのです。「クアンド」体が動いて同じところでとれるのです。日本人がやると「クアンード」とか「クアンドー」と、感覚がそうだからです。それをもっと楽な感覚で入れるために正していくのです。日本語の感覚で感じるのはそこに戻ればよいのです。
そこの部分は自分の耳で聞かないとなりません。「イェリシー」と聞いていたらいつまでもたっても4つから変わってこないのです。それを「イェリシー」「イェリシー」とど動かすかは自分で決めていけばよいわけです。
何が必要かというと何もやらないことが必要です。しかし何にもやらない分だけ自分の体とか心やイメージが動いていないと当然そこに動き出してこないです。そこの違いが表現です。声量とか声域の違いではないのです。
このぐらいの音は、そのうちのってくるわけです。難しいのは声をだすこととか呼吸をつくることではなくて、そのイメージをもち音楽の世界観をつくることです。すると体がそう変わってくるわけです。なまじ声があると「イェリシー」というような歌い方をする人もでてくるわけです。それは自分の体を使っているということで、快感を覚えているだけです。歌には、そんな必要はないわけです。
マイクがありますから、最小限にして最大限の表現に使えないといけません。5のことを伝えたいと思ったら、1つのことを5の力でまず伝える。そうしたらそこから反動がきて流れが出てくるわけです。
その感じ方こそが感性で、すごい歌い手たちが世の中にたくさんいて、たくさんのよい作品があるわけです。
日本のはともかく洋楽で聞いてみてください。顔をみないでライオネル・リッチーでもよいです。何でそこにその音を入れていくのか。マイケル・ジャクソンでも、その音を頭で決めて「あー」とか「ター」とかいっているのではなくて、そこに生理的にでてくる音を使っているわけです。だから作品になるわけです。
ここの部分がカッコよいからを取り入れようとまねしてやっている日本人ととても違うのです。「アー」「ウー」でなく、何で「ダー」といれるのかというのもそうでしょう。音色・タイミングともギリギリで選ばれているものがあるわけです。そのギリギリのところのものを自分のなかでにつめておいて、そこで出さないと作品にはならない。そのためにそこで音というのを感じることが必要なのです。
たった1音でも2音でもよいから、そこに全力に音楽を宿らせることにやって、それを3分間飽きもさせずひっぱらないといけないから大変なのです。みんなが大変というところはまったく違うところです。声量や声域で大変だなどとやっているわけです。その大変さというのは表現に結びつく大変さではないからもっとストレートに表現に入りなさいということです。
「イェリシー」
どこかわけのわからない外国の音楽だというような感じでやってください。そこで息が聞こえている、体が使われていることが、ポイントで最初は音程や発音が正しさは問いません。もっと大切なところ、体と息の結びつき、声の結びつき、そこに自分の気持ちが、結びついているのか、要はそのたった1秒に全部が集中がいっているのか、とてもはなしてしまってでてしまっているのかを問うてください。聞いていたらまったく違います。
その人が何かだしているのが全てです。勝手にでてくるということはないのです。勝手にでてくるのが、理想ですが、それはよほど実(身の)入った人です。トレーニング中はだそうと思ってでてこないのでがんばってひねりださないといけない時期です。
「シ」が浅くなっています。「シー」をつくらないといけないなら、「スィー」にした方が入りやすいのでしょう。「ハイ」といっているところで「スィー」ととれることです。
フレーズの感覚というのは結局メリハリです。「イェリシー」というのを(ドレミー)と聞こえるのは平行線においているだけです。「イェリシー」とフレーズをつくるわけです。自分できちんと読み込んでそこから離して、はじめてそのプロセスのなかで変現がもつわけです。
声がないからできないのでなく呼吸がないからできないのです。イメージがないかできないのです。たとえば発声練習をやっていてもそれだけではまったくできないのです。イメージが「イェリシー」だとそうなります。どんどん声だけになっていくのはそういうイメージしか入っていないからです。
そんなに難しくなくて、みんなが聞いているもののなかにたくさんのヒントはあるはずです。ただ、そこと自分との接点をつけてトレーニングをしなければ、うまくでてこないわけです。音域が広いからとれないということではありません。表現として音楽を宿らせるには、音楽が宿っていないとよくないということです。言葉がそこで動いていないといけません。単に弾けただけでは演奏にならないということです。
「つめたい」や「イエス」のときにもいいましたが、その延長上でレッスンは行います。それ以外のことは、まだ問うていないわけです。オリジナルの声をやるのか、オリジナルのフレーズをやるのかのどちらかです。それをやるのには、発声からだけでなく感覚で音をとれないといけません。音をはずしている人も多いです。
音程練習もしておくべきでしょう。イタリア語が読めなくとも、楽譜も読めなくとも音をとるには耳がよければよいわけです。それを勉強するのに耳だけで勉強するより、他のやり方があるというので周辺にあるものを学びます。しかし中心にあるものをきちんと知って、その中心にあることのためにかだいをやっている意識をもつことです。
周辺にあることは中心をきちんとやるためにやるわけです。イタリア語やフランス語は、そういう歌を歌わないなら、それは周辺にあるものです。その世界(シャンソン・カンツォーネ)に生きていくのなら別ですが、そうでなければそのときの優先順位は心と体の問題、もう一つは音楽がおりてきていることです。
おりてきているという状態は難しいのですが、少なくともそれをだせることが必要です。作曲やアレンジやドラムを叩いていたら、このリズムや音が面白いとか、何かかっこいいとか、ヒットすると思うときがあるでしょう。ピアノでもたまにうまく弾けたりすると、ここの音は何か心が入っていて伝わると感じるでしょう。
それと同じような感覚でやれば、歌の場今はもっともっていきやすいはずです。
自分で言葉を読みましょう。いつも言葉を読むことをやります。それから大きな声で伝わることをやります。感情で「ぎゃー」とか「あー」とか好きにだすこともやります。そこまでは全部嘘ではないのです。ところがマイクを渡して歌わせると、途端に嘘になってしまう。体がはなれてしまう。その前に言葉がはなれて集中力もはなれてしまう。わずか何フレーズかでもそうなるのです。
そうしたら一番正しく表現の課題にできるところというのは、その間のところでの接点です。1行でも、2行でもよい。そのことを千回も一万回もやって、自分でどういうフレーズがぴったりしているのか、今の体では、それから今のなかでだせる最高の音と通用する音、これは高い音ということではなくて、一番表現に使える音は何なのかを毎日確認していかないと本当にぼけてきます。そういうことを練習の課題に入れてみてください。
結局は自分の体のなかに全部入れておかないと、リラックスしたら何もできないということです。リラックスしたらできなくても、全力でやっていたらリラックスできるようになります。リラックスして、どうでもよいような表現を多発させてもどうにもなりません。それならカラオケで心地よく何回も歌っていた方がよいでしょう。
カラオケはカラオケなりに歌の心が入るとか、ここのところは何かのったとかという感覚はあるわけです。それがトレーニングをやったり、あるいは歌っているのにまったく入ってこないのだったら、カラオケの方がましです。
やるメニューがよいとか悪いとかではないのです。
研究所のメニューがよくて、自分のメニューとかカラオケの練習はよくないということではありません。そこで何を得るかというのが問題で、人によってやり方はいろいろ違うでしょう。より完成された表現をだすためには息、体が必要で、もっと強い息が吐けたり、体が変わってくることが必要なのです。
それ以外の目的に使うのであれば、吐くトレーニングは息を吐くだけのことにしかすぎない。体を鍛えることも同じです。その結びつきを厳しくして結びつけてください。違うことをやるのではなく、おなじことを一つのことを本当につきつめてやる。その基準をなくしてしまうと最初から成り立たないどころか、変な方向にいってしまいます。
歌をやるがためにカラオケの人たちのなかでも一番へたになっているなら、そこでおかしいと思わないといけません。ただ、何かの理由で待つことが必要であればそれを待てばよいのです。でもできていないのであれば、単にくずれているだけだということもあるのです。
最初はあまり細かいことはことばではいえないものです。いろんな人がいろんなプロセスを得てきますから、のどさえこわさない方向であれば、一時、間違ってもよいと思っています。間違っていることで気づくことがあれば、正直に戻るようになっています。
ただ、そのときに自分の感覚が鈍かったり、去年とか一昨年よりも勉強していないと思い込みで狂ってきます。その方が怖いのです。自分はできるとか、声がでるとか、音楽が宿っているというふうに思ってしまうと間違えてしまいます。素直と謙虚さが一番必要です。
常に他の人を参考にするのはよいのですが、よりレベルの高いものをきちんとみてそこから取り組むことです。そことの距離をきちんとつめていくということです。
少なくともここにきている人には、アーティストにある要素は、全部同じことなのだとみせているはずです。みんなのようにばらばらなことをやっているわけではありません。人のなかで通用することというのは、共通の要素をきちんともって、そのなかでやっているのです。音楽のことでいうのなら音楽的な線のなかでとらえることです。
自分が感動した作品があれば、それを自分のなかでもう一度咀嚼して、あいつはああやっていて感動させていても、自分はそうではない。私の体はそうは反応しない、こっちの方向なのだというのでだしていくのです。
取り込むこととだしていくことと両方できないときもあります。そこで本当に1つのフレーズを大音量で聞いたり、自分でやったりして、その差がどのぐらいあるのか、その差は何なのか、それをまねても何でできないのかというところを煮詰めてはじめて息が足らないとか、ポジションがまだ深くないとわかるのです。
そして、それを深くしようということにならないと、息だけ吐いていたら深くなるとか、ポジションだけつかめたら歌えるとか、ではないわけです。
より高いレベルのことで歌いたいという欲求が大切です。そのレベルをきちんと理解するということです。たった1フレーズのなかでもまったく違うわけです。そうしたらそこにある差は何なのか。もっとできる人がいたらもっと違うわけです。別にマイクとかバンドもつけなくてもたった1フレーズでそれだけ違うという現実があるわけです。そこから学ぶということです。
月に1回来ても、要はそれをぼんやりみているのではなく、常に自分がその立場だったらどうだしているかという形でみて取り組むことです。練習になったときにたらたらしたような声がでてくるとか、だれた感じでやっていたら、自分自身でそれやめるはずです。やめないで時間も2時間も練習できてしまうというのは、結局鈍くなっているわけです。
そういうのはのどを痛めたり、逆に間違った方向にいく原因になってしまうのです。正しい練習をするというのは一番難しいことです。コンディションをつくるのも難しいし、それをキープするのも難しい。だから声楽でも多くの人が育つわけではありません。
声楽の人は、22才くらいまでに4年プラス受験の期間入れたら誰でも6~8年やっているわけです。その分のことを全てあわせても、ここで2年ではできないのです。当然8年かかる。ただ、声楽家みたいな高音、テノールの歌うようなところは必要ないでしょう。
その条件をはずしていけば、そうしたらそんなに歌は難しいものではない。きちんと重ねていけばよいのです。
音を宿らせるというのは一番難しいです。これはまさにヴォーカリストがヴォーカリストであるための理由なのです。いくら歌ってみても声は宿るし、人を威圧するステージはできても、そこでジョルジアとかパヴァロッティみたいなああいう顔ができて、そういう音を取り出せるかというと、何1100回やってみても1回あるかでは、商品にならないでしょう。ただ、日本の場合はそれで充分すぎるぐらいです。研究所というのはそこまでの準備でよいと思います。
そういうものをつくっていこうとしたら、もっと精神的なものとか、その人の方向性というのが必要になってきます。演歌から演歌の歌い方があり、ポップスならボップスの歌い方あります。
本は何回も書き換え、会報も何回もだしていますが、いっていることは同じことです。ただ、よく伝わらないし、わからないだろうから違う言葉でいっているだけです。本当に1つのことです。つかむこととはなすことです。つかむところがポジションより声の芯ということ。それからはなすところがフレーズです。
ただ、このフレーズをはずんで、はなしたと思ったら元に戻してきちんとつかむ直すことです。これを展開させていくのが音楽のフレーズであって、押して進んでいくのが音楽ではない。ましてやタンタンタンタンといくようなものは音楽ではないのです。音の世界を理解していくことです。だから自分たちが感動できるのは、音楽からでも、あるいはエレキ1本でもよいのです。
そういうものがあれば、それを理解してみることです。最初はそういうことがよいと思うことさえ難しいものです。他の人はよいと思っているのに、何で私は思えないだろうという場合もあります。みんながママイルス・デイビスを聞いてみたり、ゴスペル聞いてみても、きっと何か理解できない。すごいのはわかるけれど、というところはあります。それをどんどん読み込んでいくことです。それが深い理解できればできるほど自分の体とか、心がそういう方向に動いてきます。動きやすくするためにトレーニングすると思えばよいです。
頭のなかに何にも入っていなくても、声がでればある程度わかることもあります。イタリアのカンツォーネの歌手とかも本当に脳天気で声だけで歌っている、内容も何もなくて陽気に歌っているだけだというのもあります。それでも観客が鋭いからそれなりに残る人というのは何かをもっている人なのです。技術があれば通じる部分はあります。ただ、それ以上の歌を歌いたいというのなら、一緒にそれを勉強していかないとよくないと思います。難しいことをやるということではない。一流のもののなかに全部が入っています。
だから自分が取り出しやすいと思うもの好きなものではなくて自分が学べると思うものを聞くとよいでしょう。これが苦痛な人もいます。勉強の課題にしてしまうがために、その歌を捨てないといけないときもあります。トレーニングで使ったり、聞いたり曲、歌というのは、なかなか好きになれなくなっていきます。
ただ、それを使いすてては、新しいものにするためにどんどん自分で吸収していけばよいわけです。最近の若い人たちの体や心が動かないのが一番の問題です。そこでハイテンションのレベルをつくると動くようになるのです。今や全ての劇団の演出家、俳優、声優、どこでも苦労していることだと思うのです。
一流のものを聞くと、それをたたきこむと、それと同じことをやりたくなって、町中走りたくなったりするわけです。そういうものが自分のなかでおきてこないのはこの世界でいうと死んでいるわけです。そこをおこすことを、まず自分の体のなかでやらないといけない。それは日本の環境下では広げられてきたとかもしれません。
同じテンションを自分が獲得することができないと成長は止まります。ロックというのはそこからはじめるのでしょう。コンサートはすごい熱気のなかで、それを自分があびたところから、今度は逆に自分がそれを放射しようというところから始まります。それなのにテンションが低くては、ステージ立っても何もでてこないです。
獲得しないといけないのはテンションの高さです。自ら何かやるときの高さです。これはスポーツやってきた人はわかると思うし、そういうのをやってこない人は何か体験すればよいと思うのです。自分が一体にならざるおえなくなるような状況を徹底してみることです。恐怖とかあるいは喜びとかそういうところに肌をさらしていくことを恐れてはいけません
東京にいるということ自体があまりよくないです。田舎で体を伸ばして、感覚が鋭くなることが、都会にいると鈍くなってきます。自分を取り戻さないといけません。戻ったところでしかでてこないのですから。自分の体をもっと味わうこと、敏感にすること。それを人前にでたときに取り出せるようにすること。こういうところで裸になってだせるということ。これはちょっと特殊なことなので、メニューを組み替えていろんな刺激を与えようと思っています。
何もまわりに染まらないようにしてください。まわりを染めるぐらいの強さをもってひっぱってください。毎回やっていることは、このことと同じです。小倉ばかりで実際のレッスンをやらないというまえに、このことを覚えて本当にやっていたら、それで変わるはずです。きちんと正しくやれば少々のことでもできます。変わってもまた元に戻っても体がなまっていても、精神がなまっていても戻ります。人前にでてそこで何かをだしていくという気構えみたいなことを持ち続けるのが大変なわけです。
だから自分を追い込んでいくことです。いろんなものからまだまだ学べるし、学ぶ環境はよくなってきています。いろんなCDも復刻され、映像とかもよいものが入って、多チェンネルで海外のものもストレートにみられるようになってきています。昔の人の学んでいた環境よりもよほどよいはずです。ただ、そのことが逆に活かせなくなってしまうのは、求めないからです。
以前はラジオで聞いたり、カセットの悪いので録音して何回も聞いて、すりきれたような録音やレコード聞いて、それで耳を磨いていたのに、今、それができないというのは、恵まれすぎてしまってわからなくなっている。
音の世界からくみ取っていくことです。ただ、ビジュアルでかっこよくみえるというのは有利です。
しかしそのときに音を聞いていないからよくないです。ビジュアルでみてかっこいいとか、マイク振り上げているとかいうのをいくらみても仕方ないのです。大切なことはそこで音が、どういうふうにうねっていて、どうつくりだせて、人々に何をどう伝えているかです。
オーケストラの指揮者と同じです。ヴォーカリストの場合はベースやドラムが何やっているか、自分の音の世界で一つに全部聞こえていないといけません。自分の声だけ聞こえていたらよいのではありません。5つぐらいの音がいっぺんに聞こえていて、それで統合されていて自分の感覚に成り立つ難しいパートです。
それはバンドに入らないとできないわけではないのです。よい音楽を聞いていたら、そういうたくさんの音楽のなかに、リズムから、メロディまで全てのパターンが入っています。バンドのなかでプロとプロがぶつかりあってだしているようなセッション的なもので、心に働きかけるものはたくさん入ってくるわけです。
ロビーで話している間があったら、一刻を惜しんで本当にそういうものを聞くようにしましょう。時間の意識が高くない人に音の表現はできないでしょう。ウォークマンで聞いているのではなくて、なるだけ大きな音で聞いたり、生のところをみていくことです。日本の場合はヴォーカリストからはあんまり勉強できないですが、バンドからは勉強できます。少なくとも私が昔、聞いていたバンドよりもよほどよくなっています。そういうところから音の世界を勉強することです。
音がわからなくても言葉だけでヴォーカリストにもっていける人もいます。そのへんになるとキャラクターです。両方からやっていく方がよいと思います。バンドのメンバーからいうと、ヴォーカリストの音楽性のなさというのは相当ひどいものでしょう。ヴォーカリストは音楽性がないからやれるといわれているぐらいですが、彼らと同じだけのものはとらえていないといけません。
楽器奏者から学べることは多いものです。音を奏でることにおいて、金をかせげるだけの何かをその音のなかにだしているわけですから。ヴォーカリストは言葉つけたり、感情いれたり、表情つけたり、衣装きたり飾って音声を、ごまかせるのに対し、奏者は真っ暗のなかで弾いていて、その音だけで働きかけるということをクリアしてきた人たちです。その違いがわかればよいのではないかと思います。ピアニスト1つとっても、学生が弾いているのとプロで弾いている人とはまったく違います。そのへんは少しずつ敏感になって、こやしにしてください。