一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン録2 21919字  913

レッスン録2   913

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【音イメージ/とりくみ】

【ギターよ静かに】

【愛の真実】

【失われた愛を求めて】

【私の孤独】

トレーナーレッスン

アメイジング・グレイス

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【音イメージ/とりくみ】

 

いくら自分で勉強していても、自分でやるときに勘違いや、イメージの方向の違いのようなものでうまく学べない人がいます。音楽というものは、すぐれているものとすぐれていないものがあります。すぐれているようにやろうとしても、よくよく学んでいないと、できないのです。

 

その基準というものは、誰かが示すのではなく、自分でわかってこないと、どうしようもありません。絵などよりもずっと独学の難しいだと思います。これは、よい、だめというのを、なぜだめなのですかと聞かれても、だめとしかいいようがないときもあります。理屈をつけても仕方がないのです。勘違いをしていでも、そのプロセスのなかで全てを否定することは、やりたくはありません。なぜ、それが完成した形で取り出せないかが、自分のなかでわかってきてはじめて正せることだからです。

 

特にポップスの場合は正解がありません。しかし、できている、できていない、違う方向にいっている、いっていないということは、案外とはっきりしています。それをこちらがいうのではなく、自分で感じて直さない限りは直りません。自分が聞いているところでは正解かもしれませんが、自分がやってみたところで大きく間違う。間違うのは条件や状態が伴っていないから、正しいのですがそれがわからないことが間違いなのです。

 

 

入り方のところ、終わり方のところ、盛り上げ方や、つなげ方のところ、それだけで、わずか2秒か、3秒ですが、それをうまい人がやったら、そこに音楽が生じ、心地よくなったり、気持ちがよくなります。まったく違うものがでてくるのです。そうではない人がやったら、心地よくないものしか出てきません。

 

音程やリズムの問題もありますが、それよりも、レッスンで何が宿ってくるかです。そこでは、自らつくらなければいけないという意識が、必要です。つくらなければいけないという意識を持たずに、できてしまうという人もいますが、それは、つくっているということです。

 

難しいのですが、つくろうと思って、ただ違う事をやってみたり、何か感覚的にまねてみても、これは通用しません。このフレーズをやった後に、やり終わった何か一つを外にだしたという実感が自分にあって、それが少なくとも、ここで聞いている人間に伝わったという感覚がないままに、フレーズを終えてはいけないということです。

 

 

発声や、技術に入るときに、自分のイメージとそこがどうしても合わない、あるいは、つなげるときに、自分はこうつなげたいのに、つながらないからというところで、初めて課題が生じて、その課題をつめていけるのです。それが見えないうちは、本当の練習にはならないのです。

 

他人のものや、レコーディングされたよいものを聞けば、それが一見、わかった気になるのですが、何よりも自分のやっているところを客観的に評価することが大切です。スポーツで考えてみると、小学生の野球選手でも、プロ野球のつもりでやっているのですが、映像で見たら、なんて無様な格好でやっているのだろうということが、初めてわかるのです。それを、自分で現場で瞬時に読み取って、どう修正してよいのかを考えていくのです。

 

最近のアメリカのもの、これはクインシー・ジョーンズがプロデースしたものですが、プロデューサー、アレンジャーなど、まわりの耳のレベルがすごいから、よい作品が求められ、生まれるのです。日本でヴォーカルが育たないというよりも、そのスタッフの翼と厚さが徹底的に違うのです。こういう土壌のところでは、すべてが完全に近いパッケージ作品として、加工されるのでヴォーカルも、大きく直しようがありません。私も口を挟めません。それでやっているのだから、それでよいのではないのとしかいいようがありません。お客はそれでも買って満足するのですから、大量生産された缶詰CDです。

 

 

本当は、そこにいろいろな展開の可能性というものが見えてくると、まだよいのです。ヴォーカルの力が左右するのではなく、どれをやってもアレンジャーの力で、それなりのものが引き出せるようにつくっています。だから、終わった後にも、もしかしたらこの方向に伸びていくのではないかなど、いろいろな方法がとれる可能性をつぶすのです。どの方向でヴォーカルが歌ってみても作品になるようなつくられすぎた基準が完全にはいってそれに合わせているだけです。

 

日本のものは、この間も、あるヴォーカリストのCDを聞きましたが、アレンジャーもバンドもわかっていないばかりか、ヴォーカリストもまったく、音のことを意識していません。たぶん、欧米の彼らからみれば、日本人のは小学生のサウンド作りのようなものになっていると思います。

 

ヴォーカルの場合、難しいことは、日本ではこういう環境下で、それを1人でやらなければいけないことです。当然、そういう人達がいたらよいのですが、せいぜい、CDの吹き込みに対して、どううまく聞えるかという調整くらいでしかやらないでしょう。芸術的な完成度というものはまったく問われません。文化のインスタントラーメンです。

 

 

ここでもすぐに歌がだせるように、家で整える練習をしておいてください。

ポピュラーですから、クラシックのように声がバーンとでてなければいけない、響いていなければいけない、にごりの音があってはいけない、ノイズがあったらいけないというような聞き方を私はしていません。ハスキーな声でもよいのです。しかし、そこでみたときに、一つの統一性があるか、ないかということが決め手となります。それを自分で問わなければいけません。

 

自分でそれがわかって煮詰めでこないといけません。3回やったら、3回目が一番よくなってくれないと困ります。こういうことを、発声のせいにしてはいけないということです。これは、声がうまくでるようになったからといってもできることではありません。発声と作品にすることとは、違うのです。この短3度、実際には2度しかない中で、音がでないということも、この長さを延ばせないということもないでしょう。

 

問題なのは、そこにかける集中力と、音の世界をそこで知っているか、知っていないかです。皆さんの音楽にならないのは、それが浅いからです。全部見え過ぎてしまっているからです。奥行きがまったくありません。つまり、裘しかみていないし、感じてもいないのです。

 

 

「タタータタ~」で、だしたと思ってしまっています。ことばでいうと、「ワターシハ」と、こういう感じです。それをどういうふうにしなければいけないかということを、同時に考えていかなければいけません。難しいのですが、これがすべてです。これをやりたいがために発声をやったり、歌を歌ったり、ことばのことをやったりしているようなものです。

 

自分で、できていないということを理解して、何ができていなくて、どうすればよいのかを考えてください。いろいろな方向性があります。少しは音楽に近づいているとか、音楽が奏でられていると思うようなところがあれば、それを大きく取り入れてみることもよいと思います。それを繰り返すだけです。歌の世界です。身近過ぎて、難しいということはありません。

ただ、1回しか順番が回ってこないときに、それをすぐにだすということは、難しいのです。しかし、それでだせなかったら、どこにもでてきません。

 

特に歌の場合は、歌い上げていくと、最後までそれだけで終わってしまいます。そのあたりは、基本からきちんとやっていくことです。基本の声がでたからその音楽が宿るのではなく、音楽にするために何の要素がそこに必要なのか、どういうバランスで響かせると自分のものがきちんと相手に伝わるのかということを徹底してやるのです。すると声量や声、キャリアは関係なしに、それなりの作品になります。

 

 

作品にすることを徹底して最初からイメージしていくからです。それは、声楽科の音大生以上に、ここでやる場合は、本当は早急な課題のはずです。音大で5年もかかることを、たった2音~3音だったら、1年か2年でできるだろうという前提でやっているのです。そのことに感覚がいってなければ、やはりでてきません。

 

別のアプローチを、ことばの方からやりましょう。ドレミファソだけにすると、とりやすいので、よくやります。発声でよく使うスケールは、それっぽく発声がかりやすいのです。ですから、そこに同時に表現をだすことは、発声をやっている人の方が難しいかもしれません。

 

 

「しっているさ」をドレミミミでやってみてください。発声の勉強をやりながら、音楽の基本的なこともやっているのは、これをやっておくことによって、はいるところですぐにはいれる、切るところですぐに切れる、一つひとつの音を確認しなくとも、をきちんと張って、そこのなかでポイントがずれないためにやるのです。ここでは、音あてを目的にやらないでください。

 

それを目的にやったら「しっているさ~」のようになってしまいます。トレーニングというものは、部分的な目的に対し、その部分をきちんとやっていく。しかしそれをなるべく作品に近い状態で取り出すことが実践的なレッスンです。キーはどこでも構いません。

 

歌詞がついていないものは別ですが、そうでなければ歌の場合、ことばがイメージを伴って聞こえてこなくてはいけないということです。何も聞えていなくても、ことばがばっと聞えればよいのです。ことばで「しっているさ」といっても「しっているさ」と聞えるのですから、それに高々このくらいの音がついていて、「しって~」と、こんなふうに聞えたら、そこでよくないと思ってください。

 

 

ことばでやってみましょう。どのくらい伝わり方が違うのかを比べてみてください。これでは劇団でも降ろされます。1年目でも生き残れません。たった一つの台詞しかなくて、一回の出番しかなくて、それしかない役だとしたら、そんな表現をしますか。そのことに何年かかっているのでしょうか。

 

要は、日常のなかで切り離しができないのです。いつも、だらだらしていることをここにきても、また、だらだらといっているのです。ここが甘いから通じているようにみえるだけです。歌になっていきません。そのことばかりやっているのなら、ことばを発するその瞬間に切り替えなければよくないでしょう。

 

でも場面はいくらでも切り替わります。場面よりも早く自分が切り替わっていなければ表現をもってこられないのでしょう。そんなに難しい課題ではありません。ただ、いろいろなレッスンがあればあるほど、皆さんの方のそれに対する集中度が100パーセント保てないとよくないということです。合宿などでは、半日くらいが過ぎてくると、何をやらしてもそういう状態になるのですが、その状態までもっていくことに、時間がかかりすぎ、そのうちそこにもっていかないうちに終わってしまうのが素人です。

 

 

ですから、トレーニングもそんな状態でやって、それが舞台にそのまま出てくるのでは困ります。そこが一番難しいことだとは思うのですが、その厳しさをもっていないといけません。そのために走ったり、柔軟をやったりして鍛えているのでしょう。その結びつきのところをときに取り出すためにこういう場にでることです。

 

できないことはよいのですが、できないことをきちんと踏まえて、できるためにどうすればよいのかを考えないとトレーニングになりません。グループなどの集団でやっているときに一番よくないものに染まってしまいがちです。特に日本はその傾向が強いのです。そこで自分が切り取った世界を出さない限り、何の表現もできません。

 

舞台を持っている人との一番の違いは、彼らは、ようやく出番が得られてたった一つの台詞しかない。そこで徹底してやります。そうしたら、その台詞で覚えたことということは、こういう場に来てもいえるのです。そういう経験を積んだ人は、入ったばかりでも、それなりのことができます。舞台へのスタンスがあるからです。

 

 

そういう人達が、ここにいて、1年経って、そういうことができなくなるとしたら、こなかった方がよいということになってしまいます。ステージ実習やライブ実習でも同じことです。結局、歌うことをやっていたり、ことばを読むことをやっているのではなく、それを出すことで伝えることをやるのです。出せなかったことに対して、次にだすためにトレーニングで埋めてくるのです。

 

その繰り返しでないと、あるレベル以上には乗っていきません。その上で、先ほどのような高等な課題を今は今なりにできるところまでやるしかありません。2年、3年して何かわかってきたとしたら、わかってきたものがでてくるでしょう。とてもストレートです。

 

 

 

「知っているさ 1つの愛は」も「あいは~」とならないように気をつけてください。この辺になると、イメージというよりも感覚の問題です。音は、「ドドドレミミミ」です。ことばをいってみてから、メロディをつけてやってみてください。

 

今は、ことばなり、声のほうから表現に入っているわけです。日本人が外国人と違う事は、日常のなかで充分な音声の表現をしていないことです。今、皆さんが「1つの愛は」といったところで彼等は日常、すでに生きているのです。そこは、向こうの人がここに初めて来てもできるのですから、トレーニングとしては最低のラインです。

 

一番の基本ですから、間違うこともないでしょう。それが、あっているか、あっていないかを、今完成した作品として問いているわけではありません。プロデュース的なことも入ってきますので、これはまた別の意味づけになってきます。

 

 

今、感じ取って欲しいことは「1つの愛は」とやったときに、そこにあとで盛り込める可能性をみておくということです。この表現の出し方でやっていたら、もっと変化がつけられる、もっと大きく作れる、もっといろいろなものを伝えられるでしょう。そこで動き出してくる声に音階やリズムをつけたものが歌となるのです。

 

別にメロディをつけなくてもよいのですが、ただ、そういう方向での動かし方が一つありますから、その動き方を自分で感じていって、そこにいれていくのです。日本語の場合、離しいことは、音語のなかで出しているものがなかなか音楽になりにくく、意図的に音楽にしなければ音楽にならないのです。言語というものがあっても、それをまったく使わないで、ことばも使わないで、歌い上げたり、歌の方から入らざるをおえないのです。ことばのもつ音声の力が弱いからです。

 

ここでやっていることは、「1つの愛は」と体の底から雪ったら、そこの動きがあるのだから、それで半オクターブ、シャウトでき、1オクターブはいえるようにして、それから音の表現をつないでいこうということです。時間がかかることですが、そこで問われている表現というものは、「1つの愛は」とパッといえてしまうのです。

体が使えるから、バーンッとでてしまう、しかしそれだけではなく、そのときには、そこにきちんと含みを持たせる器を作っていくのです。その表現の可能性を自分で考えることです。

 

 

100回、1000回とやって、そのなかで1回でも自分と一番親しくなるような表現を見つけるのです。今は表現にならなくても構いません。壊れても、つっかかっても、最まで、きちんといいきれなくても構いません。ただ、それが呼吸や技術が伴ったら、バンッと出せるだろうということでなくてはいけません。

そうでなければ、アマチュアっぽくまとめてしまえばよいので、体を使う必要もありませんし、技術も必要ありません。それは歌をこなしやすくはなっても歌えるようになることではないのです。

 

ことばはことば、フレーズはフレーズ、音楽は音楽ですが、最終的に、それは1つです。自分の感覚だけでコントロールします。結局息だけでコントロールするということですから、それを邪魔する要素が入ってはいけません。全身を使うことと、五感を全部使う中で、それを捉えていくのです。その変化を自分でよく感じることです。

 

同じ力があっても、それをどう見せるかというときに、どう伝えるか。それが、どんなストーリーか、どんなことばか、ことばも関係ない音楽の世界をとるのであれば、それが音として、声と息が、その世界のなかで外国人でも日本人でも聞きたいときに、何か引きつけられ、その先が聞きたくなるようなものをだすことです。そのときにたとえば音程のズレや、声がうまく切れないということは、聞いている人にとって、不快なわけですから拒絶されます。この点で、日本人はとても寛容で、困ったものです。そういうことを練習してはいけません。

 

 

いくら声がでかくなっても、いくら息を使っていようが、それを気持ちよくしなければいけません。ただ、その気持ちよさというものが、やわらかくだすのでもきれいに響かせることでもなく、しぜんであることが大切です。力強さや裏づけのパワーが必要なのです。順番からいうと、そちらの方が先にでますから、少々、形が破れても汚くても、半分しか完成していなくても通じるものがあればよいのです。

 

100の力がでる可能性があったら、10で慣らしていくのではなく、最初に80使っていて、後の20になって最後、息が切れてまったくいえなくなってもよいから、最初の80のところを、さらに100にするようにしていくのです。先にその瞬間をつかんでしまうことです。場を自分の体で動かしていることをつかんでいくことです。

 

 

「ドドドレミミミドレミソファ」「いつまでも」です。これは難しいかもしれません。上、下降しても全部が同じようにでて

しまうような揃え方をするのではなく、どこか1か所でよいですから、ここは表現できているというところを見つけて、そこのキーで表現することを勉強しましょう。それができたら、初めて2度下がろうが、半音下がろうが同じ力を維持できるのです。そういうところで少しずつ音域を拡げていくことです。やり方は自己流でも判断は他人から学べることです。耳で聞き、自分でことばを回転させてやっているなかで学んでいくのです。その学び方を教わることです。

 

音楽を提示するということを目的に絞っています。それ以外のことを最初から入れすぎると、ややこしくなってしまいます。「つづかないと」「でもなぜか」レミファブァファと続きます。私が見本を見せると、強く影響を受け、それが全部間違いになります。技術は伝えられても、表現の仕方は伝わりません。私がやると、こんなに力を抜いても全部正しいのですが、それは自分の表現と声を知っているからです。

 

自分で「でもなぜか」を100回、やってみて、そこでこれだと、自分で決めてみてください。そうではないと、その人間の表現がでてきません。オリジナルのフレーズ、他の人のもの、その人の個性がでているところは、まねてはいけません。まねてよいことは「でもなぜか」と体と声でいうところ、そういう基本の部分、内部の感覚です。

 

 

そこは、皆さんのなかに、たくさん材料がある中で、自分が「で」をのばしてみたらどうなるのか「も」に入れ込んでみたらどうなるのかなどを試していくのです。そのなかでその人にピタッとあったものは一つくらいしかないと思います。その一つがきちんとできていたら、そのなかでいろいろと展開してみたり、少々ずらしてみても表現になるのです。そんなにたくさんはないはずです。

 

その方向でわかってきていることのみが表現の勉強になるのです。その人が100個だした中でしたら、どれがそうではないとは簡単にいえるのです。しかし、違うものを否定していても、何かがでてくるわけではありません。

本能的に自分が感じるものでやったときに、自分で納得しなければ本当のお客さんも納得しないでしょう。

 

自分で心地よいということです。それを外から見ていて、心地よいかどうかということは、なかなかわかりません。体を使うことは、きついものです。そのきつさで伝わるというよりは、そこの快感、気持ちのよい感覚のなかで伝わることです。どんなに体を使って息を吐いていても、伝わったということは気持ちがよいのです。

 

 

伝わるために歌うのです。その感覚のところで鈍感な場合は、これは歌に向いていませんし、それを鋭くするところをやらなければいけません。自分だけで何かを勝手に作ってしまったというものは、何か寂しく、後悔をします。そういうことに敏感になることです。

 

歌の前や、1曲歌った後にどのくらいあけるか、すぐに歌に入るなどのプロデュース能力はヴォーカルにも当然必要です。何で3曲連続して歌うのだとお客さんに思わせるのではなく、3曲で一休み置きたいなと思うから、MCを入れたりするのです。そういうことは、歌のなかでも当然行われています。そういう感覚で動いていく世界です。そういうことを感じ考えなくてはいけません。

 

それから、音程を消すということです。本当は音程、音感をつけることをやらなければいけないのですが、日本人の場合は、音程しかつけません。ですから、音程を消せといつもいっているのです。はずれてよいということではありません。ただ、音程をとろうとしてやるなということです。やり終わったときに音程がきちんと定まっているようにするのです。後で楽譜を書いてみたら、その音程になっているということです。これは歌い手を聞いていたらわかるでしょう。

 

 

ことばでやってからでも、そのままでも構いません。

オリジナリティというものは、それをやったときに、聞いている人間がその先を聞きたくなるかならないかということです。その人がでていたら、もっと語って欲しいと思うでしょうし、そこで完結してしまう場合は、うまくてもそれで終わりです。何も残りません。たとえ、しっかりとことばがいえていても終わってしまう場合もあります。

 

歌い手の難しいところは、感情、心で伝えておかないと、聞いている人間が、先が聞きたい、先がどうなるのだろうという期待感をそこで消してしまうのです。そういうものは、音もことばもメロディもいろいろなものが総合してついています。

 

どこの力で引っぱっているかは、個人の差があります。当人がその世界にあることと、技術ということでいうと、思いきりやってみて、そこで疲れた、あるいは、もう同じことが2度とできない、3回くらいやったらこの人は終わる、と見られたらよくないということです。

体力も必要、集中力も必要、技術も必要というは、そこから大きく展開していくのだろう、何か違うこと、まったくすごいことを見せてくれるのではないかということが期待としてあって、初めて、サビの方にいけるのです。

 

 

もう1度、自分のなかでオリジナルの声というものが何なのか、オリジナルのフレーズというものが何なのか、最初の部分と、いつもやっている部分とがどうつながっていくのかを、みてください。結局一つなのです。それをもう1度確認しておいてください。そうでないと、振り回されかねないでしょう。

 

 

 

 

 

 

【ギターよ静かに】

 

なるべくステージに上がって、声を少しでも広いところで出す体験を積んでください。自分の好きな声でやってください。

 

この曲は2オクターブ近くあるわけです。だから、皆さんが歌っても、歌えないわけです。1オクターブ声がそろってなければよくないでしょう。日本人の感覚と違うのは、高低が出てこないで、1オクターブ半くらい握っているわけです。私は、直観的にこちらの方が簡単だと思いました。単純にいうのだったら、声もかすれているし、そんなに体を使っているようにもみえません。

 

「ギ・ター・よ・あ・の・ひ・と・に・ー」と歌うよりも、「ギターやあの人に伝えておくれ」と何かつぶやいているように、いった方が楽ではないかと、思いました。しかし、それは条件のできた体でやらないとできないのです。

ここからサビにいきます。サビに入るまえに(「涙にぬれたから」ラシ♭ラシbラソファ♯ソソーファラドラファミレソーソシレファミレミド)。

 

 

いわゆる音にあてるという捉え方と、そこの音を動かし表現するということは違います。この延長上にポップスがあります。欧米のポップスなどは日本の唱歌のような歌い方の上にあるわけではない。ゴスペルやジャズもルーツは違っても、基本的に体の感覚からいうと、よく似ています。

 

全部、痔にしてひびかせて歌いあげるという感覚ではないわけです。すでにある声を飛ばすのです。もっとシンプルにいうと、日本人が高低でとっていくのを完全に強弱だけでもっていくとそうなります。強いところに、より体を使う、その反動で入ってくるところが弱いところになるというだけです。

 

ほとんどポジションを変えないで歌っています。そのかわり、その分、それを支える体がものすごく強いのです。2オクターブにわたって保っています。ただ、ひびくところはしぜんにひびいています。ひびかしているのではありません。彼らが盛り上げるというのはこういう意味です。

 

 

これは、アメリカになるとかなりひびきの方に上にもっていきます。ジャズになると、サラ・ヴォーンなどは、どこへいくのかわからないところまで上下差を大きくもっていきます。特に西欧は声の質感さにこだわっているようです。特にイギリス、東欧、ロシアあたりになると、明るくひびかせることなど、考えないようです。

 

こういうふうなバンドが一番、喝采をうけていますね。高い音がでないのではないのです。これで高い音なのです。一緒に歌ってみたらわかります。皆が、テノールバリトンを聞いたらわかるはずです。音色が太いと高く聞こえません。アジアの方が少し軽いです。高いと淺いという感覚が、日本人の場合ありますがそうではありません。このあたりから、感覚を変えていかないと、やっていても伸びません。

 

それから歌を歌っているという感覚の人は、最初のところをから、歌えていないということがわかると思います。どうしても、唱歌や声楽曲、ナポリターナというのが歌という感覚が入っていると、こういうのが歌だと思うのですが、音をおいていく感覚とそれを支える体が基本です。

 

 

私たちが聞くと日本人の感覚で捉えますから、なんか口先のマイクで、(谷村新司さんが歌っているように聞こえるわけです。実際はマイクを離して体からそこまで絞り込んでいるのですが、感覚がまったく違うため、わからないわけです。ヴォリュームを大きくすると、息の使い方や体が動いているのがわかります。

 

アメリカの音楽でも、ヴォリュームも殺って聞いていますから、BGMとして心地がよい、楽に歌っているという感覚で捉えます。できた人にとっては楽に歌っているわけではないのですが、それは子を自由にしないと心が入らないからです。練習するプロセスであれば、そこまでの息と体を読み込まない限り、同じ感覚は保てないわけです。

 

要は、どちらがよいかということより、日本人の場合は、器用に体を伴わない口先若くして音を高くヒットさせることにたけた人が主流にのりやすいということです。そして、問題はそうではない人がそれを器用にこなすのは難しいことです。これを発声の問題で片付けると、先天的なものに負う部分が多く、有利な人しか上達しないし、しかも、それでもそういうことなしにできてしまった人にはかなわないものなのです。ですから、ルックスや体型と同じく、トレーニングをあまり、当てにできないところです。つまり、トレーニングの目的におくべきことではないのです。

 

 

「ギターよ静かに」(イタリア語)

こういう感覚でとても強弱がついています。小さく聞くと、まったくわかりません。だから、それを入れて欲しいです。それが入らないと、声は捉えられず、逃げてしまいます。

 

「ギターよ静かに」(日本語)

皆のを聞いていると「ギターよしずかにー」という感じで日本人の日本語そのものの感覚です。でも実際、ステージをやっている人というのは、絶対にそんなことはありません。大きく聞くとわかります。とりあえず、イタリア語で入るのは難しいので、日本語で入ります。ただまねるのではなく、感覚と大きさをまねて欲しいです。息がとても深いです。

 

「ギターよあの人に伝えておくれ」とやってみましょう。ことばでいってみてください。聞いている人はわかりますね。「ギターよあの人に」といえていることが、歌になると全部、表現が引っ込んでしまいます。これが日本語の言語感覚です。実際に音がついたりフレーズがついていますから、そこを解決するために体と息を使わなければいけません。そのためには、一つに捉えなければいけません。ここは、感覚です。(「つめたい」でいっているところです。

 

 

「ハイ」などを練習して、「ギターよ」といっていると、そこで「ター」で「ギターよ」となるのです。そこで「ギター・よ」とやってしまうから、体が使えなくなってしまうのです。そこは、体で調整するしかありません。同じ音ですから、これ以上、簡単なものはありません。

 

「ギターよー」これを「ギーターよー」と音にあわせてしまうと、歌になりません。「ギターよ」というときに「ギターよ、あの人に伝えておく」というニュアンスをいわなければいけません。「ギターよ~」こういう感覚は、絶対にないわけです。ことばでいえても、役者ではないですが「ギターよ、あの人に」とはいかないはずです。「ギターよ、あの人に」とそこに絶対、その人の呼吸が入るはずです。

 

 

とにかく、そこに歌であれことばであれ、フレーズの感覚というのが出てくるわけです。ことばを音楽的にするというのは、そういうことです。音色がないとそれを音楽にはしにくいものです。

岸洋子さんのも、これが、平行に4本あるのでなく、大きくしないとわかりません。わかりにくければベースの音(主として第1拍のみ)だけを歌ってください。

 

次にコード進行を意識して、1、3拍のダウンビートを音の点を楽譜を声におきかえるようにとるのでなく、そこのなかの体の感覚のところに、いいたいことを声を通して、音にしてみましょう。正規の教育を受けたため、歌う感覚が宿らず、音だけとってしまうくせがついてしまい、そこから抜けられない人が少なくありません。

 

ピアノでも10代なら、それでよいのですが、その技術にその人の感情、感覚が伴わないと表現になりません。「ギターよあの人に伝えておくれ」ということですから、当然、その線上から外れていて口だけが「ギターよあの人に」というと伝わらなくなってしまいます。ことばで「ギターよ」といってから、「ギターよあの人に」、「伝えておくれ」までやってみましょう。

 

 

単純に声を出すことより、ことばを伝えることの方が体を使うし、ことばを伝えることよりも歌にすると、もっと体を使うのです。実際のステージがどうであるかは別にして、そのプロセスということであれば、そう捉えるのが原点です。それと共に、何年もやっている人たちとの違いは、体が強くなると、歌では何をやらなければいけないのかがわかり、瞬時に心が働くのです。20回やらなければできないことが1回目に働く。他の人が100回やることを1回でできるわけです。もちろん声がいくら出てもわからない人もいるわけです。

 

そういう世界のなかのものを自分でフィードバックしてください。イメージでいつまでも「ギターよ、あのひとーにー」が歌だと思っていたら、上達しません。最初のトレーニングで「ハイ」というのをやっていますが、「ハイ」というところと「ギ」でやります。「ギ」で入れないのは、難しいからです。「タ」も難しいです。カ行、夕行、サ行は口先に出やすいので、あまり頭に入れて欲しくはありませんが、難しくしないことです。

 

全て「ハイ」とやるのだと思えばよいのです。そこで「ギ」でつくったり、「タ」といおうとするから難しいのです。聞いた通りに向こうのをやってみて自分の体でやってください。調音レベルでの発音からやらないことです。

「イエス」でたとえていることと同じです。まず、ことばのところで「ギ」といえることです。「ギター」「ギター」、これを「ギターよ」というのではなく、「ギターよ」と、伝えるにはそれだけ体を使わないと、同じところでいえません。それはセリフとしていうときにも同じです。

 

 

もう少しシンプルにしましょう。「ハイ」といってみて「ギターよ」といってください。ピアノをつけると「ハイ」「ギターよ」「ギターよ」、と3つとも違うのですが、それをやってみましょう。これは、「ハイ」といって「ギターよ」が出てきて「ギターよ」と歌が出てくるのではなく、「ハイ」といったときに「ギターよ」というのを念頭においていて「ハイ」をとらなければなりません。

 

要は、「ハイ」というのが「ハーィよ」、ここに「ギターよ」というつもりで音をおきます。ただ言語が日本語ではなくて、「ハイララ」などと同じく強い表現力をもつことばで生活しているのです。「ギターよ」といって、「ラララララ」といったら「あの人に」と聞こえるという感じです。

 

根本的なところでいうと、「ハイ」「ギターよ」といっているところはオリジナルな声といった部分です。だから、「ドドドー」とつけば、ここにフレーズがつきますから、オリジナルなフレーズの部分となります。

たとえば、一音「ハイ」ときちんといえて、「ギターよ」といえていたら、声があるということです。

一音ではよくないです。それから、それをタッタッタと3つ「ギ・タ・よ」そして、これをきちんとフレーズのなかで、動かせたら、音楽が生じます。ここにその人のフレーズがでてこないとよくないのです。

コールユーブンゲンなどは、使い方を間違うと、単に音あてで歌が歌えるというような練習になってしまいます。

 

 

「ギ・ター・よ」は「ギターよ」で合っているし絶対、間違っているとはいわないのですが、フレーズにはならないのです。フレーズとは「ギーオ」というなかに「タ」「よ」というのがある。あるいは、「ギターよ」という一つのがあって、これが「ギターよ」と伝えるために3つ以上の音で展開しでいくわけです。つまり型があるのです。「ギーターよ」とか「ギターよ」「ギターよ--」これに、正解というのはないです。だだ、すぐれているのとそうでないものを感じ分けていきましょう。

 

その人が体から素直に息が吐けて、表現と呼吸とが一致したら、正解です。ここが一番難しいところで、私やトレーナーが教えないのではなくて、私たちがみせられることというのは、あくまで自分の呼吸での一つの演奏のタッチです。ヴォーカリストの演奏したタッチの一つ。

 

ここもいろんなヴォーカリストを使っているのは、特定のものが全てで正しいという影響を受けさせたくないからです。受けさせたくはないのですが、そういう人が皆、もっている共通の感覚はあるのです。その感覚で出したものを上っ面だけまねしてしまうと、よくありません。一時、まねするやり方はあってもよいですが、入り込むだけでは抜け出せなくなります。

 

 

影響を受けすぎてしまうと、それが、自分にまったく合っていない場合がにわからないこと多いのです。深めていくとそうなるはずです。自分が生理的に「ハイ」といって、体でいえている。息も動いているというのであれば、それが一番正しいのです。

 

ここにきて、いきなり発声練習したあとに、すぐに「ハイ」といっても、すぐにそこに入れないでしょう。のどが開いていて、体が動いている状態にならないからです。それを自分ですぐにもってこなければいけないし、その状態をつくることです。息を吐いたり柔軟したり、飛んだりはねたり、いろんな調整方法をして、体を扱いやすくします。ヴォイストレーニングもその方法の一つに過ぎません。

 

歌の出だしのときに「ギターよ」とならないように、そこにもっていくわけです。それを、常時、取り出さないとよくないです。それを「ギターよ」ときちんとなったのが、「ギターよ」その線がきちんと出てくること。これは、「今一」のところになってくると必要ですね。

 

 

「ギターよ おくれ~」

これも日本的で「おくっれー」と自分のなかで聞こえるようにコントロールしているわけです。だから、こういう面でいうと、日本の方が複雑です。複雑だからきびというのをうまく出さないと作品として味もそっけもないわけです。淡々として歌っているだけではつまらないといわれます。

 

しかし、向こうの人たちは、ただ淡々として体を使って歌っているだけの場合が多いです。それをきちんと旋律でとっていて、そこに強弱を入れることによって、しぜんに放り投げています。楽器がバーンッていうことに何か聞く人が感じるのと同じように、聞き手の方が主観的に読み込んでいきます。日本の場合は、それをつくってみせてやらなければなりません。「おくれー」といわないと、なかなか客が反応してくれないのです。そのあたりは文化の違いです。

 

 

「なみだにー」

たとえば、この「なみだにぬれながら」の「ラー」こういう「ラ」というのはとても離しいです。1回、クレッシェンド「ラ<」という感じです。こういうのは今までの歌謡曲の特徴ですから、そこにもっとメリハリをつけてみてください。しっかりと歌っている人、美空ひばりさんなどを見たら、そんなものつけずピーンって扱っているだけです。そのおき方がとても感覚的なものだけで、素人がへたにまねすると底がみえてしまいます。

 

レーニングではどうしても意識してから動かします。ただ、何回も欲が出て、意識しないでできてしまうようになって、それで作品になるので、そうでない人たちというのは、それがみえますから、カラオケみていたらわかりますね。そんなのは作為的でいやだなと思わせたらよくないです。

 

それは「なみだでぬれながら」の「がら」、これでよいわけです。「がらー」こういってみて「がらー」これでよいわけです。体がその通りに働くようにやっておけばよいわけです。打ったあとにへんにくせをつけなくても、打ったらそのままふり切ればよいだけです。そうでないと、また戻らないということです。

レーニングのなかで気をつけなければいけないのは、日本人のやり方をとっていると、どんどん思が強くなっていえなくなってくるわけです。「ギター」「ギターよ」は、きれいですが、ここになったら今度は「あ」というときに「あの人に」、こうしか入れなくなってしまいます。

 

 

「ギターよ」あるいは「ギターよ」と「よ」で代表され、ここで「よ」で捉えると握っておけば、「あの人に」にそのまま入れます。「あの人に~」とこうなってしまうと、岸洋子さんでみるように「に一伝えて」ともう一回、入れなおさなければいけなくなります。どんどん分断されてしまいます。その結果、大きなスピード感とかメリハリがなくなってしまい、歌の動きが止まります。

 

必ずポジションは同じところにしておかないと、狂っていきます。向こうの人たちをみると「よー」と逃げていても「よーお」と息で戻すわけです。「あの人に伝えておくれ」と同じところです。「おくれ」というという感覚がないのです。あてるのでなく、おくだけです。このおくことをひびかすといいます。つまり、日本人の多くの人の発声のように、芯がつかめていないためひびいているのでは歌にならないのです。

 

向こうの人たちが感覚がないわけですから、必ずそっちの方へひきずられるのはあたりまえです。だから、同じことを100回くり返せるようにするということです。1回やるごとに違うところで終わるとトレーニングにならないということです。どう使おうかはどちらでもよいと思います。

 

 

「涙」も、「なみだにー」と聞こえますが、「なみだにー」を一つでとるという感覚です。そのまま入ってみましょう。

「なみだ」といって「なみだに」(レミレミー)これだけです。「ハイ」「なみだに」がもう少し高くなるだけです。そのときに、「なあみいだあにいー」という感覚はないです。要は、高くなった分、体を使わないといけないのです。ことばでいってみるか、直接、メロディに入ってください。

 

ひびきでとっていると、どうしても(レミレミ)となってしまいます。この感覚だと、尚さら「なみだにー」となってしまいます。間違いではありませんが、そのようにやったら大変です。3分もバタバタとやらなければいけなくなります。

 

ここでとる感覚などではなく、これは「わかれ」といってもわからないのですが、いわゆる呼吸でとることです。ことばにすると、もう少しわかるわけです。「なみだに」とはいわないですね。「なみだに」をもっと大きな声でいおうとしたら、その感覚は、「ター」のなかにあります。りタラララー」「ラ・ラ・ラ・ラー」これを均等に分けているわけです。

 

 

それをまず一つにいれて「タラララー」「タラララー」というところできちんと体を使っていきます。そのときに、口先でやってはいけないのです。それを、「ハー」ときちんと用意してやって、ここから「ハー」とこのぐらいの息を使わないとできないということです。できている人は、息がそれだけ回っていますから、その上で「なみだにー」とここでいっても、何らかの形で「な・み・だ・にー」とはならないわけです。

 

大切なことは「なみだに」と伝えなければいけないことばでいったときにも「な・み・だにー」にはなりません。「なみだに」「なみだに」「なみだに」となにか違う形でアクセントが、簡単につけましたが、長短にも関わってきます。(この点で英舗は動かしやすいのです)

 

練習のときは、なるだけ音質もそろえなければいけません。そろえるというのは、高くして長くなるときに難しくなります。たとえば多くの人は「ギターよ」「ギターよ」「ハイ」といったときの「ハイ」の時間に対して「ギターよ」というときは少し長くなります。

 

 

歌ったときには「ギターよー」は歌う前にまず長くするということで、とても難しくしているわけです。日本人の場合、強く醤おうとしたら、魚に高くしてしまったり、長く伸ばしたりする傾向があります。これは、言語の感覚からきています。ところが強くするのは「なみだに」というのは「なみだに」。強く体を使い、息を吐くだけなのです。

 

急に難しい設定をしないことです。「ドレミレド」で練習していたらよいのに、「ドレミーレード」これは高くして、さらに長く伸ばしていて、さらに「ミ」という音にしているということで、3段階上の練習をしているわけです。だから昔、公文式みたいに、できるところまで下がって、それでできるものだけやっていたらよいのです。同じ考えでできないところの練習をするからだめで、できるところをより確実にやっていったら、次にいけるわけですね。でなければできないのだから、下がればよいわけです。

 

「なみだに」は二度ありますが、楽譜でとるのと、目的を間違えないようにしてください。「なみだに」と表現するためにやっています。「なみだに」(ドレドレ)ととるためにやっているとしたら、違うわけです。こういうところの言語感覚というのは、音の世界のある人とない人とではまったく、違ってきます。

 

 

「なみだに」というのが「なみっだに」みたいに聞こえてくるのは論外です。その人が歌うのに伝えるものをもってなければいけません。その人の意志にひきずられて、体がついてきたり、息が使われるべきであって、体を使ったら表現がでると考えるから、おかしくなるのです。

 

体を使うということはやればよいのですが、それはそうしなくとも使えるためにやるのです。ことばで「なみだに」とある程度、いえる人でも、歌になったとき、表現の意志をなくしてしまうわけです。そしたら、それは歌えていないということです。そこが一番、難しいのです。

 

 

まず、表現する意志をもつことと、何を表現するか、どう表現するかということから考えていくことです。先述のように同じ寸法で同じようなことばで回って、やってみたら違っているということがわかればよいのです。わからない人が、ほとんどです。10回やってみても、あまり変わらないのは、矯正がきかないからです。

 

間違っているというより、何が表現かという感覚がないのです。表現は伝わらなければよくないですから、伝わったというものが返ってこなければ表現できていないということです。自分の口がいっているというのはよみと同じで、心と体が一体になっていないのです。だから、そういう感覚を鋭くすることとでしょう。

 

「なみだに」と「なみだに」とを同じスピードで習ったのに、ところが「なみだに」といって「なみだにー」では、もう長さがだいぶ違うわけです、音の世界がない人にとってみたら、それが同じだと思っていっているわけです。そのあたりが0.1秒よむ人と、0.01秒よんでいる人との違いです。それはわずかでも10倍の差がでてきます。

 

 

とにかくいろんなものを聞いていって、敏感になっていくしかないでしょう。自分でやってみると、何か自分のは、おかしい、でもこちらのはおかしくとも何か、作品になっている。そのおかしさの違いというのは、最初、なかなかわからないのです。わかればできるとはいいませんが、あるいはわからなくてもできればよいのですが、やはり勉強していく分には、気づいていくしかありません。

 

「かきならすよるの~このつらいおもいをー」

こういう息で読むのは、外国人の方がよいですが、外国人は強すぎてよめないときがあります。そこが私たちには聞きづらいところです。日本人の息はどちらかというと、きちんと盛り上がりや下がり、みせてくれるので、日本人英語は私たちにはわかりやすいでしょう。音の感覚とか時間の流れをみるとわかりやすいかもしれません。内の感覚でみることです。出ている声だけでみてしまうと、音程を歌うだけで終わります。

 

 

「~はたけでコオロギ」

こういうところも楽譜で読むと「は・た・け・で・コオロギ」、にしかならないです。「タタタタタタター」、これでは音楽になりません。私がピアノを弾くのと同じです。音をおいていく、そのまえに「ターア」と働きを出していくことです。

 

「あの人はまどべで」

だからこういうところでの微妙な変化が大切です。普通にいうと「あの人は」で「あの人は」でよいのですが、「あの人はー」という変化が思い入れであったり、そのことばに関するその人のイメージですから、より情念が疲れるわけです。それを出さない限り、表現としては浮き出てこないということです。

 

「あの人は」というのは、誰でもとれるしいえるわけです。そこに入れ込まなければいけないのですが、その入れ込み方が簡単には教えられないということです。その人が自分の体で呼吸と音色を一致させて、自分の感性のなかで表現に耐えるレベルまで磨いていかなければいけません。それを間違えると、「あのひとはー」などとやっていると、何かつくりものだとか、まったく、体と合っていないとかいうように、不快ににせものっぽく聞こえるわけです。

 

 

「ためいきをついてだれもねむれない~しらべのなみだを~」(サビ)

たとえば、この「とこしえ」というところと、2番のサビと歌い方がまったく違うわけです。2番の方が、より体を入れていて「こ」を深いところでとっていながら、音をゆらしているわけです。1番は、大体、楽識に忠実な歌い方です。そういうことで組み立てていく世界なわけです。それを楽譜をみたり、歌詞をみたりして歌うのでは、よくないです。感覚的に鋭くなって、自分だったらどうするか、どういうフレーズにするのかと、それをどんどん体のなかで読み込んでいきます。

 

最初はできないというより、慣れていないので、慣れていけばよいわけです。でも、ただ慣れただけではだめで、そのあたりが上達にいる人とそうでない人との違いです。

体や声だけでいうと、声が出る人は出ます。ただ、それをどう使うかということを勉強しなければ、単に声が出るとか単に音がすぐとれるとかいうだけで、何も表現が宿らないわけです。

 

だから、表現が宿るとか、宿った表現の上に音楽がおりてくるというのはどういうことかを、声ができてから勉強するのではなく、最初に歌うと決めたときから勉強しなければいけないのです。そのことができないから、そのときに自分でそのポイントにピッといかないから、体も鍛えたり息を吐いたりして、基本の条件を整え、もっと鋭くしていくわけです。自分の基準の方が、聞いているお客よりもずっと高くなければ、いけません。

 

 

(2番のサビ)

「あの人は自由になる」「あの人は自由に」とかいう感じではなく、伴奏が出しているこの線なり、(楽譜に出ているところ、伴奏も指揮者によって、いろいろとずらしていますが、)それに対して歌い手が、さらにどうやってこれとからませていくかというのが、ヴォーカルの世界なのです。それを楽譜通りに伴奏者が弾いていて、ヴォーカリストがその上にのせていくというのでは、何も表現はでてきません。

 

そしたらヴォーカリストはいらないわけです。そのときの感覚を、一つひとつの最初の表現から問うていくことです。変にくせがつき“汚れて”いると難しいです。

これで1オクターブです。こういう感覚が日本人のなかにはないから、聞いてみる分には簡単でも歌ってみたらまったくできないのです。それはどこも接点をつけていっていないからです。体も必要だし、感覚がないとそこにいかないのです。そういうことを、覚えてください。

 

 

「ギターよ静かに」(イタリア語)

こういうつけ方をそのまままねするのではないです。これは、この人の一つのスタイルです。だから、皆がやったら絶対におかしくなります。ただこの人のなかでは正解なわけです。「時は流れゆく」あるいは、2番のあたりをやってみましょう。

 

「今」ということばでやってみて、「今」はこれだけです。そのとき「いいまあー」とならないように気をつけます。「いまー」「いいまー」とどこでもよいですから、一つに捉えてください。「い」がいいにくければ、他のことばでもよいでしょう。「ま」も入りにくいです。

 

「時は流れゆく」のところで1オクターブあります。そこで勉強をしていけばよいわけです。大変ですね。1オクターブは、なかなかできません。難しく考えると、難しいので、「今」だけでよいです。「今とこしえの」「今あきかぜの」、どちらでもよいです。このあたりになってくると、ヴォーカルらしい練習になります。自分のものがわからないうちは、他の人がどうチャレンジしているかをみてください。

 

 

 

 

 

【「愛の真実」】

 

この命消えるまで あなただけ愛したい

たとえこの愛が いつか終わるとも 今は

あなたにすべてを捧げる

どこをさがしても 広いこの世で

あなた一人だけ 愛する人

かけがえのない愛よ 今はただ尽くしたい

愛のまこと あなたに

 

ここは誰に対してもオープンにしていますが、だからといって誰もが同じ年月で同じレベルになるということとは大きく違います。他人のことばを安易にうのみにしたり、自分のいるところをさげすんではいけません。すべて、自分がやるだけやっていくことです。まず、自分が歌ったときに、作品をきちんと示せることです。その人が、その場にいることが大切であり、そういう人になることです。先生が才能を発揮できないとしたらそれも場の責任です。

 

1「たとえこの愛が~」

体の原理に忠実にとっていく。

「たとえ」はたとえという3つの点ではなく、1点でタテにひとつにとる、捉えることです。“あー”とか“ハイ”のなかに音が生じているというイメージです。区切っていくのに、のどを使うイメージではよくありません。

体を使って線をとっていくことです。日本人は、鳴っている音しかきかないようです。音のない部分はきけない。だから1音1音で鳴らしてとってしまう。

 

 

“ハイ”でとったところで“たとえ”と出してみます。“ハイ”で大きくしておいて、確実に入れていくことです。

自分がつくった動きを、自分で戻していく感覚です。そのなかでいろんな動きが生まれます。音の高低に関して、クラシックは、音があがるときはひびきにのせていきますが、ポップスはワンテンション上げる感覚で進めます。

 

2「この命消えるまで あなただけ愛したい~」

フレージングのプロセスで体を鍛えることです。音をきちんとつかめるようになることです。自分がどこが乱れたのかを自分で的確に判断していくことです。その部分をやっていきましょう。体でやらずに、のどのアタックで処理しないことです。どこかで体で次につなげておくことです。ベースの部分を走らせておくのです。

 

迷うと声がうまく出なくなります。テンションを保ったまま、大きく捉えていきましょう。そして、自分のなかでメリハリをつけることです。パルス、グルーヴがまわっていくなかで、動かしていきます。

プロは入るスピードが違う。とらえたところでバウンドして、跳ね返っていくような感じにのせていくのです。ベースは走っているが、ベースとはまた別に、イメージが動いているのです。

発声は、体にもってきてやってみます。

 

 

ロックなどがあんなにシャウトしても楽に歌っているようにみえるのは、体でやっているからです。シンプルにストレートに、その太いところできちんといえるような器をつくることです。先に何か(形を)つくろうとしない、難しくしないということです。

そういうことをやっていくのは、素振りと同じです。何百回とやる中で「あっ、今はいった」というところがあります。そこをとらえて、常に出していけるようにやっていくことです。

 

出てくるものの違いは、体や声質ではなく、イメージの問題です。

外国人は、細かくても12、34くらいでとるが、日本人は1、2、3、4と細かくとって一つひとつ切ってしまいます。息を流し息を吐き切れば、息が入りやすいのです。それによって、スピードがつきます。どういった意味を伝えたいのか。その感覚を出していくことです。動きや揺らぎを入れていくのです。

全部をやろうとするとできません。感情を込めすぎればのどがつまるし、思いきり体や息を使ったらコントロールなどできないのです。

 

今は、器を大きくするためにやっていってください。思いきりやって、やりきって伸ばし切ったところで、たとえやったことの10分の1しか使えなかったとしても、可能性がある、という方向でやっていくことです。1~2年は、歌にならなくてよいのです。あとで何かにつながっていけばよいのです。体をどのくらい使うも、歌によって決まってくると思います。体はしぜんと入るべきもので入れることではないのですから。

 

 

感情が入って、自分が働いていくときに、その幼いていくもののままに、出していくことです。動かされるままに、それを殺さずに動いていけるような楽器づくりをしていってください。

大きくイメージを読み込めば、動きも大きくなります。それに対応できる器をつくっていくことです。

 

 

 

 

 

 

「失われた愛を求めて」

 

基本の形をきちんとおさえた上で、シンプルにとらえ動かしていく。「君の心は遠く離れて」

まず、いかに忠実にとらえるかです。きちんととらえることからです。そこにWの必要性が出てきます。その上で省略していかなくてはいけない。大きなイメージは上がって下がるだけというように、なるべくシンプルにとらえることです。

 

ラシドシドシラ→ラドラくらいでとらえます。イメージとしての構成、展開に基づいてとらえていく。動かしていくことです。強拍の感覚がないとよくないです。ただ、日本は言葉や詞の拍と逆になってしまうことが多いので、難しいでしょう。

ひとつにとらえていくと体を使いやすくなります。しかし集中してとっていかないと、とらえられないのです。

 

 

「僕が呼んでも少しも聞こえない」“すこし”などで入れられる(強拍)とよいが、拍とアクセントが逆になってしまいます。

歌っているようでは、ただ歌う形に逃げてしまいます。それは作っていないからです。

集中していない。テンションが抜けてしまっているのです。シンプルにとらえるのは、動かしていくためです。

 

全部歌ってしまう必要はありません。MAXでMAXとして出していくのもありますが、ポイントをとらえて、放していく。距離が必要です。歌をもっとつきはなして、コントロールして動かさないとよくないです。どこか、止めたり、スピード変化をつけていかないと歌は動きません。

 

うまいピアニストほど鍵盤に触っている時間は短い。打鍵の瞬間の音を聴衆は聞いているわけではなく、そのひびきの織りなす線や動きを聞くからです。

打鍵のあとの空間を聞いているから、聞く時間をとらなくてはいけないということです。

 

 

「少しも聞こえない~まるでぼくは」前の音がフラットしてしまうために次に間違ってしまう。「まるで~」がきちんと下がっていけません。

特別に音にするどいわけでなく、それが普通です。何がそれよりもたりないのか、その部分でも補っていかなくてはいけません。

 

「丘の上に立ち 息を殺し見つめる君 /もう住めない 生きてゆけないと 泣きながら」

(歌い手は)間をおいて切ってしまっているがもっと1つにとらえることです。1本の線にしなくてはいけないといっても、これも全部を歌わなくてよいのです。どこが生きていてどこが死んでいて、どこが動かせて、どこが動かせないか。

どうすると動かせなくなってしまうか、体を使って、息を使って、と考えるよりも、1つにとらえてやっていけば、動いてくるという感覚が必要です。

体の動きと、心のずれを正す。歌はこのずれのなかのままで歌われていくものであるが、いったん取り出してやる必要があります。肝心のところで取り出しておかないと、後で動かせなくなるのです。

 

 

「丘の上に立ち 息を殺し見つめる君 /もう住めない 生きてゆけないと 泣きながら

/となりの街には仲間がいる /だからきっと だれかが助けにくるから 泣かないでお聞きよ」

 

音とりに終始し、フレーズ感覚にいけず、緊張感はなくなってしまっています。一部練り込んだものを出し始めたところ、とれない段階からもテンションだけは出すという感覚からは、遠ざかっています。フレーズ感覚、コード進行のなかの音色のような部分でとれた人はできているが、基本的なフレーズのつなぎ目の部分を体に読み込むことができないと崩れる。

一人ひとりが練習するとき、そのウィークをしつこくつぶすように練習していた人は、できています。

ポイントに対して瞬間的に判断でき、そこに短時間で集中できるかどうかです。

 

 

 

 

 

「私の孤独」 

 

長い間一人で 一人きりでいたから

死ぬほどさみしくて 泣いた夜もあった

けれどいつの間にか 僕の後ろに影のようにひっそりと

寄り添う友がいた もう一人じゃない

孤独と二人だから

 

感性や感受性といった感覚が鈍っています。音声のなかで音色、リズムを生じさせていません。見本(歌い手)の世界から音声の世界の本質をとりにいっていません。その世界に、ただ合わせてしまっているだけです。基本的に自分のものとして、自分がスタートしなくてはいけないのです。

どんなに優しくやわらかな歌でも、最低限のパワーとテンションは必要です。それがなければ、10年やろうと何もでてこないでしょう。

 

こんなに優しい、おじさんくさい歌でも、歌い手はその優しさを、おじさんくささのなかで集中させています。歌い手の集中力のところを、自分にうつしかえて、つくり出していかなくてはいけません。わかりづらかったら、ことばや音をはずしてみるとよいかもしれません。

 

 

刺激のある場において、そのテンション、エネルギーに支配されて一瞬やれることが経験となります。それだけでは、すぐできなくなります。自分のものとして保っていかないからです。今の状態では小学生以下のテンションです。テンションを高める力がないと、何一つ認められていません。

どうして何の価値もないことをかかえ厚着をまとってこざかしくやろうとするのかということです。そういうことを続けてやっていくと、普通の人ならもっている大切なものさえ失っていきます。

 

最低限のものがないから、表現がのらないのです。1回まわしてよくないなら、2回目も同じようによくない、ということはありえない。工夫した人もいましたが、単に工夫でしかなかった。どんどん鈍くなっていっています。前の人の出したものに引きずられるということもあるかもしれませんが、基本的には個々の責任です。この場を変える力さえないのです。

そういう状態では吸収できる素地がありません。もっと素直にスッカラカンにして出てくるもので勝負することです。

 

楽譜や人の歌にすでに入っているものから、何かを取り出し自分で出していく。そして失敗し、しっぺ返しを受け、正されていく。自分が思いきりやれば、そういうことが起こります。外側にでていかないと何も問えないです。本能的にそうやって出たもので結果を出してゆくことです。

試みがないことが困ったことです。メロディにあわせた言語処理で終わってしまっています。そこに入ってしまったら学べなくなり、動かなくなります。イメージが働きかけてこないものは、出す側に感性が働いていないからです。普段使っているような、ことば以上に生きていることばを使うことです。

 

 

課題の歌や歌手に左右されて自分のやり方(出し方)がコロコロかわるのでは、しようがありません。前提として、入ったものがきちんと自分のものとしてすわっていないからです。(こういう優しい歌も)優しさは、強いもので裏づけられていないと伝わりません。

プロは一回、失敗したら、次はないのです。二度と呼んでもらえません。その覚悟が違うから、人にいわれてやるものではないのです。ステージのレベルでパワーが出てないものはよくないということです。出せるようになるまで練習しない、練習でも出さないものが、ステージで出るわけがない。日常のレッスンのワンフレーズをも疎かにしないということです。

 

出す瞬間は、体から全部、その瞬間に切りかえなくてはいけない。中途半端さが表現に出てしまうようではいけません。もっと大切にやっていくことです。そうでないとトレーナーもまわりをも、だいなしにしてしまい、くさってしまいます。それは自分にとってもよくないことです。

一つのものに対して、精一杯やることです。一つひとつすべてに対して、気持ちを込めていくということです。音を疎かにするということは、体に対しても疎かにすることです。へんなやり方を体に覚えさせないようにしないといけません。今、できる.ことさえ、やっていないのではないでしょうか。

 

その歌で、ただの練習ということではなく、常にそれで人前に立てるのか、ということをワンフレーズだとしても問うていくことです。トレーニングのためのトレーニングはないのです。

それから複雑にしないことです。試みるのはよいが、体のなかのもっと深いものをきちんと出すようにやっていくことです。形でやっていくと、器が固まってしまいます。きちんと自分のなかのことを引き受けてやっていきましょう。

 

 

もっと自分を真っ白にしてやっていかないと、技術的なところでなく、精神的に低迷してしまいます。“舞台”をどう捉えるか、それはその人の生き方です。ここの今の場のたった20人のなかでさえ、もぐってしまうようなことをやっていたら、レッスンにはなりません。一時間のレッスンのなかでなんとかなる、では何にもならない。たらたら通ってたらたらフレーズをまわしているのでなく、何かの可能性を出すようなレッスン(自分にとっても)にしないといけません。堀にとっても可能性を与えられるようにということです。自分がパワーやテンションを与えて、場がよくなることは、自分のためにもなるのです。

もう、その人には会えない、この場ももう二度とこないというような心構えがないですね。いつまでも人間は生きていられないのです。ここにいられないのです。

 

人前で何かをやるというには、最低限のものが必要です。いくつか方法(これをやれば、というトレーニング方法)はあるが、それをやらされた状態でやってもよくないです。合宿や特別(勝田先生)のように、テンションの高い場で合わせて、そのときはやってできても、2~3ヵ月たつと戻ってしまいます。その感覚を忘れてしまうからです。しかし、いつまでも、やらされていてはよくないということです。自分でやっていく、自分でできていかないといけません。

 

それには常に、そういう状況で、基準をもっと生きていることです。そうすれば、自分の作品は左右されないでしょう。音がとれるようになれば、やっていれば何とかなるというレベルの問題ではないのです。

おもしろくないとしたら、自分にとってもおもしろくないことを、がまんするのはよくありません。自分の体や自分にとって、努力することが楽しい、苦にならないものは何か、ということでわかっていくことです。

 

 

 

 

 

【福島特別 曲】

 

(1)「谷間に三つの鐘がなる」

(2)「私の神様」

(3)「落葉の恋」

(4)「アンケ・セ」

(5)「ガラスの部屋

(6)「失われた愛を求めて」

(7)「虹の日々」

(8)「あなたに口づけを」

(9)「暗い日曜日

 

 

(1)「谷間に三つの鍵がなる」

ある山の奥の 谷間の村に

星のきれいな夜 赤ちゃんが生まれた

ジャンフランソワ坊やの(じんろくべえさんの)

門出を祝って

村人たちは皆 盃をかわした

 

鐘がなる (よ) 教会の鐘が 

ジャンフランソワ坊やの (じんろくべえさんの) 

誕生の鐘が 

谷から谷へと 村から村へと 

小さな命 の一つのともしび 

消さないように 

 

ある山の奥の 谷間の村で 

虹のかかる朝 恋は結ばれた 

ムッシュ・ジャンフランソワの (じんろくべえさんの) 

門出を祝って 

村人たちは皆 盃をかわした 

 

鐘がなる (よ) 教会の鐘が 

ムッシュ・ジャンフランソワの (じんろくべえさんの) 

結婚の鐘が 

谷から谷へと 村から村へと 

燃えて あがるよ 真っ赤な炎 

煙をあげて 

 

ある山の奥の 谷間の村で 

星のきれいな夜 神様のおぼしめし 

ジャンフランソワじーさんに (じんろくべえさんに) 

別れを惜しんで 

村人たちは皆 静かに祈った 

 

鐘がなる (よ) 教会の鐘が 

ジャンフランソワじーさんの(じんろくべえさんの) 

弔いの鍵が 

谷から谷へと 村から村へと

燃えて 続いた 一つのもとしび 

空へと帰る 

 

(2) 「私の神様」 

モンディウ モンディウ モンディウ 

あなたは私の神様 

あなたの愛が私の生きがいなの 

身も心も あなたに委ねたいの 

こうして あなたの愛が 私を息づかせるの 

 

モンディウ モンディウ モンディウ 

あなたは私の神様 

あなたのそばで 私は暮らしたいの 

いつの日にか あなたと別れる日に泣いても 

私は生きる あなたの思い出抱いて 

短い愛の日々でも 

 

(3) 「落葉の恋」 

夏が過ぎ去って 木の葉が落ちる 

私の命も終わる 誰も気づかずに 

緑が枯れる あなたのために生まれたのに 

 

鏡の中の きれいなあたし 

抱かれたかった 一夜でも 

待ち疲れた あなたへの愛 

今では遅い 遅い 遅い 遅い 遅い 

遅い風に 身を任せる 

落葉が一つ 

みんなが踏んでは 通る 

 

鏡の中の きれいなあたし 

抱かれたかった 一夜でも 

待ち疲れた あなたへの愛 

今では遅い 遅い 遅い 遅い 遅い 

遅い夏が 過ぎ去って 

木の葉が落ちる 

私の命も 終わる 

 

(4) 「アンケ・セ亅 

もし私だけでなくて あなたが愛の言葉で 

あの人にも 毎日同じように甘えても 

もし私だけでなくて あなたがその愛撫で 

あの人の腕の中で 毎日甘えても 

私にはあなただけが なくてはならぬ人 

来る日も そして来る日も あなただけの私 

 

たとえもしあなたが あの人のものでも 

あなたのその心は 私のもの 私だけのものよ 

 

 (5) 「ガラスの部屋」 

露の中に消えた 愛の命短く 

微笑みを残して別れも告げずに

一人きり ガラスの部屋のように 

はかないきらめきよ もろくも散り果てた 

 

ひとときの夢よ 思い出をしずめて 

流れてゆく川よ 

 

何を求めて生きてゆくのか 

二度と帰らぬ幸せ 

孤独な心が つかの間に消えた 

それだけを抱きしめて 遥かな空へ消えた 

 

何を求めて生きてゆくのか 

二度と帰らぬ幸せ 

ガラスの部屋のように はかないきらめき よ 

もろくも散り果てた ひとときの夢よ 

 

ガラスの部屋のように 

もろくも散り果てた 

ひとときの夢よ 

 

(6) 「失われた愛を求めて」 

君の心は遠く離れて 

僕が呼んでも 少しも聞こえない 

まるで僕は一日丘の上に登って 

糸をたれている 愚かな漁師さ 

 

恋よ夏の日の出会い 

君と夢を重ね合った 

二人の愛の小屋はすでに 

誰も訪れないまま 寂しく朽ち果てた 

 

君の心は 遠く離れて 

僕の嘆きも 瞳に映らない 

僕はただ一人 荒れ果てた砂漠で 

泉を求める 哀れな旅人 

 

恋よ夏の日の出会い 

君と夢を重ね合った 

二人の愛の小屋はすでに 

誰も訪れないまま 寂しく朽ち果てた 

 

(7) 「虹の日々」 

虹のように消える月日 冬は過ぎてもうす ぐ春 

あなたの目に星は光り 優しい手は夢をさ ぐる 

心酔わす花の香りよ 心溶かす甘い夜よ 

草の上に眠る少女は 目覚めて知る胸の炎 

 

今 あなたは恋のために 

力と命にあふれる美しい娘 

恐いものはもうどこにもない 

若い乙女のなかでも あなただけに輝く月 

恋人がいるのだもの 大人だもの 十六だもの 

あなたは知る みんな少女は いつの間にか娘になり 

そんなときにいちどだ 

 

(8) 「あなたに口づけを」

バラの憧れは酔いしれる恋 

花びらが今 あなたを包む 

真昼の光を 風がさえぎり 

揺れる心に 愛をささやく 

 

あなたの手にバラの口づけ 

燃え上がる恋の火を しずめて 

あなただけが 今はすべて 

あふれる想いは 寄せ来るさざ波 

 

(9) 「暗い日曜日」 

腕に赤い花を抱いて 吹きすさぶ木枯らしのなか 

疲れ果てて帰る私 もういないあんただもの 

恋の嘆き呟いては ただ一人むせび泣く 

暗い日曜日 

 

ローソクの揺らめく炎 愛も今は燃え尽く して 

夢うつつあなたを想う この世では会えないけれど 

あたしの瞳が言うだろう 命より愛した人と 

暗い日曜日 

 

 

 

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トレーナーレッスン

アメイジング・グレイス」 

 

(息、発声から)

ジャストで出すことです。出す前にきちんと声を予想してください。歌がとても乱です。オーディションなどを、怒鳴り声で全部、通してしまっている人がいます。歌のなかのことを考えたらそうはならないはずです。出すところ、引くところの差がなく、メリハリがまったくありません。出すだけ出しても、コントロールしていないです。歌がでくのぼうのように聞こえてしまいます。声でとりにいかないで、音できちんと捉えるべきです。だからこそ、ハーモニーがついてくるのです。それには(コントロールには)腰で支えることです。

 

アメイジング・グレイス

1.Amazing grace,how sweet the sound

2.I once was lost but now am found

 

何がやりたいのかわからない歌になっています。オーディションなどでも普通50人もやれば1割くらいはまともに歌えそうなものですが、ほとんどの人が歌のなかで何のエ夫もないです。まねごとから入ってもよいわけですが、まねでさえもない。こういうふうにしたいとみえる人がいない。

 

歌は、サビのところを中心に発揮できればよいはずです。頭からずっと大声でやっていては、サビが際立っていかないでしょう。コントロールしながら出していき、息も全体のなかでやりくりしながら効率的に出していくことです。皆は、反対のことをやっています。どうしてそうなってしまうのか疑問を感じます。発声から抜け出さなくてはいけないのです。発声の世界を引きずっては歌になりません。

 

「ああーめーーーぃじーんぐれーーーぃす」みたいな子供のような歌い方もやめなくてはいけません。フレーズの感覚をもってやっていくことです。声を大きく出してあてていくだけでは歌になりません。のどが開いていることがわかるような声でやっていくことです。

 

歌詞によって声のコントロールも必要です。出した声そのままでは歌詞の意味が伝わってきません。また、外国詞などでは歌詞をまったく理解しないで歌っている人が多いようです。本気で歌おうと思えば、意味が必要となって細かく辞書をひいたりするはずです。声楽をやっている人がドイツ語やイタリア語ならばわかるというのはそういうことです。

 

日常、ことばを使っていることを考えてやっていけば、こういうふうな歌い方にはならないはずです。

どのようにしたいか、そのために、このようにコントロールしていこう。そういう部分を感覚できなければ歌えないのです。声は、コントロールするというより、歌う気持ちになればコントロールされるのです。皆の発声や歌では、一曲歌ったら、へばってしまいます。改善していかないとよくないでしょう。

 

歌に使える共鳴のある声を出していけるようにしてください。生の声出しやすいしっぱなしの声は、聞いている方も苦痛です。歌う方も解放感がないはずです。歌声になっているかどうかを、きちんと判断することです。声量でがなるばかりでなく、歌のなかで使うべき声を出していく。それを、おろそかにしています。よく響かせてはいけないといわれているというが、それは声として歌に使える響きがいけないということではありません。