一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 16572字 914

ステージ実習コメント  914

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【ステージ実習1】

 

【ステージ実習2】

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【ステージ実習1】

 

人前で3分間、与えられて歌うときの取りくみ方を変えないと同じです。音程が崩れたり歌が理解できなかったりなど、この場でできないことは、時間をみなければいけないし、そのためにここに習いにきているのですからよいのですが、伝えるために歌を歌うのです。音程、リズム感、音城、声量がないから伝わらないわけではありません。その人が意欲をもっていたら、30秒ぐらい伝わります。その人の存在をきちんと示せたらよいのに、歌ったら嘘になるという例がたくさん出たので、わかりやすかったと思うのですが、まずステージという場をきちんと認識して、そこに焦点を合せることです。

 

これは、レッスンでもそうですが出ていくときから、その勝負は始まっていて、引っ込むところまですべて見られているわけです。

個別で評価して欲しいというのがありますが、それはやれるところまでやってきて、自分でここまでが精一杯だというのを出して、初めて人は評価したくなるし、評価ができるものです。それが出ない状態で“ダボダボ”と出てきて、通りかかったように意味なく去っていくようなところで評価などというのはできないのです。

 

もし今のところで評価してくれといわれたら、1フレーズか2フレーズでやめさせます。それが評価です。で、一ヵ月後に、もう一回きてくださいといいます。そこの部分というのは、まだ入って間もないから技術が身についてないとか、声が身についてないとか音楽が何かわからないとか、というのとまったく関係ないです。

もしここに、評価を求めてきたとしたら、今日の全員に対して、自分は違うと思っている人もいるでしょうから、ハッキリと全といっておきますが、まったく取りくめていません。これは評価前の問題です。

 

 

課題曲も、一体、何回歌ってきたのだろうと思わざるを得ないです。もしこの道で、あるいはこの道でいかなくても、人前で歌うということを前提に考えているのだったら、もう少し、見にくる人の時間というのを考えなければよくないです。

ここは皆、お金を払ってきている。だから、今後も、お金を払って歌っていけばよいでしょう。よいのですか。でも、どんどん高くついていくのですよ。誰も年をとった人のヘタな歌を聞きたいと集まってこないでしょうから、財力が必要です。まあ、そういう人もいます。

社長さんとか、どっかのおばさんとかででしゃばり好き。しかし、そうでなければ与えなければいけません。音楽になってないというのはまだよい方です。何であれ、表に現われでならなければいけません。

 

歌えてしまえたつもりの人は、嘘っぱちです。ハッキリいって、最初から考え直した方がよい。バンドがついていたら、歌えているつもりで、騒がしいものを聞きたい人には通じるかもしれませんが、そこで歌えているタレントが、うまいとは思っていませんが、そういう人たちのレベルと比べてもまったく、違います。日本のヴォーカリストは、そんなに高いレベルと思っていませんが、そういう人たちからみてもまったく、歌がわかっていません。私は大して信用していませんが日本のプロデューサーがみても、第一次審査で落とされます。だから、まずそこをわかってください。歌えているつもりの人の方を、私は心配しています。数えない人は、自分でできないのくらいはわかるはずです。

 

音楽ですから、高いレベルの方からもいっておきますが、流れていなければよくないです。流れていなければいけないというのは、そのために止まっている部分が必要で、禅問答みたいになってしまいますが、動きが出なくてはいけません。

ここで教えている「ハイ」とか「ララ」とか、一つの発声というのは型ですが、それは止めていくことがわかるためです。そして、それを破ろうとする動きがあって、それが動くわけです。

 

 

音感でもリズムでも止めるところで止めて、動くところで動かしていかなければいけません。全体的にはそのくり返しで、小さな波があって、それが働きさらに大きくなる波があって、その大きな波がまとまっていく。だから当然、その人の中の心、つまり中心が動いていなければ表現自体が動きようがないです。

 

課題曲は難しい曲です。構成をきちんとつけないと、何ともならないでしょう。だから、それに取りくんでいて、その取りくみ方に失敗したとか取りくみのやり方が過ちだったらよいのですが、取りくむという意を、最初に知らなければいけないようです。

 

もっと単純にいうと、最初の「トワ」で、何回くらい練習しているのか「トゥー」でも何でもよいのですが。

まえにいたトレーナーとどのくらい練習しているのかなとしゃべったことがあって、「あなただったら、どのくらいが練習」と聞くと、「まず千回、やったら1曲の基本は覚えられると思います。」普通の人だったら百回ぐらいで覚えられてしまうでしょうね。たぶん、皆さんだったら、曲一曲でも仕上げるのに百回歌ってきているかどうか、というところでしょう。

 

 

そんなに時間がかかるわけではないです。3分間の歌で一時間に20回、3分間、といっても歌いっぱなしではないわけですから、1コーラスにしたら1分あるかどうかです。そのなかでメインのフレーズとか、練り込みのようなことを中心にやったとしたら、もっと短い時間で済むはずです。だから、そこでの格闘というのでしょうか、歌と格闘してきで、こう出していくのだとつかんできた結果がみられない。というよりも、そうしてモノにしていかなければいけないという意識がないようです。

 

歌は何もしない人の味方にはならないのです。ステージで敵になるわけでもないですけれど、それにきちんと取りくまないと、歌わずただの自己紹介している方が好感もたれます。まず、ことばが止まっています。この歌を流すのは、難しいのですが、動きを感じていないと最初から止まりがちになります。それから、テンポでもてあましています。自分でノリをつくっていかなければいけません。最初に難しい歌をやると歌自体との取りくみ方を考えざるをえないと思うのです。

 

最初のことばというのは、自分でノリをつくっていかなければならない。特に、アカペラでやるステージは、すべてそうです。誰もノリをつくるのを手伝ってくれないから。自分でつくって動かしていかなければなりません。

ことばを動かす勉強というのは、レッスンのなかでだいぶやっていますが、そういうものがどれくらいここで出てくるかというのがみたいわけです。

 

 

ことばがあって、フレーズがあってメロディがあって、この3つがきちんとみられるような課題曲です。もっと高いレベルでいうと歌っているなかで伴奏が聞こえてきたり、その音楽が奏でられていると、よいのですが、そこまでの消化不良というより、それ以前の状態です。

 

スタート地点にまず立つということ、それからまず、自分を知ることです。一度、アカペラで好きな曲を歌って、自分で完璧だと思うくらい、何度も歌って録音して、それを聞いてみてください。自分の歌を聞いたことがあるのでしょうか。そこを聞いてフィードバックして正さない限り、譲らないのです。

 

聞くのが辛いのかもしれないし、あるいは聞いていてもできていると思ってしまうのかもしれないですが、そこで厳しくみることです。誰しも思い込みで、よいと思ってしまいます。自分の歌というのは、何回も聞いたら、音程やリズムがはずれているのに、それが正しいように思ってしまいます。そういう傾向がありますから基準を学ばなくてはいけないのです。一流の表現のものに全部見本があります。アダモみたいに歌うのがよいということではありません。ただ、彼が表現しているのは何なのか。何をあれで伝えているのか。そのようなことをきちんと自分で勉強していかないと、思い込みの世界で終わっってしまいます。

 

 

思い込みの世界というのは、そのあたりの人たちのまね、上っ面なマネだけの数のことです。プロはオリジナリティがあって自分の世界があって歌っていますから、いつも、レッスンで注意するように、その上の方をまねてもよくないということです。

 

その人たちがもっているところの根本にある感覚とかノリとか声の使いこなしとか、そういうところから勉強できるところはあります。でも、その彼らがつくってきた形の上澄みだけをいくらとってみたって、「何か似ているな、何となくしっくりこない」と思われるだけです。まあ、似ているなと思われたらよくないと思えばよいです。でも、まだ似てもいないといわれるのも問題ですが、まったく似てないのは似てないので、突き詰めていけば何か出てくる場合があります。だからまず、自分を知るということと、自分を表現にするためにどうすればよいのかということを、きちんと知ることです。

 

表現には、歌えたとか歌えてないといったことではなく、すぐれたものとすぐれないものがあって、自分でそのすぐれたものが何かというのを、つきつめることです。もし役者であったり他の世界だったらわかりやすいかもしれないのですが、歌・音楽の世界では、なかなかできないものです。そこから課題がくるわけです。

そこから、たとえば「トワー」のなかで盛り上げなければいけないところ、情緒を入れなければいけないところ、そういう音程とか音感のイメージの取り方があるのです。それに声が伴わない、あるいはコントロールできない、息が長く続かない、だか日頃のトレーニングがあるわけです。それを逆に考えてはよくないです。今、皆さんに決定的に欠けているのは、志の部分と表現への欲求です。やり方ではありません。それではトレーニングをやっていても効果がでてこないのはあたりまえです。

 

 

レーニングの効果というのは、そんなに早く出るものではなく、その前に目的とギャップを問わなければいけません。大切なことは、ステージといってもレッスンのなかでのステージですから、終わったところから始まるわけです。発表やレッスンを終えたところで、何が課題なのか、自分で明確につかんでいかなければいけません。

そうしたら、課題をつかむためには、これをしっかりと終わらせるために、それなりの努力をしなければいけない。上達しない人は詰めが甘いのです。そして一ヵ月間、充分に歌を練り込んでこなければいけない。最高のものを出そうと思ってやってこなければいけない。コンディションも整えて、この舞台自体も最高の状態でやらなければいけません。

 

それで初めて自分の課題が明らかになって、各レッスンなりレッスンの取り組みというのが決まってくるわけです。皆の場合、ここに出ているのですが、出ていない人は、それさえ見えないまま、やっているつもりにはなっていきます。自分だけでやっているのと、どうしても一人よがりな基準になってしまいます。

自分の場では歌えても、こういう場で歌えないということは、どこへ行っても通用しないということです。だから、歌というのは、歌い終えたときに一つ伝え終えたなという実感が自分に宿らなければまったくの嘘です。それとともに、気持ちよくならなければおかしいです。

 

ただ、一人よがりで気持ちよくなるのも、よくないのです。誰かのモノマネで一曲、歌っても、気持ちよくなれます。それは、借りもの、足のついていない偽ものです。だから、もし今日、皆さんのなかで「あの人、うまく歌えているなぁ」とか「慣れているなぁ」というのは、ハッキリいうとカラオケの初級です。カラオケっぽく聞こえてしまうというのは、間違いです。とても甘い音、リズムのとり方、のど声にくせをつけてそれっぽく出しているから、何となく最後までもっていけるのでしょう。歌は、カラオケではないのです。

 

 

日本人が考えているカラオケの歌い声というのは、皆、同じようになるわけです。声量を押さえ、高く届かそうとする。日本語的なつめた発声のなかでやっても、のるように、機械がつくられているのです。そういう機材に頼ると、当然、おかしくなってしまうわけです。

ある程度、練り込んで、これ以上、韓習できないというところまで練習してくれば、間違いというのはそんなに生じないでしょう。音楽も生じやすくなります。それ以外のところで音楽をつかんでいくというやり方というのはありません。まず気持ちと気迫が前に抜けてこなければよくないと思います。その上でしか、声を音として扱うことはできません。

 

ここでやるのはとても難しいと思いますが、ステージの前段階で、負けているような気がします。気持ちがお腹から動いてないです。お腹から胸に高まってきて、それが頭や目からワーッと出てくるような曲だったはずですが、歌っているときに、そういうイマジネーションが働かないのだと思います。それも慣れが必要です。確かにシャンソンぽいのか、(それらしくないシャンソンにしたのですが)、曲のよさがまったくわからないようです。一体、この曲、何なのだ、失敗曲なのだな、と思ったのでしょうか。歌の前に曲を捉えたところが伝わらないです。この曲を伝えなければよくないです。

 

どのくらい歌詞を読み込んできたのでしょう。一番と二番と何か違うのか、どういう場面が違うのか、まったく伝わらない。皆さんが聞いていても、私が聞いても同じだと思います。

徹底して、まず曲を聞くこと。とにかく骨に叩き込むくらい聞くこと、黙っていても寝ていても、その曲が頭のなかに流れていて、そこに伴奏がつき、情感が宿るくらいは最低でも聞くことです。その曲を歌おうとしたら、いうまでもないことです。

 

 

自分の力をきちんと正攻法で出しフィードバックしていくために課題曲はあります。他の人と歌い比べることも、よいところもやるだけやって、ポイントがわかればこそ学べる。やってこなかったら、他の人を見ていてもチンプンカンプンです。そんなにレベルが高くないときは、曲そのものの意味も伝わりません。そういう理由で、課題曲くらいはしっかりとやってきて欲しいです。

 

それから、自由曲も、月2~3曲ぐらいはつくっていくべきです。二年後に、仮に歌いたいと思うのだったら、このくらいのレパートリーをつくっていかないと間に合いません。ただ、これも強いでいいますが、一番目に、聞くこと。二番目に、心に感じること。こんなのは教える以前の問題です。これは、皆さんの心とか、イマジネーションの問題です。曲が悪いとかよいとかではないです。確かに、そういうのを喚起させる人もいれば、喚起させているような曲もありますが、たとえ何にも感動しなくても、そこでイメージをつけていかなくてはよくないです。

 

もし、これをステージで歌えといわれたらどうします。ピアニストでも同じで自分の弾きたくない曲でもこなせなくてはいけません。コンクールに出ようと思ったら、課題曲があるわけです。それをどういうふうに自分で解釈して自分で感じるようにするかを決めていかなければなりません。古い曲だと思ったら、古いまま歌う必要はないわけです。自分がどうやれば、これが歌になるかということに徹底して取りくまなければいけません。

 

 

だから、課題曲は、私は何でもよいと思っています。むしろ、皆さんの生理的に合わないものの方が勉強になると思っています。それを自分の生理にあわせ歌に仕上げるのが、ヴォーカリストの力です。課題曲を歌う歌手通りにまねたものは、ここでは、認めていません。まず正確に歌うことをやらなければなりません。これもまったく、踏んできていないと思います。

 

もし難しければ、楽器で音をとるなり、一つひとつの音符をきちんと確認していくということです。正確に歌うということから、正しい解釈ができてくるはずです。何で作曲家がこのようなフレーズにしたのか、リズムがこうなっているのか、何でここでサビなのか、最後になぜフェルマータがついているのか、こんなふうになっている理由に一つとしておとしてよいものはありません。

 

自分の歌い方の解釈を一人よがりにしないために助けてくれるヒントがあります。そこから考えていくと、ある意味で歌い方は限定されてきます。ポピュラーもそれなりにルールによって形というのが、与えられています。その形を活かせなければよくないです。だから、歌は難しいわけですが、正確に歌って、自由に歌って、また構想するということをやらないとよくないです。

 

 

次に気持ちを出すことです。いくら聞いていて気持ちが出ていても、それは少し違ってきます。舞台のなかでそのフレーズを歌ったときに、自分の気持ちを出すために、歌なり声なりを動かすところに、感情としてピークになってきたり、オリジナルのブレーズが出てくるわけです。自分だったら、そのことばをこう解釈し、こう歌うとか、この音をこういうふうにとっていくこうかが決まってきます。

歌ですから、どこかが頂点に高まっていって特に、こういう歌はそうです)、それから降りてくるような感覚がなければ終わらないです。

 

そのまま、すーっと歩いている感じではなくて、お腹に気持ちをもっていき、その気持ち自体が動いてきて、体が浮いてきたり沈んでいったりしなければいけません。ドラマがありません。

気持ちを出すと、今度はまた声やフレーズが乱れてきます。楽譜と離れていきます。

 

楽譜を無視してよいわけではないです。そこで、徹底的に戦うわけです。その戦いの結果、楽譜を変えるというのはよいです。ただし、正確に歌うことも踏まえず、その戦いもせず、楽譜を変えるというのはまったくうまく歌えていないということになります。このプロセスは、聞いている私たちには本当はみえないものですが、皆のはあまりにみえてしまいます。安易に変わったらだめなのです。

 

 

変えているのはよいのです。正確にきちんと歌えていて、気持ちを出しても、その※楽譜通りに歌ったとき以上の効果が出ないのだったら、変えない方がよいのです。アダモは、あんなふうに歌っていますが、あれ自体では、日本人には伝わりにくいところもあるのです。だから、私はこうやるという理由が、歌のなかで問われていたら、納得できます。そうでなかったら、こちらが聞いてみても、「えーっ、音程とれなかったの」とか、「きちんとできていない」という評価になります。変えるというのには、理由があります。

 

特に、スタンダードナンバーならわかりやすいでしょう。その人の感性が表現になるというところがあって、はじめて変えられるのです。そうでなければ曲はそれなりに考えられてつくられているし、その通り歌っていた方がよい曲になるわけです。

 

もう一度、楽譜などのチェックをしてください。そのあとで今度はバランスとかメリハリをつけていきます。気持ちは別です。本当は、そのフレーズだけなら歌い上げたいところでも、前後の構成とか、あるいは曲が終わったときの効果を考えたときに、そうやってはいけない場合もあります。押さえなければいけない場合もあります。

自分の力にも合わせることです。そこで声を使ってしまったら、次のフレーズがだめになってしまうために、調整しなければいけない場合もあります。これは、今すぐには問うてないです。ライブ実習とか、ピアニストやバンドがついたり、実際のマイクがついたときには、そのへんまでやれなければ歌になりません。

 

 

今はとにかく気持ちが出せる、オリジナルのフレーズのところまででチェックをして、最終的に練り込んでいくことです。だから、録音で何回も聞いて、フランス語が日本語に聞こえるくらい、音が化けてくるようなところまでやっていかなければいけないのです。

そういう録音を聞いたなかで、声をだして歌わなくてよいのですが、そのイメージをとって、その間で、自分の表情が歌と共に変わっていかなければいけません。

 

歌のなかでも大きく表情が変わっていくはずです。そうでないと、体が動いていかないし、顔も能面ヅラになったままになってしまいます。表情も音色をつくるわけです。その点で声を強く鍛えて、体の原理にそって最大限遠くにとばす。声楽家の声や顔は、全身楽器を化すために、不自然なところもありますが、ポピュラーは、テンションは高くとも自然です。

 

目をつぶって、後ろを向いて思い入れタップリに歌ってみても、それはお客さんには伝わらないものです。だから、伝えようという意志も込めて、声に執着し、こだわりをもっていかなければよくないです。

歌い手になれる人というのは、その音とかことばに対して、誰よりもこだわれる人です。そのこだわりを中途半端に投げて、好きに歌えたらよいというのなら、それで終わりです。

 

 

絶対、許せないはずのこだわりが出てくるのに、それがみえない。それに勝ってこられなくてもよいのです。練習のプロセスですから。ただ、そこまで練り込まれてステージにもってこないと何も問えません。

歌の芯も方向性もないからベクトルがありません。声量や声域がないというのならトレーニングしていけばよいのです。そこの部分というのは、根本的な問題です。表現していこうという以上、歌に正面からぶつかっていかなければいけません。そういうところというのは、誰も直せないので、自分で気づくしかないです。

 

気づく場として、ここがあるのですから、それを毎回、気づいていくとよいのですが、2年たって同じことをいわれているのでは、気づいていないということです。わからなくても直ればよい世界ですが、わからないと直りにくいものです。わかるためには、毎回のレッスンのなかで感覚を研ぎ澄ませていくことです。今年は「なんかいいなあ」と思って歌えていたものが、2年たって聞いてみたら「ひどいものじゃないか」というなら、伸びているということです。

 

今、聞いてみてひどいなと、思ったら、それを人様の前に出すときに、どうすれば歌らしく聞こえるかというところと取りくまないと直りません。声ばかり出し、音程やリズムだけとれていてもあまり変わらないでしょう。却って表現が引いていってしまうのではないでしょうか。守りに入っているという問題が、一番大きいように感じます。

歌になってしまうと直すのは難しいものです。

 

 

役者とかの、ああいうことばの世界以上に、自分の歌がどう音楽と結びついているのかということを捉えることです。どうして歌にならないのだろう、どうして音楽にならないのだろうというところの問題を突き詰めなければいけません。発声とか正しく音がとれるのは、それを助けてくれる一つの方法です。とにかく、音に対して柔軟に声をコントロールすることを磨くわけです。

 

そのなかで、感情が宿ってくるときもあります。ただ、ポップスなので、発声ができてきて、そこで気持ちのよいを出していると、その声のなかに感情が降りてそういうつかみ方ができます。ただ、それには相当、時間がかかります。ことば、単に音声、あるいは表情だけつくっても、感情というのは出てくるので、その感情だけで伝えろということではないですが、他のいろいろな伝え方がありますが、そこで動いているものを自分のなかできちんと判断してとり込むということです。

 

できないのはよいのですが、何のために出しているのか、その前に何をしなければいけないのか、出てきたときには、戻したときにはどうしなければいけないのかということを考えてみてください。ここは、勉強の場ですから、きれいに歌いあげるのは要求していません。その前に、そういうことを全部、自分のなかに入れて、その一部分でもよいから、一ヵ所でもよいから、生きて伝わる部分を出せることです。そちらの方が先だと思います。そのためにアカペラでやっているわけです。

だから、自分の体呼吸に合わせて、少々フレーズの間があいてしまったり、リズムがずれてしまったり、そんなことが気にならないくらい、表現を前に出していったら、それはそれでよいのです。

 

 

バンドがついたら、それぞれの呼吸があわずに難しいというのはあります。それを、「せーの」、でなく音の動きからあわせるわけです。そしたら、ヴォーカルの場合は、体という楽器の調律ができてない限り、上っ面でパクパク、他の楽器にのるしかないわけです。

アカペラでは、ある意味では自由です。その自由のなかで、もっと呼吸を活かしていかなければいけないのですから、そこを最初に伸ばして欲しいものです。

 

自分が出す。何の音もまわりにないですから、それがストレートに自分にフィードバックできるわけです。そしたら、それが気持ちがよいか悪いか、そこで、気持ちよくないものが、人に快く伝わるわけがないでしょう。あたりまえのことです。何も、気持ちよくさせるだけが表現ではないのですが、とにかく一つの世界をもたさなければいけないのです。アカペラでできる大きなスペースで、どこかに入り込んで出せればよいのです。

 

好きな曲でも、思いきり楽しんで、歌って、それを録音に入れて聞いて、楽しいとか気持ちよいとか、歌えたという感覚をつかんでください。次にもしかしたらそれは全部、嘘っぱちで、自分で思い込んでいるだけでつくったものかもしれない、と疑ってみます。そこを見分けるためには、一流のものを聞いていくしかないのです。ただ、そこまでのことも、自分で出せること、やれることというのは何かと聞いておくのは、必要だと思います。

 

 

VTRを見て(見るのもいやかもしれないですが)、自分を定期的にチェックして、あのとき、何をやっていたのかを確認するのはとても大切です。自分ではできたと思っていたところがまったくできていなくて、自分でできていないと思ったところが案外としっくりと伝わっているというのも、よくあることなのです。

 

自分の皮膚で感じられないと、こういう生のステージというのはできなくなります。そういうことを知っていたら、そんなに恐くなくなるはずです。というのは、声がまったくでないときでも、歌や表現として伝えられればよい、とにかくお客さんを満足させるとなれば、何とかしようとするからです。声だけをきちんと出して見られるような世界というのと違いますが、ポップスの場合、いろんなやり方があります。そういうことも覚えていった方がよいと思います。

 

 

 

 

 

【ステージ実習2】

 

ライブ実習になると、ピアノ伴奏がついてマイクをもつので、リハをしなくてはいけなくなります。自分で弾き語りをする人は、必要ありませんが、それでも一応、オーディオと音響との合わせが必要です。楽譜を起こせない人は、(本当は自分でやってもらうとよいのですが;)頼んでつくってください。

 

「愛は君のよう」は、難しい曲ですしかし、いろんな要妾が入っていて、合的な力をみるには、とてもわかりやすいです。音程をとれてもきちんと落ちてきていない部分が気になりました。変え方も、問題があったような気がします。一応、作詞家、作曲家の意図はくんでください。まったく違う曲をつくるには、それなりの完成度がいりますから、よほどセンスがないと、伝わりません。変えるときには、理由をきちんともつように、そうでなければ楽譜通り、それをきちんと歌い上げた方が伝わり、勉強になります。音の意味を読み取れないと、どうしても難しいと思います。

 

まだ煮つまっていないと思います。それから、伝えるということは、歌うことよりも、表情とか姿勢とか全部、あわせて、前にでていくことが必要です。伴奏もマイクもなしでやろうとしたら、自分のなかで冷めてきてしまうかもしれませんが、条件は同じです。そのなかで前に出られること、自分で熱くできることが、前提です。

うまいとかへたとか技術的にどうこうというのは、確かにみていますが、それよりも、熱意というか、人前に出て、人に満足してもらうためのがんばりからです。

 

 

「聞かなくてもいいよ、勝手にやっているから」という感じではなく、「聞いてよ聞いてよ」というのが前に出ていないと、有名な人でもない限り、聞く気にならないでしょう。音楽が少し流れてきているなというようなことはわかります。

音程、声量、リズム、コントロール、総合力、音感とか感覚、センスみたいなところがポイントです。リズムというのは、ノリでわかります。リズムを正しくというとり方もありますが、動きを出すことです。声というのはオリジナルな声で、きちんとくせをつけずに出せるようになってから使えてきます。コントロールは、フレーズのところでわかります。総合力は、ともかく聞けるということです。

 

違う観点では、同じことをやってどう結果が出るのかをみています。家に帰って音を鍵盤でもう一度、叩いてみてください。曲にそれなりの進行の意味があります。日本語に合わせにくいためフランス語でやった方がうまくいくとは思います。だからといって、日本語でできないかというと、それをできる条件をかなえるために、ここで学のです。

 

くせのあるような歌い方ではなく、体からの声というのをみているのです。

そういう場合は少々、アレンジ(編曲)してもよいのですが、高い方を変えるよりは下の方を、あまり下にいかなくてもすむように変えるべきだと思います。

 

 

「光の中」で1オクターブとびます。これが無理だと思ったら、それをコードのなかで3度下げたくらいでカバーします。上をあまり変えると曲自体がだいなしになって、単純なものになってしまいます。

フレーズにくせをつけている人は、そのくせをとっていかないと、それ以上主張できなくなってしまいます。このくらいの大きさの曲になってくると、同じようなパターンではもたないので変化を出さないといけないでしょう。ことばでも同じです。

 

変化といっても、いろいろあります。強弱とか声の太さ、弱さ、声のおき方にもあります。それから、日本人は、どうしてもこういう曲になったとき、全部、1.2·3.4、1・2・3・4になってきますが、強く主張できるところは前打ちになるわけです。だから、「たー」で入ろうとするところの前で、少し変えるとか、あるいは次のフレーズに入るときにその前のフレーズを、ここまでいかないうちにフッと入るとか、そういう感覚的な変化で、もう少し動かすということです。すると楽譜のなかでは同じでも、感じられるものが出てくると思います。前打ちというのは日本人はとても苦手です。というよりも、逆に日本以外の国は、前打ちを常に使っています。読み取れなくても。そこで思いっ切り、えぐられる箇所がないとよくないです。

 

こういう曲の場合に、平行して捉えていくと、難しくなってきます。というのは、ここに対して、次の音が高くなるとこうなるし、また高くなるとこうなるし、というような進み方では、どうしてもダラダラしてきます。しかも、日本語ですから。だから、こういう曲の場合、基本的には、縦の線(というと難しいでしょうが)で保つのです。全部、こういう線で捉えていって、高いところは太い、強い、あるいは速いというような、違う感覚に置き換えていった方がよいと思います。

 

 

たぶん日本人の感覚というのは、最初はことばで入って、次に中間を歌声入って、高いところに張ってひびかせるのですが、それがみえすぎてしまうと、音楽のなかでの立体感がなくなってきます。

体力や気力まかせにフレーズを大きくつくっていた人がいるのですが、やはり実の感覚=実感が、伴っていません。皆さんが思っているくらいのフレーズにしようと思ったら、相当な体力がいります。そのフレーズができるようになるには共鳴が必要です。さらに見せ方です。同じ体力のところで、その決め手の部分にどのくらい力を集中して、あとのところを何とかもたせてキープすることです。

 

10、10、10でやっていたら、どうしようもありません。前打ちやメリハリを決めて、5秒くらい50くらいの力を使ってバーンとあと20秒をもたせるような力の使い方が欲しいです。そのあと、ずーっと落として、もうだめだなと思うくらいのところで、また次にバーンと入れるというような使い方を、考えていった方がよいと思います。

 

結局、呼吸が回っていないと、どんどん口先になってきます。これは、特に自由曲で気歌は持ちだけで歌っている人が多いのですが、その気持ちに呼吸がついていなければ、聞けないのです。うわべの形をまねしないようにしてください。音楽が、流れてきているのはよいのですが、流れをことばで食い止めて、そこに自分の表現をぶつけていかないとよくないです。抜くのではなくて、ハネ返らなければいけません。ハネ返らなければいけないということは、ハネ返る前に入れなければいけないということです。

 

 

それから、ことばにもっと絞り込んで吐き出すようにしていかないと、前には出てこないものです。全部が全部、前に出す必要はないのです。そこの部分が必要だということです。

それから、ひびきもすべてが前に出るからといって、こういう出方だけではなく、出方にもいろいろあります。

抽象的で何をいっているのかわからないかもしれないですが、感覚的に捉えてください。要は、聞き手の立場に立って、引き込ませるポイントをいくつかもつことです。ポイントポイントで的確に出していけばよいわけです。そのポイントとのタイミングがぴたっと合うのが、センスがあるということです。

 

このフレーズを全部、内から入れたら、こんなに回りません。こうなって、ぐいって入れたらスッとなった。そこからフワッとなる。そういうところで、ひびきと捉えるところをきちんとわけていくことです。ひびきのなかで、やはり動かさなければいけないのです。ことばのなかで動かさなければいけません。閉じていてはよくないです。あくまで、前なり外なりに出さなければいけないということです。

 

「ハイ」や「ララ」でのオリジナルの声で素直に素材を出していきましょう。ただ、素材を出して力で通用するところでは、カ強さくらいしかないのです。まっすぐということは、初心者の型でしかなくそれだけでは、おもしろくないのです。しかし、おおもしろくなくとも、体を使って思いっ切り歌い上げるという歌い方を一回は覚えておいてください。芯がなければよくないです。

 

 

音楽ですから、それだけだと心地よくありません。全部が全部、前に出てくるようになってしまうと、100の力で100しかみせられなくなり、ヴォーカリストが大変な割に報われません。70くらいの力で150くらいにみせられるように、イメージで大きくつくればいいわけです。それには変化が必要です。効果を考えなければいけません。効果は考えてはいけないのですが、自分のなかのフレーズの練り込みのなかで、自分で効果に気づいて、それを出せるようにいいまわすことです。まっすぐな線に対して、曲がる線です。曲がる線の使い方というのは難しいです。

 

ステージに立つとできなかった人もいると思います。まったくそんなこと、考えもしないで出てくる人もいれば、目立たないようにして歌っている場合もあります。そういう場合は、自分のなかで解放しなければよくないです。

よくへたなソプラノとか唱歌とかコーラスの人にも多いのですが、声がひびきで流れてことばがとまらないのはよくないです。ことばが聞こえたら、そのことばを、今度は動かさなければよくないです。すると今度はことばが止まりやすくなるのです。

 

特に前半は、何でこんなに待たなければいけないのか、どうやってことばとことばをつなげればいいのかと格闘するしかないです。フランス語でやっている人は、その分だけ、楽にやっているはずです。フランス語で「ダーン」と一つの音についているのに、日本語だと「あまい」と3つついているところは、処理できていなかったという感じがします。どこで切り詰めて、どこで伸ばして、というような感覚を、こういう曲を日本語でやるときに外国語から慣れていけばよいと思います。つまり「ダーン」は1つに捉えられるから、自由におき分けられるが、日本語は3つなのでその3つを打ってしまう。本当は3つを1つにとらえておき分けないといけないのです。

 

 

流れてしまわないこと、自分で流しことばを動かして音としていくこと。そこまで二次元の世界です。それを三次元の世界にまでもっていかなければいけないから、やはり上下にもっと揺さぶらなければだめだと思います。天井の高さが必要です。計算とか技術が少しみえてきたのは、何も考えていないということではないですから、聞く側もうれしいですが、計算というのは技術の上にしか成り立たないし、その技術がみえてはよくないです。呼吸で活かしていくしかないのです。技術を使おうとすればするほど、呼吸を大きくとっていかなければいけません。

 

あまり甘ったるい方に流れないことです。甘さを出すとか優しさを出すのは、優しく、あるいは甘く歌うというのは「甘さ」ではないので、そこを勘違いして力を抜いてしまうと伝わりません。表現されたものは、甘く優しくかわいいものでよいのですが、表現するということは厳しい気持ちをもたないとなりません。特に日本人の場合、普通にしゃべっていると表現になりませんから、一段ステージがアップしたところに立たなければいけません。

そこでの緊迫感とか気持ちをもっていて、その上で解放しなければいけないのです。

 

全体的に甘くなってはよくないです。それをやるためにも体を使わなければいけないため、シンプルに捉えるのです。この曲を、バラバラに音程とことばでとっていったらまったく自由はなくなってしまうわけです。だから、この曲を3つの構成ぐらいに捉え、どういうふうに3つの役割をもたせるかを考えることです。

 

 

最後は、もう少し音程がピタッとあって、音の情緒が出てくればよかったと思いますが、この曲を知らない人が聞いたら、結局、何の曲、どんな曲だったのか、と聞かれてしまうでしょう。楽譜を書いてくれといわれても誰も書けないでしょう。変えるのはよいのですが、なぜ三連が使われているのか、二拍三連になっているのかというのには、意味が一つひとつ全部あるわけです。保たなければいけないとか、ここでこう入れたいとか、それを外国人が淡々と歌い上げていますが、正確に歌っているのですから、そこへ自分の世界で読み込んでいかないとよくないです。

 

日本語に変えなくてもよいです。日本語をフランス語ふうに歌ったって構わないですが、音がつながっていてことばがそこで出ているような表現で、一応、盛り上げていくのを、音域的に大変なのと、高いところを張らなければいけない、しかも高いところで何回もくり返されていますから体力で支え、ひびきをきちんと使わないと歌いにくい歌です。そこを一番、出せるところに音域を設定しないといけません。高いところに届かなくてだめだったというよりも、もっとよい構成が、その人なりにあるような気がします。

 

日常のものから、こういう歌を歌っていくことです。「インシャラー」などと同じで、アダモの曲の場合は、へたに日本語に置き換えて、日本人として歌おうと考えるより、まったく別の世界をここで提示しようと、歌と考えなくてもよいですが、そんな雰囲気のそんな物語なりお芝居がありました、というようなもので、徹底して別の次元に立って歌う方が早いと思います。そうでないとした方が楽です。歌のなかから出てこられなくなってしまいます。

 

 

こういう歌というのは、どんどん歌い込んだり、何やかんや考えていくより、一回、放り投げてしまうことでさす。放り投げたところでそういう舞台に出たとき、全体的に伝えようとする歌い方があります。何でそうなっているのかというのを、考えてわからなければ、何でこの音はここでこれでフラットがついていなければいけないのだろうか、とはずしてしまう。本当の意味で、きちんとできた曲です。だから、歌いやすいように変えたことで、却って混乱しているところがあるのです。

 

むしろどうやって突き放して歌っていくかです。日本人でこの曲を歌っている人は、人私は聞いたことがありませんが、やはり歌いにくいと思います。でも、何とかなると思います。

歌詞で、二番まで歌った人については一番と二番の世界がまったく、違うはずです。「君に会った」ということが「君を知った」は、とても深い意味があります。

 

「夜の中」と「闇の中」の違いもです。別に物語を伝える必要はないのですが、音で伝えるかストーリーで伝えるか、両方で伝われば一番よいのですが、はっきりさせていかなければいけないと思います。前半、ストーリーを伝えて、後半音で伝えられたら、何とか落ち着く曲だと思います。歌詞からも推測がつくと思います。「夢 求めて 君はどこへゆくの」に対して「手をさしのべた 僕の愛は じっと君を見てるだけ」で「な、ん、だ」と納まるわけですね。