鑑賞レポート 916
「気がつくとあいつはいつも吹いてるんだ。いつもだ。俺は恐ろしくなったよ。」と彼の友人がいっていたがそれぐらいの人しか一流にはなれないのだと思う。普通に生きている人から見ればとりつかれているとか気が狂っているとかいわれてしまうのだろうけど、何かを求めていくってそういうことじゃないだろうか。限られた時間のなかでの肉体との闘争。自分のからだを呼吸をみつめればみつめるほど生きていることを感じずにはいられない。体と息がつながり全力で表現したものしか伝わらないということがみえてくる世界の人は皆そうやって伝えている。日本ぐらいだ、中途半端で受け入れてもらえるのは。
歌はバックミュージックに流れるものではなく、ひとりの人間の叫びや思いであってほしい。本来はそういうものなのにいつの間にか日本ではカタログ商品のようになってしまった。代わりの人間も歌もいくらでもある。音に精神が宿る。彼の演奏している姿を見ていると何か置き去りにされた気になってくる。それは彼がひたすら自分の精神世界と音を磨き続けることに徹しているようにみえるからかもしれない。決して閉じているわけではないのだけれど立ち入れない彼の世界があるような気がする。私がそう思うのはたぶん彼の意識の高さについていけないからかもしれない。私の理解できない世界に住んでいる人。
インタビューのなかで一人の男性がコルトレーンの音楽との関わり方を恐ろしいというふうにいっていたがそれぐらいの人間でないと歴史に名を残せないのだと思う。音楽が彼にとりついたのかその逆かはわからないがそれなしでは生きていけない人だ。彼をみていて神や音というのはどこまで磨かれ高められるのかと考えさせられた。感情と音とのつながりの上に精神と音とのつながりがあるのかもしれない。それは完全に肉体と音とがつながったときに可能なのだと思う。音楽も学ぶということも深さを求めたらきりがないがいかに自分が浅いところにいるかということがわかる。一体いつになったら学べるのかと思ってしまう。入口にさえまだ立っていないようだ。
一流になっても好奇心を絶やさず、視野を広げ全力でプレイする。一流になったというのは目的ではなく結果なのだと思う。彼にとって大切なのは自らの成長であり、彼の音楽の成長なのではないだろうか。一流になるためだけにやる音楽なんて嘘くさい気がする。誰のためにやっているのかということになってしまう。今まで私にとっての歌は人とのコミュニケーションと思っていたが、いや思い込んでいたような気がするがそればかりではないように思う。客とつながることが目的ではなく、今生きている自分の存在をステージの上で確かめたい、そんな思いがある。自ら距離を縮めようとしなくてもそこに何かひとりの人間の思いや熟さが感じられればつながってゆくのではないかと思う。
彼の音楽が前衛的になった途端人々は離れていったというが何かを創り出していく人間は常に先を行っていなければならないと思う。そうなるには自分がどうしたいかということを見つめ続けてなければならない。全てを客にあわせた活動をしていればいつかばれてしまうのではないだろうか。ひとついえることは誰もが認めざるを得ない実力を持っていなければ先をゆくことはできないと思う。コルトレーンの世界のバックグラウンドなんてこういう映像をみなければわからない。しかし一流として認められている人間は絶対に揺らがないベースのもの、ポリシーみたいなものをもっている。全てを賭けているから学び方も生き方も普通の人がまねできるものではない。自分にできることは彼と同じ力をつけるなんてことではなく今自分がもっているものをどれだけ伸ばせるかということ、全力を尽くせなければそれだけのものにしかならない。いやものにさえならないと思う。本当に厳しい世界だと思う。全力を尽くしたってどこにも顔を出せないのがあたりまえぐらいに考えた方がいい。どんな人も必死でやっているのだから。学ぶということは一生ものだと思う。これほど自分の喜びと直結するものはないのじゃないだろうか。これだけ情報の多い世の中だがその情報のなかにはほんとに学べるものはないと思う。自分の内に吸収した後どうでてくるかが問題ではないだろうか。吸収するということも認識をつめ込むことではなく発見、気づき、試行錯誤があって、解決しなくてもいいのだがこの繰り返しが積み重なって自分の身になっていくのだと思う。他人の土地ではなく自分の土地に種を蒔き耕さなければと思う。
【山下達郎】
ほとんどが同世代の昔からのメンバーばかり。しかし年齢(45才)を感じさせないPowerである。MCのなかで印象に残った話しがあった。それは「我々は年をとったがPowerは決して衰えていない。20年たった今も。最近の若いミュージシャンが20年後も今と同じいやそれ以上のPowerを持っているなんていうのは思えない」これはある種の若ミュージシャンに対しての彼の熱いメッセージに思えた(ミュージシャンだけじゃなく今の若者全てにいったのかもしれない)。彼らが若い頃1970年前後になると思うが、今と違って容易に外国のLPが手に入らなかった時代だったと思う。(ファッションもだいたいこの時代のものが今はベースになっている)今は世界中の新譜がすぐにどこでもCDで聞くことができる。当時はセッションというものがよく行われており、お互いが刺激しあっていたのだと思う。それとこれは時代が大きかったこともあるが、とても物事に対して“熱かった”のではないのかとも思われる。今はドライであったり、ほどほどであったり、愛昧というのが受け入れられる時代であるといわれている。できるだけカッコよく“しなやかに”やれるかというのを求めているように思われる。こうした時代背景はとても大きな差となって現れてくる。
この時代の人の特徴は“オリジナリティ”を持った人が多かったように思える。(達郎氏もとてもこの部分にこだわっている)だから、それがよけいにPowerがあるように映るのかもしれない。だから声のことは別としても20年、その世界の一線でやっているということは偉大なことである。あらゆるもののスピードが速くなっていっているこの世の中でトップの位置にいつづけるというのはベース部分の大きさ深さがあるからだと思う。これはどの世界にもいえることである。しかし、今は今で豊かで(表向きだけだが)あるから、それを目一杯利用していけばいいのではないのかと思う。使う、使わないは本人の自由だから、自分の目でしっかりと見極めていき、吸収していけばいいと思う。(以外とものが豊かにあると努力することを忘れてしまいがちになってしまうが)
ミュージシャンというのは本当に人、一人の人生に関わっているということ。昔からのファンが多く来ていた。何かこの人選(達郎氏に近い世代)のPowerが一番すごかった。こういう風に常にファンの期待を裏切らずに挑戦し続けるからこそ、いつまでも応援し支え続ける人たちがいるのだろう。20年間やっているということは20年その人の人生にかかわっているのだから、たとえば40才の人なら20才の頃ということになる。これはすごいことである。それだけ夢のある仕事だ。
このことについて、一つ思い出すのが、以前ローリングストーンズのたぶんミック・ジャガーのインタビュー記事のなかで、デビューしたばかりのバンドについての感想を聞かれたときの答えである。内容は、「彼らが20年やり続けたら答えるよ」というものだった。これは20年以上自分たちはトップでいることの誇りと物事の本質は1、2年じゃ解らないということをいいたいのだと思う。日本では20年以上となると少ないと思う。
挑戦し続けることの大切さ、学び続けることの大切さ、人を感動させる素晴らしさ、日本にもまだまだレベルの高いミュージシャンがいるということを再認識させられたコンサートであった。この人はトータルで評価すべき人だと思う。歌がとか、曲がとか詞がとかじゃなく、全てにおいてクオリティが高い。まさに職人という言葉がぴったりの頑固なミュージシャンである。(頑固一人が想像もつかない努力の積み重ねで生まれた言葉、姿、考えだと思う)
【エンゲルベルト・フンパーディング】
声の立ち上がりの部分が印象的。ベタッとい油性のペンキを想像させる。ベタッとつけてからどうにでも操る。太く線を磨いておいてから、さらに線を太くするような書き方を、よくやっているように思った。選曲や、姿勢、態度に関しては、あまりピンとこない。
ビートルズが、唯一シングル(ストロベリー・フィールズベニーレイン)で英国チャート第一位を逃したのは、この人の、リリースミーのせいだった。ポール・マッカートニーはこれを「彼と僕らとでは、めざしているものがまったく違う」といっていたが、まさにそうだろう。
古いもの、伝統的なもの、恒久的であることと、進取の気鋭、緊張感みたいなものは、両立し得ないのか。いや、つまらないことを考えてしまった。MCの間など、空間を弛ませている一面と、そのうらで次への問合いや、ネタの入れ方、息子との掛け合いを若々と計算している一面は感心した。
【ベラスケスの小さな美術館」】
あの人なぜそこのベンチに座った、あ、横になった。ドレスをまとった人が出てくる。不思議な物語の始まり。突然人が後ろを通り過ぎる。あの人は案内人なのか。絵に手で触れて感じる。絵から人のざわめき、喧噪。次の場面に移るときに必ず鳥の羽ばたく音。絵に触れると水面。どうなってんだ。自分がベンチから落ちた。もう一人の自分が出てくる。鏡のなかの自分が変わり、別の人になる。突然踊りが始まる。何なんだ、先が読めない。突然水のなかへ。水の外へ出て二人向かい合って会話しているのか。またもう一人出てくる。糸車が回っている。次は激しいビート。踊っている横で男に人は必死にスネアをたたいている。3人の踊り、すごく強烈。うまく言葉にできないけど、命の躍動感、混沌、エネルギーを感じる。
場面転換、潔い。細長く続く通路。あれ、部屋が広くなったような。身を相手に投げ出す。体と体のぶつかり合い。激しい息使いだけが聞こえる。暗闇のなか、手をたたいているような早い音、気持ちよい。息もつかせぬ踊り。情熱的な音楽。場面転換、同じ階段を上がり、90度回転する。ここで始めて音楽に叫びみたいな声が入る。上を向いて赤ちゃんの人形、割れたグラスってなんで。車に跳ねられて鍵が。うーん。手を広げしゃがんだ踊りの始まる前のポーズ、キレイ。ようやく本体が起きあがり、導かれる。絵のなか空っぽ。女の人は置いていかれる。服だけが残る。絵から抜け出していったのか、そしてあの女の人は絵のなかに入ってしまったのか。それがあの鍵で封印された。
【黒澤明「生きる」】
形あるものは必ず、人の熱き想いがあります。
これは、見ようと見えなくと、感ぜられようと、られずと、
必ず、必ず誰かの熱い想いがあります。
ここにも又、あるのですね。
この私がこうして座る床の上に。
私にあたるライトの光に。
どこで感じるものでしょうね。
心ですか?体ですか?さてね、
誰が見えるのですか?目ですか、さてね。
耳が聴くのですか。
渡辺さんの目の奥はね開いていましたね。
ずーっとまっすぐ、ずーっと奥にね。あれらー?
踊っているようでした。
細部に渡るまでその肩で、
その目の動きで言葉の口ごもりで、
その服の着方、腕の上げ方、口の端の身動き、
その微細な一つひとつで、
表現を構成しています。
具体的にです。
目のうるみも筋肉のふるえも光の照射も。
何一つ見逃さず、口びるの乾きも、
髪の乱れも何もかも見えて、
何もかも感じて積み上げて構成して、
その「具体」の数がつまり「表現そのもの」なのです。
「具体の視線」こそが「黒澤明」なのだと思いました。
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