レッスン感想 917
全体を通して音声イメージが貧弱だというようなことを先生はおっしゃった。確かにそうだ。私は2・3のレッスンに初めて出て、その回転の速さについていけない感じだった。それでも少しうまくいかないのは、自分自身のトレーニングが足りないせいだ。自分自身の音声イメージを構築すること。これは、私にとってはいかにその歌の世界を独りよがりでない感情(人々が共感できるような)で伝えられるかにかかってくる。もちろん感情以外の要素も当然あるのだが、私の好きな歌の基準は感情がどれほど伝わってくるかということに大きな比重があった。少なくとも数年前までは、そればかり歌うときにも意識がいっていたのだが、近頃は声を大きく強く出すことばかりにとらわれてしまって、感情表現がおろそかになっていた。
今私が一番しなければならないことはこういうトレーニングのはずだ。一番自分が武器にしたいと思っていた要素である。映画やドラマの台詞などから食欲にトレーニングの材料を拾ってくる。まず、ことばのトレーニングからやり直していく。それにしても、はっきり人々に伝わる音声イメージというのは、相当強烈にやらなければいけないことが、少しわかってきた。それを考えると美空ひばりのように歌うのは、相当強くはっきりした音声イメージがあっただろうと思う。私は、ひばりさんの「川の流れのように」が大好きだ。あれだけ人に伝わる歌を歌いたい。
福島先生が「きみの」とたてに出したのが、まさに「たて」だった。目にみえるようだった。言葉が一つになって向かってくる。とにかく、大きく、一つにとること、それをフレーズにしていくこと。(これが難しいのだが)「ダウンビートの抜かしてはならない点以外捨ててつなげる」ということをいわれたが、その「点」がどこなのかわからないのではどうしようもない。そ
会報などで「集中力」とか、「スキがない」とかいう言葉を目にしていたが、今回それがどういうことなのかわかった気がした。息をながし続けることができなくなった瞬間から、空っぽになり、やる意味がなくなる。息がないのに発されている声、無意味に声を伸ばすという行為は、粘土で作っている作品がまだ未完成であるのにもかかわらず、自分でそれを「フ~ッ」とかいいながら眺めている(人が注目しているにもかかわらず)ような、何とも気持ちの悪いことなのだと思った。
「オープンアームズ」それぞれの人の趣味・集中力・体力がよく見えた。キーあわせ。思っていたより高いキー(G)になった。この声量・テンションを身体にしみこませ、気持ちが音色ににじみでるのをくり返し待つ。オリジナルを聞くと、前半は特に集中してささやくように歌われている。(この辺の出方ですでに、その人がこの曲全体をどう捉えているかがわかる気がした。)「with mine~」この処理は難しい。(オリジナルもうまくできていると思えない。)「We sailedon~」ここで明らかに感覚が変わらなきゃいけない。ステージならきっと照明効果をグッと変えるところだ。(力入れすぎたらちょっとそれた。繰り返し身体でおぼえる。)「We drifted~」ここは個人的にすごく気持ちが入る詞。飾らない直な感情が飛び込んできて、じ~んとする。すごく大切に歌いたい。
「by me side~」ここでしっかり粘る。サビへの大きな登り坂だ。ああ、しかし体力が足りないことがわかった。くやしい。「So now I~」規格品みたいに歌わないこと。横に動かしたりできないので難しいが、もっともっと絞り込みたい。「open arms~」オリジナルはすごくヌケがいい。「あ、この人の売りどころだなぁ」って思う。他人のフレーズを聞いていて、「オープナーム」ここが妙に目立つと感じた。いらない力をうまく省いていこう。「believe what~」この持ち上げ方がすごく気持ちいい。曲がより立体的になる。「what you~」ここを鋭く絞ることで大きく膨らんだサビのフレーズを小気味よくしめている気がする。「open arms~」残り香を広げるフレーズ。
私は随分とポジションが上がっちゃってスカスカ、支えのない声になっていると気づいた。サビで張ることばかりに集中せぬようにあくまで全体の流れを把握していこう。「絞り込む」とか「自分の歌にする」ってことに対して、自分の感じ方、考え方が変わってきている気がする。1年前はもっと表面的なところを大ざっぱに、手っ取り早く、「ちょっと横にずらしてみよう」とか「ねじってみよう」ということをおもしろがっていた。今もあるが、もすこし素直にその歌を理解しに行くことを考えるようになったと思う。たまごに色を塗るのでなく、たまごの黄身の色を変える。できれば、できれば、別の生き物にしてしまいたい。貼りつけたもの、塗りつけたものでなく、にじみ出るもの。
「ワッハッハッ」の声出しは、おもしろかった。「王様になった気分で」とか具体的にイメージを伝えてきてくれるので、ついつい顔もほころぶ。「ワッハッハッ」なり「ハイ」なり、自分のなかで固定できたら、相当武器になると思う。それをトレーナーの人たちはつかんでいる。「何でこういうことをやるのか」「これがどう発展していくのか」というのをしっかり歩んできたのだと思う。具体的にイメージする力、信じる力、トレーニングの差、たった一つの物事の深みの差。声を発したら、もう私とは違う。存在している。自分の出すものは、つまらない。何で外へ働きかけないのだろう。
ため息のトレーニングをしてもらって新鮮に思った。今自分が吐ける最も深い息を声にする。こういうことを書いていると自分がわかったつもりになっていることに気づける。どのレッスンを受けても思うことは、基本、ひたすら基本。いわゆる「基本の重要性」を身にしみるためにレッスンを受けつづけているようだ。「いわゆる」でなく、それを自分の内に取り込もう。深いため息から声にしていく作業を実際に20分間なりやってみると、今まで文章などを読んでコトバだけ憶えて、できているつもりになっているとわかる。ギターの教則本を読んでもギターはうんともすんともいわないが声は誰でも出る。
ある時期、量は必要だが、量よりも質であると思った。(内容と集中力)毎日それほど時間のとれない人がキッチリと伸びていることでわかると思う。日々のトレーニングメニュをもう一度見直し、何が将来伸びていくために必要なのかを選択していく。(根本的な改善のところがかけていると思われた。)闇雲になんでもかんでもやればいいというものではなく、きっちりと何のためにやっていくのかということを明確につかんだ上のメニュでないとトレーニングをしても、やっているだけのようなことになってしまいかねないので注意すること。芯がまったくない。つかめてない。ため息のトレーニングからもう一度やり直します。
1音きっちりと芯のある声を獲得したい。その1音であれば自由に「ハイ」「全ての母音」を深く出せるようにしたい。ブレストレーニングの段階で余計なところに力が入ってしまっている。本に書かれてあること、人がいったことが真実であるかどうかをそのことを実行しないうちから、正しいとか正しくないと決めつけてしまうことは間違いである。そのことが本当にどうなのかをとことんつきつめた上で述べるべきである。だから、トレーニングしていく中でも、それを自他ともに答えが出ているということが認められるまでは「~だと思う」「~だろう」という表現をしていく。簡単にわかったというようなコメントは改めたい。
息の線の上に言葉を置いていくということ。数になるまでの順序としては、体→息→声→線→音声フレーズ→言葉→(そこで強弱を自分で動かす)→音楽、歌としてのフレーズとなるだろ。日本語は高低ではあるが一応アクセント、イントネーションの山がある。そこをしっかり意識して、まず「アー」等で音声フレーズをつくり上げる。その際、「底から全音符の気持ちで息をずっと引っぱっていくイメージ」が重要。
先生は「あおい」が一拍だとしても、その一拍のなかでの“時間の経過”をしっかり感じること。音声フレーズを意識して、一拍全てでいい切ることが重要だといわれたこれは大変私には難解だった。簡単にいえば一拍の場合、半拍で終えてしまい残りの半拍に空きが出ないように、しっかりと一拍分の密度を濃くすることをめざすことなのだと思うが、ここを歌一曲に関して「一拍一拍完全に」等と思っているとそれでは何も出せなくなると思うので、3分なら3分間、どんなことがあっても1フレーズ1フレーズ着実に“途切れない息”を持続させていくことだなあ、と自分なりには感じた。
「スー」や「ハー」などで最近息吐きをしていると、3分などまさかまさか、本当に集中してやっていると思えるときはものの30秒でとても苦しくなり、間を使った呼吸に戻ってしまうのである。(酸素が足りなくなるので胸で息をしていると思う。)これには2つの要因があると思われて、1つにはまだまだお腹の許容量が足りないということ。2つにはいつものことだがまた力んで胸から息もれしてしまうので苦しくなるのではないかということ。よって体力アップと上半身の脱力、自然な息吐きが常に私の目標である。使っていない筋肉を使い出すと、これは大変な負担がかかることを最近始めて知った。やっと“練習している”状態までこぎつけたのだろ。全てにおいて体力、体力。
私が感じるには、トレーナーの声はとても柔らかいのに鋭く“ビィーン”と伸びる音色を持っているに加えて、幅もどこまでも広がっていきそうな安心感がある、と思う。トレーナーは“前向きに明るい声”とおっしゃっていたが、まさにその通りの声だと感じたし、また、このような商品質の声を再現するには、上に書いた通りの基本ブレスの訓練を繰り返していくしかない。そして、一番は“気持ち”。声で表現をするのだという初心を忘れないこと。単なる発声練習にも自分らしいニュアンスを感じていくと以前おっしゃられていたことが大変大きい。声をまず出してみて、それから体について考えるといったスタンスはよいのだが、だからってのんべんだらりでは最悪である。自分なりのイメージを持って出してみる(これは音色などのことで、体ではない)とよいかもしれない。
フレーズをひとりひとり歌うとき、「あの人はカッコつけて歌っている」とか「この人は発声を聞かせるような歌い方になっている」というのがわかるが、いざ自分の番になるとこう歌っているのか判断がつかない。きっと自分も他の人の歌を聞いて気づいたようなことをやっているのだろうか。トレーニングをしているといってもそれがそのまま歌に出てしまってはダメだと思った。それは他の人のを聞いていると感じることだ。そんな歌をお客が金払って聞きに来るわけがない。それと歌っていて無駄に音を伸ばしたりひびかせるとすごく不自然に聞こえてしまうのでやめた方がいいと思った。
歌が棒読みになっている人がいた。恐ら自分も含め、ほとんどの人がそうなのだろうが、見事なまでに典型的であり、思ったことがある。
1.リズムが消える。2.前へ進んでいく気配すらない。3.言葉を声に出したときに起きる“つや”みたいなものがない。言葉に色がない。4.人工的で、空気でも森でも湖でも何でもいいが、他の何物とも混じり合うところがなく、仲間外れのようになっている。そしてそのまま自己主張しようとするなら(声を大きくするetc.)顔をそむけたくなる。→このなかで最も恐ろしいのは4だ。自分もそれは感じている。自戒しよう。
1回目にまわってきたときと2回目と、イメージは変えられなかったが、それを右から見るか左から見るかというようなものだが、変えてやってみた。“人に届く”ということは、声でなければ経験がある。その状態というのはむしろ「目で」とか「耳で」とかいうより「肌で」感じられる。つまり周囲がそれによって表情が変わるのを見たり、何かいうのを聞いたりするより、「届いた」ときには肌にピリピリくるような感じがある。(しかしこれもいい加減で、表面的なときである。むしろ少々「引かれたかな」というときの方が伝わっていたりするのでよくわからん)。先生が今日のレッスンで駄目だといっているのは表面的にさえ届けられなかったからでしょう。なるほど、肌に何も感じられない。では、どうしたらいいか。というのが根本、基本だ。
必要なこと、いい音楽をたくさん聞くこと、そして感覚を磨くこと。そうでなければここに来ている意味がなくなるからだ。“空と海と”のとき、私はただ棒読みのように歌って(歌といわない、いえないと思うが)しまった。感じたものを表現する。何て難しいことなのだろうか。なぜ私は棒読みになってしまうのかきっとまた自分の殻に閉じこもって表現することを拒んでいるのだと思う。もちろん日本の教育にも問題はあるのだが、そういうことでなく、私は殻に閉じこもったまま、「表現したい。わかってほしい」と思っているようだ。体一つ、指一つ動かない。何も伝えようとしない。そんなもの歌といえるのか。どうしても、「人と違うことをしたくない、恥ずかしい」という日本的なものがじゃましているようだ。英語で話したりするときは身振り手振り、大きな声で一目を関係なく伝えようと努力する。日本語だと口をそんなに開けなくても意味が通じてしまう。この点でもう日本人は特にイタリア人に負けている。負けたくない。伝えたい。
表現したい。ならば恥ずかしいとか、先生にヘンな目で見られたらどうしよう、とか、人と違ったことをして、あの人は変わっているといわれるのが嫌だとか(「変わっている」というのは私にとって一番傷つく言葉です。)、そんなことを考えないようにしてやらねばならない。“空と海と”空と海を想像して、そこにたたずむ私を思う。どんな気持ちか。それを伝えたい。表現したい。もう演劇に近くなっているが、歌もドラマなのだから同じだと思う。ジュゼッペフライファ(まちがっているかも)の歌に合わせてお腹(呼吸)を動かしてみたが、まったく歯が立たなかった。何て深く、強い呼吸をするのだろう。
歌(声)を勉強していて最近感じるのは、全て勉強とかスポーツ、楽器にもいえることだが、ある一定の期間(周期で、感覚が変わってくるということ。克服したい課題があって、一心不乱にやっているときは、何も怒らないが、あるとき、フッと脱力が起こって、開放される。そこが、夏から、この秋にかけて2回起こった。夏は、外に声を出していくことが苦しくなく、楽になっていた時期だった。その時期、英語の歌で練習したいものがあり、勢いのある曲だったのでリズムの乗り方、入り方など勉強していたが、ただ声が出る、大きく出すだけでは乗りというのは出なくて、録音したものを聞くと、驚くほど一本調子だった。楽しく歌うだけでも駄目らしいことがわかった。
オリジナルのものをもっとよく聞いてみると、声を飛ばしていることに気づいた。そのとき初めて、“声を飛ばす”という意味がわかった。それがわかると、たとえばミルバなんか、つかんだものを飛ばしているのが手にとるようにわかる。それが巧みに歌のなかに盛り込まれていて、それが躍動感溢れる歌になっていく。初めは“つかんで飛ばす”という感覚を体が知らなかったので瞬発力をつけるのに時間がかかったが、少しギコちなくとも、できるようになったとき、録音して聞いてみると、やはり、1本調子ではない。自分ではすごい力で歌った(飛ばした)ところも、冷静に聞いてみると、まだ物足りないくらいなのだ。
よく先生がいわれますが、“大袈裟にやって普通”ということもよーくわかった。そして、改めて、“歌の聞き方”というのも問われた。材料はたくさんあるのだ。それを聞き逃しているのは自分なのだと。その後しばらくしたら、歌うとき、何か体が重くなる感じがするようになって、声を出すのがまた少し楽になった。体が知らなかったことを覚えることによってのみ、変化するのだなと思うようになった。
“聞き方を変える”で、聞きすぎてハマってしまってわけがわからなくなった(歌い方がわからなくなった)ものが、今回、歌った「ギターよ静かに」だ。すごく力が必要ない方のハズなのに、たださらっと言葉だけが聞こえてくる。サビでは、まるで、口のなかから内視鏡か何かで体のなかが見られるほど深い声なのに、そのまま少し感情が入っているだけの強さ。いざ同じこと同じフレーズ)をやってみてもまったくできない。いつも課題曲は、最低音から最高音の差が1オクターブくらいしかないのだが、Aメロがしばらく低音が続いてサビで高音なので、既にAメロで力を使ってしまい、サビではヘトヘトなのだ。けれど、なぜか未棟が残っていて、この曲を選んでしまいました。
1.一番印象に残ったのは、フレーズに息が入るとそれは作品になる、ということ。(息が続かなくて、途中で途切れてしまったとしても) 2.“ハイッ”の練習で声が太くなってもその先に行くには、フレーズのなかにその感覚を取り込むということ。私はこのことをずっと逆に考えてしまっていたようで“ハイッ”の感覚を先に捉えておいて、それで歌にすればいいのかと思っていたけれど、先にフレーズがあってそれを“ハイッ”のところまで落とすときいて、なるほど、と思った。(今までも聞いてきたのかもしれないけれど)3感覚を磨くこと。声が大きくなっただけでは歌は完成しない。曲を聞いたら頭で理解しようとするよりも、リズムや呼吸を感じること。そしてやってみること違うと思ったらまたやってみる。そのり返しで、体が覚えること。
自分はどんな声が欲しいのかどんなふうに表現したいのか、それがないとまねだけで終わってしまう。こういうことがわかってきたら、前に福島先生の本で読んだ“歌い手は歌に命を持たせるという意味で人間に呼吸を与えた神と同じ作業をしている”という言葉の意味も理解できるような気がした。ものすごい表現だと思うけれども、神様にもらった命そのものを表現するのだなと思う。
まさに格闘技だった。寝不足もあったが、何回も立ち眩みしてしまった。これからはベストな体調でレッスンに出ようと思った。本盛で、読んだ例で「ガケをおちかけた子どもが“おかあさん”~」まさにこのレッスンで体感できた。
“セレーナ”にドキッとした。前屈で腹筋を体を使って息や体を使うトレーニングをしたが、独学であそこまで体をいじめるようにつらくもっていくのは、考えつかなかった。(いかに効率よく腹筋をいじめる感じ)本書でもよく読んだ「本物の声を体験しなければ~。」まさに日本の文化では独学不可能だと思った。
みんな同じといわれた。自分のなかでは人よりやっているつもりだったのでショックだった。が、ショックな分何をすればいいかはっきりわかった。みんなの流れで歌ってしまう。とりあえず目立てばいいのだがそのためにはかなりのパワーがいる。
レッスン中のメモは最小限に控えようと思った。録音と一緒で、安心して配憶が薄れる気がした。左脳的になってしまう。右脳イメージに焼き付け、レッスン後に右脳フル活動して思い出す。それを書き出し分析してアイデア、トレーニング法をあみだす。(※右脳イメージと左脳イメージでは2000対1ぐらい記憶力に差があるとゆう本を読んだことがある)アテンダンスシートは両脳をフル活動させるのにとてもよいと思った。アテンダンスシートはコピーしないでストックしないでおこうと思う。
「筋力トレーニング」いかに筋肉を効率よくいじめることによって筋肉を鍛えるか。尾骨の響く感じがほんの少しわかったが立つとわからない。辛くなってからの10回かけ○セット息ができなくなる(学生時代のスポーツクラブ活動を思い出す)友達にきいた、ボディービルの筋力トレーニングを思い出した。ただつけたい筋肉のマニアル的な運動では、ぜんぜんだめだという。呼吸法、吐くときに運動+イメージ(私はここの筋肉をつけているとか、理想の筋肉をイメージしたりとか)を集中しなければ、筋肉はなかなかつかない。そして運動+食事(タンパク質)+睡眠この三要素が1つ欠ければアウトらしい。寝ている間に、運動した物質とタンパク質が結合して膨らみ筋肉痛になる。筋肉痛になれば筋肉がついた証拠)これはつかえると思った。プロテインは危険なのかな~。
「「1/fゆらぎ」ってなんぞや研究」レッスンのなかで「フレーズの波」とゆう言葉で1/fを思い出して家で研究してみた。1/fゆらぎを体感するため、昔買ったDr.中松の「頭の良くなるCD」を引っぱり出した。アルファー波を出すためのエ夫で、ゆらぎがあると思ったからだ。「頭の良くなるCD」とは、アルファー波の出やすいクラシック曲十人間には聞き取れない音波(脳の記憶により音波)で音(CD)~空気(振動)~鼓膜~頭蓋骨(ボディー)の振動~脳のマッサージによって脳を活性化させようとゆうCDだ。これを聞くとたしかに脳がマッサージみたいな気持ち良い一定の波があるかがわかる。果たしてこれが1/fゆらぎか。
とりあえず母音中心気味でウッドベースのようにカラオケにあわせてみたところあらふしぎ、一所懸命唄ったときよりぜんぜん音楽的で気持ちよいではないか~、なんでや~。客はアルファー波が出るのだろうか。サビまでくるとキンキンカンカン、う~聞くに耐えない私の声~たすけて~ガチャ(テープを切る音)弱拍のところをしっかり息を出して前に出しフレーズと言葉に持っていくのが難しい。
胸君「君、あとはまかしたぜ、じゃ~」
腹君「こら~まて~お前はいつもやっかいなことだけ私に押しつけて~」
「私はいつもどれほど辛いか知らんだろ~ま~上のやつにまかせないだけましだけどな~」
胸君「だって私の力じゃちょっと~」
腹君「もっときたえろよ~」
(頭君)「じゃ、私にやらせてよ~」
胸君「バーカ、お前にできるかよー」
(頭君)「私にだってできるわ」
胸君「キンキンカンカンうるさいだけなんだよ~」
胸君「力仕事は私達の仕事さ」
腹君「お前がいうな」
(胸君)「まーそーいうなよ、緑の下の力もちさん」
腹君「まーそういういい方ならわるい気もしないなー ハッハッハ~」
ありすぎてこまった、何から思い出そう。発音時のときの経過を認識して、スピードを上げていく。母音のなかに子音を入れていく。力の抜き方。イタリア語の母 母 母 ことばの波、フレージング。<言葉の波>この波をいかに気持ちよくつくり、人を酔わせるか。自然観察や一流の音楽の波をチェックしてみようと思う。一流のフレージングは1/1のゆらぎにやっぱりあてはまるのだろうか。気持ちよいリズムのグルーヴの上にこの気持ちよいことばの波、フレージングを作っていくことがわかった。川の流れ、そよ風、木のささやきなど自然音に1/fのゆらぎがあり、アルファー波が出ると本で読んだことがある。
ベートーヴェンはよく散歩をして自然のささやきを音楽(メロディ)にしたとゆう話も聞いたことがある。ゆらぎについて研究していってみたいと思う。このゆらぎ十周波数1000Hzの声+リズムグルーブ躍動感。初めてレッスンを受けたとき、リズム感、カウントに驚いた。ベースをやっていたので、セミプロレベルのドラムとは合わせたことがあるが、リズムの次元が違うと思った。リズムが生きている。躍動感とはこうゆうことをいうのか。プロレベルとはカウントからすべてが違う、1フレーズの前にカウント、ない音まで違うと思った。
まさにここは宝の宝庫だと思った。毎日のレッスンがこんなに内容が深くおそろしや“福島英”といった、もう脱帽ものだ。独学で未完成な基礎が一つ二つ確実に身につくのがわかる。わかるとできた、うぬぼれをなくし、厳しく自分をチェックしたい。
体を鍛えると(深い声)音程、発音がやればやるほどオンチっぽくなりドキドキした時期があったが、確実で将来性があることがわかった。前屈した姿勢の筋肉のハリと立姿勢でのハリを交互に繰り返し比較するとわかりやすい。ベースをやっていたので円運動は知っていたが、自分の身長の高さをバウンドしているというのには感動した。
ただハイと投げるようにハイの違いがよくわかった。息とイメージができてもまだまだアウトブットできるものは知れている。格闘技という表現がCDを聞いていて伝わった。最高のテンションに上げといていきなり低音域とをコントロールする。やはりかなりのトレーニングが必要だということがわかった。1日1回ベストを取り出す。今日のベストを明日のトレーニングの1発目で出せるよう目標をたてイメージをしっかり残してやっていく。
聞き方が深まっていかなければ自分の歌も深まっていかない。グラシェラ・スサーナの歌、何をやろうとしているのか本当にわかりやすい、見えてしまうというようなことをいっていたが、そのことが今日初めてわかったような気がする。たぶんプロの歌にはたくさんの計算されたものがあるのだろうけれど、そういうものを私は聞けていないと思う。グラシエラ・スサーナの歌を聞き、全て呼吸でつないでゆく(コントロールしていく)ものなのだと思った。
息でつながれてさえいればどんな声でも音でも伝わっていくということ。息、リズム、言葉をどうつなげてゆくかということなのではないか。それと、どんなテンポでもスピードを感じるのはなぜか。これも今までわかっていたようでわかっていなかった。1音を捉え走り出させるには相当強い息を吐かなければだめだということ。決して押しつけているのではなくストレートに息を吐くそれが基本だということ。全ては息のコントロールの問題なのだと思う。
器を大きくいく目的は声量、声城を大きく拡げることではなくより大きなフレーズでとらえそのなかでいろいろなことができるような可能性を広げておくということだと思う。トレーニングを正しく続けていけば声や体のことを気にせず表現することに集中できるようになる。問題はそれからなのだと思う。今の私にはまったく理解しがたいことがたくさんある世界。努力してどうなることかはわからないが感覚を研ぎすまし少しでも気づいていけたらと思う。
歌を歌っているときに必要のないことは考えない。思っていることが伝わってしまう。聞いている人に何も思わせないことが大切になってくる。とにかく無心になること。一番危険なのは声に意識がいっていることに気づいていないこと、いやらしく感じる。ちょっと前の自分がこれにあてはまる。なぜこうなったのか、どうやって捨てきったのかハッキリわからない。でも一ついえることは研究所の人たちのやっていることが直に受け入れられるようになった。
アテンダンスも作品にできると思った。ここに書いて読み返してみたとき、「何だこれ」と思う。それはまだ、自分に嘘をついて書いた偽物だと思う。相手をだまそうとしている。会報にのせようとしている。こういった雑念を全てなくしていかないと、本当に伝えたいことが見えてこない。子どもの絵が作品になるのはそういったものがないから。見た人の心を純粋にしてくれる。そこに順位もない。そういう気持ちで歌ってみたい。
1.サントワマミー 悲しくて 私はどうしてこんなふうに伸ばすのかと思った。体から離れているところでミーと伸ばしている気がする。集中力も気持ちも続いてないからとってつけたようなものになっている。悲しくてと伸ばしているときも同じことがおきている。たぶんイメージのなかで<サントワマミー><悲しくて>という言葉を一つに捉えられていないのだと思う。体からはみ出してしまったというより最初のイメージが違う気がする。自分の呼吸のなかにサントワマミーがきちんと入っていれば、ミーだけが独立して聞こえるようなことにはならないはず。プロはもっともっと大きなイメージ、呼吸のなかで捉えていると思う。私のフレーズは息でつないでいっているだけ。その息も流れているとはいえない。
今まで声たてのことは常に意識してきたが終止はだらしないままほったらかしていたように思う。終止をだらしなくしないためにはどうしたらいいか。腹で切るとはいうけれど体や感覚のところでわかっていない。問題は終止のことではなく、その前のことではないだろうか。ワンフレーズをやるとき息が足りない場合は短くすればいいのだが余ってしまっている場合というのは本当にだらしなくしまりがない。そして次のフレーズにもうまくつながっていかない。もっとフレーズを大きく作って余らせないようにした方が次への入りもわかりやすいように思う。
息の配分を考えた方がいいように思う。やるときはおもいきりやるが、いきあたりばったりではフレーズとして形にならないように思う。どこを膨らますかという入り方をしてどうつないでゆくか、自分にあっているものは考えているだけではわからない。試していく中で自分の呼吸にあうと思えるものがあると思う。それと自分とプロとの大きな違いはスピード感。1番目に入り込む最低限のスピードがある。言葉でいったときできていることを拡大してもできなくては表現がゆるんでしまう。今の段階ではプロとポジションの深さがまったく違うがイメージで捕える。常に何かを発する前後はつながっていることを忘れないこと。体、呼吸、テンション全て自分でもっていかなくてはならない。そして入り込んだら次へとつなげていくこと。
サン・トワ・マミーと3つが切れてはよくない。自分ではつながっているつもりでもプロからみたらとても音楽として感じられないものなのではないかと思う。ワンフレーズのなかでの時間的な感覚はプロとまったく違うように思う。以前に比べ自分のフレーズが形をなしてきたように思うが、洗練されていないというかをボタッと落としたような感じがする。スピードがないから止めも生きてこない。輪郭のあるシャープなフレーズをつくりたい。
.プロが、どのくらいの細かさで感覚しているかはわからないが、感覚が鋭くなっていかないとく二人の恋は>と伸ばした中に何も感じられずに終わってしまうのだと思う。少しのためがまったく違ったフレーズとして聞こえてくる。その微妙なタメを心地よいと感じることが大切なのかもしれない。拍を4分、8分、6分、32分で感じるのでは出てくるものもまったく違ってくるだろう。深めてゆくにはまず聞けなくてはと思う。
今まで聞いていたものを少しずつ深め細かいところまで聞けるようにしていくこと。聞けるのと出せるのはまた違うだろうが、まずは少しでも多く気づけることが大事。私のフレーズは恥ずかしいほど、こうやっているのだというのが見えていると思う。でも今は微妙なコントロールを考えるより大きく捉えていくことの方が大切だ。自分の呼吸の流れを殺さず体に合う動きを探していく。中途半端な踏み込みでは一つにならない。表現が流れてしまう。今はより息をはいて大げさなくらい踏み込んでみること。体ができてくるに従って、踏み込んだあと楽に放せるようになっていくと思う。
言葉からフレーズへは基本。より息と体を使う。以前と違うと感じたことは声をつかめているという感覚があったこと。プロの感覚には及ばないが何となくこの感覚の延長に(はるか彼方に)あるのだろうかと思えた。息を吐くスピードがないのと表現に入り込んでゆく勢いがないため走っていないように感じた。一瞬にして深く踏み込めればもっと立体的なフレーズになってゆくのだと思う。踏み込みたい音とその前の音の間があきすぎるとゆるんでしまう。深いところで一つに捉えること。プロのフレーズは踏み込む前後のスピードがかなり速いと思うが、私のフレーズは1音だけ強調されて前後を巻き込めていない。ものすごい息のスピードなのだと思う。
ポジションの深さも大きく関係するだろう。たとえこの愛がいつか終わるとも。以前、表現に技術はついてくるといわれたことがあるが、本当にそう思う。音程を高低でなく強弱で捉えろといわれなくても伝えたければ自然とそうなってゆくように思う。音や声を大切に扱うこと。前に出そうとするとていねいにできず雑になってしまうように感じる。かといってていねいさばかり強調したような歌い方はしたくない。できなくても意識していくこと。音にあてるのではなく呼吸でつないでゆく。こうしたいというイメージを持ち続ける。
自分で感覚しているものと外に出ているものの差がわかっていなかった。録音して聞いたとき自分では一つに捉えていっているつもりでも、かなり間延びしていて聞いていられない。これでもかというくらい、踏み込んで何とか聞けるという状態。体や心を使い切るにもその内側で感覚しているものと外に出ているものが一致していかないとできていかない。客観的に自分を見ていく。声にしても感覚にしてもステージングにしてもそういうことにやって目がいくようになったと思う。少しずつでも自分のものを作っていけるようにしたい。声に関してもよい声のイメージがいつの間にか自分お勝手な思いこみでずれてしまっていた。
以前、ライブの歌に関して最初の4フレーズはできていたが、あとはよくない、というようなことをいわれその意味がわかったようでわかっていなかった。録音した自分の歌を聞いたとき、その声と体の感覚が一致した。それと同時に6/6のできていたという声と体もつながった。そしてプロの体のなかの感覚らしきものも結びついてきたように思う。全てがつながってはじめて本当の練習ができるように思う。
音に込めるとはどういうことか。込めることについて考える。ただ単に音を出せば歌になるのか、というとそうではなく、それぞれの音を考えて、音に込めなければならない。1音へのこだわり、また、そのようにして音を動かしていくこと、変化したことへの意識を持つことが大切である。
言葉が止まるというのがどういうことなのか今日初めてわかったように思う。<長い間ひとりで>を何度もやっている中で気づいたことはワンフレーズを完結させるとか体を使いきるということがまったくできていなかったということ。先生のいう全身で捉え入り込んで出すだけという意味が今になってわかったように思う。息をより吹き込み大きくフレーズをつくってゆく。プロと大きく違うのは入り込み方、それ以前のテンションの高さ、集中力。ワンフレーズに対する感覚が一曲全てに浸透していくということを心しておくこと。言葉をしっかり捉えて前に出すにはそうとう集中力がいる。何度もやっていると止まるところと流れるところが明確になってくる。踏み込むスピードがはやければはやいほどフレーズが立体的になってくる。歌を歌うときにはここまでやらないかもしれないが、トレーニングのときは今の体とどのくらいのことができるのかギリギリのところをみていかないと課題に落ちていかない。
以前とは感覚が違うのに同じようにやろうとしてかえって複雑にしているということがある。以前は声たてばかり意識し表現はどうしたということが多かった。トレーニングのなかにはまったともいえる。そのことで声は前に出すひっこんだままで他の人のフレーズを聞き同じような人がいるとよくわかる。前に出ないことにはどうしようもない。それと語るように歌うことについて。プロとは体が違うのに同じようにやろうとすれば全て引っ込んでしまうということがわかっていなかった。ここでいう同じようにというのは面的なものだけをとってくるということ。いつの間にか自分勝手な思いこみで言葉をしっかり伝えるというベースのところから離れていた。再びスタートに戻ってやり直し。
自分のことを棚に上げていうが、今日は他の人のフレーズを聞きどうしてこんなにも力なくいうのかと思ってしまった。ヴォイストレーニングにとらわれている人も中にいるけれど、歌とはこういうものだと決めつけ、そこから出られなくなってしまっている人が多いと思う。アメリカで6、7年暮していた人がガンズ・アンド・ローゼスの練習を見て、日本人とは能力が違うといういい方をしていた。マイクなしでもものすごい声だと。それを能力の違いといっていた。体が違う、でも鍛えれば近づいていく可能性はある。そういう考えはないのだろうか。
「正しいときに正しい場所に全てが落ち着決してあせらず、全てがひもとかれ発展してゆくのを見守る。たとえ人生の全てがあまりにもゆっくりとしているように見えても決してイライラしない。絶対的な信頼と自信をもち待つこと。全ては正しい時期になされると知ること。」アイリーン・キャディ
一つひとつ音色には意味がある。ということ。「いつかおわるとも」の「わ」の上がっている音は、前のフレーズの流れに対して違う流れをしていてとても意味のある音だということ。展開していくにあたり、風景をガラッと変えてくれる音であった。サビ、高音、強くするところにつながる、と予感させる音だということ。今まで聞いた曲のなかにもこういう展開はあったが、そんなに注意していなかった。歌にはドラマがあり、展開して盛り上がればしっかりと落ち着くところもある。その流れを歌い手がしっかりと握っていてしめしていかないと、聞き手にわからないし、歌い手自身もわからず歌ってしまうことになる。
「たとえ」の言葉を一つにとらえること。なぜたとえと分散しない方がよいのか。回したときに他の人のを聞いてわかった。「たとえ」という言葉じゃないからだ。音符をならしてしまっているだけだったり、「たとえ」がどんな「たとえ」なのかという雰囲気もないし、そこで終わってしまいそうだった。「たとえ」に何かを表現しようとしたとき、やはり1音になる気がする。一つの息のなかに、表現されてしまうのだと思う。それが1音にこだわり、1音で音楽を感じさせることなのだと思う。
「たとえこの愛が」の「たとえ」を歌ってこの愛が)が見えていくように本当は歌っていく。それだけ、その音、言葉、フレーズが大事なのだと思った。一流の人は確かに、聞いているだけでその歌い手の言葉、音がすんなり入ってきて、情景が瞬時に伝わるのに、ステージ実習とかだと、言葉を聞いてって、自分の頭のなかで整理しないと、情景が伝わってこないことが多い。その違いなのかと思った。
息吐きと、声立てのトレーニング。声のとき、喉に掛からないようにすること。高音を出すときに、地声を出さず、高音を引っ張ること。また、押さえつけるような感覚にならないこと。音階を半音ずつ上げながら、同一ポジションを保ち、柔軟性を持って引っ張ること。ささやくように小さい声で「ハーア、ハーア、ハ-」(地声は出さない)と発声する方法。ピアノに合わせて半音ずつ上げて、同ポジション(ドの音)から徐々に引っ張る感覚をつかんだ。いきなり引っ張るのではなく少しずつ行うことにより、イメージをつかみやすいと思った。
実際歌うときは、高音のみではなく、下のバランスも取らなければならないこと。タコ上げの、手元で操作する感覚という説明が、イメージしやすかった。歌うときは、当然この上と下に引っ張る感覚を保ちながら、フレーズ(横につなげる感覚)も大切にしなければならない。あれもこれもではなく、今回のようにパート毎に分けてトレーニングすることは重要だと思った。
表現の生死を聞きわける。次へつながる音を出す。前の言葉に対して次をどうつなげるか、ブレスをどうするか、どう駆け引きをこなすか、どこにアクセントをつけるかをきちんとイメージする。曲に対して知識として蓄えたものではなく、スポーツのように繰り返した体で覚えたものが出る。そのくらいになるまでやる。何通りもある表現のなかで自分が選んだ歌い方にきちんと筋が通っているか、聞きわける客観性、感情を優先すれば体のどこかに力が入ってしまうということ。体の条件を整えるということ、いわれていることがきちんと自分のなかでわかって実行できているか確かめながらやる。
歌の世界にすらりと溶け込んで、歌詞がそのまま自分の心から出るじゃない言葉ならそれは自分の表現として存在できるのに、他人の言葉、借り物の言葉ってどうしてこんなに薄っぺらく聞こえるのか疑問です。やっぱり本心からの説得力にはかなわないけど、少しでも近付きたいと思います。
楽譜でいろいろできるということ、楽譜の長さや音程をそのまま味もそっけもなくとるのではなく、その一つひとつに自分の感じたものや曲の印象などをいろいろ込めていくことによって曲はとても変わってくる。他の人のを聞いているとホントにさまざま。自分と似ていると思う人もいれば、まったく違う人もいて同じ曲がまったく表情を変える。たとえば、手でリズムをとっているとき、手を打ったそのはね返りも感じていなければいけない。これはとてもわかりやすかったというか“はね返り”と感じた場合とそうでない場合の違いはすごく大きい。“はね返り”と感じているときの方が楽しい。
今回、一番思ったことは、やった分しか出てこない。だから逆にやった分が出てくるということ。課題曲、自由曲をそれぞれ多く歌えばいいというものではないと思うが、多くやらないと見えてこないものがあると思う。このステージ実習はこれまでより1曲に対しての時間を作った。トレーニングの内容は決してベストなものであるとはいえない。しかし、誰でも初めからベストなものを出せるはずがないと思うので、目一杯やっていく中で、どれが違うのかということを見極められる感覚をしっかりと養っていければいい。何とか場を動かし、空気を変えたかったがそこまではいけなかった。
今回はしっかりと客席に視線を向けていった。そのなかで一番感じたのは下を向かせてはいけないということ。自分の方に視線を好き嫌いを超えたレベルで向きたくなるようなステージをしないといけない。自己陶酔やがんばっていますというような内容になっている部分があると、人は聞き続けるということが辛くなってきて早く終わらないかなという気持ちになる。人にその人の歌をステージを聞きたい、見たいと思わせるのには何が必要であるかということ。それは声よりも、リズムよりも、音程の正確さよりも、もっと先になければいけない大切なものがある。それが結局は一流の表現者のなかにその場に全て存在しているのだと思う。それをしっかりとくみとれれば、何か越えたものが出せ、本当の意味でステージが成り立つのではないかと思う。
声→音楽性/感情移入→歌を歌うということ。まず声が出ていて(=息が吐けていて)それに音楽性(リズムや音階)そして表情などを含む感情移入、全てが加わりになる。最初は声を出すことから始めること。そこに感情を入れることは、体ができるにつれできてくる。私は、まだ「あなたはいつでもえがおでこたえる」がいえない。一言一言で息を吐こうと意識すると、「アー」(あなたは)「イー」(いつでも)「エー」(えがおで)「オー」(こたえる)になる。これは体ができるまで待つものなのか。今度(今日)から、もっと言葉を息と共に出すフレーズを練習する必要がある。
ポンと課題(ことば、フレーズ)を与えられたとき、すぐに頭のなかでイメージし、反復する。そこでしっかり描けていないとただ音をことばをいっただけにすぎない。息を吐き切ることと一緒で、一つのことばがあるということはそこにいくつもの課題が生まれる。それを決してやり残すのではなくやりきる。やりきった上でしか力を抜くことも、凝縮することはできない。最近になって、やっとあたりまえのことが息一ことば一フレーズ一歌という形の意味に気付き始めている。息でできないことはことばでは無理。それらがないところにフレーズ、歌は難しい。しかし、これらがあってもテンション、表現したい思いがないのはもっと難しい、というか歌は伝わらない。練習量、そして質。
「あなたはいつでも/えがおでこたえる」のリズムがまだ体に入ってこない。本当は、「あなたはいつでもえがおで、ごたえる」といつでものに1拍あるのに多くの人は「あなたは/いつでも/えがおでこたえる」と1拍ずつとってしまっている。私もそうなっていないか厳しくチェックしなければ。今回聞いた歌の一つひとつ、どれも「音程をとっている」という感覚を受けない。一つのフレーズに対し、深く入るか前のフレーズより少し浅めに入るか、といった「入り方のコントロール」によって言葉が流れ、それが歌になっているように思った。それは歌う、というよりも語りかけるに近い印象だった。
<r>の発音をやったとき意識したこと。rの前には何もつけないこと。下先を口蓋からはなして発音するのでしっかり息を出さないと音にならない。このとき完全にのどをひらいて発する心地よさを感じた。自分の体からシンプルな音が出て空間に浮かんでいた。たった一音のことだけど今までに感じたことのなかったこと。これは今私が出したい1音につながるものだと思う。
TVでサッカー、トルシエ監督についてのコメントでこんなこといっている人がいた。「すぐれた監督とは同じことを顔色変えず1000回もいえる人だ」と。自分に対しての信念も同じこと1000回繰り返せるぐらいのパワーがないと一流にはなれないと思った。
マイクを立てる位置も、ヴォーカリストによって違うそうで、たとえば、鼻に響かせて通す人は鼻のあたりにセッティングするとかあるそうです。私は、声をとにかくスコーンと出したかったので、姿勢が悪くならないように、上方に少しセッティングしました。(頭が少々上に向く程度)とにかく、2年前に比べれば、声はよく出るようになっているので、1テイク目は、その勢いで歌ってしまいました。レコーディングには慣れていないので、何通りか試してみようという考えもあったのですが、それを聞いてみると、声は出ているけれど、まったくつまらない歌でした。それというのも、コンプレッサーというものをかけていたというのもあります。このコンプレッサーというのは、聞こえないことばなどをなくすため、すべての音を前に出すという働きをするようで、そして、ツブを揃えるというもの。プロの方はかける人、かけない人さまざまで、少しかける程度だそうです。
じゃあ、2テイク目は、コンプレッサーをかけず、歌も張りっぱなしで歌うのではなく、ライブで歌う感覚で、抑揚もつけて歌ってみるということをしました。すると、弱くしたところは言葉が聞こえずデコボコの歌になってしまった。そうなった原因としてまず、歌(声を出す)の始めに息を出してから声を当てるという変なクセがついているとして気を受けた。ボワッと音に入るというもの。これでは芯がないのでマイクは拾わない。高性能のマイクといっても、やはり、芯のない声は拾わない。ソフトに出そうと思ってついてしまった変なクセを自分で見落としていた。
解説すると、たとえば12345(これが1音)だとすると、私は1からバシッと入らないで、カッコつけて、ホワ~と(5)のあたりから入る。これがこの1音のなかで行われている小さいが大きな違い。プロは1音が長いという話も教えていただきました。そういえば11/20のライブ実習で、福島先生がいわれたことは、今の自分の課題に当てはまる。(キメ、型にパッと入れるようにする。一つを選んで、そのなかで変化させる。キメの部分を失って、雑になっている。もっとシンプルになる。ストレートに。それを変化させていく。)3テイク目の前に、そんなことをいろいろと話してみて、とにかく、1音目からバシッと歌うこと。あとは、何も考えず、ストレートに歌うこと。これだけを考え、コンプレッサーを少々かけてもらいました。そして、このテイクでOK。自分でもかなり集中したし、歌い終えたあと、“今の自分はこれで一杯だ”とハッキリ思えたテイク。ヴォイストレーニングの必要性は、こうやって、状況によって自分の歌う加減を柔軟に持てるというところにある。反応ができるようになる。何より一番感じたのは、ピッチの問題がほとんどなかったこと。コーラス部分をあとから重ねたときに、一回やり残した程度。音感はそんなに悪くはないので、自分の感じたピッチに、体が素早く反応するようになってきている。まず、これからまたトレーニングすることは、この、シンプルな声が動くようにしていくこと。ある程度はまた時間はかかる。けれど、最終的にこれが正解だと思った。
レコーディングでは、何かしようと考えたとき、その企みの部分まで高性能マイクは反応している。「動かしたい」というのがバレ自然にバレでその部分が失敗になる。「動いている」というところまでいかなくてはよいものにならない。よく考えれば単純な仕組みなのだなと思う。レコーディングしたものを聞いてみると、スタジオには響きわたる声だったのに、線がやや動きそうでそんなに動いていないというものでした。まだまだ声が細い。そういうことに気づいて、ライブの歌を聞いたことがあるプロの歌手のCDを聞いてみると、やはり、ライブより細く聞こえる。そういう声質のあるものなのかなと思ったが、CDですごいと思う歌を歌う人は相当すごいのだと思った。フレーズは「動かす」のではなく「動く」生ものなのだなーと今回の体験で一番感じたこと。そして、一番勉強したいところになった。
まずは原点にさかのぼって、戦後くらいのものなどを聞く。その頃と今とではヴォーカリストのレベルが違い、勉強になる。自分の感覚でイメージやメッセージをつくり、声で伝える、自分のなかに感覚、呼吸、体がなければならないし、首から上で歌ったり、感情表現するのではなくて、徹底的に体でコントロールすること。「よごとふたりは」のフレーズにおいて、きっちり練り込んでいくこと。感情より自分の体の原理を優先すること。歌うときとトレーニングを一緒にしないこと。全身で捉える。自分のなかで何が正しいのかを知る。一流のものをよく聞き、体と息を鍛え、最後に歌の形をとる。
昭和30~40年くらいのものを聞いて、今の日本のミュージックシーンで人気があるものと比べて愕然とした。日本人の音楽レベル、少なくともヴォーカリストのレベルはこんなにも落ちたのかと思った。まず声の厚みがまるで違うと思ったし、響きなどもそうだが、最も違いを感じたのは声の説得力だ。同じ歌を唄っても声があるのとないのとでは心に訴えるものが違うし人の体に残るものが違うと思う。徹底的に声を育てていこうと思う。
今までの私はドレミという音があったとしたらただ単にド→レ→ミとつながっていくとしかみることができなかった。今日のレッスンのなかで感じたことはドレミが体のなかに入っていてそれをどう出すかということが見えたように思えた。1オクターブが体に入っている人が歌えば桁違いだというのがわかる。まわりをみれば自分の体や声が変わったのはわかる。2年ぐらいたつとまとめることも考えなければと多くの人はうまく歌っていくが、プ口のパワー、鋭さ、テンションはそんなものじゃない。結局一人ひとりがどこまで求めるかだと思う。私はこんなものじゃどうしようもないといつも思う。もっと大きなイメージのなかで歌っていきたい。
最初の1音をきちんと出すということを今までやってきたが最近はイメージしたものを取り出すことを考えるようになった。プロはいろいろな置き方、出し方ができるのだろうが今私がやることはイメージしたことを確実に出せるようにするということ。イメージして集中し瞬間的に取り出す。その繰り返しだ。1音のイメージとともにフレーズ全体のイメージもすること。<それでもたまに><さみしくなったら>という線をかきつないでいくかを考える。どうやっているかが丸見えで必要だと思う。何が人を引きつけるか、も今はそれをハッキリだしていくことがいろいろあると思うが最近気になっていることはほんの少し粘るということ。このくらいと思ったところからあと少し気持ちと体、息を入れること。ギリギリの選択を積み重ねることで自分のフレーズができてくると思う。今の私の出しているものは、それぞれの音の間が詰まっていない。
<それでもたまに>をつなげないのなら<それでも>だけでもどうつげるか試みてだしていくこと。瞬時に踏み込める体が必要。中途半端に踏み込むと立体感のないフレーズになってしまう。かといって踏み込んで離せないと重たく粘っこいものになってしまう。強調したいところだけをとり、あとは捨てる感覚(外国語と同じ)を鋭くしていくこと。<それでも>を強調したらくたまに>はおくだけでいいと思う。変に強くいったり、たまにーと伸ばしてはゆるんでしまう。<それでもたまに><さみしくなったら>の2つが同じような置き方になってしまった。この2つのフレーズだけを考えるのではなく、その前後のことも考えること。全てつながっていてそれぞれの置き方に意図があるはず。語尾の大切さくさみしくなったら>をぶつぎれにしない。そのあとの2人でお酒を飲みましょうねにつなげることをイメージしておく。ただおくだけでなく、最後まで気持ちを離さないこと。
Non ho le ta non ho le ta<あなたに愛され>歌う前にイメージのなかで一つに捉え体に入れておくこと。そうでないとNon-ho-le-taとつないでいるだけになってしまい、一つに聞こえない。言葉が止まるということがよくわからない。私は語尾に締まりがなくどうしても流れてしまうが、プロの歌はきちんと完結している。そして切れているようには感じない。私のフレーズはその先はないように切れてしまうか、だらしなく流れてしまうかのどちらかだ。プロは吐ききっているのだろうか。私が吐ききるとまったく余裕がなくなり、次へつながらない。声を出しているだけで息が混じっていないからきちんと止まらないのか呼吸が小さいのか、自分のフレーズではないからか。この語尾のことにこだわってみていこうと思う、疑問多し。今までは聞いたものを一つに捉えるということがかなり大変で、背伸びしても届かない、はみ出してしまうということが多かったのだが、2~3度の音程差ならば少しずつイメージのなかに入れるようになってきた。まだ余裕がないように思うが音のつながりをこの体に入れ込んで自分の表現として出すことをみていきたいと思う。
流れてしまうのは語尾だけではない。最初の1音も流れている。きちんとおかないと次へただなんとなくつなげているようになってしまう。1音を取り出すこと、次の音へつなげていくこと、言葉としてしっかりいえたものを音にのせていくこと、全て集中力がいる。どこも気を抜けないのだが、集中したがために体が固まってしまうのはよくない。単特ということで入1クラスの人がほとんどだったように思う。23のクラスに比べ皆わからないけれど何か掴もうとする気みたいなものが感じられる。学ぶということは常に今よりも少しでもよくなりたい、そういう思いに支えられているものだと思う。情報は膨大にあるけれど、自分で発見したことじゃなきゃおもしろくない。全て出会いの連続だと思う。そしてその出会いは何かしら意味がある気がする。マイルス・デイビスが映画のなかでいった「全てにおいて偶然はない、決して」と。
どのレッスンでもそうだが、一つのフレーズを何人もの人が歌うのを聞く機会というのは恐らくここでしかできない体験だろう。無理に響かせようとする人、棒読みのように歌う人、変なくせをつけて歌う人、感情を込めても上辺だけの人、力尽くで歌う人、とにかく人数分のフレーズが聞けるので自分がどういう声を出しているのか参考にできる。フレーズを歌うときにすぐそのイメージをつかめないまま歌っている。反応が鈍いということなのだろう。全身で声を捉えるというのがわかりにくい。特に歌になると、歌詞とメロディにとらわれてしまうためか、余計わかりにくい。だったら無理して歌わずに、息を吐きながら言葉にするだけの方が練習になると思った。
戦後間もない日本人歌手の方々は、実力者が多かったということ。今は(トレーニング時)は感情より原理に戻ること。声と体を一致させることを念頭におくのこと。外国の方の声がかすれて聞こえるのは、子音できるので練り込まれているから作品で問う前に自分の体と息を結びつけることを重点におくこと。外国人の声を聞く方がくせがないのでいい。とにかくいいものを聞こう。今はとにかく体と息の一致芯をとらえることに心をおいているのに、つい胸の方で歌ってしまう。(でも、呼吸にばかり気をとられていると歌にならないし)トレーニングでは深い声に心がけねば。サッチモ、サラ等、体が楽器に近い方々のJAZZもいつか取り上げて頂ければ幸いです。
「痛感したのは、五体満足とか知能が優れているとかそんなことは人間にとってとるに足らないということです。人間の心に燃える情熱は、どんな状況にあっても消えることはない、ということも学びました。精神の炎と音楽とは直接結びあえるのです。音楽を通じて、お互いの体の中で何か化学反応が起きているのを実感しました。」その美しい声を保つ秘訣とは。
「“真実を語る”ことそれだけです。ノドは正直です。嘘を言うときもたらします。“スーザン、真実を語りなさい”といつも自分に言い聞かせることで私はいつも元気に健康でいられるのです。これは一生涯、実践していくつもりです。」(スーザン・オズボーン インタビューより『嘘つきにはなりたくないな。
今思いきりやらなければ5年後も変わらない。自分を崩すのを恐れるな。→5年後に変わっている練習を。ステージと同じ土俵で違いをつかめ。レッスンでいわれたことをただやってもよくない。“こんなものかな”程度でやらないこと。
言葉と音が奏でる歌の美しさ。この美しさを味わい尽くしたわけではないが、いくつかの発見があった。音の流れが美しいと感じると共に、音と音のあいだの間さえも美しいと思った。歌詞とメロディが一体となり、生き物になっている。その一体感が私に感情を呼び起こさせる。歌詞とメロディが切り離されてしまう歌も、たくさんなる中で、今回挙げてもらった歌は、まるで言葉が生んだメロディかのようで(訳詞にも関わらず)自分の感情が動きやすいことに驚きを感じ、素晴らしく思った。歌そのもののあるべき姿だと思った。
私は、今まで、深い息を体からの声を出すことをずっとやってきたつもりだったけど、それだけしか頭のなかになかった気がする。最近になって、やっと、表現とはどういうことなのかが考えられるようになった。本当なら、息を出し、声を出していくのと同じに、平行して考えていかなければならなかったのだと、最近気づいた。自分の納得する声(というよりも、体の使い方)がある程度わかってきたら、何かが見えてくるかもしれない、と思ってやっていたら、もっともっと多くの課題があったのだということが見えてきた。という感じ。
レッスンは、声も歌もまだまだ奥が深く、自分で決めつけている世界は話にならないということを教えてくれる。とことんヘタなことを教えてくれる。早く、思いこみやうぬぼれはやめて、素直に伸びていきたい。いつまでもこんな調子かもしれない。本当に、10年後、何も変わっていないということがごく普通にあり得る。
先生の声を聞いてはたまた“ショック”でした。一喜一憂を心底体験中です。
ロビーにある4ライブ実習相互評価を読んだ。他の人に対する評価の厳しさはその人の自分に対する厳しさのように思えた。音楽を歌を自分を真剣に見つめ考えている人たちがいる。私も負けずに益々自分を磨いていこうと思わされた。それとともに、人を魅きつけつづけるものとは何か考えてみた。魅きつけるのではなくつづけるということが大事なのだと思う。誰だって1、2度はインパクトを与えられるだろう、でもまた次もみたい、何か期待するものがあると思わせるには何が必要か。それはやはり一貫したものだと思う。それも普通の人が普通にやっているのではなく、たえまないエネルギーを放出しつづけるパワーみたいなものが必要に思う。それはここにいつもきているとか、アテンダンスをたくさん書いているとかそういうことではなく(そういうこともあるかもしれないが)自分の立つ場で全力を出し切っているかどうかということのように思う。本当にきりのない世界だけど、きりのないことに喜びを感じられる人だけが残ってゆくのだと思う。全てをまっすぐみていけばいいような気がする。小細工せずまっすぐ進むだけ。まっすぐ見つめ、まっすぐ腹から声を出し、まっすぐ心を伝える、それだけのこと。
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ライブ実習【プレBV座ライブ】
全体について
出演順、曲構成がすごく計算されていてよかったと思います。
場の演出、ろうそくを使った空気の変え方は特におもしろいと思いました。(エプロンもなるほどと思いました。)
観客とのコミュニケーション:それぞれのテンボや好みがあると思うけれど、ちょっと強引だと感じます。もっとにぎやかにしなきゃいけないような、強要されている気がしました。(たしかに場が盛り上がらないとやりにくい曲もあると思います。)個人的にはTTIさんのスタンス、観客との距離感が好きです。
ピアノ伴奏について:「傘がない」のアレンジは歌いにくいのではと感じました。
中低音部をじっくりと聞かせる気力。サビで大声はるより数倍の集中力を必要とする、ここで勝負しているのだと思った。すごく久しぶりに聞くのに、(あ、これだな)と感じとれる彼女の呼吸。ゆったりと心地よく流れるものがある。ラストの歌はMCも含めてすごく心に拡がるものでした。じーんとしました。
昨年11月公開ライブ実習でのパワーを今回は感じられなかった。何だかつま先立ちで歌っているような、腑に落ちない印象。“ブラボー”とさけぶ歌はビジュアルも含めてよかった。この曲だけ何かフェンスを乗り越えて飛んでくるものがあった。
はじめのうちはエッジの効かないスキーのようにズルッズルニッと流れて(それて)しまうような印象を受けた。2曲目、フレーズの終わりぎわを放り投げるような感じにしていて、すごくなつかしく思った。昔だれかもそんな風にしていたと思う。2部のはじめの歌だったろうか、ひとつのかたまりになってガンと訴えかけてくる数は彼の真骨頂をみた気がした。メロディから言葉へ、イメージから現実へぐいっと引きずり降ろすようなフレーズは胸に残った。とてもよかった。
すごいのは違和感をまったく感じさせないこと。強いゴムのような弾力。遅く入ってもブンと追い抜くフレーズ、底の方からグオオオォと持ち上げるパワー。デクレシェンドしながらビブラートをかける繊細なテクニックも感じとれた。私など真っ直ぐに歌い流すしかないような、割と目立たないメロディが何倍も面白いフレーズになって楽しませてくれる。こういうことが「絞り込む」ということだったのだ。子音のするどさ、母音の深さ。低音だなとか高音だなと感じさせない自由さ。歌って「おなかが痛い」といっていたのが気になった。
今日ふと感じたこと・パンチの後(瞬間)にあがる汗しぶきの余韻・濡れた大袋を引きずった後の余韻、その差・その違いを考えよう。
フレーズが棒読み。どの歌も皆同じ。言葉を音符に乗せて、とうとうと流してしまう。あまり良いことではないと思う。歌詞もフレーズも、下手をするとメロディも印象に残らない危険性あり。そういう歌い方を個性としているのか知らないが、素人なら誰でもできてしまうことだからやめた方がいい。緊張感が少しかけていた。
前回の3人ライブのときの方が、もっとはりつめたものがあったように記憶している。人を驚かせるようなことは得意なのだと思う。発狂した道化師の目付きはとても印象的だった。舞台の上で、自分を演出するのはうまい。動作をよく考えている。だから、もう少し歌を何とかすること。今の自分の精一杯の歌というよりは、随分手を抜いているように聞こえた。フレーズをつめること。普段のレッスンのときもそうだが、フレーズにおいて自分を甘やかしていないか。歌に詰め込んできたものが感じられない。ピアフの、人に新鮮な感動を与えるところに憧れているのは私もとてもわかるが、彼女は音声で表現していて、その真実さが新鮮な感動を呼ぶのだ。実力をつける努力なくしては、全てはったりとなる。その上で何かをやるべきだ。今は若いからスタイルに見えたりもするが、いい歳をして体当たりもできなくなっていくだろう。安易に生命感を出そうとしない方がいい。心のなかの真実を表現したい気持ちは伝わってくる。感情を表現に昇華するのは上手いタイプの人だと思うので、もっと大人の表現方法をしてゆくべき。
「卒業写真」を自分なりに歌うのはいいが、聞いていて感動からはほど遠いと思った。クールに歌うとか、ジャズ風でも、ゴスペル風にでも、その人の自由だとは思うが、その歌に対する思いや、何をいいたいのかが分からない。情感ではなく、私ってすごいでしょ、カッコいいでしょ、といっているように聞こえる(全ての歌)。
たとえば、ゴスペルを歌うのなら、神様に対する敬虔な心がなければ、本当はおかしいはず。本場のゴスペル歌手は、クリスチャンでない人がいるのか知らないが、神様に対する強い思いがあるから、歌っていてもすごく聞こえるのであって、カッコ良かったりもする。その思いに共感する人達が集まって、大いに盛り上がっているのだと思う。神性のないところに、本物の歌はないのではないか。
クリスチャンか実際は知らないが、聞いていてそうではないような気がした。憧れで自分のものではないものの上にのって歌うことは、日本では通用しても、世界では恥ずかしいことではないか。そういう歌は、いつまでたっても自分の世界とはなり得ないと思う。また、人をのせる、ノリという言葉があるが、ノリが悪い、とお客のせいにするよりもまずのせることだ。本当に感動すれば、皆心から拍手する。うまいと思っても、感動しなければ(心に響くものがなければ、)それなりの反応になる。それなのに歌う前に、お客さんが歌い手に対するサービス精神を全面に出して、盛り上がっていなければならないという感覚が、私にはよく分からない。手拍子がないと気持ちよく歌えない、というのは、スター気分になっているのではないか。盛り上がりも何にもない、シンとしたところからお客さんの拍手を引き出せるのが本当の力だ。
話があまり面白くない。一言ですむことを間延びさせている。歌でもトークでも、いいたいことを限られたときで、どう効率よく伝えられるかが勝負であると思う。あまり話したいこと、伝えたいことがないのだろうかと思ってしまう。歌にも、話にも、どこか生き生きした感じがない。それなりにまとまっている、という印象。マイクのボリュームが低かったと思う。ピアノばかり目立ってしまっていた。弾き語りのときはそうでもなかったから、マイクの持ち方も関係あるかもしれない。でも、あまり声量ある方ではないようなので、マイク音量は少し大きめにした方が伝わると思う。リハのとき誰かに聞いてもらって調節するといいと思う。1曲目の盛り上がり不足は、音量のせいも大分あった。
優しく歌いたい、という方向性は感じるが、心に飛び込んでくるものがない。言葉、フレーズにどこか真実性、生命力がないと、ただ少し上手い歌というだけで終わってしまう。上手い人でも、下手な人でも、すごいなとか、この人はこれでいいのだとか、このままでは負けてしまうなど、人に思わせる要素とは、その人の情熱が表現されている場合。情熱が勝っている人には、今は問題外でもそのうち追い越される危機感を大抵感じるものだと思う。静かな歌でも、優しい歌でも、情熱が見えるとファンがついてくるのだと思う。次回は情熱を聞かせて欲しい。
言葉に力があり、説得力がある。音楽にはまだなり得ていないかもしれないが、心に残る。心が聞こえてくるのだ。選曲、どれも自分に合うもの、自分を表現できるものを選んでいる。ただ音楽にのって、それなりにしか聞かせられない人よりも、私は彼のような人を買う。でも、やはり音声音楽で表現しなければならない。耳の肥えた人にも聞かせられるようにならなければ。私も同じ課題を抱えているのでどうしたらいいのか詳しく解明できないが、聞いていて思ったのは、フレーズをつくる際、音階、音程を適当にとらえているのではないかということはずれている、ということではないのだが、音のフレーズで、この感じがいい、と聞き手に思わせるのよりも、言葉の感情の練り込みで今よかったと思わせている、この違い。言葉に傾き、音声の練り込みが足りない、ということ。言葉の延長上、感情を音色で現すことは、できている箇所もある。だからフレーズをつくる際、音声でどう練り込むと新鮮ですごくなるのか、考えるようにするとどうだろう。ステージング、言葉少なかったが、人柄が出ていて自然だった。そのまま通すのもいいかもしれないが、次回はどう変化してゆくのか、期待している。
4人ライブはお祭り気分で楽しまなければならないものなのだろうか。人それぞれ聞き方があっていいのではないか。自分がやりやすい方向にもってゆきたいのはわかるが、私はアメリカ人にも黒人十年にもなるつもりはない。自分らしくないらしいものは別)奇声も発する気もない。あまりよくないと思えば普通のお客としてならあまり拍手しない。ただ一緒にがんばっている仲間だから、それなりに協力しないと悪いかもしれないとは思った。お客の元気がないと、先生まであれこれいっていたが、本当に感動するもの、よいものに出会えば人は元気が出てくるし、声も出したくなってくるものだと思う。私は自分の心に反した反応は、演技をしろといわれれば別だができない。ただ単に楽しく過ごそうと思えば、ハイテンションで準備して待っている。職場の打ち上げみたいに、ちょっとしたことでも皆で大騒ぎしてしまえば、感覚もマヒしてしまうし、本当に楽しく過ごせる。人の話も(歌も)よく聞いていない状態となるが。そういうときは、普通にしていると面白くないとき、場所であるから退屈まぎらしに騒ぐのである。そういう聞き方でいいのか。それとも本当に心から出た歓声なり、拍手なりを求めるのなら、歌がダメでも何かしら観客の心をつかむものを表現するべきだと思う。面白いことも(興いことも)何一ついわないで、笑思ってくれ、楽しんでくれといわれても困ってしまう。
プレBV座はオープンではないし、出演者も試行錯誤しているから、気持ちを高めてあげるためにも、サクラというか、おはやしみたいのを潜ませてあげてもいいと思う。本人が希望するなら。そういう人が1人でもいれば、本当の反応を出しかねているお客がもしいるなら、拍手や歓声も増えることだろう。盛り上がっているようなフリを求める出演者が、ベテランの人に多いと思う。お客も自分が参加でできることが多い方が発散できるし、場の雰囲気も良いかもしれないが、それは良いものを表現したためではなく、ただステージ馴れをしているから、意志のないお客を操るのが巧いだけだ。何となくその場のノリとかいうのにのって、それなりに分かったような声を上げていれば、音楽を理解し、自分があることになるだろうか。私も自分の心にもっと正直になれば、歌い手が一番いい気持ちで歌っているところで、ブーイングしてやっても「良かったかもしれない。ブーイングなんてしたことないけど。
日本人の私は帰るという行動をとる。でも大抵は嫌いなもダメなものからも得るものがあるだろうと、頭のなかだけでごちゃごちゃ考えながら最後まで聞く。そしてこの人もいろいろがんばっているのだろうと拍手はする。別に哀しいことがあったわけではない。眠たくなっておとなしいということはあるかもしれない。
自分のものを追求するのは難しい。歌はさかのぼれば、必ずどこからか影響を受けている。自分がいいなあ、と思ったものがどこかの国のジャンルに分類されていたりすると、そこにのっかってやってゆきたい気持ちは分からなくもない。表面上はオリジナルのように聞こえても、誰でもどこかの国の誰かの影響を受けている。たとえば、私は日本人の自分にこだわっているが、日本人の歌う日本の歌を選んでも、その曲を作った人が日本のものに影響やインスピレーションを受けているとは限らない。最近の歌は、いろいろな国のジャンルのメロディラインを取り入れているものも多く、自分の感性に合わないものもやはり多い。そうかといって演歌は嫌い。男の人を立てて、黙ってついていく女の人の歌とか、水商売の女の人の何度も同じことを繰り返して反省していない歌など歌いたくない。素敵だと思わない。
少ない選曲の幅から、自分を表現し得るものを探すのは、大変。けれど、他の国に根付いている曲を、その国の言葉のままで歌っても、決してオリジナル、私らしさの追求にはならないことは、はっきりわかる。以前、カンツォーネやシャンソンなど、研究所のレッスンでやるような曲を続けて歌っていたことがあるが、それは自分の好きな日本の歌を歌っていても、オリジナルに歌唱力があまりないので、勉強にならず、変な方向にいくのを恐れたため。声の力がつくまでは危険だと思ったから。そういう意味で選曲に外国語の歌が多い人はわかるのだが、自分のオリジナルが他の国のあるジャンルの歌、歌手にそのまま重なってしまう人は、一体自分のことをどうとらえているのか理解しがたい。そういったことで、世界で1人の自分の表現が成り立つかといえば、成り立たないと思う。
私は日本人の自分の心を表現し得るものを求めているが、昔の日本人と今の日本人の感性は違うと思う。他の国も多分同じ。けれどそういう中から、ある日ふとレゲエが生まれてみたり、タンゴが生まれてみたり、ジャズが生まれてみたりする。自分たちが生きているその生活のなかから、心の叫びとして生まれてくる。だから日本にも、新しいジャンルが生まれる可能性がある。それを歌わなければ、自分のなかから生まれるものを歌わなければ、ウソではないか。
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トレーナーライブ
一体、何なのだろう。この違いは声が違う、声量が違う、発声が違う、発音が違う、確かに全て違っている。しかしそんなものよりもヴォーカリストいや、人前で何かを表現する人にとって一番大切な“テンション”の違いを強く感じさせられた。どこかそれはわかった気になっていただけであって、これがまさしく好き嫌いを越えたレベルで人の心に飛び込んでくるというものだろう。一人の人が歌っているときは、その世界がよく次の人が出てくるとまたその世界に魅きつけられる。フルコーラスをきっちり練り上げ、もっと聞きたいと思わせるすごさ。懐の大きさをとても感じてしまった。
1時間ほどのステージではあったが、実際にはもっと短く感じたが内容はそれ以上のものだった。(この間、時間の経過など忘れてしまっている)自分のステージがものすごく嘘くさく、作っているものに思えてしまった。どれだけ覚悟を決めたかである。それは誰もができることではあるがほとんどの人ができずにそこそこでまとめ終わらせてしまう。しかし、やっていけばこのようなステージを自分自身が主役として与えることの可能性というものが生まれてくる。自分が本当にそうなりたいと心から思えてきて、それを実際に行動すれば、人に下を向かせないまだ歌うのかということを思わせないステージができる。
今回で強く思ったことは数というのは本当に素晴らしいということ。野球ならバットやボールがいる。ギター、ドラムなども楽器がいる。100mのスプリンターもグラウンドが必要。しかし、歌はどうだろう、何もいらない。場所もいらない。自分自身さえいれば、そこで作品が成り立つ。こんなものはなかなか他にはないと思う。誰にでも声が普通に出る人であれば全て歌えるという世界でもある。トレーニングがまったく表に出てこない。私はこれだけのことをやってきましたというようなものではなく、作品としてステージで観客と勝負している。あるときは包み込むように、あるときはかみついてくるかのような迫力を感じる。全てのことはすぐにどうこうできるものではなく、日頃からの意識の持ち方の違い、取り組み方の違いが差になって出てくる。自分は見せるということをどれだけ意識してやっているだろうか。どれだけ入りきれているだろうか。なぜ歌うのだろうか。ステージとは何なのだろうか。本当に今回は覚悟の違いを見せつけられた。
トレーナーそれぞれに個性があって自分なりの道で音楽になっていてすごいなと思いました。トレーナーの集中力はすごいと思いました。初めて言葉が飛び込んでくるというのを実感しました。すごくイメージを体で感じました。トレーナーの体を通して(何かがのりうつって)出ている感じがしました。トレーナーはさわやかで自然な気持ちよさを感じました。本当に熱さとシャウトに体が感じました。とにかくテンションがすごいと思いました。
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【福島英レクチャー】
声の芸術というか、“歌う”ということの意味が日本人の考え方で、身についていることをぶちこわしつつ、本当の意味で体で声を出し音に声をのせて表現できるように、島国日本の厚い壁を突破させようと、大きな気持ちで取り組んでいる熱意が伝わってきました。是非通って特訓を受けて上達していきたいです。やっぱり根本的に洋楽のアーティスト等は声自体が楽器なのだと今日のレクチャーであらためて思いました。