◯感性について
◯美学について
◯上達のために
初日の出の夢 from paris.
【X'masライブ評】
〇これからの研究所
〇サッカーボール一つ
〇学場として使い切るために
ーー
○感性について 921
すべては自分の責任とする―
頭で分析する人は、過去のどこがわるかったということで考え、
他人やものごとのせいにして、怒ったり悩んだりして苦 しむ。
ところが、感性は、すべて自分に起因することをわからせ自分の悪いことを認める。
だまされたら、だまされるところが自分にあったと、世の中や人のせいにしない。
寒いときは寒さに、暑いときは暑さにひたる。
やりたいことができなければ、もっとできないことにひたる。
できないから悩んでも、全てのものごとは、できたらよくて、できなければ悪いということではない。
どちらが正しいか間違いかなど、わからない。
だから、自分がどうありたいかが問われ、何ができるかが与えられるかにいきつく。
そして才能もまた何が正しいかということではない。
好き違いに至る。
絵の好きなミュージシャンは、絵も楽しみ、音楽を仕事とする。
素直であること―
素直なら、嫌いなことをやることができる。
めんどうで苦手なこと、自分のできないこと、足らないことを認めるのは、素直だからである。
その弱点があなたがうまくできない原因となっている。
まわりの人のことばを素直に聞く、いざとなれば、まわりも助けてくれる。
人間関係がうまくいかない、ものごとがうまくいかない人は、感性がまだ鈍いだけである。
やったあとに「もし」とか「でも」「あのときにこうだったら」という人は、
それがうまくいかなかったのでなく、下手だからそうなったのである。
そういっているうちは、素直でないから、学べないし、また失敗する。
未来を考えての苦しさでは、充実の素である。
過去に執着しないことである。
○美学について
自分の人生を問うこと―闘いと覚悟
多くの人の迷いとは、闘わなくてすますための言い訳、責任逃れである。
それを振り切るためにいろんな苦難も生じるのに、
そこからも逃げるために自分に嘘をつき、自分の人生を手放そうとする。
それでも、人生は自分で一人で生きていかなくてはいけない、
それがわかっていない。
何事も恐れず挑んで打ちのめされ涙しても、そこから立ち上がってつかめばよい。
死なねば立ちあがれるし、死んだら迷いも何もない。
打ちのめされることこそ、大きくなろうと挑んでいる証拠である。
それは、ある人々にとっては、安全に老いようとする人生よりも美しい。
涙の味のするパンをかじったものにしか、人生の味はわからないというではないか。
○上達のために
1.一流のものに学ぶ
2.伸びている人に学ぶ
3.異質の人、ものに学ぶ
何をもって一流とするか、だ。
ー
初日の出の夢 from paris.
人材はいないのではない。育てていないだけで、それには忍耐と時間がかかる。
それも待てないこの世の中。
私は多くのトップクラスといわれる人に会い、直接、話してきた。
その後、自分の世界を切り開いた人が成功していくプロセスも多く見て、
そういうなかで思いを遂げる方法も、人材もかなり見抜けるようになってきたつもりだが、
すぐれていることと世にでることは必ずしも同じではない。
しかし、要は何を目指すかだ。
才能があっても活かせないもの、活かさない人も多い。
すべて一つ、離れてみれば、ものすごくシンプルなことなのに、一番、大切なことを学べずにきた人に、今さらそれを伝えても、大変な気もする。
顔をみても、一言、二言話しても、それで大体のことがわかってしまう。
つまり、興ざめだ。
アーティストになるといっても、そんな奥ゆきのなさや深みのなさでは、もつわけがあるまい。
一時やれている人 もいるけど、やはりすぐ消えてしまう。
チャンスだらけの、人材もまったくいないような、それこそ、情けない国になりゆく人この日本で、
何もできないのは、やはり救われないと思う。
どうして、弱虫とこわがりと強がりとうぬぼればかりの若者の国になってしまったのだろう。
こうして富んだ国は滅びていくというのを、まざまざと現前でみるのは、嫌なものだ。
相談が、といわれても、だから何をどうするというのか、話せばよいのか、横にいればよいのか、寝りゃよいのか、夜明けでもながめればよいのかーといっちゃ、身もふたもないわな。
別に枯れてはいない。あなたが楽しければそれでよい。
といったら、楽しいのだろうか。
それでよければ、いつでもここにいる。しゃべっているし、笑ったり怒ったりしている。
そこから先を考えることだ。才能と美にしか惚れぬ冷酷さ、人間、善なるものは巻きものだ。
それが真になるには、ちと、まだかかる。
だから、若いのにベタベタしているのは、子供の特権だからうらやましくもあるけど、平和ボケした日本のように、生来の顔や声の幼稚性にひかれる子供の国では、薄っぺらさばかりが鼻につく。
ディズニーランドくずれみたいだけど、ディズニーは、本当に楽しいのか。
あなたの横にいる人は、本当にそうあるべきものなのか、
結局、そんな雰囲気のそんなニュアンスを、他の人に遅れをとらないように、右へならえしているだけではないか。
歌も音楽もそうではないかい。あなたにとってー。
でも、死ぬこと殺されることを心配せず、“のほほん”と、一生が一ロに飲めるのは悪いことではない。
大した喜びもないが、大した悲しみもない。
これを願っている人たちにとってー
ベタベタできるのは、死んでもかなえられなかった人たちにとって、ベタベタできるのは、とてもうらやましいことなのだから、もっともっと心から楽しんで幸せにベタベタすればよいのに、
安易にみつけ、結びついたようなものに、大した幸せなど味わえない。
ただ、離れる勇気がないだけじゃないかー。
自由を使い切れない人たちは、親が決めた運命の相手に、よさをみつける苦労をした方が、幸せになれる。
だから、もっと大きなものを手に入れられない。それは命をかけてまで守るものなのか―。
突き詰めることもなく売春婦のように、いやそれとてかつて彼女たちは、少なくともそれを愛だとか恋だとかとは、ごまかさなかった。本当に愛することを知っていたはずだ。
本当の男というのも知っていた。
同じバカならバカに受けるバカであるより、天才に受けるバカの方がよいというのは、ブスより美人にもてる方がよいというのと同じくらいのものだが、はて、天才とは、美人とは、何か。
去勢されてしまった羊たちの群れが、いつ暴走するかはわかっている。
ちょっとした飢えでパニくるだろう。こんなに豊かで不況と騒ぐ人々。
食糧供給システムが、強固になった分、環境ホルモンとやらが脳や体の方をおかしくし、地球を食べつくすまえにやられてしまうだろう。
自分がおもしろいね、世界にまったく興味がもてなくて、世界中を巡って自分みたいなバカがいっぱいいるのを知って、自分がちっぽけなちっぽけなものでしかないことが、とことんわかり、一枚の皮膚を脱いだら、いや7ミリの穴があったら、血の海でおわっちまう、こんな危なげな、
とるにたらない存在が、こうしてとめどもなく、いろんなものをまき散らして、それでよくこんなにまあ、いろんなものが入っているものが、つくられるものだが、誰のものだかわからないが、一晩でも二晩でも出てきて話しはじめたら、止まらなくて、やはり十時間でもニ十時間でも、あなたに話してしまう。
笑いころげて疲れて死なないうちに、眠りの友は、止めてくれる、そういう人にたまに会えるとほっとする。
なぜ、皆、死んでしまうのだろう。
あなたたちが日本でずっと認められなかったのが、この恥ずべき国の誇りで、認められていくことを疑わなくてはいけない、こんなバカなところで、私はこの国を離れるとほっとするから、この国にいる。子供の国で、何ができてもうれしくもないが、口だけ達者なのは、あなたたちに軽蔑されるだろうから、少しはわかりやすくなるように努力している。
方向違いはわかっているけど、コンクールや賞やセールス記録されないところではわからないものは存在しないという、頭でっかちな人たちばかりだからーああ、言い訳していらあー。
頭をこわせないどころか、壊しても論理も自分のことばも、よって思想も理想ももたぬ空っぽの頭。
脳のなかには宇宙が入っているのだから、それでいいのにね。
なぜ、人はそんなに何か手に入れようとしたがるのだろう。
必要なものは大体もっているのにね。
使えないのは、何をもっているのかわからないからなのと、使う必要がないからー
だから、使えるようにしていけばよいでしょう。
人間なのだから、死ぬまで生きられるし、限りなき完全に向って進めるのだよ。
ずっと死なず、すでに完全である神なんて、つまらんものだ。
だって、人間のあこがれるのは、神のような人間であり、そこまで同じ人間が努力して到達したことでの人間の誇りであって、人間のような程度の低いことしかできない神話の神々ではないのにね。
宗教家も、そういわれるために宗教しなきゃいけなくて、そのために退屈なことを、頭で考えるからおかしくなるのだろうな。
5.ということで、自分は自分で何とでもできるからおもしろいのに、そこに自分で手錠かけて、一畳くらいのなかで生きているのは、自分でもおもしろくないのに、おもしろくしようとしないからだろうな。
自分がおもしろくないやつが人をおもしろくしようとするのは、とてもおもしろくないわけで、だから難しい。
暗いやつが明るいことをするための暗さが明るさを際立たせるみたいなもので、日本では明るいのは、脳が足りんだけ、ノータリン。
本当、声も表情もすべて表っつらの薄いものでごまかされて、つまり危険がなくわかりやすく、安心できるのがよいのだからね。
座って半畳、寝て一畳の体が、文明の飛行機とやらでロンドンに飛び、ドーバーを地下からパリに入れる。
これで地球横断。
リスクがないから賞賛もない。翼よ、あれがパリの灯だ。
パリには、パリジェンヌがいる。
日本の芸のない芸者(芸ノー人というのを思い出した)よりましだ。
久しぶりにパリに落ち着く。高慢ちきなフランス人のプライドが、ここを世界のあこがれの地にした。
あれから時代遅れのシャンソンを200は覚えただろうか、今度は、少し話せるだろうー。
もしかして、きっと。
でもこれは、藤山一郎と淡谷のり子の歌を覚えて、日本にナンパにきた外タレオジさんか
「セーヌは流れる、足どり軽く、流れ流れて村から村へ」
アメリカ人も嫌いだが、フランス人も好きではない。
ドイツ人のセバスチャンは、いるだろうか。
そう、しばらくぶりに、98年は外国が長かったから、またファーストネームで呼び捨てぐせがついて、ひづるとか、ヨーコになってしまったな(サチコはサワコと勘違いして以来、いい出す勇気はない。なにがサチコだ、○○の歌じゃあるまいし、アー最近、この手のフリは通じない)そういえば、フェルナンデスってやつがいて、「えっフェルナン」「いや、フェルナンデス」「ああ、フェルさんなのですか」と漫才みたいなこと思い出した。なにいっているのだろ。
とにかく、20年前に戻ったようにボクは、天才少女に会いに行く。
当時の友人の紹介だ。仕事だっちゅーうの。
これで冷えたか、研究所も。いにしえの傷まで痛むか。
ボクも痛むぞ。“赤鼻”も冷えたぞ。
痛いときは「イタッ」「アイタッ」でなく「ウタッ」というのだぞ、ヴォーカルだろ。
パリはこのくらいサムイ。
君の熱で研究所を溶かしておいてくれ。
サヨナラ。
※注“赤鼻のトナカイ”12月23日のできごと
ー
【X'masライブ評】
まあ、こんなものだろって。
あたしもクマと出てしまった
から批評でなく、
感想になっちまう
やはり、自分の体温で生きるのだな。
それにしても
ベストが出せるということは難しいものだ。
ベストで生きる方が
簡単に思えるほどに―
ー
〇これからの研究所
なるべく私は顔を出さないで、何もいわないで、この場が成り立つようにと、昔から考えています。そのうち、東京から誰も来なくても、この場が成り立っていかなければ何の意味もありません。いろいろな先翠が、5年、10年かけてやったことを20年、30年かけてもやれない人ばかりの集まりだったら、受け継がれていくごとに、薄まって、誤解されていくわけです。10年かけて誰かがやったことは、本当に踏み込んでやったら、5年でできるはずでしょう。
結局、何が違うのかといったら、練習時間、情熱そして精神的な問題です。1日同じ24時間で、昔のようにCDも、音
楽の番組もなく、まして1枚のレコードを買うのも大変だというときでも、歌い手は、育っているのです。たくさんのものを開けば勉強できるわけでもありません。
カラオケボックスも普及し、どこでも歌えるのです。歌っていて怒られることもないでしょう。しかし、安易に手に入るように思うために逆に育たなくなっています。その人が、一人の人間の力として、どのくらい音楽や歌にかけていくかということが全てです。その結果としてそれを支えていくまわりの人がどのくらいいるかということになります。
だんだん、顔を出すことが少なくなっていって、私の名前も消えて、研究所の名前も消えて、それでいろいろな活動が残っていけば理想だと思っています。
アーティストやヴォーカルの世界というものは、個を確立して、自分で判断して自分を世に投げ出していかなければいけない世界です。
日本人には、ややもすると一番苦手な世界です。感じ方や見方、日本語の問題や、日本の風土の欠点がそういう中で明らかになってきました。研究所のなかでも同じように起こっています。もし、研究所のなかでそういうことが起きないのであれば、研究所のメンバーでもその人のレベル以上のアーティストの活動ができているわけです。
いろいろな舞台を見せても、伸びる人の感想は、伸びる要因を含んでいます。そのヒントを受け止めています。そうでない人 は、そうでない程度にしか受け止められていません。そういう勉強を最初にすることです。声のことや音楽のことからはいってもよいのですが、そういうことのわからないうちは、ホントの勉強になっていません。最初の2年間で声が出なくても、歌がうまくならなくてもよいから、後で声が出るように、あとで歌がうまくなるように、その器を大きくつくることです。体も感覚もその一つで、その前に必要なことがたくさんあると思います。人間の強い意志は全てを可能にするということです。その意志の獲得が問題の半分です。
時間と量のことは、随分といいましたが、後は、同じ量をやっていて、伸びる、伸びないということがあるのは、やはり、物事の受け止め方でしょう。しかし大半は、伸びた人の100分の1もやっていないのです。
たとえば、最近、スポーツの映像を見せています。スポーツの方が、わかりやすいからです。時間や空間をどう変えているのか、一つの基本をどう身につけ変えているのかなど、歌よりもよっぽどわかります。「大山倍達が生徒と一緒にやって、皆を励ましているのは非常によいことだ」とありました。彼は何も生徒のためにやっているわけではないのです。自分のためにやっているのです。
自分が初心に戻ってというよりも、いつも初心で生きていて、いつも初心でやっているというだけです。何も人様のために前に出てやっているわけではないと思います。それが結果として人のためになっている。そのことができなくなったときには、もう、生きがいなども感じないでしょう。
だから、自分のためにやる。自分が立てなくなったら、そこにいられないからです。スポーツというか、戦いの世界ですから、どんな天才の人でも、人間絶対に体力は落ちてきます。だから、誰よりも強い精神力で戦っているのです。若い人より何倍も大変なのです。
それをきちんと守ってやっているだけなのに、そう受け止めてしまうのは、研究所に来る人の弱いところだと思います。私もいろいろなところに行きましたが、教えてもらっているとか教えていると考えたことはありません。そこに自分がいるとしか考えませんでした。すぐれた人が目のまえにいてくれることに感謝していました。
日本人が区別したがる身内意識に頼らないことです。結局、外も内もない世界です。どこかにいるから、誰かに教えてもらい、おすみつきで、やっていくということではないのです。ドア一つくらいで左右されることではありません。要は、その精神の持ち方なのです。
〇サッカーボール一つ
昨日の夜、テレビを見ていて、セルジオ越谷さんがユーゴのほうを回っていました。私も内戦の前に回りましたので、内戦で、こんなにひどく壊されたのかと悲しく思いました。彼にしても何かをいうごとに、日本のサッカー界の人たちに、相当なバッシングを受けて、追放されるくらいの身になっていますが、でも、結局、本当にサッカーのことを思えば、「選手ががんばっているのだからそんな冷たいことをいうな」という考え方は間違いです。いわなければ、いわないで済むようなことを、わざわざいうということは、いかにそのことに対して、真剣に取り組んでいるかということなのです。
結局、日本という社会は、昔から批判や 客観的な評価が成り立たない社会です。ですから、いわれたほうも気分が悪く、「ありがとう」とはいえません。だから、皆、いわなくなるのです。
研究所のあるべきコミュニケーションも、最近は期待していません。
そこで将来や音楽のことが熱く語られているでしょうか。昔は、まだそういう人たちがいました。ここ2、3年ではそんな話を聞きません。
先生の機嫌がどうだの、もう辞めるかどうかだの、ここに何年いるだの、いじけた話でしょう。
上達しないというのは、歌や声以前に表現して生きていくということを選んでいない人、表現はしたいと思ってもそれを学ばない人だからです。表現するということは、大変なことです。そこのスタンスを正すことです。“今日、口から出たあなたのことばがあなたの将来を決める”のです。
昔、ワールドカップなどに出た選手が、内戦で子供たちが希望を失って、暗くなってはいけないということでサッカーを教え始めて、その輪が随分広がったそうです。自分の年棒も使って、教室などを展開している。その人はサッカーしかできない、でも、サッカーでそういうことができる。ものすごく、すばらしいことです。
もっとすばらしいのは、プロの選手生活以上に充実していると彼がいったことです。たぶん、選手の生活なんていうのは、10年くらいでしょう。でも、その後、人生は30年、50年と生きるのです。思い出で生きるのには人生は長すぎます。世間は、引退を終幕と捉えるのですが、サッカーボール一つを中心にして考えてみたら、そんな狭いものではありません。どちらが大きなスポーツをしているのか、どちらがすごいことができているのかといったら、桁はずれに、彼の今やっていることでしょう。彼は、内戦の最中に誰もできなかったことをサッカーボール一つでやっているのです。それに打ち込んでいたがために生かす道を見つけていったことのすばらしさでしょう。
もう1ヶ所セルジオさんが回っていたのが、難民キャンプです。ボール一つ、後は、棒を二つ立てたところで、サッカーをやります。そのなかで彼が一緒にプレーするところを見て「サッカーもうまくなるとよいものだな」とうらやましく思いました。「ボール一つで、どこでも溶け込め、すぐに友達になれて、心を共有できて、だから、すごい」というのです。サッカーは、ボール一つと、ゴールさえあれば、誰でもできるゲームです。
しかし、考えてみたら、歌は、ボール一つもいらないのです。それで人と人との心が触れ合える。そうでない歌というものの方が、私には理解できません。それなのにこの国では歌は、CDデビューとかライブとかに限定されているかのように皆が思っています。そのくせ一方で歌えば何でも歌という形で捉えられているみたいです。
〇学場として使い切るために
東京では、この場と同じようなシミュレーションで、ステージ実習、ライブ実習というものを月に5クラスやっています。一人が1曲歌って、毎月、200曲以上の歌を聞いています。
歌うということを声を出すなどということから考えてもしかたがないということです。伝えるということを考えなくてはいけません。たとえば、歌がへたでも、声が出なくても、もし、その人が歌って、聞いている人が元気になるのだったら、たとえ、1曲、2曲でも充分に与えたことになるでしょう。
それを90分のコンサートをやるのだったら、いける人が、歌い手になっていくと思います。もっと、歌も声も必要です。だから、考え、だからトレーニングするのです。
よく「あなた方の歌を聞いたら、弱った年寄りは皆死んでしまいますよ」といっています。何がやりたいのかということまで客が探さなくてはいけないなら、客にお金をあげなくてはいけません。あがるとか、歌がうまくできていない、覚えていないとかいう次元の問題ではないのです。その人が、歌や表現をどう捉えて、どういうふうにやっていきたいのかというようなものの上に出てくるものが大切です。うまく歌えることや正しく歌えるということなど、期待していません。
求めるものはその人の可能性です。今、どんなにへたでも、何年か経ったら変わる、もしかしたらすごくなるだろうと、それが見えたら、その歌は、成功したのも同然です。聞いていられるのです。それが見えないということは、いくら完璧にまとめあげても、それゆえ失敗であり絶望です。どんなにきれいに歌われていても、うまく歌われていても、この人は替うまかったのだろうと思われているのでは先はありません。
人間は先に生きていますから、今はとてもへた、今日はめちゃめちゃだとしても、よいのです。次につなげれば、勝負は勝ち、お預けでよいのです。
死にそうな人を生き返らせるには生命というか、息吹を吹き込んでいくようなものを入れていかなければいけないのです。歌に限らず、芸術は皆そうです。本物か、偽物かわからなくなったら、退屈なのか、よいのかどうかわからなかったら、そこに生命感があるのか、そういうものが勤めいているのか、平面的ではなく、立体的に見えてくるのか、可能性としてうごめいているようなものがあるのかを問うてください。
絵でもよいものには全部、生命感があふれています。平面に描かれているのに、立体的です。そこが、一流とうまい人との差のようなものです。
歌い手は、アーティストで芸術家です。その人間がここに出てやるのです。それが、そうでなく見えてしまう。きれいごとになってしまう。何も伝わらない。お客さんが努力して聞いている。そういう舞台は、舞台でありません。
こういう場というものは、長くいると、だんだんわかってくるのですが、憧れてだめになる人も少なくありません。誰か先生がいて、教わった結果を出す発表会ではありません。そこの場にどのくらいギブできたかということで決まっていくのです。
昨日でも、おとといでも私は歌わないことで徹底して、それを伝え実行しています。あなたたちには歌という武器を与えている飛車、角、金、銀抜きの私に勝てよと。
わからない人には、みえないものの大切さはまさにみえないようです。単純な話、このなかに歌える人がいてくれたら、他の人たちに対して、全てプラスに働くのです。それがなければしかたないのです。先生と生徒でやるのだったら、私も専門学校やその辺のプロダクションでやっている方が楽です。しかし楽ということがその生き方を拒む理由になります。
皆もお金を払って、時間をかけて来るわけですから、何かを取ろう、奪おうと思ってここを使い切って欲しいと思います。
ここには無限に得られるものがあると思います。それを自分を元手に、倍増させていける人が、歌い手になっていくと思います。
「ここは100しかないのだ。私はそれを1,000にしてやろう」といった人は歌えています。そういう人が来てくれているだけでも、助かっています。そういう人たちがいるからよいというのではなく、そういう人たちがいるのだったら、自分は、それ以上になれてあたりまえだくらいに思わないと何も始まりません。ところが多くの人は、10くらいあるから、1つか2つはとろうというくらいなのです。もったいないことです。
与えられることを待つというのは、日本人の特性ですが、人と平等に分け与えられることを権利として主張し、自分のものを人に与えると損というように育てたのは、戦後の教育の大罪です。あなたは与えに来なければだめです。与えることで、何かを感じること、それが喜びでしょう。歌がそうですから、歌い手である皆がここに来ることもそうであるはずです。そのことによって、私が元気を与えられる、今日来てよかった、京都に3日間来てよかったということがないと、成り立たなくなるのです。いつまで、逆をやらしてくれるのだということです。
自分が一番しっかりしていかなければいけないということは、 自分が一番そのことに時間を使わなければいけないことです。ただ、それが人前に出る時間だけではありません。そこで与えるためにそれ以外の時間がたくさん必要です。
誰もいなければ一人でいれば考えます。いなくて、成り立たないということは、成り立たない人が来て成り立たないようにしているからだめなのです。常に、どうしなければいけないのか、ということを考えるためにこういうところに来ているくらいに考えればよいのです。そして、自分の精神や体をめざめさせていきます。
私は研究所に誰よりと時間もお金を自分で出しています。先のサッカー選手みたいです。だから、誰よりも学ばせてもらっています。それは与えていながら、いや、与えようとしているから与えられているのです。そうでないと誰もいなくなります。
預かったお金で材料を買い、いろいろな人たちが聞いたり、見たりして、レッスンして舞台や会報ができていきます。そのことに全て費やされています。そして、自分の体を通って、アドバイザー、メンバー、ここに3年、5年もいてくれている人たちの声や歌として、このように皆に還元される。そんなことで、成り立っていくのが、場です。
一般の人には、わけがわからないかもしれませんが、カラオケのようなものではなく、自分の存在をきちんと叩きつけていくということを繰り返してください。それができなくなったときは、応援する側にまわるか、違う世界を覗いていくのなら、それもよいと思います。
歌は、引きずり込まれると、それだけしか見えなくなります。それも大切なことなのですが、それを自分で引き受けて、自分できちんと出すというところまで、結びつけておかないと、それだけで一生が終ってしまいます。自分のためにやるということを、もっと考えてよいと思います。
こういったライブをやる度に、自分がやっているなど私は思ったことはありません。それは自分が自分であるために、逃げられないからです。私はそのことを使命や義務 などという固いことばでなく、幸せだからと素直にいっておきます。
以前は、まだ辞められると思ったのですが、あまりに、いろいろな人たちを巻き込んで、いろいろな人たちの思いが込められで、亡霊のようにうごめいていて、私をつつくのです。
私は私一人で生きているのではなく、多くの人に生かされてきた。
私の力は及ばなくとも、私に力を与えてくれるものの力は絶対に私が削いではいけない。そう思うのです。
先ほど習ったような人たちも今は回りにいますが、やがて、いなくなっていくかもしれません。
いなくなったから、だめということではありません。そこにその間、刻み込んでいくのです。人の心にです。
刻み込んできたものを次にまた伝えていかなければいけません。動物でも、そうして生きています。
人間ですから。そこでほんの刹那の一生、ほんの少し自分の思いで自分の作品をつくるのです。
一人で生まれ、一人で死ぬ、
だからこそ、自分を生きなければいけないのです。
人に伝えながら。人に与えながら。この世に生を受けた自分の幸せのために。