一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 47492字 924

ステージ実習コメント 924

 

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新入ステージ

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京都集中講座

 

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【新入ステージ】 

 

もともと新入懇は新しく入った人のための懇談会でした。L懇も、ライブ懇談会で、ライブのあとに懇談ができればという形で始めました。V検というのは、ヴォイス検定の略で、声についていろいろチェックしていたのを説明してもわかりにくいので声の基準を一曲に応用して、みるようにしていたのが、今は歌で発表するようになったものです。ある時期、「ハイ」「ララ」だけなど、声だけでやっていたときもありました。 

今すぐにどうなるかというものではなく、長いスタンスで捉えて、皆さんのなかで、ステージが成り立っていく方向に合わせていると思っています。 

 

今回はよかったのか悪かったとかという基準は、長くやっているとわかってきます。

ここの基準もあれば、他の店やライブの基準もあるでしょう。日本の音楽界にも、それなりに基準があります。基準がわかることが仕事ができる条件です。 

 

プロなら、どんな歌い手も表向きは演奏者とピタッと合います。合わないような人と一緒に仕事はできません。音楽も人も、合う人とのなかでしかやらなくなっていくので誰とも合わない人というのは消えていきます。 

その世界が理解できないと、作品は成立しません。あるいはその世界が理解できても相手に対して働きかけができなければ、ただのお客さんになってしまうわけです。だから、そういうことを経て生き残ってきている人のをみて、その耳を磨けばわかってくるようになります。だから、ここの判断は私の基準でありながら、音がわかっている人ならまったく共通する基準のはずです。 

間違うのは、誰しも一人よがりな偏見に固まりがちだからです。音大の基準もありますが、表向きだけで適応させてもだめです。ここに4年くらいいると、いるだけではだめですが、100人のうちの10人は共通したものを持ってきます。 

 

 

最初の1、2年くらいは、上達する気になるのは、簡単なのですが、そのあとが厳しいのです。基準が固まってくると、今度はそれを守りたがり動かなくなってきます。ややもすると「こうでないといけない」と他を排除したくなります。守りたいときには、それを壊さなければいけないのです。こうあって欲しいからこうあってはいけないという世界です。だから、難しいのです。初心者のときの基準は、必要条件にすぎず、それがとれたからといって充分ではないのです。基準の型をやっても試合では通用しないのはあたりまえでしょう。 

 

自分が、それ以上のことをやっていなければ、あるいはその先をめざしてなければ、そこで止まってしまいます。止まると楽なのです。が、そこからはわかりやすい人しか受け入れられなくなります。するとそこに色がついて、その瞬間から表現力は崩壊していきます。しかし、世の多くの人は先に自分も音楽もみないで、形をみて、それをまねるだけ、くせでやろうとしています。だから、それを助長するような組織はつくってはいけないわけです。体は動けるときは働きますが、それを超えると判断が働かないはずです。行こうとか行くまいとかと迷えるときは場に出ることです。誰かが倒れると体制や管理が悪いと思うかもしれませんが、現場というのはそういうものです。壊れることを恐がっていたら、それ以上のことをやろうとしにきている人たちを引き受けられないのです。 

 

トレーナーというのは、サンドバックみたいなものです。声や音への鈍感な暴力にさらされます。 

しかし、そこにいるというのは理由があり、その理由さえあれば、人間は死にません。死ななければ何回、倒れてもよいのです。やれたということよりもやれているプロセス、日常こそが欠けがえのないものです。それで出るのが仕事です。健康にはきちんと留意しないとだめですが、中途半端な精神状態なら倒れないと先にも行けないのです。 

私はスパゲティ状態になって死にたいと思わないので、たぶん病院にも入らず、畳の上でも死ねないと思っています。最後まで働いてポックリいくのが一番、楽に死ねると思って、そこから生き方を決めています。 

 

 

人間、弱いものです。寝たきりでいてもつまらないし、そういうところにいかない方がよいと本能的に思っています。生涯現役でやっている人がいます。生涯現役というのは毎日同じ調子でやっているのではないのです。毎日、引退して次の朝に復帰してくるのです。それは大変なことだと、私も2日くらい倒れてみてわかったわけです。ああ、これで復帰だと。 

これを生涯現役の人というのは、あるレベル以上でやっています。現役でも何もなく、決め球をもっていないのにチームにまじっているのでは、そのレベルまでいってどう動くかということになると、わからないでしょう。ほとんどの人がそこで休止して抜いてしまうのです。よほどの必然性がある人以外は、です。 

 

舞台がないからといって舞台をやっていないわけではないのです。舞台やっていない以上に舞台が人生にはあるのです。生きる形が決まって、共演者もいるのです。命までとられるわけではない、守られている舞台なんて甘いものと思えるほど、現実の方が恐いのです。舞台ではお客さんが殴りかかってきても警備員が止めてくれる。 

日常の生活のなかで、役者は、役者の人生を、毎日、引退しては次の日に復帰して、それで生きていくということが大切です。 

たぶん生涯現役で生きている人というのは、そういうことができているのだと思います。 

 

芥川賞をとった辻仁成さんは、5年くらい前、武道館で解散コンサートをやって歌うことをやめてしまいました。ロックには意味ない、先のものがない、それで活字の小説に転向です。(注.その後、再開した) 

歌うということは、歌うこと自体を、疑った上でないと歌うことにも遊んでいられない。敬しかないと歌だけに凝るのと、歌以外の表現もすべてがあって、その過中で歌えることと、それから歌も過ぎていってからまた戻って歌になるのとまったく、違います。 

小説というのは芥川賞のような登竜門があって、文壇というのも一応あり、作家生活みたいなのもあり、基準というのは歌よりは確立されているのです。 

 

 

出ていけるやり方というのもあります。やっている人をみると共通しているのは危険な人物であっても、皆が思っている意味での一匹狼ではないのです。一匹狼は、やりたいことを優先しているため、そうみえるのです。 

20才くらいの頃は何にもやることがないから、やりたいことを優先するというのは簡単です。しかしそれを人生で通すというのは、難しいから、それをやれた人に価値があるのです。一つのことを選ぶということは、常に他のことを、切り捨てるということです。 

 

若くして群れないし群を頼まないということは大切です。若いときから群れてはだめです。バンドというのも群ですから考えようではよしあしです。力がないのがいくら寄っても何十年たっても、何もでてきません。一人ひとりが一人で真剣にやったら出せていくはずの力まで殺してしまいます。ここで個であれというのは、簡単そうにみえてとても難しいことです。つきあいをするなということではなく、中途半端につまらない日常でぐちゃぐちゃやっていることでの勘違いと錯覚でおわらないようにしろということです。そこに逃げこんで安心するなということです。そのことをおかしいと思わなければいけません。 

 

私だけが研究所のなかでおかしいと思っているようで、研究所のなかにいる人が感覚にマヒしていたら、これはもっとおかしなことです。主催者が、マヒしていても、そこに来ている人が何か少しおかしいのじゃないの、違うのではないかと考え、正さなければいけないのです。 

組織と考えるからおかしいわけで、全ては一人ひとりの人間のものごとの見方、切りとり方です。東京なり日本というところのどこかの縮図がここでそれがさらに、切りとられているのが、こういう新入想の舞台なのです。 

 

 

悪くはないというのは、肉声が聞こえたことで、それでよいのです。本当にそれ以上のことを、何も飾りたててやる必要はないのです。しかし、歌になるには、そこで、もっと深く何を得るかが大切なことです。それが足らない。この舞台は間に合ったということだと思います。一ヵ月、二ヶ月は目立ったら悪くはない、悪くないということは、悪くないだけの話であって、ここにいた人に耐えただけです。よいわけではない。つまりだめです。 

 

ことばを使う場合は、練り込まないとだめです。練り込んだ上で精錬させなければいけないのです。ないものをいきなり、「じゃあ明日までに練り込んで」とか「精錬したものにしろ」と、いっても無理です。この機会だからやろうというので考えてくるはあたりまえ、要は絶えずその作業をやっているかです。 

やるということは、たとえば今日の舞台の台本を1年365回、書き直す、あるいは365個つくるということです。私は今でもそれ以上、つくっています。物心ついた頃からやっています。作家でなくとも、作家でもあり、作家の才能くらいわかります。 

 

年代がたってくると、人間、自分が望んだ通りにあるのですから望みましょう。たとえば皆さんのお父さん方が50歳以上になってくると、地方へ帰ってもまわりの人たちが皆、じじいや、じじいの友だちになって、どこかの局長や部長をやって、えらくなっているから好き勝手やれるようになっているのです。 

これは、上の人間が死んでしまうからで、別に当人がすごいわけではないのです。私らもすごくなくとも、上の世代の人が去っていくと、自分の出番がまわってきます。差し当たって20代から30代のときにある程度やっていた人というのは自動的に注文が増えて急にランクアップするのです。 

 

 

だから、そんなことにのっかってうぬぼれていてもしかたがないのです。仕事が増えていくのはあたりまえのことで、本当にやりたいことの足が引っ張られるだけです。しっかりとした活動をやっていれば認められないのはおかしいのです。認められないとしたら、継続していないか、しっかりとやれていないかです。 

大切なことは、そのことがあたりまえにならなければ、表現活動というのは成り立たないということです。表現したいときだけ表現してみてもだめです。常日頃からの仕込みが必要です。研究所にいる間にできれば仕込みと、その仕込み方、無理なら学び方、学べなくてもいいから、学んでいる人は一体、何が入っていて、同じ瞬間、あるいは同じ一日というのはどういう意識で何をステップアップしているのかと、それを勉強してください。そのためにいろんな人にいてもらっているのです。 

 

時代によって、そのときそのときによって、場の役割は大きく違います。ここを業界から切り離し、独特のものをつくっていく実験場として必要としているのは、今の時代だからです。昔は、こういう実験場が、現実にもいろんなところにあって、転々とできました。今、私が大変なのは、歌とか音楽のすぐれた表現がわかる客をつくらなければいけないことです。落語でいうと、寄席にくるツウの客をつくらなければいけないのです。そこでライバルからつくろうとしています。 

 

さらにもう一つ、敵までもつくらなければいけません。敵がいなかったら自分のところは絶対よくならないのです。どこの世界でも一人勝ちでうぬぼれていくと、成長できなくなります。一人で全部の分野をもつのはできません。だから、そういうのも、つくっていきます。それからは内部は内部で与えていかなければいけません。 

いろんなうさんくさいことも含んで、いろんなものが出てくること、百家争鳴になってもしかたがないのですが、声という分野はもっと身近なものだし、いろいろと変わると思います。使える人がその使い方をきちんと知ってなければ、宝のもちぐされになってしまいます。そのへんが、皆にとって一番、肝心です。 

 

 

サラリーマンや学生の身分で歌うのもよいと思います。宮沢賢治が農民であり続けたように、今の社会の主流にいるのは会社にいる人たちです。音楽的な才能や演劇的な才能がある人も、ビジネスの世界にいます。その世界の方が才能がきちんと発揮できるからです。 

ただ、それが文学的な才能であったり、文芸的なものではなかったにしろ、生きていくということでメディアがありました。それを受け取るところがあり、それだけの報酬が入るという世界があったわけです。それが大きくは変わっていきます。変わる前に先に動けるのが結局わかっている人でしょう。 

 

だから、昔の人は伸びているし、それは、音楽をするということに対し、当時に動けた人が中心でした。動けるというのは、雄しいのです。今の時代でも助けます。ただ、経済とか政治に直接かかわるような働き方をするところまでいけるかというと、やはり岡市のように全部が焼け野原になって何もないところが早い。大人も戦争で死んでいないと、チャンスだらけです。 

すると何かつくりたい。物資を運んできたらすぐにお金が入る、人間の生活の欲望の部分から直接、創造意欲を共有できるというのは、とてもストレートです。 

 

食いぶちのためにやる芸人は強いです。ただ、そういう事態というのは昔だけではなく、神戸の震災で起きたように、いつでも起こり得ることです。それに備えることもイメージのなかでも起こせるわけです。自分のなかでも、起こせるはずです。でも、そこから行動できる人は少ないのです。気づく人はまだよい方です。 

 

 

世紀末の日本にしては、ずいぶん感覚が鈍いというのが私の実感です。十年くらい前は、もう少し耽美的に本質志向が出てくるかと思いましたが、全部うさんくさいところで昔のような本気というような感じがないのです。来年になってメディアがカウントダウンと騒ぎ出して、話題先行でいろんなものがでてくると思います。 

今も二十世紀の見直しが行なわれていますし、10年くらい前から、テレビ局が二十世紀の映像を世界中から買い始めている。二十世紀の映像などをデータベースに商売するところは、出てくるでしょう。安易にコンピュータを扱ってしまうと、誰でも作品をつくれるようになります。ただの作品ではしかたがないのです。 

 

ギャガ・コミュニケーションの藤村哲哉さんにスプラット・ムービーの話を聞きました。

学生の頃、とにかくたくさん血が出るのがインパクトのある映画だという動機で世界中から版権を買い求めたそうです。私もあの当時、いろんなところからビデオを買い集めていたのですが、版權まで買わなかったのです。 

著作権から上映とかの権利関係が出てくるから、自分たちで作品をつくっていく立場にしたからです。どんどん自分たちのものを出して、そのことで何かを働きかけなければいけません。 

 

商品ベース、コマーシャリズムにのっているものは、働きかける力があるから売れている、作品自体にそれがないとしたら、メディアにとっての価値はないでしょう。それは人間として勝負すればよい。そこの部分は考えていかなくてはいけないことです。もちろん、働きがけようと考えることが、二流なのですがそれに甘んじることも必要です。 

 

 

作品に関しては、ことばを練り込んでいった方がよいでしょう。たくさんのことをやるのもよいのですが、大切なことは一つのことをきちんと最後までやるということです。たくさんのことをやればよいとはいいません。一つのことをどこまでもやるために、たくさんのことが必要です。 

一つのことを深くやれば、その一つのことに全部、入ってきます。たくさんの夢より、一つの夢をみていたら、それをきちんと見続けていたら、他のことは、関わってきます。たくさんのことを中途半端に手を出したりする人はいくらでもいますが、数打っても当たるわけではありません。一つできていないと、その人がどんな人かもわからない。一つのことしかやっていない人というのはわかりやすいです。一つのことをやるために、たくさんのことをやらなければいけないからです。 

一つのことのなかにたくさんのものが入ってきます。そういう人は結局、たくさんのことをやっています。 

 

だから、そこでもう一度、歌をやり直すということは必要です。歌との関係を必然性にしていける人は、していけばよいでしょう。もともと、そのようになっている人もいるでしょう。20年も生きていたら、過去をさかのぼればそこのなかで経験したことでなくて感じたことのなかに、大きなヒントがあります。自分が何を見て、何に心を問うてきたか、心の問題です。それをそのときのままの解釈にしておくから、だめなのです。それは新しく解釈づけしていくことです。そういう意味で、振り返る必要はあります。 

 

15才のときに何かが起きた。それをいやだと思った。というのは、15のときの自分にとっていやだということであって、それが20才になっても、いやだというのを動かさないままきているでは成長がない。そのことをもっと違う目で見られるはずです。とえば、皆さんが15才の少年の悩みを相談されたとき、「それはそんなことではないよ、こういう意味なのだよ」といえるのと同じように、自分の過去もきちんと捉えておくことが必要です。人前で表現していくのです。 

 

 

自分のルーツもわからないで表現していたら、つっこまれるとすぐ止まってしてしまうでしょう。「お前は自分を知っているのか、自分の歌が、どこからきているか知っているのか。」そう聞かれないようにしましょう。その答えを歌うのです。 

そこでアメリカ人も、自分のルーツをきちんと突きとめたいと思うわけです。日本人は日本人ですから、それ以上、突きとめようもないように思いがちですが、それは違います。己のことを知るのが必要です。自分が一番、それを知りたくない人間であってなりません。それには自立しないと無理でしょう。自分で立つとともに自分から離れないとわかりません。 

 

その上で、自分に出せる価値としては、まだ何にもないことを知ることです。何もできなければ何にもないのです。表現からいうと、どんな思いがあったり自分によいものがあったとしても、それを表現する紙や筆がなければだめなのです。それと自分に何もないのでは違います。しかし、現実 の世界はすべて具体化された形で問われているのです。その形が伝え切れていればよいのです。 

どんなに小説や映画の構想をいっても始まりません。自分で書くか、誰かを助かしつくるために、どうするかでしょう。何もないところからは始めればよいわけです。そう考えれば人生は長いようで短いのです。21才といっても、本当にいつどこで生まれたのかというと、ほとんどが生まれてないのです。仮に20才で生まれたとしたら、21といったら1才です。ということは、22才だったらその二倍です。24才だったら、そこでまた二倍です。生まれてない人の方が有利です。生まれてからの人生というのは長いです。長くて密度の濃さがまったく、違います。ところが何才になっても自分をみず、生まれず、人のことばかり、口に出している人が多いから困るのです。 

 

精神面とか人生面で何かに頼ってもよいのですが、あまり抽象的なものに頼ると振り回されてしまいます。宗教と同じです。本当は自分と闘い自分を超えていくべきものが、依存するものとなるべきでしょう。 

人間性のステップアップなど、考えなくても、結果が出せればよいのです。ところが、こんなことをいうと反発する人の心につけこんだうさんくさい商売は世の中にたくさんあります。商売といってもそれが悪いということではありません。カウンセラーや、いろいろなセミナーをやっているところも似たりよったりです。ただ、もし何かを表現して生きていくのであれば、自分で信じられる確実な通路を一つ得なさいということです。 

 

 

もっともシンプルにいうと、声が変わった、その声で自分が表現できる、そういうこともです。歌も同じです。何かが一つあればよいのです。人間性とか精神的な内面など、誰がみてもわかりません。やれていればそこにそれがあるのです。 

40才くらいになって天地がひっくり返ったとか、今までの人生、全部だめだったとか思う人だっていくらでもいるわけです。だから遅いというわけではありません。それはそうなるように積み重ねていたわけで私が本を書いたり、いろいろなものを残すのは、今を生き、自分を生き、今と自分をつき離すためです。 

 

生という感覚こそがライブです。まわりも、これで消えてしまうのだと、今日一日、終わった、取り返しがきかないというところで、とても大切なもの、欠けがえのないものがあるからです。それは作品とか形にしたものから、自分を判断するしかない。それがよい歌なら、それがきちんとできた声なら、それでよい。作品がよいなら、その人はどうでもよいのです。作品と、その作者というのは、本当に関係が深いのですが、作品を独特の人格をもたせ歩かせることが大切なのです。本当は違う人格なのです。問われているのは、作品です。 

 

でも、声はわかりやすい。フレグランスという香りの世界では、知識の世界に加え、鼻で見聞きしなければいけない。ごまかしても素人にはわかりません。 

3年なり6年なりしたら、誰もがわかってくるが、それでも10年いる人と、だいぶ違うといえるものが芸です。仮に10年いても、きちんとトレーニングしない限り、変わらないのが芸です。 

 

 

カラーコーディネーターも一通り覚えさえすれば、あとはセンスだといえます。し かし、その第一線で勝負している人とはそれを聞きかじってやっている人とはまったく、違います。単に人前で名刺に肩書きにつけたいということであれば、ヴォーカルもヴォイストレーナーも簡単です。一般の人でも通じます。そこまで声についても知っているわけではないから、肩書き自分でいえば簡単です。しかし、長くは通じないでしょう。そういうものは、その人自身で勝負しているものだから、本当は肩書きなどどうでもよいのです。 

 

女優業をやった人なら3ヵ月くらい何かをかじったあとに週刊誌にポンと出て、そのあと学校を開いたらすぐに人が集まってしまうとしたら、その信用はその人の力ですが、いずれ自ら信用を失うことになる。そして、アロマセラピーなどといっているのですがセラピーなんて使ってはいけないです。セラピーというのは意味が医学の専門知識でもない限り、やってはだめなのです。設備と人件費のため年内一人から100万円以上もとる学校となります。そんなのもだまされる人がいるから成り立つ。 

 

声は、その人間の体に宿ってきます。皆さんがもしここでステップアップしたのなら、私がみて瞬時にわかります。欲しいのが、声であれば、得られます。声がステップアップしていないのなら、ここで人間性が高まったなどといわないで欲しいということです。そんなことを教えているつもりはありません。道を求めるのではなく声を求めて欲しい。ただ、自分がその声を手に入れるためにいろいろな工夫をし勉強をし、精神的な修業を積み、その結果、他のことも高まったというのでありがたいことです。そこを間違えたら本当にだめです。まがいものの宗教にいくのと同じになります。 

 

 

そういうところの主宰者はどこでも何でも簡単にできるようにいいます。そこでやると、そこの組織とか学校は儲かっても、あなたと日本がだめになります。 

一人ひとりに研究所の強敵になってここを超えていって欲しい。長くやっていて、裏切られた、福島っていい人だと思ったのに、あんなひどいことをいうなんて、などと疑い始めたときにやったことが何にもなくなってしまうとしたら、全部が真っ暗になってしまいます。それはやったつもりでもいただけで何もやれていなかったのです。冗談ではありません。そんなことで真っ暗になるのだったら、最初から関わるなということです。 

 

人間というのは。依頼心の強いものです。責任を人に押しつけたくて、そういう行動をします。結局、声がある、声が磨かれている、その事実に対し、現実は、それを誰も奪い取れない。絶対的なものなのです。そういうものを手に入れなければだめです。そのためにトレーニングする、だからやる価値があるし、やる意味があるのです。 

 

私は売りものになるというと変ですが、自分で得たものを、日本に限らず、世界に行っても理解してもらえる。こんなに難しいことをいわなくても、声やことばひとつでもシンプルです。それは価値があると自分で知っているし価値があるもので、まったくごまかしのきかないということで、ここで声の音声表現をやっています。ごまかしているのはそれを身につける努力をしない人です。 

 

 

音声を身につけてもそれで表現できないと人に伝わりません。だから、なるだけ雑にしないことです。複雑なものは、まがいものです。いろいろな人も出て、いろいろな学校もできたりしますが、複雑に何でも効くように宣伝しているのは万能薬というのと同じです。何でもできるといっているところはだめです。 

逆に声ができたら何でもできるのです。芝居なども同じでしょう。何でも基本がなくして成り立ちません。本当に基本の基本のことを他の人の何倍も深めていくと、いくらでも応用がきくわけです。ここはそういう場です。 

 

ところが、ここのクラブに入ったら野球もサッカーもラグビーも、全部プロになれますというのを、予めそういう答えと式をもって一方的に誰に対しても押しつけているところは、低いレベルでやる体育にすぎません。それを喜び、求める人を、アーティストなどいわないで欲しい。自分の内心に問いを発しないのに、なぜ答えがあるのですか。人間に関する評価とか精神性とか修業とかになってくると、これはもう、きりがないのです。いろいろなやり方があって、たった一つのプロセスというのはないはずです。 

 

どんな人がどう生きていても、人に迷惑をかけなければよいでしょう。しかし、私たちは生きることですでに他を傷つけ、むさぼり犯しています。本当にその問題を突き詰めていったら最終的に自分で自分がわからなくなってしまいます。だから、芸術家というのは、それを作品で表わすわけです。その作品がよければよいのだと。そこまでの生き方がどうであろうが、人間を肯定したところに、救いを求めるわけです。宗教も似たようなところがあります。 

哲学は、それを徹底してことばで追って論理的に煮つめていくわけです。でも、結局は言葉を切り一つのイマジネーションの世界のなかで構築するということでは、芸術家のする仕事と似ています。 

 

 

歌というのは気持ちのよいものです。人間は慣れますから、最初50人で気持ちよいと思って次に500人で気持ちいいと思って、5000人で気持ちいいと思ったら、今度、また50人の前で歌ったときに、気持ちがいいとなかなか感じられなくなる困った生き物です。そんな気持ちよさというのは限界がきます。誰か一人のために歌うというのが、一番よい歌い方でしょう。一人の心底に伝わる歌は、全ての人に受け入れられるでしょう。要は深さなのです。 

歌っていくことも、人間の関わり方からみると、果たして相手に気持ちいいかどうかというのは、別の基準になってきます。だから、根本的には、自己主張といった自分の意思は失わないで欲しいのです。自己主張していくのも、何も自分勝手にしていくということではなくて、「自分はこう感じる、でも実際こうなっていないじゃない。こうなったら、よいな、もっと」とそうなったときの闘いの結果を出すのです。自分の努力もそれに尽きます。 

 

長いものに巻かれるのなら、やる必要はない。これは、歌でも音楽のなかで、「あいつはああいうふうに演奏しやがった、許せねえ、オレだったらここをこうやる」というのをみせるのです。深く感じたらそこから働いてくるものをとり出すのです。同じ土俵に立ったときに、腕がなければ徹底的に打ちのめされます。そうすると何を身につけなければいけないのかというのが、簡単にわかるのです。 

気持ちのよさの世界というのは、その先に出てくるものです。最初から、それを求めるため、基準がわからないまま終わってしまう人が多いのです。それはデッサンの ない他人の作品のコピーです。ほとんどの場合、闘い抜けての気持ちよさなのに、逃げでの気持ちよさを求めるから、最初の区別がわからないのです。そういうところで生きた声が教えてくれているのに、聞かないのです。それで逃げていると迫ってくるのです。 

そのうち、歌そのものがつまらなくなって、おもしろくなくなってやめてしまうのは案外若くして器用だった人の方が多いのです。与えられたものでやっていこうとして与えることを忘れるからです。 

 

確かに研究所にくると、歌は大変になるでしょう。一世、一フレーズでいうのも大変でしょう。しかし、その先にあるおもしろさを知っていたら、たまらないはずです。たった一貫でも世界の天才たちの土俵でやれるのですから。なのに、素振りが楽しめないのは、本物のゲームの味を知らないからです。 

歌があれば人生、幸せだったという人がたくさんいて、本当にそれが命だったというような人たちもいます。それだけのものが歌とか音楽とか声とかことばのなかに入っているのです。だから、それを取り出していくと、生きていく人にとっては、少しは導きになるのでは、ということでやっています。 

だから、おもしろいから、気持ちがよいから、そのまま歌えばよいというものではありません。「ここにきたら毎週、ライブをさせてあげる」とか「ホイ、レコーディング」というやり方をとっていないのも、そのためです。その方が楽しいかもしれませんが、それで何年やっていても、何も変わってこないし、音楽も人間そのものも軽くなってしまいます。 

 

 

軽くなってもよいのですが、人前に出たときに、人を引っ張っていけるだけのものがでないのが問題なのです。それではやれるはずがありません。 

20才の頃は、何もない。私は自分の顔がないことに気づいて愕然としました。自分の顔がないのです。小学校のときにあった顔さえ及ばない、つまらない顔、一体、何を生きてきたのだろうと思いました。 

日本の教育下で思春期を通ってくると、自分の顔をもてる人はとても少ないのでしょう。しかし、自分の声をもっている人はさらに少ない。ことばをもっている人はもっと少ないです。それで歌えますか。 

だからこれからそういうのをつくっていけばよいのです。何もないわけではなく、出せないだけですから。 

 

レッテルという問題、これも日本の社会に住んでいる以上、どの世界でもそうですが、とくに厳しいのです。何かやれば、それを楽しむのでなく、やっかみ色めがねでみる村社会のひがみ根性の国です。日本で生まれ育った各分野の第一人者は、全て世界で先に認められ、そのことで日本で認められてきた。つまり、タテ社会の人間関係に頼らなくてはやっていけない人の村社会でアーティストは阻害されるのです。もっとも早くその価値に気づき支え認めるべきまわりの人が無視するのです。 

そして、わかりやすく安易なもの、似ているもの、すでにやられたもののくり返しに、意味を求める。その方がリスクかないからです。アーティストも評論家もファンもにせもの。まわりに共感を求めます。 

ここは、そうありたくないのです。本当の価値を新しく、わからないパワフルで本質的なものを早く認めていきたい。 

私はシンプルな考え方です。こういうところのノウハウも、とにかく出すだけです。出してなくなるものではない。与えられるほどにふえていくから、すごいのです。出して死ぬわけでもないです。しかし、いくお高いお金を払っても手に入らない。何年もかかって体に入ったものは他の人が欲しくても、それだけ時間と手間がかかります。そう簡単には伝わりません。 

自分がより学びたければまわりの人が学べるようにしなくてはいけません。それを受け入れようとしたら、それだけの熱意が必要です。これが研究所です。 

 

 

そういう意味では、一番よいのです。知識などは、いくらでも受け売りすることができます。ましてや、レッテルなど、どうでもよいのです。それが古くなるほど人のずっと先のことをやればよいわけです。次代のことをやるということです。 

ケムに巻いていけばよいわけです。情報でも同じでしょう。アイデアを取られる、「いいじゃないか、取っていけるようなものはそいつがやったらよいじゃないか、オレは次のことをやる」と。現役というのはそういうことです。 

アーティストというのは、漫才師や落語家でも、皆がみている表面で活動しているのではないのです。それは結果です。だからといって、夜の接待とか裏の方で手を回しているとかという意味ではなく、表面上、出ているのはあくまで舞台の前面なのです。その後ろで自分を動かしている自分、その人間を動かしているもう一人の自分というのがいます。舞台に慣れているのではなく、その後ろに距離、奥行きの深さとか、ふところの深さがどこまでとれるかの勝負なのです。奥がみえたらだめです。 

 

ピューロランドはディズニーランドと違い半日でまわれるからつまらないというのと同じです。夜の11時まで若者のデートのスポットとして使えるなど、前宜伝むなし<10時になって多摩で待ち合わせしましょうなんて、カップルがいるわけがありません。閉店時間を早くして、ガラガラをのぞいても、つまらないでしょう。スタッフも楽しませる自信がもてないから、ディズニーランドで働く人のように本当に楽しく笑えないのです。つくり笑いさえできなくなってくると、も去ってしまいます。 

ピューロランドに出されていたお皿というのは、本場からとりよせた高いもので、「客が割ったらビクッとしますね」「うん、ビクビクする」、そんなことで楽しいことはできないのです。 

ディズニーランドは。一回で全部、見切れないからまた行くわけです。次の年にまた違うアトラクションができているわけです。それだけの貯えがないと持ちません。表向きは似させてもまったく違うのです。そのふところをつくって欲しいのです。そういうふうに考えて、自分も自分自身を楽しんでもらうとよいと思います。 

 

自分がおもしろくなってくるというのが、上達のコツです。自分の思うことを突き詰めても人間、思うことやできることは最初はほとんど同じです。そうして生きています。人にいわれる通り、生きる方が楽だからです。ですからそのレベルを早く脱する.ということです。何かをやりたいと思ったらギャップが生まれます。しかし、それが自分の誕生でしょう。そこで、全部を出しまくることからやってみればよい。それで通用しないから、空っぽになります。 

歌でもここに来るまでに100の力で歌っていたなら、100出して全部、すっからかんにしないさい、20曲歌えるなら、歌い切って、どれも役立たずということを知りなさい。全部、壊しなさい。もともと、壊れるどころかつくられてもいないのですから。そこからスタートすると、やがてそれで1が残る、歌の1フレーズの一言が残る。その1は失われなかったもの、99はすべて嘘っぱちだったということです。そうたらその1か2をきちんと100に育てていけばよい。わかりやすいでしょう。しかし、また嘘がのってくるわけです。トレーニングも1最初は0のうち9は間違いやムダです。そこで、1をみつめていく作業なのです。だから人の10倍やったら2倍くらいにはなる。 

 

 

人前でメディアでやるためには整えさせられます。ここでやっているから私は、本音でできます。ここは守りたいから、そのためにいつも壊すのです、傷だらけになりながら、それでも半分は嘘が残ります。その嘘にあなた方はなってほしくない。しかし、あなた方がそういうサービスや営業を求めるから、この配分は難しい。自分でミルクの飲めない子に自分でとれというのでは、死んでしまうからです。 

そこで、もう自分でもしらじらしいくらい後ろの自分が笑っているくらい嘘にのって楽しんでいるわけです。 

人に認められるとそういう役割も期待されていくわけです。この前、ある教育委員会というところから依頼がきて、ヒェーと思いました。世も末なので私の知りあいに行ってもらいました。求められることを「満足されるようにやりましたよ」と、「あっそう」という感じです。お客さんのところでは、芸人です。そういうふうに自分のなかで幅をつくっておかないといけません。をつくるためには、根本に核をもっていないと揺らぎます。 

 

その核というのは、あまり思想とか考え方、ポリシーでとるよりも、シンプルに声のことにすれば迷いません。とにかくまあ滝に打たれる修行ではないのですが「ハイ、ハイ、ハイ」というようなことを、本当にシンプルにやっていたら、そこに歌がついてくるのです。 

皆、考えすぎています。私にポリシーがあったり、考え方があったり、思想があったり、本で書くくらいの内容があったから声が身についたと思っているかもしれませんが、すべて逆です。滝に打たれるのは、体から頭を切るためです。頭を切ると感性が働き、ものがみえてきます。大切なものが身についてきます。とにかく世界中でも日本人のなかでは一番やっただろうというくらい声のことを単純にバカみたいにやります。そこにただ見えるものを見ようとして、みていっただけです。 

 

皆さんは今、何を考えてもどうにもならないと実感するために考えてみることです。真剣にやらなければいけないのに迷いの心が邪魔します。考えるからやろうかやるまいか、いこうかいくまいかになる。それはまだ、トレーニングに入っていないのです。入っていたら、ただやるだけです。そして、真剣にやると力はついてくるのです。しかし、いつも真剣にやる人はとても少ない。どの世界でもそうです。お茶でさえ、道になる。どう飲もうが勝手じゃないか、でも、本当のところ、勝手では心は自由になれない。一期一会の真実において茶を立てられない。だから、茶室と作法があるのです。 

 

 

声や歌というのは、わかりやすいからよいということです。これが小説や絵などに なると、こんなにうまく書いているのに誰も認めてくれないなど、きっとジレンマが起きてくると思います。「こんなにいいんだぞ」と一人でいっていても誰が読むかで決められてしまいます。 

ところが、体でできるものというのは、レベルが明らかにみえます。スポーツは体力的に限界があります。年をとるほど有利になるスポーツがあれば、よいと思います。歌や声というのは、一見、ハッキリした結果ではでてこないようにみえます。しかし、対立や勝負で挑戦のしがいがあるのでないから、素晴らしい。そういうものも包括して、一つの世界をつくるのです。 

ベテランがやれるというのは若い人がやらないからやれているということはあります。そういうところは、悪くはないと思います。体力から技術へうつるのが芸の力です。 

 

私が最近、考えているのは、こういうことを週に一回くらい、ここに入ってくる人とかそれとまったく違うコンセプトできた人たちがやってみたのを、同時にインターネットで流してみたら、どうかということです。もちろんそのままでは日本ではだめです。日本というのでは、もうデジタル化され、サビから始まるような曲でなければ難しいでしょう。 

ブレスヴォイストレーニングも、声、人間の生理に正直というのが基本です。これをどう使ってもよいわけです。デジタルで音楽をやらなければいけないということではなくて、それに応用するのはかまわないが、ここのプロセスをワークショップという形でみせるというようになると、どうしてもアナログっぽくなってしまいます。もうカリスマが舞台の上から一方的に客を踊らす時代は終わりました。 

昔の音楽と同じで、最初に語りがあってそこから盛り上がってきて、ピークになって、落ちてという、人間の一生と似たようなサイクルが舞台の基本です。これからの、デジタルの人たちには向かないのです。 

そうなると世界中に発信したら、どこか中近東とか東南アジアとか、文明の発展などに応じて、フィットしてくれるところがあるかもしれない。でも、そういうところというのは、またプリミィティブな感覚が発達しています。これに基づく方が難しいかもしれません。そうありたいのですが。 

 

ここでも、リズムのずれ方などは、並大紙ではない、あの音のそれ方は人間にできるのだろうかとか、最近、私が思っているような疑問、どうしてドの音を聞いてはずれた音が出せるのか人間として理解できないことがする人が多いのです。それを大事に育てていくという方法もあるのですが、芸術となるかどうかというのは、難しいのです。それは、単に鈍く感性がないものだからです。 

いろいろな人がいろいろな形の作品をつくっていくのはよいのです。しかし、通用しやすいものは、きれいにまとまっているもの、その人の世界が出てくる、というよりパッケージされたもの、ただ、声と音程とリズムがはずれていないものにすぎない。ホントの歌の力を伝えた人たちの作品のコピーのコピーのコピーばかりなのです。音響技術に支えられた産物にすぎません。それを使い切って人に役立てるべきなのに、まさに技術が人をだめにしている典型例が音楽や歌で行われています。 

 

 

人間の主体性を回復せずして、技術くらい従えられないで、何がアーティストです か、エレクトロニクス以降のポピュラーがよくないのでなく、ロックはまさにそういうものですから、要は使い方なのです。 

ヴォーカリストの生身の体を離れた技術というのが、みせものになってしまう。客的に見られてしまうというのは絶対的にパワーが欠けているのです。生命力をもち、立体的に前に出てない限り、他の人はその世界に入り込めません。そこに意味を求めるなら無意味です。 

 

一つの人間が単に歌ったということにも、その人間そのもののなまの血のあたたかさといったら変ですが、熱さとかパワーみたいなのがこないと、ストレートな本当の歌やことばとしては入ってこないものです。だから、自分の世界がある人ほど、そのことを理解させるためには、パワーと集中力、まさに全身全で、カロリー消費量が伴わないとなりません。こういう舞台においては、特に、それだけといえるほどです。 

 

他の分野の作品になると、また違うでしょうが、でも醤道でも、マルなんて誰でも溶けるのに、科学的に分析すると、一流の人は墨の粒子がきちんと集まっているそうです。だから、人間には、やはりそういう力があるわけです。そういう本物を見たら、やはり自分の書く円と違うというくらいはわかります。円ぐらい誰でも書けるのです。こんなの描いていて商売になるのだったら、よいですね。マルかいて一万円、マルかいて一万円と。でも、そう考えるくらいの境地では書けません。

相当な人がやっているから、マルで伝わるのです。相当の人が見るから、金にいとめをつけずに欲しがる。そして、そういう人には、ボーンとあげてしまう。いいですね。 

私も一年で仏を表れるように書いた絵にひどく打たれたことがあります。科学で計れないところが、人間の芸術のすばらしさです。そのときに必要な集中力、パワーというのは特に皆からの後の世代、欠けているだけに、これをもっておくことは何よりの財産だと思います。 

 

 

 

 

 

 

【ステージ実習3】 

 

長くいるから上のグレードにいるというのはおかしな話ですが、入ってきてよいと思って早くあげてみたところで伸びない人が多かったのです。上にいけば上にいくほど、一曲に近い大きなフレーズが与えられてしまうので、そこで歌えてしまう人は歌えて、歌って終わりとなり、要はそのなかで表現を組み込むことができないのです。 

本当は、2年で一つのプロセスをへたら、ベースに戻って、また体のこと、声だけをくり返すべきなのですが、どうもそのあたりが甘いのです。声をきちんと固めた方がよい人、声が出るようになっても音の感覚やリズムが相変わらずの人もいます。これは正さなくてはなりません。あとは基準をはっきりさせようと思っています。(注.97.2の発音以降、これは、その後、グレードのアップ、ダウン、飛び級の設置とW/L検で補っている)プロの活動をする人は、やっていきながら伸びるのならよいのですが、元に戻っていきます。入った以前の体や声の使い方になっていくのでは、よくありません。 

 

そこで2年くらいで大きく変わるより、正しい感覚が得られることをしっかりと確認することが大切です。声があるということに気づいて、それがたまに出せるレベルから表現に一致することを体験して欲しいのです。それを定着させて完全に出せるといったら、たぶん最低でも4、5年目という段階だと思います。そういうものに気づいても、それを徹底して煮つめていく人とそうではない人がいます。 

日本の音楽シーンを考えてみたら、器用さが求められるため、その人にその必要性があるかないかの個人的趣向になってしまうのです。研究所は、すぐれているものが普遍的かつ真実として存在するということを示しています。それをその人の体が実感できることで示せればよいと思っています。ある意味でいうと、そういう声があるということ、そういうフレーズがあるということが基準です。それが、その人の音楽を形づくるようになるには、その人が求めていかないとなりません。それは次の次元の問題です。 

 

純粋に声楽のノウハウを高めにきている人にも、今のトレーナー陣で、対応できると思っています。 

この地味なスタジオにはふさわしいステージでは困ります。ここにあうようなものは、よいことではないわけです。 

VCCライブやオーディションを、1回でやめたのは、3年くらい前の話です。VCCというのは、お客さんづくりから始めようと思って、そこからV整にきたり、研究所で育つように、正しい耳で判断してくれる層になってくれればよいと思って設けました。歌ったことがないという人には、ここで歌わせて、足らないことを気づいて、基本からやってもらえればよいと考えたのです。しかし、歌えてしまう人ほど歌い流して歌えた気で終わるわけです。 

そのいやらしさとかうぬぼれだけでは通用しません。それで通用するのなら、カラオケでうまく歌っている人たちも適用するわけです。皆それなりに自信をもち気持ちよく歌っています。 

 

 

そういうものがないというのも困るのですが、トレーニングで上達するためには、1回はだかにならなければいけなのです。自分に何があって、何が飾りとしてついているのかということを見極めなければいけないのです。すぐれている、すぐれていないということもあるにしろ、そこに一つの自分の色があって、それをきちんと鮮明に出せるということが問われます。 

それ以外のステージというなら、客演の人でやっていた方がよいわけです。BV座に関しては、ある程度、基準というのをはっきりさせようと思っています。いじらない方がよいと思っていたのですが、何をやればどう評価されるかわかりにくいヴォーカリストということになると、客観的な基準は必要です。それは日本人の音程やリズム、共鳴が正しいかどうかなどというレベルではないのです。もっと絶対的なものです。それがわかるのが上達なのですが、あいかわらず自分流の人、トレーニングをやるうちにわけがわからなくなってしまう人も多くみられます。 

私は、その人がオリジナルなものを出していれば、一曲くらいは退屈しないのです。カラオケの大会の審査員をするより、おもしろい。その人がしゃべってきたものが出るからです。 

 

しかし、そのままではまったく、通用しないのです。普通の人がみたら、まったくおもしろくないしつまらないのです。ただ、私は可能性をみますから、それが仮に10になり100なっていくというプロセスなど、本当にその人のものであれば時間をみます。 

とてもシビアですが、オリジナルであればあるほど、それを磨いて通用させるのは難しいのです。そうかといって、メジャーな方向で皆の歌っているように歌って認められるというのも、別の意味で難しいわけです。 

どちらが一人のヴォーカルの生涯、よいかと考えたときに、研究所の場合、基本を固めるためある程度、長期戦となります。タレントさんでしたら時流にのることが大切です。オーディション全部受けて、若いとき通用したら、どこかで受かったら、それは才能があったと、だめだったらその道をあきらめるでよいでしょう。しかし私の歌や音楽、表現に関する考え方は、まったく違います。自分がいなかったら他の人が出て、とってかわられても問題ないなどということがあってはいけないと思っています。 

 

そういうことでいうと、オリジナルな部分は自分で考え、練り込んでいかなければいけないのです。少なくとも私が学生だった頃のように、身近でプロの人とやれたり、いろいろなことを教えてもらえるような環境は、失われつつあります。その基準というのさえ失われています。 

ステージに、からくり人形みたいに当てはまってしまうというのは、それはそれで問題があります。いくつか、ここを超える要素が必要なのです。 

 

 

まず現実と音をシンクロさせることができるかできないかです。いくつかの要素というのは全部なければいけないということではありません。しかし、ここに一つの世界、リアリティを出さなければいけない。照明とかスモークをたいたりとか、そういうことのまえに、存在感があること、その人が何かそこで歌ったり踊ったりすれば、それは現実と別の空間になるし、時間になるでしょう。 

そうすると、それだけの夢を、その人が宿していないと伝わらないのです。歌っただけで、現実を忘れさせるのは芸の力だと思います。他人を元気にするということです。 

ただ、これも結局、聞いている人よりもやっている人の方が元気があればよいことです。歌うのですから、そうでないのはおかしいでしょう。 

 

伝わるというのは別の話で、パワーが必要です。欠けているのは、ここからです。カラオケで歌ってパワーがあるといってもしようがないですが、タレントさんやアーティストにはすごいパワーがあります。そういうことで必然性があるからその人が活動をやっているわけです。それが一致するのには時間がかかります。何もなければ、若さとか元気からでもよいでしょう。本当は、これで一曲、形くらいはもつわけです。一曲もたないというのは音楽的な問題よりも人前に立つことができていないことの問題です。それを自分で取り出せて、1年分の元気をここの1曲のなかに盛り込めるかどうかでしょう。このあたりは原点でありながら、忘れられているところだと思います。 

それからもう一つ、どんな退屈な歌でも歌えていなくても、人は、やはり気づかせてくれる、考えさせてくれる材料が欲しいのです。 

 

歌が、単に音楽の邪魔とかノイズになるのは困りものです。ステージに立った人自体が、世の中のことを知っていることです。それは、知識でなく、そこでの本質、自分という存在の価値を知っていることです。自分が歌うこととか表現することに対して少なくとも聞いている人たちより、考え尽くしているということ、思考した思想があるということ、あるいは、伝えるということを、わかっていることが必要です。 

するとイメージがきちんとできるということです。それだけの材料を入れて人に味わえるように発酵させるために、どうするかということが、トレーニングです。 

自分の頭だけで考えても、やってみるとまったく、違う方向にいきますから難しいものです。腐らせないためには磨かれたセンスが必要です。ギャグと同じです。才能タレントがどこかに感じられることです。実力や才能があるかという問題です。 

歌でも奥ゆきとか深さとして、正にそういうものが伝わってきます。そういうものがなければ、全部出し切っても一曲で終わってしまいます。2曲目に対し創造されていかないからです。すると2、3曲がほぼ100パーセント見当がつきます。そしたらつまらないものです。自分の形とか型をつくることは難しいのですが、それを出せば勝ちという世界です。 

 

 

自分のなかで何か迷って、そのまま出してくるから、見ていても心地よくない。一所懸命さ、まじめさも伝わる。ただ、バタバタと討ち死にしているみたいなことで、よくありません。舞台である以上、その場をとらなければだめです。全力が尽くせればよいというのはトレーニングであって、仲問であても自分をみている人がいるところで時間を使うのは、全て勝負、アピールタイムです。 

基準のつけ方は動いてないつもりですが、その基準をどう伝えるかというのをずいぶんと考えます。 

この歌とか音楽とか、ことばとか、こういうふうに聞いている自分とは何だろうかというか、自分がこう評価するというのは、その自分の評価というのは、どこからきていているかとか、私のなかにも、いくつかの基準というのがあります。迷うときに、多くのアーティストのそういう力を借ります。つまり、一流といわれる○○なら、きっとこうみるだろうと考えるのです。それと兼ね併せて、こう感じて決めるというのは、いったいどういう感情や感覚がどう自分のなかに働いているのかと、思うのです。 

 

歌を聞いて、評価しなくてよいと思わせるのは、よい歌です。ともかく、よかったと、何も思わせないというところがよいのです。どうしても客観視しようとしますが、それをさせないくらい、心に入り込むのがよいわけです。客の心を奪うのです。 

歌い手は、客観視されるべき存在です。しかし、巻き込めたら一番よいのでしょう。もう少しバランスが必要です。他人の形だけをうつしかえて歌だと思っている人が、たくさんいます。スクールはそんな人のたまり場です。するとそこで教える人もそうせざるを得なくなります。 

自分を出すのに必要なら小道具も欲しいような気がします。声のなかに欲しいというとぜいたくでしょうか。 

体、息の感覚というのは、これは前からいっていますが、もっと体を単純に使ってみること、息を大きく使うことで環る原点の部分が必要です。叫び出す気持ちになることと、それをつかみ出してここに一致させるということ、これがいつでもできる人は、そんなにいないでしょう。それを合わせてくるということは、切りかえられることです。支えるのはシンプルな体です。 

 

今日のフレーズも、単純なことがどうしても複雑になってしまいます。単純にやると体が伝えるのです。体が健康であって、その健康な若さ、生命力みたいなのがきちもと出ているということです。不健康でも よいのですが、気が前に出ているということが必要です。 

体のパワーを、ヴォーカリストはだんだん失っています。これが第一の問題です。これを感じられなくなったら、私らは「この人、もう年だな」、と感じます。よいことばでいうと、「円熟してきたな」とか「作品らしくまとまってきた」ということですが、それはすでに何かをパワフルになしえた人について当てはまるだけです。 

そうなればもう卒業です。研究所にいても、体が動かないと、そんなに学べないので、それでやっていくとよいと思います。何もいつまでも体ばかり鍛えろということではないし、それはそういう時期だということです。そのときに感覚が一致していればよいのです。体が少々、動かなくても、技術としての声と扱い方が変わって、それがその人のキャリアになっていればよいのです。ところが、体の感覚が一緒に起きてないと、少しずつ研ぎ澄ませられなくなっていくわけです。 

 

 

2年制といっているのからかもしれませんが、いつも、一年半くらいが一番、ピカピカしています。そのピカピカさが、2、3年とやっていくうちに、その人がよほど気をつけないと、くもっていくような気がします。すると、つまらなくなるからやめていきます。そのあたりがおもしろいのですが、実のところ二年でできるわけでないのに一年半で七割くらいできた気になるのでしょう。本当にそういう人は100人に1人です。 

新入態で最初に会うときは、それなりにおもしろいものです。体を使い始めて、思いきり一所懸命やっているというところで一年ぐらいです。 

そこから感覚より頭が先行し、体がさかのぼるのです。読めすぎて体がつかないのは、よいことではありません。できないのをわかって、できるようにやっている姿勢も共感できません。いつも一流になり切って奇跡を求めてください。 

 

イマジネーションのなかでの落差というのが必要です。歌である限り、音楽の世界での、イメージのなかでの落差が、音楽のなかや表現のなかに存在するということを、体得できていない人が多いです。 

勝田先生のセミナーでも、“大きな感覚”というのをやっていると思います。そういうところからつかみとってください。 

 

それから、場である以上、トレーニングと違って、期待されていることに答えるという姿勢が必要です。だから、100%出すというのがあたりまえです。しかし50%もなかなか出ないものです。それ以上に、過剰に出していかなければいけません。その結果で討ち死にしてしまうのは、しかたないです。また挑戦すればよいでしょう。それをプロセスにしていくしかないです。 

 

 

メリハリに関してはもっと動かせるのではないかという気がします。グループの1フレーズのなかでやっているようなメリハリが、歌のなかになったときに全部、死んでいます。ここは静かに語ろう、ここは大きくしようというぐらいの二極分解で、ただの、白黒の世界です。1か10かみたいなものでは大ざっぱすぎます。そこの段階には、1とか2とか3とか4、5とがあるはずですし、もっというと、1.1とか1.3とかがあるのでしょう。これが歌になった途端、ことばとか感情が強くと弱くだけで、その間に何もなくなります。 

日頃の練習での意識が足らないのでしょう。1、2、3、4で刻んでいるなかに、もっと音の世界があって、1.5.3とか1.3.4とかも刻んで、音色の世界があったり、息使いの世界があったりするのです。そういったものが歌になった途端、引っ込んでいます。できないなら別ですが、できそうな気がするのに本人がやらないから始末が悪いのです。自分でこの程度でよいと思ったときに、すでに負けているのです。 

 

ステージということでは、もっと先にいっている人もいるのかもしれないのです。ゴスペルやジャズなどいろいろなことをやっていますが、表現の主体を他に預けないことです。これが一番、大切なことだと思います。これがうさんくさくなってくる原因なのです。 

うまく歌えるようになってまとまってくる一方で、それが破れなくなって、歌を乗っ取られてしまうのです。別に音やことばの世界を芸にして芸術にとまではいいませんが、私などは、そういうところでみていますから、乗っ取られているのはあわれにみえます。その人がその人を出せているということが、一番の基準になっています。 

乗っ取られるというのは、ある意味でいうと、ものすごく気持ちのよいことなのです。まず、自分の力でなくて、できます。自分がフーと神に近づいたみたいな感じがすることもあるでしょう。しかし、それは足元すくわれているだけなのです。 

 

だから、それで癒されるならよいし、人も癒してくれるならなおさらよいのですが、表現の場というのは、闘ったあとに得たものを人に与えてこそ与えられる場です。そのプロセスが踏まえられていないとだめです。「お天気だ、お天気だ」と歌っているのでは人は動きません。嵐があってこそ「お天気だ」と歌えるのです。同じことを伝えあるにも、やる方のイマジネーションや意識の深さが必要です。 

 

 

いつも、課題曲と自由曲があると自由曲の方がだめです。たぶん、自由曲というのは、自分なりに気持ちよく歌ってしまうのでしょう。それは何か自分で自分を乗っ取らせているように感じられます。原曲に乗っ取られて、その人のもち味がまったく出ないのです。オリジナル曲も同じです。どこかで聞いた節まわしばかりでは人を楽しませられません。人に乗っ取られるのはよくありません。 

課題曲の方がまだへたでたどたどしい分、その人らしさが出ています。きっと合わない分、新鮮な気持ちでとりくみ、つくるからでしょう。その手間が削られているのは、作品となりません。 

そこの自分の部分を追求したのち、自分を大きく出していかなければいけないのです。それを音とかことばとか部分を突き詰めていくことをやらず、適当に引き返してしまって、まとめていく方に向いてしまうのでしょう。そうなったときに、自分の作品はできないのです。 

 

他人の作品はその人のまねをすると、装面に気持ちのよいものですが、聞いている人の方が、その人のまねを聞きたくないときは不快です。 

そうではなくて、心地よいときとか歌らしくなっているときに、これは自分ではないとはっきりいえるかという感性は、大切です。表現をより強く意識し、アーティストのなかでやればわかることです。 

表現の意志が他の人たちよりもあると、おのずと、情緒というのにおちやすいわけで、その情緒を狙って表現したり、そこで 作品をつくろうと思ってみても、まがいものしかできません。そこは感覚的なもので、センスです。どうも行き詰まってくるとそういう問題の解決を安易に求めている気がします。 

 

他のものをとり込むのはよいことです。いろいろなものをとり込まなければだめです。一所懸命だから自分しか出せないわけです。 

課題曲は1番でやめた人が多いのですが、1番でやめる理由があって1番だけなのでしょうか。ある意味では3番まで歌わなければ伝えられない世界というのもあるわけです。感覚も伝える内容も変わってくる。1番でおわるなら1番で伝え切るようにしてください。そのあたりも、突き詰めて、一つずつの作品もこなしていかないと、あまり意味がないと思います。課題だから、とりあえず歌っておくということになってしまいます。 

 

 

明暗で捉えてみましょう。浅い世界で輝いているが暗く気づいているかみたいなものは、どちらがドラマになるかわかりますね。そこを出していかないと、存在感とか印象には残っていかないのです。 

明るく歌うというのは、明るくても軽くても、これはこれなりにその人が出ていたらおもしろいことです。しかし、明るさときとは違うのです。 

暗いのは、それがこもってしまうとだめです。前に出ていなければいけません。その暗さというのは、音色からくる暗さとか、その人の表現のところにある一つの森で、情念がこもれば伝わる。そうでなければ元気に歌っていた方が、絶対よいわけです。そういう表現をとるというところに理由をもたないとだめでしょう。明るさと輝きとは違うのです。 

 

練習と舞台の違いをそろそろ明確にしていかなければいけません。練習は得ているところで、舞台は、与えるところです。 

だから、ステージに立つ前に吹っ切れていなければいけません。その人がここに立つ以上、どう思われようが、こうやるというのを決めて、それをやっていくこと、それはその場に応じて変わってよいのですが、そのふっきりがまったく足りません。 

日常から出てきて、そこで日常をやっている。日常が芸になったり、それが見せられるという人は、相当な人です。それは日常が異常なレベルでテンションが高まっていて、対応できないくらいになっていないと無理でしょう。横山やすしさんみたいな生き方していたら別でしょうけど。飛ばさなければいけない前に、出さなければいけな い。 

 

一番欠けているのは、スピードです。音の世界である限り、意志の強さが前に出て、そこに情緒が宿るには強さが必要です。そこではためて入るスピード感が不可欠となります。速く歌えということではありません。音の世界が展開するところのスピードを踏まえたらゆっくり歌えるのです。 

ただ、それが入りきれないところでは体が動かないので、やはり全身が一つにならないです。だから、早い時期に強さとか大きさとかスピードに挑んでおくのです。さらに大きくして、しぜんと舞台のなかでまとまってくればよいのです。 

 

 

気になっているのは、お客にもお友だちを求めているような気分であることです。両親とか親戚の前だったら、あの子らしく 

ていいということかもしれないけど、ここは違います。そういう意味では別人にならなければいけません。 

練習で本質的なところを突き詰めて、舞台は飾らなければだめです。その飾りがチカチカあって、本質がなくなってしまったら、だめです。 

ただ、飾らないで「みんなこれ、オレだぞ」というのは、すっぱだかでそのまま出て、異様なだけです。鍛えあげた体か天性の美しさがあれば別ですが、その異様なことをやるのは、そこに理由がなければいけない。そこで突き詰められている表現がないといけないということです。 

 

練習のなかでトレーニングがいろいろな意味で身についたり、毎日やっていることも一所懸命なのもわかるのですが、忘れてはいけないのは、何のためにやっているのかです。CDデビューしたり大きなステージに立ったりということでも、何でもよいのですが、そこで自分が集約して、自分で盛り上がる自分を楽しまなければ、聞いている人だって楽しめないのです。 

苦しい表現はあくまでステージを出す異常性の苦しさで、その人のなかで消化して出していかないと、無理です。それが未熟のまま、外に出すのは甘えです。ここで何が起きるかわからないのはよいのですが、計算されていなくて方向性もわからないのでは、いけないのです。それができる自分を楽しむところまでいかなくても、そこまでの感覚とか状態に、自分をおいておいて、何が起こるかを自分で楽しむということを心がけてください。 

 

ステージだけではなく、練習のなかに本当はこういうことを入れていかなければいけないと思うのです。だから明るく楽しく擦習するというだけではだめなのです。そういう歌への思いがなければ、身につかないでしょう。その思いがあって初めて練習の単調さがおもしろくなるのです。 

単調さそのものをおもしろがったり、体が動くこと自体をおもしろがるだけではいけません。音楽は一つの特殊な世界で芸で芸術であるということですから、そこに結びついていかないのです。あくまで出口をみていて、そこからおりてきたところをやるための技術も、体も、息も、感覚もあるというふうに考えないと、クローズされたトレーニングになってしまいます。 

 

 

劇団の舞台裏のトレーニングには、あんなことをやっているという見た目のおもしろさがあるかもしれない。有名な人があんなところにいる、というのがあっても、それ自体としては作品にならないわけです。同じくここでやったものは個人で作品にしていかなければいけません。この場でとりくんでやっていかなければいけないのです。それは自分の色を出すためです。 

同じようにやると、共有された色がついて、他のものがみえなくなってしまうことが多いのです。それをこわすのが、研究所の役割だと思っています。本来は、それは外でやってもらって、研究所は研究所にある濃い原色をとり入れてもらう方がよいのです。 

 

研究所でやる視野を世界に向けておかないと、研究所のなかで空回りしてしまうことになりやすいのです。研究所の窓から大きく世界をよみこむといっていますが、大きく世界へ向けて出していくことです。ここをはみ出した形で表現せず、ここのなかにしっかりとあてはまるのであれば、あてはまったところは、呼吸している人がみえ、それが前に出てくれば、どこでも通用します。そういう基本を徹底して考えなければいけないことだと思います。 

千住明さんという銀河鉄道の曲をつくっている人と、それを歌っている人を預かり、ソニーでのレコーディングにトレーナーと行ってきました。千住さんが、前には見えなかったものが、スピーカーとスピーカーの間にみえるようになったのはものすごい進歩だといいました。感覚的なものでプロの世界は進みます。フレーズの感覚とか音楽の感覚というのには精神的なものがあるのです。お母さんがオペラ歌手で恵まれている境遇で育っているので他の人よりも本人さえスピーカーの間にみえてきたら何とかなるかもしれません。ただし、それがあと2、3歩前に出るようになるには大変なのです。 

 

自分をわかった上で取り出すのです。まあ作曲家の人がそういう表現使うわけですから、音楽の分野にいる人は皆わかっていることなのです。しかし、日本では歌っている人にみえないことなのでいいたくなるのです。自分がどこにいるかわからないわけです。オリジナルのものなり個性なりがそこにあるのを表現にするためには、2、3歩、客の方によっていくのでなく、前に出てみえてこないとだめです。 

同じことが皆にもいえると思います。ある意味でいうと皆も、歌っています。音楽的な要素を使うため、声とか体とか使おうとしている割に表現が引いているということがあるので、そこは自分で学んでいくしかないと思うのです。そのヒントはスタジオに全てあると思います。 

 

 

 

 

【ステージ実習4】 

 

私は皆がそれぞれできることできないことが大体、わかっていますので、できないことをいってもしかたないし、まずはできるところのなかで充分にやっていけばよいと思っています。3の人にはいろいろいな面で、参考になったと思います。 

レーニングしていて一番よくないのは、結局、自分の思いがどこにあるのかを見失うことです。たかだか研究所のトレーニングくらいで足元をすくわれたり方向を見失ってしまうことは情けないのですが、何もない人にとっては、一時、ふりまわされてしまうような形になるのだと思います。いつも自分を出せばよいわけです。レッスンでは振り回されても、ここでは自分の場ですから、私がやめろとかケチをつけたりしません。もっとこわい客になるとそういうことも起こり得るでしょう。「やめろ」の一言でやめてしまうような歌なら、その人は最初から歌う人じゃありません。 

 

表現というのは、自由になるためにやっているわけで、あるいは自由を奪われないために日頃から磨いておくべきものです。ところが、それくらいで体が動かなくなったり心が動かなくなったりするのなら、東南アジアにでも行って、コツコツ半導体を組み立てるような会社に入って、「こんなに私を歯車のようにするなんて」いう思いでも強くして、もう一度、歌い始めた方がよいです。でも、そういう人はその会社のおかげでパンが食べられるようになった人がいることさえ想像できないのです。つまり根本の思索がありません。表現はそういう何らかの思いから始まるのですが、なかなか今は、その思いのたけが暮らないところから始めてしまうから難しいのでしょう。あとで理由がついてくる、それは悪いことではないのですが。 

 

発声は発声で大切です。声楽にもノウハフというのはあるでしょう。気づくためいろいろなメニューがあります。それに比べて日本のポップスで行われていることが貧困すぎるということです。ポップスでも昔の歌は作曲家の先生が教えていました。作曲家の先生というのは、自分でプロ歌手活やったあとに、曲をつくりはじめた人が多いので、ある程度、歌い手のプロセスがわかったのですが、そうでない人が最近、多くなり、歌い手を理解できる人が少なくなってきました。つまり、楽器出身の音楽プロデューサーは音づくりと音の調整から個をどうあてはめるかという立場でみているわけです。 

 

 

まず“歌はことば”が聞こえなくてはいけないのです。ことばで聞こえるということは、こちらから聞いてやれば、発音が悪いとか聞きづらいとかではないのです。ただ、ことばとしてこちらへとび込んできて、何をいっているのか伝わるということは、そこに相当の思いが入っていないと、伝わりません。 

だから、単純な判断でいうと、ボケーとしていても、投げつけられたことばにひきつけられる、ということです。それは、結その人の思いということです。その人が歌っている思いがことばに出てくる。そうすると、ことばがそのことばのままであるわけがないです。その人の思いが入りますから、いろいろな展開をしてくるわけです。だから、それをまず一つ、体で捉えておかなければいけない。 

 

だから、まったく、違うのは、こちらがことばをくんでやらないと、はっきりいってスーッと聞いていると、同じ曲を何人も歌っていても、いったい何をいったのかまったくわからないでしょう。歌詞カードを渡されて、読んでいるようなものではしかたがないわけです。歌い手がそこまで伝えないといけません。 

役者さんもそうですが、歌い手の場合だと、曲が3分くらいしかありませんから、そのなかで一つの世界をきちんと構築させて、おちをつけて、どういうことがいいたいのかということが伝わらなければ、歌のテーマが伝わらないわけです。テーマとは、歌の集約されたものです。 

 

確かに聞き方によっては、どこかのことばだけ聞こえたらよいとか、ここだけがいいたかったという曲もあります。 

課題にする曲は、あまり慣れていないものを使います。その人の感性に合ったり合わなかったりするかもしれません。しかし外国の曲に関しては、ある程度、世界で認められた曲が多いので、ことばがわからないにも関わらず、通じるところから入ります。そのことばの意味がわからなくとも伝わるのです。しかもその時代や国を超えて伝わっている要素とはいったい何なのだということを、とことん学ぶことです。どういう声があって、どういう構成になっているから、人の心にそれかきちんと伝わるのかを聞き込みます。 

 

 

原曲で聞いて、名曲のもつ、オリジナリティ性を知ります。人種や時代を超えたところで、人間のもともとある血に働かせる何かが、音の世界、音の世界のなかで伝わっている。その部分をくまないと、スタンダードなものに学ぶ意味がないです。それをくんで、その通りに歌えということではなく、そこから自分がオリジナルに組み替えていかないといけないのです。 

 

それは、ことばの世界だけではないのですが、結果として、ことばも聞こえなかったらしかたがありません。特に、日本語で歌った場合は、ことばは必要でしょう。外国で歌う場合は、最初に胸の内容をいわなければ、音の世界やリズムの世界で勝負しなければいけなくなります。楽器の世界で勝負しなくてはいけません。しかし、それも、当然、歌い手ならできるべきものであるはずなのです。 

ジャズであれ、ゴスペルであれ、他の国の人の胸を聞いているわけではありません。詞の思いを音楽的なところでの展開があって、両方から聞こえます。 

 

歌というものは、自分のなかでくんでいきますから、楽器よりも複雑だと思います。ただ、楽器は、決められた中で複雑で、同同じ曲を同じように弾いて、それでうまいへたが出てきます。しかし、日本の歌については、そこまでの音での判断というのはされていないでしょう。向こうは、皆が歌いますから、そこに音楽が宿っているプロとの違いとわかります。 

 

 

自分の曲で売れたという人もいます。スタンダードでいろんな人たちが同じ歌を歌うと、そこで音に対する感性とか感じ方とかが磨かれます。すぐれた者がよりすぐって残してきたもの、耳のすぐれた彼らが選んできたものを、日本人もきちんと理解しておくことでしょう。たぶん日本人が聞いたら、もっと違うところでよい歌い手もいたと思うのです。日本人の方が受けがよいアーティストや曲も参考になります。ただ、それでも向こうで選ばれている中には入っているわけで、あとはそのあたりになると好みの問題です。 

 

私のグループレッスンに出ても気づかないとわかってきません。できる人というのは気づくのですが、まわりをみて、それより自分はできていると思ってやめてしまったりする人もいるのです。できる人はできるから、そのことの価値というのがわかっています。大切なのは、最初に何点とれているかより、10点でも5点でもよいからそれを10点を20点にした体験と、そのプロセスでのやり方を知ることです。そしたら最初から30点できる人よりも、その先のやり方がわかっていくのです。本当に、そのくり返しです。積み重ねていくことです。そのあたりのできないことができるようになると、そこにノウハウが宿るのです。だから他の人の上達するプロセスをみられる研究所はまさにノウハウの宝庫です。 

 

でも最初からできていたつもりの人は、ノウハウのとり方がわからないから、あるとき、声がまったく出なくなったり、歌えなくなったりしてしまう人もいます。できないことができるようになってきた人は、他の人よりたくさんやることで、そのことを得たということで、そこに他人の超えるノウハウがつくのです。特に与えることのできるノウハウです。それが歌です。 

 

 

問題は明確になってこそ解決します。それを皆、人並みまではできるのだけれど、さらに上の問題をみつけるというのは、なかなかできないのです。目標は高くもてばよいといいますが、なかなか難しいようです。青い本をつくったのも、ノウハウをいくら述べても、わからない人にはわからないし、できたつもりでいる人には、本など一冊一週間で終わりましたと簡単に終わってしまうわけですが、そうではないことをわからせるには、そこをわかった人や、わからなくても取り組んでいる人のことばからみる方がわかりやすいということです。一流のプロの映像より学んでいる人の真実のことば(イメージを伝える)ものの方が過程としては使いやすいのです。 

「どうしたらできるのか」をトレーナーにきいても、「今にわかりますよ」といわれるのは教えてくれないのではなくて、そういう時期なのです。それは本当にやりながら自分でみつけるしかなくて、それが学び方なのです。 

たくさんの質問に答えるのはよいのですが、教えたつもりで説明すると、受けた人は、「あっ、そうですか」で安心してしまうわけです。「わかりました」とそこで解決したかのように思うのでしょう。それでよいかというと、安心した分、伸びなくなってしまうわけです。 

 

不安な人は自分で考えます。「このままではおかしくなるのでは」とか、「伸びないのはなぜか」と、そこで気づいて試していったものがあります。それは自分のものですから、自分のノウハウになります。ことばでもらわなければ、がんばる気になるのに、そこでせっかく気づくチャンスを、失ってしまうのです。だから、トレーナーのレベルを超せないのです。得るには、自分のことばになおして得ることです。そこでつくり出さなければだめです。それがすぐに曲でできるかというと、難しいのですが、それでもよいのです。 

声のなかだと、声が出て、これかと思えるのは、シンプルなことです。曲のなかというのは、感覚的なものです。フィットしたとかフィットしていないというのと同時に、そのときに何が問題点であって、どうやって解決するかというのがわからなくてはなりません。ねらいによっても違います。をやれば解決しそうにみえるのですが、そうでなくて、もっと原点の原点に戻らなければいけないのです。 

 

 

軽井沢の合宿でもミュージカルから原点に戻り声をギャーと出すくらいで終わっています。今年は座りにいきましょうか、寝ころびにいきましょうか、そこからやった方がよいでしょう。考えてみれば私も3年前くらいまでは海外は関西に行く感覚でいっていたのに、今は、ちょっと抵抗があります。また、3日間、違う環境に完全に身をおくこともなくなっているのです。東京に住んでいることが、すごく狭い中で押し詰められたもので、そこでうまく住めること自体がならされているということを恐れなければいけません。歌も音楽も同じです。慣らされてはなりません。 

 

 

 

 

【京都集中セミナー4  ステージ実習】 

 

リハーサルですから他の人の手前、あまり時間をかけてはいけないなど、気をつかってもらうことはありがたいのですが、与えられた3分というのはとても長い時間です。今の皆さんを見ても1人で2分もかかっていません。与えられた時間のなかでは、その人が主人公です。時間をオーバーすると迷惑ですが、そうでない場合はもう少しゆったりと堂々と自信を持ってやってください。 

 

その時間は、誰にも渡さない、譲らないくらいでよいでしょう。へたなカラオケでは、トトトトと出てきて、タタタタと逃げ帰ってしまうわけですが、そこできちんとした勝負をしないから、逃げ帰れるのです。

本当に覚悟を決めて歌い切ったら、すぐに動けないはずです。だから、信用できないのです。

「私のうたは、~です」ですぐ「ハイ」とはいれるわけがないでしょう。終ったときも「終った」「ハイッ」と離れられるわけがないでしょう。それは、何か勘違いしているのです。少なくとも自分をみせるステージではありません。 

 

何事も自分で注意しなくては直りません。それは、やっている人たちから見れば、あたりまえのことで、いうこともないのですが、いつも考えて下さい。たとえば客席側から見れば「スタンドマイクをどければよいのに」と思っても、ステージ側に立ってしまうと、その手が出ないということが出てきます。どうして手がでないのかというと、自分がそこの主人公になっていないからです。少なくとも、その時間とエリアを与えられたわけなのですから、自分が邪魔だと思ったらスタンドを動かせるはずです。そういうことを自分で決めて行動していくということを、日頃からしていないからです。ステージにはすべてが出ます。 

 

 

何にしようとやる側が迷っていたら、何も進みません。歌もこのフレーズにしよう、次はこのパターンにしようと、決めては進めていく。そのことによって、聞く人もついていく。全てがそうだとは、いいませんが、基本的にヴォーカルがリードする。お客さんに対して、ヴォーカルが行き先を示し、もっていかなければだめでしょう。終ってからでも同じです。 

 

歌ってすぐ引っ込むだけだと、お客さんはどうすればよいのかわかりません。礼で終わりを示さなければ拍手が起きてこないというのではしかたがないのですが、「拍手してくれ」といってもよいわけです。 

ステージでも、終わるのなら「終ります」「ありがとうございました」や「足元に気をつけて、お帰りください」などといわなければいけません。そうでなければ、相手は動けません。

それは、お金をもらうほうがやることのマナーです。舞台に行けばあたりまえのことなのです。

ヴォーカルというものを舞台に立つ人と考えなくてはいけません。ヴォーカルは一人舞台なのです。 

 

普通は使うマイクにはスイッチがありません。自分でそでに持ち帰ることが多いのですが、ここではこのままスタンドにおいて構いません。裏方さんが、歌うときにマイクをオンにしてくれます。出てきて、マイクのスイッチを探したりしないことです。そういうことは、前の人を見ているとわかるでしょう。

声を出しても、実際、音が出ないときには前に歌った人たちが切ってしまっている場合もあります。普通の場合は、スイッチがあってもテープが貼ってあり、スイッチは使わないのです。しかし、必ずしもそうでない場合もありますので、念頭に置いておいてください。 

 

 

歌に関しては、これだけスタンダードな歌になると、知っている人のあくの強さが出てきますので、それを除いてコメントをしておきます。コメントの内容というものは、個々に対しては、その個人がきっとわかるだろうというレベルでコメントしますので、全部を平等に扱っているコメントではないということを、あらかじめ断わっておきます。 

 

私は基本的に、人の評価は初めてやった人やまったくやったことのない人でも、精一杯できたらそれでよいとしています。逆に、2年、3年やっている人は、当然、評価は厳しくなってきます。以前にもっと歌えていたことがあるなら、それを最低限と基準をつけて評価すべきだと思っています。 

 

そういう意味で公平ではありません。私がよいというのは、その人の今までのなかで1番よいというものをよいといいます。いつもそれさえやってくれたらよいからです。他の人に比べて、よいとか、悪いとかは、関係ありません。その人のなかで昨年の自分より、よくなっていればよいのです。

最初のうちは、他の人と比べても仕方ありません。うまい人は、うまいし、へたな人はヘたです。問題は、昨年の自分よりもへただったら改めるべきですし、逆にへたな人であっても昨年の自分よりもうまくなっていたら、誇ればよいのです。伸びていればよいのです。 

 

 

ここは、トレーニングの場として許されていることがあります。その場で勝負しているステージでありながら、それだけではありません。それは将来、より大きくなるための何かをつかむ場所であるからです。 

ヴォーカルは主人公です。トレーニング大きな冒険や実験を期待しています。だか らといって、甘えてよいわけではありません 

 

まず、歌というものは、課題曲を使ってやる場合、課題曲として歌ってもしかたがないということです。ましてや、その曲を歌っている人を歌ってみてもしかたがないのです。やはり、自分のいいたいこと、伝えたいこと、歌をやる理由、歌で感じていること、音楽的な心のようなものをその歌を通じてどう出せるかです。

そうでないと、この4曲に関しては、全員でやってもまったく、おもしろくありません。この曲は私も知っています。4曲ともとてもすぐれたヴォーカリストのもので聞いています。その分、自分を出していかないとだめだということです。

 

以下、個別にコメントをつけます。 

 

1、入り方が唐突です。これは、全員にいえることですが、入り方がよかった人は、2人です。本当に少ないのです。そこから勝にはいっています。いろいろなやり方があってよいと思います。しかし、そこでため息をつくことはどうかと思いますが、前安がありませんから、どうしても自分の心がそういかないのなら、それなりに自分でつくり落ち着けることです。とにかく、自分でまず音楽にはいらないことには、発車してはいけません。 

 

皆さんは、前に出て1秒、2秒ではいっていますが、そこで10秒とることは問題でも、3秒、5秒取ることは、何の問題もありません。最悪10秒取っても、相当長いとお客さんも思うでしょうが、だからといってだめということではありません。そこでは、落ち着くことです。 

 

全体的に入り方が唐突です。自分の呼吸よりも早くはいってしまっています。お客さんが「まだ」と思うくらいではいった方が、後でカバーできる自信のある人はよいでしょう。だいたい、お客さんが聞く鮭勢になっていないのに、歌うのは捐です。こうやって抱えていて、何もいわなかったら、聞く気になるでしょう。それをつくるのを呼吸といいます。まわっていることは、とても大切です。特にこの曲の場合は、間爽がはいりませんから、自分がスタートを切らなければいけません。 

 

語尾が引っかかりました。2コーラス目のはいり方のところで、特に1コーラスから2コーラス目にかけてです。1コーラス目は、高いテンションで終って、2コーラス目は高いテンションで始まる。こういう場合の問は開けてはだめです。開けないほうがよいでしょう。呼吸の早さが、次のテンションを決めます。計算したのか、偶然そうなったのか、力尽きたのかわかりませんが、2コーラス目から3コーラス目のときには、かなりゆっくりと低めにはいったのですが、こういう場合は、逆にいうと呼吸をゆっくりにすることで、次を落ちつけます。 

 

歌い手というものは、常にこっちに行くという方向を示さなければだめですし、それを守ってやる分には、お客さんは気持ちがよいのです。その居心地のよさがリピートフレイングです。それとともに、どこかで裏切らないといけません。全てをその通り歌ってしまったら、最初から見えてしまいます。もし計算して、こういったことを1~2、2~3の間でつけることはよいと思います。

ただ、そのときの呼吸がゆっくりなのに、早く出てしまったり、そのときの呼吸を早くしていて、そのまま変わらないのに、ゆっくりはいろうというのは、人間の生理的におかしくなります。よって、声は伝わっても、呼吸や、人間の動きからくる違和感のようなものを、お客さんが感じて、結果として伝わらなくなってしまいます。 

 

展開を変えるには、自分の体を変えなければいけません。頭でやってもしかたがないのです。その気になれば、体はそう動きます。体に素直になればよいのです。ところが、舞台では動きが取れなくなってくると難しくなります。そこで体の動きでカバーするのです。 

 

皆、1コーラス目は、だいたいよいのですが、2コーラス目、3コーラス目になると、1コーラス目で維持できたその器が守れなくなってきて、だんだん表現力が小さくなってしまいます。 

3コーラス歌うときには、10コーラスくらい歌うくらいのつもりでやらなければだめです。上り坂で終らないといけません。1コーラス歌って安心してしまうようでは、2コーラス目、3コーラス目は歌わないほうがよいのです。3コーラス歌うということは、大変なことです。歌うなということではありません。 

 

歌うのだったら、1コーラス目に自分はこうだということを名乗って、2コーラス目で歌はこうもっていく、3コーラス目でここまでできるのだ、あるいは、本当はもっとできるのに、と期待を抱かせてやめとくくらいで終らないとお客さんのなかで消費されてしまいます。次へ期待をつなげるのが、プロです。 

そうでないとまた、1回目でやったことを、2回、3回繰り返すのかと思われます。

 

歌には、なぜ3コーラスあったり、2コーラスあったりするのかということを、もっと考えないといけません。その曲が、何で2コーラスになっているのか。外国の曲、日本の曲によっては、同じ曲でも違うこともあります。歌詞の理由からもありますが、やはり、曲のつくりと、4コーラスでも、2コーラスでもよいけど、3コーラスでやめたという理由があるのです。そのくらいのものは、自分の体で感じてこなければ、です。

自分で2コーラスだと思ったら、2コーラスにしなければだめです。3コーラスでは、たるんでしまう。自分のテンションでもってこられないというのだったら、それはあなたにとって2コーラスの作品なのです。 

 

 

2、入り方が問題です。リズムも刻んでおいた方がよいと思います。リズムも跳ねて歌えとはいいませんが、左右には動けるだけでなく、前後や上下の動きを余裕としてもたなければいけません。日本人は何かを伝えようとしても横か後ろに下がりますが、外国人は上に前に飛び出します。ビジュアル的な効果もあります。日本人にはない感覚でステッピングも上下感覚のバネが必要です。 

 

流れと展開も気にかかりました。誓いたいところとつなぐところを分けで、どこがいいたいのかというところを決めた方がよいです。全部いいたいのだ、全部いってやるという姿勢は必要だとは思いますが。 

いいたいところをより引き立つようにするのです。つなぐところは、マイナスにしなければよいのです。そのくらいでパワーがなくなってしまったらしかたないのですが、中途半端に全部いっても、パワーを無駄に使ってしまうだけです。伝える効果を考えることです。 

 

そのためにもきちんと対照させていってください。いった、休んだ、強くいった、弱くいったのように、メリハリとその流れをとっていくことです。たとえば、「so sweet」のようなところは、もっともていねいにやらないと意味がありません。弱めた、弱くいった、やさしくいっただけでは何も伝わりません。そこは感覚が違うところです。自分の感覚が違うように捉えなければそうならないでしょう。他のところを強く出しているのに対し、もっとていねいにやらないと対照性、メリハリがつきません。 

 

 

3、コミュニケーションでの問題があります。少し動いてみればよいと思います。これは、今日、明日で勉強しろということではありません。日頃動かないで、いきなり今日から動こうといっても無理でしょう。歌を聞きながら体を動かし覚えていってください。むやみに動けばよいという話ではありません。自然に動くように覚えてください。自分で動きを固定しない方がよいと思います。歌の流れを殺してしまいます。 

 

語尾まできちんと勢いをキープさせることです。いつもいっていますが、5つのことをいおうとしたら、10個のことをいおうと思ってやらなければいけませんし、5秒伸ばそうとしたら、10秒伸ばせるところで、5秒伸ばさなくてはいけません。5秒伸ばしたいと思って、5秒伸ばすと、3秒目くらいから体が引いていきます。弱くなってテンションをキープできません。ロングトーンなどの練習で、日頃鍛えておかなければいけないところです。 

 

アクやクセは、つけるのをやめた方がよい人も多いのですが、こういう場合は、もっとアクやクセをつけて強く出していったほうがよいです。特に今回、同じような歌、流れがちな歌が多いのですから、そのポイントを自分で捉えてください。それはかなり強調して出しても、そこくらいしか聞いてもらえないくらいに思ったほうがよいかもしれません。特におとなしい歌、柔らかい歌はそういうことです。 

 

 

5、この歌は難しいので、ばたばたしないことです。先ほど、映像を見せましたが、繊細でも大きなスケールで歌っていました。やはり、肝心なところで止まらなければだめです。Yesterdayは、過ぎた日だからというわけではありませんが、その世界にはいってきちんと落ち着いて、拾い集めてきて、それを見せていくというくらいの余裕というのか、大きさをもって捉えないと、ばたばたしてぎゃーぎゃーいって終ってしまうだけになります。

曲自体がスケールの大きな曲ですから、提示するポイントに焦点を絞らないと収まりきれなくなります。やっかいなときは、短縮するなり、サビの部分を変えるなり、自分の感覚で構成を工夫してみください。このくらいのフレーズに挑戦すれば、いろいろなことがわかってよいとは思います。 

 

 

6、リズム、音感の問題を、自分なりにとらえましょう。レイ・チャールズは、どういういうふうにやったでしょう。あのなかに、彼に叩き込まれているリズムや音感が出ているのです。どうしても、サザンオールスターズの桑田さんのほうが、私たちの頭にもはいっていてコピーしやすく、そのクセにいってしまいますが、それは、最小限に抑えたほうがよいと思います。ユーミンの曲も、そこで比べられて聞かれてしまうのは1番損なのです。どれだけ似ていないかということで、へたに思われてしまいます。

 

そういう路線を最初にひかないことです。ものまね大会ではありません。仮に、ものまね大会であったら、ますます似ている人のほうが強いのですから、もっと似せなけ ればいけない。最初からそういうものとは、違う世界なのだということを出だしのところで引っぱっていかない限り、マイナスしか出てきません。 

 

きれいな声で歌っている人によくいうのですが、一見よいのだけれど、何も出てなければその声を完璧にしない限り、マイナスのところが1ヶ所でもあったら、失敗したと思われておしまいです。そこで勝負できなくもないのですが、その勝負のなかではとても強く感性豊かに勝負している人がいますから、そういう人たちと争わなくてはいけません。まして、バックのバンドで支えられていたり、作詞、作曲で支えられている人も多いのです。自分の曲をその人自身が歌っているのですから、誰も文句はつけません。そういう部分も全部消してみて、その人並みに歌えたからといっても、何も出ていないに等しいのです。 

 

いとしのエリー」も「卒業写真」も自分なりに構成にメリハリをつけていくということです。それぞれの箇所、それぞれの場所、それぞれのことば、音、全てそれぞれの役割があります。なぜ強いか、なぜ弱いか、どうつなぐのか、エンディングを強くするなら強くするでよいのですが、そのエンディングの理由がそれまでにきちんと示されていなければ、単にそれだけが出てきたら、その理由がわからないので唐突なものにしか見えません。そこだけ切り離されて見えてしまいます。そのエンディングを使えるように、そのエンディングまでもってくるプロセスをきちんと練りこんでいかないと難しいでしょう。 足りないところを、時間がある限りやってください。トータルでエンディングを考え直すとか、いろいろなことをやってみてくださいということです。 

 

 

7、これも、入り方が問題です。慌てているような感じがします。止め方が、どうしても雑になってしまうのです。後半は、フレーズを大きくとっていきましたが、フレーズを大きくとっていけばとっていくほど、こういう歌に関しては、リズムの刻みが気になってきます。それが雑になって遅れていくと、どうしてもフレーズを声で引っぱっていく分だけ、その辺が雑になってしまうのです。そういう場合は楽譜に戻ることです。楽譜でそのところのリズムをきちんと打って、きちんといれて、その上でフレーズで流しておかないとフレーズの大きさで流れてしまいます。 

 

声が出ていることはよいのですが、何か違うのは、何かストレートに伝わらないものがそこに入ってしまうからです。いつもいっていることなのですが、空間時間を働かせというのは、ここでやっている自分、歌っている自分なんて、しょせん、演じているだけ、演じるためのものです。ヴォーカリストも歌っているように生きているわけではありません。それをやっている自分を、こういうふうにいっている自分をコントロールする自分が後ろにいて、やらなければいけないのは、その後ろにいる自分がどういうふうに空間や時間を動かしたいのかということです。そうかといって、二重の感覚でステージに立つわけでもありません。これが一つになってみえることがリアリティです。そうでないと一人よがりに流されてしまいます。 

 

それも一つの基準です。その距離をきちんと取るということです。おてんとう様か神様が何かをコントロールしていて、それが自分で媒介している。声も、音楽もそう だと思います。あまり難しいことをいうのも何ですが、慌てる必要はないということです。もっと空間や時間を奥深いところで捉えなければいけません。先ほどの人もそうですが、口先で歌っているのではありません。日先のものを、自分の声や自分の感党にあるものを、どこかもう一つ奥行きのあるところでコントロールしているということです。 

 

 

8、音の流れをもつことです。歌になるところと流れです。先ほどいった通り、最初はきちんとわけたほうがよいと思います。ここが歌いたくて、ここを歌にするのだというところと、それにもってくる流れ、そこから降りてくるところとを感じ分けることです。音は変えたのか、とれなかったのか、まだ練り込んでないのだと思いますが、もし変えるのであれば、ある程度コードの展開や全体の流れを踏まえて変化させないと、一番大切な音楽が止まってしまいます。そこで違和感を感じさせてはだめです。 

 

どんなふうにつくっても構いません。この曲の通り歌わなくても、よいのです。もっとよいものを出してもらえばよいのです。ただ、一番よいところを踏んだ上で、何かがまんできないところを変えるのであれば、そうしたのだと見えるようにしなければいけません。変えるということは、理由がいるのです。その理由もきちんと歌のなかで示さなければいけません。自分は、そういうふうに感じたし、こういう音を出したかったから、この音をどうしても半音下げたのだと納得できれば、とても心地よいものに聞こえます。 

 

音が外れているのは番外ですが、もし、変えるのであればそういうことで許されるのです。高いところはでないし、高いところでやってしまうと、声の質量などが落ちてしまう。だから、キイを上げないということでも、理由としてはよいのです。表現として、自分の持てる力のなかで最大に見せられるところにもっていければよいのです。 

間違っていけないことは、高いところを出せば、皆が感心して聞いたり、びっくりするということではなく、質感や完成度の方です。高いところを歌う必要もなければ、音域をとらなくても1オクターブのなかで、あるいは、下げて低いところだけできちんとおさえていても、その人がコントロールしていたら、それは作品として成り立つのです。歌は、音域のとりっこ、声量の出しっこではありません。 

 

ただ、誰もまともに歌を歌えないときには、声量が出た人や、高いところが出た人が印象が残るかもしれませんが、そうではないのです。それではほとんどうるさくて聞かなくなります。 

表現は、裏づけられていないといけません。そうでないと形だけになってしまいます。この方の場合も、1コーラス、2コーラスどうあるのか。なぜ、1コーラスで終るべき歌を2コーラス目も歌うのか、というようなことも考えて、もう一度捉え直してくるとよいと思います。 

 

 

9、全体的に通ずる注意になってしまいますが、体と心を前にしっかりと投げ出さなければ、通用しません。自分のなかで歌おう、そのなかでまとめようとしている限り、歌の大きさは出てきません。歌というものは、自分のものであっても、独立した作品なのです。自分がもっと大きくして、前に投げ出して歌っていかないといけません。それにもたれかけてはいけません。べったりしていてもいけません。きちんと捉えて、前に投げるということです。全体的に流れている気がします。

両方ともとりやすい分、流れやすいです。流れているところに関しては、つかみ直しをしなければいけません。1つひとつのことばに、きちんと自分の息吹をいれてやっていくということです。フレーズその後の音程、音の落とし方が全体の流れか らいうと、気になりました。 

 

 

10、目を閉じて歌ってもよいのですが、基本的には、アイキャッチは重要です。1回お客さんを捉えておいたほうがよいと思い.ます。普通のステージでしたら、前に立ったときにニコッと笑って始めます。悲しい歌を歌ってみても、一応歌い終ったら一瞬おいて、ニコッとするというのがベースで、その上でいろいろと変えることはよいのです。しかし自分のなかだけに入っていくと、お客さんのところに出てきません。 

目を閉じたければ閉じてよいのですが、閉じたいのなら、最初にきちんと開けておくことです。お客さんとアイキャッチを普通のとき以上に交わせてから閉じないと、コミュニケーションを拒否しているように思われかねません。後ろを向いて歌うことも、下を向いて歌うこともそうです。これは、悪いことではありません。悪いことではありませんが、そうする理由が必要なのです。納得させないなら不快なだけです。 

 

自分がどうしてもそうしたかったら、そう感じさせなければ、ただのヘボ芝居ということになってしまいます。舞台というものは、リアリティが必要です。お客さんに対して開かれていなければいけないものですから、自分のなかでクローズしてしまったらいけません。くどく場であり、くどかれる場ではありません。目を開かなければいけません。君いたいことをきちんと目を伝えなければいけません。目は、とても強い力を持ちますので、それをクローズしてしまう分、何かで、相当伝えなければいけないというくらい大変なことだと思うべきです。あとは、フレーズのまとまりが少し気になりました。 

 

 

11、今の時点では、まだフレーズにとらわれすぎています。こういう歌い方では、観客をのめません。昔に比べたら、いろいろな面できちんと歌をつくってきた人と思いますが、それを誰がまねてみても、彼女にはなりません。衣装を考えたり、照明や音響のことをショーとして考えないと難しいでしょう。 

何が足りないかといったら、やはり潔さです。それがないから、破れてきません。その分インパクトがなくなります。これは、この曲、歌のことです。そこからフレーズの後半までのものをきちんと保とうとすると、逆に難しくなります。フレーズの後半が乱れています。つまり、ペース配分に問題があります。 

 

これは、次の人にもいえますが、基本的形は考えられているし、計算されているのは見えます。他の構成のない人に比べ、構成という存在を知っているので、それを知っていないのか、みえないという人に比べたら、構成があるというだけでも他の人に勉強してもらいたいところです。 

ただ、この構成が裏目に出ています。その裏目に出たところは、元に戻せとはいいませんが、どうしてそうしたのかという理由をきちんとそこにつけ、もっと正していくことです。右に3センチ、左に3センチ行くような構成というのは、イメージの部分では右に30センチ、左に30センチくらい行ったぐらい大きなこと、3歩上の方にあがってみたということは、イメージのなかでは10歩以上、上にあがっていなければいけません。イマジネーションの世界で、その構をもっと大きくしていくことです。そしたらどこに無理があるのかわかります。 

 

曲の構成が、そういう力で支えられていないと意味がありません。声量も当人が10出しているイメージをもって、絞り込んで3出していたら、お客さんには、10に聞こえるのです。ところが1のイメージくらいしか出していなくて、3の声を張り上げていたら、うるさいだけで何も聞こえてこないのです。イメージの問題は大きいのです。要は、3を伝えたいのだけれども、10の内の7を伝えている。見えないところを伝えていると思ったほうがよいです。イメージを伝えるのです。 

 

イマジネーションを持つことは、大切です。イメージにはいれないことが失敗です。イメージにはいれたときは、声の問題というものは、少々出なかろうが、音程がとれなかろうが、そんなことで失敗は起きません。テンションやモチベートをいつも高めておかないと、そのときにぱっと切り替えイメージにはいれないから、日頃からやっておかないと難しいです。やや止まっているという印象がありました。しかしこれは、これで1つの世界ですから、もっと練り込んでいくとよいと思います。 

 

 

13、最後まで聞いてみたら、最初のフレーズが早すぎると思います。テンポのことではなく、心持ちでの感覚のことです。あっさりすぎます。そういう部分で、もっと粘りが欲しいです。歌の注意としては、サビの後の落し込みの引っかかりを整理した方がよいでしょう。サビ前の呼吸のとり方も整理したほうがよいと思います。整理といわれても、何をどうすればよいのかと思うでしょうが、この辺はイメージの問題です。ことばにすればするほど、誤解になるので、私がそう感じたと思ってください。 

 

サビあとの落とし込みの引っかかり、呼吸、サビ前の呼吸のとり方、最後に持ってくるところの大きさ、ピークが課題です。こういう曲のつくりをしたときには、そこに全部集めていきます。まだこの先ピークがあるとやってもってきたときに、最後のピークで一瞬ピタッと止まらない限り、せっかくそこまでやったことが全部無駄になってしまいます。ある意味でいうと、体や声がある人たちには、どんな歌でもそう思っていたらそのようになって、何か与えられるという1つの典型パターンの歌い方です。逆にいうと、油断すると失敗してしまう。こういうものの練習は、一瞬をピタッと止めることを徹底して7割方やっておいて、そこにもっていくところを3割くらいやっておくというようなことで、配分を変えて練習しましょう。 

 

たとえば「悲しいことがあると」だとしたら、これに対して、悲しい表情をするわけでも、悲しい気持ちになるのではなく「悲しいことがあると」を乾いた空気で伝えたいとかいうのはよい。しかし、この後のことを考えたら、ここはこういうふうなことを音で雰囲気を、まず、醸し出したい、そのベースの上にこういう色を重ねていきたいというようなことくらい考えていかないと「悲しいこと」が一体、何であるか伝わりません。それがどういうふうに展開しても、歌での開ではありません。ヴォーカルですからそんなこと考えなくても音 楽になっていればよいのですが、でも、考えたほうがよいと思います。曲も構成も、ことばも1つ1つ考えるのです。 

 

ことばが古すぎて自分で実感がわかない、それを歌っていたら、緊張が途切れるとしたら、ことばそのものを探して変えなければいけない場合もあるでしょう。ことばくらいでは、びくともしない、何がついていても音の世界でもっていくのだといったら、別に古いことばでももっていけるでしょう。そういうことを全部自分で選んで、決定していくというプロセスを踏んでください。 

 

(後半のコメントでいわなければいけないことの半分はこれまでと重なると思いますので、追加したことだけを加えておきます。) 

 

 

 

これから一晩、ありますので、じっくりとやってください。ただ、楽器を壊さないようにしてください。一晩辣習して、声が出ないでは困ります。声が出ないことには、何も伝えられません。日頃の自分を知って、何に力をいれるのか考えてください。寝不足も、食べないのもよくありません。それだけ高いテンションで、たとえばオリンピックの入場式で明日、歌わなければいけないと考えてみたらよいのではないでしょうか。そのような緊張を常に背負わないといけません。 

 

このスペースはステージとは違うと思う人もいますが、研究所では、ここまでの条件が揃うと、ほぼステージです。あとは個人の能力次第ということになります。ピアニストがつく、つかないということはありますが、ほとんど、ヴォーカルが持つべき条件の半分以上は整っています。マイクがないと不利な人もいますし、歌によっては、マイクなしでは冴えない場合もあります。マイクの使い方というのは、ポップスの場合は、とても大きな条件です。 

 

今日は、マイクをスタンドに置きました。普通の場合は、アシスタントの人がいて、その人に渡して、次に出てくる人は、もう1本マイクがあって、次の次の番の人に渡すわけです。また、だいたい袖から出て、お客さん側を通っていき、引っ込む人が裏側を通ります。マイクを渡す場合、引っ込むときにお客さんの手にあるマイクを出てくる人たちに渡します。スタンドに立てることは、ないでしょう。誰かに渡すか、自分で持ち返っていくのです。マイクの持ち方でスピーカーから聞こえてくる自分の音を聞いて、調整しなければいけません。 

 

これから始めるのですが、いきなり始めると今までの経験からいっても、慣れるまで、だいたい乗らなくて、誰かのところで何とか始まるということが多いです。その時間を私がつぶし、馴れさせています。 

 

 

今日は、16番目で前半終了です。前半多めに、後半を少なめにします。後半がもたつくと聞いているほうが集中力を欠かす場合が多いからです。直前になってトイレに行きたいとか、具合が悪くなったりしたら、外に出るのは構いません。昨日は、マイクをマイクスタンドに返しましたが、今日は直接手渡しの形をとります。

次の人は、ここは袖がないので、後ろで控えるようにしてください。

入れ替えは、1番目の人が歌っているときに2番目の人が後ろにいるというようにします。1番目の人と2番目の人が交代するときに3番目の人も後ろにいくということです。歌い手の方は、若干その時間を計ってください。場がばたばたとなっているときには歌い出さなくても結構です。 

 

アカペラですから、誰もスタートをかけてくれません。自分で落ち着いたというところで、始めて構いません。そこで、急いで入り損ねたり、入っても、まわりが、がたがたなっていると、歌いにくくなります。16曲の後には、休憩をとります。 

スイッチは触れないでください。カラオケをやっている人は、クセで切ってしまう場合もあります。もし自分が歌い出したときにスイッチがはいっていなければ入れてください。このくらいのスペースですから、マイクなしで歌っても構いません。 

音響に関しては、最低限の調整しかしません。エコーも効かせないので自分のなかで聞いて大きすぎると感じても小さくする必要はありません。マイクとの距離で調整してください。 

コードがこちら側から出ていますので、基本的には、左側通行でやってください。ここは固い場ではありません。ただ、現場の舞台に行くと、そのことで頭が一杯になるくらい、いろいろといわれることもあります。

 

 

歌に対して、コメントはつけるかもしれませんが、一所懸命やったものに対しては、それをどうこういってもしかたありません。大切なことは、そこまでやることです。それを踏まえて、自分でどう気づいていくかです。 

出演者であるため、他の人の曲は落ち着いて聞けない人もいます。一人で練習しているのではなく、こういう場に来ているということは、そこから学ぶためです。他の人の練習を見て4曲ともだいたい覚えたと思います。一体何が差なのかということ、そこの人の武器、味になるものは何なのかということを考えてください。 

 

自分を知るということは、一番難しいことです。思い込んで、こうだと思ったら、1年、2年、もしかしたら何年も動かなくなるような場合もあります。他人をきちんと評価し、知ることによって、早く自分に気づき変えることができるようになります。 

自分が歌う歌を、他の人がどのように徴っていたかはとても参考になります。思った通りに歌ってください。ライブの流れであれば、流れに乗って歌うことが、本当は一番楽なのです。そして流れが悪いときには、自分が切らなければいけません。これもあたりまえのことですが、途中でだらだらしてきたら、少しパンチを利かせたり、リズムをテンポアップさせたりしなければいけません。 

 

でも、今日は自分のステージですから、全体での成功を考えずに自分に与えられた時間を生かしてください。基本的に、先生がいるからどうこうということではなく、自分で考え、自分で判断し、その上で考えていってください。 

 

研究所の場というものは、研究所があって、研究している生徒を実験しているというわけではありません。私の立場であれば、そうですが、皆さんの立場であれば、逆に研究所をどのくらい利用できるかということです。研究所のレベルは、そこにどんな人がいても、そんなことで左右されたら、よくありません。そのなかで一番取れるものを、ここにいる時間は、最大限にとっていく。そうでもなければ、自分であるいは他のところでやればよいのです。取ることというのは、そんなに簡単なことではありません。 

 

正しく行く方向をもって人にきちんと与えていくことです。人に与えなければ、その活動は成り立ちません。ステージをやることは悪いことではありません。どんどん、人が来なくなるか、どんどん膨れていくかです。 

間違えてはいけないことは、何を元に成り立っている場であるのかということです。その人の性格のよさ、あるいは、コミュニケーションの取り方のよさで客は集まる場合が多いのでしょう。

 

だいたい、50人まではそんなものでやれます。東京でも、一声50人100人は集まりますが、そんなものは、ある意味、内輪のものでしかありません。きちんと活動できている人というのは、それを超えること、他の空間そして時間に広がっていくのです。そうでないのは、結局、身内のなかでやっているものです。それが別に悪いことではありません。

 

どんなお客さんであれ、親しくなれば身内です。ただ、もし、本当の音楽や歌ということでやっていくのであれば、時間も空間も超えていくものでしょう。そういう歌い手は才能が違うのだということよりも、そういう歌い手は、歌をそうやって捉えてきたからそうなったと思ったほうがよいと思います。イマジネーションが大きくものをいう世界です。感覚だけでやっていく世界です。それを磨かなくてどうするのでしょう。