一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン 27394字 933

レッスン  933

 

ーー

 

トレーナー特別レッスンとQ&A

とりくみ入、1

 

 

ーー

 

【トレーナー特別レッスンとQ&A】

 

Q.どういう理由で音楽の道に入っていったのですか。

 

私は小さいときから歌っていました。自分の知らない頃から歌っていて、それで大人になってもそのようになってしまいましたね。でも小さいときはそれ以外にも夢はありました。夢はあればあるだけ自分の引き出しが広がると思います。

 

私から皆さんに質問があります。

あなたはなぜ歌っていますか。

 

なぜこのような質問をしたと思いますか。自分がなぜ歌っているのかわからなければ歌を歌っていることは難しいと思います。自分がなぜ歌っているかということが分かっていれば、もっとフォーカスできる。もちろん歌っていく中で、歌が好きだから歌っていって見つけていく人もいます。でも最初から持っていたほうがやはり有利でしょう。それは私のアドバイスです。

 

だから漠然的ではなくて、できるだけ具体的に自分はなぜ歌いたいかを考える。

たとえば、楽しいということは、本当に素晴しいダイレクトなものですね。また、あの人のように表現したいという理由があるとします。ではなぜ表現したいのか、なぜ楽しいのかということを次に考えてください。

 

人間は目標に向かっていくときに、目標というものがしっかりしていないと道に迷ってしまいます。目標をそのときそのときに応じて発展させていく。

「このときはこんなこと考えながら歌っていたのだ」と別の自分を感じても、最終的に何かつながっていくものがあると思います。

 

だから自分が歌っていくための「なぜ」というものがない人は、教えるほうも教えづらいし、聞き手も何か伝わってこないでしょう。なぜここに立って歌っているのかがわからなければ、聞き手も苦しいですね。結局聞き手を楽しませるということもヴォーカリストの必要条件ですからね。

 

一言でもいいので自分で、フォーカスできるクリアな目標を探してください。今の自分の持っているものは、必ず未来の自分の持っているものの一部になるはずです。だからしっかりと、できるだけ明るい目標がいいですね。今まで私が生きてきた中で、歌で明るさがないということはなかったです。だから明るい理由を持っています。

 

 

Q.あなたは自分の声を知っているでしょうか。

 

あなたは自分の声を知っているでしょうか。

自分の声を説明できる人。皆、今ここで発声を習っていて、声を出すために自分の体をどのように使うかということは今、皆がよく知っている。でも自分の声自体について知っているでしょうか。

発声のときではなく、歌を歌うときにどういう声を出していますか。

 

 

Q.今の自分の声が好きな人。では、自分の声が嫌いな人。

 

自分の声が嫌いな人は、まず自分の声を愛せるようにならなければいけませんね。

自分の声が好きではないシンガーなどいないです。それは自分の顔を知らないモデルと同じです。だから私は自分の声を愛せない人には歌ってほしくないです。でも歌いたいのだから、愛せばいいのです。

自分が嫌いなのに歌うなんて自然じゃないでしょう。それだけ乗り越えなければいけないことやつまずくことが多いだけです。苦しいだけです。そんなにまでしてなぜ歌わなければならないのかと思います。

 

自分の声を愛することは、特に日本では難しいです。

この環境というのは自分の声を愛していく環境でないときが多い。私はずっと歌をやってきて、両親に「まだ音楽をやっているのか、早くやめなさい」などといわれました。教えるようになっても、それが職業にも関わらずそのようにいわれました。最近でもまだ「大していいこともないくせに」とかいわれます。でも、それは人の意見でしょう。

 

アメリカに行ったら私のまわりのおばちゃんは皆、私の声が好きです。

「いい声だね」といってくれます。なぜでしょう。彼等は声に対して耳が開いているからです。日本だと、特に音楽に疎い人は、声というものを知らないのです。

自分の声が嫌いだというところから判断すると、皆も知っていないかも知れないですね。

 

 

声というものは一人ひとり違います。神様が一人ひとりに与えたものだから違うに決まっています。自分がまず、それを愛しであげることから始めてください。

私は「ヴォイス・オーバー」というコマーシャルやラジオで流す声だけのオーディションに行ったことがあります。それは通らなかったのですが、オーディションが終わった後にアメリカ人のディレクターが「あなたの声はいいから」と、わざわざいいに来てくれました。そのときに、あぁ私は人から聞いてもいい声だったのだ、私は正しかったのだと思いました。

 

日本では、私自身はいい声だと思っているのに、まわりの人にけなされて、私はいい声に聞こえないのかな、こんなにいい声なのにと思っていました。それがアメリカに行って、自分が正しいということがわかるきっかけになりました。証明されたわけです。

まわりの人にジャッジされるのはまったく関係ないのです。どんな世界でもそうですよね。まわりの人が「こんなの下手だよ」といっても、自分がうまいと思っていればうまいのです。そこで度を超えてしまうとアブない人になりますけれど。

 

でもやっぱり自分のめざしていくものに自分がポジティブにならないといけないと思います。自分がいいと思っているものは、人もいいと思ってくれます。自分が情けないと思っていたら誰かが必ずあなたにいいます。

「情けなかったね」と。この曲は自信がなかった。そのまま自信なげに歌ったら、友達は特に鋭い。ステージが終わった後で「あの歌はまだ練習足りなかったでしょう」と、特に鋭い友は必ずいいます。自分がこれだけの練習しかできなくて頼りなげだけど、全部自信を持って精一杯歌えば「楽しかった、あの歌が一番よかった」といってくれるはずです。

 

 

だから、まず、自分がいい耳になって声に対して開いていること。自分自身も勿論、これはこういう声で、いい声なのだというのを知ること。それから他の人のいい声も聞く。あの人の声は世間一般の常識から見たらすごく変な声だけど私はあの声がいい声だと思う、なぜか。私は逆に対して耳が開いているからだ。そういうことですね。まわりの人をも巻き込んで自分の声を愛させるくらいまでポジティブになってほしいです。それがトレーニングをしているとき以外にあなたの声を育てる唯一の方法です。

 

あなたは一日30分スタジオに入って発声練習をして、それだけで声が育つと思っているかもしれない。それだけでも育ちますよ。でもやっぱり自分の気持ちを常に持っていることによって、かなり効果的に声が育ちます。声だけではなくてその他にいろいろなものがプラスされてモータブルに育っていきます。本当は自分はどういう声かということは、言葉では説明できないものです。でも、人にいえる何かを持ってほしいと思います。

 

プロデューサーにテープを渡すときに「私はこういう声です」ということいえれば、そういう声を求めていたといわれるかもしれない。一言加えられただけで、そこで道が開けるかもしれない。そこで残念ながらそういう声は求めていないよといわれれば、別に他を探せばいいだけのことです。

 

 

 

【とりくみ 入、1】

 

 

最近は、他の先生がいろいろと具体的なことをやっているので、私の役割は、全体的な位置づけや調整と、それをどうすればより吸収できるかということになりつつあります。昔に比べて劣っているのは、来る人のなかに、トレーニングをやるという必要性が強くないこと。求めないものは入りませんし、入っていないものは出てきません。そこで評価暇がいるのです。何事も必異性のあるところまでしか身につきません。それがはっきりとしていれば、あまり心配することはないのです。しかし、多くの人はそこまでを2年でつくっていかないといけません。すぐれているものと、そうでないものを知っていかないといけません。

 

ここでは、会報を始め、多くのことばを使っていますが、ことばは何かを気づかせるためのキーワードでしかありません。私がこの時間に使ったことばは、この時間のある時点の何かに対してであって全てではないのです。必ずある条件下に置かれています。ある条件下におかれるということは、知識と同じです。このことばが相手に伝わるということは、それだけ古くなっているのです。

 

たとえば、私がいうことばが全部わかるというようなことであれば、ここで2年間なりやってきた人が、自分のなかで定義付けができているということです。定義にそって使われている。ですから、こんなに古いものはないのです。

皆さんの場合は、まだ、大してお付き合いがありませんから、新鮮だとか、訳がわからない、何をメモっていいのかわからないと思うかもしれません。それでよいのです。所詮、ことばはそんなものです。アテンダンスシートなどを書いてもらうのも、何をつかむための努力かというと、キーワードを写すのでなく、そのキーの下に内容がなければいけないのであり、それを自分でつくるということです。気づくためのことばも、あなたが感じている状態がなければ、無意味です。ことばが一人歩きすると深まっていきます。そこの部分を実感してください。

 

 

要は、感覚の世界です。ここで最初に学ぶことは、感覚をプロにして、それに対応できる体をつくるということです。感覚というのはすぐれている、すぐれていないことに対して、ここの時点でいうと正しく判断する力ということになります。判断力は、ことばで出せます。

たとえば「これはよい」「これはわるい」「これは、何かひかれる」と、ことばで出した瞬間から、それは判断していることになります。ことばで区切っているのです。山と平野は分かれていません。人間が、山、平野とことばで区別して、そういわれると、山が山に、平野が平野に見えるのです。大学や学校で習っている知識は理屈の方向に行きます。これを働かせてやっていく分野ではありません。本でも会報でもたくさん読めといっているのは、あくまで、知識を捨てるために、固定概念を破くためにやっていくことです。ちょっと、もの知りの人のことばに左右されないためにです。

 

新しいことをつくっていかなければいけません。そのために、古いことを知らなくては、何が新しいものかもわかりません。思ったより、ここで終わる人が多いのです。歌い手というのは、思い込みのなかでやらなければいけませんので、自分の固定概念が自分の能力を制限しやすいのです。

「音程が悪い」「音感が悪い」「リズムが悪い」など、小さい頃から人にいろいろわれたり少しのことでそう感じてしまったりしたことが、頭のなかに残ってしまっていると、抜け出しにくいのです。本当に悪いのかというと、すぐれた人と同じだけのことをしていないのに、比べられるわけがありません。

 

ほとんどの場合は、壁をやっていないことからです。登として確実にレッスンですぐれた人、世界で認められた人、歴史で認められている人たちを聞くことです。自分で手に入るものは、手に入れることがあたりまえなので、ここにはそうでないものを、おいてあります。できるだけ私のレッスンでも、良し悪しも含めて(よいものばかり聞かせても、よいものがわからなくなりますので、見せていきます。悪いといっても、皆が評価して悪いという必要はありません。

こういうことを勉強していくときに、激科書にないから勉強しにくい歌を歌ってみても、どこが悪いのかわからない。どこで音程を外しているのか、どこでリズムを間違えているのかわからない。そこから、自分が変えていくことです。

 

 

ことばの間違いはわかります。今まで使ってきているからです。そして、明らかだからです。ところが、それ以外のものは、ことばを間違えることよりも大切です。音楽で間違えてはいけません。音楽での、正しい、正しくないは、感性なのです。感性というのは、人によって、年齢によって、「環境によって、時代によっても違います。私の感性と、皆さん一人ひとりの感性は違います。それは独自に磨いて深めていかないと、判断がつかなくなってきます。

皆さんの時代は、J-POPSや欧米の流行ものを勉強していけばよいと思うのでしょうが、勉強している間に古くなってしまいます。そこが難しいところで、好き嫌いは誰にでもあります。私にもありますが、それを超えたところでのレッスンをすることです。

 

好き嫌いで、全ての物事を解決しようとしていたら、何もできなくなるのです。あなた方の受けた教育のもっとも根本的な誤り、すぐれたものを尊敬しない、つまり自由な活動はすべて制限や不自由のなかでしか行われないということを知らないことです。仕事でも、生活でも同じです。そこから、それを超えたところにあるものが表現です。皆さんの世代だからとか、教育がよくなかったからだめだということではありません。すべて個人の生き様なのに、それに触れられないことがかわいそうなのです。

 

これからいろいろなレッスンをやりますが、それよりもこういうものを聞いたときに、自分の一番ベースのところにおいて欲しいものは、そこの部分の感覚です。感じられないかもしれませんが、世の中の何十万、何百万という人々が、何十年もそのことを認めて感じてきたというベースがあるということです。

これは、体の使い方もありますが、感覚や表現の活動のなかにもあります。必ず、こういったベースのものを形にしていきます。その形というものは、アレンジをどうするとか、ドラムをつけるとか、歌でも歌胸をつけるとか、音響照明とかではありません。これらは、その時代、その時代で変わっていきます。形になったら違います。

ポップスがややこしいのは、この両方のなかで揺れているからです。クラシックなどの昔からあるものも、出たときには、全てポップスだったのです。残っているもののなかでも表面を捉えず、こういうベースのものをきちんと勉強していってください。

 

 

“こういう分野がきちんと勉強できているといろいろなことが感じられるようになってきます。別の分野でも、ピアノの演奏会を聞いてみても、ジャズのコンサートに行っても、どれがすぐれていて、どれがすぐれていないのかわかってきます。しかし、勉強することでそれがわからなくなる人もいます。私は、随分といろいろな国をまわっていましたから、他の国の人の芸術に対し、どのくらいきちんと評価できるか見てきました。評価の違いというものは、いろいろとあります。たとえば、ビジュアルで見て評価する人たち、踊りで評価する人たちなど、価値をどこにおくかは文化や国民性とも関「わっています。バンドでもドラムの人が見たら、ドラムがよいほうがよいと思うでしょう。どんなに歌がよくてもドラムが下手であれば、そのバンドは認めたくないという立場も出てきます。しかし、それを超えて、頂点への志向があるのです。

 

音楽というものは、本当はその頂点が集まっていないといけません。一年目で勉強して欲しいことは、小手先の技法など覚えなくてよいですから、とにかく自分が受け止めていく努力です。ここで欠けているもので感じられないものもあるかと思いますし、どこがすぐれているのかわからないものもあるかと思いますが、そういうものもとりあえず中にいれていくことです。いれていくと、それに似たようなものが出てきたら結びついてきます。似ているものが本物なのか、それとも前に聞いたものが本当なのかと判断せずとも働いてくるものがあります。実際のステージは、その繰り返しです。

 

歌だけではありません。MCも同じです。頭のなかで台本をいくつかつくっておきます。実際、出てみると1つ目、2つ目がよくなかったら、3つ目にいこうとか、ここはカットしてしまおうとか、少し時間があるのだったら、こちら側の話題に移ろうとか漠然と考えているのです。しかし、これを予め自分が決めてしまうと間違ってしまうのです。その場の流れや、感覚で受けとめるしかないのです。頭を使ってはいけないのです。

 

 

だいたい現場の雰囲気に負けていきます。ことで頭で手にどんどん考えていって感じを感じられなくしていってしまうのです。不感症になってしまうのです。感性を鋭くするのが勉強なのに、勘をおかしくするのでは困ります。

人間のベースにあるものは変わりません。おなかが空いたら、何か食べたくなります。そういうところの部分を大切にしなければいけないのです。そうでないと冷房がきいているところで、「サマータイム~」と歌っていては何も出てこなくなります。そういうものを自分で取り戻すのです。感覚と体を取り戻すというのは、皆さんにとって大変なことなのです。自分の体がどうなっているのか。指先、足先まで音を感じ、音を跳ね返していく。感じている部分でやっていくのです。

 

 

だから、今やっている人が、これからやっていける可能性のある人かどうかは、―言、二言話してみれば、大体わかってきます。まわりの人がやっていけそうな人と思う人は、そこそこしかやっていけません。まして、力があるのにやっていけていない人はもっと大切なものが欠けているのです。しかし、本人がそれを守っているのだから、それでしかたがないでしょう。人が変えるものではなく、自分で気がつかなくては変わらないのですから。

 

仲間内のおしゃべりとか、くだらないことをあれこれしゃべって時間をつぶすなということは、ことばでは、間違った方向にしか進まないからです。知ったかぶりしている人は自分ができていないから、ことばでごまかしていくのです。そんなところではなく、そういうものが本当に動かして、本当に動かしている部分はいったいなんなのかということが大切です。ことばは大切ですが、ことばでは人は動かされません。気持ち、つまり気の持ち方がことばに入っていて動かすのです。自分でそれを感じて

ください。

 

曲のなかに、発声のすべて、歌の全て、音楽に必要なものは全部はいっているのです。それを学べないということは、まだ皆さんにそこまでのベースのものがはいっていないのです。それよりも必要性があるか、ないかということです。

私が見て、本当の意味で必要性のある人というのは、1、2年に1人くらいです。その人が自覚している、していないは別としてです。あとは、歌に逃げているだけ、だから人の心を打たないのです。ことばに必要なものが歌にも必要です。

 

 

うまくなりたいというなら、必要性を与えていけばよいのです。昔の人は、歌がうまくないと食えない、生活に困るというところでやっていました。音楽を選んでしまったら、他の道を全て閉ざされ、追い込まれてやっていたのです。追い込まれることは、好きなことではなくとも、自分で追い込んでいかなければよくないです。

 

自分で感じる時間を、レッスンでは、全部が全部感じられるようにはできません。音程をとらなければいけない、リズムをとらなければいけない、歌を覚えなければいけない。それらに振り回されないようにしてください。2年間あっという間に、いろいろな曲だけを知ったということになります。それだけでもよいのですが、それで終わりと思わないことです。要は、そこからどうしたいのかです。

 

効果が見えなくてもよいのです。発声も歌もうまくならなくても、それが後で歌っていったときに、確実にこれではない、そうやらなければいけないのだ、自分はこうあるべきだというスタンスが歌のなかで示せるような学び方をしてください。歌がうまいとかへたというのは、あくまで外に出た結果をその時点で捉えているものです。

最初の1年目、2年目で器を大きくしていって欲しいということは、そういう部分です。そういうものが、できないと、歌がうまくても、どこも開かれていきません。人間と人間のなかで全て成り立っていくものだからです。

 

 

バステアニーニは、私の尊敬するバリトンです。声楽の世界はテノール、ソプラノ中心で人間として最高に高いところですごい声の響きを聞きたいという欲求はオペラという形式で生まれました。主人公の大半は、テノールです。あるいは、すぐれたテノールの歌手に曲が作られています。

オペラのなかでバリトンなどは、脇役にまわってしまいがちですが、どこでも脇役にすごい人が出ています。

日本の場合は、小柄な人が多いせいか、ソプラノしか出ていません。それも世界に並ぶ人は、何十年に一人くらいです。

 

私はポップスの業界に文句をいっていますが、声楽も同じく、国家予算も使うのに、大したことができていないことを残念に思っています。

よく声楽との違いを聞かれます。ここはポップスをやっていくところですけれど、声ということでは同じに見ています。

 

たとえば、バステアニーニは、完全に自分の体の部分でもっていっています。体と頭というのは、高音をとっていこうとしたら、頭声にします。ニューミュージックなどの甲高い声で歌っている人たちも同じです。私のいっていることは、頭と体とあって、頭を使わなくてよいということではなく、頭を使う前にこれだけ体があるのだということです。彼の歌い方を聞いていると、ほとんど体できちんと握っています。これで上のラくらいまでとっているわけです。音域ではほとんど変わりません。皆さんには、そのように聞こえないでしょう。

 

 

実際、バリトンやバスとテノールの区別というのは音域ではなく、音色の違いなのです。バリトンというのはこういう音色、バスというのは、もっと深くて包み込むような音色です。さすがにそういう音色を出すとそんなに高いところまでいかなかったり、高いところまでいかせるためには書いた音色で整えていかなければいけないということになります。テノールが一番高いと思われていますが、バリトンの音色の人は、テノールの音域をもっていながらバリトンになるのです。高いところはでないのに、テノールの音色というのでは出られません。

 

パバロッティ、ドミンゴカレーラスは、3人ともまったく違いますが、日本で好まれるのはカレーラスのようなタイプです。全身これ全て、発声という感じです。あれだけの声を出せる人は日本人にはいません。ババロッティは楽々と、生まれつき出てくるような声です。叙情派の人はドミンゴが好きでしょう。ドミンゴの場合は体とかなり一致させて、揺らしているような歌い方です。

 

いつもいっているのは、声の芯の必要性です。獣が出すような声、野原に放り出されて、恐くても狼たちと一緒の声を出していたら、そんな声になるだろうというようなところです。それがきちんとはいっていると解放されます。体から出ている声が天の声になるというシミュレーションを2年間、合宿でやりました。ロビーの会報に書いである天の声です。

 

 

これだけのものを体のなかに用意して、感情を入れ、生命をよみがえらせる。それがヴォーカルです。単純にいうと、人間が死んでいる、ゴロンとしている。そこから、息使いが始まり、最初に感情が芽生えます。その感情というのは、悲しみとか怒りです。「明るく笑って歌いましょう」というのは、そこにリアリティを伴わすとなれば、歌で一番難しいのです。映画でも、歌声の世界でも、日常のなかにあることです。それを最大限に声の世界で取り出します。

ノローグは、それをことばにして動物から一つ神様に近づくのです。自分のことばをフォローする形で、舞台で救われたという一つの昇華の世界を与えます。しかし、これは頭の世界であって、実際体がそのように反応していく人は素直かつ敏感で、可能性が大きいのです。

 

それで笑顔の世界にいくわけです。うれしい、楽しい、解放されるとそういう感じになるのです。歌い手の世界は、解放された世界でやっていかなければいけません。ですから、自由なこと、解放されたことをやらなければいけないのです。しかしそれを身につけるために一つの型や拘束するもの、不自由にするものがないとリアリティが出てこないで、つくり笑いになるのです。方向性が見えないからです。

 

 

現在の社会にしても、親や先生が強大な敵だと見えるときは逆らえないほど、自分のなかでそれを乗り越えてやろうと理屈も感情も形成されます。簡単に壊れる存在で、殴ったら済むというのではしかたないのです。それができなければ、時間をかけて克服してよくなってやるという方向に動くのです。力をつけるには一番よい方法です。

そういうことを体でやっていくと、笑顔の世界になってきます。

 

日本語の歌の一番の問題は、メロディとことば中心で、薄っぺらなきでやっていくことです。それに対して、声の芯の部分は、ポップスに関わらず、音楽の源泉である音色とリズム、さらにその人の個性を感じるところです。

発声で捉えることよりも、何かゴーという音がしたというようなベースの部分の声からです。たとえば、リズムを手先でとったりあてたりでは、触れたとはいえないのです。グルーヴがまわって、その上に強調されて出してくるものです。

 

形の音楽があると、こちらの方が勉強しやすいし、判断しやすい。しかし、ここでできた、できていないといっても本質と何の関係もありません。何で音楽にならないかといったら、一部分で音楽を聞いていても自分の体を動かすことまでやりようがなく、一人よがりにおちいります。特にポップス、日本の歌謡曲、クラシック、映画音楽を歌っている人たちは、どうしても口先になりがちです。

 

 

日本語はきれいに歌おうとするほど声や流れが限定されます。日本人の耳自体もそれを好むのです。大きな違いは、声の芯というより、体でとっていかないと音色とリズムが出てこないことです。どんなに声がきれいに書いても、クラシック、もしくは、由紀さおりさんのような形で、本当に美しい声で正しくきれいに歌う人以外は通じません。

 

ポップスではきれいに歌うというのは、あくまで条件の一つです。日本語を全てきれいな輝きでそろえることをトレーニングであまり私が重視していないのは、表現をとり出すことを疎かにする人が多いからです。きれいな響きは、生まれつきの本質(楽器一声帯)によることも少なくないのです。

 

世の中には、生まれつきそういう人もいるのです。それは、トレーニングで乗り越えられることではありません。あるいは、何年かやってから、「あなたは向いていません」と、結論が出てしまいます。そういうものにトレーニングを基づかせたくありません。その人が、どんな声を出しても、たかだか声です。表現するものがあればそれを声でやるというだけで、楽器でも、文章でもよいのです。ただ、音楽にするためには音への感覚が絶対に必要です。

 

 

サマータイムなどはそのまま歌っていてもしかたありません。たとえばサムクックの場合、どのような感性が彼のなかにあるのかというのを聞いていきます。彼が何パターンか歌い分けています。歌い分けている中でパターンを聞いてみたら、そのなかでも共通することがあるのです。それは、彼の元にはいっている部分です。

 

歌手ではなくとるのだったら、「枯葉」という歌を10人が歌っているとします。この10人がみんなバラバラにまったく違う曲のように歌っているようでありながら、ある部分に対しては、絶対にこういう運びをしているというところがあります。たとえシンコペーションがかかっていたり。伸ばし方があったりしても、ここは引っ張り、ここは落としている。それは同じ曲のベースなのです。その曲を10人のすぐれた人がやったときに、そこに必ず落とし込む。しかし、これは10人が相談して決めているわけではありません。

 

ここでも同じです。表面でなく感じ方の共通なところ、これがないと他の人にも感じられないでしょう。「もっと届けたい」とつけていくものは、表面的なものまねが上達と思っているうちは上達できません。先生方の教え方を統一していないのも、本人ができているのだったらそのまま出せばよいからです。その分、皆さんの自由度が大きくなり、その自由を生かせないと混乱することになります。皆さんの今の力でなく、将来の力を見ているのです。表面でなく、内面をみることができないうちは、初心者です。私は、自分を最低限の基準、トレーナーを乗り超えるべき目標としておいているのです。

 

 

ここにいるような人たちでなくとも、皆さんのまわりでもすぐれた人はいます。新しく入った人のなかでもすぐれた人もいるでしょう。長くいる人でも、すぐれた人はいますが、まだ、すぐれていない人もいます。いろいろな人たちがいます。

私が一番始めに考えていたのは、アーティストの集まる場にしよう。そこにいる人のなかで、そういうベースのものが出ていればよいのですが、まったく足りない。そこで、トレーナーやアドバイザーをつけているのです。それでも足りないから使っているのです。

それは、わけて考える必要はありません。

 

要は、自分の感覚がそれに対して豊かになっていって、感じられる能力が強くなっていけばよいのです。音楽の教育をきちんとやっている人はわかっているのですが、いくらピアノを教えても、指導者用バイエルやコールユブンゲンも形なのです。もっと即興的に演奏して楽しむ期間を幼児期におき、そういう時期に技術ばかりがはいっているのではいけないといわれています。モチーフは喜びであることです。ピアノや、バンドにしても自分の体で感じたものをそのまま出す、あるいは、より効果を上げて出すために使うツールでしかありません。

 

こうやってことばでいっています。これでは、このくらいしか伝わらないからマイクをつけてみよう。それで残響がないからエコーをつけてみよう。もっと伝えたいから、バンドを入れてみよう。もっと感じさせたいから、メロディをつけてみよう。全て伝えるということに対していろいろな工夫がされてきているのです。

 

 

ここでは「バンドが全部プロですから、好きにやってください」では、わかりにくいですから0からやっているのです。0からやるということは、皆さんの0ですから、0のなかで感じるものを大きくしていかなければいけません。自分を中心にオーケストラがどう進んでいっても、それに対して、セッションできるだけの判断をつけていかなければいけません。そういうことを考えてみてください。それでもよくないから、いろいろとつけるようになってしまったのです。簡単に歌っているようですけれども、この程度のものをやるのに一生かかっているのです。

 

時代を超えて存り続けるものは、今聞いても、古いというものではありません。日本のなかで一番の勘違いは、自分が一緒に暮らした時代だから、一緒に過ごして空間だから、よいと感じることです。ファンはそれでよいのですが、やっている人は、もっと大きくみなくてはなりません。

 

母校や地元チーム応援するということも同じです。たまたま、ここに居合わせたとか、あの人も同じところで学んでいるというところで価値まで判断してしまうのです。同じとき、同じところで組んだから応援するとかいうのもそうです。それは、別に悪いことではありません。プロ野球でも、地元に住んでいたら、地元の選手が活躍することがうれしいし、日本の選手の活躍も誇りです。

 

 

しかし、それを超えるものがあるということを知らなければいけません。時代もジャンルも超えて古くならないもの、常に新しく聞こえるもの、常に何かそこで与えられるもの。それは、人種も国もジャンルも全て超えて人の心を捉えるのです。勉強するのなら、そちらで勉強したほうが本当はよいのです。そうしないと、自分もその程度になってしまいます。自分の友達を集めて、地元でやっていくというのもよいでしょう。しかし、おもしろいものは、そういうものを超えるものです。もう一度サマータイムを聞いてみましょう。

 

他のトレーナーがいろいろとフォローをしてくれますから、私のレッスンでは、他のトレーナーにできないところをやっています。リズムや音程が悪いとかいちいち注意していたら、他のところに目がいかなくなってしまいます。そうしたら、声も出るわけがなくなります。声と体の結び付きを感覚からとらえていくことが大切です。他は、Wのレッスンで学んでください。やらなくてよいのではありません。しかし、それだけでは、鈍いということになってきます。それは慣れていってください。

 

 

○「この胸のときめきを

 

聞こえたことに対して、体が対応できるようにしていく。聞こえてくる世界にすぐはいれて、それが出せればよい。ただ、自分がやっていくのだったら、それを自分でよりよく変えていかないといけません。

「よごと」きちんと体でとれることです。先ほどよりもよくなったのは、「siamoqul」のところで、音が上に浮いてしまって音がなかったのが少し自信がついたのか、体がはいりやすいのか「よ」の方がやりやすいということがあるのでしょう。ただ、問題なのは「よごと」と単にことばとして聞こえるのではなく、音の動きとして表現を伴って聞こえる。それを自分が動かしている感覚を持っていくことです。

 

実際の歌のなかになったら、動かしている感覚などなくても働いていればよいのですが、今は練習です。「タタタ~」「タタータ」「タタタ」今の皆さんにそういったバリエーションはできないと思います。ギターや、ピアノをやってきた人で、厳しく指導を受けていない限り、そこで何パターンも出せたとしても、最初のところにはいっていないから出てこないのです。与えられた「タタタ」を「よごと」とやることで精一杯でしょう。

 

そういうことがはいっている、はいっていないということです。この一つのなかにいろいろなパターンがあるのですが、それはパターンでわけられるものではありません。そんなパターンが100できる必要はありませんから、自分はどうやるのかとそこで示せることです。「よごと~」だけでは、何も成り立っていきません。

一つのものに捉えて動かしていくために、つまり声になるところが必要です。これが、日本人が二十歳までに獲得できていないところです。

 

 

米山文明さんの本などで、「日本語が声帯を痛める」といっているようなところでトレーニングをやっているからよくないのです。そこをなるべく深く、トレーニングでの「ハイ」「ライ」というところです。「ハイララ~」をどう動かすか。結局、これだけの世界なのです。

 

「ラララ~」ここではいらなければしかたありません。それを「ラララ~ ~ララ」とします。かすれている、響いているという問題ではなく、そこで音をつくりだしていることです。ことばでいってみても、ただ「よごとふたりは」というだけでは、何も伝わりません。自分の呼吸がはいってきたら、体が動きます。それだけ集中して、それだけ体を動かさなければ、そこに動きが出てきません。どんどん歌から外れていくのです。声が出たからといって、練習だと思ってはいけません。伝えたいところのものをきちんとつかんで、前にきちんと出していくことをどこかでやっていかないといけません。

 

わからなければ、声に関しては「ハイ」や「ララ」で、あるいは、発声練習でやっていきましょう。歌のなかでやっていくと、歌のなかですぐれたもの、すぐれていないものがあるわけです。それは、何も私の判断基準を勉強しなくても、こうやって5人でも10人でもまわしていたら、歌一曲もなくても人のものを聞いていたら、何が大切かわかってきます。それは、学んでいくためにとても大きなことです。

 

 

この歌に関しては、皆、へたな歌い方をしています。バラバラで単に歌にあてているだけの歌い方をしています。

もう一度いきましょう。その音を動かして音楽にもっていくということを自分なりにやりましょう。「siamogul noi sori」までどうぞ。

大切なことは、そこにきちんと先ほどいったベースの部分の感情をのせることです。感情をのせすぎて、基本の線が乱れてしまうと、音楽の世界としては出てこなくなります。音楽ではなくても表現として人に与えるものではなくなってしまいます。

 

自分のなかだけでやっていても伝わりません。カラオケのおばさんが感きわまって涙を流して歌うことと同じで、自己陶酔になってしまいます。きちんと前に示していかなければいけません。リズムや、音程やテンポがくずれてはいけないというのも条件の一つです。極端にいうと、歌の場合は自分のなかで何も感じなくてもよいですから聞いた人が感じればよいのです。しかし、その方が難しいです。

 

この「セーラーァー」の「ァー」のビブラートをまねてはいけないのです。こういうところをまねても、失敗します。これは、この人が勝手に変えている部分で、その人のくせだったり、オリジナリティだったりするところで、他の人のをやったら安っぽく見えます。そういうのは、センスがある、ないがわかるので、よりそういうものがある人には、とても厳しく見られます。

 

 

まずは、きちんと呼吸の力で歌っていくことです。あまり、アメリカのものを取り上げられないのは、そういう技巧がたくさんあって、その上辺を勉強する方にまわってしまうからです。それは、こういうベースがきちんとできた後に、自分が変わってくる、変化してくるところからスタートです。

 

ベースができないところで変化させてしまうと、上達しません。先に変化をさせてしまったら、基本が身につかないから、変化が定まりません。自分がやる度に違ってしまうというのは、おかしいのです。やはり、変化するには変化する理由があって、それは、変化させないよりも相手により伝わるから、そういう変化が入るのです。

 

カラオケを歌っていても、1番を歌ったら、2番はちょっとこうしたいというところがでてくるでしょう。ピアニストも1番と2番を同じように弾いていません。2番になったら、音を省いて、チャチャをいれ遊んで個性を発揮しています。それは、感覚が成していくことです。やりすぎたらくどいと思うし、足りなければ淡泊すぎると思うでしょう。お客さんの反応もシビアなものです。そういうことを全体のなかで感じていかないといけません。

 

 

もう一度「よごと」でいきましょう。「よごと」全部を歌にしてくれると本当はよいのです。「よごと」で捉えていってください。今日いったようなことを踏まえて、やって欲しいことは、私のレッスンでいうと、1フレーズを何パターンくらい歌いわけられるのかということでなく、自分できちんと感じて出すということです。歌う立場になったとき、1フレーズで感じられないことを全曲で感じるというのは無理なことです。聞く立場だったら、一つだけ聞いて感じるより、全曲聞いた方がよいのです。しかし、歌い手の立場からは、一つとしてむだなことはないのです。その一つのなかできちんと感じるということと、それを感じたときに自分で出したらどうなるのかを自分で知っていくことです。

 

そのときに音程がふらつくのなら音程の勉強、リズムがよくないならリズムの基本の勉強とやることはたくさん出てきます。まずは、自分なりにきちんとやってみることです。その判断基準は、あまりメロディや醤葉でなく、できるだけ音色やリズムを簡単にこなせることにおくのです。

「よごとふたぁ~りぃ」とやると、覚えることがややこしく、複雑になって歌ごとに変えていかないといけません。つまり、基本ではないのです。そういう教え方は、したくないので基本をきちんとやってくいださい。

 

「よごと」といえたら、「よごとふたり」とそのまま習っていれば歌になっていくように、単純にしていきたいものです。単純にするために基本をやるのです。単純にしないと、後で自由に動けなくなります。複雑にすると、そこで自由度がなくなってしまうのです。発声も単純にしていくことです。話すように歌えれば楽でよいし、楽な分、いろいろともりこめるからです。たかが、歌、されど歌なのです。

 

 

世界的に有名なバリトン歌手がどういう音色を出しているのかを聞いてもらいました。ポピュラーからいえば、バリトンやバスの方がわかりやすいでしょう。音域的にも近いからです。今のでも上のラまで使っています。日本人のJ-POPのカン高い声は異常です。確かに上の2音くらいは、テノールの領域ですが、あとは、バリトンで、その2~3音下がったところくらいまでは、バスも出しています。

 

我々が使っている1オクターブより、もっと高くまでバリトンもバスでも出しているのです。ポピュラーのドからドまでの一オクターブとは全て、音色、深さ、高さが違うことに気づいてください。何の違いになるのかといえば、音色の違いです。体で歌っています。

体がないと本当はメロディ処理ができず、ことばのフレーズと歌でのフレーズがつながっていかないのです。(*)

日本人はことばと、その前に音程アクセンド、メロディからはいります。そうすると、歌も全てことばに引きずられています。

 

クラシックも声の芯です。響きというのは芯がなければ響かないのです。日本の声楽でも、これを忘れてやって、97パーセントくらいの人は間違っています。芯というのに含まれているのは音色です。こういうものが、きちんとうったところからミックスヴォイスとか、シャウトになってくるとポピュラーらしくなってきます。

そして、いろいろなあやが出てきます。変化が出てきます。英語の歌い方をまねて、最近の日本語にも出てきています。間違ってはいけないのは、ここをまねてもないということです。リズムでいうと、打っているところの先に響いているものをまねてもしかたありません。その前のグルーヴ感をとれなければいけません。声に関しても同じことです。やはり、基本の部分できちんといれていかないといけません。こういうものを聞いていたら、そのうちそうなっていくというのが、本当なのです。

 

 

最近、はいったばかりの人はヴォイストレーニングで随分、迷うようで、考えるなといっているのですが、やることが前提なのです。誰でも伸び悩みというのがあります。どのくらいの人が、どのくらいやっていなかで、伸び悩みなんていえる状況でない人も多いのですが、基本的にベースのことが感覚の分野です。悩むより、やることです。

とにかく感覚を変えることしかない。それから体。プロは感覚に関しても、体に関しても、普通の人のものではありません。声の場合は、普通の人でも見ているもの感じているものも違うわけですから、そういうことでいうと普通の状態ではありません。体は条件を成り立たせるように鍛えていきます。よりよい状態をコンスタントにつくるためにトレーニングがあるのです。

 

日常のトレーニングが何になるかといえば、365日で条件の獲得をするのです。日常の練習のなかでもコツや技術というと間違いがあるのですが、武術の秘訣のようなものを、よい状態のなかで使っていくのです。

感覚は一体になっていたもので統一しているということです。レッスンの場合は仮試合ですから、歌とトレーニングとの違いを無意猫で一体になって統一して、それを前に出していくだけです。体のなかで何かが起っていても関係ありません。結果として、体が動いて感覚がまわっている。そういうことが大切なのです。

それに対して、家でのトレーニングというものは、そのときできなかった、その状態になれなかった。その状態をつくる条件をトレーニングをする。条件がなかったら、その条件をつくることを日頃やっておかないといけません。これは、部分的に意識してやっていくのです。はっきりいって、バラバラになります。腕立ても何のスポーツにも役立たないことと同じで、そのままでは役にたちません。

 

会報や私のテキストや本を勉強しろというわけではないのですが、何で最初に全部渡しているのかといったら、全部読み切ってしまって、全部捨てるためです。ことばというものは、頭にあると体の動きを邪魔します。ただ、キーワードですから、それが体になじんでイメージとして働いてくればよいのです。人間が何かをつかもうとしたときに、やはり基準ということで区分していかないといけません。そのために、ことばを使うことは効果的です。

会報や本がたくさんあって、自分が感じたり、直接受けたりすることが少なければ成り立たないのはあたりまえです。勉強熱心な人ほど間違えていきます。その勉強はことばの上で成されていて、いろいろなものを覚えていくのはよいのですが、表面だけ覚えていくだけではもう古いものです。そこで創りださなくては、自分のものになりません。だから、自分のことばで書かせているのです。

 

 

私がここでことばを使っているのも、あくまである条件のなかでしか使っていません。百科事典に載ってしまったことばほど古いことばといわれますが、すでに現実とはうのです。ことばとして通用するということは、皆さんのなかで共通の理解があるのです。やりやすい反面、そこまで汚されてきたということです。感覚や全体的なものではありません。唯一、何か取り柄があるとしたら、イメージですが、その感覚を呼び戻す、抽象を具体化する働きがあるということです。再現力は基本の力です。私のことばは、私が意味付けてきたもので、あなた方に放り出した瞬間、あなた方に取れる力があれば、自分のことばとして自分のイメージとして出せます。音楽も似たようなもので、音の世界は、さらに抽象化されていきます。体も同じです。抽象化されていきます。だから万人に伝わりやすくて、ことばは超えられません。しかし、表現が伴うと超えられます。

 

この基準というのは、あくまでこちら側がキーワードとして渡しているものであって、それを勉強しなさいといっているわけではありません。自分が聞いて、自分が思った通りに思えばよいのです。自分で思うように歌も声も出てきます。自動車の運転のようなものです。そこで自分が足りないものをやっていかないといけません。その判断を人に委ねるなということです。自分が本当に正しいと思ったものでしか人間は得ていきませんし、何かおかしいなと思ったら自分がおかしいのです。自分が自分でないのに、自分が出せますか。それなのに、結局、人のいうことも聞いていないから変わらないのはあたりまえです。

 

何でも取り込める大きな器になるくらいに、ベースの部分をいれるような勉強をしているかということが問題です。1年半から2年くらいで伸び悩むといっているのですが、無我夢中で全力でやってつくったものは見ることができても、そこから余裕が出てくると、頭で考え、体と逆転するのです。判断が体からまたことばになって、人がいったことや、おしゃべりが幅をきかせるようになっています。これが感覚の世界のなかで行われているのだったらよいのですが、本質の部分を失ってしまいます。

 

 

私が群れるなといっているのは、別に群れて悪いわけではありません。研究所も大きな群れです。個人がやっているより、現実の群れから学ぼうということをやっています。でも、そのなかでことばを優先してしまったら、成り立たないのです。

その人が何をやっているのかよりも、それが見えないところでどのように働きかける世界があるかということだからです。結果的に求められることは伝えることです。それが外に出て始めて評価されるのです。その人のなかで知識がどんなにはいっていても、使わなくてはないのと同じです。出てこないものは認められません。

本でも私が一冊書く間に、ある人は100冊以上読んでいる。どちらがすぐれているということではないのですが、逆にいうとこちらが一冊出すときに100冊読む以上の何かを割れなければ、自分の一冊の意味がないのです。そうでなければ100冊でもすぐれた人が書いた本をどんどん読んでいけばよいのです。自分の1曲も同じでしょう。勉強の段階というものもありますが、結局同じことではないかと思います。

 

インプットしないとアウトプットが出てこないという考え方でいったら、人生70年くらいは、何もできないと思います。アウトプットしたときに、その力が足りないと気づき、インプットするのです。そういうことが感じていられたら、こういうことはどんどん深まっていきます。昔よりも学べる環境はできてきたということです。ここでも学ばせてもらっています。人がいるところが一番学べます。ただし、学ぶ姿勢が必要です。数が変わったら、もっと学べます。結局風留、生活環境が、人を決めるのです。

アーティストは、こんな生活をしているのではなかろうかという予想であったことが現実になると見なければいけないものが五万とあって、いろいろなところから連絡がきたり手紙のようなものも9割捨てているという状況になって、過剰ぎみですが、これも大したことはないのです。他の人のことは他人事。しかし、自分の世界なくしてそれも活かせない。自分がつくるものが一番価値があるというのは、きっとこういうことなのだと思います。

何よりも、学び方です。凡才なら、学び方を天才レベルにつくっていくことです。

 

ここで2年でできることは、本当に限られていますが、要は自分がこういう環境にいて、アウトプットしたものを、誰かに歌えばよいことです。長年やったら身につくということではありません。身につくように長年、何をやったかということです。当然、足りないものを身につけるのには時間がかかります。その時間を見なければいけません。

まして、一番基本のことを身につけるのです。入ったときに、1年くらいアテンダンスシートをたくさん書いて、いろいろな音楽を聞いて、必死にやった時期があっても2-年目、3年目には、その3倍、5倍のことができていなくては身に付くわけがないのです。誰でも1、2年くらいがんばれるのです。最初は量といいますが、それは質に変えるためです。量ばかりではやがてやれなくなります。受験勉強だって、皆、2年くらいはがんばれます。こういう世界でやっている人は、皆、5年、10年、20年やっています。そこを間違えないようにしてください。

年月やればよいということではなく、去年の倍のことを次の年にやらない限り、無理だと思います。

 

 

最初は、どんなにがんばっても大したことはできないのです。入ったばかりで、発声練習をしようとしても、発声練習がわかっていません。声を出しても、のどがやられてしまいます。勉強できるために、何をどう聞けばよいか。そして自分はどう歌えばよいのか。そういうことがわかるのにも2年、3年かかるのです。

最初は、できないし、できるようになってからやらなくなるということが多いのです。パワーと意志、使命感の不足です。

だから、一流の人ほど頭を下げて人につくのです。そういうエネルギーの源に投資するのです。やるのは自分、しかし高いレベルにひきあげてもらうには、人や場が必要です。自分一人では、自分の背の立つところしかいけないからです。

 

必要性のあるものは、必要性のあるところまで必ず身につきます。ただ、毎年絶対に必要があるとか、自分は絶対に歌をやっていくとか、声をそういうふうにしたいといって入ってくるのに、1~2年も経たないうちにやめてしまうのは、必要度ではなく気まぐれでしかありません。何か見に行きたいといって、見にきたことと変わりません。

入っていないものは出てきません。ステージができないとはどういうことか、できる人間とできない人間と何が違うのか、ここのライブを見ていたらわかるでしょう。歌を聞かなくても出てきたときの表情を見てもわかるでしょう。MC一つを見てもわかるでしょう。その人が、すでにステージにいるという生き方をしているかどうかです。その立場で物事を見て判断しているキャリアが全てでるのです。トレーニングをはじめたというのは、きちんとやれないうちはステージのキャリアに含められません。

 

そんなことを考えもしないで声や歌ばかり練習していた人は、歌もステージもできません。

ステージも歌もMCも同じです。結局、そのキャリアをきちんと積んでいくということでなくてはいけません。できなければ、はいっていないのです。できた人にしても、生まれたままでできるわけがありません。MCも人前で話すことすらできないところから、どこかでやってきているのです。それが、普通の人間に見えないだけのことです。皆が何をやっているのか私たちに見えないことと同じです。できない人は、できてこないような生活をしているのです。

入っていないのはできません。いれる努力をしなければいけません。それは面倒くさいものです。時間もまったくありません。眠くもなります。食べたいし、遊びたいし、お金もない。そういうことは言い訳にしかなりません。人や場との出会いを自ら閉ざしているのです。

 

 

だから、ある意味、特殊な世界だというのです。人間としてよい人はいますし、付き合って気持ちのよい人はいますが、そういう人たちの価値とは違います。人格が高いから歌い手として向いているということではありません。それは、表現という一つの特殊な世界においての価値です。

全員が表現できたら、心地のよい世界になるとは思っていません。アメリカの社会が、まさにそうです。そういうことがよい人にはよいのですが、そうでない日本人にとってみては、とてもがさつな社会になります。ただ、一人の人間として生きるには表現者の覚悟や生き様には、見習うところがあると思います。

 

こういう歌い手も聞いて、どう判断しているのか。世界の人たちは、一流だといっています。皆さんは、どう感じるのでしょう。喉声と感じるのか、輝きがないと感じるのでしょうか。

自分が感覚したものを、組み替えて、その感覚を音に出していく。そのためにこうやって歌うのです。私もいつのまにか年をとって、若い人たちを見て「できていない」と思っても、自分がもっとできなかったことを知っています。そこで、やっていかなければいけないことは、そのときどきの正しい判断ということだということに早く気づきました。何よりも、自分への厳しい判断です。人の個性や努力に流されず、甘えを抜いた判断には、芸術やより高いレベルでの人間への畏敬が必要です。

 

要は、何ができたけど、何ができていないのか。何が入っていないのを知っていって、それを補う。補うことは、すぐにはできません。ここで出すときには、いつもの自分一人でやっている声のトレーニングとは違います。

一人のトレーニングは、一人で聞く、一人で感じる、一人で出し、自分のペースでやります。ここのレッスンの場合は、前の人がやりそこねてペースを崩されても、それを受けながらすぐに変えていかないといけないということでライブに近いのです。その時点で迷いがあれば、よくないです。迷っていたら何も出ません。とにかく、頭ではなく、感覚的に出すしかありません。頭を切っていくための道場なのです。その出したものに関して、すぐに感じていくのです。その判断を先生だけに委ねないことです。

 

 

音程やリズムが狂ったという場合はしかたがありませんから、個人のベースで直す必要があります。ただ、それは、ヴォイストレーナーよりピアニストの人に手伝ってもらうとよいでしょう。どこを間違えたか、間違えた箇所に丸をして認知させ、その上で、直していくのです。初歩的なことですが、気づかないであいまいにしておくのでなくチェックしていくのです。ある程度までは音程やリズムはそれで直しましょう。気づかないから、最初は具体的に指摘するようにしていくのです。本当に直さなければいけないと思ったら、感覚を直し、それに対する発声器官を整えていかなければいけません。

 

具体的になる分だけ練習するときも、問ったまま覚えて、間違ったまま口ずさんでいくよりも、違うと指摘されれば、そこに気をつけて練習するようにするでしょう。

大受験生的なやり方です。一回勉強して、暗唱して、違ったところを次の週までにマスターしていく。その箇所を暗唱して直るようにしていきます。気をつけて聞くようになります。基本の問題は、直していかなければいけません。リズムと音感というのは徹底した基本教育が必要なのです。これなしに、歌うのは不可能だからです。

 

 

こういうものを聞いたときに、どう読み込むのか。先ほどのサムクックのサマータイムも違うバージョンで出しました。これを、2つの歌い方があると考えてはいけません。もっといろいろな歌い方がある中で、選ばれたのです。この歌い方になるのは、絞り込まれてきて結果なのです。プレスするということは、当人がよしとして自信を持っているわけです。この2つのなかで違うところを見るのではなく、共通したことを読みます。それは、どこなのでしょうか。

 

それは歌い手の特質でもあるし、スタイルでもあるのです。さらにその歌から落としてはいけない要素なのです。

いろいろな人のサマータイムを聞き比べてみればわかります。全員がそこをつかめているのは、一つのルールです。守らなければいけないルールではなく、感覚として人間が人間に伝えるときにどこの国の歌手もそうやっている音や動かし方の大きなコツなのです。それを守らなければいけないということではありません。それ以上にすごいものが出るのだったら、変えればよいのです。

 

そうでなくて、自分がそうなっていなかったとしたら、何で自分はそうならないのだろう。その感覚とは、何なのだろう。自分が間違っていると思わなくとも、そういうものがあることをきちんと知っていくことです。基準をつけて、音楽と相談して、最終的に結論をした上でやるのだったらよいのです。そういう勉強もプロセスも軽ないのでは、いくらまねてコピーしてもきちんとしたものが出るわけありません。

 

 

ここはそれなりに歌えている人が、何を勉強してどう感じてきたのかを出しているのですが、それは誰にもとてもよい勉強になるはずです。しかし、それ以上になりたいのなら、そのまま勉強してもよくないです。一つをいっていることのなかに100くらいいえないことがあって、そこを読んでいって欲しいのです。

最初、学べないのはしかたがないのですが、2年目、3年目になってもことばの世界で解釈しているようではしかたがありません。実際の作品に直面したしたとき、あるいは、ステージに直面したときにそこで何が働くかということを自分で考え、ことばにしないといけません。

 

人のことばだけで頭でっかちになっていくことは、よくありません。友人と会談しても、他人のことばはいえます。知らない人は信じるでしょう。それでは、あの有名人がどうしたと詳しいワイドショー好きのオバさんと同じです。知らないことを知るのは量ではなく深さにおいて必要なのです。頭でなく、体で必要なのです。

 

ことばでいえる世界ではありませんから、私がことばを出していても全て、単にことばでなく、その下にある感情であったり、感覚であったり、それを伝えたいのです。それをことばで取り出さないと、不機嫌な顔をしていてもわからないし、ニコニコしていても誤解されるだけで、そういう意味でいうと、難しいです。

 

 

自分に自信を持ってください。これが第一です。次に、迷わないことです。しかし、自分以上できる人がいる、そこは認めないといけません。そこと何が違うのか、何が共通しているのかを自分できちんと見ていくことです。

梓みちよさんという歌い手のなかでの正解は何なのかを知る。

この曲で、アダモと梓さんが両方踏まえているものは何なのでしょうか。曲として成り立つための欠かせない要素があるのです。詩も古くなってきます。皆、英語で生活してきているわけではないから、実感がわかりません。そこで、日本語でやります。この日本語は古いのですが、ラテンやスタンダードポップスの英語を日本語に訳したものよりはましでしょう。まだ、読み込みやすい。私の世代では、このまま読み込めます。それをいい替えればよいのです。

 

迷わなければ伝わるようになります。歌う中で迷ってもよくありません。一つの呼吸があります。それを頭の計算でやってしまわないことです。計算でやると、まず息が出なくなり、体が使えなくなります。感覚が働かなくなってしまうのです。頭を使って歌う人のほとんどは、前に出なくなります。まず、パワーとインパクトがなくなります。日本の場合、誤解されやすいのは、それが問われないからです。

 

メロディやことばの響きできれいだったら、よいと思われているところがあります。異民族やはじめての人のなかでやったら、最初にインパクトがなければ絶対に聞いてもらえません。それは、声量ではありません。一つの気や集中、波動のようなものです。呼吸というのは、気です。ボクシングと同じです。一瞬息を抜いたら、その瞬間に入れられる。それは、あたりまえの話でしょう。剣道などもそうですね。呼吸は、そんなものです。3分間詰めて、そこに呼吸の動きで体をコントロールします。リズムは波動のようなものです。単に叩けばよいというわけではありません。それが、のっかっていないといけません。

 

.

今日のレッスンの目的は、メロディとことばに対して、リズムと音色を重視したおき方です。同じ一つのフレーズが出て、どちらをとるかというときにリズムをとるとこうなります。当然日本人の限界のところで本当は伸ばしたいけれども、あるいは、つなげたいけれども、声が乱れてしまうということがあります。ただ、感覚の問題です。この感覚でおいていくような感じです。

自分のスタンス、フレーズをどう決めていくかというときに、他人の意見を参考にするのはよいのですが、委ねないで自分で決めていきましょう。しかし、汗をかいたり、体を使っていればよい歌になるということではありません。まったく違うことです。だからといって、体を使わないで人に通じるかということでもないのです。

 

この国は、マイクや、エコーの効果に安易に頼りますから、何でも通用しているみたいですが、何も残らないことが多いのではないでしょうか。今かけたCDの時代くらいまでは歌唱力で、これから後になると、こういう曲をいくらやってもくせをつけるだけなります。

 

身近なところに、そういうことをイメージできる観客がいて、歌い手がそれを置き換えるのを感じてコラボレーションするのが、向こうの国ではあたりまえのことですが、この国では、そこまで追及されていません。そういう世界を読み込み信じることができないから持ってこれる力がなくなってしまいます。ここでライブが成り立たない状況です。

 

 

誰もフランスやアラブや日本の昔の歌を聞きたいわけではないのです。それで通用していた時代もありましたが、今、それをやるにはかなりの力が必要です。

ここで時間と空間を超えていく歌にするために、今ここで起きていることが時間と空間を超えるには、とても大きな力が必要です。すぐれた歌唱から感じてください。

 

そういうものがあると知って勉強するのと、まったく知らないで勉強するのでは、雲泥の差があります。黙っていても伸びるのか、いくらやっても伸びないのかという違いくらいあります。ですから、最初にそういうものをたくさん聞く、感じる、出してみようと努力してみる。その時期は、無駄のようでも、もっとも大切なことだと思います。

 

後は、声の質です。「あいするひとのもとに」荒野の1ドル銀貨)ここは、自由にやってよいでしょう。そして、もう少し粘っていくほうがよいでしょう。「みしらぬみちを」ここは、切れというわけではありませんが、一つの歌いかた、動かしかたなのです。あまり操作してはよくないですが、詰めていかないといけません。

 

 

この時代だからいえたという歌詞で、今こんなものを歌っていたらマンガにしかならないと思いますが、そういう時代もよいものです。

ある意味では、ものすごく難しいのに、うまく歌える人もいるかもしれません。今でも二人、こう歌えばよいのだというものを出せた人もいます。それは、計算や音楽性というよりは、構成の力です。どこかつめてきちんとやらなければいけない反面、後は、できるだけ感覚にまかせて、泥臭さや風貌を出してください。

 

基本の線を描いていくと、いろいろなものがプラスします。音のなかの感情表現と心の感情表現を合わせたようなところで出てくるようなおもしろさのようなものが味わえたらよいと思って選んでみました。1オクターブくらいの曲になると難しいです。

 

初心者でも歌える曲ですが、本当の歌を歌おうとするとその人の持ち味を出さなければいけません。音楽で処理しようとすると、音楽が逃げてしまったような印象になります。こういうものは、俳優さんのほうがうまいような気もします。持ち味と、音色で、当然、音楽的な処理というものでは、かなり助けられるでしょう。ぼそぼそ歌ってもしかたありません。声というよりは同じ声をどう使うかということを深めていってください。

 

 

 

 

Q:<“ハイ"のレベルチェック>

 

・最近福島さんが「ハイ」にこだわる重要性がわかってきました。初級なら初級、中級なら中級で自分の世界のなかで、それぐらいの基本はできると思ってしまうと思うのです。

・その「ハイ」のレベル、体の状態など、(0~100、入~A5)のレベルでどれくらい「ハイ」に差があるか。

・60分のレッスンで全グレード対象で一人ひとり、1ポイントアドバイス、診断つきでレベルをつけてもらい、

基本のなさ、基本に返れるようにするレッスンなどあったらと思います。

 

A:自分でできるチェックとしてのメニューにしたのに、これもチェック?

少しは自分の頭、心、体を使おう。そんなに無意味な「できた」が欲しいのか。

次は「ハ」を100でチェックという人が出てきそうです。

1フレーズの表現が基本です。

 

 

Q:フレーズのことばの意味からわからないことには感情の入れようがないのではないですか。

歌のメロディでだいたいのことはわかるのだけれども、英語やフランス語を勉強した方がいいのでしょうか。

 

A:あなたはピアノやトランペットの出す音の意味はわかりますか。

 

 

 

Q:息声を出すとき、体を使う/支えるけど、使う/支えるということは、力が入り、使い、自然な呼吸にはならないです。(今の自分の感覚からいくと)リラックスできた自然な呼吸で体を使い息・声を出せる感覚をみつければよいのですか。(息も、言葉も、歌も、全てこのやり方でやるのが基本なのでしょうか。)

 

A:条件が整うまで、状態を整えて待つことです。

条件は決まっていても、状態づくりにはいろんなアプローチがあります。

 

 

 

Q.方向性としてはこれで正しいんでしょうか。質問です。外国人の一般人並の声量を手に入れたとして、プロシンガーになれるのでしょうか。外国人の一般人はそれだけの声量があっても、プロのシンガーはめざさないんですか。

私たちは向こうの一般人さえも越えられないんじゃないんでしょうか。

 

A.まず、自分の問題として捉えてください。プロシンガーとは、何ですか。

1.方向性ってなに。2.外国人って誰。

だからどうしたいっていうのか、あなたは。

私たちって誰。一般人って誰。

あなたはどこにいるのですか。

自分の問いを持つことです。

これらはどんな答えを誰からもらっても何にもならないてことです。

だから自分で答えてみて、問いをつくり直すことです。